ミーラー・バーイー

ミーラー・バーイー今からおよそ五百年前、ミーラー・バーイーはインドの西、ラージャスターンの王家に生まれた。両親はヴィシュヌ神への信仰厚く、宮殿では多くの聖人や修行者たちがもてなされていた。

ある日、一人の修行者が美しい小さなクリシュナの像を持って宮殿を訪れた。まだ幼子であったミーラーはすっかりこの神像が好きになってしまい、母親は行者に頼んで少しの間それを借り受けることにした。喜んだミーラーはこの小さな神様を片時も離さず、ご飯を食べさせたり、いっしょに踊ったりと、無邪気に小さなクリシュナと遊び戯れていた。

さて持ち主の修行者が宮殿を立ち去る日がやって来た。大好きなクリシュナとの別れにミーラーは泣き叫んだが、その甲斐もなく行者は神像とともに立ち去ってしまった。だが数日後、彼は再び宮殿に戻ってきてこう語った、「昨日の晩クリシュナ神が私の夢に現れて、この子に神像を返すようにと言われたのです」。

ミーラーが四歳になったとき、宮殿の側で結婚式が催された。ちょうど美しく着飾った花婿が出てきたのを見てミーラーは母親にこう尋ねた。
「ねえ、お母さん、私のお婿さんはだれなの?」
母は、冗談半分そして半分真剣にこう答えた。
「ミーラー、あのクリシュナがあなたのお婿さんよ」

十八歳になったミーラーに結婚の話が舞い込んだ。相手はメーワール国の王子である。これは願ってもない話だった。メーワール国はラージャスターンきっての名家である。近年ますます激しさを増してきたイスラム教徒の侵入に対しても、ラージプート族の盟主として軍を束ねる存在である。そのプリンセスに、という縁談に親戚一同大喜びでこれに応じた。国と国との政略結婚、それが王族(クシャトリヤ)の娘に生まれた彼女の定めだった。「男は勇猛、女は従順」―ラージプートにとってこれに勝る価値はない。盛大な結婚式が行なわれ、ミーラーは全ての人の祝福を受けて夫の城へと赴いた。

ラージプートの名家のプリンセスとして、ミーラーは様々な要求に応えることを期待されていた。戦(いくさ)に命を懸ける男たちを送りだし、留守中の城を守る女たちの義務(ダルマ)は、忍耐とひた向きな努力であった。

しかしミーラーはいっこうにそれに従う様子がない。それどころか日々クリシュナの像に礼拝しては、笑ったり歌ったり話しかけたり、まるで子供の振る舞いだ。さらには夜な夜な宮殿を抜け出しては、神の信者たちと讃歌を歌ったり踊ったりと、考えられない行動で、この新妻は婚家で大変な不興を買ってしまった。義理の姉妹たちが何かと忠告するのだが、彼女は全く聞き入れず、次期王妃の自覚もないままに、クリシュナへの礼拝に没頭し恍惚の中に暮らしているのだ。

彼女にとってクリシュナだけが唯一の、そして永遠の夫であった。外面的な結婚には何の関心もなかった。王子が嫌いなわけではない。ただクリシュナを愛しているのである。ひとときとてクリシュナのことを考えずにはいられない。クリシュナに向かい合い、皆とともにクリシュナと遊び戯れる―そう、ちょうどヴリンダーヴァンのクリシュナと牛飼いの娘たちのように。

しかし外面的な結婚生活もたった三年で終わりを迎える。王子が戦死したのである。未亡人となった彼女には不幸しか残されていなかった。夫の遺体を焼く火の中に妻が飛び込み殉死するサティーの習慣は、古くからヒンドゥー女性の美徳として称えられてきた。偉大な王子が若くして名誉の死を得たのである。当然妻も名誉の死を選ばなくてはならない。この無言の圧力の中、しかしミーラーはこれを拒絶した。ますます彼女への迫害は厳しくなり、ついに毒殺されそうになる。実の父も戦死し、この世に対する関心の一切を失ってしまった彼女は、ある日宮殿を抜け出した。二度と戻らぬ旅立ちであった。

自由の原野で彼女はクリシュナへの愛を歌った。奏でるシタールの響きに、神への一筋の想いを乗せて。その美しく穏やかなメロディー、そして時に激しい熱情の言葉に、魅了されない人はいなかった。戯れ(リーラー)の地ヴリンダーヴァンで彼女は歌う。そしてクリシュナが後半生を過ごしたドワーラカーへと向かった。

クリシュナへの愛のうちに浸るある日、親族の一人が彼女を尋ねてきた。ラージャスターンの王族はその多くがイスラム軍との戦いの中で戦死し、国を支える者がいない。使者は、高貴な王族の血を引くミーラーに国へと戻ってもらうよう懇願した。だが彼女にもうこの世への関心はない。説得しかねた使者は断食を始め、彼女が応じなければ自分は死ぬと宣言した。彼女は板挟みとなり、最愛の夫クリシュナに祈った。

次の日、ミーラーの部屋から彼女の姿が消えた。ただ彼女のサリーだけがクリシュナの神像に巻き付き残されていただけであった。神は彼女の祈りを受け入れた―彼女は永遠にクリシュナと一つになったのである。ミーラーは心だけでなく、身体もすべて愛するクリシュナの中に飲み込まれ、永遠に離れることのない合一へと溶け込んでいったのである。