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サットサンガより エゴを神の召し使いにする

ヨーガは、真実に目覚めるための数千年の古代から伝わる霊的な道です。ヨーガを学ぶには、ヨーガを成就したグルが不可欠です。言葉を超えたグルの導きは、道を歩もうとする私たちにとってはかけがえのないものとなります。サットサンガ(真理の集い)とは師を囲んでの神聖な集まりのことであり、師から直接教えを授かる最も大切な学びの場として位置づけられています。

みなさん、こんにちは
師の御聖誕祭を間近に控え、全国から真実を求めるグルバイ(兄弟姉妹弟子たち)が集まり、定例のサットサンガが行なわれました。「師には尊敬と奉仕と質問によって仕えよ」と伝えられていますが、この日もなごやかで満ち足りた雰囲気の中、次々と真剣な質問が続きました。

師は説かれます。
「誰もが自分の正体をエゴだと思っていて、心は好き勝手なことをして自分を傷つけてしまうことがあります。まるでエゴとこの世界が永遠であるかのように錯覚をしていますが、この世界は有限だし、命もなくなるかもしれない、本体は神聖なものなのに、自分の心の作り出した幻想に束縛されてしまっています。そこからの解放が本当の自由であり、それを知って実現することがヨーガの目的です」

私たちのエゴ意識が自分自身を束縛してしまい、それが苦しみや悲しみの原因となっている、そのエゴとの向き合い方について質問がありました。

質問者「エゴを神の召使いにしておきなさいという教えについて教えてください」
ヨギ「厳密な意味では、心というのは本来はエゴをもっていないものです。そのエゴという言葉の意味するところは、この相対的世界の中における身体がさまざまあるように、心もそれに備わって肉体に生じています。しかし、そこで利己的な思いのその色の濃度が濃くなるにしたがって、より煩悩的になっていくし、それが薄められていけば、単に自と他というものを区別するだけの機能として働きます。
それはあたかも道具のようなもの。道具というのは、例えば手が何か作業をするときにはやってくれるように、また足が必要に応じてどこかに運んでくれるように、心もそのようにいろんな物事に対しての工夫をしたり、さまざまな思案をしたり、そういう物事に対応するための道具としてみなされます。
これがエゴを道具のように、つまり道具ということは召使いのようにということです。召使いという時には必ずそこには主人がいます。この主人が誰なのかということです。通常は、エゴが主人のような顔をしてふるまうことによって間違いが起こるんだけれども、今の話のようにエゴが薄らいでいけば、また本当の自分という、アートマンと呼ばれている真我が自覚すれば、それが本当の主人であり、心は身体と同じように道具あるいは召使いとしての役割を果たします。
もう一方でそのエゴが完全には消滅をしないまでも薄められていっている折には、心に、エゴは召使いのようなもの、道具のようなものだというふうに言い聞かせて、本分をわきまえさせるようにしていきます。それがエゴを召使いにするようにという意味合いです。必ずそれにはアートマンという主人がいるということを覚えておいてください。アートマンは神の別名でもあります」 

ヨーガでは「私たちはこの心でも身体でもない、その奥にある純粋な意識、それが本当の自分である」と教えられます。純粋な意識とは、真実、存在、アートマン、神、さまざまな名前で呼ばれています。
ヨーギーにとって、心は真実を教えてやるべきものであり、正すべきものであります。そして心は、真実、存在、アートマン、神に目覚め、そして奉仕するための道具なのだと思いました。

ダルミニー


ラーマクリシュナの福音

皆さん、こんにちは
十一月二十三日は、私たちの師である、サットグル・シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサの御聖誕日です。師は、私たちに、人間として生きる本当の意味を教えてくださいました。それは私たちの人生にとって大きな歓びの泉となっています。尊敬する師のお歓びの日に精一杯の感謝を捧げたいですね。その吉祥な日はもうすぐです。

