師のブッダへの瞑想

—どのようにブッダに瞑想されていたのですか。

ヨーギー「ほとんど知っていることはなかったのだけれど、単純にブッダという名前と、古今東西において完成した存在、完全な存在があったとしたならば、それがブッダにほかならないという、この二つしか内容も分からないし、その二つのことだけを信頼していた。だから瞑想はブッダが何を悟ったか、ひたすらそれだけに集中した。本も読まず何も知らなくても、ブッダが肉体を持っていた時代とか空気、そして何を探求し、苦しみ、そして何を悟ったかという彼の内的な状況、境地というもの、それだけに集中した。ずっと瞑想していた。あと手掛かりとしては完全とか真実という裏付けとして、それは特別なものではなくて永遠であり、一切平等であり、普遍的であるということだけは、その完全という意味の中に自分が理解していた内容だったかもしれない。

後に少しだけブッダの話、伝説を知った時――ブッダが村々を歩いている時に、ある農夫から、『お坊さんたちは日中何もしないで、ぶらぶらして話ばっかりして』という非難を受ける。するとブッダは、『いや私も耕しているんだ』と答えて、その農夫の胸を指し示す。つまり心を耕しているということを暗示している。それで農夫は気付くんだけれども――そういう話を後に知ったのだけれど、瞑想の中で全く同じことを私も感じて、それを知るようなことができたり、他にもブッダにまつわるいろんな事柄もある。瞑想の中とはいえ、ブッダという手掛かりをもとに集中して瞑想していくと、生き生きとブッダのありさまとか、彼の内容というものが直観的に知らされる、感応するという感じかな。そういうふうな瞑想をやっていた。だから、いまだに全部は知らないし、仏教に対してはそんなに関心はないんですけれどね。でもブッダはやはり、この地上において最高度の完成を成し得た存在だと思っています」

2001.1.27