バクティ・ヨーガの五つの態度

ヨーギー「バクティ・ヨーガというのは別名、愛のヨーガです。愛というのは私たちに備わっている根本的な性質の一つです。エゴを主体にして愛が発散されると、それは奴隷的な愛に終わってしまう。けれどもエゴがなく、無心から生まれる愛は普遍的な真実の愛に近くなる。同じ愛でも自我を愛する愛と他者を愛する愛とでは大いに違ってくる。そこでバクティ・ヨーガでは、そのアプローチとしての愛の対象を見つけることを勧めています。

ちょうど、この人間の世界におけるのと同様に、心が平安で満ち足りた状態、そんな時にはすべてのものが愛おしく、すべてのものの中に神が宿っているように感じるものです。これをシャーンタといって平和な、平安な心の態度と呼びならわしています。

さらには自らが神を愛し、そして神からも自分を愛してほしい、その愛の交歓というものがより愛に満ち足りた至福を与えるように、神の喜ぶことを行為していく。いわば神を主と見なして自らが手足となるべく働く、そうして神に奉仕をする。そのようにしてより神と密接な交わりを楽しむ。もちろん楽しみといっても、これは世俗的な楽しみではありません。平安な気持ちや至福感を味わい、より神の役に立ちたいという捧げる気持ちが増してきます。これがダースィヤ―この言葉は奴隷とか、あるいは召し使い、使用人といった意味合いですけれども、決して封建的な意味ではありません。今も言った愛におけるそのような奉仕の立場のことをいっているわけです。

ここではまだじゃっかん主とその使用人という、やや遠慮気味な態度がありますけれど、もっと親しくなればこれはちょうど親友のような間柄になります。親友というのは、お互いの教養や身分、力が違っていても、何のわだかまりもなく親しめる。何の遠慮もない。兄弟や親子、あるいはさまざまな職場や社会においては目上だの目下だの、いろんな習慣がはびこっていて、その人間関係をぎこちなくさせていますが、親友というのはそういう垣根を飛び越えて、いろんな喜びや物事を分かち合う平等な関係です。そんな素朴な間柄で神と交わる、これがサキヤという友人のような間柄。

それから神を子供に見立てる愛があります。しかもそれはまだ幼子です。ちょうど母親が何もできない赤子の面倒を見るように乳を飲ませ、子供が望むものを与えてやるという無条件の献身がそこに見られます。それがこの世における尊い母の幼児に対する行ない、愛の姿です。母親はその子供から何の見返りも求めることはないでしょう。ただその子が健やかに育ってくれることだけを祈って、そして慈(いつく)しんでいるはずです。そのような慈愛がそこにはあります。これはヴァーッツァリヤという名称で呼ばれています。

そしてこの世の中で人の心を狂わせ一切を忘れさせる忘我の愛、あるいは狂気の愛とでもいうべき恋人同士、あるいは愛人同士の関係があります。おそらくこの世界の中で最も強烈で一切合切を焦がしてしまう、そんな力をもった愛の姿かもしれません。愛する人のためなら何であったとしても、たとえ命でさえも捧げてしまう。ただ愛のために愛する。その愛はあまりにも強烈すぎて、至福とも苦しみとも区別がつかないかもしれない。そこにあるのは愛、そしてその愛の姿を取った愛人……だけ……。バクティ・ヨーギーあるいはバクタというのは、永遠の恋人である神をそのように慕い、恋い焦がれ、そして神に狂い、神と一つになります。無形の神が形を取ってバクタの前に顕れるのです。愛はそれ自身、最も高貴なものです。愛が純粋になればなるほど、それは想像を絶する力と命を吹き込むでしょう。その時初めて、神は愛であるということが悟られます。

私たちが執着する世界のさまざまな出来事も、実は愛の小さな片鱗、あるいは少し歪められた姿であるのかもしれません。仏教の古い言葉では、愛というのは執着と同じ言葉なのです。通常の人間的な心の恋愛はラーガ、あるいはカーマと呼ばれたりします。これは共に欲望をも意味している言葉です。
しかしバクティにおける愛はプレーマと呼ばれ、純粋な至上の愛といわれています。誰もがそのプレーマの純粋な愛を備えています。そして心はその愛を基として、心を通過する時に少し色合いが変わったりするわけです。だから愛はそれ自身永遠ですから、人生におけるさまざまな愛の姿もそのプレーマの片鱗だと思って。それにはバクティを通してそのプレーマの、真実の愛と一つになるように思いを焦がしていってください。

愛においては何の勉強も修行もいりません。ただ愛すること、それだけで十分です。それだけがもっともっと大きく大きく育っていけばいいのです。
ヴィヴェーカーナンダは四つのヨーガを述べて、『その一つの道でもいい。また複数の道でもいい。それらによって真理を実現せよ』という有名な言葉を残しています。真理を学び、そして真実を実現するということにおいては、ラージャ・ヨーガもバクティ・ヨーガもカルマ・ヨーガもギャーナ・ヨーガもみな同じことです。それぞれがダイナミックで積極的な内容をもっています。とりわけバクティ・ヨーガは愛という最も身近なものを唯一の内容としていますから、たいへん大きな力をもっているというふうにいえます。神、もしくは真理、あるいは覚者への憧れ、愛。これがバクティ・ヨーガにおける悟りです」

2000.6.3