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ラーマクリシュナの直弟子―トゥリヤーナンダに導かれて

先週末の日本列島に寒気が訪れた2月9日(土)、師シュリー・マハーヨーギーはNYご布教のためご不在でしたが、たくさんの熱心な弟子たちがマハーヨーギー・アーシュラマに集まり、弟子たちによるサットサンガが行なわれました。

2月9日の弟子たちによるサットサンガ

この日は、19世紀の大聖者シュリー・ラーマクリシュナ・パラマハンサの直弟子たちに焦点を当て、4人のスピーカーがそれぞれの理想とする直弟子のエピソードや教えを紹介しながら、自分自身の実践と理想について熱く語り、皆で思いを高めていきました。

今回そのうちの一人である、野口美香さんのお話を、追記抜粋編集してご紹介したいと思います。本当に寒気を吹き飛ばすかのような迫力のある熱を感じるお話でした。


私はトゥリヤーナンダの強い信念と、神への信仰心、師への信仰心に憧れています。

トゥリヤーナンダは、すべての行為を母なる神への礼拝としなさい、母を思いなさい、ということを強調されています。生涯師の教えに従って、母なる神を思い生きていかれました。そしてご自身が実践してきたからこそ、人々にも常に母を思いなさい、母だけを頼りなさい、行為を母への礼拝としなさいというふうに伝えていかれました。

スワーミー・トゥリヤーナンダ

どのようにすれば自分の生活の中の行為を、トゥリヤーナンダのようにできるのでしょうか。花も虫も、動物も人もすべてを同じように本当の意味で大切にしていけるようになりたい!と私は思うのです。

トゥリヤーナンダの生涯が書かれている『神を求めて』の本の中で、とても印象に残っているシーンがあります。

トゥリヤーナンダが、ベルル僧院に住んでいた時、若い修行僧たちを訓練するために、常に一緒にご自分自らが、いろんな仕事をこなしていかれていました。
ある時、調理できるように処理されなければならないたくさんの野菜があったので、見習い僧たちと一緒にその仕事をされます。その仕事の途中で、朝食を知らせるベルが鳴りました。もう少しで仕事が終わるから、この仕事が終わってから朝食を摂ろうとトゥリヤーナンダは言われます。そして仕事が終わってから、食堂へ行くと食べ物は何も残っていませんでした。普通は、後から来る者たちの分はとっておかれることになっています。
それで、トゥリヤーナンダは係りの見習い僧に、「われわれの食事はどこにあるか?」と尋ねます。その見習い僧は、「皆さんにとっておいた分は、プレマーナンダが不意に来た信者に上げてしまわれました」と答えます。プレマーナンダも、ラーマクリシュナの直弟子である方です。
トゥリヤーナンダは、「なぜそれが私たちの分であることをプレマーナンダに話さなかったのか」と尋ねると、
見習い僧は「どうして、私が非常に偉いスワミにそんなことが申し上げられましょう」と言います。
トゥリヤーナンダは、「なぜできないのか。もし君が彼を本当に愛しているのなら、彼が知らないことを知らせてあげることをなぜ躊躇するのだ。愛している者に向かっては、何でも話すことができるはずだ。人を愛する時、どうしてそこに恐れなどがあり得よう」と言いました。

このエピソードを初めて読んだ時、本当にそうだと思いました。トゥリヤーナンダの一点の曇りもない、真っ正直な言葉が自分の中に広がっていきました。見習い僧のとった行動が自分の傾向と似ているように思え、「なぜできないのか?」というそのトゥリヤーナンダの言葉に、私自身の問題に対しても、「なぜできないのか?」と考えさせられ、この言葉が胸に突き刺さりました。

このエピソードがずっと私の心に刻まれていて、こういう場面に自分が出くわすと、この教えが自然に浮かび、力を与えてくれるようになりました。

もし自分の役割に徹するならば、その食事は後から来る人たちのために取ってあることを伝える必要があったし、そこに何の計らいも必要ありません。相手がどういう立場の人であっても、遠慮したり、気付いているけれどしない、というのは、どこかに自分を守ろうとしている弱さがあるからです。誠実とは真逆のことになります。そんな行為は、神に捧げられないと思います。

