投稿者「ダルミニー」のアーカイブ

サットサンガより カルマ・ヨーガ

ヨーガは、真実に目覚めるための数千年の古代から伝わる霊的な道です。ヨーガを学ぶには、ヨーガを成就したグルが不可欠です。言葉を超えたグルの導きは、道を歩もうとする私たちにとってはかけがえのないものとなります。サットサンガ(真理の集い)とは師を囲んでの神聖な集まりのことであり、師から直接教えを授かる最も大切な学びの場として位置づけられています。

 

みなさん、こんにちは
新しい年も明けましたね。今年の目標はもう立てられましたか?目的意識をもって生きるということが私たちの人生にとって、ものすごく大切なことなのだということもヨーガで学びました。その目標に向かって今年も精進していきましょう。今年もどうぞよろしくお願いいたします。

さて、年明けのサットサンガではカルマ・ヨーガについての質問がありました。ヨーガは、この世の本当のこと、真実を実現するためのものですが、スワミ・ヴィヴェーカーナンダというインドの聖人は、ヨーガの実践方法には四種類あると説かれています。まずカルマ・ヨーガ、それは働きのヨーガといわれ、働きの秘訣を学び、真実を実現するヨーガです。そしてギャーナ・ヨーガとは知識のヨーガ、ラージャ・ヨーガとは身体や心を使う王道のヨーガ、バクティ・ヨーガとは信愛のヨーガです。
そして、私たちは過去の原因となるものの結果を必ずむかえるという、カルマの法則に支配されていますが、もともとのそのカルマの原因となるものを無くしていって、そのカルマに翻弄されないようにしようというのが、カルマの消化ということになります。

質問者カルマを消化するということについてなんですけど、瞑想の中でカルマを消化することができない場合、カルマヨーガとい手段でもって行なっていくなら良くないカルマも恐れることはない、前に前に進んでいけば、良くない願望でも軌道修正されてそれがいい願望に変わるといにヴィヴェーカーナンダの本に書いてあったんですギャーナヨーガとかラージャヨーガで瞑想してカルマを消化するといことは未来に対してのカルマを無くしてしまといことですよねそしたらカルマヨーガの中で経験しながらカルマを消化するといのは結局苦悩を味わいながら軌道修正して消化するといことなので徹底さといところからみたらカルマヨーガの方が低い感じの印象を受けるんですけれどもなんでしょ
ヨギ高い、低いの区別はないですけれどもねヴィヴェーカーナンダがいっているカルマヨーガといのは単に自分の義務を果たすといだけの劣位のカルマヨーガのみならず少し積極的な他者への奉仕的な、献身奉仕を踏まえながらカルマヨーガとい言葉を使っているよな気がするんです
すると他者への献身奉仕といのはもとよりエゴとかそ煩悩を少なくともその行為の時には無いよにしておかなければできないことですよねだからこそ実際的行為を伴ってカルマヨーガをすれば内面のカルマも落ちていく無くなっていくまたその根源である無知、煩悩も薄らいで無くなっていくとい教えだと思います
ギャーナヨーガとラージャヨーガといのは確かに瞑想の中でカルマやそのカルマの原因を識別していくことなんですけれどねそれはある意味、心の中で行なわけですよねだからそれと心といのは非常に深い領域をもっているのでそんなに簡単に無知と煩悩がそっくり無くなるとい話ではないやっぱりそれなりのものすごい闘いの熾烈さがあるのは事実ですだからそれをやってのけられるにはそれなりの資質と状況がラージャヨーガとかギャーナヨーガといのは求められるその点カルマヨーガといのは誰もが日常の中で行なことができるいったやりやすさといものもそこにありますねそんなところを踏まえながら彼はより多くの人に具体的なアプローチ方法としてそ教えを述べたんだと思います

師は優位のカルマ・ヨーガとして、他者への献身奉仕を積極的に行なっていきなさいと教えてくださっています。

私は、常に他者のために善き思いをもち、善き行為をするという献身奉仕の働きにより、次第に自分のことが後回しになって、それが自分のエゴや煩悩を無くしていくことにつながるのだと気付かされました。スワミ・ヴィヴェーカーナンダは「カルマ・ヨーガ」の中で、こういわれています。

