真実の生を求めて—何のために生きるのか ①自分が何をしたいのか分からない人へ【後編】


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心の力を集める

嘘が心を弱くする

自分が何をしたいのか分からない理由、すなわち自分をつかむ握力、集中力が欠ける理由がもう一つ考えられる。

複雑な現代社会の中で私たちは嘘をつく。やっていることと、言っていること、思っていることが一致していないのだ。思ってもいないことを言う、言ったのにやらない、言うこととやることが違う、こうした嘘や言行不一致が心の力を弱くしている。

自分が分からない!

自分の中に何種類もの自分を作ってうまく立ち回っているかに見えるが、そうしているうちに自分の意志というものがあやふやになってくる。ある思いを浮かべても別の反対する思いがあり、「こうしたいような気がするけど、でもそれも違うような気もする……」というように、自分の意志統一できない。

心は磁石のようなものだと言えるだろう。すべての部分の磁力線を一つの方向で統一すれば、N極とS極が生じて強力な磁場を生むが、磁力線が統一されなければただの鉄片である。

いったい自分が何を考えているのか、何を望んでいるのか分からないのは、普段から自分というものを統一していないことに原因の一端がある。

身・口・意の統一

身・口・意の統一(行動・言葉・思いの一致)を求める正直(サティヤ)の戒律は、仏教、ヒンドゥー教を問わず、重要視される。

それは、心の力すなわち自分自身を把握する集中力を高めるためのものである。道徳的な住みよい社会を作ることが目的ではなく、また単なる徳目でもない。それは、本当に自分がしたいこと、本当の自分を見出すための非常に効果的な方法だといえる。

心の力は統一して強くなる

自分の意志をはっきりとさせておきたければ、たとえその場で「いい子」になれるようでも、思ってもいないことを口にしてはいけない。また、言ったことは実行しなくてはならない。もし実行する気がない、本当にはそう思えないということなら、その場では口にしないでおくべきだ。

そうして身・口・意を統一していくことで心は強くなり、明確な意志実行力が生まれてくる。加えて社会的な関わりの中でも、その場限りの耳障りのよい言葉よりも、普段からの心の誠実さや実際の行動こそが、結局は人の信頼を勝ち取るだろう。

積極的な心の力

感覚の制御と身・口・意の統一によって、心の分散は防がれ、自分が何をしたいのかをつかむ集中力が養われてくる。

これは普通の心理的経過とは逆の手順を取っている。通常私たちは、積極的に何かの目的を意識して、その他のことに無頓着になることで、感覚の制御や心の統一に至る。これとは逆に、感覚の制御と正直に徹することで、他者への依存から離れ、自分が積極的に何をしたいのかを把握しようとしているのだ。

意志の力を引きだす問いかけ

しかし実際には、何の目的意識もなく、感覚の制御や身・口・意の統一を続けていくのは難しい。継続していくには、それをやり切るだけの決意積極的な意志の力が必要である。

「今の自分はいったい何なんだ」「このまま生きていたとしていったい何になるんだ」という、自分に対する怒りにも似た感情、発憤する心の爆発が必要である。その真剣な思いがあって初めて、周りにうごめく“他者”、自分の中にこびりついている“他者”を振り落とすことができる。

「三日でもいい、寝ないで『自分は本当にこの人生で何を望んでいるのか』、『自分自身はいったい何なのか』を問いかけてみなさい。生きているということは何なのか、ただ食べて寝て、そして死ぬだけなのか——これこそ恐ろしい話です」とシュリー・マハーヨーギーは言われる。

今を真剣に生きる

「生きざまそのものを、一日一日、一瞬一瞬の生き方を真剣になさい」「人生は一瞬一瞬が分かれ目なのです。だからあなたは過去でも未来でもなく、『今』を生きなければならない」(シュリー・マハーヨーギー)

「今」は過去の経験すべての集積である。過去はすべて「今」の心、記憶のうちにある。一方、「今」は未来のすべてのことへの出発点であり、未来はすべて「今」の心のうち、期待のうちにある。

過去を悔やむことで時を失い、未来を不安に思うことで時を失っていては何も変わりはしない。常に“失われた現在”があるのみだ。今この時を、真剣に最上の努力をもって生きるなら、過去は報われ、未来は明るいだろう。

カルマの法則から見た「今」と「私」の重要性

カルマの法則は、いつでも自分を変えられるということを示している。カルマの法則とは、単純に「原因があれば必ず結果がある」ということである。今に良い種を蒔けば、必ず未来に良い果実を結ぶことを意味している。それゆえ、この法則が示すのは「一瞬一瞬が分かれ目」ということになる。

他人のことを悪く思えば、自分が一番最初に傷つく。いつも頭の中を悪い思いで満たして、自ら気分を悪くしているのだから。逆に人に優しくあれば、一番最初に自分が満たされる。そんな素晴らしい人といつもいっしょにいられるのは、まず自分なのだから。

今この時この自分がすべての始まりである。それが変わらなくて何になるだろうか? 結局何も変わっていない状況を見て虚しくなるだけだろう。

自分を変えていく実践の両輪

今ここでの真剣さが、感覚の制御と身・口・意の統一を粘り強く続けさせる。心があやふやになってきたらまた真剣に考えてみる。その繰り返しと心の制御を同時に進めることで、積極・消極の両面から自分を変えていくことができる。

消極的な面では感覚を制御し、正直に徹して自分にも他人にも嘘をつかないこと。積極的な面では「自分は何を望んでいるのか」と真剣に考えること。その一方が進めば他方も進むという形で、車の両輪のように両面はともに深まっていく。

「自分のしたいこと」から「自分」そのものへ

「したいことをしてはいけない。そうすればしたいことができるようになる」とシュリー・マハーヨーギーは教える。思いにまかせ感情にまかせ、したい放題していては、むしろ自分を見失う。それを制御してこそ、本当に自分がしたいことが分かり、それができるようになる。

制御は不自由ではない。それは自由への道である。誰が自由なのか? 少なくとも欲望のままでいることを望む自分ではない。それは制御される。では誰が自由になりたいのか? それを探求する中で自分というものが、より究まった形で見えてくる。自分の中の“他者”を振るい落として、より純粋な形で自分が見えてくる。それを見極め、それであろうとすることが、「私は誰か」と探求していく瞑想の内容である。

本当に自分のためとはどういうことなのか? それには「自分」とは誰なのかをはっきりとさせなければならない。次回はこのことについて深く探求していきたいと思う。それによって本当に自分のためになることをし、崩れることのない確固とした自信が生まれることを期待したい。そして生きることの意味は何なのか、何のために生きるのかを、このシリーズを読む人がそれぞれに見つけられたら嬉しく思う。

②自分のために生きる→