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『あるヨギの自叙伝』を読んで(8)ーーマハトマ・ガンジー

マハトマ・ガンジー
イギリス植民地支配からの独立を非暴力運動で勝ち取り、「インド独立の父」と称される彼の名を、誰もが一度は聞いたことがあると思います。

「剣を取るものは剣で滅びる」ーーこの聖書の格言が『あるヨギの自叙伝』のガンジーの章で引用されていますが、ガンジーは武器を取らず、掴んだのはインドの聖賢たちが太古より発見し培ってきた「偉大な叡智」非暴力でした。
ガンジーが生きた2度の世界大戦のあった激動の20世紀インドにおいて、イギリスの圧政・暴力は想像を越える厳しさだったと思います。
その過酷な状況下において、非暴力を実行に移すことは容易でなかったにもかかわらず、なぜガンジーはそれを貫き通せたのでしょうか?

今回『あるヨギの自叙伝』を読み返すと、ガンジーの揺るぎない非暴力の信念・信仰の根底には「ヨーガの教えと日々の実践」があったことがはっきりと分かりました。
『あるヨギの自叙伝』には、1935年にガンジーとその信奉者の住むアーシュラマにヨーガーナンダが数日間滞在したことが記されています。
そこではガンジーがヨーガを実践していたとは明記されていませんが、ガンジーの熱心な信奉者たちが立てたサティヤグラハ(真理を順法する)の11の誓いが紹介されており、それを読むと最初の5つがヨーガの基礎を成すヤマ(禁戒)そのものであることは明らかです。

「暴力を用いぬこと、真理に従うこと、盗みをせぬこと、禁欲を守ること、何物も所有せぬこと、労働をいとわぬこと、嗜好品をつつしむこと、何物をも恐れぬこと、いかなる宗教をも平等に尊敬すること、スワデーシ(自家製品または国産品)を用いること、非賎民を解放することーーこれら11か条の誓いを、謙譲の精神をもって守ること」

ヤマの教えを基本に、残りの6つの条項が加えられ、ガンジーとその信奉者たちが日々この教えを実践しているのでした。
アーシュラマでのガンジーの暮らしは至極シンプルです。
常に下帯一枚しか身に付けていない衣服、味覚と密接に関わっている性エネルギーの禁欲を実行に移すために嗜好品を排した菜食の食生活、また宿泊したヨーガーナンダの部屋は最小限度の手作りのロープ製のベッドが一つ置いてあるだけーーしかし、窓の外からは保護している牛の鳴き声や鳥のさえずりという牧歌的な豊かな自然の響きが調べを奏でていたことが記されています。
ヨーガーナンダ自身、「至るところに現れているガンジーの徹底した質素と自己犠牲の精神に心を打たれた」と述べているほどです。

「もし真の政治家になりたいのならガンジーを見よ」

現代の日本の老獪な政治家に対して私はそう言いたい。
国民に自粛を要請している中での高級クラブ訪問やステーキ会食、また女性蔑視発言などガンジーには無縁であります。

ガンジー(右)とヨーガーナンダ(左)。

余談はさておき、ガンジーはヨーガの実践によって自らを律し、真実という愛をインドの民衆、とりわけパリヤ(不可触民)に分け与え、カースト差別撤廃と宗教間の壁も取り払い、インド国民のみならずすべての人を平等に見ていました。
そんな母国とすべての人を愛したガンジーですが、その彼に多大なる影響を与えたのが真正のヨーギーであったスワーミー・ヴィヴェーカーナンダ(1863ー1902)です。
ヴィヴェーカーナンダはインド放浪中、イギリスの支配により自信を喪失し怠惰に陥っていた民衆とその貧困の惨状に胸が張り裂け、インドに必要なのは「宗教でなくパンだ」と言い、西洋の物質科学を自国に持ち帰るべく海を渡り、西洋世界にはインドが古来より培ってきた真実の叡智を与え、インドのみならず世界をヨーガによって救おうと行動し、人類への奉仕に身を捧げました。
さらに、すべての宗教の平等ーー「それに至る道はさまざまだが、真実は一つ」という宣言を大胆にもキリスト教優位の西洋世界で臆することなく高らかに叫びました。
ガンジーはヴィヴェーカーナンダのすべての著作を読んだ後、「私の祖国に対する愛が何千倍も深くなった」と語っているほどヴィヴェーカーナンダから大きなインスパイアを受けています。

