ただ愛すること


もう12月ですね!一年が本当にあっという間です。ずいぶん冷え込んできましたので、皆さまご体調にはくれぐれもお気をつけ下さいね!

先月11月17日(日)、井の頭公園の樹々が鮮やかな秋の色に染まる中、マハーヨーギー・ミッション東京では第6回目のバクティ・サンガムが開催されました!テーマは「絶え間ない愛——私たちの中にある愛の源泉に触れ、溢れ出すも」これぞバクティ・ヨーガ、そしてキールタンの醍醐味!というテーマでした。

何度もご紹介していますが、バクティ・ヨーガについて今日はもう少し詳しくご説明したいと思います♪
バクティ・ヨーガとはヨーガの道の一つで信愛・信仰のヨーガと呼ばれています。誰もの中にある愛の力を使って神なるもの、純粋なるもの、自分自身の本質と一つに結ばれていくヨーガの道です。(こちらも合わせて読んでみてくださいね)
130年程前にインドに実在した偉大なヨーギー、シュリー・ラーマクリシュナは〝バクティ・ヨーガが現代人にとって最も易しい〟と言い、神を愛し、神の御名を唱え、讃歌を歌うことをすすめました。ラーマクリシュナ自身もとても歌が好きで、心から慕い愛したカーリー女神の讃歌をよく歌われたそうです。実際に歌った歌もたくさん残されています。「その声は甘美で〝音楽の神も裸足で逃げだすような〟歌声に、なみいる人びとはみな魅了された」(『インドの光』田中嫺玉著)と、本に書かれています。ラーマクリシュナの弟子であるヴィヴェーカーナンダもとても美しい声だったそうで、ラーマクリシュナはヴィヴェーカーナンダの歌声をきいて、よく三昧に入られたそうです。(私はラーマクリシュナの本を読むと、いつも時代も距離も飛越えて、今すぐ走って聴きに行きたくなってしまいます!)
そして、私の師はバクティ・ヨーガについて次のように話されます。(シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサ著/『悟り』から抜粋)

バクティ・ヨーガというのは別名愛のヨーガです。愛と言うのは私たちに備わっている根本的な性質の一つです。エゴを主体にして愛が発散されると、それは奴隷的な愛に終わってしまう。けれどもエゴがなく無心から生まれる愛は普遍的な真実の愛に近くなる。同じ愛でも自我を愛する愛と他者を愛する愛とでは大いに違ってくる。(中略)
バクティにおける愛はプレーマと呼ばれ、純粋な至上の愛と言われています。誰もがそのプレーマーの純粋な愛を備えています。(中略)
愛においては何の勉強も修行もいりません(笑)。〝ただ愛すること〟それだけで十分です。それだけがもっともっと大きく大きく育っていけばいいのです。(中略)真理を学び、そして真実を実現するということにおいては、ラージャ・ヨーガもバクティ・ヨーガもカルマ・ヨーガもギャーナ・ヨーガもみな同じことです。それぞれがダイナミックで積極的な内容をもっています。とりわけバクティ・ヨーガは愛という最も身近なものを唯一の内容としていますから、たいへん大きな力をもっているというふうにいえます。神、もしくは真理、あるいは覚者への憧れ、愛。これがバクティ・ヨーガにおける悟りです。

〝ただ愛すること〟……。言葉にすると簡単な気がしますが、私たちが誰かを何かを心から愛おしいと思う気持ちって、一体どこからやって来るのでしょう?真剣に考えてみたことはありますか?よく考えてみると、ギリシャ神話をはじめ紀元前二千〜三千年には存在していた世界最古の文学といわれる『ギルガメシュ叙事詩』には神々や人間のさまざまな愛にまつわる物語がたくさん出てきます。世界中で今も昔も〝愛〟をテーマにしたお話や歌は枚挙にいとまがありません。まさに人間の永遠のテーマと言っても過言ではないでしょう。


