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二元性を超えるーー夏の暑さを乗り越えようとした奮闘記(1)

皆さま、先日に台風21号が過ぎましたが、大丈夫だったでしょうか? こちら京都では停電や建物損壊の被害がありました。また、北海道では地震により甚大な被害が発生しているとのことで、災害に遭われた皆様が1日も早く平穏な生活に戻られることを心からお祈りいたします。

ところで、この夏は本当に暑かったですね。皆さま、いろいろな暑さ対策をされたことと思いますが、ヨーガの根本経典『ヨーガ・スートラ』には、

「アーサナ(座法)によって快不快、暑い寒いの二元性を超える」

と説かれています。えっ、ヨーガで暑い寒いを超えるってどういうこと?そんなの無理でしょう〜と普通は思ってしまいますが、でもこの夏、私は「二元性を超える」ということをテーマに、ちょっとばかり暑さと闘っていました。以下、その奮闘記のようなものを書いてみました😤✏️


梅雨明け間近の7月前半、私はヨーガ・ヴィハーラの夜の瞑想会に遅れて参加した。この日の最高気温は34℃、クーラーがかかっているだろうと思って部屋に入ると、クーラーはかかっていなかった。そこにはタンクトップと短パンという最小限の衣服で、涼しげに瞑想する先輩ヨーガダンダさんがいた。この暑さなのになんとも涼しげなご様子、というかご格好!私はというと、瞑想に座るもムッとした暑さで集中できない。。こういう時、どうすればいいのか?

「まず、捉えやすい身体に集中したらいい」

他の先輩の言葉が思い出され、それに伴って聖典『ウパニシャッド』の一節の言葉が蘇ってくる。

「胸と頸と頭とを真っ直ぐに保って正しく坐り、外に出ようとする感覚器官を内に向けよ」

私は姿勢を正し、呼吸を調え、内側に意識を向けていった。その後瞑想では、暑さのことは忘れていた。この日私の心には「アーサナ(座法)によって快不快、暑い寒いの二元性を超える」という『ヨーガ・スートラ』の一文が浮かび上がっていた。

それから1週間ほど経った日、師ヨーギーさん唯一のTV映像である『あどりぶランド』の上映会があった。この日は松山や名古屋からもグルバイ(兄弟姉妹)が京都に来ていて大勢でその10分ほどの映像を見たが、いろんなことに驚かされた。
まず、師の妹さんのシャーンティマイーさん。長い黒髪を後ろで結んで軽快に動き、アドヴァンスのアーサナをされたりしていて、それはまるで「くのいち」のようだった。その隠密さ漂う凛としたお姿に驚愕。
そしてヨーギーさん。何といっても、インタヴューされている時のお声がとっても美しい。声色もそうだが、独特の間合いというか、静かで穏やかな口調。この番組の司会担当をしていたヨーギーさんの同級生アナウンサー野村啓司さんは「彼の話の間合いにイライラする」と冗談めいて言っていたが、やはり普通の人の話し方とは異なる特有のものがあった。
客観的に映像で見る二人のお姿は、何か「超越したもの」が感じられた。それは言葉ではない、その存在から醸し出される「隙のなさ」のようなものでもあった。師は夏でも冬でもクルター(インドの民族服)一枚で過ごされていたという話や、当初アーシュラマ(道場)では扇風機もなく、先輩たちは汗だくでアーサナをしていたという話も聞き、私は姿勢を正される思いになった。

「暑いとか寒いとかそんなこと、言ってられないな!」

そう思った翌日、私は『あどりぶランド』に影響され、涼しい部屋でアーサナはせず、あえて暑い部屋でアーサナを行なった。ヘロヘロになりながら何とか一連のアーサナを終えるも頭がガンガン、熱中症になっていた……それもそのはず、その日の最高気温は38.7℃だったのだ?!(続く)

@MIHO MUSEUM。このトンネルを超えると……

*『あどりぶランド』は、1984年1月25日から1998年3月18日までMBSテレビで放送されていた同社アナウンサーの企画・出演によるバラエティ番組。ちなみにヨーギーさんは野村アナウンサーとは中学時代の同級生であり、同窓会で再会したことがきっかけで、この番組企画「野村啓司の私の同級生は今!」に出演することになったそうだ。

ゴーパーラ


ヨーガ無料体験@イオンモール大阪ドームシティレポート‼

台風が2つも同時に来ていて蒸し蒸しがまた戻ってきていますが、皆さまいかがお過ごしでしょうか?