さて今日も「ラーマクリシュナの福音」よりご紹介いたします。

シュリー・ラーマクリシュナ

ある日の午後三時、シュリー・ラーマクリシュナは若い信者たちと共に大いに楽しんでいらっしゃった。会話はハヌマーン(ラーマ神に忠誠を尽くした猿の英雄)のことに及んだ。彼の絵がシュリー・ラーマクリシュナの部屋にかかっているのだ。

ラーマクリシュナ「ハヌマーンの心境をまあ想像してごらん。彼は金にも、名誉にも、衣食にも、他の何ものにも頓着しなかった。神だけを求めていたのだ。彼が、ラーヴァナの宮殿で、水晶の柱の中に隠してあった天上の武器を奪って逃げようとしたとき、マンドダリ(シーターを誘拐した魔王ラーヴァナの妻)は、彼を下りてこさせ、武器を落とさせようとさまざまな果実を見せて誘惑し始めた。しかし、彼はそうやすやすと欺かれはしなかった。彼女の誘いに答えて、この歌を歌ったのだ」

私に果実が必要か。私は人生を本当に実り豊かにする果実をもっている。
私のハートの内にラーマの木が生えていて、それの果実として救いを実らせる。
ラーマという願望成就の木の下に、私はくつろいで座り、何でも欲しい果実を摘む。
しかしもしあなたが果実をうんぬんするならーー
私は普通の果実の乞食ではないぞ。
見よ。私は行く、あなたに苦い果実を残して。

この世の中には、いろんなかたちの幸福や自由があるかのようです。あなたの幸せとは何でしょうか?あなたが自由と感じるものは何でしょうか?あなたはどんな果実を欲していますか?もしかしてちっぽけな幸せや自由に執われているのではありませんか?
ヨーガでは、永遠でないものに永遠をみること、純粋でないものに純粋をみること、至福でないものに至福をみること、私でないものに私をみること、これを無知といい、このように世の中に対して間違ったものをみて、求めてしまうことが、苦しみや悲しみを生み出している、そうではなく、この世を正しくみて、正しく判断し、正しいものを求めなさいと教えてくれています。

人生の目的は真実を実現することです。
                 サットグル・シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサ

私たちの師は、この多様な世界に、生まれ、変化し、消滅するものではなく、自分自身の奥にある、永遠なるもの、真実の自己、真理あるいは神を求めなさい、それを実現しなさいと教えてくださっています。

自分のハートのうちに真実を実現させることができたら、もうこの世で何も恐れることもなく、常に平安で円満、歓びに満ちて暮らしていくことができるのでしょう。ヨーギーは甘そうにみえて苦い果実ではなく、真実の果実を求めて生きていくのだと思いました。

ダルミニー


ラーマクリシュナの福音

皆さん、こんにちは
だんだんと肌寒くなってきましたね。いかがお過ごしでしょうか。十月一日から北野天満宮では、京都を代表する秋祭りである「ずいき祭り」が行なわれました。豊作を感謝する「ずいき御輿」が氏子地域を巡行し、五日間にわたって神事が行なわれるのです。昔から私たちは神様に感謝しつつ生きてきたのですね。
さて今日も「ラーマクリシュナの福音」より、その教えをご紹介いたします。  

シュリー・ラーマクリシュナ

満月後の第一日目の日曜日、シュリー・ラーマクリシュナは部屋の小さな寝台の上にお座りになっている。会話はカルカッタのマリック一族の分家の一つが祀っている女神シムハヴァーヒニ(ライオンに乗る者 母なる神)のことになった。
ラーマクリシュナ「この分家は今、不如意な状態にあり、住んでいる家も荒れている。壁や床には苔や鳩の糞による滲みが点在し、セメントやしっくいは崩れかかっている。だが、この一族の他の分家はみな繁盛しているのだよ。この家には繁盛のしるしが見えない。これをどう思うかね?要するに、誰でもが自分の過去のカルマの結果は刈り取らなければならないのだ。人は、過去生から受けついだ傾向の影響とプラーラブダ・カルマの結果は認めなければならない。しかしながら、その荒れ果てた家の中で、私は女神の顔が神々しい光を放っているのを見た。神像に神が宿りたまうことは信じなければならない」