この日、講師のジャヤデーヴィーさんがスワーミー・ヴィヴェーカーナンダの書いた『愛の叡智』という本の一番最後の章「愛の極致、パラ・バクティ」の結論の一節を目に涙をいっぱいためて読んで下さいました。そこには愛の最高の理想が実現された境地が書かれていました。
バクタの愛は、愛ゆえの愛であり、無限者の光の中でいつか愛と愛する者と愛される者は一つであるという真理を実現する…。
〝ただ愛すること〟それだけがもっともっと大きく大きく育っていって私たちもいつかそうなれたらいいなと、心からそう思いました。

この日のキールタンは『Rama Rama Rama(ラーマラーマラーマ)』と『Jai Radha Madhava(ジャイ ラーダー マーダヴァ)』の二曲。『Rama〜』は明るく澄み渡った空の下でまっすぐにラーマとシータ(ラーマの妃)の栄光を讃えるようなキールタンです。一方『Jai Radha〜』はヴリンダーヴァンの森で繰り広げられるクリシュナとラーダーの濃密で歓びとも苦しみともつかない、狂おしいほどの神との交歓を感じるような旋律のキールタン。対照的なこの二曲を歌ってみて、私たちの神への近づき方は一つではないのだなと改めて感じました。繰り返し歌っていくにつれて、参加した皆の中からバクティが溢れ出し、大きな大きな歓びでその空間がいっぱいに満たされていくようでした。この大いなる歓びにまさる価値のあるものがいったい他にあるのだろうか⁉︎と思わずにはいられませんでした。
神の御名を美しいメロディーにのせて歌うキールタンを歌うと本当の自分自身の根源から自然に溢れ出す〝エゴがない無心から生まれる普遍的な真実の愛〟に触れることができるのだと思います。
バクティ・ヨーガの中でキールタンを歌うことは、まさにヨーガそのものです。世間一般に知られているようなアーサナ(ポーズ)はヨーガの一部分にすぎません。大胆にダイナミックに真実を実現していくこと!これこそヨーガの醍醐味だと実感しています!ヨーガって本当に面白い!!!

次回のバクティ・サンガムは12月17日(日)13:00〜 マハーヨーギー・ミッション東京/牟尼草庵にて開催。今期最終回となります!
テーマは「愛とは捧げること——見返りを求めず、相手の歓びにすべてを捧げること」ちょうどクリスマス前にピッタリのテーマですね。誰もの中にある純粋な愛の本質に少しでも近づいていけるといいなぁと思っています!どなたでも参加できますので、是非この愛と歓びに溢れたダイナミックなバクティ・ヨーガを体験しに来て下さい!

シャルミニー


月夜の瞑想


紅葉が少しずつ葉を落とし冬支度を始めています。しんしんと寒さが身に沁みる季節になりましたね。
そんな夜、クラスに通われているCさんから心温かくなるメールが届きましたのでご紹介します。

 


 

昨夜、月がとてもきれいでした。
洗濯物を干しに屋上へ上がり、その明るさにびっくりしました。そしてドアの淵に座り月を眺めていたら、そのまま瞑想したくなりました。
ショールを持ち出し、本格的に座ってみました。

 

雲の切れ間から輝く月。

この2週間ほど、左足の甲が腫れて思うように歩いたり動いたりできず、職場では足を引きずっているため、帰って病院に行きなさいと言われる始末でした。神経に瘤のような物ができる40歳代後半位から好発する症状であることがわかりました。アーサナもできないし、仕事もやりにくい、布団に入るとズキズキと痛むし、辛くて穏やかではなかったのですが、昨夜座わり始めて感じたのは、痛いと言えば痛いけれど…?足の甲がいつもとはちょっと違うだけ。

次に感じたのは、いま聖典読書会で読んでいる『真実を求めて』の事でした。印象に残っている第一部の最終の『神はいる!』の章で、ミラバイさんが書かれていた突然の変化について、何が起こったのだろうと思いを馳せていました。そして今まで思い出さなかったのですが、ヨギさんに初めてお会いした20数年前の光景を思い出しました。私はひとりで、ヨギさんと向かい合って座っていました。心の中を、まるで荷物のような自分の考えでいっぱいにして記憶が封印されていたようです。荷物を捨ててひとつひとつのやり取りを思い出して行くと、そこには…いつもいつも変わらないものがありました。