さてさて、今年はちょっとしたご縁がありまして、京セラドーム大阪近くのイオンモール(←迷いそうになるくらいすごーく広い!)3階で、ヨーガの体験レッスンを月一回させていただいております!

毎回どんな方が何人くらい来られるのかワクワクドキドキ(ハラハラ笑)なのですが、前回7月24日のレッスンの模様を、河野扶佐子さんがレポートしてくださいましたので、ご紹介します!

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今年の5月から月1回(第4火曜日)開催されて、今回で3回目となったイオンモール大阪ドームシティでの無料レッスン。好評につき、8→10月まで開催が延長になりました。今回はその様子をご報告させていただきたいと思います。

イオンモール大阪ドームシティへのアクセスはと~っても便利‼ 私が降りた駅は、阪神電鉄「ドーム前」駅。案内で駅と直結とあったけど、改札出たらなんと目の前にイオンモールの入り口が‼ あまりの連絡の良さに思わず写真をパチリ。

  
他アクセス、Osaka Metro「ドーム前千代崎」駅と地下通路で直結、JR環状線「大正駅」より徒歩7分

会場のある3Fは、スローホビー&キッズセレクトのフロア。二児の母である私としては、子供用品の買い物がてらヨーガができるなんてサイコォー!しかも無料で♪ 外は灼熱、ここでは涼める!至れり尽くせり(笑)とレッスンへの期待が高まります。

そしてレッスン開始直前、どこからともなく集まった20名あまりの方々。
ヨーガを目的で来られた方、偶然通りかかった方、子連れや妊婦さん、ご年配のご夫婦まで、経験者もおられたのですが、ほとんどがヨーガ未経験の方々。

舞台で見本を見せつつ、軽やかに指導されるのはマーダヴィーさん。まずは立木のポーズから。中々片足で立てない方に「バランス難しいですよね、私なんて片足で立つのしばらくかかりましたよ~」なんて皆さんの気持ちをほぐしつつ、「猫背はマイナス思考になりがちなので、普段からの姿勢は本当に大事なんですよ~」と声掛けがあった瞬間、私含め一同背筋ピーン!自然とポーズに集中できるよう朗らかに導かれていました。
ゆったりと丁寧に、しかし、内容はしっかり。最後は座り方から瞑想まで、初心者の方はもちろん、経験者の方でも十分充実した濃い~1時間のレッスンでした。

写真でも見ていただけるようにここは、ショッピングモールの催事場。周りは子供のプレイスペースやアミューズメント施設まであって、静かな雰囲気とは言い難い。行き交う買い物客の視線が否応無しに注がれます。
宣伝にはいいと思いますが、受けられる方は周りを気にすることなく集中できるのだろうか?無料だし、そこは仕方のないところなのかな?

私のそんな心配をよそに講師のマーダヴィーさんは、全体に行き届いた配慮とお声掛け、瞬時に適切な判断をスタッフや私達アシスタントに指示され、ご自身はポーズの見本を見せながら説明に至るまで快活にこなしておられ、何よりそんな雰囲気全部を楽しんでおられるように見えました。

そして、それに応えられるかのように参加された方は、最初はぎこちなくても、アーサナが進むにつれてどんどん集中されていって、どの方も最後まで熱心に、アーサナをされていました。さらに、0~3歳ぐらいのお子さん連れの方が5組ほどおられましたが、お子さんが愚図ることはなく、全てのママさんが最後までレッスンを受けることができました。
レッスン後、皆さんすぐに立ち去らずに質問をされる方もいて「通います~!」といった嬉しいお声まで聞けたようです。

マーダヴィーさんのリード、熱心に取り組む参加者、子連れの妊婦さんにはアーリヤ―さんが付き添われ、会場スタッフの方々も設営からチラシ配り、アーサナの体験もしておられ、このレッスンをこの場に居てる全員が作り上げているような印象を受けました。
そして、それに応えられるかのようなヨギさんの恩寵。もうここがショッピングモールだとか何だとか全ての枠が消えてなくなり、この空間だけが隔離されたような神聖なプラーナに満たされていくようでした。いつの間にか会場は自然と穏やかでリラックスした雰囲気になり、赤ちゃんからご年配の方までみんながその空間に包まれたようでした。

レッスン後、皆さんとってもステキな清々しい笑顔で会場を後にされて、ヨギさんの伝えられるヨーガの普遍さを感じさせて頂けたような貴重な体験でした。

ヨギさん、マーダヴィーさん、至らないところだらけの私にこのような機会を与えてくださり、本当にありがとうございました。

まだまだ、10月まで月1回、開催中です。お近くの方はもちろん、電車乗って来られる方も直結!ですし、なにせ無料!ですから~これは、いかなきゃもったいない!
ぜひぜひ体験してみてください。

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行かなきゃもったいなーい!そんな無料レッスン、8月28日、9月25日、10月23日開催です!あっ、イオンモールでは毎週火曜日は恒例お買得いっぱい火曜市!もやっているので、レッスン帰りには“お得に”お買い物してお帰りくださいね〜!