シュリー・ラーマクリシュナはカルマの法則について説かれています。誰もが過去に何度も生まれ変わりを経験しているとヨーガでは教えられますが、その過去において行なった行為の反作用として必ず結果が生じる、その原因の結果を受け取ること、これをカルマの法則といいます。カルマは三種類あるといわれていて、それは矢筒に入った矢に例えられます。すでに放たれた矢、止めることも戻すこともできない、現世に発現しているカルマ、これをプラーラブダ・カルマといいます。そして放たれようとつがえられた矢、現世で新たに作り出されようとしつつあるカルマ、これをアーガミー・カルマといいます。そして矢筒に入ったたくさんの矢は、来世で遂行されるべく待機しているカルマで、これをサンジタ・カルマといいます。

今、私たちは、このプラーラブダ・カルマの影響のもと、生を受けて生きていますが、このカルマの法則を学べば、自分自身の過去からの行為の結果が今の自分の状況をつくっているのだということに気が付かされます。そうすると人と比べてどうのこうのということ自体が本当に無駄な思いなのだと考えざるを得ません。カルマを比べてもしかたがありませんね。誰を恨むこともできませんし、また喜ぶべきことがあるとすれば、それもまた私たちの過去の行為のおかげなのだと思いました。

私たちの師はヨーガを学び、欲望や執着、無知をなくしていくことで、アーガミー・カルマやサンジタ・カルマ、すべてのカルマを超越することができる、そしてそこに自らの真実が存在しているだと教えてくださっています。
シュリー・ラーマクリシュナもまた、カルマの法則に支配されている心のその奥に、真実の存在が光を放っているということを信じなさいと教えてくださっているのだと思いました。

聖者の教えはなんと私たちの心に安らぎと力を与えてくれることでしょう。
「自分自身の真実を信じ、愛し、生きていきなさい」
その言葉を支えに私は今日も生きているのです。

ダルミニー


ラーマクリシュナの福音

みなさん、こんにちは
早いものでもう9月ですね。先日、クラスの交流会がありましたが、同じ志をもつ仲間たちが集まり、いろいろな話をすることがお互いの励みとなり、活力となって、ヨーガを楽しく学んでいく機会になりました。今はアーサナや瞑想の実践がしやすい季節でもありますので、さらに深めていきたいものですね。

さて今日は「ラーマクリシュナの福音」より、その教えをご紹介します。

ある日の日曜日、今日も大勢の信者たちがシュリー・ラーマクリシュナの自室に集まっています。彼らの中に一人の新米者、コンナバムから来たサーダカ(修行者)がいた。彼は五十歳を越しているようにみえ、学識について非常なうぬぼれを抱いているように見えた。修行者は顎を天井に向け、身体を直立させて坐っていた。
修行者「師よ、何が道ですか」
ラーマクリシュナ「グルの言葉への信頼だ。人は一歩一歩、グルの指示に従って進むことによって神に達するのだ。糸をたぐっていって目標に達するようなものだ」
修行者「神を見ることはできるのですか」
ラーマクリシュナ「彼は、俗事に没頭している心では知ることはできない。兎の毛ほどでも、『女と金』への執着があったら神に達することはできない。だが、彼は浄らかな心と浄らかな知性、執着の影すらない心と知性によって知ることはできる。純粋な心と純粋な知性と、純粋なアートマンとは全く同一のものだ」
修行者「ですが、聖典に、『言葉と心は、彼の前からむなしく戻る』と書いてあります。彼は言葉と心によっては知り得ないのです」
ラーマクリシュナ「おお、おだまり!人は霊性の修行を実践しないかぎり、聖典の意味を理解することはできないのだ。口先で『大麻』と言ったとて何になろう。パンディットたちはぺらぺらと聖典を引用する。だが、それはなんになるか。大麻を肌にこすりつけても酔いはしない、それを飲まなければだめなのだ。『牛乳にはバターが含まれている』と繰り返すだけで何の役に立つか。牛乳をこごらせ、かき混ぜるのだ。そこで初めてバターが得られる」