心の表面を動いている善い思い、善い印象の不断の反映によって、善をなそうという傾向は強くなり、その結果、我々はインドリアス(内的感覚器官、神経中枢)を制御できることを感じます。こうなって初めて性格は確立し、その時に初めて人は真理に到達するのです。

優位のカルマ・ヨーガは、私たちのライフワークになっていくのだと思いました。

ダルミニー


ラーマクリシュナの福音

皆さん、こんにちは
暮れも押し迫まってきましたね。今年一年、どのような年でしたか?
昨日よりも今日、今日よりも明日、日々、より良い自分でありたいものですね。
さて、今日も「ラーマクリシュナの福音」よりご紹介いたします。

シュリー・ラーマクリシュナ

ある日の土曜日、シュリー・ラーマクリシュナはラームの家の階下の客間で信者たちに囲まれて話をしておられた。最愛の娘を亡くしたばかりのブラーミンの婦人が、その悲しみを癒せないものかと、北側のドアのそばに立って話を聞いている。

ラーマクリシュナ「先日、ここにある男がやってきた。数分間坐っていたが、やがて『我が子の「月の面輪」を見に、帰りとうございます」と言ったものだ。私は自分を抑えかねて『お前は神の「月の面輪」より息子の「月の面輪」が見たいのか!出ていけ、この馬鹿者』と言ってやった。
神のみが実在、他のすべてのものは非実在、というのが真理だ。人々も、宇宙も、家も、子供たちも、こういうものは全部、魔法使いの魔法のようなものだ。魔法使いは杖をたたいて『不思議、不思議、摩訶不思議!』と叫び、見物人に向かって『さぁ、この壺の蓋を取り、鳥どもが空中高く舞い上がるのをごろうじろ!』と言うだろう。だが魔法使いだけが本当にいるのであって、彼の魔法は実存しないものだ。実存しないものは一秒くらい存在して消えてしまう。
シヴァがカイラース(シヴァ神の聖なる住まい)に坐っていらっしゃった。従者のナンディがそばにいた。突然恐ろしい物音がした。ナンディが『尊いお方よ、これはどういうわけでございますか』と尋ねたら、シヴァが『ラーヴァナ(ラーマ神に成敗された魔王)が生まれたのだ。そのことを示す音だ』とおっしゃった。数秒の後にもう一つ、恐ろしい音が聞こえた。ナンディが『今度は何の音なのでございましょうか』と尋ねると、シヴァが微笑して、『今、ラーヴァナが死んだのだ』とおっしゃった。誕生も死も魔法のようなもの、魔法は一秒間ほど見えていて、そして消えるのだ。
神だけが実在であって他の一切のものは非実在だ。水だけが実在であって水中の泡は現れたり消えたりする。それらは自分たちが生まれてきたその水の中に消えていくのだ。神は海のようなもの、そして生き物はその中の泡だ。彼らはその中で生まれてその中で死んでいく。子供たちというのは、一つの大きな泡のまわりに立っているいくつかの小さな泡だ。神だけが実存だ。彼への愛を養うよう努め、彼を悟る方法を見出しなさい。悲しんでいても何も得られはしない」

私たちの師は、悟りとは夢から目覚めるようなものだと教えてくださっています。

誰でも眠りから目が覚めたとき、夢の中で一喜一憂していた自分を一笑に付すように、真実在に目覚めれば、現実と思っていた世界も夢幻と知るだろう。

                   サットグル・シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサ

現実だと思っているこの夢のような世界で、私たちはああでもない、こうでもないと右往左往しています。人の生も死も宇宙から見れば、ほんの一瞬のことなのでしょうか。
私たちは生まれることも死ぬこともない、絶対不滅の存在、永遠に続く純粋な意識なのだと師から教わってから、死ぬことは不幸なことでも、恐れるものでもないということが分かり、安心したのでした。この生のある間に、神だけに、真実在だけに心を思い留めておくことができること、それこそがこの夢の世界においては、いちばん大切で幸せなことなのだと学んだのでした。
あぁ、早くこの夢から目覚めて、真実となれますように。

