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ラーマクリシュナの愛した歌

あなたは私のすべてのすべて、おお主よ。
私の命の命、髄の髄。
あなたの他にわが身内と呼べる者はいない。

あなたは私の平安、私の歓び、私の希望、
あなたは私の支え、私の富、私の栄光、
あなたは私の智恵、そして私の力。
あなたは私の家族、私の慰安、私の最愛の友、
私の最も近い身内。

現在の私であり、私の未来でもあるあなた、
私の天国、そして私の救い、
あなたは私の聖典、私のおきて、
あなたは私の慈悲そのものであるグル。
あなたは私の限りない至福の泉です。
あなたは道、そしてあなたは目標。

あなた、崇拝する御方、おお主よ!
あなたは優しい母であり、父である。
創造者で保護者であるあなたは、
人生なる海をよぎる私の船の舵をとる舵手

あなた、あなた、あなた、あなた・・・
最近つくづく思うのですが、「私」に関することを考え出すと「私はこれをしないといけない」「私の意見はこうなのに」「私のもの」「私だったらこうするけど」などなど私に関しての思いがどんどん展開し、心は「私」に占領され、ちっとも黙ろうとせず、自分にはやることが山積みで問題だらけのような気がしてくる。心はすぐに物事を大げさにする。

けれど「あなた」(神や真理)のことを思う、そして思い続けていると、心はだんだんと静まる。「私」は小さく見えなくなる。そしていつの間にか「あなた」でいっぱいになるとき、そこには平安と歓びだけがあり、問題などそもそもなかったと分かる。見える世界は突然変わる。
キーワードは「私」(エゴ)ではなく「あなた」(神や真理)。
そう!あなたは私の限りない至福の泉なのです。


神の御名

 
あなたの御名のなんと美しいこと、
それは甘露のように、私たちの耳にふりそそがれ
私たちを慰めてくださる、
おぉ、わが魂の愛人よ!
あなたの御名という並びなき至宝
それだけが永遠の住処であり
それを唱えるものは不死となる。
聖なる御名が私たちの耳に聞こえるやいなや
ハートの苦悩は抹殺され、至福で満たされる。
あなたの御名は私たちの魂の魂。

 

通常私たちの心は、グナの影響を受け、サットヴァ(明るく軽快な性質)、ラジャス(落ち着きがなく動揺する性質)、タマス(暗くて鈍重な性質)という3つの状態がバランスを変えながら活動しています。仕事の時などは、「今日中にあれをして、これをして・・・!!!」と慌てて、忙しく頭を回転させています。また仕事の評価などで落ち込んだり、うまく進まないことでイライラしたり、疲れて気力を無くしたり・・・ほとんどがラジャスとタマスの状態ではないでしょうか。

先日仕事の同僚たちと活発に意見交換をしていたとき、突然心の奥から「神の御名」が響きだしました。すると、細胞の隅々まで体と心は清らかさで満たされ、疲れたと思っていたはずなのに、活力が満ち満ちていることに気がつきました。心は静まり、平安と歓びだけがありました。「神の御名」によって心からラジャスとタマスは消え去り、サットヴァだけの状態になったのだと思います。自然と意見交換は終わり、私は自分の机に戻ってその状態をしばらく楽しみました。
「神の御名」には、心の状態を一変してしまうほどの力があるということを驚きをもって感じました。

はじめに紹介した詩は『ラーマクリシュナの福音』に出てくる歌の歌詞です。
まさにこの歌詞のように、「聖なる御名が聞こえるやいなや、ハートの苦悩は抹殺され、至福で満たされた」と思ったのでした。

雨に濡れる紫陽花


心の立て直し方

ゴールデンウィークも終わり、普段の生活が戻ってきました。私事ですが、長い休み中は子供の習い事の行事があったり、親戚が泊まりに来たり、ときどき仕事に行ったりと充実した日々を過ごしていました。

しかしながら主婦(夫)は平日も休日も忙しいですね。つい「疲れた〜」と口にして、もう何にもしたくない!動きたくない!と思ったりすることもあります。そんな時、何時からか心掛けるようになったことがあります。それは「心の主張と真逆のことをする」です。

