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『あるヨギの自叙伝』を読んで(6)ーーラマナ・マハリシーー

約2年ぶりの「『あるヨギの自叙伝』を読んで」のコーナーです‼️

今回は、20世紀インドの覚者ラマナ・マハリシです。

「身体は死滅するが、魂は死によって決して手を触れられることはない。私とは不滅の魂なのだ」

ーーラマナ・マハリシーー

16歳でこの不滅の魂である「本当の私」に目覚めたラマナ・マハリシ。
今年に入り私は、「本当の私」に瞑想を始め、ラマナ・マハリシにすごく惹かれるようになりました。

そこで最近、『あるヨギの自叙伝』にヨーガナンダがラマナ・マハリシのもとを訪ねていたことが書かれていたのを思い出し、読み返してみました。

すると、ラマナ・マハリシについて記されていたのは、写真を含めてわずか1ページ……😅

なぜこんなに短いのだろうと思ったのですが、2人の交流がわずか数時間だったこと、またラマナ・マハリシにはすでに弟子がいたので、ヨーガナンダは詳しい紹介を留めたのかもしれないと思いました。(現に今、ラマナ・マハリシの著作は弟子や信者によって数多く出版されています)

ただ、この1ページの中には、「沈黙の聖者」と称されるラマナ・マハリシとの「言葉ではない交流」が感じられます。

例えば、アーシュラマ(僧院)を訪れたヨーガナンダを暖かく迎えたラマナ・マハリシは、傍にあったヨーガナンダが発刊していた雑誌『イースト・ウエスト』が積まれた山を指差したそうです。
また、ラマナ・マハリシの弟子たちを交えての会話だったため、ラマナ・マハリシ自身はほとんど何も語らなかったようですが、その穏やかな顔は神のような愛と英知に輝いていたそうです。

心の波が静まる「沈黙」が訪れると、その奥に在る不滅の魂「本当の私」から「無限の歓び」が湧いてくると言われています。
たとえ言葉を発さなくても、ラマナ・マハリシのちょっとした行為やその表情から、霊的な交歓がなされていたことが感じられるエピソードです。

そしてヨーガナンダは、ラマナ・マハリシの紹介を最も主要な教えである「私は誰か」で表しています。

スリ・ラマナは、苦悩する人類に、彼らが見失ってしまった〝完全なるもの〟を取り戻させるために、「人はたえず『おのれとは何者か』と自らに問いかけるべきである」と教えている。これこそまさに〝偉大なる問い〟である。これ以外の考えを厳しく排除することによって、人は、真の自己の中にしだいに深く沈潜し、雑念に惑わされないようになるのである。

「おのれとは何者か」、つまり「私は誰か」ーーこれをヨーガナンダは「偉大なる問い」と言っています。
いろんな問いがこの世界には溢れています。
例えば、「仕事とは何か?」「人生とは何か?」
ただ、どんなことを考えるにしても、「仕事をしている私」「この人生を生きている私」というふうに、そこには「私」がいます。
「私のしたい仕事をする」「私がやりたいように人生を生きる」とはよく聞きますが、「では、その私は誰か?」と考える人は本当に稀です。
この主体を考えないこと、これこそ苦悩する人類の盲点であり、その主体である「私」を熟考し、偉大なる「本当の私」を自覚するための問いが、「私は誰か」にあると思います。

今年に入り私自身、「私は誰か」という瞑想を始めていますが、上記のヨーガナンダの一文にそのヒントをいただいた気がしました。
それは「たえず」「それ以外の考えを厳しく排除」というところです。
バクタが神以外のことを思わないように、心にいかなる思いが起こったとしても本当の私に立ち戻る「私は誰か」、その問いを繰り返し繰り返し実践していく、これを徹底していきたいと私自身、強く思いました。

そして今回、『あるヨギの自叙伝』はどんな小さなエピソードや一文からでも真理が学べ、本当に素晴らしい聖典であると改めて実感しました!
まさに真理で埋め尽くされた宝の宝庫です🌝💎