神を感じられないと言う時は、自分の事で心をいっぱいにしているからだ!未来への不安や過去の後悔、人と自分を比べて傲ったり、憎んだり、舞い上がってみたりでスペースがいっぱいになっているから、いつもそこに存在していたものが見えなくなっていたんだ!ここにある!ずっとあった!という事に気づきました。

今朝目が覚めると「永遠に変わらないものがそこにある」と感じ、同時に涙が溢れ出ました。感謝の気持ちでいっぱいになりました。

足の甲は、腫れも痛みもまだあるのですが、座るのにちょっと邪魔をする何かがあると言う感じで、不思議と辛いと全く思わなくなりました。

 



昨日の夜、瞑想専科でCさんにお会いしました。クラスの帰り道、一緒に見上げた夜空は遠くまで空気が澄み渡っているような気がしました。
Cさん、ありがとうございました。

 

こんな秋冬の風景をメールに添えて送ってくださいました。(小石川植物園)


ブジャンガ・アーサナ——コブラのポーズ


ブジャンガ・アーサナ​​​は身体を反らせる形です。
日本語でい​うと​、​​コブラの形。​
その名の通り、コブラが鎌首をもたげる様子を模しています。

・うつ伏せになり、ひたいを床につけ、両手を身体に添わせてかかとを揃える。
・​​両手を胸の横(または肩の下)に置き、息を吸いながらあごを前方に突き出し、脊椎を1つずつ意識しながら反り上げていく。
・​​首をすくめないように肩を下げ、脇をしめて胸を広げる。

ブジャンガ​・アーサナの集中ポイントはムーラダーラ・チャクラ。
尾骨のあたりで、正しく反り上げると一番下の腰椎と仙骨・尾骨周辺に刺激(場合によっては熱)を感じます。
背骨を​しなやかにして、自律神経を調えて活性化する効果があります。

文章に​するとなるほど、と思いますが、実際にやってみるとこれがなかなか難しいのです。​
コブラは​手がないので体幹の力のみで反りあげていきますが、私たち人は手があるので、腕の力もある程度​使って反っていきます。

柔軟性のある方はすんなりできることが多いようですが、私は腕の力を使いすぎて肩に力が入りすくんでしまいがちでした。
元々首を痛めていたこともあり、クラスでブジャンガ・アーサナを行なった時に、首や肩への刺激が強すぎて意識が遠のく感覚になったことが何度かあります。
かかとを揃えたままで行なって思い切り足がつることもしばしば。ブジャンガ・アーサナと数々の格闘を繰り広げながら、今では意識が遠のくことも、足がつることもなくなりました。

反るのが苦手な人は、反った状態をキープするために必要以上に腕の力を使​​ってしまいますが、きちんと背筋の力を意識することが大切です。
そして、視線がかなり大きな助けとなります。実際には見えませんが、自分の足を見るような気持ちで視線を後方に持っていくことで、身体がつられて反りやすくなります。

 

ブジャンガ・アーサナでどんどん後方が見えるようになると、心身ともに解放されていくような感覚になります。
​現代医学的にも、背中には自律神経のセンターのようなものがあるので、ちょうどいい具合に刺激されていくからなのかもしれません。
おしりや足の筋肉が硬く緊張しすぎない程度に、なるべく力が抜けるポイントを探し、つい荒くなりがちな呼吸をできる限りゆっくり吐き切るようにしていくと、その時々で行いやすいポイントが見つかるはずです。

​それでも厳しい!苦しい!いう人は、​ぜひコブラの姿をイメージしてコブラになったつもりでやってみるのもアリです。
私は何度かこれに救われました。

 

これから寒さが厳しくなり、背中が丸くなりがちな季節を迎えます。
ブジャンガ・アーサナで胸を広げて、背筋をしっかり伸ばして快活に冬を乗りきりましょう!