シュリー・ラーマクリシュナは聖典を頭の理解だけで終わらせず、実践を通してからその意味を理解するようにと諭されています。私たちの師もまた「ヨーガは実践」と実践の大切さを繰り返し教えてくださっています。師の教え、ヨーガの教えを身をもって体得しなければ、それは知っていることにはならない、実践して初めて日常の行為の中に、ヨーガの深まりの証として現れてくるのだと教えてくださっています。私たちは師の教えを生涯かけて実践し、各々がいかに真実だけのために生きていけるのかを問われているのだと思いました。師の教えに誠実に生きること、それがヨーガの成就につながっていくのだと思いました。

ダルミニー


千本丸太町ヨーガ・瞑想 土曜日のクラス

皆さん、こんにちは
千本丸太町のヨーガ・瞑想クラスは毎週土曜日の14時から、ヨーガ・ヴィハーラで行なっています。千本丸太町にあるヨーガ・ヴィハーラは町屋の二階にあって、アットホームで落ち着いた雰囲気の中、アーサナ(ポーズ)や瞑想を行なうことができます。

 アーサナとアーサナの間にシャヴァ・アーサナといってリラックスのボーズをはさんで行なうのですが、シャヴァ・アーサナの間じゅう微笑んでおられる方がありました。その理由を聞いてみると、思いもかけず簡単なことができない自分がおかしかったとも言われていましたが、何か分からないけれど楽しかったとも言われていました。ヨーガを行じていると理由もなく自分自身の内にある歓びのようなものが沸き上がってくることがありますが、その方もその一片を味わっておられるのかなと思いました。 

湖面のさざ波が月の姿を正しく映さないように、
私たちの心のざわめきが真実を覆い隠している
ヨーガによって心のざわめきを静めたなら、
真の自己は自ら輝き出るだろう

             サットグル・シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサ

湖が波立っていると丸いお月さんは歪んで見えますが、その波が静まると本来のまん丸のお月さんを見ることができますよね。ヨーガを実践するたびに、私たちの波だっている心は少しずつ本来の静けさを取り戻していきます。そうして私たちは自分の知らなかった身体や、忘れていた心と向き合い、自分自身のいろいろなことに気が付き、変えていく努力をすることで、より良く、さらにより良く調えられていくことになるのです。それは私たちにとって大いなる歓びです。なぜならそれが、そうやって円満な完全な人間となることが私たちの生きる目的だからです。私たちは、本来は自由そのものであり、至福そのものであり、永遠の存在なのだ、その自分を早く思い出しなさいと、私たちの師は繰り返し、繰り返し説かれ、導いてくださっています。 

忘れていた自分自身を取り戻すためにも一緒にヨーガを学んでいきましょう。
土曜日の14時、ヨーガ・ヴィハーラにぜひお越しください。お待ちしています。

ダルミニー

ダヌル・アーサナ
肩関節の可動域や胸を広げ、身体を調えていきます


ラーマクリシュナの福音

暑中お見舞い申し上げます。
暑い日が続いていますが、みなさま、いかがお過ごしでしょうか。
前回出ていた美しい細密画で涼を感じることができたのではないでしょうか。 

北海道、篠山、大阪、松山からの報告が続いていますね。あちこちで発散されたヨーガの熱が日本中に広がっているように感じられます。そして今、台湾の滞在から戻られて早々、師はニューヨークの地に赴かれ本当のヨーガ、真実を伝播され続けています。本当のヨーガで世界が変わる日も近いかもしれませんね。