ダルミニー


サットサンガより ブッダの悟り

ヨーガは、真実に目覚めるための数千年の古代から伝わる霊的な道です。ヨーガを学ぶには、ヨーガを成就したグルが不可欠です。言葉を超えたグルの導きは、道を歩もうとする私たちにとってはかけがえのないものとなります。サットサンガ(真理の集い)とは師を囲んでの神聖な集まりのことであり、師から直接教えを授かる最も大切な学びの場として位置づけられています。

みなさん こんにちは
十二月になりましたね、十二月のことを「しわす」と言いますが、その意味と由来は定かではないそうです。十二月は年が果てる、年果つ、しはす、しわすになったという説もあるそうです。師も走る、師走といわれていますが、私たちの師はいつも泰然とされていますので、本当の意味はどうなのだろうと思ってしまいます。
さて前回のブログにもありましたが、十二月八日はブッダが悟りを啓かれた日でもあるというわけで、今回のサットサンガはブッダについての教えが多くありました。

質問者がブッダの説いた、弦は張りすぎても緩みすぎてもいい音は鳴らないというふうに、弦に例えられる中庸の教えについてふれた時のことです。

師「ブッダが言うところの弦の張り具合というチューニングは、当時行なわれていた一般的な修行、一方には苦行というものがあり、もう一方では犠牲供養という快楽的なものもあり、そのどちらでもない、中道の在り方がある、それは苦行のように身体を痛めつけることではなく、健康な身体と健全な心を養いながら、その中でこそ正しい瞑想が行なわれるということを諭した言葉なんです。中庸、中道といわれるところ、まさしくそれがヨーガの道でもあるわけです。
でも、悟りへのあるいは神への願望というのは強烈でなければならない。また純粋にそれを保っていかなければならない。悟りや神に心が全面的に委ねられてしまえば、四六時中、座っていようが立っていようが、何かをしていようが、いつも神への憧れや悟りへの煮えたぎるような思いがやってきます」

師「ブッダは、当時シッダールタといわれていた時代に六年間の苦行を行なっています。当時は苦行という体系が当たり前のように蔓延していたと思われるので、シッダールタもそれを試み、しかも語られるところによれば、過去にも未来にも現代にも、その当時にも、匹敵する者はないほどの苦行を行なった。
けれども悟れなかった、ということを実証したんです。それで棄てた。
伝説に語られるところによれば、衰弱して骨と皮のような状態になった身体をスジャータという娘のくれた乳粥で身体を回復していくわけです。そこに健全な心の境地というか、そういう閃きが生まれたんだと思う。そして静かに菩提樹の下に座って、そうして悟りを得たと、それが十二月八日のことであったということになります。ブッダは必死に可能な限りの苦行を自らに課せたと語られています」 

師が教えられる煮えたぎるような思いとは、例えばそれはシュリー・ラーマクリシュナが神を見ることができないのであれば、その喉をかき切って死んでしまおうとした思いと同じ。そして例えばそれは慧可が弟子入りを乞うため、達磨大師に切り落とした自分の腕を差し出した思いと同じ。例えばそれは明恵上人が世俗にまみえることなく仏道の志を貫くため、自分の耳をそぎ落とした思いと同じ。身命を顧みない、真実の実現のためへの執念と同じなのだと思いました。 

ブッダの凄まじいまでの悟りへの執念、煮えたぎるような思い、ブッダを語られた師のお言葉が、そこにいる求道者たちのハートに火を付け、燃え上がらせたのを私は感じ、胸が熱くなるのでした。

私たちの心にも、その煮えたぎるような思いがやってきますように。
来年もさらなる飛躍の年となりますように。

ダルミニー

 

 

 


サットサンガより エゴを神の召し使いにする

ヨーガは、真実に目覚めるための数千年の古代から伝わる霊的な道です。ヨーガを学ぶには、ヨーガを成就したグルが不可欠です。言葉を超えたグルの導きは、道を歩もうとする私たちにとってはかけがえのないものとなります。サットサンガ(真理の集い)とは師を囲んでの神聖な集まりのことであり、師から直接教えを授かる最も大切な学びの場として位置づけられています。