ハルシャニー


聖典読書会~「真実を求めて-あるヨーギニーの手記」を読んで


今回は、姉弟子・ミラバイさん著「真実を求めて(第一部 手記)」を読みました!
聖典といえば、(私たちの師であるヨギさんの著書の他は)過去のインドの聖者の言葉や生涯が書かれたもの(それも翻訳)がほとんど。ですがこの本には、現代かつ日本に住む”普通の女性”のヨーガの歩みが書かれていて、その姿に共感しながら一気に読み進めることができます。

ヨーガに出会ったきっかけや歩みは人それぞれ。今の自分はこのあたりを歩んでいると思いながら読んだ、など、皆さん、ミラバイさんの歩みとご自身とを照らし合わせながら読み進めたようです。そして当日、サナータナさんや皆と話をしていく中で、それぞれがこれから歩む道のヒントを得た読書会でした。

読書の秋・三鷹駅から井の頭公園まで続く「風の散歩道」も真っ赤に紅葉しています。

さて、牟尼草庵のアーサナクラスに加え、今シーズンの瞑想専科にも通われているHさん、前回に続いての読書会参加です。通っていた芸大の卒業制作で「自分の好きな作品をつくる」というテーマを与えられ、「そもそも自分ってなに?」という疑問が突然沸き、なかなか制作が進まなかった彼女は、卒業後に自分探しの旅に出たり、フェアトレードの仕事を頑張ったりしたけれど、やはりどこか満たされず、再び旅に出ました。そして、帰国後に訪れた映画館でMYMのチラシを手に取り、いつもはチラシを捨てるけれど、そこに写っていた牟尼草庵のブッダのステンドグラスを見てなぜか捨てることができず手元に置き、その半年後、牟尼草庵のクラスに辿り着いたそうです。
ミラバイさんの本そのままのようなストーリーを持つ彼女、この本に大変共感し、またいつもみんなが話している「ヨギさん」という方がどんな方なのかなんとなく分かった、みんなもミラバイさんと同じようにヨギさんを大切に思っているんだなと感じた、とも話してくれました。

みんな「真実を求めて」いるのです〜

一方、私はその昔、”自分探しの旅”とは程遠い、いわゆる社会通念(進学→就職→結婚→出産など)に則って生きることが当たり前だと(なぜだか)思っていました。しかしあることをきっかけに、社会通念からはずれて生きる現在です。(笑) でもそのおかげでヨギさんと出会い、社会通念や他人の評価に縛られるなんてナンセンス! 主人公を他人から自分に戻し、真実を求め生きることが大切!!であると知りました。あ~、本当に知ることができてよかった!!!

今夏のNY滞在中、私はヨギさんに「ミラバイさんの本の最終章『神はいる!』のように、私も神を知ることができますか」と伺ったことがあります。ヨギさんは、「考えない、心の波を静めそこに留まる。ミラバイもその道を歩んだ結果だと思うよ。できるよ!」と力強く私を励ましてくださったことも思い出します。

その最終章に、こう書いてあります。

神や悟りというのは、私たち誰もが求めている自由や愛、智慧などが完全なかたちとして現れたものである。そして人は皆、そこに向かう旅の途中にいる。

ヨギさんはいつも、私たちを、私たちの旅を導いてくださっています。本当にありがとうございます!! Hさんや皆と共に、ヨギさんを東京にお迎えする日が一日も早くくるように、これからも聖典読書会を続けていきます。

次は、12月16日(土)です。「真実を求めて(第二部 ヨーガの教え)」を2章ずつ学んでいきます。ご参加お待ちしていますーー!

ターリカー


すべての生命には役割がある


私たちが生きるこの世界には、たくさんの生命が存在しています。

生態系を考えてみると、地中にいる微生物は植物を育て、植物を虫が食べ、虫を小動物が食べ、小動物を大型動物が食べ、生命は繋がっていきます。
私たち人間は生態系の頂点にいて、様々な生命を食べて自分たちの生命を維持しています。

 

牟尼草庵の柚子が今年も実っています

すべての生命に共通しているのは、生まれてきた以上は死が訪れるということ。
そして、すべての生命には役割があるということ。

動植物は自分たちの生命を引き継ぐために繁殖し、食べられることで他の生物の生命を維持する、食べられることがなくてもいつか死が訪れて役割を終えると言えます。
私たち人間も自分たちの生命を引き継いでいくために繁殖をし、病気や老衰などで生命を終えますが、他の生物にはない役割があります。

それは、人間は愛や優しさを持って他者のためだけに行為できるということです。

親の元に子として生まれ、生まれ育つ環境も様々で、それによって受ける影響は異なり、選択する人生の道はそれぞれです。
親になる場合もそうでない場合もあるし、働き方も多種多様。寿命も、短かったり長かったり、死に至る状況や理由もそれぞれ異なります。