トゥリヤーナンダは、「礼拝の精神で行なわれる仕事は、現代に相応しいたった一つの霊性の修行である。すべてを母なる神への礼拝として、母に捧げなさい、そしてただ誠実であれ」というふうに言われています。
誠実であるためには、些細なことですが、自分の弱さや余計な計らいがたとえあったとしても、それに気付いたなら、すぐさま無視して、自分の中の真理への信念を貫くという強い意志が必要になるのだと思います。
毎日の中の小さな仕事を礼拝として行なうためには、その些細な矛盾をなくしていかないといけないと思っています。自分に与えられた役割に全注意力を向けて、少しの計らいも入らないほど集中する訓練を繰り返ししていこうと思います。
トゥリヤーナンダがラーマクリシュナの教えに従って信仰を貫いて生きていかれたように、私も師であるヨギさんからいただいた教えを貫いて生きていきたいです!!!

今の私に最も響くトゥリヤーナンダの言葉を紹介します。トゥリヤーナンダはこの言葉をたびたび繰り返されたそうです。

あなた自身であれ、強くあれ。悟りは強く、純粋で、真っ正直な者だけに与えられる。自分はアートマン(真の自己)である、ということを忘れるな。このことはあなたに最大の力と勇気を与える。勇敢であれ。マーヤー(無知)の束縛を断ち切れ。ライオンのようであれ。何事にあってもびくびくするな!スワミジ―(スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ)はあなたに、あらゆる魂は内に神性をひそませている、と教えたであろう。自己の神性を悟れ。そのときにあなたは、すべての魂は神である、ということを悟るであろう

野口美香

サットサンガにて話をする野口さん。


日常が真剣勝負!

アーサナや瞑想は練習問題のようなもので、日常こそが真剣勝負だと師は教えられます。

今回、師の直伝クラスやサットサンガにも熱心に通われ、真剣にヨーガに励んでおられる藤原さんが、ご自身の体験を寄稿してくださいましたので、ご紹介したいと思います。


昨年末のサットサンガで、ヨギさんに識別についてお聞きすると、エゴに気づいたら、それが出てくる前に忍耐して制御していくように。そして、他者にはやさしく行為するようにと教えてくださいました。

ところが、年明け早々に久しぶりに夫と大喧嘩をしてしまいました。
その引き金を引いたのも、この喧嘩を招いたのも“私は正しい”というエゴ的な思いから生まれた日常の私の言動だったのです。私は今まで一体何をしてきたんだろう…と何もかもが崩れ去っていくように感じ激しく動揺しました。
その一方で、いつもと変わらず動じることもなくその様子を見ていた息子は、私の肩をやさしく撫でてそっと寄り添ってくれました。その姿にヨギさんを見たように感じました。

その時にやっと私は、ヨギさんから授かったこの教えが、自分にとってどれほど必要なことなのかを思い知るに至りました。
私はヨーガを学び実践が大切だと日常を過ごしていたつもりでした。そして、少しずつですがその日常に良い変化も感じていました。でも、いつの間にかその結果に執らわれてしまい、自分のエゴに気づかずにいたことに気づきました。

この激しい動揺をしずめてもう一度やり直さないといけないと思いました。
ヨギさんのようにいつも変わらず同じで在りたい。その為には、徹底的にエゴをなくしていかないといけない!

以前、クラスでラーマクリシュナが教えられている6匹のワニのお話があったことを思い出しました。
人の心にある怒り、嫌悪、色欲、欺き、高慢、羨望という6つの欲情をワニに、心を池に例えて、池に棲んでいる6匹のワニが時々出てきて心をざわつかせるというお話でした。
何事も自分の思いどおりにはならない、諸行無常、カルマの法則、この世の中の道理を正しく理解して、このようなネガティブな感情が湧いた時には、エゴが思いどおりにしようとして暴れているのだから、即座にその反対のポジティブな思いを起こすのがいい。怒りには寛容を、嫌悪には愛を、色欲には清浄を、欺きには誠実を、高慢には謙虚を、羨望には賞賛を。そして、その時のポイントは、条件付きではなく、いついかなる時も、誰にでも無条件に行なうことだと教えてくださっていました。