みなさん、こんにちは
師の御聖誕祭を間近に控え、全国から真実を求めるグルバイ(兄弟姉妹弟子たち)が集まり、定例のサットサンガが行なわれました。「師には尊敬と奉仕と質問によって仕えよ」と伝えられていますが、この日もなごやかで満ち足りた雰囲気の中、次々と真剣な質問が続きました。

師は説かれます。
「誰もが自分の正体をエゴだと思っていて、心は好き勝手なことをして自分を傷つけてしまうことがあります。まるでエゴとこの世界が永遠であるかのように錯覚をしていますが、この世界は有限だし、命もなくなるかもしれない、本体は神聖なものなのに、自分の心の作り出した幻想に束縛されてしまっています。そこからの解放が本当の自由であり、それを知って実現することがヨーガの目的です」

私たちのエゴ意識が自分自身を束縛してしまい、それが苦しみや悲しみの原因となっている、そのエゴとの向き合い方について質問がありました。

質問者「エゴを神の召使いにしておきなさいという教えについて教えてください」
ヨギ「厳密な意味では、心というのは本来はエゴをもっていないものです。そのエゴという言葉の意味するところは、この相対的世界の中における身体がさまざまあるように、心もそれに備わって肉体に生じています。しかし、そこで利己的な思いのその色の濃度が濃くなるにしたがって、より煩悩的になっていくし、それが薄められていけば、単に自と他というものを区別するだけの機能として働きます。
それはあたかも道具のようなもの。道具というのは、例えば手が何か作業をするときにはやってくれるように、また足が必要に応じてどこかに運んでくれるように、心もそのようにいろんな物事に対しての工夫をしたり、さまざまな思案をしたり、そういう物事に対応するための道具としてみなされます。
これがエゴを道具のように、つまり道具ということは召使いのようにということです。召使いという時には必ずそこには主人がいます。この主人が誰なのかということです。通常は、エゴが主人のような顔をしてふるまうことによって間違いが起こるんだけれども、今の話のようにエゴが薄らいでいけば、また本当の自分という、アートマンと呼ばれている真我が自覚すれば、それが本当の主人であり、心は身体と同じように道具あるいは召使いとしての役割を果たします。
もう一方でそのエゴが完全には消滅をしないまでも薄められていっている折には、心に、エゴは召使いのようなもの、道具のようなものだというふうに言い聞かせて、本分をわきまえさせるようにしていきます。それがエゴを召使いにするようにという意味合いです。必ずそれにはアートマンという主人がいるということを覚えておいてください。アートマンは神の別名でもあります」 

ヨーガでは「私たちはこの心でも身体でもない、その奥にある純粋な意識、それが本当の自分である」と教えられます。純粋な意識とは、真実、存在、アートマン、神、さまざまな名前で呼ばれています。
ヨーギーにとって、心は真実を教えてやるべきものであり、正すべきものであります。そして心は、真実、存在、アートマン、神に目覚め、そして奉仕するための道具なのだと思いました。

ダルミニー


ラーマクリシュナの福音

皆さん、こんにちは
十一月二十三日は、私たちの師である、サットグル・シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサの御聖誕日です。師は、私たちに、人間として生きる本当の意味を教えてくださいました。それは私たちの人生にとって大きな歓びの泉となっています。尊敬する師のお歓びの日に精一杯の感謝を捧げたいですね。その吉祥な日はもうすぐです。

さて今日も「ラーマクリシュナの福音」よりご紹介いたします。

シュリー・ラーマクリシュナ

ある日の午後三時、シュリー・ラーマクリシュナは若い信者たちと共に大いに楽しんでいらっしゃった。会話はハヌマーン(ラーマ神に忠誠を尽くした猿の英雄)のことに及んだ。彼の絵がシュリー・ラーマクリシュナの部屋にかかっているのだ。