なぜそういうふうにしようと思ったのかな〜?と考えてみると、それは日々のアーサナを通して感じてきたことだと思います。きついポーズの中で味わう苦痛を無視して、愛おしい神、または呼吸に心を向けていく。毎回それを繰り返すことでいつの間にか苦痛だったポーズが心地良いものへと変容していく・・・。

日常も同じ。もう何もしたくない!と心が苦痛を訴えた時こそ、洗濯物を干す、食事作りに取り組むなど、家でのやるべきことに意識して集中するようにすると、「疲れた」という思いがいつの間にか消え満たされた気持ちになっているのです。

つくづく心の主張ほどいい加減なものはないな〜と思います。そういう経験を何度も何度も繰り返していくうちに、以前より心の扱いが上手くなったよう気がします(ウシのように寝そべっていることもありますが・・・苦笑)。

ちょっとしたことなのですが、こうして毎日心を立て直す機会を与えてもらえて有り難いなあ・・・と思います。ちなみに昨日の夕食はさまらさレシピより、我が家みんなのお気に入りスパイス入りコロッケを作りました美味しかった!

さあ、本日も頑張っていきましょう!

                                                                                                                                                            アマラー


ラーマクリシュナの導き

私はヨギになり、愛という山の洞窟に住もう。

至福の泉のそばで、ヨーガに没入しよう。

真理という果実によって知識の飢えを満たそう。

離欲という花を添えて、神の御足を礼拝しよう。

わが魂なる水瓶に平安という水を引き入れよう。

あなたの、蓮華の御足の栄光に満ちた

甘露水を飲んで、歓喜のあまり

笑って踊って泣いて歌おう。

 

これは『ラーマクリシュナの福音』の中で歌われる歌の歌詞です。これを聞いたラーマクリシュナは、「あぁ、なんとよい歌だろう」ととても喜ばれます。私もこの歌の最後の部分が特に好きです。

「あなたの、蓮華の御足の栄光に満ちた甘露水を飲んで、歓喜のあまり、笑って踊って泣いて歌おう」まるで、先日行われた祝祭を象徴しているかのように感じ、当日の歓びが蘇ってきます。

先日の祝祭では(祝祭の内容はこちら)祝辞をさせていただきました。私は『ラーマクリシュナの福音』が好きで、よく読んでいたこともあり、福音を通してラーマクリシュナの霊性と息吹を話すことになっていました。そして、その場に参加しているみんなが福音の世界に入っていければ…という目標もありました。

祝辞の原稿は歓びをもって割と早い段階で仕上げることができました。出来上がってから当日までも福音を読みながら過ごしていました。でもある日、心の中に浮かんだ思いがありました「こんな祝辞の内容でいいのかな……」

『ラーマクリシュナの福音』は直弟子であるマヘンドラナート・グプタが1882年2月にラーマクリシュナに初めて会ったその日の記録から始まり、ラーマクリシュナが亡くなる1886年8月16日まで、弟子や信者を導くために説いた教えの記録が詳細に残されています。教えはもちろん、信者との会話、日常の様子まで書かれており150年前の記録ですが、その細やかな描写により親近感を持って聖者に接することができる、真理を求めるものにとって、いや、人類にとって宝のような福音です。

そのようなものについて、いったい私が何を言えるでしょうか……急に我に返り、恐れと不安が心を占領しました。もう一度祝辞を読み返してみても、なんと稚拙な文章、とても個人的な内容、これでは普遍的なラーマクリシュナの福音について話をするというような段階ではないように感じ、ネガティブな思いでいっぱいになりました。当日まであと10日、書き直すべきかどうか悩みましたが、焦りもあり、書き直すことができるのかどうかも分からないような状態でした。

