カビール

カビールカビールは捨て子だった。生まれてすぐ聖地ベナレスの街角に捨てられた彼は、そこに住むイスラム教徒の機織り職人の夫婦に拾われた。

カビールの両親の家は、他の織工たちとともに数代前にイスラム教へと集団改宗していた。機織り職人はヒンドゥー教社会では最下級のカーストだったが、厳格な身分制社会に対する反骨心とそこからの独立心が強かった共同体である。彼らは表面上イスラム教徒になってからも、実際には古くからのタントラ仏教(密教)の民間信仰や儀礼、ハタ・ヨーガの実践に従っていた。

少年カビールも機織りの仕事を覚えるかたわら、ヨーギーやスーフィー(イスラムの行者)たちに触れ、ハタ・ヨーガの実践にいそしんだ。学などなかった彼は、ただ目で見、体で実践することで、強靱な意志と信仰心を身に付けていったのだった。

坐法(アーサナ)を組み印(ムドラー)を結び、厳しい取り決めに従って修行を進めるカビール。目を閉じ耳を塞ぎ、一心に内面へと集中する。だがその実践のさなか、ある日彼は内から呼びかける神の声を聞いた。

「私を見たければ、ラーマーナンダを師とせよ。」
ラーマーナンダ――それは南インドからやって来たと聞く高名な聖者の名であった。ラーマを唯一の神として崇め、その神に対する熱烈なる信仰を説くバクタである。「でもイスラム教徒で下層カーストの自分を、どうして偉大なヒンドゥー教聖者が弟子になどしてくれるだろうか」――思い悩んだカビールはある計画を思いつく。

まだ夜も明けきらぬ暗闇の中、カビールはガンジス河の沐浴場(ガート)に続く道に横たわっていた。ここはかの老聖者が毎朝沐浴に向かう道である。何とかして師のひと目、ひと触れを得よう――そう考えたカビールの苦肉の策だった。

ラーマーナンダはいつもと同じく従者をつれて沐浴へと向かっている。あたりはまだ暗い。そろそろ沐浴場に着こうかという時、彼は何かを踏みつけたことに気づいた。よく見ればそれは一人の少年である。

「ラーマ、ラーマ、なんて哀れな生き物を踏みつけてしまったのだろう。」
これを耳にしたカビールの喜びはたとえようもなかった。聖者が思わず口にした「ラーマ」という言葉――このマントラによって弟子として認められたものとカビールは了解し、立ち上がって家へと舞い戻った。

それからというもの、彼はラーマを最高神として崇め称えた。イスラム教徒であるはずの織工カーストの少年がラーマの帰依者の衣を着て、神の御名を称えるのを見たヒンドゥー教徒は、彼が自分の師だと言うラーマーナンダにこのことを問いただした。しかし彼にはそのような者を弟子にした覚えがない。老聖者はカビールを呼び寄せるとこう尋ねた。

「私がいつおまえに入門を許したか。なぜ私の弟子を名乗る」
そこでカビールは沐浴場での一件を話した。「私は師のひと目、ひと触れを得ました。師が『ラーマ』と仰せになって私は弟子になり、それで私は『ラーマ』と称えるのです」。くだんの出来事を思い出したラーマーナンダは、愛深く彼を胸に抱き寄せた。

今やカビールはラーマーナンダより与えられたバクティの甘露によって生まれ変わった。狭い自分の中だけの修行は捨てられ、形だけの儀礼は消えうせた。どこを歩いてもそれは聖地巡礼であり、日常の仕事が神への奉仕となった。横たわっても礼拝となり、語ればそれが称名(ジャパ)、飲食はすべて供養(プージャー)となった。「私は目を閉じず耳を塞がず、肉体に苦痛を与えない。開いた目で笑いのうちに、いと美しき神のみ姿を見る」。恍惚の中で彼は神に狂う人となり、一切の形式張った教義と儀式を退け皮肉った。

もし裸で歩き回ることで
神との合一が得られるなら、
森の中のあらゆる鹿は救われるだろう。
裸で歩こうが鹿の皮をまとおうが、
心の中で神を認めないのなら、
何の違いがあろう。
夜も朝も沐浴する者たちは、
水の中の蛙のようなもの。
神の御名への愛がなければ、
皆死神のもとへ行く。
カビールは言う、
なぜそんなに多くの儀式を行うのか。
他のあらゆる本質を捨て去り、
神の御名という、
かの偉大な本質を飲み干せ。

一生を機織り職人として過ごしたカビールは、イスラムの教えにもヒンドゥーの教えにもとらわれることなく、その内より溢れ出す神への愛によってあらゆる宗派の人々の心を魅了し、真正のヨーギー、高徳の聖者として慕われたのだった。