ラーマクリシュナ「ハヌマーンの心境をまあ想像してごらん。彼は金にも、名誉にも、衣食にも、他の何ものにも頓着しなかった。神だけを求めていたのだ。彼が、ラーヴァナの宮殿で、水晶の柱の中に隠してあった天上の武器を奪って逃げようとしたとき、マンドダリ(シーターを誘拐した魔王ラーヴァナの妻)は、彼を下りてこさせ、武器を落とさせようとさまざまな果実を見せて誘惑し始めた。しかし、彼はそうやすやすと欺かれはしなかった。彼女の誘いに答えて、この歌を歌ったのだ」

私に果実が必要か。私は人生を本当に実り豊かにする果実をもっている。
私のハートの内にラーマの木が生えていて、それの果実として救いを実らせる。
ラーマという願望成就の木の下に、私はくつろいで座り、何でも欲しい果実を摘む。
しかしもしあなたが果実をうんぬんするならーー
私は普通の果実の乞食ではないぞ。
見よ。私は行く、あなたに苦い果実を残して。

この世の中には、いろんなかたちの幸福や自由があるかのようです。あなたの幸せとは何でしょうか?あなたが自由と感じるものは何でしょうか?あなたはどんな果実を欲していますか?もしかしてちっぽけな幸せや自由に執われているのではありませんか?
ヨーガでは、永遠でないものに永遠をみること、純粋でないものに純粋をみること、至福でないものに至福をみること、私でないものに私をみること、これを無知といい、このように世の中に対して間違ったものをみて、求めてしまうことが、苦しみや悲しみを生み出している、そうではなく、この世を正しくみて、正しく判断し、正しいものを求めなさいと教えてくれています。

人生の目的は真実を実現することです。
                 サットグル・シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサ

私たちの師は、この多様な世界に、生まれ、変化し、消滅するものではなく、自分自身の奥にある、永遠なるもの、真実の自己、真理あるいは神を求めなさい、それを実現しなさいと教えてくださっています。

自分のハートのうちに真実を実現させることができたら、もうこの世で何も恐れることもなく、常に平安で円満、歓びに満ちて暮らしていくことができるのでしょう。ヨーギーは甘そうにみえて苦い果実ではなく、真実の果実を求めて生きていくのだと思いました。

ダルミニー


ラーマクリシュナの福音

皆さん、こんにちは
だんだんと肌寒くなってきましたね。いかがお過ごしでしょうか。十月一日から北野天満宮では、京都を代表する秋祭りである「ずいき祭り」が行なわれました。豊作を感謝する「ずいき御輿」が氏子地域を巡行し、五日間にわたって神事が行なわれるのです。昔から私たちは神様に感謝しつつ生きてきたのですね。
さて今日も「ラーマクリシュナの福音」より、その教えをご紹介いたします。  

シュリー・ラーマクリシュナ

満月後の第一日目の日曜日、シュリー・ラーマクリシュナは部屋の小さな寝台の上にお座りになっている。会話はカルカッタのマリック一族の分家の一つが祀っている女神シムハヴァーヒニ(ライオンに乗る者 母なる神)のことになった。
ラーマクリシュナ「この分家は今、不如意な状態にあり、住んでいる家も荒れている。壁や床には苔や鳩の糞による滲みが点在し、セメントやしっくいは崩れかかっている。だが、この一族の他の分家はみな繁盛しているのだよ。この家には繁盛のしるしが見えない。これをどう思うかね?要するに、誰でもが自分の過去のカルマの結果は刈り取らなければならないのだ。人は、過去生から受けついだ傾向の影響とプラーラブダ・カルマの結果は認めなければならない。しかしながら、その荒れ果てた家の中で、私は女神の顔が神々しい光を放っているのを見た。神像に神が宿りたまうことは信じなければならない」

シュリー・ラーマクリシュナはカルマの法則について説かれています。誰もが過去に何度も生まれ変わりを経験しているとヨーガでは教えられますが、その過去において行なった行為の反作用として必ず結果が生じる、その原因の結果を受け取ること、これをカルマの法則といいます。カルマは三種類あるといわれていて、それは矢筒に入った矢に例えられます。すでに放たれた矢、止めることも戻すこともできない、現世に発現しているカルマ、これをプラーラブダ・カルマといいます。そして放たれようとつがえられた矢、現世で新たに作り出されようとしつつあるカルマ、これをアーガミー・カルマといいます。そして矢筒に入ったたくさんの矢は、来世で遂行されるべく待機しているカルマで、これをサンジタ・カルマといいます。