日に日に近づく祝祭、どうしよう…という思いが膨らんできた時、突然ラーマクリシュナの教えが胸に飛び込んできました。

「神がしている神の仕事 人は私がするという」

木葉一枚でも神のご意思がなければ落ちることはできない、全ては神がなされていること、神が使い手、人は単なる道具、ラーマクリシュナは常々こう教えられます。
教えが心に染み渡るにつれて不安や恐れは薄れ、消えていきました。そして安堵と歓びが心を満たしました。私に必要なことは、良い道具となるようにラーマクリシュナを愛していくことだけで、恐れを持ったり、不安から祝辞の内容を書き直したり、言葉を変えたりすることではないと分かりました。それからは、「未熟な祝辞ではありますが、どうかあなたへの愛と感謝を捧げることができますように」と祈り、ただただラーマクリシュナを見つめて当時を楽しみに待つことができたのでした。

いつでも、どんなときでも、時間と空間を超えて、常に導いてくださっていることに心から感謝しています。

 

サティヤー


神だけを見つめて! <ラーマクリシュナの導き>

桜の花が美しく咲き始め、鳥たちが喜びをさえずり、大地が春の喜びを身にまとっています!もうすぐ春の大祭サナータナ・ダルマ アヴァターラ メーラー(4/7)です!

マハーヨーギー・ミッション主催の今年の春の祝祭では、大聖者シュリー・ラーマクリシュナの存在と導きに心から感謝を捧げ、サナータナ・ダルマを歩む吉祥な生を受けたことを喜び、お祝いします。

ラーマクリシュナといえばキールタンを歌われるシーンが『ラーマクリシュナの福音』の中でもたびたび登場しますが、私たちの周りでも日常でキールタンに親しまれている方が増えてきました。今回、松山で熱心にヨーガをされている山口正美さんがご自身の日常の実践について寄稿してくださいましたので、ご紹介したいと思います。


ヨーガを始めた頃のことですが、ヨーガをやっていこうという決意だけはあったのですが、聖典を読んでも意味がわからない、アーサナも瞑想も続かず、空回りを続けていました。そんな私が唯一興味があったのは「神」でした。思い切って師にお聞きしました。

―私は、神だけしかわかりません。それだけで、いいでしょうか。

「それだけでいい」

―聖典も読めません。聖典の勉強はしなくていいでしょうか。

「しなくていい」

―本当にいいんですか。

「あのね。登り口は人それぞれ違って、いっぱいあるんだよ。いつか、それもわかる時が来る」

それから数年が経ち、やっと「もう、私には神しかいない」という思いになってきました。ところが、そうは思いながらも、日常で神を忘れている自分につくづく嫌気がさし、少しでも「神に近づきたい」と歌い始めたのがキールタンです。

最初は、心が世間のことでおしゃべりをはじめたら、強制的に神の御名を唱えて、神に必死でしがみついていました。 それから毎日、いつでもどこでも、心の中で、声に出して、キールタンを歌って生活してきました。いつからか、神の御名は胸の奥から湧き上がるようになり、最近では、自然の中に神を感じてそれを讃えて歌うこともあります。二年近くたった今、あんなに強かった心がどんなに主張してもキールタンを歌えば、瞬く間に退散してしまうほど、神の御名が、私の日常の支えになっています。

私の憧れの聖者シュリー・ラーマクリシュナは、

「神のみが実在、他のすべては非実在である」

と教えられます。それは、師の教え

「真理、神のみが唯一のリアリティー、それ以外は幻」

と合わさって、私にとって片時も忘れられない大切な教えになっています。 幻なんかいらない、リアリティーだけが、神だけが私の求めるものだ!幾多の輪廻転生の中で感じてきたカルマを生きる虚しさから抜け出したい心の叫びかもしれません。また、本当の生きる目的を見つけた喜びかもしれません。それほどの衝動となって、私を神へと向かわせます。

神を、神だけを見て、神だけを求めて、神だけを信じ、愛し、神の道具となっているラーマクリシュナの姿は、私にとってバクティ・ヨーガの教えそのものです。師のサットサンガに通うように、『ラーマクリシュナの福音』を開いてラーマクリシュナのもとに通って、そこにある息吹を感じています。 これからも師とラーマクリシュナのもとに通い、学んでいきたいと思います。

