投稿者「ダルミニー」のアーカイブ

ラーマクリシュナの福音

みなさん、こんにちは
早いものでもう9月ですね。先日、クラスの交流会がありましたが、同じ志をもつ仲間たちが集まり、いろいろな話をすることがお互いの励みとなり、活力となって、ヨーガを楽しく学んでいく機会になりました。今はアーサナや瞑想の実践がしやすい季節でもありますので、さらに深めていきたいものですね。

さて今日は「ラーマクリシュナの福音」より、その教えをご紹介します。

ある日の日曜日、今日も大勢の信者たちがシュリー・ラーマクリシュナの自室に集まっています。彼らの中に一人の新米者、コンナバムから来たサーダカ(修行者)がいた。彼は五十歳を越しているようにみえ、学識について非常なうぬぼれを抱いているように見えた。修行者は顎を天井に向け、身体を直立させて坐っていた。
修行者「師よ、何が道ですか」
ラーマクリシュナ「グルの言葉への信頼だ。人は一歩一歩、グルの指示に従って進むことによって神に達するのだ。糸をたぐっていって目標に達するようなものだ」
修行者「神を見ることはできるのですか」
ラーマクリシュナ「彼は、俗事に没頭している心では知ることはできない。兎の毛ほどでも、『女と金』への執着があったら神に達することはできない。だが、彼は浄らかな心と浄らかな知性、執着の影すらない心と知性によって知ることはできる。純粋な心と純粋な知性と、純粋なアートマンとは全く同一のものだ」
修行者「ですが、聖典に、『言葉と心は、彼の前からむなしく戻る』と書いてあります。彼は言葉と心によっては知り得ないのです」
ラーマクリシュナ「おお、おだまり!人は霊性の修行を実践しないかぎり、聖典の意味を理解することはできないのだ。口先で『大麻』と言ったとて何になろう。パンディットたちはぺらぺらと聖典を引用する。だが、それはなんになるか。大麻を肌にこすりつけても酔いはしない、それを飲まなければだめなのだ。『牛乳にはバターが含まれている』と繰り返すだけで何の役に立つか。牛乳をこごらせ、かき混ぜるのだ。そこで初めてバターが得られる」

シュリー・ラーマクリシュナは聖典を頭の理解だけで終わらせず、実践を通してからその意味を理解するようにと諭されています。私たちの師もまた「ヨーガは実践」と実践の大切さを繰り返し教えてくださっています。師の教え、ヨーガの教えを身をもって体得しなければ、それは知っていることにはならない、実践して初めて日常の行為の中に、ヨーガの深まりの証として現れてくるのだと教えてくださっています。私たちは師の教えを生涯かけて実践し、各々がいかに真実だけのために生きていけるのかを問われているのだと思いました。師の教えに誠実に生きること、それがヨーガの成就につながっていくのだと思いました。

ダルミニー


千本丸太町ヨーガ・瞑想 土曜日のクラス

皆さん、こんにちは
千本丸太町のヨーガ・瞑想クラスは毎週土曜日の14時から、ヨーガ・ヴィハーラで行なっています。千本丸太町にあるヨーガ・ヴィハーラは町屋の二階にあって、アットホームで落ち着いた雰囲気の中、アーサナ(ポーズ)や瞑想を行なうことができます。

 アーサナとアーサナの間にシャヴァ・アーサナといってリラックスのボーズをはさんで行なうのですが、シャヴァ・アーサナの間じゅう微笑んでおられる方がありました。その理由を聞いてみると、思いもかけず簡単なことができない自分がおかしかったとも言われていましたが、何か分からないけれど楽しかったとも言われていました。ヨーガを行じていると理由もなく自分自身の内にある歓びのようなものが沸き上がってくることがありますが、その方もその一片を味わっておられるのかなと思いました。 