そしてこのインドの英雄ヴィヴェーカーナンダを生み出したのが、とりもなおさず彼の最愛の師シュリー・ラーマクリシュナでありました。
ヴィヴェーカーナンダは師を「ブラーミンの中のブラーミン」と讃え、自らが最上カーストのブラーミンであるという奢りを拭い去るために、夜中にこっそりとパリヤの家に忍び込み、自らの長い髪でトイレ掃除をしていたシュリー・ラーマクリシュナのその謙虚な生き様を「真似したい」「私のヒーロー」とまで言っています。

「もし神を実現したいのなら、謙虚な掃除人であれ!」

この言葉は政治家ではなく、自らに言いたい。
シュリー・ラーマクリシュナのこのトイレ掃除の驚愕のエピソードは、謙りの極みだと痛感します。
そしてまたガンジーのサティヤグラヒスの誓いが「すべて謙譲の精神でもって守ること」と記されているように、何を行なうにも謙虚さが最も大切であると教えてくれます。
『あるヨギの自叙伝』には、ガンジーは毎朝4時に起床し、神に祈りを捧げていたことが記されています。
以下、ガンジーの祈りと謙譲についての言葉です。

「祈りはわれわれに、もし神の支えがなかったらわれわれは全く無力である、ということを思い出させてくれる。どんなに努力しても、もし祈りを怠ったら、もし自分の背後にある神の恵みなしにはどんな努力も役に立たぬという明確な認識を忘れたら、その努力は完全とは言えない。祈りは謙譲への呼びかけであり、また、自己純化や内的探求の呼びかけである」

インド独立は、真理・神への不屈の信仰と謙譲の精神の持ち主であったガンジーの大いなるリーダーシップにより成し遂げられました。
そのガンジーの偉大な思想・働きは日々のヨーガの実践とヴィヴェーカーナンダの強力なインスパイアリング、そしてヴィヴェーカーナンダを育てたシュリー・ラーマクリシュナの存在によって生み出されたと言っても過言ではないと思います。
マハトマ・ガンジーの「マハトマ」とは「偉大な魂」という称号で、民衆が進んで彼に捧げたものであるそうです。
ガンジーという偉大な魂は、ヴィヴェーカーナンダとシュリー・ラーマクリシュナから受け継いだ魂であったのだと私は感じます!!!

最後に一言、ガンジーがヨーガを実践していたことは『あるヨギの自叙伝』を読んで再確認しましたが、私がそのことを初めて知ったのは、わが師シュリー・マハーヨーギーからであります。
またヨーガーナンダが1952年にロスアンゼルスでインド大使ビナイ・セン氏のために開いた晩餐会で演説した後にマハー・サマーディに入ったのは、「インド独立を見届けたから」という大変深い意味があってのことで、そのことも師から教えていただきました。

1998年10月のマハーヨーギー・ミッションのカレンダー。

※マハートマー・ガンディー
(1869年10月2日ー1948年1月30日)
イギリスで教育を受け弁護士となって赴任した南アフリカで、彼は人種差別を受ける。傷心の彼が故国で発見したものは聖賢の偉大な叡智だった。彼はそれまでの西洋思考や価値観、生活態度の全てを改め、ヨーガを実践する。その頃インドではイギリスからの独立運動が高まり、人々は彼をリーダーに推し上げた。彼が提唱したサティヤ・グラハ(真実と愛、あるいは非暴力から生まれる力)、スワデーシ(自力生産)、塩の行進等は民衆の心を動かしめ、遂にはインドを独立へと導いた。

ゴーパーラ


『あるヨギの自叙伝』を読んで(7)ーーヴィヴェーカーナンダのシッディ

突然ですが、皆さんは「シッディ」という言葉を聞いたことがありますか?
シッディとは、ヨーガ修練の副産物として現れる成果で、「超自然力」のことです。
四章から成る『ヨーガ・スートラ』の第三章にはシッディの章が設けられ、ヨーギーたちが発見・感得してきたシッディの数々が記されています。
しかし、『ヨーガ・スートラ』の冒頭の文句にあるように、ヨーガの真の目的は「心の作用を止滅させ、本来の自己(神)に留まること」です。
『あるヨギの自叙伝』では「シッディとは、神の探求の途上に咲く路傍に花にすぎない」と述べていて、このシッディの超自然力を得て傲慢になり、過ちを犯した修行者のことにも触れています。
この『あるヨギの自叙伝』には、そういう間違ったシッディの使い方を教訓として示している一方で、聖者の無為自然なシッディの奇跡の数々も紹介されています。
病気治癒、肉体分離、空中浮遊、透視能力、未来の予言などなど、まさにシッディのオンパレードなんですね〜!
「これって、本当ですか👀⁉️」というようなシッディのエピソードと、まるで好奇心旺盛な少年が物語を楽しく話すようなヨーガーナンダの軽快な文章とが相まって、とても魅力に溢れた聖典となっていると感じます。

