神の遊戯––純粋な歓び

ヨーギー「アートマンを表す言葉に、サット・チット・アーナンダという言葉があります。サットというのは存在、唯一リアリティの実存のことです。また真実という意味もあります。それが実在しているから真実なわけです。真実だから存在しているということになる。だから真実と存在というのは同義語なのです。それを知っているのは、意識が知っているわけです。それがチットなのです。それが私たちのすべての心を知っている、心の背後にある純粋な意識です。
そしてアーナンダは至福というふうに訳されます。これも純粋な、尽きることのない歓びの意味です。それは存在であり真実である、それが自らである、すべてであるということを知るがゆえに歓びなのです。それがアーナンダです。これは快楽とは全く異なるものです。

そしてもう一つの教えに――かつてアートマンは独りでいた。アートマンだけしかないわけですから、まだこの天地が生まれる前、宇宙が開闢(かいびゃく)する前からアートマンは独りでいた。だけど独りでは楽しむことができなかったので、アートマンは自らを二つに分けた。アートマンはちょうど男女が抱き合ったような形であった。そこに男と女が生まれ、そしてすべての種(しゅ)という万物が生まれることになり、この宇宙が形あるものとして始まったと―。ここにヒントがあって、サット・チット・アーナンダという歓びそのものであるアートマン自身が楽しむために、この宇宙、万物に顕れているということなのです。これが真理、真実から見た世界の実相です。

しかしそれにもかかわらず、歓びの中に生きている人、万物はあまりにも少ない。どうしてこんなに苦しみや悲しみが、そして悲惨なことがこの世に多すぎるのか。この原因を探っていくとカルマであり、カルマをつくり出した欲望への執着であり、煩悩といわれる無知を根源とした間違った思いが醜い世界を展開してしまっている。だから間違いを原因として展開されている世界の様相というのは、間違いを正すことによって歓喜に満ちた世界になるはずなのです。

まさに神自らが万物に顕れて遊び戯れているというリーラーです。そこでは歓びのための歓びの営みが行なわれているだけであって、仕事の優劣もなければ幸福や不幸の優劣も何もない。ただそこに在るのは、純粋な歓びだけです」

2012.4.14