ゴーパーラ


『アルナーチャラ・ラマナ 愛と明け渡し』

皆さま、こんにちは。
緊急事態宣言が解除され、少しずつですが、京都も人の動きが出てきました。
まだ外出を控えてステイ・ホームをされている方も多いかと思いますが、どんな時間をお過ごしでしょうか?
私はこの2、3カ月の間、いくつかの聖典をじっくりと読みました。
その中でいちばん親しんだ聖典は、ラマナ・マハリシの『アルナーチャラ・ラマナ 愛と明け渡し』です。

フォトブックと詩集が合わさったようなこの聖典はとても読みやすく、聖山「アルナーチャラ」に生涯を捧げたラマナ・マハリシのさまざまなお姿やお言葉、詩、またアルナーチャラの美しい写真が鏤められています。

アルナーチャラはインドの最も古く、最も神聖な聖地の一つである。
それは地球のハートであり、世界の霊的中心である。

カイラーサはシヴァ神の住処だが、アルナーチャラはシヴァ神自身である。

いまだ開かぬ花を見て、あなたは苛立つ蜂のように私の前にとどまった。
ああ、アルナーチャラ!

あなたが抱擁してくれぬなら、私は苦悶の涙の中に消え失せるだろう。
ああ、アルナーチャラ!

私を見たまえ! 思いたまえ! 触れたまえ! 私を完全にしたまえ!
あなたと一つにさせたまえ。
ああ、アルナーチャラ!

私を迎え入れ、私の中に入り、あなたの聖なる命を私に授けた瞬間、私は個我性を失った。
ああ、アルナーチャラ!

真我実現の知識なくして、人生に何の価値があろう。
語る価値さえありはしない。
ああ、アルナーチャラ!

ー『文字の結婚花輪』(108の詩)より抜粋ー

アルナーチャラの偉大さと、ラマナ・マハリシの狂おしいほどのアルナーチャラへのバクティが感じられ、すべてのページが輝かしく素晴らしいのですが、その中でも特に印象に残ったシンプルな言葉があります。それは、

ただ静かにしていなさい。
後は私にまかせなさい。

ここで言われている「私」とは個我ではなく、「アルナーチャラ」「シヴァ」「真我」、そして「グル」という大いなる存在です。
「列車に乗ってまでも、自分の小さな荷物を頭に乗せて苦労する必要がどこにあるだろう。荷物を降ろして安心しなさい」とラマナ・マハリシはおっしゃっています。
ステイ・ホームでも心はステイしていない時、スッとこの言葉がハートに響き渡り、自分のすべきことが示されたような感覚になりました。
緊急事態宣言は解除されましたが、私は「ステイ・マウナ(沈黙)」を継続中です。

ゴーパーラ 


タパスと沈黙

新型コロナウィルスの感染拡大のため、不安な日々が続きますが、皆様、元気にお過ごしでしょうか?
私は介護職ですが、移動支援はほぼ中止になり、利用者の方も外出自粛を余儀なくされ、また職場の嵐山は外国人観光客も減って、いつもの賑わいは陰りを見せています。
世界的に活動規制がなされてきているため、いかに人とこの世の中が動的な性質を帯びているかを肌で感じずにはいられないほどです。
そんな状況下の中、自宅で過ごす時間が増えた方も多いかと思います。
私自身も自宅での時間が増えたため、改めてヨーガの基礎であるヤマ・ニヤマ(禁戒・勧戒)について考え、その教えが掲載されている過去の『パラマハンサ』を読み返したりしていました。

『パラマハンサ』(No.94)では「タパス(苦行・熱)」についての問答があり、それを読み返すと新たな学びがありました。
タパスとは「苦行」「浄化の熱」、それによって「快不快、暑寒などのあらゆる心身の二元性を克服する」という意味がありますが、師はその言葉のさらなる意味を明確に説かれていました。

