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サットサンガより 目的と方法

ヨーガは、真実に目覚めるための数千年の古代から伝わる霊的な道です。ヨーガを学ぶには、ヨーガを成就したグルが不可欠です。言葉を超えたグルの導きは、道を歩もうとする私たちにとってはかけがえのないものとなります。サットサンガ(真理の集い)とは師を囲んでの神聖な集まりのことであり、師から直接教えを授かる最も大切な学びの場として位置づけられています。

毎日のサーダナを実践する上で、しんどいなとか面倒だなと感じる日は誰にもあると思います。

私もヨーガに出会う以前に、仕事が忙しすぎて帰って眠るだけという生活が数年間ありました。その時の自分に、サーダナをする時間と余裕があったかと考えると、できなかったと思います。

そういう環境の中では、ヨーガを中心にした暮らしは、簡単に望めそうにはありません。思い切ってガラッと生活を変えることができればいいのですが、家族や周りとの調和を大事にすると、あるいは自分自身今のこの生活を捨ててヨーガに飛び込めるか?と揺れてしまうと、何年も場合によっては何十年も我慢しなければならないかも知れません。

今の境遇は自らのカルマにしたがって有るのだとすれば、今の環境でできることをするしかありません。

日常がとても忙しく、ついサーダナができない日があります。そうすると、「今日はできなかった」とか、「さぼってしまった」という罪悪感や後悔の念が起きてしまいます。自由に軽やかになる為にヨーガをしているはずなのに、これでは反対に苦しいばかりですよね。

先日サットサンガで弟子の質問に師はこう説かれました。

質問者「状況とか場所が変わって、その中でサーダナを試みてもなかなか集中して行えない自分の弱さがあります。サーダナをやっても途中で疲れて寝ちゃったりして、罪悪感というか……。でもその気持ちをもっと前向きに望みたいんだけれども、なかなか自分で壁を作っているところがあります。そこを突破する、やれるようになるにはどのようにしていったらいいでしょうか」

ヨギ「サーダナは目的ではないんですよね。だから目的と方法というものを混同してはいけません。サーダナはあくまでも方法にすぎないわけで。それは目的ではないんですよ」

質問者「何のためにするか、ということですよね」

ヨギ「そうです。目的が真理を実現することであるならば、もちろん、このヨーガのサーダナはそのためにあるわけですから。それは結局のところは心を浄化する、きれいにするということ。サーダナというのはそのためのものですよね。じゃあ、それにはサーダナはいくつも色んな方法があります。アーサナや瞑想だけではない。信仰もそうだしね。だからもっと目的に直接的なところを踏まえて、心に持っていないとだめ。常に真理を持っている。神を思っている。そういうふうにして信仰を高めていくこと。それが大事です」

サーダナとはアーサナだけではない。日々の他者との関わりの中で積極的に奉仕を行うカルマ・ヨーガ。常に真理を物事の判断基準として生きる。そして境遇が例えどんなに荒れ狂う嵐の中にあっても、心は常に神の中に留まる境地、信仰という強いよりどころを持つこともサーダナなんですね。

人それぞれカルマにしたがって与えられた境遇は違いますが、ヨーガに出会って発心がおこり、この道を進もうと決めた。と言うことは既にヨーガの道に向いて進んでいるということだと思います。停滞や挫折を感じても、確実にカルマの道からヨーガの道に舵を切って進んでいる。だからこそ、残っている心の習性や習慣との格闘があるのだと思います。

カルマの世界で心に支配されるのが嫌なら、心の声は聞くべきでは無いですね。真理の存在を信じられないと思っているのも心だからです。本当に求めるものは何なのか?自分はこれからどう生きたいのか?目的をしっかりと見すえて、その為の方法を淡々と実践することが一番確実で早道なんだ…それ以外に道は無いと改めて思い知らされました。

器官を統御して貪欲という難敵を滅ぼす力が、自分にはないとおまえが考えるならそれは間違いだ。なぜなら肉体より器官、器官より心、心より知識、知識より魂の方が格段にすぐれ、精妙、かつ強力でもあるからだ。 『バガヴァッド・ギーター 三章 四十二』

Caitanya


松山特別サットサンガの感想‼️

前回のサティヤーに続き、松山グルバイの山口正美さんが松山特別サットサンガに参加した感想を寄せてくれました!
三児の母である山口さんですが、お子さんも成長して母としての役割を果たそうとしている今、神への熱い思いと決意に満ち満ちています!


「これからの人生をバクティ・ヨーガ成就のために使う!神に狂うんだ!」

5月19日、20日に開催された松山特別サットサンガでヨギさんが松山に来てくださって、そう決意することができました。

ヨギさんのお話から、誰かの心が見ている世界がこの世界をつくり出していて、そこに真実はないということ、マーヤーなんだということを直感しました。同時に、神のみが唯一の真実、リアリティーなんだと納得しました。
そして、神に狂いたい気持ちの反面で、そうすることによる世間や家族との生活での不安をヨギさんに打ち明け、「安心して進んでいいよ」とお言葉をいただき、「よし!行くしかない!」と胸が熱くなりました。
家に帰って瞑想をして、その後もヨギさんのお写真の前から離れられず、ヨギさんのお写真の前で眠りました。

『行為でもって愛をあらわしている、それが奉仕です』

松山特別サットサンガでのこのヨギさんのお言葉は、私の心につきささりました。
今まで、「役割だから」「ヨーガの教えだから」ということに縛られ、「精一杯やるんだ」「失敗しても気にしないんだ」「自分の心を捨てるんだ」と一体、私を主人にして何をやっていたのでしょうか⁇

もっともっと神に占領されたい!
神に狂いたい!
神の道具となって、周りの人に行為したい!
今の私は、神を求めることだけが生きる道です。

ヨギさんが帰られて、今、私には、「シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサ、このお方が私のすべてのすべてである。そして、私の生涯をかけてお仕えするんだ」ということだけがあります。

シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサ キ ジャイ︎!!!