この世の中は不条理だと言わざるを得ないことがあるし、理不尽なこともあちこちで起きます。
生きていると苦しく辛いことの方が多く感じるかもしれません。
生きるのが辛くていっそ死にたい、自分の人生に何の意味があるのか、、誰しも一度は頭をよぎったことがあるはずです。

 

さまらさの台所に参加しているYUKIちゃん(当時4カ月)

 

それでも1人1人に役割があります。
他者のためだけに行為する。
それは大したことかもしれないし、一見すると気付かないような小さなことかもしれません。
形は違って当然、どんな些細なことでも構わない、1人1人がそばにいる誰かのためだけに行為できたとしたら、いずれ大きな力を生みます。
(役割なんてない、分からない、と感じる人は、まず目の前にあってできることから始めるといいと思います。やっていくうちに自分で気付いたり、自然と役割が与えられるようになったりするはずです。)

そしてそれは、真理を実現するということにつながっていきます。
真理の実現とは、私たちの本性は純粋そのものであり、それは生まれたり死んだりすることのない永遠に変わらないものである、と体感することです。
(真理という言葉が漠然として分かりづらい場合は本当の自分、あるいは神と置き換えられます。)

 

私たちの師は、それは誰にも実現可能なことだと繰り返し教えてくださっています。

 

今日も私にできること、私の役割を果たすことができますように。

ハルシャニー


聖典読書会はじめました!~スワミ・ヴィヴェーカーナンダ講演集『わが師』を読んで


少しずつ木々が色づき始め、秋の深まりを感じます。秋といえば読書。というわけではありませんが、東京クラスの仲間と聖典読書会を始めました~!


1冊目の本は、スワミ・ヴィヴェーカーナンダ講演集『わが師』。ヴィヴェーカーナンダの師への愛をビシビシ感じる本です。

参加メンバーのうち、シュリー・ラーマクリシュナもヴィヴェーカーナンダも知らない仲間が二人いたのですが(始める前に詳しい説明をしないでゴメン!)、それぞれ先入観なく読んだ「わが師」の感想を聞かせてくれました。
印象的だったところ、気になったところは人それぞれ(だから面白い!)。自分がスルーしたところを他の人が取り上げてくれることで、様々な視点から『わが師』に触れることができるのが読書会の醍醐味ですね。
たくさん付箋をつけてきた方、文章を書きだしてきた方、一夜漬けの方などなど、それぞれの個性が垣間見えたのもおもしろかったです。感想を言い合って、そこからサナータナさんとジャヤデーヴィーさん、仲間とともに理解を深めていき、読書会はサットサンガとなりました。

さて、私が気になったところ、それは「狂気」です。『ある者は富を求めて、ある者は快楽を、名声を、神以外のあらゆるつまらないものを求めて狂気しています。(中略)神を求めて狂気する人の幸いなるかな。そういう人は実にまれです。』

私は心から、神を感じたい、わが師の全てを感じたいと思っているけれど、狂気まではしてはいない。富や仕事や美味しいものなどに狂気しているわけでもなく、ただ日々が過ぎていく。どうしたら神を求めて狂気できるのか、と話したところ、サナータナさんが「わが師の最初に、ブラーミンの”不断の放棄の生活”について書いてある。物質も、知識も、一度すべてを捨てることが必要なのでは」とおっしゃられました。

私はわが師であるヨギさんから、「考えないこと、からっぽになること、神だけを思うこと」をやっていくように教えていただいています。サナータナさんの言葉を聞いて、師の教えを思い出しました。狂気できないことに悩む暇があったら、具体的に放棄を行為していけばいい、考えずにやるしかなーい!(アブナイ、また考えるところでした、笑)

そしてもう一つ、思い出したことがあります。私はヨーガに出会う前、「幸せとはなんだ、生きるとはなんだ」と毎日考える、苦しく狂気し渇望した日々がありました。その日々があったから、私はわが師・ヨギさんに出会うことができました。そう、神はちゃんと私の渇望に応えてくださったのです。
いま私は知識では神を知っているけれど、知識ではなく、神の全てを感じたいのです!! 狂気し渇望すれば、必ず神はまた応えてくださる。これから嬉しさにも苦しさにも右往左往せず、淡々と放棄をし、からっぽへの道を歩めばよいのです。

さて次回は、ヨギさんおススメ、ミラバイさんの『真実を求めて』をみんなで読みます。楽しみです。そしてこれから、私以外の参加者の感想も、このブログでご紹介していきたいと思います。お楽しみに~!!