正面玄関や店内でもご案内してます!

マーダヴィー


ラーマクリシュナの福音 〜ウシガエルのお話〜

この小さな部屋で不滅の言葉が語られたのです。

自室の小さい寝台の上に東を向いて座っておられるシュリー・ラーマクリシュナが、床に座っている信者たちに主ラーマの物語から教えられました。 

苦痛と快楽は肉体にはつきものだ。神を悟った人は、心も生命も、肉体も魂も神に捧げる。
ラーマとラクシュマナが沐浴をしようとパンパ湖に入った時、彼らは弓を地面に刺しておいた。ラクシュマナが自分の弓を引き抜くとその先が血で汚れているのに気が付いた。ラーマは彼に言った。「ごらん、弟よ。たぶん何か生き物を傷つけたのだろう」。ラクシュマナは地面を掘り、大きなウシガエルを見つけた。それは死にかけていた。
ラーマは悲しみにみちた声でカエルに言った。「どうして鳴かなかったのだ。私たちはお前を助けようとしたはずだ。お前はヘビにくわえられた時でも、元気に鳴くではないか」。するとカエルが言った。「おお、主よ。私はヘビに襲われたときには『おお、ラーマ、お助けください。おお、ラーマ、お助けください』と言って鳴きます。この度は、自分を殺そうとしていらっしゃるのがラーマであることを知りました、それで黙っておりました」。

私は以前、命を投げ出してでも悟りを得るということはどういうことなのかと師に質問をしたことがあります。師は「私たちの心が最も執着しているのが命です。その命を投げ出す、捧げるということは完全に心が開け放たれた状態、まったく執着のない状態を表しています」と教えてくださいました。
このウシガエルは何の執着もなく、完全にラーマ神のみを信じ、愛し、頼り切って生きていたのだと思いました。神に命を捧げると、自分のことをすっかり忘れ、すべてのすべてが神だけで充満してしまう、そして神以外の一切の思いが消え去ってしまうのだと思いました。

自分のすべてを神に捧げ、行為することができますように。

                                       ダルミニー 


マウナ(霊的沈黙)

4月8日、ブッダ御聖誕の日、マハーヨーギー・ミッション春の祝祭「サナータナ・ダルマ アヴァターラ メーラー—神性示現大祭―」が開催された。
祝祭前日に行なわれたサットサンガ(真理の集い)では、「十二因縁の瞑想よりも大事なことがある」と示された師。(前回のブログはこちら⇨『十二因縁』
では、十二因縁の瞑想よりも大事なこととは何か?

昨年から始まった春の祝祭は今年、「ブッダ」に焦点が当てられた内容となった。
会はプージャー(礼拝の儀式)で幕を開けた。幸運にも私はプージャーで師シュリー・マハーヨーギーにマーラー(花の首飾り)を献上させていただき、そのまま師の御前に座らせていただく恩恵をあずかった。しかしながら、師と目が合うことはほとんどなかった。90名近く参加者がいたので仕方がないとも思っていた。
祝祭は、祝辞者がそれぞれに迫っていったブッダやサナータナ・ダルマ(永遠の真理)について語り、会場は歓びと祝福のプラーナで満ち満ちていく中、自然と私の心は静まっていった。
するとある瞬間、私は心が止まったように感じると、師がこちらを見られた。再度、心が止まったように感じると、また師と目が合った。それが数度、繰り返された。本当に不思議だった、私の心が止まったら止まった分、師のダルシャン(霊的一瞥)が注がれたのだった。

そして1カ月が経った頃、「それ」は突然やってきた。胸が締め付けられ、苦しくて何もできない状態が私を襲った。「それ」に心は占領され、「それ」以外のことが思えない、「それ」への渇望で胸が焦がされるような感覚――「それ」は「バクティ」の感情であった。

