真実の生を求めて—何のために生きるのか ④何のためでもなく、真実ゆえに生きる【後編】


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真実の悟り

覚者たちの究極の悟り

この世は夢のように実在しないものであり、「真実」であるただ1つの「真我」別の言葉でいえば「神」だけが存在するというのが、覚者たちの悟りである。

では、この世に見られる様々な苦悩や悲惨な出来事、それらもまた夢にすぎないと笑い飛ばすことができるのだろうか? すべての人、すべての動物や植物、道に転がる石に至るまで、すべてが自分自身に他ならないと感じながら、それでもそれらの苦しみを見捨てておくことができるだろうか? 苦悩する人の胸の痛み、傷つけられる動物、物言わぬゆえにないがしろにされる植物や無生物たち、それらの苦しみ悶える叫びが胸の内で響かないだろうか? すべてはこの神なるもの、一なる究極の存在、真実の自己、その様々な顕れであるというのに。

ただ真実が真実ゆえに在り、何のために生きるのでもなくなったとき、それはひるがえって、一切万物のすべての苦しみを自らの胸に引き受け、無限大の神の愛で包み込む、愛そのものの生きざまへと変貌を遂げる。それこそがブッダの慈悲、イエスの愛ではないか?

この世は神の顕れ、神の遊戯——リーラー

この幻に過ぎない世界や様々な存在、それはどこから来たのか? 一切はエゴを超えたもの、真実なる自己・神から来たものである。この世はすべてその神の夢。だがそれを夢と気づかずに苦しむ神々がいる。

この世界は捨てられるべき存在ではなく、究極の生きる意味である真実、神なるものの顕れである。一切万物は実在しない夢幻といえば、それは他者という神をないがしろにする言い訳にもなりかねない。どうせこの世は夢だからと、怠惰と無努力を正当化することもあるだろう。だがこの世はその唯一尊い存在の別の姿だと知れば、とてもそうしたエゴイスティックな思いは生まれない。

この世を夢幻(マーヤー)と見ることは、いまだ不完全な者にとっては、時に虚無的な気持ちへと陥らせる。それよりも、この世を神の顕れ、神の戯れ(リーラー)として理解すること、その方がよりエゴ意識をなくし、他者のために尽くし、そして否定ではなく肯定によって一なるものへと向かっていけることになる。そのようにして、世間への執着をなくすとともに、虚無や独善を避けることができる。

真実を生きること

ブッダは個人的な感情をなくし、心の煩悩や執着を除き去り、最後にはこの心や「私」というものさえ消滅させることを目指した。しかしその実現の暁には慈悲そのものの人になったという。

「『感情がなければ人間ではない』という考え方こそが無知です。感情というものは心の煩悩から出てくるものです。修行が深まれば感情は大きな慈悲となります。それはもはや個人的感情とは呼びません。そのエゴ的な感情を普遍的な感情にしてください」(シュリー・マハーヨーギー)

「私」と「私のもの」というエゴ意識と所有意識をなくし、普遍的な真我のために心向けるとき、すべての行為は他者のためとなり、「他者のため」という目的さえ忘れられたとき、それは慈悲となる。そこに目的はない。何のためでもない。ただ「私たちは一つだ」という真実ゆえに慈悲の行為が行なわれる。

「自分のため」を追究するギャーナ・ヨーガや、「他者のため」を徹底するカルマ・ヨーガは、真実を実現するために行なわれる実践法である。そこには目的がある。しかし、この覚者の慈悲、真実の実践には微かな動機さえもない。言うならば「真実ゆえに」それは自然に、努力や無理もなく進められていくのである。真実を生きる覚者たちの生きざまはそのようなものであった。

普遍的な真実の生

それならば、「私たちはまだ悟っていないから、真実を生きることなどできない」と言うことができるのだろうか?

真実とは悟った人だけの独占物ではないはずだ。それは常にどこででも真に実現しているからこそ、真実と呼ばれるのである。

心の過ち

一方、悟っているとかいないとか、できるとかできないとか、これらの言葉はどこからきたのか? 真実を知らない心から発せられたものに過ぎない。もしもその心の声に従い、覚者の生きざまを無視するとしたら、理性的判断はどこにあるというのか? 謙譲や尊敬はどこにあるのか? 心が限られた経験の範囲でできるとかできないとか思うこと、それこそがマーヤーの罠である。

「できないから、難しいからやらない」というのは理に適わない。自分のためを考えても、他者のためを考えても、つまるところ、ただ日々真実の完全なる実現を目指し、真実の実践、慈悲の実践をできうるかぎり行なっていくのが最上であるという結論に至るのである。他者に神を見ることなどできない、あるいは自分に神を感じることなどできないとただ嘆いたとして、いったい何が進歩するというのだろう?

「自分が弱いと思うこと、それだけが弱さだ。自分は罪人だと思うこと、それだけが罪だ。古い宗教では神を信じない者が無神論者と呼ばれた。しかし新しいこれからの宗教では自己を信じないもの、この永遠に祝福された神を信じない者が無神論者と言われるだろう」(スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ)

人や動物、さまざまな生物や無生物として顕れた神を助ける行動を起こさなければ、永遠普遍の神を信じているとは言えない。単に神学や哲学の上での真実、さらにいえば瞑想の中でだけ感じられる真実では、単なる心や感覚の対象に過ぎない。それは個人の思いや感情の範囲内である。真実はただ頭の中にあるべきものではなく、この自分と世界に顕わにされるべきものである。

真実の生を生きるために

真実を生きざまで示すこと、たとえまだうまくできなくても、完全でなくても、できうる最上の努力をもって真実を実践することが求められる。それでこそ、普遍的な真実の生を信じ、生きているといえるであろう。

ギャーナ・ヨーガもカルマ・ヨーガも、その他の様々なヨーガや宗教もその実現のためにある。それらはそれら自身が成り立つためにあるのではない。

では、それらの実践法はどこからきたのか? 覚者のあり方からきたのである。覚者は真実の自己を知っている。覚者は他者のために自らを投げ出す。覚者は何者も傷つけず、いつも平和な光を放っている。その人は貪らず、欲望を追わず、執着することがない。その境地に自分をあわせていくやり方、それが真実の生を実現するための実践法となる。

それはテクニックではなく、覚者と同じ心境であろうとすること、本当の自分であることである。覚者のあり方、生きざまに沿うことで、本当の自分を顕わにし、すべてと一つであることである。何も知らずとも、手を合わせれば自ずと心が一つになっていくように、覚者のあり方を自らの内に表していけば、それは自ずとあるべきところへといざなわれていく。私はヨーガ行者としての経験からそう感じている。

真実の生を求めて—何のために生きるのか【完】