これからも何度も何度も心に言い聞かせ、忍耐強くエゴとの真剣勝負に挑み続けたいと思います。

藤原 里美

MAMA YOGA lilāは、篠山市、丹波市で活動しているヨーガのサークルです。藤原さんがアーサナをリードしています。下、写真右端が藤原さん。


計り知れない導き! サットサンガより

1月12日、今年最初のサットサンガが行なわれました。師がご布教のため16日よりニューヨークに渡米されることもあり、たくさんの弟子が集いました。
その中で、質問者だけでなくその場にいた全員に向かって、力強く、熱を込めて話された教えを、抜粋してご紹介させていただきます。

「誰もが1日の中で三分の一は眠っているでしょう。その中できっと夢も見ているはず。夢の世界とこの昼間の世界とは全く違うでしょう。どちらが本当ですか?どちらも同じなのです。夢は、心の奥深いところから現れてくるある種のストーリーです。昼間の世界は、心の表面の部分が活動して出来上がった世界です。どちらも、心が作りだした世界ということで同じなのです。どちらも夢のようなものです。
一方で悟りの世界というのは、確実なリアリティーの世界です。それだけが真実です。そこから見れば、この世の中は実に儚い、朝の露のように一瞬の煌めきを持っていてもすぐさま消えていく。
誰もが肉体を持っていて、肉体は食べ物によって養われていますから、何らかの仕事もしなければいけない。また、家庭生活も必要でしょう。様々な付随する用事も多々あると思います。でもそれはそれだけのことです。それが目的ではないのです」

「心が何を思おうが全く値打ちのないものです。いささかの値打ちもない。真理というのは確実にあります。それを体感することがヨーガの目的なのです。過程の神秘体験とか快感とか、そんなものを目指しているものではないです。心はいつまでたっても真理を知ることはできません。なぜなら、心と真理とは別物なのですから。やるべきことは心をなくすことなのです。心を空っぽにして、なくすことなのです。そうすれば、自らの内にある真理そのものが現れます。これは、単純な真理です」

この二つの教えは、何度も何度も繰り返し、師の口から言葉となって発せられ、これまでも幾度も聞かされてきました。初めは、よくわからなかったのですが、耳にすると自然に涙が溢れることがあったり、次第に「確かにそうだ」と思うようになり、そして「本当にそうだ」と感じるようになってきました。師から直接聞く真理の言葉には、計り知れない導きがあると感じています。
この真理の教えが土台となって、日常の様々な事柄を見て、心を識別していくことによって、「何が大切で、これからどう生きていくのか」という私自身の理想が具体的になっていきました。これからも、その目標に向かって、さらにヨーガを深めていきたいです。その決意が胸いっぱいになったサットサンガでした。

山口正美


屈託のない心、空っぽになる! サットサンガより

12月8日、今年最後の定例サットサンガが行なわれ、師の下に各地から大勢の弟子たちが集いました。 

この日も問答の中では、日々心に留めて実行していくべき大切な教えをたくさんいただきました。

識別力を高め、徹底して執着の原因を明らかにしていくこと。
愛に言葉は不要、やさしさや奉仕という実際の行為にしていくこと。
聖者の思い、完成まで至った情熱を感じ取り、それに倣っていくこと、等。

師の息遣いとともに入ってくる力強く、潔い真理の言葉にインスパイアされ、幾度となく心が揺さぶられました。

そして今回のサットサンガでは、幸運なことに、師の幼少の頃のさまざまなエピソードをお聞きすることができました。師がとっても軽快に、絶妙なユーモアを織り交ぜて話されるのに、私たちは時には大笑いしながら、目を輝かせて聞き入っていました。

印象的だったのは小学生の頃のこと。
8歳の時、師は突如、真我に目覚めるという体験をされましたが、その時は周りの友人も皆同じような経験をしていると思い、誰に話すこともなく、毎日、無邪気に遊ぶことに夢中になり、とっても快適に過ごされていたそうです。

また、その時分は毎晩のように神秘的な体験が起こり、それが後になって、すべては『ヨーガ・スートラ』に説かれている、シッディ(神通力)であったと理解されたそうです(驚くべき話です!)。
師曰く、その体験は映画以上におもしろかったということですが、もちろん師はそのような経験に対して期待を抱いたり、とらわれることは一切なかったそうです。