「二元性を超えるということは、感覚や心の制御が自動的に達成された一種の悟りの心境でもある。心の統一性、サットヴァ性、そういう心のきれいな鏡の状態。ウパニシャッドの言葉では、『タパスによってブラフマンを知れ』、『タパスはブラフマンなり』という言葉もある。それはタパスによって二元性を超えるから、すなわちブラフマンの領域になる」

「二元性をつくっている大きな原因の一つはアハンカーラというエゴ意識です。これが自と他を区別し、二元性の大きな象徴でもある。この二元性がなくなっていけば、自と他の観念が壊れ、エゴ性に替わってアートマン、神という一つの存在が正しい位置を占めるようになる」

ーーシュリー・マハーヨーギー

これは私がヨーガを始めた頃の2012年の教えですが、二元性の根源を説き明かし、タパスのさらに奥深い意味を教えてくださっていた師に、私は改めて心より感服致しました。
また最近私が惹かれている20世紀インドの覚者ラマナ・マハリシは、「内面において静寂を保つという行為は、心のすべてをもって行なわれる激しい活動であり、中断されることはない。他のどのような方法によっても打ち壊すことのできない無知は、『沈黙(マウナ)』と呼ばれている激しい活動によって完璧に打ち壊される」と述べていますが、この「沈黙の激しい活動」とは「タパス」と同義だと感じました。

活動自粛で自宅で過ごす静かな時間は増えましたが、私自身、内面はヨーガの激しい活動でその情熱を燃やしていきたいと思っている次第です。

ゴーパーラ


ラマナ・マハリシの純粋な衝動

「そこにエベレストがあるから」

これは、ある有名な登山家がエベレストに登る理由を聞かれて答えた言葉ですが、多くの方が一度は聞いたことがある名言ではないかと思います。
この登山家の言葉の動機背景については詳しく知りませんが、理由なく、ただただその対象に魅了され、すべてをなげうつほどの「純粋な衝動」のようなものが訪れると、その人の人生は変わると感じます。

約一カ月前に掲載したブログ「ラマナ・マハリシの祈り」では、ラマナ・マハリシが高校生の頃、真我の体験をした後、神への渇仰心が湧いてきたことに触れました。
ラマナ・マハリシはこの体験をした六週間後、家族も友も学校もすべて棄て、シヴァ神そのものである聖なる山「アルナーチャラ」へと旅立ちます。
そして生涯、そこから離れることはありませんでした。

ーーなぜ真我の体験後、ラマナ・マハリシはアルナーチャラへ旅立ったのか?
ーー真我に目覚めていながら、神への渇仰心が起きたり、アルナーチャラに行く必要があったのだろうか?

当然そんな疑問もよぎりますが、出家後にラマナ・マハリシを訪ねてきた友人が「どうして私に家を出ることを教えてくれなかったのか?」と問うと、ラマナ・マハリシは次のように答えたそうです。

「自分自身にも分からなかったことを、どうしてお前に教えることができただろうか」

ラマナ・マハリシは子供の頃から不思議と「アルナーチャラ」という名前に興奮を感じ、それが本当に実在する山だと知った時は叫び、歓喜したそうです。
そしてすべてを棄ててアルナーチャラへ旅立つ時、彼は「まるで大きな洪水に運び去られるかのようだった」とも言っています。

このラマナ・マハリシの出家のエピソードに触れると、「世俗の放棄」というのが、現実逃避という弱々しいものではなく、どれだけ「強烈な力」であったのかということを感じずにはいられません。
青春真っ只中の高校時代、自分が完全に世俗を放棄しようと思えただろうか?
ラマナ・マハリシに起きた真我の体験も、アルナーチャラへの旅立ちも、世間的常識や心の範疇を遥かに超えた「神の力」、それが働いたとしか思えません。