そして私は今回、『あるヨギの自叙伝』を読み返す中で特に印象に残ったのは、「ヴィヴェーカーナンダのシッディ」のエピソードです。
以下、その内容を要約した形でご紹介させていただきます。

1893年、シカゴで第一回世界宗教会議が開催され、ヴィヴェーカーナンダはヒンドゥ教代表で講演をし、連日にわたって大反響を呼んでいました。
ちょうどその頃、17歳のディキンソンというアメリカ人の青年が、母とシカゴの大通りを歩いていました。
すると突如、「まばゆい光」が見えます。
そして、その二、三歩前をゆっくりした足取りで歩いて大公会堂に入っていくヴィヴェーカーナンダを見て彼は叫びます、「お母さん! あの人は、僕が溺れそうになったとき、幻に現れた人です!」
ディキンソンは5歳の時、池で溺れて死にそうになった時、まばゆい光の中で優しい微笑をした男性が助けてくれたヴィジョンを見ていました。
それがヴィヴェーカーナンダだと直観したディキンソンは大公会堂に入り、ヴィヴェーカーナンダの魂を震わす講演を聴きます。
講演後、彼は面会を求め近づくと、ヴィヴェーカーナンダはまるで昔からの友達のように微笑み、なんと驚くことに「やあ、水の中から出られてよかったね!」と言います。
そして「私の師であると名乗ってほしい」というディキンソンの心の声を読み取って、ヴィヴェーカーナンダは美しい射るような眼差しで次の予言を言います、「あなたの先生は、あとで来ます。その人は、あなたに銀のコップをくれるでしょう」
その後ディキンソンは、ヴィヴェーカーナンダに会うことがなく、また師と出会うこともなく、長い歳月が過ぎていきました。
しかし1925年のある夜、ディキンソンは、神に「どうぞ師をあたえたまえ」と熱心に祈り、その夜眠りに就いた時に天使のヴィジョンと神々しい音楽を聴く恩恵を得て、そしてその翌晩にロスアンゼルスで生涯の師となるヨーガーナンダと出会います。
ただ、その師であるヨーガーナンダから銀のコップが渡されることもなく11年の月日が流れ、その間ディキンソンもヴィヴェーカーナンダの予言を時々思い出すも、次第にあの言葉は何かの比喩に過ぎなかったと言い聞かせるようになっていきました。

しかし、予言の日はやってきます。
1936年の聖なるクリスマスの日、インドからアメリカに再び戻ったヨーガーナンダは、ロスアンゼルスでアメリカの弟子一人一人にお土産のプレゼントを渡していきます。
「これはきっとディキンソン氏が気に入るに違いない」と、そうヨーガーナンダは思って買った包みを彼に渡し、そしてディキンソンは包みのリボンを解いて叫んだそうです、
「銀のコップだ!」
この時、彼は人生で三度目のまばゆい光を見たのでした。

シカゴでのヴィヴェーカーナンダの予言から43年後の奇跡のこのストーリーを読み、私は思わず「う〜ん!!」と唸ってしまいました。
また同時に、「あなたに銀のコップをくれるでしょう」と言ったヴィヴェーカーナンダの無為自然なユーモアというか遊び心というか、本当にシッディを他者の歓びのために有益に使っている、最高にサプライズなクリスマス・プレゼントだと感嘆しました。

ヴィヴェーカーナンダは師であるシュリー・ラーマクリシュナに出会って修行を始めた頃、師から「将来、霊性の師として働く時は、役に立つだろう」と言われシッディを授かる機会がありましたが、次のように答えます。

「まず神を悟らせてください。そうすれば、超自然力が必要か否か、おそらく分かることでしょう。今そうした力を頂いたなら、神を忘れて利己的に利用してしまって、自滅するかもしれません」

そしてその後、ヴィヴェーカーナンダは悟り、またシッディの力を持っていたことは、『あるヨギの自叙伝』の「銀のコップ」のエピソードを読むと明らかですよね。

シュリー・ラーマクリシュナは晩年、ヴィヴェーカーナンダを傍らに呼び寄せて、じっと彼に視線を注いだまま、深い瞑想にお入りなり、その後泣きながら次の言葉をお話になられたそうです。

「今日、私は自分が持つすべてをお前に与えた。私は一介のファキール、無一物の乞食にすぎない。お前に授けた力によって、お前は世界で偉業を成し遂げるだろう」

このシュリー・ラーマクリシュナのお言葉がすべてだと思います。
悟りもシッディも、師のすべてがヴィヴェーカーナンダに引き継がれています!!!