ターリカー


忙しい時こそ時間は作れる


東京の人はみんな歩くのが早くて忙しそう…私が上京した頃に感じた印象です。
普段治療院で患者さんの次回の予約を取る時も、手帳とにらめっこしながら空き時間を見つけている方が多く、いつでもいいと言う方はほとんどいません。
それぞれ生活する環境や状況は異なりますが、忙しさは共通点のようです。

私自身も、地元にいた頃と比べ物にならないほど予定が詰まった日々を送るようになりました。忙しさに慣れるにつれて時間がないからと諦めてしまうことが増え、時間がない、が口癖のようになってしまいました。
時々は何も予定がない休日があるけれど、日頃の疲れのせいか1日中寝たり起きたり。だらだらと1日を終えてしまったことに焦りや苛立ちを感じることも多かったです。

それはアーサナや瞑想の実践にも影響しました。
忙しい時はやっつけ仕事のようにアーサナを済ませたり、たっぷり時間があるはずの日にはぼーっとすることに忙しくて結局何も実践できなかったり。
ヨーガの効果は確かに感じているはずなのに、それとは矛盾する生活に自分自身への苛立ちはますます大きくなり、まずは忙しいことを言い訳にするのをやめようと決めました。
それによって何かできることが増えるかは分からないけれど、とにかく言い訳するのをやめることから始めました。

この小さな決断は、少しずつ生活に良い変化を及ぼします。
最初はつい忙しいと言い訳してしまう度にいちいち落ち込んでいましたが、できた・できなかった、と一喜一憂すること自体を気にしないようにしました。
そして忙しいと思った瞬間にその意識を振り払うようにしていったら、頭の中がクリアになり、1つ1つのことに集中して取り組めるようになりました。
今日は忙しかったから休まなければ、という不安から休憩時間が長くなっていたことを発見したり、忙しいはずの日もやりくり次第で時間ができたり、思っていた以上に時間は作れることに気付きました。
できるできないではなく、やるかやらないか。
そこには忙しさは全く関係ありません。
それは時折先輩方からのアドバイスでも耳にしていたけれど、忙しいという思いと向き合うことで、ようやく自分の中で腑に落とすことができたように思います。

 

忙しいという思いは今でも時々顔を出します。まるでモグラ叩きのモグラのように。
今ではほぼ確実にモグラを仕留められるようになったので、忙しさに振り回されることはほとんどなくなりました。
忙しさに振り回されなくなると、実践する時間は確保できると日々実感しています。

 

もちろん、自分の限界をはるかに超えた忙しさはよくありません。そんな時は一度生活を見直すことも必要です。
過剰な忙しさの真っ只中にいると、自分ではなかなか気付けないもの。周りの誰かに指摘され
ら素直に耳を傾け、身体に不調を感じたら休息が最優先となります。
焦らずしっかり休んだからこそ忙しさを物ともせず活動できるようになる。その減り張りが大切です。

 

仕事でも家事でもヨーガの実践でも、ただ長く時間をかければいいというものではなく、集中力と真剣さがポイントになると思います。
その時自分にできることを毎日実践し続けると、確実に良い変化が訪れるはずです。

ハルシャニー


夢は心の潜在意識から生まれる


睡眠中は必ず夢を見ているそうですが、私は夢を見ていた感覚はあるものの、夢の内容はほぼ覚えていません。
でも以前はいわゆる悪夢を頻繁に見てい​ました。夜中にうなされて目が覚めたり、夢の中で何か叫んでいる時に現実でも叫んでいたようで、その自分の声に驚いて飛び起きたことも度々ありました。