そしてこのエピソードは、ブッダが真理を求めて家族や王子という地位を棄て出家したこと、シュリー・ラーマクリシュナのカーリー神への狂気的バクティ、また我が師シュリー・マハーヨーギーが高校時代に誰とも話さずに独りこの世界や心の理について徹底識別をされていたこと、それらアヴァターラ(神の化身)たちの「純粋な衝動」、それを思い起こさずにはいられないのでした。

一修行者として、真理、真我、神だけを求めてすべてを放棄する純粋さ、120%それになれるよう、日々精進していきたいと願います。

ゴーパーラ


ラマナ・マハリシの祈り

皆さま、こんにちは。
新年が始まり1週間経ちましたが、お正月はいかがお過ごしでしたか?
初詣に行かれた方も多いのではと思いますが、今回のブログは「寺院に詣でる」ことに関してです。

昨年末から私は、20世紀のインドの覚者であるラマナ・マハリシの『沈黙の聖者』を読んでいます。
ラマナ・マハリシは高校生の時、突然襲ってきた死の体験後、「真我(本当の私)」に目覚めました。

この覚醒後、ラマナ・マハリシは世俗のことに関心がなくなると同時に、高校に行く途中に通るミーナークシ寺院の参詣が一変したというのです。

「以前は友人たちと時々参拝して、ご神体を見学したり、恭しく聖灰と朱を額につけたりして、そこを辞去する時にもほとんど心を動かされることはなかった。しかし覚醒の後は、ほとんど朝夕ミーナークシ寺院に参拝するようになった。
『私は肉体である』という考えを放棄したとき、魂は肉体にすがることを諦めた。魂は新しい拠り所を得ようと必死であった。私は寺院を訪れ、涙に暮れることもしばしばあった。これは、神が魂と戯れているのであった。私は時々、全知全能にして世界とすべての生きとし生けるものの運命の統制者であるイーシュワラ(主宰神)の前に立ち、六十三聖者の魂のように私の信仰心が増し、それが永続的になるように神の加護を祈った。私は祈ることはほとんどなかったが、内なる意識の深奥から湧き出て、それを越えた深奥へ流れ込んでいくものを静かに見守っていた」

ーーラマナ・マハリシ

形式や慣習、現世利益ではなく、神への渇仰から寺院を参詣するラマナ・マハリシのハート!
真我の体験後、ラマナ・マハリシの中で神に祈るほどの強烈な信仰心が同時に起こったのかと私は初めて知り、心打たれました。

ミーナークシ寺院(沐浴場と塔門)

六十三人のシヴァ派の聖者の像

今年私は初詣には行っていませんが、今年の目標である「ヨーギーで在ること」に向かって、真我への瞑想をスタートしています。
2020年、目標が達成できるように、祈り、瞑想し、日々の暮らしの中でヨーガを行為として実践していきたいと願います!

ゴーパーラ


師 グルとは

人間何をするにしても一人で全て切り開いてきたという人はいないでしょう。産まれた瞬間から親に育てられ、就学して先生に教わり、働いて上司に指導され。

習い事も師と仰ぐ人を敬い、教えを授かる事で上達します。

ヨーガでもグルという師から、日々の修行法や生活における心構え、そしては最終的に悟りに至る道を教わります。

グルとはどんな存在なのでしょうか?また、グルと弟子の関係とはどういったものなのでしょうか?

私が大好きな聖者ラマナ・マハリシのグルについての、とても興味深い教えがありましたのでご紹介したいと思います。

「神・恩寵・グルはみな同義語です。すべてに遍在する神は愛する帰依者を哀れに思い、自らを帰依者の次元に相応させた姿で現れ真理を説くのです。そして教えと交流によって帰依者の心を浄めます。ところが帰依者は彼を人間だと思い、二つの身体の間に何らかの関係を結ぶことを期待します。あなたは自分を身体だと思っているため、グルもまた身体を通して何かをしてくれると思うのです。しかし神であり真我の化身であるグルは帰依者の内側に働きかけ、彼が道を間違っていることに気づかせ、内なる真我を実現するまで正しい道へと彼を導きます。グルは内面と外面の両方に存在しています。外面からは心が内面に向かうように後押しをし、内面からは心を真我に引き込み静かになるように助けます。」

いかがでしょうか?思っていたグルのイメージを遙かに飛び越えていませんか?

