真実の生を求めて—何のために生きるのか ③他者のために生きる【前編】


*上の画像はブッダの前世における自己犠牲を表した「シビ王物語」の浮彫

純粋な「他者のため」に至るまで

自分のために生きることを追求していくと、自分のことは忘れ、他者のために生きることになる。

自分を極める

一流の芸術家やアスリートたちは、そのような生き方をしたように思える。

最初、彼らは自分の才能を誇っていたかもしれない。しかし他人と比べてどれだけ自分が優れていようと、自分がトップを走ったまま誰も追いつけず優勝が確実であっても、彼らは止まろうとしない。これまで以上の作品や記録を求めて、自分という限界を超えて突き進もうとするのである。

そこにはもうかつてのうぬぼれはない。自分の才能を誇り、それをもっともっと極めたいと思う果てに、彼らは自らの才能を越えて、自分を誇ることを忘れて、作品や記録というものも超えた「偉大なる何か」に向かってまい進する。

自分という限界を超えたところ

なぜそれほどまでに追求するのか、彼ら自身も分からない。「ただそこに山があるから」と言った登山家もいた。自分との闘いを超えた人たちは、そこである種の哲学的あるいは宗教的な言葉を吐く。「無我の境地」「神の存在」「一切への愛と感謝」——彼らにとってそれは教義ではない。自ら体認したことである。自ら体認したことは疑いようがない。

そういう人たちは晩年、他者への奉仕に身を捧げたり、信仰の生活に入ることがある。自分を極め、自分のためを追求する果てに、「他者のため」「偉大なるもののため」こそが、ゴールであると知ることになるようだ。

「自分のため」を極めることでエゴを超え、そしてエゴではない何か——他者——のために尽くす中で「自分のため」も消えてしまう。どのようにすれば純粋に他者のために生きられるか? 他者のために生きるとはどういうことか? そのことについて学び、考えてみたい。

無私の行為——カルマ・ヨーガ

無私の行為によって真実を実現する道は、インドではカルマ・ヨーガと呼ばれる。そこで重要なことは、結果に執着することなく淡々と行為を続けることである。

普通私たちは結果のために行為する。「これだけのことをしたのだから、これだけもらえるはずだ」という気持ちで働いている。しかし結果への期待や欲求は失望を生み出す。もう二度と失望したくないと思えば、結果を期待してはいけない。結果を期待せず、淡々とその場その時の行為に集中するだけである。

そして、その行為をおろそかにもできない。「あなたは行為する権利を持つが、結果を得る権利はない」と聖典(『バガヴァッド・ギーター』)に言われている。「結果をもらわないから、行為はおろそかにしてもいい」という考え方は、結果への執着の裏返しである。

行為は一所懸命にする。でもその結果を望む気持ちには巻き込まれない」というのがカルマ・ヨーガの原則である。良いも悪いもない、できるもできないもない、だが最善を尽くして、その場その時に集中する。単純にそれが無私の行為の道、カルマ・ヨーガの実践である。

カルマ・ヨーガ初期の実践

行為の結果に関わることなく、自分の思いに関わることなく、ただ淡々と物事をこなしていくというカルマ・ヨーガは、カルマに「関わらないこと」を軸としている。

カルマという言葉には、「行為、結果、業(ごう)」などの意味がある。カルマ(行為)を無執着に果たしながら、カルマ(結果・業)と関係せずにそれを超えていくというのが、先に述べたカルマ・ヨーガである。

まず自分を護って確立する

カルマに関わらないために、最初はとにかく他者に影響されないように訓練することが必要である。インドの大聖者ラーマクリシュナはうまい比喩でそれを語っている。「まだ木が若いうちは、牛に食べられたりしないよう囲いが必要だ。でもそれが大木に育ったら象をつないでもびくともしない」

初めに自分を保護するのは、決して逃げているのではない。泳ぎも知らずにいきなり海に飛び込むのは危険だ。幼い子供にマラソンを走らせるのは、鍛練でなくて無謀な行為だ。そういう意味で、裁ききれないほどの情報にさらされるのは危険だと言える。まだ自分というものがあやふやなまま、巨大なものがつながれては自分を確立できない。

世間や周りの動向には無頓着になり、たとえ世界と接触したとしても、結果を期待せずに淡々と行為を行えるようにした方がいい。そうしてこそ巨大な象をつなげるようにもなる。

心を継続的に鍛える

次に自分というものが大体固まってきたら、次第に負荷をかけていく。重すぎるものを背負ってつぶれてしまってはいけないが、少しずつエゴ意識にプレッシャーを与えていくのである。そうして心はだんだんと鍛えられ、無執着が板についてくる。

シュリー・マハーヨーギーはこれについて、「無私の行為を行なうカルマ・ヨーガはボディ・ブローのようなもので、それは地味だけれども確実に効いてくる」と面白い比喩で説明された。私たちは自分の心の成長についてなかなか知ることができないが、無私の行為を行なうかぎりそれは着実に進んでいると言っていい。

自分が嫌だと思うこと人のためになることを少しずつでも継続的に行なうようにして、好き嫌いの概念を揺り動かしていく。そうすることで何事にも執らわれない強い心ができあがってくるのである。

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