霊的な体験を得るために、心の状態をどのようにすればよいのかという問いに、師は次のように答えられました。

「小学生の時に心はすごく晴れやかで、軽やかで、何の屈託もない、何の波風もない状態だということを自覚していた。つまり自分の心を知っていたわけです。

心に何の思いもない、記憶も邪魔にならいほど空っぽの状態をつくりなさい。そのような状態が保てたら、体験はすぐに起こると思う。それが条件です」

お話をお聞きした時、自由無碍で、凛とした可愛らしい少年の姿が思い浮かんだのと同時に、今目の前におられる師は、大人の姿形をされているけれど、本当に少年の頃と何ら変わりないのだと思いました。
そして、一点の曇りもない、師の澄み切った心が、私の中にも広がっていくような感覚が一瞬、訪れました。

心の余計な思いは何もかも一掃しよう! そこに真実の実現への道が開かれる!
あぁ、師のようにいつも清々しい、空っぽな心でありたい、と強く思ったサットサンガでした。

マードゥリー


サットサンガより どうすれば恩寵を得られるか?

ヨーガは、真実に目覚めるための数千年の古代から伝わる霊的な道です。ヨーガを学ぶには、ヨーガを成就したグルが不可欠です。言葉を超えたグルの導きは、道を歩もうとする私たちにとってはかけがえのないものとなります。サットサンガ(真理の集い)とは師を囲んでの神聖な集まりのことであり、師から直接教えを授かる最も大切な学びの場として位置づけられています。

神の恩寵と聞くと、みなさんはどういうことを連想しますか? 病気治癒や良縁に恵まれるなどのご利益的なものでしょうか? また、神への信仰をもっている人は、良き出来事に遭遇したり状況が改善されると、神の恩寵だと感じることがあるかもしれません。

神は恩寵を与えるのでしょうか?  それはどのように与えられるのでしょうか?  先日行なわれたサットサンガで私は師に質問しました。

チャイタニヤ:純粋意識である真我(アートマン)は、ただ見ているだけの存在で何かを語りかけたり、働きかけたりしないと教わっています。では、真我とイコールの神が恩寵を与える意味とは何なのでしょう? またどういう時でしょう?

師:神なるアートマンは常に恩寵を与えています。しかしエゴや煩悩に穢されている心はそれを知らないし、また受け取ることができない。恩寵を受け取る、あるいは感じるときは切羽詰まっているときであったり、限界のとき、そしてヨーガによって心の浄化が施されていった中で恩寵を感じることができる、そういうものです。恩寵は常に、まるで太陽の光のように与えられている。

チャイタニヤ:自分にとって好ましいことや都合の良いことを恩寵と考えると、現世利益的な神の崇拝に繋がっていきませんか?

師:それは厳密には恩寵とは呼ばない。恩寵とはもっと神聖で穢れなき祝福、あるいは霊感というものです。

神は太陽のように常に恩寵を与えている。心はその真実を知らないだけで、大事なことは、エゴや煩悩という心の雲を取り払えるかどうか。つまり「識別」できるかどうか――

10月のサットサンガで、師は心の浄化に不可欠な識別について説いておられました。

師:やるべきことというのは、自らの心を観察して、そうして自分にとって心にとって、どんなこの世に対する執着や、あるいは未練があるのだろうか、それをもう徹底的に行なうということです。これは識別です。本当はこれをまずやらなきゃいけない。でもその大原因が無知ということなので、なかなか目に見えない相手だから、完全にこれをなくしてしまうのは難しいようにも見えるかもしれない。しかし一方でサーダナ、つまり修行を深めること、怠らずに行なうことをやっていけば、それらが浄化の力となって、また聖典や真実の言葉を聞きながら、その識別力も高まってくるに違いない。目に見える物質的な執着というのは、簡単に識別もできていくかもしれない。でも根本は無知といわれているエゴを真我だと錯覚していることであったり、この複合的な世界があたかも永遠であるかのように思っていたり、その中で幸福を見つけようとどこかに思っていたり、そのような漠然としているけれども、しかし心の奥底に根付いてしまっているような間違った思い、これを完全になくしてしまうことが放棄ということになります。だからこの識別的瞑想というのは、力強く積極的にやっていかないといけないものです。そうすればおよそ思いつくさまざまな事柄について、もう未練がない、執着がないとしっかり言えるような時がやってくる。

穢れなき恩寵を受け取るには、穢れなき心をつくり出す徹底した識別あるのみです!!!