私がヨギさんとお目にかかれた経緯を思い起こしても、もはやたまたま縁あって京都にいらした先生と生徒の関係などではなく、もっともっと深遠なそれこそ恩寵としか言いあらわせない絆、巡り合わせを感じてしまいます。

なぜ私はグルと出会ったのだろう?

私は幸せになりたかった。時間やお金、他者との関係で変化するような幸せでなく、決してなくならない永遠の自由と安住をもとめていた。はたしてそんなものがあるのか?と思いながら。これは辛かった当時の状況から逃げたかったという反射の対応であると同時に、私という存在の本質からあふれる、原点への回帰願望だったのだと思います。

そして時期と準備が調ったタイミングで、私はヨギさんにお目にかかりました。

真理への願望が生まれたとき、グルが現れた。真理を実現するのにグルは不可欠だから。

以下太字は『悟り』の中での、シュリー・マハーヨーギーの御言葉です。

グルと弟子の関係は一般的な社会における教師と弟子の関係でもなければ、取引でもありません。ただ、真実の愛によってのみ成立するものです。(愛とは他者に自らを捧げるという行為でしたね!)

グルの直接的な意味は、闇を取り除く光、つまり無知を取り除く真実という意味です。すでに真実の光は、それぞれ皆の中に在ります。ただちょっと邪魔をしている影があるだけ。そのために外からの光が必要な時もあります。その闇が取り除かれるまでの間を弟子と呼びます。それが実現すればグルと弟子に違いはありません。不異(おなじ)・一(ひとつ)です。(私の真我実現に必要な無知が取り払われたなら、ヨギさんはもうグルではなくなるの?……)

まず弟子は、悟りを求めなければならない。そして真実の教え、正しい教えを、真実のグルから学ばなければならない。さらに真剣さと情熱をもって、学びと修行を実行しなければならない。これらは最も中心的な心と行動のあり方です。さらにもう少し繊細なことを言えば、素直であること。素直な心、謙虚。(これに関しては、常に常に念を入れながら日々精進しています!)

自分の体験を一つ一つ検証しながら、ラマナ・マハリシとシュリー・マハーヨーギーの御言葉を読み解くと、私達と同じ現代の日本に住まわれ、私達と同じものを食べ、同じ楽しみを喜ばれるヨギさんの存在と、八十数年前にインドで語られたラマナ・マハリシの教えで明かされるグルという存在の驚くべき一致に改めて平伏してしまいます。

どちらも、“知っている側”から語られた事実としての真理の手触りが感じられます。同時に、私達のグルという存在が、どれほど崇高な顕れであるかということに畏敬の念を禁じえません。

私が肉体という粗大な身体をまとって、この現象世界に生まれ落ちた末にどういう因果か真理を求めた。そうしたら、神は自らを人間の形に顕してグルとして目の前に現れた。行く先々で愛という無償の働きで私に教えを授け導かれるグル。ともに歩む沢山の素晴らしい兄弟姉妹も授けてくださった。かたや真我という自らの本質に自分の力では気づけずに何度も何度も転生を繰り返す私。

これは冷静に考えるとそら恐ろしいことです。もしこのチャンス(今生)に、この期に及んで言い訳や、迷いを口にして進まなかったら、果たしてまた何生涯私は転がり続けるでしょうか?