湖面のさざ波が月の姿を正しく映さないように、
私たちの心のざわめきが真実を覆い隠している
ヨーガによって心のざわめきを静めたなら、
真の自己は自ら輝き出るだろう

             サットグル・シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサ

湖が波立っていると丸いお月さんは歪んで見えますが、その波が静まると本来のまん丸のお月さんを見ることができますよね。ヨーガを実践するたびに、私たちの波だっている心は少しずつ本来の静けさを取り戻していきます。そうして私たちは自分の知らなかった身体や、忘れていた心と向き合い、自分自身のいろいろなことに気が付き、変えていく努力をすることで、より良く、さらにより良く調えられていくことになるのです。それは私たちにとって大いなる歓びです。なぜならそれが、そうやって円満な完全な人間となることが私たちの生きる目的だからです。私たちは、本来は自由そのものであり、至福そのものであり、永遠の存在なのだ、その自分を早く思い出しなさいと、私たちの師は繰り返し、繰り返し説かれ、導いてくださっています。 

忘れていた自分自身を取り戻すためにも一緒にヨーガを学んでいきましょう。
土曜日の14時、ヨーガ・ヴィハーラにぜひお越しください。お待ちしています。

ダルミニー

ダヌル・アーサナ
肩関節の可動域や胸を広げ、身体を調えていきます


ラーマクリシュナの福音

暑中お見舞い申し上げます。
暑い日が続いていますが、みなさま、いかがお過ごしでしょうか。
前回出ていた美しい細密画で涼を感じることができたのではないでしょうか。 

北海道、篠山、大阪、松山からの報告が続いていますね。あちこちで発散されたヨーガの熱が日本中に広がっているように感じられます。そして今、台湾の滞在から戻られて早々、師はニューヨークの地に赴かれ本当のヨーガ、真実を伝播され続けています。本当のヨーガで世界が変わる日も近いかもしれませんね。

シュリー・ラーマクリシュナ

さて今回は、インドの聖人であるラーマクリシュナの福音よりご紹介いたします。
シュリー・ラーマクリシュナが子供の頃の生活について話されています。

「私が幼かった頃には、カーマールプクルの人たちは男も女も同じように私を愛してくれた。彼らは私が歌うのを聞きたがった。私は他人の身振りや口調をまねることが上手で、それをよくしては人々を楽しませた。女たちは私のために食べるものをとっておいてくれるのだった。私を信用しない人はいなかった。誰もが私を家族の一員にように迎えたものだ。しかし私は幸福のハトのように、幸福な家庭だけをしばしば訪れた。不幸や苦しみの見える場所からは逃げ出した」 

最後の文章を読んだとき、「笑う門には福来たる」ということわざを思い出しました。みなさんのご家庭はどうでしょうか? 

物質界にはグナ、サットヴァとラジャスとタマスという三つの性質があって、サットヴァ性とは照明という光の性質、ものを明らかにするという性質。ラジャスとは常に活動し激しく動き回る性質。タマスはさまざまなものを覆い隠す闇の性質だと教えていただいています。
これを人の心理的な性格に当てはめると、常に楽天的で明るい性質であればサットヴァ性が強く、また心配性とか不安とか憂鬱とかいう気分が常にあるときはラジャス性によってさいなまれている、それがもっと重く病的にまで落ち込んでしまったならばタマス性ということになります。
この三つのグナは常に活動していて、サットヴァ性が強いときもあればタマス性が強いときもありますが、アーサナや瞑想、聖典の学習、そして日常や食事をヨーガ的に変化させていくことによって、サットヴァ性を優勢にさせていくことができるのです。サットヴァ性になると悩みや苦しみを寄せ付けなくなり、心はいつもほがらかで軽快にしていることができます。そしてさらには、それが二元的なサットヴァも超えていくことになるのだと師から教えていただいています。

悩みや苦しみから解放されたサットヴァな状態であり続けること、またそのように努力すること、それが私たちの真実に目覚めていく道なのだと思いました。

ダルミニー


理髪師と貴公子

久しぶりに本願寺出版社の「ブッダ」より、その教えをご紹介しています。

理髪師ウパーリが最後の王子の髪を剃り落とすと、七人の王子たちは互いに笑顔を見せ合い、身につけていた宝石の指輪や腕飾りを外し、きらびやかな衣服を脱いで修行者の衣を着た。