山口さんのキールタンの原点となった細密画。MYMオリジナルカレンダーより。

山口正美


如何なる場合にも平気で生きる

私が介護の仕事で訪問している方は、病気で体を一ミリも自分で動かすことができません。動くのは、目と口が少しだけ。口が動いても、言葉は話すことはできません。生きるために必要な食事や排泄は、人の手を借りてされ、もっとも生きる上で必要な呼吸は、呼吸器を使ってされています。でも彼は、少しだけ動く口を使って(あと特殊な機械を使って)パソコンで仕事をされ、驚くほど精力的に生きておられます。リフトを使って車椅子に移動され、それに乗って、どこまでも出かけて行かれます。(もちろん家族やヘルパーと一緒に)毎月の予定を見ていると、講演や会議、飲み会?などとても忙しそうです。

先日支援に入っていた時、今度テレビの撮影のためにカメラマンが来ると教えてもらいました。特殊な病気の方なので、これまでにもテレビや新聞に出られたことはあるのですが、今度の企画は、病気や介護がメインではなく、もっと違う角度から彼の生活を撮影したいということでした。メインテーマは、ちょっと意外なのですが、正岡子規。子規は23歳で結核になり、徐々に進行し、死に至るまでの2年間は疾病と患部による苦痛のため、ほとんど動くことのできない重度障害者になったようです。しかし、動けない体になってからも、口述により精力的に執筆活動を続けたそうです。そして、結核という不治の病に冒され、限られた生活空間の中で(六尺、1.8m四方の部屋の中だけにいたようです)あることを悟ったそうです。

「悟りとは、如何なる場合にも平気で生きている事である」

このような言葉を残されていることに衝撃を受けました。私など、ちょっとした思い通りにならないことで悩んだりすることがあるのに、一ミリも体が動かないような状態で生きておられる方がこのように考えておられていたとは!!なんとかっこいい!!

正岡子規が不自由な体になっても執筆活動を続けたように、私の利用者さんも同じような境遇でも充実した生活をされていることが、今回の撮影対象になったのでしょう。尋ねたことはないですが、私の利用者さんも少なからず、正岡子規が感じたようなことを感じておられるのかもしれません。本当は想像にも及ばないほどの、肉体の制限や苦痛の中で生きておられると思いますが、それを感じさせない、その生き様に改めて尊敬の念が湧きました。足元にも及びませんが、私も如何なる場合にも平気で生きていけるようになりたいと強く思いました。

通勤でいつも見る景色、冬の鴨川

 


日常が真剣勝負!

アーサナや瞑想は練習問題のようなもので、日常こそが真剣勝負だと師は教えられます。

今回、師の直伝クラスやサットサンガにも熱心に通われ、真剣にヨーガに励んでおられる藤原さんが、ご自身の体験を寄稿してくださいましたので、ご紹介したいと思います。


昨年末のサットサンガで、ヨギさんに識別についてお聞きすると、エゴに気づいたら、それが出てくる前に忍耐して制御していくように。そして、他者にはやさしく行為するようにと教えてくださいました。

ところが、年明け早々に久しぶりに夫と大喧嘩をしてしまいました。
その引き金を引いたのも、この喧嘩を招いたのも“私は正しい”というエゴ的な思いから生まれた日常の私の言動だったのです。私は今まで一体何をしてきたんだろう…と何もかもが崩れ去っていくように感じ激しく動揺しました。
その一方で、いつもと変わらず動じることもなくその様子を見ていた息子は、私の肩をやさしく撫でてそっと寄り添ってくれました。その姿にヨギさんを見たように感じました。

その時にやっと私は、ヨギさんから授かったこの教えが、自分にとってどれほど必要なことなのかを思い知るに至りました。
私はヨーガを学び実践が大切だと日常を過ごしていたつもりでした。そして、少しずつですがその日常に良い変化も感じていました。でも、いつの間にかその結果に執らわれてしまい、自分のエゴに気づかずにいたことに気づきました。

この激しい動揺をしずめてもう一度やり直さないといけないと思いました。
ヨギさんのようにいつも変わらず同じで在りたい。その為には、徹底的にエゴをなくしていかないといけない!