神は一切取引をしません。神にはただ、愛し、近づくことだけを考えなさい。すべてを神に任せるのです。あなたの痛みも苦しみも、喜びも楽しみも、命も!できますか?神に接する時はそのような真剣さをもたなければいけません。(はい。師よ、もちろんです。とっくに覚悟は決めています。どうぞ受け取ってください。)

Caitanya


一切は神

今回は、ラマナ・マハリシの「沈黙の聖者」をご紹介いたします。

インドの聖者であるラマナ・マハリシはその生涯をアルナーチャラという聖なる丘で過ごされました。インドの聖地の中でもアルナーチャラは最も聖なる場所、シヴァ神の秘められた聖なるハートの中心であるとも表現されています。そしてアルナーチャラにはさまざまな動物が住んでいて、この本の中でもたくさん紹介されています。

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いちばん有名なのは雌牛ラクシュミーの逸話です。子牛のラクシュミーは、毎日シュリ・バガヴァン(ラマナ・マハリシ)のところへやってきては足元に頭を垂れていくのでした。また牛小屋の定礎式のときにはたいそう喜んで、シュリ・バガヴァンを迎えに来たりしました。たいへん利口で気の利いたラクシュミーが亡くなった後の墓碑銘には、タミル語で「雌牛ラクシュミー、ヴィシャーカ星座の下で解脱したことをここに記す」とあります。そしてたくさんのお猿さんたちもアルナーチャラには住んでいました。猿たちがシュリ・バガヴァンの前にサマーディの状態で坐り、瞑想の手ほどきを受けている様子も書かれています。また白い孔雀も登場します。このときシュリ・バガヴァンは、これは混じりっけのない純白、グナの混合をもたないスッダ・サットヴァ(純粋の自己)を意味すると言っておられますが、その前を得意そうに通り過ぎる孔雀の写真が載っています。また三日間、同じ枝に止まり続けたカラスの話も出てきます。シュリ・バガヴァンに会いにきたこのカラスは、待ち望んでいたかのように主の手のひらの上で死んでいくのでした。他にも虫や、犬や蛇などたくさんの動物たちがラマナ・マハリシと一緒にアルナーチャラで暮らしていたのでした。その中には高貴な魂の動物たちもたくさんいたのでしょうか。ラマナ・マハリシはすべての動物たちに対して、本当に分け隔てなく接し、共に暮らしておられたのだなと思いました。

師は説かれます。

「ヨーガ行者たちがどのように社会と対処していけばいいのかといえば、すべて平等に接していくのがいい。すべては尊いアートマンなる存在、神なる存在なんだから、その真理を心得た上で丁重に接する、優しく接するということが基本になります」

「結局のところ、実存という、真実在として在るのは真理であるアートマン、あるいは神という存在だけです。形が千差万別あったとしても、そこにあるのは一つの真実だけです」

「ヨーガやあるいは神について学んでいけばいく程に、神は打算がない、そして駆け引きもない、そしてヨーガが教えるところはすべてが神でありアートマンである。単純にその思いだけが心を占めれば、さまざまな出来事の中に自ずと謙虚と感謝が生まれると思います」

 日本にも山を、神がいる場所、神が降臨する場所とみなすような山岳信仰がありますよね。それを思うとラマナ・マハリシがアルナーチャラという丘に住み続けておられたことも、私たち日本人にとっては、なんら驚くべきことではない、素直に受け入れられる出来事なのではないでしょうか。そして京都の町中の至るところにたくさんのお地蔵さんがおられます。日本古来の宗教である神道は「一切は神である」という考えを持っていますが、神々が住むこの日本に、そしてここ京都に、真実を説かれる私たちの師がお生まれになったことも、なんら不思議なことではないのかもしれないと思うのでした。

ダルミニー


平和にあるということ

在るのは平和である。
私たちに必要なのはただ静謐(せいひつ)だけだ。
平和が私たちの真の性質なのだ。
                       ラマナ・マハリシ