期せずして、新年の始めに私は「パラー・バクティ(至高のバクティ)に至るために最も大事なことは何ですか」と師に質問していた。師は一言、次のようにおっしゃられた。

「マウナ(霊的沈黙)」

祝祭前日の4月7日、師は「十二因縁の構造が知られて、その根本的な原因の無知というものに辿り着いたら、もうそれらすべてを棄てるということは大事です……心が理解できないのは無知。だからそこのところは、真理というものをもってきて、無知をなくすようにしないといけない」とおっしゃられ、それを受けて私は十二因縁の心の構造を見るより、真理そのものに瞑想する大切さを改めて感じていた。
真理への瞑想が最終的に到達するマウナの境地「ニルヴァーナ(涅槃寂静)」とバクティの目指す「神との合一」が同じ境地ということや、ヨーガの修行の歩みはその「両輪」で進む方がよいということは知っていた。
しかし今、私の中では過去の重荷は棄て去られ、新たにバクティの車輪が回転し、その歩みにドライブがかかり始めたように感じている。
マウナとバクティ——「真理を渇望しないといけない!」と言われたあの台北の夜から今日に至るまで、この両輪を身をもって教えてくださった師の導きに、心より感謝を捧げ、礼拝いたします。(終)

ゴーパーラ


『The Eternal Quest—永遠の探求—』YouTubeで初公開❗️❗️

8月8日、『The Eternal Quest—永遠の探求—』の映像がYouTubeで初公開されました!!!
この作品は、2015年11月3日に京都国際交流会館で行なわれたイベントにアーサナ・瞑想のデモンストレーションとキールタン(インドの歌)で出演した時のものです。

『The Eternal Quest—永遠の探求—』というタイトルを見ると、何だか壮大なテーマだなと感じる人も多いかもしれません。
確かに歴史を振り返ってみると、「永遠の探求」というものが人類の大きなテーマであることが窺い知れます。
秦の始皇帝が求めた不老不死の薬、死後も幸福が続くようにと作られた巨大なピラミッド、理想郷のユートピア思想やオアシス都市の建設など、世界のあらゆる国や地域で永遠に続く命や幸福を求めていたことは明らかです。
インドにおいても、それは例外ではありませんでした。
では、どこに求めたのか?
『The Eternal Quest』の冒頭、インド古代の詩『ウパニシャッド』が朗誦されます。

聖者たちは瞑想に没入し、自らの内に永遠なる真の自己、自ら光り輝く唯一の神を見た
彼は唯一にして第二のものをもたない。彼は宇宙の主であり、一切万物の主である
真実のところ、あなたは神と一つである
あなたはこれを知らなければならない
それ以外に知るべきことは何もない

インドの聖者たちは、外界に永遠のものを探したり、新たにつくり出そうとしませんでした。
瞑想によって、自らの内に「永遠なるもの」を発見したのです。
それが「真の自己」であり、また別名「神」といわれるものだったのです——

私自身、3年前に『The Eternal Quest』のアーサナ・瞑想のデモンストレーションに出演させていただき、それが一つの転機となって「真の自己」「神」を求める思いが芽生えてきました。
ただ最近、この暑さで瞑想に集中できない時がありました。
そんな時、心は涼しく快適な環境「オアシス」を求めてしまいます……
しかし瞑想の途中、『The Eternal Quest』で朗誦された詩の一節が思い出されました。

胸と頸と頭とを真っ直ぐに保って正しく坐り、外に出ようとする感覚器官を内に向けよ

私は再度、姿勢を正し、心を内側に向けて瞑想を続けました。
その後、暑さのことは忘れ去られていました。
どうやら本当のオアシスは、心の奥にあるようですね😑🎐(本当にそう思っている?!と突っ込みたくなりますが……)

最後になりましたが、『The Eternal Quest—永遠の探求—』は師シュリー・マハーヨーギーが総合監督として全面的に協力してくださって完成に至った、まさに師の息吹と恩寵が吹き込まれた貴重な作品です。
まだまだ暑い日は続きそうですが、師に感謝を捧げ、ピリッとするアーサナと瞑想、清流のように透明で美しい神の歌キールタンの映像をご覧になって、この夏を乗り切っていただけたらと思います🙏

ゴーパーラ


瞑想会後、カーリーヤントラのTシャツを着て

7月28日(土)プレーマ・アーシュラマにて瞑想会+サットサンガを開催。
京都・御室仁和寺(世界遺産)横の小道を上がっていくと、ここプレーマ・アーシュラマ(庵)があります。

ここしばらくは猛暑が続き、息をするのも厳しいほどだったけれど、この日は台風の影響もあってか夕刻になると風が強く吹き始め、庵の中を気持ちよく通り抜けていきました。

午後19時半、空が夕焼けに染まる頃、各々は祭壇に向かって座り、瞑想が始まります。静寂に包まれた45分間はあっという間に過ぎ、その後は輪になってサットサンガを行ないました。

