置かれた場所で真剣に生きる


昨年春頃に購入した観葉植物。

室内で育てる予定でしたが、数週間経つと土の表面にカビが生えてきたのに気付きました。お花屋さんから寒さに弱い品種なので冬が来るまでは屋外に置いた方が良いと教わり、ベランダに移動。それからはカビが生えることもなく夏の暑さにも負けずすくすくと育ちました。

そして冬の気配が色濃くなってきた頃、室内に戻しました。

植物は土に根を張り生きていくので、環境の変化にはとても弱いのだとお花屋さんから常々聞いていた通り、室内に移動した翌日からどんどん落葉し始めました。再度相談したら、環境に対応するためにある程度葉が落ちたら自然に止まるので、何もせずもう少し待ってみるようにとのこと。

しばらく観察しているとほとんど葉が落ちなくなり、「もう大丈夫」と植物が全身で伝えてくれているような気がしました。

 

 

 

ふと、『ラーマクリシュナの福音』の中の話を思い出しました。

“風の中の落葉のようにこの世に生きなさい。そのような葉はあるときは家の中に、ごみの山に吹きやられる。木の葉は風の吹くままに飛んで行く…ときには良い場所に、ときには悪い場所に。いまや神がお前をこの世におおきになったのだ。けっこうなことだ。ここにいなさい。また、彼がお前を持ち上げてもっと良い場所に置いてくださったら、今度はどうしようかそのときに考えても十分に間に合うことだ。

神がお前をこの世に置いてくださったのだ。そのことについてお前に何ができるのだ。彼にすべてをお任せしなさい。彼の足下に自分をささげきりなさい。そうすればもう困ることはない。そうしたらいっさいのことを行うのは神だ、と悟るだろう。”

 

置かれた場所で生きる。自分はなぜこんな状況にあるのだろうと葛藤していた頃、この言葉を自身に言い聞かせていました。感情的にならないようにただ淡々と目の前にあることを行うよう意識していたら、いつしか葛藤は消えていきました。それから随分経った今、かつての葛藤が完全に消えていないこと、その原因として根強く残っている執着があることに気付きました。置かれた場所で生きる、ということを今一度考える状況になりました。

この言葉に対するかつての私のイメージは消極的なもので、置かれた場所で生きるしかない、と思っていました。それは間違いで、本当はただそこに自分が在る、という事実があるだけ。そこに一切の思いは関係ありません。

神にすべてをお任せして自らを捧げるというのは、とてもシンプルで力強いことです。少しでも消極的な思いがあったらできません。私に何ができるのだろうかとつい考えてしまうのは、すべてを神に任せられていないということでもあり、神を信用できていないとも言えると思います。

どんな状況でも環境でも真理は実現できる。なぜならすでにそれは私たちの中にあるから。それだけを信じて置かれた場所で真剣に生きたい。切にそう願います。

ハルシャニー


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