山口正美


松山特別サットサンガのご報告‼️

5月19日、20日にシュリー・マハーヨーギーの特別サットサンガが愛媛の松山で開かれました!!!
レッドソックスの大谷が6号ホームランを打った18日、マハーヨーギー・ミッションの共用車シトロエンを走らせ、いざ京都を出発🚗💨
天気予報は雨だったにもかかわらず、空は晴れ間も見え、休憩のパーキングエリアでは強烈な日差しが照ったり、夕食時突然の大雨の音が外から聞こえてくるも、ヨギさんが一歩外に出ると雨は止んでいました。
私は尋ねました、「ヨギさん、大谷は何であんなにメジャーで活躍できているんですか?」

「もっているとしか言いようがないわ」

いやいや、ヨギさんも「もっている」というしか言いようがありませんよ!!!

サットサンガは両日ともに快晴の中、満員の参加者で埋め尽くされ、会場の松山ヨーガ・サークルは熱気と集中感でパンパンに!!!
特に初日のサットサンガは、ヨギさんが着座されるやいなや問答がスタート!
そこから質問は途切れることなく、真剣さあり、笑いあり、涙ありの素晴らしい内容でした。
このブログでは、1日目のサットサンガの様子をダイジェスト版で報告させていただきます!

5月19日(土)1日目のサットサンガの様子!

会の前半、初参加の男性が真剣な眼差しで「人生の目的と、それを達成するための手段を教えてください」とストレートに質問、ヨギさんは次のようにはっきりとお答えになりました。
「人生の目的、それは真実を悟ることです。その真実とは何かと言えば、本当の自分を実現することです。この世界は生まれては変化をし、そしてすべて消滅をします。この身体も心も、刻々と変化をしてやがてはなくなります。しかしなくなるものにあって、なくならないものが一つだけあるのです。それが魂という(力強く)存在なのです。そして誰もがその魂の顕れなのです。これを学んでいくに従って、同時にこの世のあり方とか心の有様、さまざまなことも理解されていきます。そうしてそれらには執らわれないで、本当のものだけを求めていこうという気持ちがより強くなっていきます。そのための学びや瞑想というような思いを集中していくことによって、それは自覚されることになります。この人生の目的である真実を、その存在を実現してください!」
終始、ヨギさんのお言葉を瞬きもせずに聞いていた質問者の男性。深々と頭を下げるその目には、涙が滲んでいました。

会の中盤、「お釈迦様の教えの一切皆苦をまだよく分かっていなくて、自分は年から年中苦しんでいるわけでもないし、楽しいこともあるし、世の中を見てもそれなりに幸せな人も多いんじゃないかと思うんですけれど、一切皆苦とはどういうことを言っているのか教えていただけますか」と熱心にヨーガを実践しているKさんが素直な疑問を投げかけます。ヨギさんは、「よくよく見つめてみれば、この世の中というのはすべてが苦しみに終わる。その苦しみの中身は何かというと、誰もが経験するかもしれない年老いること、あるいは病気、そしてまた死という事実がやがてやってくる。それはやはり生まれたから死ぬということであって、つまり生病老死というふうに生まれ、老い、病し、そして死というもの、これはほとんどの人にとっての逃れることができない苦しみになるだろうと。実際、そのように誰もが感じてしまう」と四苦の教えから始まり、苦集滅道の全容を一から丁寧に説かれていきました。
この時、不意に私の目にヨギさんの横に生けられているカサブランカと芍薬が目に入ってきました。
その生けられた花はまるで宙を浮いているかのように、この世の物質とは思えないほどの美しさを放っていました。
この花もいずれ散ってなくなるのに、なぜこんなにも美しく咲いているのだろう――
そんな思いがよぎった後、大病を患っていたNさんが後遺症からくるであろうかすれた声で、でもしっかりとした声で、「真理の存在は物質なのですか。心なのですか」と質問、ヨギさんはNさんの声に同調するかのように、力強く次のようにお答えになりました。
「それは思いを超えたものですから、しかしそれは在ります。ただ在るとしか言えない。そしてまた、在ると言えるのはそれだけなのです。それだけが在ります。(声高に)これは間違いなく誰もが実現できることです!誰もがそれなんですから!だからできることといえば、心を静めるというそれだけなのです。そうして一切の悩みや苦しみ、もちろんそれから願いとか望みとかそういうもの、両方いらない、何にもいらない!そのようにして本当に空っぽの空っぽになった時、ふっとそれが目覚めるという感じです」

この時すでに松山ヨーガ・サークルの熱気と集中感は、歓びのプラーナに変容していました。
歓喜で満ち満ちた中、サットサンガ中に笑顔の少なかった女性が「妬みやひがみの感情に左右されてしまって、その度にすごい落ち込んでしまう自分がいるので、そういう自分があってもいいのか」と質問、ヨギさんは次のようにお答えになりました。
「もっと自分自身を強くすること。それは自分を信じることです」
一見厳しいようにも聞こえますが、ヨギさんの優しいトーンのお言葉を聞いた瞬間、その女性からはつっかえていたものが取れたように、涙が溢れ出しました。
それは誰が見ても、美しく浄らかな涙でした。

「サットサンガ」――それはヨギさんから真理の教えを学び、授かるところです。
でもその教えとは、単なる言葉や教義ではなく、本当に生きるということ、そしてその命がもつ歓びを授けていただける吉祥な場であると、今回の松山特別サットサンガに参加して実感させていただきました。
こんな素晴らしい空間に自分が身を置かせていただいていることが嬉しくて嬉しくて、ヨギさんに、またこの場を一所懸命に設けた松山の方々に感謝を感じずにはいられませんでした。
最高の松山特別サットサンガでした!!!
ヨギさん、松山のグルバイの方々、本当にありがとうございました!!!!!!