チャイタニヤ

 


2018年秋 台湾特別サットサンガ速報

11月1日(木)、シュリー・マハーヨーギー秋のご訪台第一回目のサットサンガが開かれました!

サットサンガには多くの方が参加され、初めてヨーギーに会われる方がそのうちの約半数ほどを占めていました。この日は終始ヨーギーから発散される強力なエネルギーによって、会場のすべてが支配されているかのようでした。多くの参加者はヨーギーの存在そのものに圧倒され、魅了されていました。質問が途切れることなく続き、あっという間にサットサンガは終了しました。サットサンガ終了後は、たくさんの方が目をきらきらさせながらヨーギーとの謁見の感動を話してくださいました。また、多くの喜びの声と決意が寄せられましたので、その一部をご紹介したいと思います。

「再び台湾に来て導いてくださってありがとうございます。今日のサットサンガにとても感動しました。学び、そして精進し続けたいという気持ちがもっと強くなりました。これからも自分が正しく学んでいけますように」

「私も本当に悟りたい、目覚めたいです」

「グルの存在に感謝いたします。グルの存在によって、この移り変わりゆく世界の中に、私の魂は拠り所を見つけることができました」

「ヨギさんはグルの存在は自分のためではなく、弟子が傷つかないためにあると話されました。自分は本当に深く愛されて、守られていると感じました。ヨギさんは私と私の家族に大きな安堵を与えてくださいました。過去世からもってきた恐怖は、毎回ヨギさんにお会いするたびに次第に力を失っています。今、頭で理解できなくても、私の心は確かにそれを感じています。ヨーガの教えを生きていけるようにがんばります!」

その他にも、サットサンガの時間が短すぎるのでもっと延長してほしい!という声がたくさん上がったそうです。

今回のご訪問では、あと二回のサットサンガが予定されています。さらに多くの魂たちが真のヨーガの元に辿り着くことができますように!

mirabai (in 台北)

 

 


サットサンガより バクティ・ヨーガの態度

ヨーガは、真実に目覚めるための数千年の古代から伝わる霊的な道です。ヨーガを学ぶには、ヨーガを成就したグルが不可欠です。言葉を超えたグルの導きは、道を歩もうとする私たちにとってはかけがえのないものとなります。サットサンガ(真理の集い)とは師を囲んでの神聖な集まりのことであり、師から直接教えを授かる最も大切な学びの場として位置づけられています。

神を愛することで神と一つになるバクティ・ヨーガには、5つの態度があると教えられます。

シャーンタ(平安な心の態度)、ダースィヤ(召使いの態度)、サキヤ(友人の態度)、ヴァーッツァリヤ(子を思う親の態度)、マドゥラ(愛人の態度)。

先日行われたサットサンガで、私はマドゥラ(愛人の態度)について師に質問しました。

チャイタニヤ:私は自分の身体が男性だというところで、愛人のように神を想うマドゥーラの態度が理解できないです。そういう態度を示している弟子を見ていると、ためらいや遠慮とかが無くなっている。私はそういう女性的な態度をとることがきないです。

師:まず、自分が男の身体を持っているという肉体のことは忘れないといけないです。神だけが男性であって、男女ということで言えばバクティにおいては、バクタはすべて女性としてみなされる。そのことをまず整理して、ただ神に飛び込むようにするのがいいです。

チャイタニヤ:私には躊躇というか遠慮というか、畏れ多いと感じるのです。でも本当に神と一つになりたいと思って近づいている人には、そういう思いは全く見えません。もう放棄が済んでいる、明け渡しているということですか?

