師シュリー・マハーヨーギー

「普遍の真理と一つであること」――“ヨーガ”という言葉の真の意味は、この真実の境地を表す。サットグル・シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサは、その真の意味においてヨーガを成就した、現代に生きる師である。そのような大師が世に現れることは得難い。シュリー・マハーヨーギーのような存在がこの世にあること、そして完全なまでに真実の悟りを実現したことは、ただこの時代だけに留まらず、人類の歴史を見ても希少の出来事である。八歳という幼い時分に、シュリー・マハーヨーギーは何の前触れもなく、自然のままにニルヴィカルパ・サマーディ(無分別三昧)を体験した。それにより真実の意識に目覚め、至高の真我を悟ったのである。「ヨーガ」という言葉も、「悟り」という言葉さえもいまだ耳にすることはなく、ましてや霊的修行の詳細や教示などは全く与えられたことがなかった。それにもかかわらず、師はその真実――真の自己アートマン――の悟りに至ったのである。

目覚めとは体験である。眠りから意識が覚める実感そのものであり、単なる言葉の上の知識ではない。一なる境地であるヨーガの悟りが言葉よりも前に師に訪れたように、師の霊的修行もまた外部から何の導きもないまま、内なる導きに従って自然に開始された。子供時代を目覚めの経験の中に過ごした後、この生まれついてのヨーギー(ヨーガ行者)は、アーサナ(ヨーガのポーズ)と後に知ることになるさまざまな体位を、一つの見本も見ることなくおのずから身をもって開発し、体得していったのである。十代を通じて師は、この上ない強烈さと熱意をもって、アーサナと瞑想の修行に没頭した。その実践を通じ、アーサナの極意が顕わとなった。一方、悟りの境地にあることは、自身の実感する真理と世間の人々が経験する苦悩の間に、明らかな矛盾を感じさせることになった。それゆえ師は、真理と非真理を見極める鋭い識別の瞑想に四六時中を過ごし、それにより、心が働く仕組みと苦悩の根本原因を解明するに至る。すなわち、カルマ(因果)の法則を明らかにするとともに、あらゆる苦の原因はつまるところ、真実を知らない無知によって生じたものであると知るに至ったのである。

シュリー・マハーヨーギーは京都の町で育った。この古(いにしえ)の都は仏教寺院で溢れ、祭儀と伝統が息づいている。しかしながら、その周囲の状況には全く関心を抱くことなく、師はただブッダその人が何を悟ったのか、そのことだけを自ら見いだそうとしていた。十代の最後、ブッダの存在そのものに直接瞑想をすると、その合一の境地の中、自身が体得して悟ったことが、ブッダのそれと違いのないものかどうかを注意深く確認していった。その結果、自らの悟りの境地が真正のものであることはもとより、ブッダの悟った境地と寸分の違いもないという確証を得たのである。

一九七二年、ヨーガについて聞き及んでいた師は、それがまだインドに存在するのか、さらには自身の実践してきた道が古来正統なヨーガであるのかを確かめるため、当地へと旅立った。インドの地ではその時も脈々とヨーガが継承されていた。自ら孤高の中で極めた道に間違いはなく、真実のヨーガであることを確認する。そしてその旅から戻る頃、『ヨーガ・スートラ』について知るところとなる。「ヨーガとは心の働きの止滅である」という一節を読んだ時、その究極的なヨーガの境地にすでに達していることを理解した。そして残るスートラ(経文)が述べることも、すべて経験済みであった。

シュリー・マハーヨーギーはこの時点で、ギャーナ・ヨーガ(真我と非我の識別)、ラージャ・ヨーガ(心とプラーナの制御・止滅)によって悟りの実現に至っていたが、なおも修行は続行された。そのようにさまざまな修行を行なうことは師自身にとっては全く不要なことであったが、それにもかかわらず、さらに進んで、カルマ・ヨーガ(無私の奉仕)、バクティ・ヨーガ(神への愛)、クンダリニー・ヨーガ(プラーナから成る微細身において女神を絶対神に合一させる神秘的行法<)を体得するに至った。この体験によってもたらされたのは、それらすべての道が、同一にして唯一なる真理に到達するという確証である。その時には無自覚であったかもしれないが、後に振り返れば、こうしてあらゆる修行が試みられたのは、いつの日か真我の悟りへと人々を導くためであったに違いない。「真理は一つだが、多くの道がある」。そのように解される古代の聖言が、全く疑いようもなく、シュリー・マハーヨーギー自身によって実証されたのである。

真理は普遍的なものである。特定の国や教義、いかなる宗教にも依存するものではない。シュリー・マハーヨーギーが日本に現れ、インドの精神的伝統から地理的に隔絶していたことは、真理の普遍性を表すものにほかならない。さらにいえば、無垢な子供の頃に完全な目覚めが起こったという事実は、真理を悟るために、知識も技術も何ら必要がないということを示している。それよりも不可欠なのは、純粋で無執着な心である。シュリー・マハーヨーギーは職業的な聖職者でもなければ、僧侶でもない。どのような教団にも属したことがなく、寺や神社にも住んでいない。真の自己を悟るために、特別な環境は全く必要がない。師がそのようなかたちで生まれ、生き、そして現に私たちの前におられるということは、その一つ一つが祝福である。さまざまな環境の下に暮らしながら、真理は普遍的なものであり、誰もの手に届くものであるということを目の当たりに知ることができるからだ。その幸運を、人は師の存在を通して手にするのである。

シュリー・マハーヨーギーの教えは、真理の直接的な体験から語られる。それは太古以来の叡知と完全に調和する普遍性をもつことはもちろん、教えを受ける一人一人が必要とする最適なかたちで授けられる。インスパイアリングで型にはまらない言葉は、真実である真の自己について新鮮な気付きをもたらし、教えの至るところに織り込まれた、はっとするような引用や比喩は、それが指し示す本質をつかむ助けとなる。しかし、師の最も貴重な導きは沈黙の中で、師自身の存在によって与えられてきた。グル(師)の慈愛に満ちたまなざし――グル・ダルシャン――から与えられる祝福は、私たちを真の目覚めである悟りへと導くものである。

シュリー・マハーヨーギーの際立った独特の表現は、求道者に与えられる言葉での教えや、無言の導きだけに留まるものではない。芸術表現に対する多大なる関心と、卓越した才能にまでそれは及んでいる。書や絵画、ポスター、劇場公演などの形で、体得した悟りの境地が巧みに表現されてきた。シュリー・マハーヨーギーいわく、芸術とは本来、神という世界の本質、生きとし生けるものの本質に自らを捧げようとすること、そうした内面から湧き起こる熱望によって生まれる。だからこそ師は、真正の美、真の芸術を、人の生きざまに表れた純粋な信仰の中に見て取り、この世界そのものを甘美なる神の顕れと見るのである。「人生は舞台」「この世は神の遊び戯れである」と師は言う。神である私たちの真の自己は、ただ歓びに戯れるために、さまざまな形を取って顕れている。これこそが師の教えるリーラー(神の遊戯)である。そうした極めて妙なる神のお遊びが、師が悟り得たヨーガの境地を最もよく表している。

サットグル・シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサは、その言葉、行為、生きざま、そして存在において、一なる境地ヨーガのまさに生きた体現者である。

 

*「サット」は真実、「グル」は師、「シュリー」は敬称、「マハーヨーギー」は偉大なヨーギー、「パラマハンサ」は大聖者の称号を意味する。