今、私たちは、このプラーラブダ・カルマの影響のもと、生を受けて生きていますが、このカルマの法則を学べば、自分自身の過去からの行為の結果が今の自分の状況をつくっているのだということに気が付かされます。そうすると人と比べてどうのこうのということ自体が本当に無駄な思いなのだと考えざるを得ません。カルマを比べてもしかたがありませんね。誰を恨むこともできませんし、また喜ぶべきことがあるとすれば、それもまた私たちの過去の行為のおかげなのだと思いました。

私たちの師はヨーガを学び、欲望や執着、無知をなくしていくことで、アーガミー・カルマやサンジタ・カルマ、すべてのカルマを超越することができる、そしてそこに自らの真実が存在しているだと教えてくださっています。
シュリー・ラーマクリシュナもまた、カルマの法則に支配されている心のその奥に、真実の存在が光を放っているということを信じなさいと教えてくださっているのだと思いました。

聖者の教えはなんと私たちの心に安らぎと力を与えてくれることでしょう。
「自分自身の真実を信じ、愛し、生きていきなさい」
その言葉を支えに私は今日も生きているのです。

ダルミニー


ラーマクリシュナの福音

みなさん、こんにちは
早いものでもう9月ですね。先日、クラスの交流会がありましたが、同じ志をもつ仲間たちが集まり、いろいろな話をすることがお互いの励みとなり、活力となって、ヨーガを楽しく学んでいく機会になりました。今はアーサナや瞑想の実践がしやすい季節でもありますので、さらに深めていきたいものですね。

さて今日は「ラーマクリシュナの福音」より、その教えをご紹介します。

ある日の日曜日、今日も大勢の信者たちがシュリー・ラーマクリシュナの自室に集まっています。彼らの中に一人の新米者、コンナバムから来たサーダカ(修行者)がいた。彼は五十歳を越しているようにみえ、学識について非常なうぬぼれを抱いているように見えた。修行者は顎を天井に向け、身体を直立させて坐っていた。
修行者「師よ、何が道ですか」
ラーマクリシュナ「グルの言葉への信頼だ。人は一歩一歩、グルの指示に従って進むことによって神に達するのだ。糸をたぐっていって目標に達するようなものだ」
修行者「神を見ることはできるのですか」
ラーマクリシュナ「彼は、俗事に没頭している心では知ることはできない。兎の毛ほどでも、『女と金』への執着があったら神に達することはできない。だが、彼は浄らかな心と浄らかな知性、執着の影すらない心と知性によって知ることはできる。純粋な心と純粋な知性と、純粋なアートマンとは全く同一のものだ」
修行者「ですが、聖典に、『言葉と心は、彼の前からむなしく戻る』と書いてあります。彼は言葉と心によっては知り得ないのです」
ラーマクリシュナ「おお、おだまり!人は霊性の修行を実践しないかぎり、聖典の意味を理解することはできないのだ。口先で『大麻』と言ったとて何になろう。パンディットたちはぺらぺらと聖典を引用する。だが、それはなんになるか。大麻を肌にこすりつけても酔いはしない、それを飲まなければだめなのだ。『牛乳にはバターが含まれている』と繰り返すだけで何の役に立つか。牛乳をこごらせ、かき混ぜるのだ。そこで初めてバターが得られる」

シュリー・ラーマクリシュナは聖典を頭の理解だけで終わらせず、実践を通してからその意味を理解するようにと諭されています。私たちの師もまた「ヨーガは実践」と実践の大切さを繰り返し教えてくださっています。師の教え、ヨーガの教えを身をもって体得しなければ、それは知っていることにはならない、実践して初めて日常の行為の中に、ヨーガの深まりの証として現れてくるのだと教えてくださっています。私たちは師の教えを生涯かけて実践し、各々がいかに真実だけのために生きていけるのかを問われているのだと思いました。師の教えに誠実に生きること、それがヨーガの成就につながっていくのだと思いました。