シュリー・ラーマクリシュナ

さて今回は、インドの聖人であるラーマクリシュナの福音よりご紹介いたします。
シュリー・ラーマクリシュナが子供の頃の生活について話されています。

「私が幼かった頃には、カーマールプクルの人たちは男も女も同じように私を愛してくれた。彼らは私が歌うのを聞きたがった。私は他人の身振りや口調をまねることが上手で、それをよくしては人々を楽しませた。女たちは私のために食べるものをとっておいてくれるのだった。私を信用しない人はいなかった。誰もが私を家族の一員にように迎えたものだ。しかし私は幸福のハトのように、幸福な家庭だけをしばしば訪れた。不幸や苦しみの見える場所からは逃げ出した」 

最後の文章を読んだとき、「笑う門には福来たる」ということわざを思い出しました。みなさんのご家庭はどうでしょうか? 

物質界にはグナ、サットヴァとラジャスとタマスという三つの性質があって、サットヴァ性とは照明という光の性質、ものを明らかにするという性質。ラジャスとは常に活動し激しく動き回る性質。タマスはさまざまなものを覆い隠す闇の性質だと教えていただいています。
これを人の心理的な性格に当てはめると、常に楽天的で明るい性質であればサットヴァ性が強く、また心配性とか不安とか憂鬱とかいう気分が常にあるときはラジャス性によってさいなまれている、それがもっと重く病的にまで落ち込んでしまったならばタマス性ということになります。
この三つのグナは常に活動していて、サットヴァ性が強いときもあればタマス性が強いときもありますが、アーサナや瞑想、聖典の学習、そして日常や食事をヨーガ的に変化させていくことによって、サットヴァ性を優勢にさせていくことができるのです。サットヴァ性になると悩みや苦しみを寄せ付けなくなり、心はいつもほがらかで軽快にしていることができます。そしてさらには、それが二元的なサットヴァも超えていくことになるのだと師から教えていただいています。

悩みや苦しみから解放されたサットヴァな状態であり続けること、またそのように努力すること、それが私たちの真実に目覚めていく道なのだと思いました。

ダルミニー


理髪師と貴公子

久しぶりに本願寺出版社の「ブッダ」より、その教えをご紹介しています。

理髪師ウパーリが最後の王子の髪を剃り落とすと、七人の王子たちは互いに笑顔を見せ合い、身につけていた宝石の指輪や腕飾りを外し、きらびやかな衣服を脱いで修行者の衣を着た。

 

アーナンダやデーヴァダッタ、アニルッダら、シャカ族の王子たちは髪を剃り落とした後、出家の許しを得るために両親に挨拶をしに引き上げていった。王子たちが去った後、出家を望んでいた理髪師ウパーリは自分の髪を剃り、修行者の衣をつけて、ブッダと弟子たちが滞在している場所を目指した。

「ブッダよ、私は理髪師をしております。王族ではありませんが、どうか、私を出家させてください」
「ウパーリよ。お前が理髪師であろうと王子であろうと、このサンガではなんの意味ももたない。真摯に道を求め修行に励むものであれば、私は喜んでサンガに迎えよう」
ウパーリは長老シャーリプトラに導かれ、出家の手続きを経て正式にサンガの一員となった。 

ほどなくして、シャカ族の七人の王子たちが両親の許しを得てブッダのもとにやってきた。
「お前たちは新参者だ。サンガの先輩たちに作法通りに挨拶をしなさい。それができなければサンガに加わることは許されない」
ブッダにこう言われ、七人の王子たちが次々に挨拶をしていくと、最後にさっきまで理髪師をしていたウパーリが修行僧となって目の前にいる。王子たちは困惑し顔を見合わせた。
「どうした?なにか不都合でもあるのか」
長老が声をかけると、七人の王子たちは首を横に振った。
「なにもございません」
王子たちはウパーリに丁寧に頭を下げ挨拶をした。理髪師と軽んじていた男に礼をするのは屈辱だったが、それに耐えなければ出家はできない。
「見事だ。シャカ族の修行僧は高慢の心に打ち克った」
ブッダはいつになく弾んだ声を上げた。
こうしてシャカ族の王子だった七人の修行僧はブッダのサンガの末席に加えられた。