松山の報告ブログはまだ続きます〜!次は京都から同行したサティヤーさんです😁

ゴーパーラ


サットサンガより そのとき見る者はそれ本来の状態にとどまる

ヨーガは、真実に目覚めるための数千年の古代から伝わる霊的な道です。ヨーガを学ぶには、ヨーガを成就したグルが不可欠です。言葉を超えたグルの導きは、道を歩もうとする私たちにとってはかけがえのないものとなります。サットサンガ(真理の集い)とは師を囲んでの神聖な集まりのことであり、師から直接教えを授かる最も大切な学びの場として位置づけられています。

みなさん こんにちは
前回、台湾訪問の報告がブログにもありましたが、本当に台湾のグルバイの人たちの笑顔が幸せそうでしたね。彼ら、彼女らの真剣さ、素直さ、大らかさがひしひしと伝わってきました。この世界の中で、ヨーガを求める思いは同じ、お互いに切磋琢磨して歩んでいきたいと思いました。
さて、私たちの師は台湾ご訪問に引き続き、今年もまた愛媛県松山市の地に赴かれました。師は京都に留まらず、教えを乞う求道者たちがいるところにはどこにでも足を運ばれ、尊い真実の教えを説かれ続けておられるのです。

さて、今回のサットサンガは『ヨーガ・スートラ』という教典にある「見る者」についての教えがありました。ではまず、『ヨーガ・スートラ』をご紹介いたしましょう。

  1. これよりヨーガを明細に説く。
  2. 心の作用を止滅することがヨーガである。
  3. そのとき、見る者【自己】は、それ本来の状態にとどまる。
  4. その他のときは【自己】は心のさまざまな作用に同化した形をとっている【ように見える】。

私たちはこの身体でも心でもない、その奥にある純粋な意識、それが本来の私という自己である、それを見る者という、そして心は見られる者であると教えていただいています。その見る者について、師は分かりやすく教えてくださいました。

質問者「見る者と見られる者のことなのですが、例えばそれは瞑想の中で考えていくのか、私は日常の中でそういう感じがあったりするのですけれど、そのことをもうちょっと教えてください」
師「これは『私は誰か』というね、本当の自分というのは何なんだろうというところから出発した話で、通常は心というものを私だと思ってしまっている。でも本当に心というのは私なのだろうか、その私が私といっているところの第一人称であるその存在は一体何なのだろうというものが、この探求の出発点になります。
そうして心を見つめていくと、心は常に変化をしているし、どう見ても完全円満な存在とは言いがたい。いい時もあれば良くない時もある。成功すれば失敗もする。有頂天になる時もあれば傷付くこともある。もうどうにもこうにも心というのは変化の中で動揺している確実性のないものとして理解されます。その中心にあるのが私(わたくし)という、意識付けられた思いですね。
この私という、私が指すところの私というのは何なのだろうというところを探求していくことによって、心というものはその働きの動揺が激しい時もあれば静かな時もある。静かな時というのは、心がいわばサットヴァ性になっているというふうにいえます。反対に激しく動き回っている時はラジャス性が中心になっていて、それがもっと極端な落ち込みとかになれば、タマス性ということになってしまうわけですね。この心の様子に私というものが常に引きずられてしまって影響を受けてしまっている、ということは、この私というものもそういう変化の状況に支配されている、つまりは主体性がないということになっていきます。それでも私という意識はなかなか無くならない。
そこで、ここからはヨーガ的な本当に瞑想とかいうものを行なっていくほかないんですけれども、その瞑想を進めていった時には、心というものがその静かな状態から、もっと無くなったかのような状態、つまり心が働きをしなくなる、活動をしなくなるようなところがやってきます。同時にそれはその中心である私(わたくし)意識というエゴ意識も活動しなくなっていく時があって、いわば幕間(まくま)が変わるように全く別次元の様子というか、別次元のものがそこに訪れることになるんです。
本当の私というものが顕れる、それが見るものであって、その時にはじめて心は見られているものである、見る者によって見られているものであるということが客観的に分かる。そうすると心で思っていた私というものが、いわば本当の私を騙って(かたって)いたというか錯覚をしていた、間違っていた、本当の私がその奥に在るにもかかわらず、心がそれを主張していたというふうに改められる。それが見る者と見られる者の関係になるわけです。
だから、ヨーガは徹底的に真実というものが何なのかということを探求する智慧でもあるし、その道でもあるわけですけれども、その本当の私というものが知られた時には、知られるというよりは本当の私になった時には、それは、もはや本当は私という言葉もいらない。もうあなたもいらない。なぜなら、それだけしかないんですね。それは名付けようのない存在なんです。しかし、それだけがリアリティとしてね、実存として在る。それだけが本当は在る」

心の作用を止滅することがヨーガであると『ヨーガ・スートラ』にもありますが、心の中心にあるエゴ意識が活動しなくなっていくと、本当の私が顕れてくる、それが本来の自己である「見る者」であると、師は分かりやすく教えてくださいました。