師:ええ、そういうことを意味します。誰もが初めから完全な放棄ができているわけではないかもしれない。それでもバクティを深めるうちに残されている放棄も速やかに行なわれていくはずです。

神の愛人として神だけを激しく求め、一つになろうとするうちに他の一切余計なものが振り落とされる。最愛の神以外に何もいらない。たとえ自らの命であっても……最も強烈な究極の愛の形。マドゥラ・バーヴァ(愛人の態度)はただ愛ゆえに愛するのです。そこには自分という痕跡が跡形もなく消え去っています。

サットサンガ終盤にある弟子が識別について質問しました。「先月のサットサンガでボートを漕ぐ前にロープを外すことを教わりました、でも私は神様を思うことで、別に自分で外そうと思ったわけではなくても勝手に外れていたと思うんです!」とキラキラした笑顔で話していました。

純粋で喜びに溢れた彼女を見ていると、愛に勝る力は無い。神を愛すること以上に為すべき事など本当は無いのだと感じました。

チャイタニヤ


サットサンガより 「ロープを外せ!」

ヨーガは、真実に目覚めるための数千年の古代から伝わる霊的な道です。ヨーガを学ぶには、ヨーガを成就したグルが不可欠です。言葉を超えたグルの導きは、道を歩もうとする私たちにとってはかけがえのないものとなります。サットサンガ(真理の集い)とは師を囲んでの神聖な集まりのことであり、師から直接教えを授かる最も大切な学びの場として位置づけられています。

ヨーガを深めていくと、肉体の変化や呼吸の変化を感じることはよくあります。しかし私の場合、瞑想における深まりはというと、もどかしいばかりの日々が続いています。

瞑想の最終到達点はサマーディ。悟りです。憧れをもってそこへ行きたい。その境地を味わいたい。真理を実現するためにすべきことも、すべきでないことも一通り学んできたつもりです。しかし依然として悟りへの道は果てしなく遠く、目標に近付いている気配すらありません。

先日行われたサットサンガで、ニューヨークから三ヶ月ぶりにお帰りになったばかりの師にその事を質問しました。

師:今回、ニューヨークでも似たり寄ったりの弟子たちの心情を聞くことがありました。彼らは一所懸命、聖典を学び、そしてサーダナ(霊的修行)も行ない、ヨーガを深めているようなのですけれど、しかしまだ安らぎには達していない。なんとか本当の幸せ、自由というものを望みます。そんな時、真理の教えがやってきて、本当はこうだよと教えてくれる。例えればそれは彼岸というか、あの向こう岸に達すれば、そういった幸せな世界があるよと教えられるようなものです。そして、みんなは熱心にボートを漕ぎ出す。一所懸命漕いで、一日中漕いでーー翌朝目が覚めれば、まだこの岸の一寸たりとも動いていない。なぜなら、ボートを繋いでいるロープを外していなかった。だからいくら漕いだって進むわけがない。やるべきことは、まずロープを外すことです。船を杭に止めているロープですよね。これがこの世における執着、あるいは煩悩とか無知といわれているものを象徴しているわけです。それが繋がっていたらいくら漕いだって動きもしない。だからまず、それを外しなさい。そうすれば、軽やかに向こう岸に辿り着くことができる。

では、どうすればロープを外せるのでしょう?

師:まず識別をして、この世を正しく見ること。そうして識別をするならば、その中で自分の心がどれほどこの世に執着をしているか、あるいは何が残っているかということが見つけられ、もっと識別を深めることによって、その原因である無知や煩悩が見つかる。さらに識別をすれば無知は間違っているということに気付かされ、心から無知が滑り落ちる。これが放棄という状態になる。あるいは無執着という状態になる。ロープが外れる瞬間のことです。

心から無知が滑り落ちる!!!それが放棄……放棄というと、頭を丸めて世俗の楽しみに背を向けて耐えることのように感じていました。

悟りのために行なっているサーダナ(霊的修行)が深まっていかないのは、この世における心の煩悩や無知が絡みついているからーまず正しい教えを学び、この世を正しく見る。識別によって自分の心に絡みついた結び目を一つ一つ解いていくしかありません。

ボートを漕ぎ出せ!しかしその前にロープを外せ!!

