アヒンサー(非暴力)に徹する


ヨーガには八支分という教えがあります。
(八部門のヨーガともいいます。詳しく知りたい方はこちらをご覧ください​​。​http://www.mahayogi.org/tokyo/yoga/yoga-asana-and-meditation/

 

ハ支分の中の一つ、”ヤマ(禁戒)​”は他者のために行うことです。

ヤマ=禁戒=してはいけないこと。
「〜しましょう」という表現は前向きに​​​感じられますが、「〜してはいけない」という表現はなんとなく重く感じます。

ヤマについて書かれた文章を読むと、他者のための行為であり、人として当然のことでもあり、とても大切なことだと理解はしました。ただプレッシャーを感じ​​るというか、自分にはとてもできないかもという思​ったこともありました。

 

ここしばらく、ヤマの中の一つ、「アヒンサー」について考えていました。
「アヒンサー」は日本語では非暴力、不殺生と訳され、他者を傷つけないという意味があります。

すべての生命は等しく​尊い。それをむやみに傷つけたり奪ったりする権利は、​何者にも​ありません。

ヨーガでは、人を傷付けるようなことを心の中で思うのと行為するのは同じだと考えます。
心の中に一瞬でも、ほんの少しだったとしても、他者を傷付ける可能性がある思いが湧いてもいけない。いつ何時、誰かがどんな理不尽なことをしたり言ってきたとしても、アヒンサーに徹する。

行為のみならず、心の中で思うのもやめるべきことだと確かに知っているけれど、それに徹​​することができているだろうか?
人を傷付けるような思いが微塵もないと言い切れるだろうか?
自分自身に問うてみると、自信を持って「できています」と言えない私がいました。

 

​では、アヒンサーに徹するためには何が必要なのか?

ヨーガ・スートラの中に、アヒンサーについて書かれた一文があります。
「アヒンサー(​​非暴力)​​に徹した者のそばでは、すべての敵対が止む」
すべての敵対が止む=平和、円満な状態、ということです。

「〜してはいけない」「〜ねばならない」という意識を持ってアヒンサーに徹しようとしたところで、「すべての敵対が止む」ほどの円満さが生まれるのだろうか?
答えは否、です。
それには、他者に対する「愛」が不可欠です。
すべての敵対が止むほどの円満さは、愛、慈悲心があってこそ可能となります。

他者を愛する、思いやるということは、何かにつけて耳にしてきたし子供の頃から教わってきたことです。
通常は、あなたを愛しているから私のことも愛してほしい、などという見返りを求めてしまいがちですが、状況や条件に関わらずただ愛する、ということが本当の愛と呼べるものです。

 

 

戒律として伝えられてきたことだから守るべき、という考えでは、アヒンサーに徹することは難しいと思います。
「​私はそれを守らなければならない」と意識することは自分が自分のためにする行為であり、他者のための行為からは遠い気がします。​​
そのような思いすらない、とらわれのない自由な自分でいることができれば、自然と自分よりも他者​のことを考えられるようになる。それはただ愛すること​につながっていきます。
他者への​愛で満たされたとしたら、傷付けるようなことはとてもできないでしょう。
それがアヒンサーに徹することなのだと思いました。

 

世の中では小さいことも大きなことも、諍いや争いが絶え間なく起こり続けます。
アヒンサーに徹した人が少しずつでも増えれば、あちこちで敵対が止むことは起こり得ると思います。
私もその1人になりたいです。

 

ハルシャニー


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です