 

アーナンダやデーヴァダッタ、アニルッダら、シャカ族の王子たちは髪を剃り落とした後、出家の許しを得るために両親に挨拶をしに引き上げていった。王子たちが去った後、出家を望んでいた理髪師ウパーリは自分の髪を剃り、修行者の衣をつけて、ブッダと弟子たちが滞在している場所を目指した。

「ブッダよ、私は理髪師をしております。王族ではありませんが、どうか、私を出家させてください」
「ウパーリよ。お前が理髪師であろうと王子であろうと、このサンガではなんの意味ももたない。真摯に道を求め修行に励むものであれば、私は喜んでサンガに迎えよう」
ウパーリは長老シャーリプトラに導かれ、出家の手続きを経て正式にサンガの一員となった。 

ほどなくして、シャカ族の七人の王子たちが両親の許しを得てブッダのもとにやってきた。
「お前たちは新参者だ。サンガの先輩たちに作法通りに挨拶をしなさい。それができなければサンガに加わることは許されない」
ブッダにこう言われ、七人の王子たちが次々に挨拶をしていくと、最後にさっきまで理髪師をしていたウパーリが修行僧となって目の前にいる。王子たちは困惑し顔を見合わせた。
「どうした?なにか不都合でもあるのか」
長老が声をかけると、七人の王子たちは首を横に振った。
「なにもございません」
王子たちはウパーリに丁寧に頭を下げ挨拶をした。理髪師と軽んじていた男に礼をするのは屈辱だったが、それに耐えなければ出家はできない。
「見事だ。シャカ族の修行僧は高慢の心に打ち克った」
ブッダはいつになく弾んだ声を上げた。
こうしてシャカ族の王子だった七人の修行僧はブッダのサンガの末席に加えられた。

「ヨーガの福音」の中で、師はブッダの教えについて説かれています。

彼の教えの特徴の一つは「小さな虫も人間もすべては仏性を有した尊い存在であり、一切万物は平等である」というものです。その当時のインドはブラーフマナ(カーストの最高位である僧職階級)が力を握っていた。彼は「ブラーフマナもシュードラ(カーストの最下位の奴隷階級)も違いはない。人は皆、平等である」と最初に言った人です。

インドにはカースト制度という厳しい身分制度があります。その中で生まれ育った王子たちが、奴隷の身分の者に頭を下げるということは、その心に非常な衝撃が起こったことだろうと思いました。それまで常識だと思っていた心の観念は一瞬にして壊され、「人は皆、平等である」という真実を受け入れたのだと思いました。
ヨーガを実践し、師から真実の教えを授かると、心は何かにはっと気付き、目から鱗が落ちるような出来事がたびたび起こります。そのたびに心はこだわりや固有の観念を少しずつ手放していって、真実に目覚めようといるのだと思いました。ブッダのお弟子さんたちも同じようにそうであったに違いないと、彼らのことをとても身近に感じ、そして真実の教えを行為するということが本当に大切なことなのだと知りました。

ダルミニー


ヨーガの道

ヨーガは、真実に目覚めるための数千年の古代から伝わる霊的な道です。ヨーガを学ぶには、ヨーガを成就したグルが不可欠です。言葉を超えたグルの導きは、道を歩もうとする私たちにとってはかけがえのないものとなります。サットサンガ(真理の集い)とは師を囲んでの神聖な集まりのことであり、師から直接教えを授かる最も大切な学びの場として位置づけられています。

