聖典を味わう


ヨーガに出会って初めて聖典と呼ばれる本を知りました。

日常的に行うべきヨーガをクリヤー・ヨーガといいますが、その1つに聖典の学習が挙げられていることからも、ヨーガの実践において特に必要な学びとされています。

※クリヤー・ヨーガにおいて実践すべきこととして3つのことが挙げられています。

①心の不浄を取り除く熱になる苦行(アーサナや瞑想など)

②聖典の学び(過去に存在した覚者や真理について書かれている書物)

③至高の存在に心をゆだねること

聖典と聞くとなんとなく敷居が高いように感じます。目にする言葉も初めは慣れないものばかりで、その意味を注釈などで調べながら読んでいると肝心の内容が楽しめなくなったりもします。

聖典は理解しようとして読むものではなく、味わうもの。一言一句間違いなく記憶したとしても、そこに書き記されている真理、それに向かっていく熱のようなものを感じ取ることができなければ意味がありません。

開いた聖典の中に自分の胸に響く言葉が1つでもあれば、それが勇気を与えてくれて、真理の道を歩む力となるのです。

 

 

私の場合は最初は勢いだけで手当たり次第に聖典を読んでいたので、再読して初めてその素晴らしさに気づくことがほとんどでした。何度も手に取り読み返してもその度に新たな発見があったり感動が味わえたりするのも、聖典の学習の醍醐味だと思います。

 

数ある聖典の中でも、特別分厚くて存在感を放っていたのが、『ラーマクリシュナの福音』です。

同じくらいの分厚さの『あるヨギの自叙伝』(パラマハンサ・ヨーガナンダが書かれた自叙伝)は面白くて一気に読み進められましたが、『ラーマクリシュナの福音』は表紙のお写真を見て、少し近寄りがたいような印象を受け、手に取らないままとなっていました。

 

 

まずラーマクリシュナの奥様であるサーラダーデーヴィーやラーマクリシュナの直弟子たちの聖典を読みました。

サーラダーデーヴィーには親しみを感じるけれどラーマクリシュナは遠い存在に感じる、と当時ヨギさんにお話ししたことがあります。ヨギさんは、ラーマクリシュナは自分が神であることを隠しきれなかったとおっしゃいました。

それがどういうことなのかその時は分かりませんでした。でもその言葉をきっかけにラーマクリシュナに興味を持ち、ラーマクリシュナご自身について書かれてある聖典を読み始め、少しずつラーマクリシュナの人柄に親しみを感じるようになっていきました。過去の出来事を記したものを読んでいるだけなのに、まるで自分に向かって言われた言葉のように感じたり、ラーマクリシュナのサンガの中にいるような感覚になったこともあります。

 

今週末開催される「サナータナ・ダルマ アヴァターラ メーラー 神性示現大祭」では、ラーマクリシュナの魂に迫る、ということもあり、再び『ラーマクリシュナの福音』を最初からじっくり味わいながら読み進めています。

ラーマクリシュナと彼の下に集まってくる人たちとの対話。文中に幾度も登場する、キールタンを歌い踊る場面。子どものように無邪気であり、繊細でもあり、大胆でもある。その魅力は計り知れません。

初めて読んだときはどこか絵空事のように感じていた『ラーマクリシュナの福音』の世界が、今は確かに現実に起こったこととしか思えなくなりました。

 

神であることを隠しきれなかったラーマクリシュナ。

私の中でラーマクリシュナの存在感は日に日に大きくなり、それは同時に私の師であるヨギさんの存在をより大きく感じさせてくれるようにもなっています。

『バガヴァット・ギーター』の一節に、『正義、もしくは宗教が疎んじられ、不徳がはびこる時、私は自らを顕す。悪を滅ぼすために』とあります。

19世紀のインドや現代の日本だけでなく、いつの時代も永遠で完全な存在であるアヴァターラが顕れて、多くの魂を救い続けてくださっています。それがどんなに稀有で吉祥なことなのか。

歓びとともに精一杯の感謝を込めて、祝祭を迎えたいと思います。

 

ハルシャニー


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