久しぶりに来庵した人、久しぶりに顔を合わせた仲間もおり、喜び、楽しんだ1時間半でした。

そして、瞑想会後に撮影。

現在、私たちの師は渡米されています。この日は師を思い、師がデザインしてくださったミッション・オリジナルTシャツを着て集まりました。


ラーマクリシュナの福音

みなさん こんにちは

七月も半ばですね。七月にしては暑すぎるような気もします。七月は文月(ふづき、ふみづき)と呼びますが、由来は、七夕の詩歌を献じたり、書物を夜風に曝す風習があるからという説と、稲の穂が含む月であることから「含み月」「穂含み月」の意であるとする説もあるそうです。今年は暑い文月になりましたね。

さて、今回も『ラーマクリシュナの福音』からご紹介いたします。

ある日曜日、シュリー・ラーマクリシュナは朝、カルカッタに近いカンクルガチの村の、彼が愛しておられる在家の弟子たちの一人、スレンドラの別荘にお着きになった。スレンドラがある祝祭に、彼と大勢の信者たちを招待したのである。部屋の床は敷物でおおわれ、その上に白布が敷かれていた。いくつかの長枕やクッションがあちこちに置いてあった。ラーマクリシュナが信者たちに向かってお話になっている。

ラーマクリシュナ「『私が』とか『私のもの』とかいう感情は無知からくる。人々はラーニ・ラシュマニがカーリ寺院を建立したと言うが、誰もそれは神の御わざであったとは言わない。誰もそれは神の思し召しによってつくられたとは言わないのだ。この『私が行為者である』という感情は無知である。反対に『おお神よ、あなたが行為者であられます。私はお道具にすぎません。あなたが運転者、私は機械なのです』という思いが知識である。知識を得ると、人は『おお神よ、なに一つ私のものはありません。これらは全部あなたのものです。妻も息子も家族も、私のものではありません。すべてあなたのものです』と言うようになるのだ。これらのものを自分のものと思って愛するのはマーヤーだ。しかしすべてのものを愛するのは、ダヤー、慈悲である。自分の家族だけを愛するのはマーヤーだ。自分の国の人々だけを愛するのはマーヤーだ。だがすべての国の人を、すべての宗教の信者を愛するのはダヤーである。そのような愛は神への愛から、つまりダヤーから生まれるのだ。マーヤーは人を巻き込み、神に対してはそっぽを向かせる。しかしダヤーによって、人は神を悟る。シュカデヴァやナーダラのような信者たちは、常にハートにダヤーを抱いていたのだ」

ダヤー、慈悲という言葉からは、ブッダの行為がすぐに頭に浮かびます。清貧に中に生き、生きとし生けるものすべてを、生涯をかけて救い続けたブッダ、その慈悲の行為を思い出すことができます。そしてシュリー・ラーマクリシュナは、すべてを神として愛する、神への愛、それはダヤーであると教えられています。

私たちの師もまた、こう説かれています。
「愛は、心が主人公の間は愛着として所有とか支配とかに基づいた、限定的で偏った愛の姿をしていますが、心が純化されて、純粋な意識というアートマンの普遍の意識に目覚めてくれば、その愛そのものが喜びに変わってくる。喜びというのはもちろんエゴがないから利己的な喜びではないし、普遍的な宇宙的な喜びという至福という姿に変わる。そして他者の喜びを見ることが愛の姿となっていく。それは元々、純粋な本質として私たちの中にあるから、無条件に出てくると思う。愛というのは、神そのものがこの万物に現われた原理そのもの、万物宇宙がお互い引きあい、あるいは離れあい、育んでいっている姿そのものも愛の基本。あのクリシュナとラーダーのストーリーでは、あまり慈悲という言葉は出てこない、むしろ愛という言葉が非常に多い。古い時代のブッダに遡る頃は、慈悲という言葉がさかんに使われたと思うんだけれども、よくよく見てみるとそれは非常に同質のもの。時代によって、あるいは時代の思想の影響によって多少言葉が違ってきているかもしれないけど、その本質においては同じようにみえる」

私たちの師もまた、神への愛、真実の愛と慈悲とは同じものだと教えてくださっています。師はその慈悲もまた私たちの中に、もうすでにあるのだと教えてくださいました。ヨーガは私たちの忘れている故郷に帰るようなもの、愛深くあれるよう、慈悲深くあれるよう、少しずつ実践しながら、その理想の姿を目指し、諦めず歩んでいくことで、この生を価値のあるものにしていくことができるのだと思いました。