ヨーガを学び始めた頃、心は、身体のように目に見える物質ではないけれど、微妙な物質であると聞いてびっくりした覚えがあります。物質なのだと思ったとたん、心が自分から少し離れていったように感じました。心はいつも何かを考え、片時も静かにしていません。そのように客観的に「心」を眺めたことは今までにはなかったことでした。

師は心についてこう説かれています。

「心は自立できません。そのために常に何かを所有したがっている。『私は何々である、誰々である』『これを持っている、あれを持っている』『これができる、あれができる』『知恵がある、力がある』。何であれ心はそういうものであってしか成立しないのです」

師は、心は常に何かに依存しているものであると教えてくださいました。そしてそういう一切の依存関係、執着関係を離れた状態に心があるとき、それが静謐というものであり、その静謐を得る方法がヨーガにあると教えてくださっています。

ある時の問答で、この地球上での戦争や環境破壊、さまざまな理不尽なこととどう向き合っていけばいいのかという質問に、師は、人として苦しんでいる人たちにできることをしていくべきだとも教えてくださいましたが、それよりも自分自身をより良くしてくことが先決だと教えてくださいました。

「第一には自分自身の器、心とか身体とか状況とか、そういうものをより良くしていく。これは心が作り出す間違った欲望とか執着をなくしていくということに他ならないと思いますし、そうして普遍的な愛や慈悲あるいは平和を望む心、そういうものを培って、それを具体的な行為に移していくことができればいいと思います。ともあれ、まずすべきは自分自身の中の平和を確立すること、真実を確立すること、それによって外への働きは有意義に行なわれると思います」

自分自身をまずより良くしていくこと、それがこの世界をより良くしていく第一歩となる、この意味はヨーガの教えを学び、実践していくと実に良く分かります。なぜならヨーガを実践していくと家庭や職場の中で、次第に自分と人と人との間に調和というものが生まれてくるのを感じることができるからです。平和が私たちの真の性質であるからこそ、私たちは平和を強く望んでいるのだと思います。
ヨーガを実践し、もともとの性質である平和な自分自身に戻ろうではありませんか。
それが、世界の平和に貢献することになるのですから。

ダルミニー

シュリー ラナマ マハリシ

シュリー ラマナ マハリシ

 


信仰をもつということ

人の真の性質は幸福です。真の自己の生得のものです。彼の幸福の探求は彼の自己の無意識の探求なのです。真の自己は不滅です。それゆえ人がそれを発見した時は、終わりのない幸福を発見したのです。                               ラマナ・マハリシ


私は本当に幸せになりたかった。でもいつも幸と不幸を繰り返していました。そういう状況を自分ではどうすることもできませんでした。世の中とはこういうものなのだと自分に言い聞かせていました。

それから私はヨーガを知り、そしてヨーガの師と巡り会い、ヨーガの教えを授かりました。その後で、このラマナ・マハリシの教えを目にした時、本当にはっとさせられました。自分は間違ったものに幸せを見つけようとしていた、幸せは外から与えられるものではない、幸せは自らの内にあるのだと気が付かされたのです。私はこの教えを深く信じ、そして自らの内にあるであろう至福の存在を深く信じたのでした。

それからの私は、このままではいけない、こんなつまらない、不完全な自分ではいけない、この心も身体も変えていかなければいけないと真剣に思いました。今のままでは到底その至福の存在を感じることはできないだろうと心底思ったのでした。

師から教えられたアーサナ(ヨーガのポーズ)や瞑想、聖典の学習や、日常でやるべきヨーガの教えにそった行為は、自らの内に輝くその至福の存在に見合うよう、恥ずかしくないよう、自分自身を正していくということを実践していったのだと思います。

師は、自信とはうぬぼれとかプライドのことではなく、自分を信じること、そうやって自分の信念をしっかりもって揺るぎないものとすること、さらにはそれが信仰になっていくと教えてくださいました。私はまずヨーガの教えを信じ、それからその自分を信じたのです。そしてそれは少しずつ信仰になりつつあるのだと感じています。

ダルミニー

 

在りし日のシュリ・ラマナ・マハリシ

在りし日のシュリ・ラマナ・マハリシ 

 


愛と明け渡し

今年も暮れて参りました。皆さんにとってはよい一年でしたか?