悪夢の中でも印象に残っているの​が、恐ろしいものに囲ま​​れて恐怖におののきながら逃げ回る、という内容なのですが、物心ついた頃から20年以上繰り返し見続けていました。
子供の頃はその夢を見​て飛び起きた後、​​怖すぎて眠れなく​な​って1人で泣いたこともよくありました。大人にな​るに連れて悪夢を見る回数は少しずつ減り、これは夢だから大丈夫、と落ち着いて考えられるようになりましたが、それでも​​年に数回は見ていました。

​その悪夢を見なくなったのは、ヨーガを始めてしばらく経った頃だったと思います。
最近​久しぶりにこのことを思い出し、夢は潜在意識の現れだから、きっといろいろしんどいことがなくなって見なくなったんだなあと、思っていました。

 

そ​の数日後のこと。
先日届いた※『パラマハンサ』に、夢について書かれた部分がありました。

​サット・サンガの中での、記憶のある限り夢を見続けてき​てもう2度と夢を見たくないという質問に対して、師はこう答えられました。
夢は心の潜在意識から生まれます。心というのは昼間に経験したことを、いわばフィルターのように心に記憶していく。その経験の印象の強いもの、弱いもの、それらに応じた心の思いが生まれます。だから歓びにあるときは嬉しい夢を、恐怖にあるときは怖い夢を。そのように夢に一喜一憂したくなければ、心を透明にするのがいいです。心を透明にする作業、それこそがヨーガです。先ほどもいいました真理、真実というのは光のようなものです。それは心に透明のような印象を残して、夢を見ることはないでしょう

質問者は続けて師に問いました。​​​良い夢を見たことがなく​、​辛くて苦しくて時折この世から消えてしまいたいとも思い、どうしたらいいのか本当に分からない、と。
それに対し​師はこう答えられました。​
「​そう、確かに人生は苦しいものです。けれどもそれをまた変えることもできます。苦しみには原因があり、それらは先ほども言ったように無知なのです。だから無知をなくし、真理だけを心が持てば、怖い夢などはもう見ることはない」​

 

これを読んで、かつて見ていた悪夢は、​日々の生活の中で恐怖を感じていた子供の頃からの潜在意識によるもの​​​だったことだと初めて気付きました。そしてヨーガの実践​と師の導きによって心が透明になり、その恐怖がすべて取り払われたのだと。
​もうすっかり恐怖を感じることはなかったのに、悪夢のこと自体忘れていたはずなのに、はっとすると同時に涙が溢れて​出てきました。​子供のようにしばらく泣き続けました。悲しかった訳でなく、嬉しかった訳でもなく、何かが解放されたというか、不思議な感覚でした。
その後は強烈な安心感と喜びがありました。

きっと​この質問をした方も、抱えていたものから少しずつ解放されて、もう大丈夫だと感じられたのではないかと思います。

ヨーガに​よって心が透明になり、真理だけを持てるようになる。そこには苦しみも恐れもない。もちろん悪夢も2度と近寄ってくることはないでしょう。

​​​
ハルシャニー​​

※『パラマハンサ』は、サットサンガ(真理の集い)において質問者のさまざまな疑問に応えるシュリー・マハーヨーギー・パラマハンサの明解な教えと具体的な導き、ヨーガと古今東西の聖賢たちの教えの真義、現代の修行者たちの歩みとその軌跡などを主な内容とした隔月誌です。

 


Twitter開設のお知らせ


突然ですが、お知らせです!

マハーヨーギー・ミッション東京では、今年の5月にTwitterを開設して、東京のクラスやイベントなどの情報、HPに掲載されている記事や興味深い過去ログなどをお知らせ&紹介しています!
また、マハーヨーギー・ミッションHPの記事や京都、大阪、松山、丹波、ニューヨーク、台湾、その他、各地で行われているクラスや活動の様子などもお伝えしています。

日常生活のことからアーサナ、瞑想、とっても分かりやすい聖典の解説や聖者の物語…などなど、読んで、実践に生かせるヨーガの学びが満載です!ほぼ毎日更新していますので、フォローしていただいて毎日の暮らしの中でぜひ役立ていただけるといいなぁと思っています!どうぞよろしくお願いします!