先日行なわれたサットサンガの内容をお伝えしています。

質問者「ヨーガは、瞑想に坐ることができる身体をつくるために行なうと伺ったのですが、何のために瞑想をして、何を目指しているのかということを教えてください」

師「全く今のご質問が、それこそ何千年も昔から国とか民族に関わらず沸き起こる大きな問題なんですね。その答えを探求していった歴史の中で、やはりインドにおいてその探求が非常に深く大きくなされていきました。誰もが生まれ落ちて人生というものを過していく、しかしやがて死んでいくわけですよね。いったいその中で本当の幸せというのは何なんだろう。快適に裕福に暮らせることが幸せなのだろうか、例えそういう境遇に恵まれたとしても、いつ死んでしまうか分からないし、それだったら幸福だと思っていたのも一瞬にして不幸になるわけでしょう。いったい幸せというのは何なのだろう。ましてやそれの経験者たる主人公、自分ね、自分というのはいったい何なのだろう。神というのはあるのだろうか、ないのだろうか。この宇宙の秘密は何なのだろう。
そういう謎というか問題を掘り下げて答えを出していった結果、本当の自分というものは苦楽を味わうものではなくて不滅の存在である。そして自分だけではなく万物、宇宙すべての本質はそれ、同じであるということが発見されました。その境地、その悟りといってもいいけれども、その真実の境地のことをヨーガといったんです」

本当の幸せとは何なのだろう。自分はいったい何のために生まれてきたのだろう。自分はこの世界で何をするべきなのか。自分はなぜここにいるのか。人は誰しも一度は必ずこういう疑問に悩まされることがあるだろうと思います。やがて大人になり、世の中は浮き沈みがあって当たり前、喜怒哀楽もあって人生のうちと、次第にこの疑問が薄れていったり、諦めに代わったり、また忙しさに紛れて忘れてしまったりしてしまうのだと思います。でも、どうしても自分の生きていること、していること、それが不思議でたまらない、なにかがおかしい、それがなぜなのか知りたくてたまらない、本当のことが知りたい、そういう人たちがヨーガに辿りつくのだと思いました。

師「そしてそれを実現するための教えとか方法、そういうものもヨーガというふうに称されるようになって、身体が弱ければその探求も続かないから、身体も健康で強くしなけりゃいけない。そのためにはアーサナによって肉体を調えて、そして心というのは常に動揺するから心も調えなければならない。そのときには呼吸というものも同時に乱れるから呼吸を調えて、そして心を制御していく。つまり心というのは欲望とか煩悩とかいうものによって振り回されることになる。いい経験もするかもしれないけれども苦しい経験もいっぱいある。そういう心の浮き沈みというものに動じないように心も制御していかなければならない。そういう一連の修行というか勉強というものもヨーガというふうに称されるようになりました。だからその真実の実現という目的をヨーガという名称で表し、また同時にそこに至る道もヨーガというふうに称されることになりました。これが何千年、何千年というのは四、五千年ということですけれども、にも渡るヨーガの歴史なのです。
このヨーガがインド以外の国に知られるようになってまだ百年たっていないんです。特にこの数十年の間に欧米とか日本、世界中に広まって、ヨーガのほんの一部分である健康だけを目的としたアーサナというものが流行しているので、それをヨーガだと思っている人がいるかもしれないんですけれども、それは誤解なんですね。それはほんの一部分のことに過ぎない。だから瞑想というのは、ヨーガの全体の体系の中にアーサナと同じように位置付けられている大事な部分なんです。特に心を制御していくというところにおいてね。これがヨーガの全体像です」

世の中で少々の自由や幸福を得たとしても、それらは刻々と変化して一瞬のうちに不自由になり、不幸になってしまう、そうではない相対的な状況を離れたところにあるものが、本当の自由、本当の幸せ、本当の真実であると師は教えてくださっています。そのためにも心のことや、真実、真理というものを学んでいくようにと教えてくださいました。

学校では教えてくれない真実、サットサンガで繰り返し師から真実の教えを聞き、そして真実のみを行為される師の日常から真実を学ぶことによって、私たちはヨーガの道を迷わず歩み続けることができるのだと思いました。

ダルミニー


ヨーガの福音 〜カルマ〜

皆さん、こんにちは

皆さんが待ち望んでいた「ヨーガの福音」が装丁も新たに再版されました。この本はコンパクトなサイズになっていて、バッグの中にいつもしのばせておくことができます。なにげなく開いたその一ページが、あなたにとって重要なバイブルとなっていくことでしょう。