ダルミニー

 


十二因縁(十二縁起)

師と過ごした台湾での夜、私は原因、原因を探求していくブッダの十二因縁の瞑想の必要性を感じた。(前回のブログ「集」はこちら
では、「十二因縁(十二縁起)」とは一体どういうものなのか?
それは、老いや死をはじめとする一切の苦しみが起こる原因のプロセスを、根本原因である無知にまで遡っている。

無明…真実を知らず、永遠・絶対でないものを永遠・絶対だと見なす根源的な無知。
…自我意識や執着を生み出す元となる、無意識のうちにある潜在的傾向、サンスカーラ。
…自我と他者を区別し、外界を認識する意識。
名色…名前と形という、区別・差別を生み出す微妙な要素。
六処…視覚・聴覚・味覚・嗅覚・触覚という5つの感覚機能と思いの働き。
…感覚や思いを通じた外界との接触。
…外界の対象を感じ取ること、感受。
…欲望の対象を渇望・渇愛すること。
…欲望の対象を取ろうと執着すること。
…カルマをもって輪廻する煩悩的存在。
…生まれること。
老死… 老いと死をはじめとする一切の苦しみ。

見慣れない仏教用語が並び、十二の意味を理解するだけでも難解に感じるが、この十二因縁を知的に理解している人は学者をはじめ、仏教者にも少なからずいるだろう。
ただ、どれだけの人が実際に十二因縁の瞑想を行ない、本当の意味を理解しているだろうか?
台湾での夜、師は「知的理解」と「体験的理解」の違いを次のようにおっしゃられた。

ゴーパーラ「十二因縁の公式を、心に当てはめながら見ていってもいいんですか」
ヨギ「それを単なる知的理解で終わらせてはいけない。自分の心を材料にして、自分の心はそれに対してどのような反応を示すか――自分の心がその十二因縁のリアルな体現者となったように順次、十二の原因を遡っていくというのかな」
ゴーパーラ「リアルな疑似体験というか、そういうように進めていく」
ヨギ「本当は疑似体験じゃない。自分の心を材料にするから、(強調されて)直接体験やで、これはほんまは。それを直接体験と思えるぐらい切迫した、心に切迫させていかないといけない。そうでないと知的理解という疑似体験に終わってしまう」
ゴーパーラ「それは言い聞かせのレベルとは全く違う」
ヨギ「言い聞かせじゃない。その原因をしっかり理解すること。単なる言い聞かせはいらない。(強調されて)しっかりと理解すること。それは心そのものが変わっていく。それが直接体験の効果というか結果というふうになっていくはず」

私は小さい頃からずっと執らわれている欲望があった。
台湾の夜から私は十二因縁について考えを巡らせていたのだが、瞑想中にその執らわれている欲望が湧き出てくることがあった。
するとその瞬間、名と形が形成され、そこに手が伸びてつかみにかかり、その対象を渇愛する心の動きが感じられた。
それは一瞬の出来事だった。
この十二因縁とは生死の輪廻という大きなスパンの構図だと理解していたが、一瞬の思いの中にも十二の要素すべてが詰まっているようにも感じられた。
私自身、今まで行なっていた識別瞑想では、欲望やその対象に対して、「それは永遠ではない、絶対ではない」というふうに真理をあてがっていた。
その効果として欲望への執着は薄らいでいたが、まだ完全に消えてはいなかった。
だが、この十二因縁の構図でもって欲望を分解していった時、何か咀嚼しやすい感覚があった。
それは、心の中で欲望の消化が促進されるような新たな実感であった。

そして台湾から帰国して約2週間後の4月7日、ブッダ御聖誕日の前日にサットサンガが開かれた。
私は実践した十二因縁の瞑想について師に確認した。
師は、「それは心が造り出す条件下の構造そのものを明らかにするという意味において、その十二個を辿っていくということは有意義」と言われた。
しかしながら師は、それよりも「もっと大事なことがある」と示されたのだった。
(続く)