2月18日は偉大なる覚者シュリー・ラーマクリシュナの御聖誕日です。
2月はもう1回、『あるヨギの自叙伝』からシュリー・ラーマクリシュナ、ヴィヴェーカーナンダに関連する記事を書きたいと思っています😄📝

 

ゴーパーラ


ふとした瞬間

夜勤に入る前、いつも時間調整をしている公園があります。その公園のベンチに腰掛けると、目の前には大きな田んぼが、見上げればどこまでも続く大空が拡がっています。

ほっと一息つき、心に空白が生まれるような瞬間。神に思いを馳せると、身体も心も、目の前の景色も、すべて神で満たされるような気持ちになります。田んぼから聞こえてくる蛙の声はオームの振動、電灯や星の光は純粋意識の顕れであるかのような・・・・・・ そんな時、私が憧れる境地を表わしたシュリー・ラーマクリシュナの教えが蘇ってきました。

 

水また水――

上も下も、果てしない水――

人は魚のように楽しげに泳ぐ

 

無限の大海よ、水に極みなく

その中に一つ 瓶が漂う

瓶の外も、中も水――

智者は悟る、これすべてアートマン

 

あぁ、早くこの境地を知りたい!と切に願いました。

瞑想の状態は必ずしも行儀良く座っている時に訪れるものではないと、師は言われます。集中しようという力みが抜けた――ふとした瞬間に、すっと瞑想に入れるのだと思います。だからこそ、何の手応えもなく、何の感触も得られないけど、ひたすら瞑想に座って集中し続けた時間も決して無駄ではないと思うのです。

これからもあきらめず、めげずに瞑想に座っていきたいと思います。

 

ヨーガダンダ


情熱を持って前進しよう!

2020年の春、世界は一変し、大きな衝撃と苦難に突然直面することになりました——世界中に広がった新型コロナウイルス感染症パンデミック。台湾は、幸運にもまだ深刻ではないレベルに抑えられており、台北と台中のアーサナクラスは続けられていますが、国中に不安な雰囲気が漂っていると感じます。
そんな中、疫病の威迫に負けず、4月11日土曜日の午後、台北の15名のグルバイは祝祭に参加する気持ちでアーナンダ・アーシュラマ(台北)に集まりました。みんなで一緒に2019年4月京都で行なわれた春の祝祭、サナータナ・ダルマ アヴァターラ メーラーの映像を視聴させていただきました。

アーナンダ・アーシュラマの白い壁に投影された映像。祝祭が始まりました。プレーマ・アーシュラマ(京都)にお入りになり、台座にお座りになったヨギさん。弟子から奉納されたマーラー(花輪の献上)とプージャ(礼拝)。みんな、神聖な儀式とヨギさんの慈愛に満ちた穏やかなお姿に心を奪われました。映像は、壁に映された二次元の投影像ではなく、まるでVR(ヴァーチャルリアリティー:仮想現実の立体空間)のように立体になり、本当にありありと感じ取ることができました。プレーマ・アーシュラマのその空間はアーナンダ・アーシュラマと繋がるようになり、ヨギさんは前方に座られて私たちをご覧になって無限に優しいダルシャンを与えてくださいました。

祝祭では8人の先輩がメッセージを奉納し、色んな方面と角度からシュリー・ラーマクリシュナを紹介してくださいました。台北でもプリヤーがこの大聖者の物語と教えをずっと紹介し続けてきていますから、馴染みのない存在ではありません。でも先輩のメッセージから、先輩たち自身の探求や修行とシュリー・ラーマクリシュナに繋がりがあったことを知り、そして先輩たちの情熱に満ちて素直で一心で同時にとても謙虚な姿を見て、深く感銘を受けました。 

祝祭の半ばでサティヤーさんのメッセージの最後に、『ラーマクリシュナの福音』の一節が再現されました。プレーマ・アーシュラマにいるグルバイたちがハレー・クリシュナを歌い、アーナンダ・アーシュラマにいて映像を観る私たちも一緒に歌って、両者の歌声は一つになりました。そして共に笑って涙も流して、一緒にヨギさんを見つめ、一緒にドッキネッショルを感じて、一緒に喜びに浸って、まるでコルカタと京都と台北の間にはもう境がないようでした。150年前と去年と今この時にも時間の遠近がないようでした。祝祭の最後、みんなでヨギさんに従って一緒にOm Tat Sat Omを唱える時、その感覚がもう一度呼び起こされました。

時空は一つになり、一緒に歌ったキールタン!