「ヨーガの福音」の中で、師はブッダの教えについて説かれています。

彼の教えの特徴の一つは「小さな虫も人間もすべては仏性を有した尊い存在であり、一切万物は平等である」というものです。その当時のインドはブラーフマナ(カーストの最高位である僧職階級)が力を握っていた。彼は「ブラーフマナもシュードラ(カーストの最下位の奴隷階級)も違いはない。人は皆、平等である」と最初に言った人です。

インドにはカースト制度という厳しい身分制度があります。その中で生まれ育った王子たちが、奴隷の身分の者に頭を下げるということは、その心に非常な衝撃が起こったことだろうと思いました。それまで常識だと思っていた心の観念は一瞬にして壊され、「人は皆、平等である」という真実を受け入れたのだと思いました。
ヨーガを実践し、師から真実の教えを授かると、心は何かにはっと気付き、目から鱗が落ちるような出来事がたびたび起こります。そのたびに心はこだわりや固有の観念を少しずつ手放していって、真実に目覚めようといるのだと思いました。ブッダのお弟子さんたちも同じようにそうであったに違いないと、彼らのことをとても身近に感じ、そして真実の教えを行為するということが本当に大切なことなのだと知りました。

ダルミニー


ヨーガの道

ヨーガは、真実に目覚めるための数千年の古代から伝わる霊的な道です。ヨーガを学ぶには、ヨーガを成就したグルが不可欠です。言葉を超えたグルの導きは、道を歩もうとする私たちにとってはかけがえのないものとなります。サットサンガ(真理の集い)とは師を囲んでの神聖な集まりのことであり、師から直接教えを授かる最も大切な学びの場として位置づけられています。

先日行なわれたサットサンガの内容をお伝えしています。

質問者「ヨーガは、瞑想に坐ることができる身体をつくるために行なうと伺ったのですが、何のために瞑想をして、何を目指しているのかということを教えてください」

師「全く今のご質問が、それこそ何千年も昔から国とか民族に関わらず沸き起こる大きな問題なんですね。その答えを探求していった歴史の中で、やはりインドにおいてその探求が非常に深く大きくなされていきました。誰もが生まれ落ちて人生というものを過していく、しかしやがて死んでいくわけですよね。いったいその中で本当の幸せというのは何なんだろう。快適に裕福に暮らせることが幸せなのだろうか、例えそういう境遇に恵まれたとしても、いつ死んでしまうか分からないし、それだったら幸福だと思っていたのも一瞬にして不幸になるわけでしょう。いったい幸せというのは何なのだろう。ましてやそれの経験者たる主人公、自分ね、自分というのはいったい何なのだろう。神というのはあるのだろうか、ないのだろうか。この宇宙の秘密は何なのだろう。
そういう謎というか問題を掘り下げて答えを出していった結果、本当の自分というものは苦楽を味わうものではなくて不滅の存在である。そして自分だけではなく万物、宇宙すべての本質はそれ、同じであるということが発見されました。その境地、その悟りといってもいいけれども、その真実の境地のことをヨーガといったんです」

本当の幸せとは何なのだろう。自分はいったい何のために生まれてきたのだろう。自分はこの世界で何をするべきなのか。自分はなぜここにいるのか。人は誰しも一度は必ずこういう疑問に悩まされることがあるだろうと思います。やがて大人になり、世の中は浮き沈みがあって当たり前、喜怒哀楽もあって人生のうちと、次第にこの疑問が薄れていったり、諦めに代わったり、また忙しさに紛れて忘れてしまったりしてしまうのだと思います。でも、どうしても自分の生きていること、していること、それが不思議でたまらない、なにかがおかしい、それがなぜなのか知りたくてたまらない、本当のことが知りたい、そういう人たちがヨーガに辿りつくのだと思いました。

