プラナヴァ・サーラ

サットグル・シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサの教えの精髄(サーラ)。
プラナヴァ、即ち聖音オームは、無上の存在(神)であり、始原のグルであるイーシュヴァラを表す。

1996年から98年にかけて師が渡米された際に綴られた日々の記録。ニューヨークの人々の心に霊的感動をもたらしたシュリー・マハーヨーギーのダルシャン(聖なる一瞥)とプラナヴァ(真理の言葉)の精髄が、臨場感溢れる筆致で見事に描かれている。

2,570円(税込)
B6変形判 320頁

完売しました

プラナヴァ・サーラ

 

本文より抜粋

1998年9月17日(木曜日) ニューヨークにて

今夜も多くの弟子たちがやって来た。小さなケーヴはまるで維摩の物語を彷彿とさせる、あるいはシュリー・ラーマクリシュナのドッキネッショルか――。サリーアン、ドリッティ、プリヤー、ジャッキー、アルジュナ、ダン、マルカス、ゴパール、グアンとマーク父娘、マイケルそしてジョディ。今回のヨギのNYご滞在からアーサナ瞑想クラスに通い始めていたジョディがケーヴを訪れるのは、これが初めてだった。

訪問者たちは次々にヨギの座っておられる祭壇の部屋に通され、礼拝してから席に着く。このところヨギはずっとサンニヤーシン色の衣を装われている。優雅でいてかつ勇壮な、何とも美しいお姿である。シカゴのプレームが奉納した羊の皮にシッダ・アーサナを組んで座られている。サットサンガの行なわれている間、ヨギが足を崩されることは一度もない。
ヨギを前にして今日も皆言葉をなくしている。唯々ヨギから溢れる神性に魅了されているのだ。ヨギはその瞳――無限の愛の泉――で一人ひとりを見つめ祝福をお与えになっている。

ジョディ「質問していいですか。なぜ私たちはこの地上にいるのですか」
ヨギ「かつてアートマンだけがあった。アートマンというのは純粋な存在――永遠の存在、真実――それだけがありました。アートマンは楽しむために自らを二つに分けた。そこに男と女が生まれ、万物が生まれた。私たちがなぜこの地上にいるかという疑問はとても大切な問題です――なぜなら『私たちは誰なのか』を問いかけているからです。本当の私というのは誰なのか。私たちがこの世界で物質的な成功や幸せだけを追いかけているのならば、それはその心が望むものの支配下におかれる。そう、私というものはなくなり、その奴隷になっていきます。
この世の経験は、幸せの陰には不幸があり、成功の陰には失敗があり、あらゆるものは善も悪も全部その一つの物事の裏表です。私たちは真実とは何かを見つけなければならないのです。その幸福や不幸によって『私』が変わるものではないのです。二元性を正しく理解することができれば、もうそれに巻き込まれて隷属させられることはない。そしてこの世界における現象としての経験が、たとえ喜びを与えようが苦しみを与えようが、もうそれには巻き込まれない――なぜなら自分というのはそれらを知っている、ただ観ている純粋な意識なのです。それが最初に出てきたアートマンです。つまり私たちは皆アートマンなのです。アートマンというのは真実――それは普遍のものです。私たちがこの地上にいる理由は苦しむためではなく、幸福に溺れるためにではなく、ただ遊ぶためです――楽しむために」

ジョディ「真実、真我をどのように真剣に探し求めればよいのですか――感覚や現象世界の誘惑に執らわれることなく」
ヨギ「真実はここに今あります。でもそれを心の動きが邪魔をしているようなものです。『静まりて我神なるを知れ』その静まるための方法がヨーガです。アーサナによって体を静止させる。すると呼吸が静まってくる。それは心の静止をもたらします。そのときあなたは自分自身を悟るでしょう。それには正しい教えを学び、考え、瞑想してください」
ヨギの目の前に座っているジョディは、ヨギのお言葉を一言も書き漏らすまいと彼女のノートに自主的に筆記を始めた。