3時間ほどの間、ヨギさんだけが在り、シュリー・ラーマクリシュナだけが在り、喜びと感動しかありませんでした。疫病の蔓延の今、これはどれほど貴重であり、どれほど幸運でしょう!騒然としている外の環境によって物騒がしくなった心は、この時間の中で安堵しました。この映像を制作して配信してくださったマハーヨーギー・ミッションと先輩たちに言葉にならないほど感謝いたします。

上映会が終わった後、グルバイたちは一緒に晩ご飯を食べて感想を分かち合いました。何人もがメッセージで話された「神の召使い」「神の道具」という言葉が印象深かったようです。そして奉仕と言っても、よくエゴを持っていた、神の召使いや道具になりたいと言っても、情熱と信仰を高めなくて口だけだったという自分の行為に反省した人もいました。それでも、自分にはまだ遠いとか、自分にはできないとか思わないで、情熱をもって前進しよう、先輩に見習い一歩ずつ真実に近づこうと、みんなでお互いに励まし合いました。

あるグルバイが言いました——去年の秋に京都から帰ってきてから、人生に期待していたことを手放しました。チャイタニヤさんのメッセージの中の「結婚しました!子供ができました!家を買いました!」のようなことを手放してから、楽に感じました。自分がどんな人生を過ごしたいのかを改めて考えました。

どんな人生を求めるのか?見返してみると、メッセージの中で生き様という言葉がよく出てきました。シュリー・ラーマクリシュナの生き様、ラトゥの生き様、神だけを見て神だけを思う生き様、人の喜びを糧にする生き様…こんなにたくさんの見習える手本があります!それはライフスタイルだけではなく、それは全てのスタイルを超えたスタイル、それは真実を生きる、ヨーガを生きることだ! ブラボー!!!

 

日本のグルバイのメッセージは、プリヤー(右)とマールラー(左)で通訳して紹介しました。

マールラー/台中


執着なき、純粋な働き

自粛要請が続き、ヨギさんや先輩グルバイにもお会いできない中、昨年の春の祝祭の動画を視聴させていただき、とても大きな励みになりました。(昨春祝祭のブログはこちら→2019春の祝祭
ヨギさんの慈愛に満ちた優しい眼差しや参加者の皆さんの喜びの熱を感じ、私自身もまさに会場にいるような、至福の時間を過ごすことができました。

昨年2019年4月7日(日)、満開の桜が咲き誇る中で開催された春の祝祭サナータナ・ダルマ アヴァターラ  メーラー。今年は残念ながら中止になってしまったのですが、祝祭参加者に向けて昨年の祝祭の模様が全編映像配信されました。私は祝祭の式典には参加できなかったため、このような機会をいただき、本当にうれしかったです。(動画の一場面)

昨年の祝祭では、19世紀後半の神の化身シュリー・ラーマクリシュナ・パラマハンサの悟りと生きざまに焦点を当て、8名のグルバイ(兄弟姉妹弟子)たちからスピーチが捧げられました。ラーマクリシュナの魂に触れ、その存在すら感じられるような熱い思いが迸るスピーチでした!

今回の祝祭の動画から強く感じたのは、ヨギさんの決して変わることのない確かな導きとグルバイの皆さんの神への信仰と愛、そして悟りへの強い決意でした。

ヨギさんから多くの教えをいただきながら、なぜ私は皆さんのように、真理の道に邁進することができていないのか?自分の未熟さが情けなくもありましたが、動画の中で目標とする姿を目の当たりにし、もっと自分のエゴと向き合い、純粋になっていきたいと志を新たにすることができました。

また最近では、新型コロナウイルスの問題を機に、自分自身が果たすべき義務や働きは何なのかということを真剣に考えるようになっていました。
今までは、母として妻として家庭を大切にし、家族のためにより良い家庭環境を作ることが自分の義務であり、それを愛をもって遂行することこそが、何よりのサーダナ(修練)になると考え、その義務以上の働きに対しては、なかなか積極的になることができませんでした。

しかし、先輩グルバイが熱く語られるシュリー・ラーマクリシュナの生涯や生き様、その教えに触れる中で、私は自分の果たすべき義務を、小さな心の領域の中でばかり考えてきたのではないかと、自問せずにはいられませんでした。

シュリー・ラーマクリシュナのあまりにも純粋な働き。
休むことなく、他者のために身を尽くし、働き続けるその無私の行為に、ただただ圧倒されるばかりで、自分がいかに働きの結果に執らわれ、他者に奉仕できる最良の機会を逃し続けてきたのかということが、はっきりと理解できるような気がしました。

