真実の生を求めて—何のために生きるのか ②自分のために生きる【後編】


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2つの「自分」―②真我

「自分」とは誰なのか?

ブッダは「自分」というものを次のように考えていった——「この体は自分ではない。というのも、この体が本当に自分なら、『病気にならないでおこう、健康でいよう』と思えば、そうできるはずだからである。しかし、現実にはそうではない」

これと同じようにして、ブッダは体も感覚も心も、そして積み上げられてきた人格や、「私だ」という意識でさえも、本当の自分自身ではないと結論した。それらはままならない、手に負えないようなもの、変わってしまうものである。そのように不自由で変わりゆくものは、自分とはいえないと見なしたのである。

私たちは、昨日も今日も、そして10年前も10年後も、同じ「自分」だと言う。しかし考えることも感じることも、姿かたちもひとときだって同じではない。それでも決して変わらない自分があるとすれば、それはいったい何なのか? そう考えて、ブッダもヨーギーたちも深い自己探求へと旅立っていった。

真我の体験

そして、体や心などを「自分ではない」と消極的に否定するだけではなく、「これこそは真の自己である」と積極的な真実を体験した。エゴが消えたニルヴァーナ(涅槃)あるいは真我の実現と呼ばれる体験である。

真の自己は他者と区別されるような個別のものではない。それは「一つである」という境地である。「私」と「あなた」という主体と客体の区別が存在しないところ、同情が「同一の情をもつ」という文字通りの意味であるところ。「私」とか「あなた」とか「世界」とか呼ばれて別々で存在するかのようなものが、すべて一つである、ただ一つの「自分」である。

ブッダは慈悲と平等を説いた。それは、それぞれの存在が価値として等しいというだけでなく、すべてが同じだから、すべてが自分自身だから、それだから一切が愛おしく、慈悲と感謝をもって応じざるをえない、ということである。個別のエゴ意識を抜け出し、彼らは永遠で崩れ落ちることのない真我を発見した。

私たち自身の真実

それはブッダやヨーギーたちだけのことではない。一切がそれである。それでないものはない。それはどこにでも遍満している——私たちの中にも。それは時を超えて永遠である。それは今ここにある真実である。

私たちはただそれに気づけばいい。小さなエゴを自分だと思っている無知から解放され、本来の自分に目覚めればいい。太陽をひととき覆い隠してしまう雲——それに実体はない。それはできては流れ去るもの。雲が太陽を覆ったとて、太陽はいつも燦然と輝いている。真我は在る。ただそれを覆い隠しているかのように見える、無知のヴェールを払い落とせばいいだけなのだ。

自分のために本当にすべきこと

ブッダやヨーギーたちは、心というもの、エゴというものを非常に客観的に扱った。そしてエゴには依存せず、常に真我であろうと修行し、それを実現した。悟りに目覚めたのちは、人々を苦悩から解放し、平安を与えるためにひたすら働き続けた。苦悩から解放され、平安に至ること——それはエゴ意識をなくし、真我に目覚めることである。それを学び、理解し、実現することが、本当に自分のためにすべきことである。

エゴを超えるためのグルの必要

「何がしたいではなく、何が真実か」——それを問うことが目覚めをもたらす。何かをしたいと思うとき、それはエゴが思っているのか、真我からでているのか? それを判別することは難しい。「慈悲」とか「同情」といっても、他人を蔑むのに使われている場合もある。エゴはエゴで判断できない。

たとえ、他者に依存せず、真我の探求をする知者であっても、是非ともグル(霊性の師)が必要だとされるのはそのためである。修行者にはまだエゴ意識が残っている。それを打ち砕くのは真実のみ、真実を実現した覚者のみである。「自分の力だけで悟りたい」というのは、エゴからでているのか、真実からでているのか? その「自分」を識別しなくてはならない。

本当の自分がしたいこと

エゴからでた「したいこと」は人を平安へと導かない。それは「苦を楽と取り違えている無知」である。以前に紹介した「したいことをしなければ、したいことができるようになる」というシュリー・マハーヨーギーの言葉は、この平安へと導くことを考えてのものだろう。

「したい」と思うエゴを制御することで、それに覆い隠されていた真我が現れ出る。そしてそれこそが本当の自分なのだと実感すれば、本当にしたいことができるようになってくる。

苦悩が消滅し、本当の自分に目覚めること——それこそが求めていたものだと確信し、「したいこと」と「すべきこと」と真実の三つが一致してくる。それは最高の喜びである。ただ自分がしたいと思うだけ、という根なし草ではない。確固とした根拠をもち、それでいて固定的なイデオロギーでもない、その空(くう)なる真実に安住するのである。

真実の悟りとそこから生まれる行為

真我のための行為

「本当の自分とは誰なのか」を探求していくことで、個別のエゴは自分ではなく、永遠普遍の一者こそが本当の自分であるとブッダやヨーギーたちは悟った。

そしてその真我のための行為を行ない、人々にもそれをしていくよう導いた。その行為とは、無執着で淡々と物事を行なうこと、他者のために献身奉仕すること、つまり、一なる真我のみを愛し、すべてをその顕れであると見て慈悲をもってすべてに対することであった。

愛と道徳

ここに愛と道徳が生まれた。

愛は個人的感情を超えたところにある。愛したいとか愛したくないとかいう選り好みはエゴからでていて本当の愛ではない。愛は「われわれは一つである」という真実ゆえに生まれるのである。

そして道徳もまた真実から生まれる。それは自分自身を愛するがゆえの行為である。真我を愛すれば、それを妨げるエゴを取り除こうとする。そして真我の顕れである他者を愛そうとする。エゴからでる欲求を押さえて他者を優先的に扱うことは、自分のためになり、他者のためになり、そして真我・真実のためになる。

これをはっきりと理解することで、本当に自分からやりたいと思って道徳も慈悲も愛も行なうことができる。

「自分のため」から「他者のため」へ

「本当の自分とは誰なのか」「本当に自分のためとはどういうことなのか」と問い詰めた先は、「何がしたいかではなく、何が真実か」「自分のためではなく、他者のため」というところに至る。こうして「自分のため」は究まって、「他者のため」へと移っていく。

「自分のため」をかえりみず、淡々と物事を行なうにはどうしたらよいのか? そして物事に巻き込まれないというだけでなく、積極的に他者に奉仕していくにはどうしたらよいのか? 次回は、自分のためではなく、本当に他者のためとはどういうことかについて考えていきたい。

③他者のために生きる→