師「そしてそれを実現するための教えとか方法、そういうものもヨーガというふうに称されるようになって、身体が弱ければその探求も続かないから、身体も健康で強くしなけりゃいけない。そのためにはアーサナによって肉体を調えて、そして心というのは常に動揺するから心も調えなければならない。そのときには呼吸というものも同時に乱れるから呼吸を調えて、そして心を制御していく。つまり心というのは欲望とか煩悩とかいうものによって振り回されることになる。いい経験もするかもしれないけれども苦しい経験もいっぱいある。そういう心の浮き沈みというものに動じないように心も制御していかなければならない。そういう一連の修行というか勉強というものもヨーガというふうに称されるようになりました。だからその真実の実現という目的をヨーガという名称で表し、また同時にそこに至る道もヨーガというふうに称されることになりました。これが何千年、何千年というのは四、五千年ということですけれども、にも渡るヨーガの歴史なのです。
このヨーガがインド以外の国に知られるようになってまだ百年たっていないんです。特にこの数十年の間に欧米とか日本、世界中に広まって、ヨーガのほんの一部分である健康だけを目的としたアーサナというものが流行しているので、それをヨーガだと思っている人がいるかもしれないんですけれども、それは誤解なんですね。それはほんの一部分のことに過ぎない。だから瞑想というのは、ヨーガの全体の体系の中にアーサナと同じように位置付けられている大事な部分なんです。特に心を制御していくというところにおいてね。これがヨーガの全体像です」

世の中で少々の自由や幸福を得たとしても、それらは刻々と変化して一瞬のうちに不自由になり、不幸になってしまう、そうではない相対的な状況を離れたところにあるものが、本当の自由、本当の幸せ、本当の真実であると師は教えてくださっています。そのためにも心のことや、真実、真理というものを学んでいくようにと教えてくださいました。

学校では教えてくれない真実、サットサンガで繰り返し師から真実の教えを聞き、そして真実のみを行為される師の日常から真実を学ぶことによって、私たちはヨーガの道を迷わず歩み続けることができるのだと思いました。

ダルミニー


ヨーガの福音 〜カルマ〜

皆さん、こんにちは

皆さんが待ち望んでいた「ヨーガの福音」が装丁も新たに再版されました。この本はコンパクトなサイズになっていて、バッグの中にいつもしのばせておくことができます。なにげなく開いたその一ページが、あなたにとって重要なバイブルとなっていくことでしょう。

今日、ご紹介する「ヨーガの福音」はカルマです。

カルマとは作用と反作用、原因と結果のことです。
「蒔いた種は刈り取らなければならない」ということです。
今日は昨日までの結果です。
今日の原因が明日の結果となるのです。
だから「今」を生きなさい

          サットグル・シュリー・マーハーヨーギー・パラマハンサ

 「自業自得」、「因果応報」、この言葉と法則は、誰もがもうすでに知っていることだと思います。私は昔、「因果応報」という言葉を初めて知った時、それを試してみました。人に優しくするとどうなるか試してみたのです。それは単純なことでしたけれど、確実に自分に返ってきました。そして、それはおもしろいほど本当の事でした。そしてそれは、自分のことしか考えていない人、人を押しのけてまで自分が得をしようとする人には、その人が困った時に助けを求めても、誰も手を差し伸べてくれないということも教えてくれました。「因果応報」、「自業自得」の理は、この世界で山ほどありますよね。師は、この単純な因果の法則のもと、悪い結果を招きたくなければ善くしていくことであるし、そして人がその努力をしているのか、していないのかだけの問題なのだと教えてくださっています。