スワミ・ヴィヴェーカーナンダは『カルマ・ヨーガ』の中で「筋肉と頭脳から巨大な活動を起こさせよ。しかしそれらをして、魂にいかなる深い印象も刻ませてはならない」と言われています。

世の中は、先の見えない不安や緊張に包まれ、今後ますます、多くの人々が本当の安心を求め、人生の目的や命の意味に立ち返っていかれることでしょう。
そうした方々のために、自分のできる最善を尽くすこと。自らの働きを通して、少しでも多くの方にヨギさんの教えをお伝えしていくことが、弟子としての私の新たな義務ではないだろうかと考えています。

最後に師シュリー・マハーヨーギーよりお言葉がありました。『それぞれの人がそれぞれの状況の中で、真実を悟ることができる。なぜなら、真実はもうすでにそこにあるから。』優しく力強い言葉に胸が熱くなりました。                                                    オーム・タット・サット オーム!

計らいのない純粋な働きによって、多くの善いことを行なえますように。
内なる神に礼拝し、日々精進していきたいと思います。

 

 

田原由美+子供たち/大阪  


ラーマクリシュナの例え話

梅の開花便りが聞かれ、日差しに春の訪れを感じますね

久しぶりに「ラーマクリシュナの福音」を手に取り、パラパラとページをめくっていると、私の好きな例え話が目に入ったので、ご紹介します。

ラーマクリシュナは、誰にでもわかるように、目に見えない真理や神を分かりやすい例え話にして教えを説かれることがあります。「どのようにしたら真理を実現できるでしょうか」と言う信者からの問いに対して、このように答えておられます。

「祈ることによってすべての魂はあの至高の霊と一体になれるのだ。どの家にもガス栓がつけてある。ガス会社からガスがくるようになっているのだ。だから、申し込め!申し込みさえすればガスをよこす手配をしてくれるだろう。部屋に明かりがつくだろう。シアールダハに事務所があるよ(一同笑う)」

おそらくシアールダハは実際にガス会社のある場所の名前ではないでしょうか。ユーモアがありますね。私はこれを読んだ時とても素直に「そうや、申し込まなあかん」と思ったのですが、それにはある経験が関係しています。

私は少しの期間ですが外国に住んだことがあります。知り合いがいなかったので、自分で住む部屋を探し、契約し、家具を揃え・・・ととても大変でしたが、屋根裏にある小さな部屋に落ち着きました。お茶でも飲むかとガス栓をひねったとき、ガスがきていないことに気が付きました。水道も電気も申し込みしなくても(おそらく大家さんがしてくれていた)そのまま使えることになっていたので、ガスについて聞くことをすっかり忘れていました。なぜかそのとき、私は備え付けのガスコンロの方に不備があると思い、大家さんに電話するも繋がらず、どうしようかと思っていると、隣に住む人が訪ねて来ました。ガスコンロに不備があると話すと、彼は、「違う!違う!申し込んでないから!今すぐ申し込め!」と言うのです。そこで、彼はすぐにガス会社に電話をかけてくれたのですが、私の語学力が追いつかず、電話でのやり取りは無理と判断され、直接事務所に行くことになりました。その日は営業時間に間に合わず、次の日の午後、仕事と仕事の合間に行ったのですが、昼休みで対応してもらえず、次の日に行くも、申し込むために必要な書類が揃っていないと帰され、書類をそろえるのにもさらに時間がかかり、土日は対応してくれない・・・・何日もかかって、やっとの思いでガスが使えるようになったことを覚えています。そんな苦労話もすっかり忘れていましたが、この例え話を読んだとき、そのことを思い出しました。

ラーマクリシュナの「申し込め!」の言葉とあの時の隣人の「申し込め!」がリンクして、なんとも忘れがたい例え話となりました。そうです、必要であれば申し込まなければならないのです。「私はガスが必要です」と同じように「私は真理が必要です、真理を実現させてください」と神に祈らなければならない。あの時、少し?(実際にはかなり・・・)手間はかかったけれど、申し込んだ途端にガスが来るようになったように、きっと申し込み続ければ、その思いは実現されるのではないかと思わせてくれました。

 


ラーマクリシュナの愛した歌

あなたは私のすべてのすべて、おお主よ。
私の命の命、髄の髄。
あなたの他にわが身内と呼べる者はいない。

あなたは私の平安、私の歓び、私の希望、
あなたは私の支え、私の富、私の栄光、
あなたは私の智恵、そして私の力。
あなたは私の家族、私の慰安、私の最愛の友、
私の最も近い身内。

