真実の生を求めて—何のために生きるのか ③他者のために生きる【後編】


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*上の画像はブッダの前世における自己犠牲を表した「シビ王物語」の浮彫

カルマ・ヨーガの理想

これまでに述べた初期段階のカルマ・ヨーガは、他者のためになるというよりは、むしろ自分のためになる実践である。それはエゴ意識に巻き込まれず、本当の自分であり続けるための方法だといえる。

無執着に生きることは、その人の清らかさが周りの人に良い影響を与えるという意味で確かに他者のためになるのだが、より積極的に「他者のため」を考えた場合、それだけでは物足りない。

無執着にさえも執着しない

人を積極的に助けていくには、エゴ意識をなくすという「自分のため」の動機をもたず、純粋に「他者のため」だけを思って奉仕しなければならない。それが自分の修行のために他者を利用しない、本当の意味での献身になるだろう。

そのためには、無私・無執着に徹する思いさえも放棄していかなくてはならない。初期段階ではその実現を求めて始める実践も、ついにはその目的にさえも無執着になるのである。覚者ラマナ・マハリシはこのように言った——「木々を燃やす時にはその中の1本を取り出して、それで突っつきながら他の木を燃やしていく。それでも最後にはその1本の木でさえも、きれいに燃やしてしまわなくてはならない」

「私」も「あなた」も「奉仕」も意識しない行為

そのように、他者のためを強烈に思うはてには、「この人のためにしている」という意識さえも邪魔になる。「誰かのためにしてあげる」という意識があるかぎり、「この私がしている」という思いはぬぐい切れない。それらはコインの両面のように互いに裏打ち合っているのである。

「私」も「あなた」も、自然な行為の中では意識されなくなっていく。そして「奉仕する」という気持ちが強くても、それが障害になって行為は自然ではなくなってしまう。本当に他者のための行為をするには、「私が」「あなたに」「奉仕する」という、この3つの要素が意識からなくなるのが理想的である。

そうして自然に行なわれる行為、つまり「奉仕している」という意識もなく、おのずと手が動き足が動くという行為こそが、本当に人のためになる行為なのではないだろうか。自分の苦悩を癒すことも忘れ、「他者のため」ということも忘れ、一切の目的と結果への期待を忘れて、しかも積極的な行為が行なわれている——それがカルマ・ヨーガ、無私の行為の理想である。

理想の実行者

結果がどうなるかに期待せず、とにかく目の前の苦しみを癒すために必死の行為をした人こそが、多くの人々の心を捉えてきた。無私の行為は単なるお話の中の理想ではなく、実際に行なわれて初めて意味をもつ。マハートマー・ガンディーやマザーテレサは、そのような人たちだった。

彼らの生きざまは、この現代でもそれが可能だと実証している。ガンディーもマザーテレサも「自分は聖者ではない」と言う。ただ目の前の惨状を見過ごせなかった、それだけのことである。マザーテレサは言う——「もし不特定多数が相手なら、私は何もできないでしょう。一人ひとりを目の前するから、私は行動するのです」。目の前の一人を抱きかかえ、助け上げたこと、そこから彼女の活動は始まった。

相手が何を信じるか、何を信じないか、そういったことはここには関係しない。ただ目の前に苦しむ人がいる、その場その時のその人自身を見て、自分の考えや過去の経験はいったん捨てて、本当にその人のためになることを行なう。

自分の体を維持することも、信仰を深めることも、そのために行なわれるのである。自分の体の健康のために修行するのではなく、悟りのために奉仕するのではない。奉仕をするために体をより良く維持し、より他者のために生きられるように真実の自己を実現する。ここでは健康や悟りが目的ではなく、それらはより良く他者に尽くすための道具や手段となる。

生きることの意味

他者のために生きること、そこに自分というものの存在する意味がある。自分のためだけに生きることは意味がない。それは単なる感覚の充足か自己満足になってしまう。

「意味がある」ということは、論理的に言っても「他者のためにある」ということだ。何かに役立ってこそ意味がある。何の役にも立たないものは、あっても「意味がない」ものになってしまう。なぜ自分は生まれたのか、なぜ生き続けるのか——自分のためだけを考えるかぎり、その答えはでてこない。ただ「自分」というものの中を問いが回り続けるだけである。

「なぜ」の答えは「何のためにあるのか」ということにある。私たちは何のために生きるのか。「他者のために生きる」ことに、その1つの答えがあるように思う。それは「他者のため」さえも忘れるほどに徹底しなければならない。

そのとき私たちはいったい「何のために」生きていると言えるのだろう。「何のためでもない、真実のために生きる、真実ゆえに生きている」——1つの言葉ではそう言えるのではないかと思う。その無為にして自然な生き方、空の生きざまから出てくる慈悲の愛について、次は考えていきたいと思う。そして悟りをまだ自覚していない者としてそれをどう実践していけばいいのか。そのことについても考えていきたい。