今日、ご紹介する「ヨーガの福音」はカルマです。

カルマとは作用と反作用、原因と結果のことです。
「蒔いた種は刈り取らなければならない」ということです。
今日は昨日までの結果です。
今日の原因が明日の結果となるのです。
だから「今」を生きなさい

          サットグル・シュリー・マーハーヨーギー・パラマハンサ

 「自業自得」、「因果応報」、この言葉と法則は、誰もがもうすでに知っていることだと思います。私は昔、「因果応報」という言葉を初めて知った時、それを試してみました。人に優しくするとどうなるか試してみたのです。それは単純なことでしたけれど、確実に自分に返ってきました。そして、それはおもしろいほど本当の事でした。そしてそれは、自分のことしか考えていない人、人を押しのけてまで自分が得をしようとする人には、その人が困った時に助けを求めても、誰も手を差し伸べてくれないということも教えてくれました。「因果応報」、「自業自得」の理は、この世界で山ほどありますよね。師は、この単純な因果の法則のもと、悪い結果を招きたくなければ善くしていくことであるし、そして人がその努力をしているのか、していないのかだけの問題なのだと教えてくださっています。

師は説かれます。
昨今、騒がれている環境問題というのは、人類の歴史そのもののカルマの蓄積が結果を迎えているというふうに見なすことができます。それは快適さという幸福を求めた結果の自然破壊であったり、社会の混乱であったり、あるいは犯罪もまたそうです。犯罪にはもちろん、個人的なものもあれば戦争という巨大な犯罪もあります。すべては悪徳を原因として生じたものだと思います。人類と一口に言っても、それは一人ずつの人間の集まりですから、一人ずつのカルマを無くしていく他ありません。まさにそのカルマを無くす作業こそがヨーガでもあります。無益な欲望を無くしていくこと、知足という足りたるを知ること、さらには献身奉仕という有徳の行為を積むこと、これらはすべてヨーガの主要な柱であり、それがカルマを無くしていくことになるのです。

宇宙の理を知り、ヨーガを学び深めていくことがカルマを超越する道であり、そしてそこに自らの真実が存在していると師は教えてくださっています。その教えを深く信じ、生きる支えとして、私は今日もヨーガを実践しているのです。

ダルミニー


ヨーガの福音 〜あなたは真剣か〜

皆さん、こんにちは
春ですね。この時期、桜が本当に美しいですね。古来、桜の木は花王と称せられ、国花とされて守られていたようです。桜にはいろいろな種類があり、次々と咲き乱れては、私たちの目を楽しませてくれます。そうした後に、儚げに散りゆく桜もまた美しいものですよね。

さて、お知らせです。長らく絶版になっていた「ヨーガの福音」、みんなが待ち望んでいた「ヨーガの福音」が装丁も新たに再版されました。この書は私たちの師である、サットグル・シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサの珠玉の教えが、シュリー・マハーヨーギー自らの手によって抜粋、編集、製作されたものです。この本はコンパクトなサイズになっていて、バッグの中にいつもしのばせておくことができます。なにげなく開いたその一ページが、今のあなたにとって重要なバイブルとなっていくことでしょう。

ヨーガを学び始めた頃、手にした「ヨーガの福音」、そして最初に開いたページ、そこにはこうありました。

あなたは真剣か 

まだ悟りへの情熱が不十分です。三日でもいい、寝ないで「自分は本当にこの人生で何を望んでいるのか」、「自分自身は一体何なのか」を問いかけてみなさい。生きているということは何なのか、ただ食べて寝て、そして死ぬだけなのか……これこそ恐ろしい話です。私たちは永遠の命なのです。そんな限定された命に満足するはずがありません。そんなちっぽけな人生の成功や失敗を恐れる必要はありません。幸福も不幸も塵ほどにもならない。皆さんは悟りに関して、あるいはヨーガに関しての知識は随分お持ちだと思います。でもまだ実体験は赤子のようです。頭だけでやっているからです。そうではない、悟りは「体得」と言われます。体全体で実現するものです。そう、体がなければ実現できないのです。それが人生の、生まれてきた大きな目的です。悟りにあっては体も心も消えていきます。でもそこまでは役割があるのです。生きざまそのものを、一日一日、一瞬一瞬の生き方を真剣になさい。