ゴーパーラ


*老いや死のような一切の苦しみ(老死)は生まれたこと(生)に原因があり、生まれたことはカルマによって輪廻する煩悩的存在(有)に原因があり、その輪廻的存在はさまざまなものを取ろうと執着すること(取)に原因があり、執着は欲望の対象を渇望すること(愛)に原因があり、渇望は対象を感じ取ること(受)に原因があり、対象を感じ取ることは外部との接触(触)に原因があり、接触は視覚・聴覚・味覚・嗅覚・触覚・思いの六つの感覚機能があること(六処)を原因とし、六つの感覚機能は名前と形(名色)という微妙な想念があるために起こり、名前と形は自分と他者を分けることで外界を認識する意識(識)を原因としながら、名前・形とその外界意識は相互に依存して成り立っている。また自他を区別して外に向かうその意識はサンスカーラという無意識の潜在的傾向(行)を原因とし、潜在的傾向は永遠でないものを永遠と見、自己でないものを自己と見る無知(無明)に原因する。これら十二の因果をまとめると以下のようになる。(原因<結果、で示す)
無明<行<識><名色<六処<触<受<愛<取<有<生<老死

MYM 東京 サナータナの解説】


カーリー・ヤントラに瞑想する!

今回発売されたNewTシャツとトートバッグにデザインされているカーリー・ヤントラは、瞑想に使用されるものでもあるのですが、シンプルなデザインを見て、本当に瞑想で集中しやすいと思いました。

それで、6月23日にあった松山での瞑想特別クラスでは、集中力を養っていくというテーマだったので、カーリー・ヤントラを用いて、それを凝視しながら実際に集中してみようと思いました。

ところが、人数が多いのでどうやろうかなあと思っていたところ、ヨギさんから、大きなカーリー・ヤントラを書いて前に貼ったらいいというアドヴァイスをいただき、早速松山のスタッフに依頼したところ、Tシャツのデザインを参考に、大きなカーリー・ヤントラを書いてくれました。見た瞬間、「大きいなあ〜!!!」と思いました。

当日は39名の方が参加されましたが、後ろから横からでもよく見えたようです。

今回の瞑想特別クラス3回目は、3月から三ヶ月空いたのですけれど、前回感想を寄稿してくださった若狭さんが(→前回のブログ)、続きを寄稿してくださいましたので、ご紹介したいと思います。ありがとうございました。           (サーナンダ)


毎日牛のポーズと呼吸法そして瞑想を5分でも10分でも座ろうと決めました。瞑想セミナー2回目の宿題です。

牛のポーズと呼吸法、詰まった鼻がピリッと通って呼吸が体の中を巡ります。心が静まって心地がいい!肩の力を抜いて背骨を真っ直ぐと言い聞かせます。
睡魔と戦いながら、なんとか3日坊主は乗り越えました。1週目2週目も大丈夫、雑念は浮かんできますが、捨てる捨てるとにかく捨てるを繰り返していると、少しずつですが集中が長くなります。順調だ!なんかいけそうな気がする!

ところが一ヶ月を過ぎた頃大きな変化に気づきます。
自分で努力をしている感じがしないのです。なにか大きな力が働いて私を動かしている。何かに包まれ導かれるように。気負いも緊張もなくなって、ただ毎日淡々と瞑想をするという不思議な変化です。
その大きな力に身を委ねて、気がつけば3ヶ月が過ぎていました。

「大きな力」あれはなんだったんだろう? 今はよく分からない。
でもきっと誰もの中にあるにちがいない!それは分かります。

三回目の瞑想セミナーのテーマは「集中」でした。

心は分散しているから弱い。集中すれば強くなるとサーナンダさんが教えてくれます。強くなりた~い!!!

参加者全員で大きなカーリー・ヤントラに集中します。
カーリー・ヤントラへの集中は、ただ見て、目を閉じて残像に集中します。ぼやけてきたら目を開けて見る。その繰り返しだけ。メガネをしてもよい、瞬きも気にしない。何の努力も要らな~い、超簡単~です。

二日目のアーサナクラスの瞑想の時、目を閉じたとたんカーリー・ヤントラが前にありました。どうして、なんで~と心の中で大騒ぎ。いやいや騒いでる場合じゃない集中!集中!
最後はカーリー・ヤントラと私が重なって、喜びが満ちていきました。

ヨギさんの恩寵ですね、ありがとうございます。
次の宿題はこれだと決めました!

若狭多美子

 


師 グルとは

人間何をするにしても一人で全て切り開いてきたという人はいないでしょう。産まれた瞬間から親に育てられ、就学して先生に教わり、働いて上司に指導され。

習い事も師と仰ぐ人を敬い、教えを授かる事で上達します。

ヨーガでもグルという師から、日々の修行法や生活における心構え、そしては最終的に悟りに至る道を教わります。

グルとはどんな存在なのでしょうか?また、グルと弟子の関係とはどういったものなのでしょうか?