チャイタニヤ


松山特別企画 バクティ・サンガム2days ⑵‼️

前日に引き続き、秋になったかと思うような本当に気持ちのいい朝でした。(前回のブログはこちら☜)昨日もバクティ・サンガムとサットサンガに参加された女性が、2日目のバクティ・サンガムが始まる前に、「幸せすぎて、昨夜はあまり眠れませんでした~」と嬉しそうにおっしゃっていましたが、すごく分かります!私もその1人です(笑)。

2日目のバクティ・サンガムでは、15世紀の終わり頃、キールタンを最初に人々に伝えたといわれているシュリー・チャイタニヤの半生がバクティ名作劇場と題した朗読芝居で紹介され、歌った曲はチャイタニヤが愛したクリシュナの歌「Hare Krishna」と「Bhaja Nita-i」でした!
一通り歌った後、ミラバイさんは名作劇場でのチャイタニヤのお話を分かりやすく要約してくださいました。チャイタニヤは私たちの人生でいちばん大切なのは「神への愛」であるという言葉を残しています。神は決して遠くにいる存在を指すのではなく、私たち誰もの中にある。つまり、私たちの本質が神なるもの――
そしてミラバイさんがもう一度チャイタニヤの大切な言葉を声に出そうとした瞬間、ミラバイさんは神への愛で満たされて、どうしても話せなくなり、代わりにヨーガダンダさんがチャイタニヤの有名な言葉を紹介してくださいました。

神の御名は神そのもの
神は愛
神の御名を唱えるだけで、誰もが神に近づくことができる

ミラバイさんがこの言葉そのものを体感している様子を目の当たりにした私たちは、胸がいっぱいになりました。

夢中で繰り返し繰り返し歌っていくうちに、心が神で満たされていきます。

バクティ・サンガムに続いてのミラバイさんのサットサンガでは、「目の前の人を神と見るにはどうしたらいいか」「日常を調える具体的なやり方が分からない」「神を愛する実践について」などの質問がありました。
印象に残った問答をご紹介します。「人生でいちばん大事なことは何でしょうか。神への愛が大事だと頭では分かっていますが、まだピンときていません。私には将来のことに悩んでいる娘がいます。ヨーガの言葉を使わずに、私にも娘にもわかるように教えてください」という質問に対し、ミラバイさんは「自分の命を生ききることだと思います。人それぞれ大事にしているもの、目標にしているものは違うかもしれません。今生でヨーガに出会う人もいれば、出会わない人もいる。私自身はヨーガの中に大事なことがあると思いますが、どんな立場、状況にあろうとも、その命を最大限大切にして生ききっていくことができたらいいかなと思います。どういうふうにしたら自分の命を輝かせていくことができるのか、それを考えてみてください」と答えられました。
後日、その質問をされた方から感想のメールをいただきました。

「命を生ききる」——ミラバイさんの言葉を聞いた時、胸の奥から込み上げてきて涙が出ました。ヨーガをやってない娘は救われないと思っていましたが、ヨーガをやってない人にもできるヨーガだと思いました!今後どのような境遇に置かれても、逃げずにきちんと向き合って生ききっていく勇気が湧いてきました。大事な事を、本当に分かりやすく教えていただきました!
バクティ・サンガムの感想も述べさせてください!今まで、キールタンを歌って泣いている人の気持ちがまるで分かりませんでした。でも今回バクティ・サンガムに参加させていただき、とにかく心から必死に歌っていたら、なぜだか胸が熱くなり涙が込み上げてきました!不思議です。本当に楽しかったです!

他にも参加者の皆さんの喜びの声をお伝えします。

・気持ちのいい時間でした。人が発展とともに忘れてきた真の喜びに触れた気がします。
・疲れのせいか体がしんどかったけど、みんなで歌った後はとても軽やかになっていて、キールタンで神の御名を唱えることはすごいなと感じました。YouTubeで聞くより生のミラバイさんの声はすごくよかったです!あんな声は聴いたことがないです。
・「Rama Rama Rama」のキールタンが頭から離れません(なんと3人以上も!)
・私はしんどい時ほどアーサナを実践したいと思いました。
・キールタンを歌いながら、全体が歓喜に包まれているような心地良さがありました。笑顔で歌われているミラバイさんの姿を見て、すごくすごく感動しました。本当にすばらしかったです。(後日談)ここのところ読めなくなっていた『ラーマクリシュナの福音』が自然に読みたくなって、以前と違って素直に読めるようになりました。瞑想のとき、心の奥(神がおられる場所)に行きたいという思いが強くなっています。