私の今年のテーマは「愛」でしたから、最後にバクティにまつわるお話をしたいと思います。

私が好きなラマナ・マハリシという19世紀の賢者がいます。マハリシは「私は誰か!?」という真我の探求を教えたギャーナ・ヨーギーとしてよく知られていますが、彼自身が書いた詩を目にした時に、私は、まるでラマナ・マハリシは、聖なるかがり火の山アルナーチャラに魅せられ、捕われたバクタではないかと思いました。アルナーチャラをクリシュナと読み替えれば、ラーダーそのものだと思ったのです。

アルナーチャラ

アルナーチャラという山はとても古い山で、地質学的には36億年前にできた山だそうです。山の起源について語られた古代の伝説によると、ヴィシュヌ神とブラフマー神の争いを仲裁するために光の柱になったシヴァ神は、そのままでは人々にはあまりにも眩しすぎるため、代わりにアルナーチャラの山に姿を変えたとされています。

ラマナ・マハリシ自身がアルナーチャラへの自らの想いをしたためた詩はいくつかあるのですが、私が好きな詩に「アルナーチャラに捧げる十一連の詩」があります。何だかとても狂っている表現に惹かれるのですが、今回はその中から四つを抜粋して紹介したいと思います。(全部読みたい方は『アルナーチャラ・ラマナ 愛と明け渡し』をお読みください)

アルナーチャラに捧げる十一連の詩より(抜粋)

ああ、アルナーチャラの姿をした愛よ!恩寵によって、私を求めたのはあなたなのに、あなた自身が姿を現さないなら、私はどうなってしまうのか? あなたに切なく恋焦がれながらも、世俗の闇に疲れ果て、途方に暮れるのか?太陽を見ずして蓮華が咲くだろうか?あなたは太陽の中の太陽。溢れんばかりの恩寵を湧き起こし、その流れを注ぎ込むのはあなたなのだ!

この世で成功するための能力を打ち壊し、あなたは私を役立たずのろくでなしにした。こんな惨めな状態で幸せになれる人などいない。こうして生きるよりは死ぬ方がましだ。ああ、世俗の狂喜を癒す山の姿をした超越的真我よ!あなたに夢中になった私に、あなたの御足にしがみつくという最高の薬を授けたまえ!

私は新たな発見をした!魂を磁石のように引きつけるこの丘は、それに想いを寄せる人の活動を止めて、丘に向かわせ、丘そのもののように彼を不動にし、その成熟した魂を食べてしまうのだ。何ということか!ああ、人々よ!気をつけなさい。これが偉大なるアルナーチャラ、ハートの中で輝く生命の破壊者である!

この丘を至高の存在とみなしたために破壊された人がいかに多いことか!ああ、悲惨なこの生に愛想をつかし、身体を棄て去る手段を探し求める者たちよ。この地上には、誰であれそれに想いを寄せただけで、その人を実際に殺すことなく殺す妙薬があるのだ。その妙薬こそ、この偉大なるアルナーチャラに他ならない!

ラマナ・マハリシ

マハリシ

マハリシにとって、アルナーチャラとは真我そのものであると同時に、父でありグルでした。マハリシはアルナーチャラに一切を明け渡し、生涯その御足下から離れることはありませんでした。真理においては二人は一つですが、この世界に顕現し、名前と形をもった「個」としての二人のリーラーの中での関係は、サットグルと弟子、父と子、花婿と花嫁だったと言われています。

今日12月30日は、偉大な賢者ラマナ・マハリシの御聖誕日です。

では、今年一年ブログを愛読していただき、ありがとうございました。皆さま、よいお年をお迎えください。来年が輝きに満ちた素晴しい一年となりますように!

サーナンダ

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