真実の生を求めて—何のために生きるのか ②自分のために生きる【前編】


プロローグ

「何がしたいかやない、何が真実かや!」シュリー・マハーヨーギーは強い口調でこう言われた。

「自分の理想を見つけるように」と言われていた私は、本当に自分が何をしたいのか、自分にとって理想的な状態は何なのか考えようとしていた。しかし自分が何を望んでいるのか、強い気持ちを見出すことはできない。自分にとって理想とはいったい何なのか? 答えが出せないまま、「自分が何をしたいのか分かりません」と打ち明けていた。

シュリー・マハーヨーギーは、それを聞くとすぐさまそう突っぱねて、そして続けられた。「理想というのは、何がしたいとかそういうことじゃない。真実——これこそが理想なの。これはもう私たち自身の存在に関わることだからね」

「自分がしたいこと」から「自分」そのものへ

前回は、自分が何をしたいのか分からない、自分をつかめない、ということに対して、何がその原因なのか、どうしたらそれを解決できるのかを考えてみた。「何をすべきか」ということ以前に「自分が何をしたいのか」すら分からなければどうにもならない。

しかし「自分は金持ちになりたい」「人からうらやまれるようになりたい」といった欲望を見つけたとして、それが「自分をつかむ」ということになるだろうか? その欲望さえも、結局他者に操られているだけに過ぎないのではないだろうか? そんな欲望にただ従うだけならば、「自分らしい」と思いながら、どんどんと自分ではない存在になって、抜け殻の自分になってしまう。本当に分かりたい自分、つかみたい自分というのは、そんなものではないはずだ。

こうして考えていくと、自分の中にも、自分でない“他者”(異物・不純物)があり、そしてそれではない、より純粋な本当の自分というものがあると分かってくる。その純粋な自分、本当の自分とは何なのか、それを学び探求しながら、「本当に自分のためとはどういうことなのか」を考えていきたい。

2つの「自分」—①エゴ

真実を悟ったと言われるブッダやヨーギー(ヨーガ行者)たちは、「自分」というものをはっきりと2つに分けた。それは苦しみの原因となる「エゴ」と、永遠不滅の「真我」である。

エゴにとっての「自分」と「他人」

エゴとは、個々別々の肉体や心を自分だと思っている意識のことをいう。そこでは、痛いとか、かゆいとかの感覚が分かる体だけを「自分」だと思い、また嬉しいとか悲しいとかの感情が分かる心だけを「自分」だと思っている。そして直接に感じられない、よく分からない肉体や心は「自分」でないもの=「他人」だと判断している。

そこから派生して、「自分」であるその肉体が持つ感覚や力や様々な所有物、そして心が持つ様々な思い、それらを「自分のもの」としている。私たちが普段自分自身だと感じているのは、このエゴである。そして、「エゴはなくなるはずがない、この個別の自分が充実することこそが自分のためになる」とそう思っている。

永遠ではない「自分のもの」への執着

しかし、ブッダやヨーギーたちはそれに疑問を持った。たとえたくさんの財宝を持っていても、永遠に所有することはできない。死ぬときには、家畜が屠殺場に引っ張られていくように、嫌でもその所有物から引き離されてしまう。

この体や心、色々な思い出とか、トロフィーや賞状、自慢の力、美貌や健康……それらを留め置くことはできない。それは過ぎ去るもの、もしくはもうすでに過ぎ去ったものである。しかし、私たちはそれにしがみついてしまう。放すまいとしっかり握り締めることで、手を開くのが難しくなる。手をただ開いていることは何の力も努力も必要としないが、「放したくない、なくしたくない」という思いがそれを妨げる。

不安や苦悩、恐怖の原因はすべてエゴ意識にある

うまくいかなくて悩むこと、失敗するんじゃないかと不安になること、何とかいい思いをしたくて他人に卑劣なことをしてしまうこと、およそ苦悩と言われるものは、この「自分」と「自分のもの」への執着から出ている——そのように覚者たちは看破した。このエゴをなくすことエゴから出る所有意識をなくすこと、それが決して壊れることのない平安への道だと気づいたのである。

だがそれは自殺とは違う。自殺志願者は自分の生に対する執着が非常に強いのである。「この人生はうまくいかない。もっといい人生を送りたいのに……。こんなことなら死んだほうがましだ」と、生への執着から彼らは死を選ぶ。

生きる苦悩も死の恐怖も、このエゴによる執着のなせるわざである。苦悩や恐怖は、周りの状況に原因があるのではなくて、「自分」や「自分のもの」への執着、そしてその執着の中心となるエゴ意識に原因がある。

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