              サットグル・シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサ

 

「あなたは真剣か」最初に目に飛び込んできたこの教えにどきっとしました。そしてこれは「真剣にヨーガを学びなさい」というメッセージなのだと思いました。私はそれまで、正にここに書かれてあるように、食べて寝て、遊んで仕事して、それだけでいいのかな?他にすることがあるんじゃないのかなと思っていたのでした。そして師と出会い、私たちは永遠の命なんだよ、それを体得することが生まれてきた目的なんだよと教えていただいて、俄然生きていることが嬉しくなりました。他にすることってヨーガだったのね、そっちの方が大事だったのねと思ったのです。「真剣」とは、自分が取り組んでいること、自分の生き方に対して、手を抜かず夢中になること、ひたむきに、真摯に向き合うこととありました。

「あなたは真剣か」この言葉に再び励まされ、私は初心を思い出し、前だけを向いて、ただひたすらヨーガの道を歩んで行こう、そう思うのでした。

ダルミニー


一切は神

今回は、ラマナ・マハリシの「沈黙の聖者」をご紹介いたします。

インドの聖者であるラマナ・マハリシはその生涯をアルナーチャラという聖なる丘で過ごされました。インドの聖地の中でもアルナーチャラは最も聖なる場所、シヴァ神の秘められた聖なるハートの中心であるとも表現されています。そしてアルナーチャラにはさまざまな動物が住んでいて、この本の中でもたくさん紹介されています。

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いちばん有名なのは雌牛ラクシュミーの逸話です。子牛のラクシュミーは、毎日シュリ・バガヴァン(ラマナ・マハリシ)のところへやってきては足元に頭を垂れていくのでした。また牛小屋の定礎式のときにはたいそう喜んで、シュリ・バガヴァンを迎えに来たりしました。たいへん利口で気の利いたラクシュミーが亡くなった後の墓碑銘には、タミル語で「雌牛ラクシュミー、ヴィシャーカ星座の下で解脱したことをここに記す」とあります。そしてたくさんのお猿さんたちもアルナーチャラには住んでいました。猿たちがシュリ・バガヴァンの前にサマーディの状態で坐り、瞑想の手ほどきを受けている様子も書かれています。また白い孔雀も登場します。このときシュリ・バガヴァンは、これは混じりっけのない純白、グナの混合をもたないスッダ・サットヴァ(純粋の自己)を意味すると言っておられますが、その前を得意そうに通り過ぎる孔雀の写真が載っています。また三日間、同じ枝に止まり続けたカラスの話も出てきます。シュリ・バガヴァンに会いにきたこのカラスは、待ち望んでいたかのように主の手のひらの上で死んでいくのでした。他にも虫や、犬や蛇などたくさんの動物たちがラマナ・マハリシと一緒にアルナーチャラで暮らしていたのでした。その中には高貴な魂の動物たちもたくさんいたのでしょうか。ラマナ・マハリシはすべての動物たちに対して、本当に分け隔てなく接し、共に暮らしておられたのだなと思いました。

師は説かれます。

「ヨーガ行者たちがどのように社会と対処していけばいいのかといえば、すべて平等に接していくのがいい。すべては尊いアートマンなる存在、神なる存在なんだから、その真理を心得た上で丁重に接する、優しく接するということが基本になります」

「結局のところ、実存という、真実在として在るのは真理であるアートマン、あるいは神という存在だけです。形が千差万別あったとしても、そこにあるのは一つの真実だけです」

「ヨーガやあるいは神について学んでいけばいく程に、神は打算がない、そして駆け引きもない、そしてヨーガが教えるところはすべてが神でありアートマンである。単純にその思いだけが心を占めれば、さまざまな出来事の中に自ずと謙虚と感謝が生まれると思います」