以前、クラスでラーマクリシュナが教えられている6匹のワニのお話があったことを思い出しました。
人の心にある怒り、嫌悪、色欲、欺き、高慢、羨望という6つの欲情をワニに、心を池に例えて、池に棲んでいる6匹のワニが時々出てきて心をざわつかせるというお話でした。
何事も自分の思いどおりにはならない、諸行無常、カルマの法則、この世の中の道理を正しく理解して、このようなネガティブな感情が湧いた時には、エゴが思いどおりにしようとして暴れているのだから、即座にその反対のポジティブな思いを起こすのがいい。怒りには寛容を、嫌悪には愛を、色欲には清浄を、欺きには誠実を、高慢には謙虚を、羨望には賞賛を。そして、その時のポイントは、条件付きではなく、いついかなる時も、誰にでも無条件に行なうことだと教えてくださっていました。

これからも何度も何度も心に言い聞かせ、忍耐強くエゴとの真剣勝負に挑み続けたいと思います。

藤原 里美

MAMA YOGA lilāは、篠山市、丹波市で活動しているヨーガのサークルです。藤原さんがアーサナをリードしています。下、写真右端が藤原さん。


思い一つですべてが変わる!

2019年が始まりましたが、どのような一年になるのでしょうか?皆さんの今年の抱負はいかがですか。熱い思いが力強い行動を生み出し、未来を作っていきますから、素晴らしい一年となる思いを抱きたいですね!
さて、マハーヨーギー・ミッションのヨーガ・瞑想クラスも今日から始まりますが、今回、師の直伝クラスや京都のクラスに熱心に参加しながら、ヨーガに励んでいる桜井さんが、クラスを通した気づきと実践、そして決意について寄稿してくださいましたので、ご紹介したいと思います。


ミッションのクラスを受講し始めて2年が経った昨年の3月、アーサナや瞑想の実践を深めていきたいという思いとは逆に、私はそれまでの職場から勤務時間が大幅に増える職場に異動が決まりました。
悩んでいた私にクラスで指導してくださっているシャーンティマイーさんが「思い一つ、社会で求められていることには応えていかなければいけない。」という言葉をかけてくださり、アーサナや瞑想は手段であり目的ではなく、仕事をする時間が前より増えてもヨーガを深めていくことはできること、また、社会で求められている役割を果たしていくことも大切だということを教えていただきました。前向きに今ある状況でやっていくしかないという気持ちに変わっていきました。

新しい人間関係、新しいルール・・・その中でも、
日々淡々とできる限りアーサナや瞑想をする
職場では、頼まれたことやしなければいけないことは余計な感情なしに、すぐに動く
結果には執らわれず終わったことは捨てていく
ふとした瞬間に自分の中の神に意識を向ける

そんなことを心がけながら、土曜日は変わらずシャーンティマイーさんのクラスに参加していました。
それから2カ月が経った6月のクラスで、以前はアーサナをしていても身体という一つの器で呼吸とアーサナの形を作っていくことは別々のものとしか感じられませんでしたが、呼吸とアーサナの形を作っていくことが身体の中で重なったという感覚があり、マットに寝られないくらい身体中が燃えるように熱くなることがありました。この時に、やっとシャーンティマイーさんが繰り返しクラスで言われていた「アーサナはプラーナによって作られる。」ということが、ありありと実感できました。
その時からそれまで以上にプラーナを身体の中で意識できるようになり、少しずつ集中感も増してきたと感じられるようになりました。

これからも、師のお導きの下、シャーンティマイーさんから言われた「アーサナは基本に始まり基本に終わる。丁寧に呼吸を見つめて今の中に生きていく。」という言葉、きっとこの先何十年アーサナをしていっても「吐く息をできるだけ長く丁寧にし吐ききること、それとともに一つ一つの段階を追って完成ポーズにもっていくこと」は変わることなく大切で、それが日常生活では今という瞬間に生きていくことに繋がるんだなと思っています。しっかり心がけこれからも精進していきたいです!