師「この世界には、さまざまな出来事、経験、見るもの、聞くもの、すべては心がつくり出した、いわば夢のような世界のように理解されることになります。それでも夢の中では、それが現実だと思ってみんな夢の中で楽しかったり苦しんだり、びっくりしたりとか、いろんな冒険をしているわけですけどね。それがこの現実の世界ということにもなるわけです。だからやっぱり本当の見る者という存在、これを知ること、それになることがとっても大事なことです。
心は見られているものであるということを瞑想の時には思い起こしてください。なぜなら今でもそうだけれども、心というものを見た時、心って見えるでしょう?心が何を思っているかとか、心を知ることができるでしょう?『誰が知っているんですか?』って、『はい、私』とは言わないけれど、その本当の私というものはそこに在るという確実な証拠なんですよ。
でもついつい習慣的に心が心を見ているとか言ってしまいがちですけれども、それは大いなる錯覚なんですよ。なぜかというと、そこには時間のずれが起こっていますから。一瞬ということは、一説によれば六百分の一秒とか、もっとミクロの時間単位のことを一瞬といいます。一秒にも満たないんです。その一瞬の心の働きを一体どうやってその心が把握することができるのか、心は自分を二つに分けることができるのかといえば、できないです。でも心は心を知っているというのは、時間のずれによって『こう考えた』とか『ああ考えた』とか『こう思った』『こう感じた』という過去の心の働きを記憶しているにすぎない。これが厳密なヨーガの心理学でもあります。だから見る者というものは常に変わらずそこに在りますし、すべてを知っているし、すべてを見ています。神と一緒でしょう?だからその存在というのは神とも呼ばれるわけです」

見る者とは、私たちのことをすべて知っている意識、私たちと共にいつも在る意識、私たちはいつも神と共にあったのだ。そして私たちは神であったのだ。師の教えは本当に私たちに平安と勇気と感謝をもたらせてくださいます。その存在こそが本当の自分である、その見る者に留まり続けること、それがヨーガである。『ヨーガ・スートラ』を深く理解することのできたサットサンガでした。

ダルミニー


ミラバイさん、台湾訪問の報告! (by プリヤー)

2年ぶりに、ようやくミラバイさんを台湾に招待することができました!

4月25日から5月8日までの2週間、台北で各2回のアーサナ‧瞑想クラスとバクティ‧サンガム、3回のサットサンガが行なわれました。また今回はそれに加え、特別企画を開催――グルバイ(兄弟姉妹)のマールラーが住んでいる台中で初めてアーサナ‧瞑想クラスが行なわれました!
このミラバイさん訪台の様子を、写真を交えながら私プリヤーが報告させていただきます!

毎回のアーサナ‧瞑想クラスは静かで集中感が漂い、参加者たちは自分の限界までポーズと呼吸を深めていきました。クラス最後の30分の質疑応答の中では、ポーズの順番や注意点、毎日のアーサナの時間帯、飲食とアーサナの関係、瞑想についてなど、たくさんの質問が出ました。どの質問に対しても、ミラバイさんは丁寧で分かりやすく答えていました。ミラバイさんの励ましを通じて、みんなはもっと自信をもって実践を続けられるようになりました。

アーサナ・瞑想クラス@台北

アーサナ・瞑想クラス@台北

アーサナ・瞑想クラス@台中

『真実を求めて』を買ってサインをもらうシーン

サットサンガでは、最初多くの参加者は悩みや不安を抱えているように見えましたが、ミラバイさんから出るヨギさんの教え、真実の答えは、不安の雲を吹き払って、聞いているうちにみんなからは笑顔がこぼれて、時にはミラバイさんのユーモアで大笑いしました。会が終わると、誰もが晴れやかな表情になっていました。

サットサンガ@台北

サットサンガ@台北

またバクティ・サンガムは、たくさんの人が心待ちにしていたことでした! 今回ミラバイさんは、台湾の私たちが歌ったことのないキールタンを2曲紹介されました。一つは踊りたくなってしまう『Siva Sambho』で、もう一つは歌詞とメロディが簡単で覚えやすい『Tumi Bhajare Mana』です。ミラバイさんはずっと私たちを励ましました――キールタンはいつでもどこでも歌える。どんな曲でもどの神の御名を唱えてもいい。その神にまつわる物語を知らなくても問題ない。大事なのは、神の御名を唱えることによって、私たちの心に再び神聖な存在を憶えさせること。キールタンでは、何人かが陶酔するように目を閉じて歌っていました。それは神とのつながりを、その歓びを感受していたのかもしれません。

ここで、グルバイのシューシューとアヤノの感想をご紹介します!

シューシュー:
ミラバイさんの来訪をとても楽しみしていました。最近仕事のため、アーサナクラスに行けなくなって、それで心がだんだん動揺してきて、自分で制御できないほどの葛藤と苦しみを感じていました。でもミラバイさんのキールタンのおかげで、私は解放されて、もう一度平安を味わいました。目を閉じてキールタンを歌うと、ミラバイさんの歌声がまるで滝のように私の胸を急激に打ち、脳天が衝撃を受け続けました。涙も止められませんでした。最後のマントラの時、メロディを教えるためにミラバイさんが一度唱えました。その時、とても自然にミラバイさんはまず目を閉じて呼吸をしてから口を開きました。その敬虔な姿を見て、バクティ・サンガムはミラバイさんのコンサートでもなく、パフォーマンスでもない、彼女がリードされるのは私と神との会話だったのだと気付きました。今回の機会を通じて、再び先輩の力強さを感じました。これからも頑張ります!

アヤノ:
3月にヨギさんが日本に帰られた後、私は病気になったこともあって、心の中にたくさん真理に逆らうものが浮かび上がっていました。苦しんで葛藤していましたが、ミラバイさんが来られたのは、恵みの雨のようでした。
何回もミラバイさんにお会いしましたが、特に今回、ミラバイさんのお姿にヨギさんが見えるように感じました。それはいったい何なのでしょうか? 本当に知りたいです!
1回目のキールタンでは、歌を歌って心の中が歓びでいっぱいになり、ミラバイさんの笑顔と歌声からヨギさんの愛を感じました。サットサンガでは、この1カ月間の葛藤について質問をしました。その中で、あたかも他には何も存在せず、神との関係だけがここに在るように感じました。
ヨギさんは以前、「もっとグルバイと一緒に時間を過ごすように」とおっしゃったことがあります。今回ミラバイさんの来訪を通じて、実際に真理を実践している方の様子を身近に見ることができました。ミラバイさんが優しく話されるうちに、「真理を心に教える」ということがどんなことなのか、突然分かるようになりました! もし真理を頑固な心に教え込めば、私も優しい態度でみんなにヨギさんの教えを分かち合えるでしょう!
ミラバイさんは私たちのような小さなお花の世話をしてくださいました。本当にありがとうございました。また前に進めます!

