真実の生を求めて—何のために生きるのか ④何のためでもなく、真実ゆえに生きる【前編】


私たちは何のために生きるのか?

自分のために生きるのだろうか? それならば、自分のために生きるにはどうすればよいのか? 永遠でない生命や物質を所有し続けようとして苦しみや悲しみが生じる。だから所有欲の原因であるエゴ意識をなくして真我に定まること——それが本当に自分のためになる。それが自分をなくして他者に尽くす実践へとつながっていく。

それでは他者のために生きるにはどうすればよいか? 本当に他者のためになろうと思えば、そのための行為に徹しながら、「やってあげている」という思いもなくしていかなければならない。ついには「他者のため」というその目的さえ忘れ果てるまで徹底されることになる。

そうして「自分」も「他者」もなくなったとき、私たちはいったい何のために生きるのだろうか?

何かが別の何かのために存在することを可能にする、二つものを分かつ境界線が消えるとき、区別というものがなくなり、たった一つのものしかなくなるとき、この私やあなた、多様な世界とはいったい何なのだろうか? その一なるものを悟った人はどのように生きたのか? そしてまだそれを悟らない者たちはどう生きるべきなのか?

何かが何かのために存在するという相対的な状況が一切なくなった究極の状態について学ぶとともに、それをこの相対的な現実世界に実践する真実の生について考えていきたい。

生きる意味

他者のためにあること

前回の最後で書いたように、生きる意味とは何か他のもののためにあるということである。「何のために存在するのか、何のために生きるのか」と考えるとき、それは自己満足や自己完結ですませることができない。

「食べるために自分は生きている」といえば、そもそも生きていなければ食べる必要がないのだから、それは生まれた意味、生き続ける理由にはならない。また、「ただ自分が満足なら周りがどうであろうと関係ない」といってみても、外部の状況がその満足を成り立たせている以上、やはり矛盾があると言わざるを得ない。

何かのためにあること、そこに人は生きる意味を見出す。ただ寿命の分だけ存在し続ければいいとは思えない。「何のために」という問いの裏側で、私たちは「何か他のもののためにある」ことを予感しているといえる。

究極の“他者”である至高の存在=万物の真の自己

感覚的な好みや利益、地位や名誉やあるべき自分、それらを超えたところに、私たちは究極の「生きる意味」を見ようとする。生きることもまた、生存というもの以外の“他者”のためにあるのだ。生きるために生きるなら、それには意味がない。それでは一時の暇つぶしになってしまう。何かこの生命自身を超えたもののために生命はある。その至高の存在——この体や心を超えたものこそが生きる究極の目的である。

「草の根からブラフマンに至るまで、すべてはアートマンのためにある」。この古い格言はそのことを言い表している。「この宇宙にある一切万物はすべて神、あるいは至高の存在のためだけにあるということです。科学的な言葉で言えば、すべての複合物は単体、あるいは他者のためだけにある。この他者というのは究極的には神なるもの、『単体』を意味しています」(シュリー・マハーヨーギー)この究極の他者である至高の存在こそが、自分や他の人々、動植物、無生物の真の自己(アートマン)であり、変化せず実在するただ一つのものである。

一つのものしかないとき、何かが何かのためにあるということはありえない。自分の利益のために、誰か他の人のために、何かを成功させるためにというような、すべてのことは、この一つのものに溶け去っていく。何のためでもない、ただそれが真実ゆえに存在するとき、そこであらゆる関係も論理も尽き果てる。そこでは、ただ真実ゆえに、それゆえに真実が真実として在る。

夢からの目覚め

無知によるマーヤー(夢幻)

「私たちが心をもって見ればこの世界は多様です。しかしながら真実の目をもって見れば世界は一つです」(シュリー・マハーヨーギー)。真実ゆえに真実が在る、それを真実の目をもって確認したとき、この多様な世界はいったい何であるのか? 聖者たちは、この世は夢のようなもの、マーヤー(夢幻)だと言う。

次のようなたとえ話が伝えられている。「ある黄昏どき、1人の人が道に蛇を見つけて驚いて飛びのいた。皆にそれを知らせて恐る恐るのぞき込んでみると、それは蛇ではなく縄だった。真実を知った人たちは安心して、まったくそれを恐れることはなくなった」

蛇が恐ろしいからといって蛇を縄にする必要はなく、蛇など恐くないと強がる必要もない。それは初めから縄だったのである。これと同じように、私たちもこの世界の中で恐怖をこらえ我慢して、とてつもない能力を得て世界をどうにかする必要はないのである。ただ真実を見誤っている無知を取り除き、ありのままの事実を知ればいい。

真実への目覚め

「誰でも眠りから目が覚めたとき、夢の中で一喜一憂していた自分を一笑に付すように、真実在に目覚めれば、現実と思っていた世界も夢幻と知るだろう。悟りとは真の自己——絶対不滅の存在、純粋の意識に目覚めることである」(シュリー・マハーヨーギー)。ただ目覚めればいい。この世が夢幻であるということは、そういうことを意味する。

夢は夢としては存在するし、その中でいろいろ苦闘することもある。しかし、それがどれだけ苦しかろうとも夢は夢、目覚めてしまえばもう心配ない。すべては笑い話である。

同じように、悲惨や苦悩がうごめくこの世界は夢のように実在しないものならば、それに巻き込まれ苦しむ必要はない。夢の中で起こったすべての出来事やさまざまな登場人物が、実はただ1人の人が頭の中で繰り広げていた幻であったように、絶対に変わらない不滅の存在が本当の自分だと悟り、自分や他人だと区別して思っていたすべてにとって、ただ一つの真我だけがあると悟るとき、夢幻であった苦しみもまたすべてやむのである。

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