師は説かれます。
昨今、騒がれている環境問題というのは、人類の歴史そのもののカルマの蓄積が結果を迎えているというふうに見なすことができます。それは快適さという幸福を求めた結果の自然破壊であったり、社会の混乱であったり、あるいは犯罪もまたそうです。犯罪にはもちろん、個人的なものもあれば戦争という巨大な犯罪もあります。すべては悪徳を原因として生じたものだと思います。人類と一口に言っても、それは一人ずつの人間の集まりですから、一人ずつのカルマを無くしていく他ありません。まさにそのカルマを無くす作業こそがヨーガでもあります。無益な欲望を無くしていくこと、知足という足りたるを知ること、さらには献身奉仕という有徳の行為を積むこと、これらはすべてヨーガの主要な柱であり、それがカルマを無くしていくことになるのです。

宇宙の理を知り、ヨーガを学び深めていくことがカルマを超越する道であり、そしてそこに自らの真実が存在していると師は教えてくださっています。その教えを深く信じ、生きる支えとして、私は今日もヨーガを実践しているのです。

ダルミニー


ヨーガの福音 〜あなたは真剣か〜

皆さん、こんにちは
春ですね。この時期、桜が本当に美しいですね。古来、桜の木は花王と称せられ、国花とされて守られていたようです。桜にはいろいろな種類があり、次々と咲き乱れては、私たちの目を楽しませてくれます。そうした後に、儚げに散りゆく桜もまた美しいものですよね。

さて、お知らせです。長らく絶版になっていた「ヨーガの福音」、みんなが待ち望んでいた「ヨーガの福音」が装丁も新たに再版されました。この書は私たちの師である、サットグル・シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサの珠玉の教えが、シュリー・マハーヨーギー自らの手によって抜粋、編集、製作されたものです。この本はコンパクトなサイズになっていて、バッグの中にいつもしのばせておくことができます。なにげなく開いたその一ページが、今のあなたにとって重要なバイブルとなっていくことでしょう。

ヨーガを学び始めた頃、手にした「ヨーガの福音」、そして最初に開いたページ、そこにはこうありました。

あなたは真剣か 

まだ悟りへの情熱が不十分です。三日でもいい、寝ないで「自分は本当にこの人生で何を望んでいるのか」、「自分自身は一体何なのか」を問いかけてみなさい。生きているということは何なのか、ただ食べて寝て、そして死ぬだけなのか……これこそ恐ろしい話です。私たちは永遠の命なのです。そんな限定された命に満足するはずがありません。そんなちっぽけな人生の成功や失敗を恐れる必要はありません。幸福も不幸も塵ほどにもならない。皆さんは悟りに関して、あるいはヨーガに関しての知識は随分お持ちだと思います。でもまだ実体験は赤子のようです。頭だけでやっているからです。そうではない、悟りは「体得」と言われます。体全体で実現するものです。そう、体がなければ実現できないのです。それが人生の、生まれてきた大きな目的です。悟りにあっては体も心も消えていきます。でもそこまでは役割があるのです。生きざまそのものを、一日一日、一瞬一瞬の生き方を真剣になさい。

              サットグル・シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサ

 

「あなたは真剣か」最初に目に飛び込んできたこの教えにどきっとしました。そしてこれは「真剣にヨーガを学びなさい」というメッセージなのだと思いました。私はそれまで、正にここに書かれてあるように、食べて寝て、遊んで仕事して、それだけでいいのかな?他にすることがあるんじゃないのかなと思っていたのでした。そして師と出会い、私たちは永遠の命なんだよ、それを体得することが生まれてきた目的なんだよと教えていただいて、俄然生きていることが嬉しくなりました。他にすることってヨーガだったのね、そっちの方が大事だったのねと思ったのです。「真剣」とは、自分が取り組んでいること、自分の生き方に対して、手を抜かず夢中になること、ひたむきに、真摯に向き合うこととありました。

「あなたは真剣か」この言葉に再び励まされ、私は初心を思い出し、前だけを向いて、ただひたすらヨーガの道を歩んで行こう、そう思うのでした。

ダルミニー