ダルミニー


千本丸太町ヨーガ・瞑想 土曜日のクラス

皆さん、こんにちは
千本丸太町のヨーガ・瞑想クラスは毎週土曜日の14時から、ヨーガ・ヴィハーラで行なっています。千本丸太町にあるヨーガ・ヴィハーラは町屋の二階にあって、アットホームで落ち着いた雰囲気の中、アーサナ(ポーズ)や瞑想を行なうことができます。

 アーサナとアーサナの間にシャヴァ・アーサナといってリラックスのボーズをはさんで行なうのですが、シャヴァ・アーサナの間じゅう微笑んでおられる方がありました。その理由を聞いてみると、思いもかけず簡単なことができない自分がおかしかったとも言われていましたが、何か分からないけれど楽しかったとも言われていました。ヨーガを行じていると理由もなく自分自身の内にある歓びのようなものが沸き上がってくることがありますが、その方もその一片を味わっておられるのかなと思いました。 

湖面のさざ波が月の姿を正しく映さないように、
私たちの心のざわめきが真実を覆い隠している
ヨーガによって心のざわめきを静めたなら、
真の自己は自ら輝き出るだろう

             サットグル・シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサ

湖が波立っていると丸いお月さんは歪んで見えますが、その波が静まると本来のまん丸のお月さんを見ることができますよね。ヨーガを実践するたびに、私たちの波だっている心は少しずつ本来の静けさを取り戻していきます。そうして私たちは自分の知らなかった身体や、忘れていた心と向き合い、自分自身のいろいろなことに気が付き、変えていく努力をすることで、より良く、さらにより良く調えられていくことになるのです。それは私たちにとって大いなる歓びです。なぜならそれが、そうやって円満な完全な人間となることが私たちの生きる目的だからです。私たちは、本来は自由そのものであり、至福そのものであり、永遠の存在なのだ、その自分を早く思い出しなさいと、私たちの師は繰り返し、繰り返し説かれ、導いてくださっています。 

忘れていた自分自身を取り戻すためにも一緒にヨーガを学んでいきましょう。
土曜日の14時、ヨーガ・ヴィハーラにぜひお越しください。お待ちしています。

ダルミニー

ダヌル・アーサナ
肩関節の可動域や胸を広げ、身体を調えていきます


ラーマクリシュナの福音

暑中お見舞い申し上げます。
暑い日が続いていますが、みなさま、いかがお過ごしでしょうか。
前回出ていた美しい細密画で涼を感じることができたのではないでしょうか。 

北海道、篠山、大阪、松山からの報告が続いていますね。あちこちで発散されたヨーガの熱が日本中に広がっているように感じられます。そして今、台湾の滞在から戻られて早々、師はニューヨークの地に赴かれ本当のヨーガ、真実を伝播され続けています。本当のヨーガで世界が変わる日も近いかもしれませんね。

シュリー・ラーマクリシュナ

さて今回は、インドの聖人であるラーマクリシュナの福音よりご紹介いたします。
シュリー・ラーマクリシュナが子供の頃の生活について話されています。

「私が幼かった頃には、カーマールプクルの人たちは男も女も同じように私を愛してくれた。彼らは私が歌うのを聞きたがった。私は他人の身振りや口調をまねることが上手で、それをよくしては人々を楽しませた。女たちは私のために食べるものをとっておいてくれるのだった。私を信用しない人はいなかった。誰もが私を家族の一員にように迎えたものだ。しかし私は幸福のハトのように、幸福な家庭だけをしばしば訪れた。不幸や苦しみの見える場所からは逃げ出した」 

最後の文章を読んだとき、「笑う門には福来たる」ということわざを思い出しました。みなさんのご家庭はどうでしょうか? 