現在の私であり、私の未来でもあるあなた、
私の天国、そして私の救い、
あなたは私の聖典、私のおきて、
あなたは私の慈悲そのものであるグル。
あなたは私の限りない至福の泉です。
あなたは道、そしてあなたは目標。

あなた、崇拝する御方、おお主よ!
あなたは優しい母であり、父である。
創造者で保護者であるあなたは、
人生なる海をよぎる私の船の舵をとる舵手

あなた、あなた、あなた、あなた・・・
最近つくづく思うのですが、「私」に関することを考え出すと「私はこれをしないといけない」「私の意見はこうなのに」「私のもの」「私だったらこうするけど」などなど私に関しての思いがどんどん展開し、心は「私」に占領され、ちっとも黙ろうとせず、自分にはやることが山積みで問題だらけのような気がしてくる。心はすぐに物事を大げさにする。

けれど「あなた」(神や真理)のことを思う、そして思い続けていると、心はだんだんと静まる。「私」は小さく見えなくなる。そしていつの間にか「あなた」でいっぱいになるとき、そこには平安と歓びだけがあり、問題などそもそもなかったと分かる。見える世界は突然変わる。
キーワードは「私」(エゴ)ではなく「あなた」(神や真理)。
そう!あなたは私の限りない至福の泉なのです。


神の御名

 
あなたの御名のなんと美しいこと、
それは甘露のように、私たちの耳にふりそそがれ
私たちを慰めてくださる、
おぉ、わが魂の愛人よ!
あなたの御名という並びなき至宝
それだけが永遠の住処であり
それを唱えるものは不死となる。
聖なる御名が私たちの耳に聞こえるやいなや
ハートの苦悩は抹殺され、至福で満たされる。
あなたの御名は私たちの魂の魂。

 

通常私たちの心は、グナの影響を受け、サットヴァ(明るく軽快な性質)、ラジャス(落ち着きがなく動揺する性質)、タマス(暗くて鈍重な性質)という3つの状態がバランスを変えながら活動しています。仕事の時などは、「今日中にあれをして、これをして・・・!!!」と慌てて、忙しく頭を回転させています。また仕事の評価などで落ち込んだり、うまく進まないことでイライラしたり、疲れて気力を無くしたり・・・ほとんどがラジャスとタマスの状態ではないでしょうか。

先日仕事の同僚たちと活発に意見交換をしていたとき、突然心の奥から「神の御名」が響きだしました。すると、細胞の隅々まで体と心は清らかさで満たされ、疲れたと思っていたはずなのに、活力が満ち満ちていることに気がつきました。心は静まり、平安と歓びだけがありました。「神の御名」によって心からラジャスとタマスは消え去り、サットヴァだけの状態になったのだと思います。自然と意見交換は終わり、私は自分の机に戻ってその状態をしばらく楽しみました。
「神の御名」には、心の状態を一変してしまうほどの力があるということを驚きをもって感じました。

はじめに紹介した詩は『ラーマクリシュナの福音』に出てくる歌の歌詞です。
まさにこの歌詞のように、「聖なる御名が聞こえるやいなや、ハートの苦悩は抹殺され、至福で満たされた」と思ったのでした。

雨に濡れる紫陽花


ラーマクリシュナの導き

私はヨギになり、愛という山の洞窟に住もう。

至福の泉のそばで、ヨーガに没入しよう。

真理という果実によって知識の飢えを満たそう。

離欲という花を添えて、神の御足を礼拝しよう。

わが魂なる水瓶に平安という水を引き入れよう。

あなたの、蓮華の御足の栄光に満ちた

甘露水を飲んで、歓喜のあまり

笑って踊って泣いて歌おう。

 

これは『ラーマクリシュナの福音』の中で歌われる歌の歌詞です。これを聞いたラーマクリシュナは、「あぁ、なんとよい歌だろう」ととても喜ばれます。私もこの歌の最後の部分が特に好きです。

「あなたの、蓮華の御足の栄光に満ちた甘露水を飲んで、歓喜のあまり、笑って踊って泣いて歌おう」まるで、先日行われた祝祭を象徴しているかのように感じ、当日の歓びが蘇ってきます。

先日の祝祭では(祝祭の内容はこちら)祝辞をさせていただきました。私は『ラーマクリシュナの福音』が好きで、よく読んでいたこともあり、福音を通してラーマクリシュナの霊性と息吹を話すことになっていました。そして、その場に参加しているみんなが福音の世界に入っていければ…という目標もありました。

祝辞の原稿は歓びをもって割と早い段階で仕上げることができました。出来上がってから当日までも福音を読みながら過ごしていました。でもある日、心の中に浮かんだ思いがありました「こんな祝辞の内容でいいのかな……」

