ヨーギーを目指して

企業に勤め家庭をもつ修行者が綴る、彼の人生を変えた真のヨーギーとの出会い。

yogiインドに、神秘的なヨーガを極めた「ヨーギー」がいることを知ったのは、おおよそ二十年前のことだった。その時は、何か不思議と親しい感じがしたことを覚えている。インドでは「ヨーギー」という存在は、いまだ最高の敬意をもって語られ、神に等しい存在として扱われているそうだ。それは、ブッダのように覚者を意味すると同時に、数千年来、悟りを実現する確かな道として認められてきたヨーガを成就した者をいう。

ヨーギーは、僧侶のような存在ではなく、一切の肩書きを離れている。僧侶であってもよいし、家庭人であってもよく、独身でも妻帯でもかまわない。もちろん性別も関係ない。この世界のあらゆるものに束縛されず、永遠に自由な魂、まさに永遠不滅のアートマン(真我)が人の形をとって具現化した存在、それがヨーギーである。
そして、十二年前のある日、私は一人のヨーギーに出会った。その出会いは、私の人生に量り知れない影響を与えることになった。

そう、我が師シュリー・マハーヨーギーとの出会いである。
シュリー・マハーヨーギーは、インドに古代から伝えられるヨーギーそのものだと思う。「自由自在」という言葉が実に適切である。あらゆる物事や常識、観念に執らわれず、普遍的真理に立脚して自由自在に振る舞う。しかしそれは、自分の思うとおりにこの世界を操る能力を意味しているのではなく、「我=エゴ意識」というものがまったくないために自由自在に振る舞えるということである。通常、人は、自分自身の「我」に執らわれてしまい、全く不自由になってしまうのであるが、シュリー・マハーヨーギーは、「我」ではなく「真我」が主人公になっているように感じる。

いつかシュリー・マハーヨーギーは、アートマンについて次のように語られた。「それは表現不可能ですが、あえて言うなら、“純粋な意識――絶対の存在”、“意識――存在”という言葉が近いと思います」。この教えを頭で理解することは難しいと思うが、シュリー・マハーヨーギーを見ていると、直感的にそれに触れることができるような気がする。相対的かもしれないが、「あらゆる物事が変化しても、不変である人」がヨーギーに対する私のイメージだ。変わらないことほど驚くべきことはない。あらゆるものが変化する中で、シュリー・マハーヨーギーは変化していないのである。変化しないものは純粋なものしかない。そして、ヨーギーのような純粋な存在がこの世界にある時、まるで清水が泥を洗い流すように、あるいは光が闇を追い払うように、私たちを無知から解き放ち、その本性へと導く力が働くのではないかと思う。

私がシュリー・マハーヨーギーの前に座り、シュリー・マハーヨーギーの影響を全面に感じている時、心を悩ましていた無数の波紋が次第に消えていき、その奥底にある真実を垣間見るような気がする。私は、自分自身の本性が永遠に祝福されたアートマンであることに疑いをもつことができなくなり、喜びに満ち溢れる。この扱いがたい心の乱れが、なんと速やかに消えていくことか。

どれだけ多くの本を読み、多くの教えを受け、知性においてヨーガの教えを体系的に理解できたとしても、他人によい影響を与えることはほとんどできない。シュリー・マハーヨーギーは、多くを語らず、静かな笑みを浮かべて坐り、状況に応じて真髄の教えを授け、時には場を和ます軽やかな会話をされるが、シュリー・マハーヨーギーとともに過ごす数時間の内に、私は、いつの間にか心の中にあった悩みや苦しみ、あるいは悲しみが無くなり、席を立つ頃にはすっかり晴れやかな気持ちに変わっていることに気が付く。何かとても素晴らしい教えを聞き、自分自身納得したということでなく、どうもシュリー・マハーヨーギーと一緒にいるだけでそのような状態に導かれるようなのだ。

それは、不思議なことかもしれないが、とても単純なことかもしれない。何人かの人が、「初めてお会いした時のヨギの笑顔に本当に安心しました」と言うのを聞いたことがあるが、人の心を安心の境地に導くのは、説教ではなくて、穏やかな表情や呼吸、言葉使いなのかもしれない。それらは皆、心の現れだから。シュリー・マハーヨーギーの笑顔は心にしみ入る。それが私の心に伝達し、悩みや苦しみを忘れさせ、安心させる。