私が大好きな聖者ラマナ・マハリシのグルについての、とても興味深い教えがありましたのでご紹介したいと思います。

「神・恩寵・グルはみな同義語です。すべてに遍在する神は愛する帰依者を哀れに思い、自らを帰依者の次元に相応させた姿で現れ真理を説くのです。そして教えと交流によって帰依者の心を浄めます。ところが帰依者は彼を人間だと思い、二つの身体の間に何らかの関係を結ぶことを期待します。あなたは自分を身体だと思っているため、グルもまた身体を通して何かをしてくれると思うのです。しかし神であり真我の化身であるグルは帰依者の内側に働きかけ、彼が道を間違っていることに気づかせ、内なる真我を実現するまで正しい道へと彼を導きます。グルは内面と外面の両方に存在しています。外面からは心が内面に向かうように後押しをし、内面からは心を真我に引き込み静かになるように助けます。」

いかがでしょうか?思っていたグルのイメージを遙かに飛び越えていませんか?

私がヨギさんとお目にかかれた経緯を思い起こしても、もはやたまたま縁あって京都にいらした先生と生徒の関係などではなく、もっともっと深遠なそれこそ恩寵としか言いあらわせない絆、巡り合わせを感じてしまいます。

なぜ私はグルと出会ったのだろう?

私は幸せになりたかった。時間やお金、他者との関係で変化するような幸せでなく、決してなくならない永遠の自由と安住をもとめていた。はたしてそんなものがあるのか?と思いながら。これは辛かった当時の状況から逃げたかったという反射の対応であると同時に、私という存在の本質からあふれる、原点への回帰願望だったのだと思います。

そして時期と準備が調ったタイミングで、私はヨギさんにお目にかかりました。

真理への願望が生まれたとき、グルが現れた。真理を実現するのにグルは不可欠だから。

以下太字は『悟り』の中での、シュリー・マハーヨーギーの御言葉です。

グルと弟子の関係は一般的な社会における教師と弟子の関係でもなければ、取引でもありません。ただ、真実の愛によってのみ成立するものです。(愛とは他者に自らを捧げるという行為でしたね!)

グルの直接的な意味は、闇を取り除く光、つまり無知を取り除く真実という意味です。すでに真実の光は、それぞれ皆の中に在ります。ただちょっと邪魔をしている影があるだけ。そのために外からの光が必要な時もあります。その闇が取り除かれるまでの間を弟子と呼びます。それが実現すればグルと弟子に違いはありません。不異(おなじ)・一(ひとつ)です。(私の真我実現に必要な無知が取り払われたなら、ヨギさんはもうグルではなくなるの?……)

まず弟子は、悟りを求めなければならない。そして真実の教え、正しい教えを、真実のグルから学ばなければならない。さらに真剣さと情熱をもって、学びと修行を実行しなければならない。これらは最も中心的な心と行動のあり方です。さらにもう少し繊細なことを言えば、素直であること。素直な心、謙虚。(これに関しては、常に常に念を入れながら日々精進しています!)

自分の体験を一つ一つ検証しながら、ラマナ・マハリシとシュリー・マハーヨーギーの御言葉を読み解くと、私達と同じ現代の日本に住まわれ、私達と同じものを食べ、同じ楽しみを喜ばれるヨギさんの存在と、八十数年前にインドで語られたラマナ・マハリシの教えで明かされるグルという存在の驚くべき一致に改めて平伏してしまいます。

どちらも、“知っている側”から語られた事実としての真理の手触りが感じられます。同時に、私達のグルという存在が、どれほど崇高な顕れであるかということに畏敬の念を禁じえません。

私が肉体という粗大な身体をまとって、この現象世界に生まれ落ちた末にどういう因果か真理を求めた。そうしたら、神は自らを人間の形に顕してグルとして目の前に現れた。行く先々で愛という無償の働きで私に教えを授け導かれるグル。ともに歩む沢山の素晴らしい兄弟姉妹も授けてくださった。かたや真我という自らの本質に自分の力では気づけずに何度も何度も転生を繰り返す私。

これは冷静に考えるとそら恐ろしいことです。もしこのチャンス(今生)に、この期に及んで言い訳や、迷いを口にして進まなかったら、果たしてまた何生涯私は転がり続けるでしょうか?

神は一切取引をしません。神にはただ、愛し、近づくことだけを考えなさい。すべてを神に任せるのです。あなたの痛みも苦しみも、喜びも楽しみも、命も!できますか?神に接する時はそのような真剣さをもたなければいけません。(はい。師よ、もちろんです。とっくに覚悟は決めています。どうぞ受け取ってください。)

Caitanya