この2週間、とってもハードなスケジュールをこなしてくださったミラバイさん。台湾のみんなはミラバイさんの魅力に深く惹かれました。ヨギさんやヨーガの教えを話される時のミラバイさんは揺るぎなく、明快でロジカルであり、同時に優しく広大な心をもって、全く批判せずに完全に相手の状態を受け入れ、誠心誠意、真理の言葉を与えてくださいました。また、ミラバイさんの真摯な眼差しと明るい笑みはすべてを溶かし、誰もの顔が自然に綻んでいきました。みんなはまるで子供のように不安も心配もなく、楽しくミラバイさんと交流することができました。

ミラバイさんが執筆された『真実を求めて』を開けば、ヨーガを学び始めた反抗的で頑固な女性がそこにいますが、今、目の前にいるミラバイさんの姿は美しく光り輝いています。この二人は本当に同じ人なのか!と思ってしまうくらいです。けれど、「私でも歩んでこれたので、みんなも必ずできますよ」と、ヨーガの道を歩む先輩ミラバイさんは保証してくださいました。

真実を求める道には起伏があり、うまくいかない時もあるかもしれませんが、ミラバイさんのような先輩が前を歩んでいるからこそ、私たちは安心を得て、勇気をもって前進できます。
ミラバイさんが台湾に来て、無私にヨギさんの教えと一切を分かち合ってくださって、本当に感謝の思いでいっぱいです。ありがとうございました! 次回のミラバイさんの来訪を楽しみにしています!

*速報:
今回ミラバイさんの来訪とともに、ヨギさんから台湾への祝福が届きました。クラスや読書会を行ない、グルバイたちがよく来る場所は216巷と呼ばれていましたが、ヨギさんはその場所に「Ananda Ashrama(アーナンダ アーシュラマ)」と名付けられました。その名前を受け取った時、グルバイたちはみんな感動して大歓びしました。本当に大きな贈りものを受け取りました。このアーシュラマに来る人たちが至福を感じられるように頑張ります!!
ヨギさんに心からの感謝を捧げます。

プリヤー


サットサンガより 今を生きる

ヨーガは、真実に目覚めるための数千年の古代から伝わる霊的な道です。ヨーガを学ぶには、ヨーガを成就したグルが不可欠です。言葉を超えたグルの導きは、道を歩もうとする私たちにとってはかけがえのないものとなります。サットサンガ(真理の集い)とは師を囲んでの神聖な集まりのことであり、師から直接教えを授かる最も大切な学びの場として位置づけられています。

みなさん こんにちは
桜も早々と葉桜となってしまいましたね。でも今度は、色とりどりのハナミズキが私たちの目を楽しませてくれています。移り変わる季節のように、この世の中も常に変化し続けています。変わることのない、永遠の真理を求める求道者たちが、この日も集まり、サットサンガが行なわれました。

仕事をする上で、また日常の中で、いろいろな問題が起こってきます。過去の失敗に執らわれて萎縮してしまったり、不安を感じたり、その環境に居心地の悪さを感じてしまう時には、どうしたらいいのかという質問がありました。
師「これも一つのヨーガを深め、進めていく大事なところなんですけれども、ヨーガが考えている時間論というのがあるんですよ。時間というのは普通、流れているように、つながっているように見えているかもしれないけれど、実はそうではない。それは心の錯覚であると。あるのは、その一瞬一瞬のつながりにすぎない。つながってはいない。その一瞬前に過ぎ去ったことと今の一瞬が同じものをもっているから、つながっているように見えるだけ。だからやがて来る未来的一瞬にしても、今の一瞬と未来的一瞬のニュアンスが似ているかのような錯覚を起こしてしまうからつながっているように見えるだけで、実は全く独立している。
瞬間瞬間は独立しているという考え方なんです。だから時間なんていうのはない。時間は単に心が造り出した幻想にすぎないというのが、私の考え方です。つまりヨーガの考え方なんです。
ということはね、グナというヨーガの考え方があるでしょう?このサットヴァとラジャスとタマスというグナによって万物、それから世界、すべての宇宙すらもが活動している。このグナの三つ巴になったような様子というものが、一瞬一瞬激しいダイナミックな動きをしている。つまりラジャスの力によって、激しい変化の連続にすぎない、だから一瞬というものをとってみれば、この一瞬とちょっと前の一瞬とこれから来る一瞬とは、全くそのグナの様相が違うということがいえるわけです。
でもこれはものすごいヒントなんですよ。つまりもう過去はない、ね、つながっていないんだから、ないんだと。未来もこれもまた、未来に思いを馳せれば、これは取り越し苦労とか心配性とか鬱とか、やがて病気の名前を付けていくようになるわけでね、これも幻想なわけです。あるのは、今のこの一瞬だけ。これが済んだとしても、次に来ているこの一瞬だけ。つまり一瞬一瞬、この目の前のこの一瞬だけしか勝負できない。
ということは、この一瞬において、心を心機一転させることができる。これをやっぱり訓練していかないとだめ。過去は今言ったように時間論的にみてもないんだから、記憶というのも同じこと。その時間というこの装置に育まれた単なるメモリー。だからそんなものは、もうセンチメンタルに、感傷的になる必要はない。
いいも悪いも、あるのは今だけ。だから今を良くしていくこと。だからヨーガ・スートラには『無くすべきは未来の苦である』という名文がある。未来の苦を無くすには、今を良くするしかないわけですよ。今が未来を作るわけだからね。だからこそ、これはできるの。変化は作れる」