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〜マハーヨーギー・ミッション東京 HP より

ヨーガは古代からインドで伝えられてきた
真実=本当の自分を知るための実践です。

私たちのクラスでは、
動揺する心身を一つに集中させ、
余計な雑念や悩みをなくし、
生命感に溢れる本来の自分に留まることを目指しています。
とらわれから自由になり、
変わらない確かな本質を見つけるとき、
心は透明になって、
真の強さと優しさを生み出します。
それにより、日常での感情や思い、
他者との関係は、望ましいものに変わっていくでしょう。
―それがヨーガです。

 

MAHAYOGI MISSION TOKYO/牟尼草庵
中の人


苦手意識が消える?!さまらさの台所


さわやかな秋晴れの清々しい日曜日(^-^)
先日9/24(日)は、吉祥寺でヨーガ・瞑想クラスをしていただいてる牟尼草庵で、
ヨーガの料理教室「さまらさの台所(おだいどこ)」に参加しました。

今回のメニューは
・ふんわりとろとろ きのこのオムライス🍄🐣
・かんたん ポテトサラダ
・オニオンとセロリのスープ
・万願寺とうがらしの炒め物

ふわふわ卵とケチャップで覆面マスクのような顔ができあがりました

三歳のお子さんや一才未満の赤ちゃん、妊婦さんも参加され、なごやかに楽しい時間を過ごさせていただきました。

参加された20代の一人暮らしの女性は「わたし、いつもオムライスがうまくできたことがないんです・・・」と始まる前に言われ、ふんわりとろとろのコツを知りたいという感じでした。

実は、私もたまご料理には苦手意識があり、シンプルだけど火加減や盛り付けが難しく、
上手くいかないことが多くて、緊張してしまいます。
でも、今回のオムライスは、ケチャップチャーハンではなく、キノコのバターライスという、
画期的な作り方で、簡単で、手間や材料の無駄を省いたものでした。
さまらさの台所」の本にも載っています🐣
簡単で美味しいし、キノコがほっと夏の疲れを癒してくれるんです(^-^)b

 

玉ねぎの皮をむいたり、キノコをほぐしたり、今回はお父さんの分も作りました!

調理の終盤、印象的な場面がありました。
最後にオムレツを作ってごはんに乗せる場面で、キッチンから一瞬、緊張の空気が漂いました。

誰かがオムレツ作りに挑戦していたときに、「失敗しちゃった・・・」と、というような声のような?気のような?ものが聞こえ(感じ)ました。
その時、すかさず「経験!経験だよ!!(笑)」と、楽しそうに元気に励ます声が聞こえ、笑いが起こり、キッチンの緊張していた空気が、一気になごやかに変わりました。
料理教室を指導してくれるジャヤデーヴィーさんの、楽しそうな声でした。
隣の部屋にいた私も、一緒に笑っていました。

(ヨーガでは気のことをプラーナというんですが、場の空気とか、身体の気、気を使う、元気、
などと、いたるところに使われている「気」は純粋なエネルギーのことだそうです)

その場の「気」が一瞬で変わった感じがしたのです。

 

さまらさの台所で仲良くなった二人

そのとき、あらためて感じたのは、失敗しても笑い飛ばせることができれば、気持ちを切り替え、次に挑戦していこう!という気持ちに変えられるということ。
それから、「経験」を重ねていくことで、失敗を→成功に(理想に)近づいていけるということ。

ヨーガを学んで実践していくことは、料理だけでなく、生活の中の小さなことにも目標を理想的にして、失敗しても次の機会に理想に近づけていく!ということをめげずに繰り返すことで、
知らないうちに、苦手意識が消え、楽しくなっている(^-^)本当に便利で、良いことだと思います。

🐣ジャヤデーヴィーさんの声は元気で、お話しは面白いし、気さくに指導してくれるので、料理が苦手とか、調理に時間がかかると感じている方には、ぜひ「さまらさの台所」に参加されることをお勧めしたいです。

次回は11月26日(日)11:00〜14:00
メニューは飛龍頭(ひりょうず)と春菊のあんかけ、しめじご飯、ごぼうの柚子こしょう漬けです。


手作りの飛龍頭(ひりょうず)美味しそうですね。普段揚げものはしない方やちょっと苦手という方もぜひ一緒に作ってみましょう!

 

ナンディニー