ジョディ「信念についての質問です。ある人たちは、『自ら真理を見つけることができる』というあたかも与えられたかのような強い信念を持っています。私は『真理を求める』という探求心を与えられていると思いますが、『真理を見つける』という信念ではありません――頭では分かっていても」
ヨギ「それは吉祥な縁によります。確かに誰もが悟りへの、真実への思いや憧れを持っているに違いありません。私たち自身がそれなのですから。でも花も、その季節と場所という縁が結ばれたときに花開くのです。そのように霊的な信仰が大きく芽生えるというのは霊的な縁を原因としています」
ジョディ「それはいつですか」
ヨギ「それは養っていくことによって生まれます。養っていくということは真理を学び努力していくということです」

サリーアン「マハヨギ、私には真理への、聖なる合一への渇望があります。そしてそれに対する恐れと拒否もあります。渇望は大きいけれど、その恐れが私を引き戻してしまう。恐れの性質について説明していただけますか」
ヨギ「恐れというのは心が思っている何かを失うとき、あるいは心の思っていることが実現しない、裏切られるときに生じる。別の言い方をすれば、心は常に何かを所有しています――それを守ろうとするのです。悟りというのは何ものも失うものはないし、得るものもないでしょう。あなたの前にあったものは悟りが実現してもそのままあるかもしれない。でもそこには現象という執着だけがなくなっている」
サリーアン「もう一度説明してください」
ヨギ「心は自立できません。そのために常に何かを所有したがっている。『私は何々である、誰々である』『これを持っている、あれを持っている』『これができる、あれができる』『知恵がある、力がある』。何であれ心はそういうものであってしか成立しないのです。『悟り』ということを聞くときに心はそれらを失う恐怖に執らわれてしまいます。心は防衛をしようとしているわけです――それが恐れとして感じられるのです」

ジョディ「何がしたいのか見つけようとしています。仕事ですが、何をどうすることが私を満たすのか、そして私の目的を探しています。仕事はよくやれると思いますが、一体何をしたいのかを知らずにやっているという不安があります。自分のやりたくないことをやってそれらを越えていこうともしていますが、何か間違ったところに身をおいているような気もします。どうすれば自分は一体何がしたいのかを見つけることができるのか、アドヴァイスをしていただけますか」
ヨギ「仕事や生活の状況がどうであれ、それらは人生の中では変化します。だからそれらにあまりこだわりを持つ必要はない。大事なのは『実存』を実現すること。これが人生の本当の仕事です」
ジョディ「『他者の喜びのために自分自身を犠牲にする』ということを、もう少し具体的に話していただけますか」
ヨギ「苦しみというのはいつの世の中にもあります。現在もまたいろんな苦しみを抱えている人たちは多い。そういう人たちに奉仕する。自分の持てる能力を差し出す――何でもいいです。それが自己犠牲です」

サリーアン「三つ質問があります。マハヨギはこの時期、人類に対して何を願われていますか」
ヨギ「一人でも多くの人が真実を実現することです」
サリーアン「そのお答えには、次の質問をする必要がないかもしれませんが、マハヨギはこの時期、サンガに対して何を願われていますか」
ヨギ「今と同じことです」
サリーアン「マハヨギがこの時期、ご自身に対して願われることは」
ヨギ「私は自分自身に対しては何もありません。……ただ、正しい奉仕ができますように」
彼女は目を閉じ、ヨギに向かって合掌した。

ジョディ「一瞬一瞬私たちは選択をしていますよね。『真実に従う』『真実を探す』『真実、その光に向かっていく』。具体的な毎日の生活の中では、例えばそれは直感に従うというようなことですか」
ヨギ「そうです。いろいろな物事に対する執らわれが『有る』か『無い』かがそこで気づかされます。執らわれなく進んでいけば真実の方へ進んでいくでしょう。執着がなくても様々なことはできます。むしろその方が楽にできますよ。その結果がうまくいこうがいくまいが、ただベストを尽くせば良いわけですから。これが仕事の秘訣かもしれません」
グアン「『無執着』に対しても執着してしまうのではないですか」
ヨギ「それは最初の訓練のうちだけです。執着する原因は心の中にありますから。だから心の中の原因を取り除くことによって早くできます」
マーク「いつもここで混乱してしまうので明瞭にしておきたいのですが、『無執着でいる』というのは感情がまったくないというわけではありませんよね。感情があっても感情に執着しないということですよね。感情がなければ人間ではないですから」
ヨギ「『感情がなければ人間ではない』という考え方こそが無知です」
マーク「おっしゃることは分かります。でも賛同できません」
ヨギ「感情というものは心の煩悩から出てくるものです。修行が深まれば感情は大きな慈悲となります。それはもはや個人的感情とは呼びません。そのエゴ的な感情を普遍的な感情にしてください。それなら同意するでしょう」
マーク「はい、完全に」