私は、自身以外にも同様な実例を多く見てきた。幸運にも私は他の兄弟姉妹弟子(グルバイ)たちよりも少し早くシュリー・マハーヨーギーと出会ったので、グルバイたちがシュリー・マハーヨーギーと出会ってからの変化を身近に見ることができた。それは本当に驚くべきことだと思う。聖者と出会う縁をもつこと自体がその人の非凡な運命を物語っているかもしれないが、最初は、誰もが、ヨーガについて何も知らず、シュリー・マハーヨーギーの前に座った。しかし、彼らは、シュリー・マハーヨーギーの真実を直感的に悟り、その魅力に平伏し、ヨーガの道を歩むことになったのである。

身近なグルバイの変容を目の当たりにして、シュリー・マハーヨーギーの導きが、私が知る一般的な教師の表面的な教えとは全く異なる、もっともっと深い、人の存在の本質にまで遡るものではないかと感じる。それが一体何なのかは頭では理解できないが、実際、あまりにもはっきりと感じるものであるから、私のハートはその存在を否定することはできなかった。そして、過去の聖者たちの記録に触れた時に、そこに全く同じことが起こっていたことを知った。ラーマクリシュナやラマナ・マハリシの弟子たちも同じように、圧倒的な祝福に触れて変容していったと記録されている。

グルバイたちもまた、そのような純粋な祝福によって浄化されていったのだと思う。その導き――祝福をどのようにして表現すればいいのだろう。自分自身が、まったき完全さをもって存在することの喜びである。それは、もっと奥深くに在る不滅の自己の片鱗かもしれないが、この世界のほかの何かから与えられる喜びとは根本的に性質が異なっており、きわめて純粋なのである。

ああ、しかし、百万の解説よりも、シュリー・マハーヨーギーの一瞥に付すことができれば、たとえヨーガの哲学を知らなかったとしても、あなたは感覚が捉える物質的世界よりもさらに高貴な存在があることを感じるであろう。それは疑いもなく目の前に坐るシュリー・マハーヨーギーからくるものであり、そして不思議なことに自分自身の内からくるものなのである。

聖者の周りには、まるで花が開けばどこからとなく蜂たちが集まってくるように、多くの人々が引き寄せられてくるといわれている。抗し難い力が働いているように感じる。そしてその力は強固なエゴ意識をさしたる障害もなく消し去る働きをする。偉大な魂の前では、どのような肩書きをもつ人も、その無量の慈悲と比類なき叡智の前に、自然と頭を垂れてしまう。自分自身がこれほど謙虚になれるのかと驚くことがある。

一瞬の内に心にはびこる観念や価値観が変わっていく。そのような些細な事柄は、確かな存在であるシュリー・マハーヨーギーから放たれる喜びの体験に、どうでもよくなるのである。ポール・ブラントンは、苦難の末にラマナ・マハリシに出会い、彼にとって非常に大切な、考えに考え抜いた質問をしようとしたのだが、ラマナ・マハリシの聖なる沈黙を前にして、速やかにその欲求が消え失せてしまい、マハリシから放たれる大いなる平安の前には、自分の質問が取るに足らないものであることを悟ったという。

人が大切に守ってきた価値観や体験――それ自体がその人の個性を形成するのに大きな役割を担っていると思うが、一方でエゴ意識につながる――が、奇妙なことに反対されたり破壊されることもなく、速やかに、非常に大きな喜びの中に存在価値を失い消えていくのである。
このようなことは、通常の体験としてはほとんどあり得ないことのように思う。この世界における活動の中心はエゴ意識であり、他者とのかかわりにおいては自らの価値観と体験が中心的な役割をしているからである。それらは非常に苦しい体験の中で破壊されるかもしれないが、シュリー・マハーヨーギーの導きの中では、速やかに純粋になっていくのである。

シュリー・マハーヨーギーは、この現代社会においてヨーギーがどのように生きていくのかを教えてくれる存在だと思う。ヨーギーは、ヒマラヤの洞窟であろうと、マンハッタンのビルの中にいようと同じヨーガの境地にある。サンニヤーシン(僧侶)であろうと、世間の仕事をしていようとそれらの影響を受けずにヨーガ(悟り)にある。私のように仕事をし、家族の中に暮らす人間にとっては、このことは何よりの導きになる。正しい態度でヨーガに取り組めば、ヨーギーとなることができるのだ。私は、このような素晴らしい存在であるヨーギーを目指し、そしてヨーギーで在りたいと願っている。

サーナンダ