桜井みき


善と悪を超える

ある時のこと、どうしても解り合えない人がいました。その人から物理的に離れたいと思い、師であるヨギさんにご相談すると、仏みたいな人なんてこの世に滅多にいないんだから、と諭されました。

ヨギさんからそう言われて、改めて考えてみれば、善と悪は人それぞれの経験や価値観によって変わってくるような、とてもあやふやなものです。自分の心を見てみると、小さな経験の範囲でその人を評価し、解り合えない、相手が悪いと決めつけていたことに気が付きました。そして、そのことに集中していると、自分のこだわりがパンッと弾けて消え、とても清々しい気分になって、これで完全に物差しが消えたと思いました。

でもまた最近、同じ思いが湧いてきたのです。解り合えないと思っていたその人が、自分に対して苛ついて怒っているように感じて、やっぱりこの人と付き合っていくのは無理なんじゃないかと思いました。

この世界は自分の心のフィルターを通して見ている世界であることは、ずっと教えてもらっているし、すべては神であることを恩寵によって少しは垣間見せて頂いてもきました。だから自分の意思で居場所を変えることは神のご意志に反すると思って今までやってきたのですが、今回のことは、別の環境に身を移してもいいというメッセージなのではないかと考えました。

それからは環境を変えることを思案し続け、神のメッセージ通りに動いているつもりでいたのですが、苦しみは一向に消えません。何か間違っている気がして、落ち着かない日が続きました。あまりにもしんどいので、この問題はひとまず置いて、絶えず神を思うようにしていきました。

すると、私に怒っていたその人が嘘みたいにニコニコするようになりました。あまりの変化に諸行無常を思うとともに、神のメッセージだと思っていたことは、自分の問題から目を背けて都合の良いように解釈していたのだということに気が付きました。

自分の物差しで相変わらず人を評価する習慣がまだある、だから心が動揺する。原因は自分の中にあり、それに心が反応しているだけなのだと、やっと冷静になれました。

自分のもつ原因がなくなれば、どこにいようと誰といようと円満で楽しい時間が過ごせるはず。もういい加減、こんな茶番劇は終わりにしたいです。神への思いをもっと強くして、今ある環境の中で、これからもやっていこうと思います。

amara


ラーマクリシュナがうたわれたキールタン 至福のお酒

さて、年末のシーズンになり、忘年会などお酒を飲む機会が増えてくる時期ですね。そこで今回は「ラーマクリシュナの福音」に出てくる詩のなかで、お酒にまつわるものをご紹介します。

私は並の酒は飲まない
永遠の至福の酒を飲む
母カーリーの御名を繰り返しながら。
それは私の心を深く酔わせるので
人々は私が酔っ払ったと思う。
まずグルがその酒をつくるための糖蜜をくださる。
わが渇仰の心は、それ酒を変容させる酵母。
知識という作り手が、私のために酒を醸す。
酒ができたとき、私の心はそれを
マントラというびんから飲む。
それを浄めるために母の御名をとなえながら。
この酒を飲め、とラームプラサードは言う、
そうすれば人生の四つの果実はお前のもの

私はお酒を飲むことが割と好きなので、これまでの人生でそれなりにお酒を飲んできたと思いますが、この詩に出会ったとき、私が飲みたかったのは、この「永遠の至福の酒」だ!!!とはっきりと分かりました。そして、私はもう並の酒は飲みたくない!と思ったのでした。

ではその永遠の至福の酒はどうしたら飲めるのか!?それをつくる方法が詩の中に書かれています。まず、グルがその酒をつくるための原料となる糖蜜をくださるのです。糖蜜とはサトウキビの絞りかすで、お酒の原料になるもの、日本酒ならお米のことです。まずはグルの恩寵が必要なのですね。そして、お酒作りに酵母が必要なように神への渇仰の心、信仰心は欠かせないものです。そして作り手として、真理の知識(真知)が醸造してくれるのです。

あーそのようなお酒を心が飲むとき、どれほどに甘美なのでしょうか!!この詩を読むたび、私は永遠にその至福のお酒に酔いしれたいと思うのです。最後に書かれてある四つの果実は、ダルマ(正義)アルタ(富)カーマ(欲望の達成)モクシャ(解脱)のことを指します、憧れは増すばかりです。

さて、収穫が秋のお米を原料に作る日本酒は、冬に仕込むことが多いようです。それは雑菌が少なく温度調整がしやすいためと言われています。ぜひ仕込みやすいこの寒い時期に、みなさんも永遠の至福の酒を仕込んではいかがでしょうか。