 日本にも山を、神がいる場所、神が降臨する場所とみなすような山岳信仰がありますよね。それを思うとラマナ・マハリシがアルナーチャラという丘に住み続けておられたことも、私たち日本人にとっては、なんら驚くべきことではない、素直に受け入れられる出来事なのではないでしょうか。そして京都の町中の至るところにたくさんのお地蔵さんがおられます。日本古来の宗教である神道は「一切は神である」という考えを持っていますが、神々が住むこの日本に、そしてここ京都に、真実を説かれる私たちの師がお生まれになったことも、なんら不思議なことではないのかもしれないと思うのでした。

ダルミニー


平和にあるということ

在るのは平和である。
私たちに必要なのはただ静謐(せいひつ)だけだ。
平和が私たちの真の性質なのだ。
                       ラマナ・マハリシ

ヨーガを学び始めた頃、心は、身体のように目に見える物質ではないけれど、微妙な物質であると聞いてびっくりした覚えがあります。物質なのだと思ったとたん、心が自分から少し離れていったように感じました。心はいつも何かを考え、片時も静かにしていません。そのように客観的に「心」を眺めたことは今までにはなかったことでした。

師は心についてこう説かれています。

「心は自立できません。そのために常に何かを所有したがっている。『私は何々である、誰々である』『これを持っている、あれを持っている』『これができる、あれができる』『知恵がある、力がある』。何であれ心はそういうものであってしか成立しないのです」

師は、心は常に何かに依存しているものであると教えてくださいました。そしてそういう一切の依存関係、執着関係を離れた状態に心があるとき、それが静謐というものであり、その静謐を得る方法がヨーガにあると教えてくださっています。

ある時の問答で、この地球上での戦争や環境破壊、さまざまな理不尽なこととどう向き合っていけばいいのかという質問に、師は、人として苦しんでいる人たちにできることをしていくべきだとも教えてくださいましたが、それよりも自分自身をより良くしてくことが先決だと教えてくださいました。

「第一には自分自身の器、心とか身体とか状況とか、そういうものをより良くしていく。これは心が作り出す間違った欲望とか執着をなくしていくということに他ならないと思いますし、そうして普遍的な愛や慈悲あるいは平和を望む心、そういうものを培って、それを具体的な行為に移していくことができればいいと思います。ともあれ、まずすべきは自分自身の中の平和を確立すること、真実を確立すること、それによって外への働きは有意義に行なわれると思います」

自分自身をまずより良くしていくこと、それがこの世界をより良くしていく第一歩となる、この意味はヨーガの教えを学び、実践していくと実に良く分かります。なぜならヨーガを実践していくと家庭や職場の中で、次第に自分と人と人との間に調和というものが生まれてくるのを感じることができるからです。平和が私たちの真の性質であるからこそ、私たちは平和を強く望んでいるのだと思います。
ヨーガを実践し、もともとの性質である平和な自分自身に戻ろうではありませんか。
それが、世界の平和に貢献することになるのですから。

ダルミニー

シュリー ラナマ マハリシ

シュリー ラマナ マハリシ

 


シュリーマッド・バーガヴァタム アンバリーシャ王の物語

かのスータ(神話を朗唱したり解説する高徳な吟遊詩人)が、「バーガヴァタム」を語り続けている。

アンバリーシャは全地の王となり、すべての富と快楽を思いのままにしました。しかしそれらは王にとって何の意味もありませんでした。なぜなら彼は主クリシュナを愛していたからです。永遠で至福に満ちた存在であられる神、主クリシュナを愛するようになった者は、この世の空しい欲望に魅了されることはないのです。

アンバリーシャの心は、いつもシュリー・クリシュナに集中していました。
彼の唇は主クリシュナの栄光のみを語り、手はクリシュナへの奉仕のみを行ない、耳は主の御言葉のみを聴いていました。眼は主の神聖な現れを観、触感は主の現存を感じ、臭覚は主の神聖な香りのみを嗅いでいました。味覚は主の取られた食べ物のみを味わい、足は主のおられる場所のみ赴き、頭は主クリシュナの蓮華の御足に触れていました。

