真実の生を求めて—何のために生きるのか ①自分が何をしたいのか分からない人へ【前編】


はじめに

「生きがい」や「自分らしさ」という言葉がよく聞かれる。老若男女を問わず、誰もが自由に自分らしく、積極的に自分の人生を生きたいと願っている。

しかし他方、自分が何をしたいのか分からないという人は多い。哲学的な問題ではなく、もっと単純に自分が何をしたいのか、まず分からないのだ。人生の目的がはっきりしないために、生きる方向性が定まらず、自分に自信を持つことができない。その時々を楽しく過ごしてはいても、その裏では何かしら虚しさを感じてしまう。

どうして私たちは自分のしたいことが分からないのか? どうすれば自分がつかめるか?

『真実の生を求めて—何のために生きるのか』のシリーズでは、ヨーガ・瞑想の体験と教えにもとづいて、このことを考えていくのを皮切りに、「本当に自分のためとはどういうことなのか」「他者のためとはどういうことか」、そして「何のためでもない、真実ゆえの生き方とはどういうものか」という方向へと話を進めていきたい。

どうして自分がつかめないのか

いったい自分は何を望んでいるのか、それをつかもうと内面を見つめていくが、はっきりとした気持ちをつかみだせない。それはなぜなのか?

一つには、「自分をつかまえる握力」、つまり内面をしっかりと把握していく集中力が欠けるからである。心がそのように統一されないのは、あれやこれやと考えることに慣れて、心が分散してしまっているからだ。その心の分散が自分をつかむ把握力を弱めている。

自分をつかまえる握力、つまり心の統一から生み出される集中力に欠けること、そしてそれを促す心の分散が自分をつかめない原因として考えられるだろう。

心の分散を防ぐ

感覚の分散から「他者」が入り込む

ヨーガの瞑想をして集中力を高めようとする場合でも、それ以外の場面で外向きに感覚が分散していては、集中することができない。感覚を通じて外を向くことに慣れた心は、おいそれとは内面を向かないものである。

特に現代の社会は情報化社会だと言われる。とうてい処理しきれない情報の大海の中に、私たちは無防備に身を置いてしまっている。目といい、耳といい、口といい、開いている穴から、大量の「他者」が出入りする。「見ザル、聞かザル、言わザル」という、目や耳や口を手で閉じた猿たちの彫刻が日光の東照宮にあるが、あれはこのことを戒めているのだろう。see no evil, hear no evil, and speak no evil

他に依存する自分こそが「第一の他者」

見たこと、聞いたこと、話すこと、すべて他者から受け取ったものにすぎない。そのどれにも、本当に自分と言えるようなものがないのが実際である。その他者への依存をなくすことをブッダは説いた。それは自分をつかむための方法である。

見たり聞いたりしたことだけでなく、思うことまで自分ではなくなっている。それは、どこかで仕入れた考えを思っているにすぎない。そうして他者をむやみに受け入れてしまっている自分、その自分こそが「第一の他者」だと知って、気をつけなくてはならない。

受動的感覚の制御

他者への依存を断ち切るためには、それを無防備に受け入れる門となる感覚を注意深く監視する必要がある。感覚を通じて心が外へと迷いでていかないか、それによって自分を見失っていないか、それを常によく気をつけることで、心の分散が避けられる。

亀が手足を引っ込めて、甲羅の中に入るように、私たちは感覚をその対象から離すことで、自分の内面を深く見つめていかなくてはならない。

主体的な感覚の制御

また、口は話すだけでなく食べる器官でもある。美味しいものを求めて心はさまよいでて、味わうことの虜になってしまう。

「いわば酒飲みが酒に飲まれるが如く、感官に服従し対象に隷属化する心を、反対に心が主導権を握り感官を支配する構図に切り換える」のが、制感(プラティヤーハーラ)すなわち感覚の制御であると、シュリー・マハーヨーギーは教えている。

取りにいかなければ執らわれない

味わうことに一生懸命なら、私たちは自分を見失う。美味しいものを取りにいっているように見えて、逆にそれに執らわれているのだ。

「取る」ことと「執らわれる」ことは、同じことの両面。本当に執らわれないためには、取ることもなくさなければならない。「取りたい」と思ううちは執らわれているのだ。「別にいらない」と思ったときに初めて、執らわれなく自由である。そのとき初めて自分のしたいことが分かる。

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