時間は単に心が作り出した幻想にすぎない、時間論的にみれば過去はない、ただ今を良くしていくだけであると、師は説かれます。思えば時間とは一体どんなものなのでしょうか。たったの五分しかない時もあれば、この上もなく長い五分もあるわけで、時間は完全に私たちの心の状態に依存しています。スワミ・ヴィヴェーカーナンダは『ギャーナ・ヨーガ』の中で、「すべての奮闘努力は、常に我々の道の障害物である、時間、空間及び因果律へのこの強い執着から脱するためである」と説かれています。

質問者「カルマとかの過去とか過去生は時間的にはどういうことになるんですか」
師「カルマというのは、やはり心が無知に覆われた中で活動をしているわけで、だから幻想的時間というものも設定されているわけです。つまりカルマも時間と空間とその因果律によって構成されるわけですね。だから真実から見れば……カルマも幻想なんですけどね、カルマなんて本当は無い。カルマも無ければ、無知も本当はない。それは真実から見た場合はもう全くそうなる!ただ心がその真理を見られなくて、無知に覆われてしまっているから、そういう幻想的空間に放り込まれてしまって、その中で活動を右往左往しているというような滑稽な状況なんです」
質問者「ということは心が空間も時間も因果律もカルマも造って……。自分たちで造ったものを自分たちで一所懸命理解してということをやっている」
師「そう!一人芝居(笑)。究極の一人芝居」

師の教え、ヨーガの教えによって、この世界の謎が一つずつ解き明かされていきます。ただ今をより良くしていく、この単純なことを素直に行為していくこと、それがこの夢の世界から目覚め、カルマから解き放たれる、永遠の真理へ続く道なのだと思いました。

ダルミニー


歓喜の春の祝祭! サナータナ・ダルマ アヴァターラ メーラー!

2018年4月8日(日)、偉大な主ブッダのご聖誕日に、マハーヨーギー・ミッション主催、
第2回 サナータナ・ダルマ アヴァターラ メーラー -神性示現大祭-
が開催されました。

今年は全国的に3月末に初夏の日和が続き、桜も驚いたのか一斉に咲き始め、春の祝祭は若芽の緑が春光に映える中で行なわれました。全国各地から、そしてニューヨークから、また先月末に師がご訪問された台湾からは想いによって、プレーマ・アーシュラマにはたくさんの弟子たちが集いました。祝祭会場には、溢れんばかりの喜びの笑顔が輝きました。

今年も祝祭前に仁和寺ツアーが開催されました。ツアーコンダクターはターバンを巻いたゴーパーラと、残念ながら写真に写っていませんが、着物姿の高橋さんが担ってくれました。

サナータナ・ダルマ アヴァターラ メーラーは、永遠普遍の真理サナータナ・ダルマとそれを100%純粋な形で具現されたアヴァターラ(神の化身)の顕現に感謝を捧げ、私たち自身アヴァターラが示された道を歩み、サナータナ・ダルマの実現を誓願する、喜びの祝祭です。

続々と参加者が美しい笑顔をまとってやってきます!

昨年は第1回目ということで、古来全てのアヴァターラに感謝を捧げる祝祭となりましたが、2回目となる今年の春の祝祭では、アヴァターラたちの中でも特にブッダにフォーカスし、ブッダの存在と息吹に迫ることで、私たち自身がまさにブッダが発見された古道、すなわちサナータナ・ダルマの道の途上にあることを再認識する素晴らしい機会になりました。

詳細は、機関誌『パラマハンサ』5月号に譲るとして、ブログでは当日の写真を中心に祝祭の模様をお伝えしようと思います。

会場のプレーマ・アーシュラマにサハスラーラの旗が翻ります。

玄関を飾る色とりどりの花々が喜びとともに参加者を出迎えてくれます。

ブッダの存在とサナータナ・ダルマに迫った七人の真剣でいながらもユニークなスピーチに、師も参加者も全員が聞き入り、笑い、涙し、歓喜に沸き立ちました!3月末に師が訪問された台湾からも喜びのメッセージが届きました。

吉祥なこの日に3月末にニューヨークで発行された『Seeking Truth』(『真実を求めて』の英語版)のお披露目があり、ニューヨーク・ミッションから参加したエーカーンタ(左)とアーナンダマーリー(右)がそれぞれ本を読んだ感想と出版への思いについて話されました。

一言で言うと、なんと素晴らしい歓喜を味わえたことでしょう!素晴らしいスピーチの数々!それぞれがブッダの清らかな魂に触れ、その振動がその人の生き様、実際の体験を通して溢れ出しました。その喜びの奔流、歓喜の大海に溺れてしまいそうでした。アヴァターラという存在がもたらす永遠の歓喜に触れた魂は、一瞬でみずみずしい命の歓びに蘇りました!

春と秋の二つの祝祭!その歓びの輪が大きく大きく広がっていきますように!

師とすべてのアヴァターラに心より感謝を捧げます。

ジャイ・サナータナ・ダルマ ジャイ・アヴァターラ!