Krishna-4
シュリー クリシュナ

ある時彼は、全宇宙の主に、ある誓いを立て、一年間の特別な修行を行なっていました。その最後の断食を解こうとしていた時、聖者ドゥルヴァーシャがやってきました。王はうやうやしく挨拶をし、祝宴の席にその聖者を招いたのでした。その後、ドゥルヴァーシャは沐浴に行ってしまい、断食を解く吉祥な時間になっても帰ってきませんでした。そこでアンバリーシャは誓いを無効にしないために、水だけを飲むことにしました。これは招き客に対しても無礼にはならないことだったのです。

しかしドゥルヴァーシャは戻るなり、王が水を飲んだことに対してひどく立腹しました。自分が軽んじられたと思い、瞬間的な怒りの熱で王に呪いをかけたのです。呪いはデーモンの姿を取って、アンバリーシャに襲いかかろうとしました。しかし、悪魔は王の平静で恐れのない態度に敵意を挫かれ、反対にドゥルヴァーシャの方に向き直り、彼を食い殺そうと襲いかかってきたのでした。自己の呪いから必死に逃げようとするドゥルヴァーシャは、ブラフマーやシヴァのもとへと赴きましたが、誰も彼を助けることができませんでした。最後の手段としてドゥルヴァーシャは主ヴィシュヌのもとへ行きました。主ヴィシュヌはこう告げます。

「私もまたどうすることもできないのだ。なぜならお前は私の帰依者を侮辱したからだ。私は自分の帰依者を愛し、喜んで愛する者たちの奴隷となっている。また彼らは私のためにすべてを喜んで犠牲にし、自らを全く私に捧げきっているのだ。もし誰かがそのような帰依者を呪うなら、その呪いは力を増して、その者自身へと戻ってくる。唯一人だけお前を救える者がいる。呪いによって侮辱した者のところへ行って、彼の許しを請え。それだけがお前を救い得るだろう。さぁ、すぐに行け。成功を祈ろう」

ドゥルヴァーシャは自己の呪いから逃れる術がないことを知り、王のもとへ行き、謙虚に許しを請いました。王は十分な敬意を示して、聖者を快く許し、その魔力からドゥルヴァーシャを救うために、主に祈りを捧げました。

「おお主よ、あなたの無限の御力は、すべてのものの内に存在しております。
日の中にも、太陽の中にも、月や星々の中にも、あなたはおられます。
また水や地の中にも、空や風の中にも、そして、全宇宙の微細なエレメントの中にもおられます。
あなたは全てのものの内の全てです。
どうか、まったき愛の御力によって、ドゥルヴァーシャを守護してくださいませ。
そして、私たちすべてが、あなたの平安を知ることができますように」

ドゥルヴァーシャはハートのうちに平安を見出し、すべての悪から清められたのでした。

この美しい、愛あふれる物語を読んでいるだけで、私の心は深い充足と安心に満たされます。
主ヴィシュヌの愛、そして、その帰依者であるアンバリーシャの愛によって、ドゥルヴァーシャは清められ平安へと導かれていったのでした。

バクティ・ヨーガ(信愛のヨーガ)の中で、愛はこう定義されています。

バクティ・ヨーガは、真の、純粋な主の探求です。愛に始まり、愛でつづき、愛に終わる探求です。たった一瞬の神への愛の狂気は、我々に永遠の自由をもたらします。
「バクティは、神への強烈な愛である」「人がそれを得ると、彼はすべてを愛し、何者をも憎まない。彼は永久に満足してしまう」「この愛は、いかなるこの世の利益の期待にも、格下げされるものではない」

まさにアンバリーシャ王は、この愛の中に生きた人であったのだと思いました。
師はヨーガによって、本当の愛に目覚めることができると教えてくださっています。
私たちすべてが、本当の愛に目覚めることができますように。

ハレ クリシュナ ハレ クリシュナ  クリシュナ クリシュナ ハレ ハレ
ハレ ラーマ ハレ ラーマ      ラーマ ラーマ ハレ ハレ

ダルミニー