ジョディ「もしも私たちが完全に悟ったなら、私たちはまた肉体を有して戻ってくるのですか」
ヨギ「ええ、きっと戻ってくるでしょう――今度は人々を導くために」
ジョディ「悟りを啓いた後も苦悩を経験するのですか」
ヨギ「それを経験しません――ただそれを知ることはできます」
しばらく沈黙が続く。その間けたたましくサイレンを鳴らし消防車が通り過ぎていくが、皆の心はヨギに釘づけになっていて、何もこの神聖なヴァイブレーションを妨げることはできない――沼に咲く蓮が泥を寄せつけないように。聖と俗、静と動があるがままに存在し、そして一つに結びつけられている。
ヨギは続けられた――
「悟りというのは決して特別な知恵や力を獲得することではありません。そうではなく、心に詰め込んだ無駄な知識をすべて手放すだけです。そう、心を透明にする。本当に素っ裸になることなんですよ」

ジョディ「瞑想について、どうすればよいのかお話ください」
ヨギ「この世界に対して、『永遠のものではない』ことを理解すること。そしてそれに執らわれないようにすること。真実――聖典や覚者の言葉――を学び、それについて考え、集中していく」
ジョディ「一つの言葉とか一つの文を選んでそうすればいいのですか」
ヨギ「『自分とは誰なのか』これが一番いい――もしくは覚者の心に瞑想してください。最も尊敬できる覚者のイメージを目の前に、心の中に常に置くことです。初めはその姿に集中していきます。次第にその姿ではなく覚者の心そのものにあなたは触れることができます」
サリーアン「それはチベット仏教ではグル・ヨーガと言われています」
ヨギ「そうです、チベット仏教はヨーガから伝えられていますから。また、禅は通常、偶像を好みません。ところが彼らは偉大なるバクタです。なぜなら彼らの理想の覚者はブッダでありボーディ・ダルマであります。もちろんそれらの外見は絵に描かれたものにすぎません――イエス・キリストと同じように。それでも彼らの本質は真実そのものなのです。だからこそ瞑想をすべきなのです。だからこそ正しい覚者を取り上げなければなりません」
ジョディ「どうやって選べばいいのですか」
ヨギ「素直に自分の最も尊敬できる覚者でかまいません」
ダン「ブッダの心とキリストの心、マハヨギの心、老子の心、ラーマクリシュナの心は同じですか。彼らは一つですか。私たちが一つを選べばそれはすべてを選択することですか」
ヨギ(英語で)「ええ、そしてまたあなた自身。その通りです」

ダン「貴方の不在の間、どのように貴方にお聞きすることができるのですか」
ヨギ「週に一度くらい、ここで瞑想をしてください。この体はいなくともハートを残しておきます。もちろん家では毎日してくださいね。来年できるだけ早くまた来たいと思います」
サリーアン「マハヨギ、私が現在関わっている仕事には多くの庇護が必要です――ダルマを内容としています」
ヨギは彼女の方を向き、目を閉じて合掌された。
ヨギ「私たちのできることがあれば何でもする」
サリーアン「ありがとうございます。これをお受け取りください」
彼女はヨギに、映画化される『PURE HEART ENLIGHTENED MIND』という本を差し出した。
サリーアン「そろそろおいとまをしなければいけません」
彼女は丁寧に礼をしてヨギの面前を辞した。そして皆後に続いた。
皆が帰った後、ヨギはジョディの真剣さをお褒めになった。アーサナ瞑想クラスにはしばらく前から熱心に参加していたが、この日初めてケーヴを訪れた彼女はヨギの正面の席に着き、すべての教えを漏らすまいとペンを走らせていた。こちらのメンバーで自主的にそれをやり始めた人は、彼女をおいてまだいない。