サーナンダ


シュリー・マハーヨーギー、台湾特別サットサンガのご報告(2)‼️

3/23~3/26の三日間、師の訪台に合わせて台湾を訪問させていただきました。前回のゴーパーラのブログに続き、現地で経験したこと、感じたことを報告します。

真理は普遍不滅です。いつどこにいらしても全く変わることのない柔和な笑顔で真理を説き、祝福を与えておられる師。その存在や教えに酔い、熱心に実践する台湾の修行者たち――神と魂との間で行なわれる一期一会の交流、一人一人の魂の救済が、実際に目の前で行なわれていました。

あるご婦人がはきはきとした口調で「日常での他者との関わりの中で、どのように行為していけばいいのでしょうか」と普段からの疑問を師に問いました。師は、各人は各人のカルマに応じ生まれ落ちていること、自分の子供であっても配偶者であっても社会で接する人であっても同じ存在として行為する他ないと話され、「あとは各人に任せましょう!」おっしゃられました。その瞬間、質問したご婦人に安堵がもたらされたようでした。真理が正に今伝えられているという現場に立ち会った感触がありました。私はこれまで「過去にどこどこで覚者が真理を伝えた」と漠然と考えたり話したりしていましたが、具体的にそれは真理に基づいた献身奉仕によって、一人一人に安心や笑顔がもたらされることなのだと思い知らされたのでした。

サットサンガの後で、台湾のグルバイたちと車座になって話しました。「瞑想の中での実感と日常での実践はどのように関連しているか」や、「これまでどのように信仰を保ってヨーガを実践してきたのか」など、皆とても真剣でした。ある男性の修行者から、「台湾と日本のサットサンガはどう違いますか」と質問がありました。私は直ぐに「同じだと思う」と答えました。台湾の修行者も日本の修行者同様、実践を伴った質問をし、師は真剣に且つ純粋な真理を説かれ、導かれていたからでした。いつも京都では訪問者として会う台湾のグルバイ(兄弟姉妹)たちも、ここ台湾では、シュリー・マハーヨーギーの弟子として歓びの中で行為していました。その彼らの働きを見て素直に感動を覚えました。ヨーガでいう信仰や志は、人種や国籍問わず普遍的なものです。彼らと同じものを見て感じ、同じものを理想としている!自らの理想への思いと日々の修行をもっと積極的に実践したい!とインスパイアされました。

帰国の途の飛行機の中、これからの日常のことを考えたとたん、それまでの高揚した気持ちが醒め、素にもどりました。それと同時に、台湾のサンガが育っていること、その背後にはこれまでも並々ならぬ実践と努力がなされてきたのだろうということ、先輩のミラバイさんと中心となって働いてきた台湾のグルバイの思いと行動が感じられ、尊敬の気持ちが湧いてきました。その根底で一人一人をただ大切にされ導いておられる師の偉大な存在と働きを感じ、感謝の思いが溢れてきました。

いつも変わらず導いてくださっている師に、自らの誓願を改める機会を与えてくれた台湾のグルバイと先輩のミラバイさんに、この場をお借りしてお礼申しあげます。これからもっとシュリー・マハーヨーギーの弟子として、自らの修行と積極的な献身奉仕を実践していきます!榮光在(栄光あれ) Taiwan Sangha!

3/24(土)Joyful Living(心悦人文空間)で行なわれた特別サットサンガ後の交流の様子。

ラームダース


シュリー・マハーヨーギー、台湾特別サットサンガのご報告(1)‼️

ブッダは悟りを啓いた後、托鉢をして民衆に教えを説き、その生涯を全うしました。
年齢や性別、カーストを越えていろんな人と関わりをもったと想像できます。
その時、どんな問答がなされたのでしょうか?
またブッダと共に托鉢をしていた弟子は、その師の姿を見て、何を感じたのでしょうか?

3月21日〜3月28日まで、私たちの師シュリー・マハーヨーギーは台湾をご訪問され、全4回のサットサンガが開かれました‼️
私は師を追っかけるようにして、週末に行なわれた2回のサットサンガに参加してきました🏃💨
師の訪台は今回で3度目ということもあって、初めて師にお会いする方だけでなく、何度か師にお会いする方、弟子となってヨーガを実践しているグルバイ(兄弟姉妹)にと、さまざまな方がいました。
そんな中、私が参加した2回のサットサンガでは「仏教」に関連した質問が多くありました。

3/24(土)Joyful Living(心悦人文空間)で行なわれた特別サットサンガの様子。

この台湾は仏教徒の数も多いのですが、通りの名前に忠孝と付いていたり、地下鉄の優先席が博愛座席と表記されているように、目上の人や親を敬い、家族を大切にする忠孝の精神が根付いている国です。
ただその分、家族関係の問題も多くあります。
もし生きている間、その関係が良好ならば、それは幸せなことです。
でも、愛する家族との別れが訪れた時、その悲しみは深く、愛着が強ければ強いほどその関係性は生きている間だけではなく、亡くなった後も続くように感じます。
この台湾のサットサンガでは、「お盆を行なう意味はありますか」「死者に念仏やお経を唱えて浄土に行くことは信じた方がよいでしょうか」といった家族の死に際して執り行なわれる仏教儀礼に関しての質問がいくつかありました。

私たちの師シュリー・マハーヨーギーはどのように応えられたのか――

師は決して、既存の宗教や信仰を頭から否定されませんでした。
お盆については、「死者がこの世に戻り、またあの世に帰るというその行事は輪廻転生の理から矛盾しているけれども、生きている者にとっては先祖や身近な家族への思い出を大事に思い直す、そういう機会だと理解すればいいと思います」と説かれました。
この質問をした方からは、「生きている今が大事ということですね」という言葉が自然と出てきたことに、私は驚きました。

また、真理を実践して成就を目指そうとしている方には、仏教のルーツであるブッダが初めて説いたといわれる「苦集滅道」の教えを、四苦八苦から一つ一つ丁寧に紐解いていかれ、まず実践を深める上では「真理を正しく理解すること」が重要であると言葉を尽くして説かれていました。
この質問者は終始、師に魅了されて吸い込まれたかのような眼差しで、その教えを聞き入っていました。

私はこの台湾の特別サットサンガに参加させていただいて、ブッダの次の言葉が思い出されました。

「私は宗教を壊しに来たのではない、成就しに来た」

師は、さまざまな人に対して、その人が真理に向かうための最善の教えを慈悲深く丁寧に説かれているのを感じました。
もちろん宗教とも呼べないニューエイジ的な考え方に対しては「間違っている」とスパッと言い切る問答もあって、そんな師のギャップに笑いが起こる場面も……笑
否定も肯定も超えた真理の道、まさに中道!
ブッダが托鉢をしながらさまざまな人に説いた対機説法がありありと蘇ってくるような、ブッダの臨在を感じた最高の台湾特別サットサンガでした!!!

