自由と幸福

––学生の頃は早く社会に出て一人暮らしをして自由になりたい、社会に出たら会社から逃げ出して自由になりたい、結婚をして幸せな家庭を築きたい、また病気になると健康になりたいとか……、常に自由に、幸せになりたいと思っていました。なぜ人はそのように望んでしまうのですか。

ヨーギー「ほとんど本能に近いかたちで、誰もが自由や幸せを望んでいますね。それは食欲や性欲、生存欲などあらゆる本能化してしまっているものと、それの原動力のような力でもって、心の根底に宿っているようなものだと思われます。学生は学生なりに、社会に出れば社会人なりに、さまざまに環境が変わる中での、さらなる自由とさらなる幸せを追求してしまう性分は、そのあたりから欲望的なにおいが強くなっていくのかもしれません。そう考えてみると、結果として欲望的な探求、追求になっていったものは、個々人によって求める対象は違うかもしれないけれど、原理としては、自由と幸福というものを目指しているに違いないです。

確かに人間という、動物と変わらない生理的な状況をもった存在は、服も着ないと寒い時はやっていけないし、食べ物も食べないと命をつなぐこともできないし、食欲やその他のことも必然的に求めなければいけないものもあるとは思います。でも、そこから心がどんどんその自由と幸福に衣を着せていくようになって、ゴージャスな着物であるとかグルメであるとか、さまざまな分厚いものを着込んでいくことで欲望が膨れ上がっていく。
それでもきりがなくて、結局のところ、心が膨らませた夢に自分自身が押しつぶされてしまう結果になることが多いと思います。物理的にも一生そういった状況を維持できる保証はないし、また心の面でもそれらが失われるという不安や悩みも尽きません。
これは少し冷徹な見方をすれば、求める方向が違っていたというふうに見ることができます。病気の時は健康を欲しがる、健康が宝物のように見えます。でも健康な時には、健康のことは全く無頓着、誰も宝物だとも思わない、気にもしないぐらいです。その時が本当は健康なのにね。それと同じように自由と幸福というものも、心が何かそういうものを求めているというのは病気なのかもしれません(笑)。そういうものを求めないでいられたら、そこに健康、つまり本来の自由と幸せがすでに在るのかもしれません。
ヨーガはそのような事柄も考えて、できるだけ理想的な答えを見いだそうとしてきましたし、それから心のもっと奥にある魂のような本性、各自の本質というところに触れることによって、そこに本当の自由と幸福がすでに在るということを見つけることができました。あれやこれや思い煩うことのない単純な状態、それが心にとっての自然で健康な状態であるし、自由と幸福もそこに在るというふうに見られるようになりました」

2005.1.10 大阪