『ラーマクリシュナの福音』は直弟子であるマヘンドラナート・グプタが1882年2月にラーマクリシュナに初めて会ったその日の記録から始まり、ラーマクリシュナが亡くなる1886年8月16日まで、弟子や信者を導くために説いた教えの記録が詳細に残されています。教えはもちろん、信者との会話、日常の様子まで書かれており150年前の記録ですが、その細やかな描写により親近感を持って聖者に接することができる、真理を求めるものにとって、いや、人類にとって宝のような福音です。

そのようなものについて、いったい私が何を言えるでしょうか……急に我に返り、恐れと不安が心を占領しました。もう一度祝辞を読み返してみても、なんと稚拙な文章、とても個人的な内容、これでは普遍的なラーマクリシュナの福音について話をするというような段階ではないように感じ、ネガティブな思いでいっぱいになりました。当日まであと10日、書き直すべきかどうか悩みましたが、焦りもあり、書き直すことができるのかどうかも分からないような状態でした。

日に日に近づく祝祭、どうしよう…という思いが膨らんできた時、突然ラーマクリシュナの教えが胸に飛び込んできました。

「神がしている神の仕事 人は私がするという」

木葉一枚でも神のご意思がなければ落ちることはできない、全ては神がなされていること、神が使い手、人は単なる道具、ラーマクリシュナは常々こう教えられます。
教えが心に染み渡るにつれて不安や恐れは薄れ、消えていきました。そして安堵と歓びが心を満たしました。私に必要なことは、良い道具となるようにラーマクリシュナを愛していくことだけで、恐れを持ったり、不安から祝辞の内容を書き直したり、言葉を変えたりすることではないと分かりました。それからは、「未熟な祝辞ではありますが、どうかあなたへの愛と感謝を捧げることができますように」と祈り、ただただラーマクリシュナを見つめて当時を楽しみに待つことができたのでした。

いつでも、どんなときでも、時間と空間を超えて、常に導いてくださっていることに心から感謝しています。

 

サティヤー


サナータナ・ダルマ アヴァターラ メーラ

桜の花が満開になってきましたね。いよいよ今週末4月7日(日)は、御室にあるプレーマ ・アーシュラマで第3回「神聖示現大祭ーサナータナ・ダルマ アヴァターラ メーラー」が開催されます。永遠の真理——サナータナ・ダルマ——それを体現された神の化身——アヴァターラに感謝と喜びを捧げる日です。

今年の祝祭は、19世紀に生きた大聖者、シュリー・ラーマクリシュナに焦点を当てて行われます。シュリー・ラーマクリシュナを通して、その本質である永遠の真理そのものに触れる機会となることでしょう。

シュリー・ラーマクリシュナがどのような方かということや、彼の教えの数々は、このブログの中で何度も紹介しています。ひとことで紹介することは難しいのですが、「ラーマクリシュナの福音」の中で著者であるMがラーマクリシュナについて表現している箇所を見つけましたのでご紹介します。

「ハリ(神)の愛に常に酔っておられ、神聖な愛と燃えるような信仰を持ち、子供のようになって神と語り、神を恋い焦がれて泣くお方。すべての女性を母と観て拝み、世俗の話を嫌って油の流れるように絶え間なく神の話ばかりし、すべての宗教は憎み合わずに、お互いに敬意を持って接し、仲良くしなければならぬと言われるお方」

このような姿を見て、生きておられた時代はもちろんですが、今もなお時代を超えて多くの人が彼に惹きつけられたのです。

去年のサナータナ・ダルマ アヴァターラ メーラーでは、釈迦牟尼ブッダに焦点を当てて行われました。当日は、ハートの全てをブッダに捧げた祝辞の数々を聞き、ブッダに思いを馳せ、まるでそこに神聖なブッダがおられるかのように感じ、歓喜の美酒に酔っ払ってクラクラになったことを覚えています。

個人的には今年、シュリー・ラーマクリシュナへ感謝を捧げることができることをとても嬉しく思っています。私にとってラーマクリシュナは身近な存在で、心底お世話になっていると思っています。ヨーガの歩みを進める上で、たくさんの教えをいただき、時空を超えて導いてもらっていると感じています。常々感謝の思いでいっぱいですが、大切な仲間と一緒にその存在への感謝、歓びと愛を捧げることができれば、それほど嬉しいことはありません。今年もラーマクリシュナご自身がそこにいてくださり、きっと歓喜の中一緒に過ごすことができるのではないかと、今から楽しみにしています!!!!

御室の桜は満開でしょうか?!こちらも当日が楽しみです!

サティヤー