ミラバイさんのサットサンガ。

2日間のバクティ・サンガムとサットサンガでミラバイさんとヨーガダンダさんは、心が神へ向かうように分かりやすく何度も伝えてくださいました。

神への愛の歓びでいっぱいになった2日間!!!
私自身が感動し鼓舞されたのは、ミラバイさんとヨーガダンダさんの内面の清らかさと謙虚さがそのまま言葉となっていたこと、そして目には見えない日々の努力の積み重ねが感じられ、それによってみんなが励まされたことです。
忘れられない夏になりました!
このような機会をいただいて師シュリー・マハーヨーギーに心からの感謝を捧げます。

最終日、ミラバイさんたちと訪れた塩屋海岸。大自然のシャクティ(女神)の優しさに包まれました。

アーナンディー


松山特別企画 バクティ・サンガム2days ⑴ ‼️

松山のアーナンディーです。
今年の夏は台風が多いですね。皆さま、お元気でお過ごしでしょうか?
その台風の合間を縫って8月18日(土)、19日(日)の2日間、ミラバイさんとヨーガダンダさんが松山に来てくださり、バクティ旋風を巻き起こしてくださいました。
今日からこのブログを読んでくださった方のために♡
バクティとは神への愛のこと、バクティ・サンガムではキールタン(神への讃歌)を歌います。キールタンもヨーガの1つです。神を愛し、心を純粋にしていくことによって、ヨーガの目的である神とひとつになることを目指します。
文字にすると難しく感じるかもしれませんが、実際は頭を使わなくていいですし、とてもとても楽しいのです!

私は皆さんにメールでご案内するとき、ミラバイさんが歌っている動画付きでご案内しました。(動画はこちら☜)
すると面白そう!と興味をもっていただき、初日は参加者31名(内11名が初参加)、2日目は33名(内6名が初参加)で、両日参加の方が19名で大いに盛り上がりました!!!

松山ヨーガ・サークルの会場はサリーで美しく大変身!

優しい笑顔と声に魅了され、会場の皆さんの気持ちがほぐれていきました。

ミラバイさんはやさしく丁寧に神について話されました。
「日本では神様は馴染みがないかもしれませんが、歌っていくうちに本当の神様は自分の中にあるということが感じられていきます。それはこの命を生きていく中で、本当はいちばん大切なこと」、そして「インドでは深く神を愛した人がいて、その人たちの息吹に触れることは私たちにとって、とても勉強になります」とおっしゃり、バクティ名作劇場と題して、ラーマという神様への愛と信仰に溢れた聖者のお話を紹介してくださいました。1日目は「Rama Rama Rama」というシンプルな曲と、「Jaya Jagadambe!」という女神の曲を歌い、ミラバイさんのリードに初参加の方もすぐに馴染んで、会場が次第に神の御名でいっぱいになり、喜びに包まれていきました。

バクティ・サンガムの次に、ヨーガダンダさんがサットサンガをしてくださいました。
サットサンガでは質疑応答によってヨーガの学びを深めていきます。
「人間関係のトラブルをどうしたらいいか?」「自信をつけるには?」「聖者への瞑想について」「謙虚さを養うには?」などの質問がありました。

ヨーガダンダさんのサットサンガ。

ヨーガダンダさんは人間関係のトラブルに悩む方の質問に対しては、「相手の心を変えようとするよりも、まずは自分の心を静かにするべきで、心が静まったらどう対処すべきかが見えてくるはず。またアヒンサー(非暴力)という徳目を徹底すると誰からも危害を加えられないという結果を迎えるといわれているので、そのようにして自分自身を調えていくことが堅実だと思います」と話されました。別の質問で、病気などの不調で体がしんどくなると神様のことを思えないという方に対しては、「できる範囲でアーサナをして体を調えてから神様を思うのも一つ。ヨーガは、身体、呼吸、心というふうにつかみやすいところから段階的に進めていくことが可能で、アーサナは神様の贈り物」だと話されました。質問者の皆さんは勇気づけられ、表情がどんどん明るくなっていきました。

2日目のご報告は、次のブログでさせていただきます!

アーナンディー