ゴーパーラ


サットサンガ 知っている人と知らない人

ヨーガは、真実に目覚めるための数千年の古代から伝わる霊的な道です。ヨーガを学ぶには、ヨーガを成就したグルが不可欠です。言葉を超えたグルの導きは、道を歩もうとする私たちにとってはかけがえのないものとなります。サットサンガ(真理の集い)とは師を囲んでの神聖な集まりのことであり、師から直接教えを授かる最も大切な学びの場として位置づけられています。

季節がめぐるのは本当に早いです。ついこの間まで、いつまでも寒い日が続くなと思っていましたが、明日は春分の日。もうすっかり春の様相ですね。
気分一新、今回はあらためてヨーガの悟りについて考える機会がありました。

ヨーガで教えられるのは本当の自分という存在です。それは肉体でも、心でもなく、私という意識。もちろんエゴ・自我とは違う純粋な“私”という意識です。
それは、「真我」と呼ばれたり、「真理」と呼ばれたり、そして「神」と呼ばれたりもします。それぞれ全く同じただ一つのものを表す概念ですが、この呼び方が一番しっくりくるという、いろいろな意見をヨーガは差別しません。
その存在と合一することがヨーガの目的ですね。
ただ、そこに至るアプローチは人それぞれです。合一、つまり悟った人を覚者・聖者と言いますが、彼等でさえその悟りの境地の表現は様々です。

けれども、どの覚者も悟りの境地を教え説く際に、真我も真理も神も、どの言葉も同じだと言っています。その三つをすべて満たして、それでもまだ言葉がたりない絶対的な存在。
いったいどんな境地なのでしょうか?この境地の事を考えると、私はどうしようもなく憧れる気持ちを抑えられなくていつも圧倒されます。

知らない人は、知っている人の体験を一所懸命聞いたり読んだりして何とかその境地に近づきたいと願ってきました。

先日のサットサンガで、このことについて質問がありましたので、ご紹介します。

質問者「無と神と真実とか真我は全部イコールということなんですか」
ヨギ「無という言葉は抽象的で非常に難しい理解が必要とされます。似た言葉で空という言葉もある。どちらも仏教の教えの中で使われ、またヨーガの聖典にも出てくる言葉でもあるのです。ここでいう無とか空というのは一方ではその心やこの世界、さまざまな有、有限の有、これに反するもう一切のそういう計らいのない無差別の様子を無とか空というふうに表現する場合があります。同時にその無とか空は無尽蔵に福寿というか——福寿というのは至福であったり永遠というものがそこにあると。全く正反対のことを言っているんですけれども、これはどのように理解したらいいかと言えば、一方は心から見た状態を言っているし、もう一方は真理から見た状態を言っている。でも同じ言葉が使われている。こいういうふうに理解せざるを得ない。だから、その無とか空について議論するのは愚かなことなんですけれども、知っているものから言わせればそういうことになります(皆笑)」
質問者「それで神とか真理とか真実は」
ヨギ「そうですね、それを指す場合もあるということですね」
質問者「それは知っているものから見ると」
ヨギ「そう(皆笑)、真理から見た場合は一切の無知とかそういうものがないから、そこにあるのは真理だけだということになるわけです」
質問者「なるほど。本とか読んでいるといろんな言葉があるから、イコールなのかどうなのかなと、ちょっと思っていたんです」
ヨギ「見る立場によってその解釈もずいぶん違って、本によっても違うと思います。でも本当の真実在というものはそんな言葉さえもすべて超えているということも言っておきましょう(おどけられたような様子で)。
無でも空でも、そんなのもどこにも無い。そんなのも全部超えてそれだけがありありとリアリティをもって、それだけが在ります。そしてそれがみんなの本質であり、自分自身です」

生まれて一度も海を見たことのない人に海の説明をするように、言葉を尽くしても決して知らない人のイマジネーションを満足させることはできないです。
しかも悟りの境地は姿形あるものが何一つ及ばない、たったひとつ永遠のものだけがそこに在って、それだけが遍満しているといわれます。
もう知らない人のイマジネーションは限界を超えて自分の思考を飲み込んで、それだけでもの凄い高揚感を覚えます。

何物にも変えられず、何物とも混じらず、永遠にただ在る。
絶対的な存在が私達人間の、そして万物の本質なのだと言われます。この存在を知ったなら、もうどんな思いにも、出来事にも、揺らぐことも煩うこともなく、自由で自立していられる。

ヨーガを続けているとほんの少しの時間ですが、この自由・自在の状態を感じる瞬間があります。心は何の不満も不平もなく、快・不快も超えて…というより、そういった思い自体が湧き上がることなく、目の前の出来事をただ在るがままに見つめているように、泰然とした静けさの中に留まれる瞬間があります。きっとその片鱗を感じ取っているから、知らない世界にいながら、知っている人の世界に強烈に惹きつけられるのだと思います。

絶対に突き抜けてその境地を体得したいです。

Caitanya