みすぼらしい衣の修行者

毎回、本願寺出版社の「ブッダ」より、その教えをご紹介しています。今までいろいろな修行者の方に登場していただきましたが、今回の修行者はピッパリさんです。

ブッダ (20)

「ピッパリという比丘(びく)を知っているか」

「いいえ」と若い比丘は首を振った。真新しい衣を身につけ身体には汚れひとつなかった。サンガ(修行者の集まり)に入ってまだ間もないのだろう。

その時、道の向こうからぼろぼろの衣を身にまとった比丘がふらつきながら歩いてきた。何かにつまずいたのか、比丘は転び、泥にまみれていた。驚いて家から出てきた男に食べ物を乞うように器を差し出した。が、施しは受けられず、大声で罵られ足蹴にされて泥の中を転がった。

「ひどいですね。男もあんなに乱暴にすることはない。比丘もあれほどむさ苦しい格好ではなく、身綺麗にして、清らかな衣でいれば供養は受けられるものです」

「ピッパリは、バラモンの息子で上等な衣を着ていた。ある時、ピッパリは大衣をたたんでブッダのために坐を作った。柔らかな布だとブッダは褒められた。ピッパリはすぐさま自分の衣とブッダの衣を交換した。ブッダは使い捨ての布で作った古い衣を着ておられたのだ。ピッパリはその時以来、使い捨ての布で作った衣しか身に付けなくなった。古くからの出家の原則を厳しく守る頭陀行(ずだぎょう)に専念することにしたのだ」

比丘は泥を払い落とし背筋を伸ばすと、何事もなかったかのように、隣の家の戸を叩き応対に出たものに器を差し出した。

「彼こそがかつてのピッパリ、今はマハーカーシャパと呼ばれている。頭陀行第一と称される比丘だ。お前は彼に付いて学べ」

一喝された比丘は転がるようにして、みすぼらしい衣をまとった泥だらけのマハーカーシャパのあとを追った。

「頭陀」とはサンスクリット語の「ドゥータ」という言葉の音訳であり「払い落とす」という意味らしいです。何を払い落とすのかというと衣食住に対する貪欲を払いのけるため、出家者が行なう修行のひとつで、具体的には最低限必要な食べ物を托鉢して歩くことや、托鉢僧そのものを指す言葉でもあるそうです。

二千五百年前のインドと現代の日本とでは同じようにはいきませんが、その時代の修行者がどれほど真剣に真実を求めて修行を積んでいたのか、どれほど真剣にブッダの教えを生きようとしていたのか、思いを馳せるのは、私たちにとってとても刺激になり勇気を与えてくれるものです。

師は説かれます。

人生の目的は真実を実現することです。その叡智と方法がヨーガの中にあります。

真実、それが何かを学んで、しっかりと理解して行動に移すことが大切です。いわゆる世間体とか社会的通念とか常識とかいうものによって私たちの心がどんなに縛られているか、それを打ち破って真実を求めるということが、どれほど勇気のいることなのか分かりません。信念をもって、真実だけで心が満たされるように行為していくことが大切です。

ピッパリの行為からは、ブッダの教えを忠実に生きて、真実に通じる自分の道を自分で探しだし、それだけを行為した揺るぎない信念というものを感じることができます。人によって顔が違うように、心もまたさまざまな様相を呈している、今の時代には、それぞれが自分にあったヨーガの道を歩くことができます。それを正しい方向に導いてくださるのがヨーガの師です。それぞれが信念をもって、真実に通じる自分のヨーガの道を歩いていこうではありませんか。

ダルミニー


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です