物質界にはグナ、サットヴァとラジャスとタマスという三つの性質があって、サットヴァ性とは照明という光の性質、ものを明らかにするという性質。ラジャスとは常に活動し激しく動き回る性質。タマスはさまざまなものを覆い隠す闇の性質だと教えていただいています。
これを人の心理的な性格に当てはめると、常に楽天的で明るい性質であればサットヴァ性が強く、また心配性とか不安とか憂鬱とかいう気分が常にあるときはラジャス性によってさいなまれている、それがもっと重く病的にまで落ち込んでしまったならばタマス性ということになります。
この三つのグナは常に活動していて、サットヴァ性が強いときもあればタマス性が強いときもありますが、アーサナや瞑想、聖典の学習、そして日常や食事をヨーガ的に変化させていくことによって、サットヴァ性を優勢にさせていくことができるのです。サットヴァ性になると悩みや苦しみを寄せ付けなくなり、心はいつもほがらかで軽快にしていることができます。そしてさらには、それが二元的なサットヴァも超えていくことになるのだと師から教えていただいています。

悩みや苦しみから解放されたサットヴァな状態であり続けること、またそのように努力すること、それが私たちの真実に目覚めていく道なのだと思いました。

ダルミニー


理髪師と貴公子

久しぶりに本願寺出版社の「ブッダ」より、その教えをご紹介しています。

理髪師ウパーリが最後の王子の髪を剃り落とすと、七人の王子たちは互いに笑顔を見せ合い、身につけていた宝石の指輪や腕飾りを外し、きらびやかな衣服を脱いで修行者の衣を着た。

 

アーナンダやデーヴァダッタ、アニルッダら、シャカ族の王子たちは髪を剃り落とした後、出家の許しを得るために両親に挨拶をしに引き上げていった。王子たちが去った後、出家を望んでいた理髪師ウパーリは自分の髪を剃り、修行者の衣をつけて、ブッダと弟子たちが滞在している場所を目指した。

「ブッダよ、私は理髪師をしております。王族ではありませんが、どうか、私を出家させてください」
「ウパーリよ。お前が理髪師であろうと王子であろうと、このサンガではなんの意味ももたない。真摯に道を求め修行に励むものであれば、私は喜んでサンガに迎えよう」
ウパーリは長老シャーリプトラに導かれ、出家の手続きを経て正式にサンガの一員となった。 

ほどなくして、シャカ族の七人の王子たちが両親の許しを得てブッダのもとにやってきた。
「お前たちは新参者だ。サンガの先輩たちに作法通りに挨拶をしなさい。それができなければサンガに加わることは許されない」
ブッダにこう言われ、七人の王子たちが次々に挨拶をしていくと、最後にさっきまで理髪師をしていたウパーリが修行僧となって目の前にいる。王子たちは困惑し顔を見合わせた。
「どうした?なにか不都合でもあるのか」
長老が声をかけると、七人の王子たちは首を横に振った。
「なにもございません」
王子たちはウパーリに丁寧に頭を下げ挨拶をした。理髪師と軽んじていた男に礼をするのは屈辱だったが、それに耐えなければ出家はできない。
「見事だ。シャカ族の修行僧は高慢の心に打ち克った」
ブッダはいつになく弾んだ声を上げた。
こうしてシャカ族の王子だった七人の修行僧はブッダのサンガの末席に加えられた。

「ヨーガの福音」の中で、師はブッダの教えについて説かれています。

彼の教えの特徴の一つは「小さな虫も人間もすべては仏性を有した尊い存在であり、一切万物は平等である」というものです。その当時のインドはブラーフマナ(カーストの最高位である僧職階級)が力を握っていた。彼は「ブラーフマナもシュードラ(カーストの最下位の奴隷階級)も違いはない。人は皆、平等である」と最初に言った人です。

インドにはカースト制度という厳しい身分制度があります。その中で生まれ育った王子たちが、奴隷の身分の者に頭を下げるということは、その心に非常な衝撃が起こったことだろうと思いました。それまで常識だと思っていた心の観念は一瞬にして壊され、「人は皆、平等である」という真実を受け入れたのだと思いました。
ヨーガを実践し、師から真実の教えを授かると、心は何かにはっと気付き、目から鱗が落ちるような出来事がたびたび起こります。そのたびに心はこだわりや固有の観念を少しずつ手放していって、真実に目覚めようといるのだと思いました。ブッダのお弟子さんたちも同じようにそうであったに違いないと、彼らのことをとても身近に感じ、そして真実の教えを行為するということが本当に大切なことなのだと知りました。

ダルミニー