東京」カテゴリーアーカイブ

恒河沙 ― 大都会東京でヨーガに生きる!    

故郷である大阪から家族とともに横浜に転居して3年、その後東京に移り住むこととなり早11年以上が経ちました。
こちらの生活にもすっかり慣れ、東京ライフをエンジョイ!?していますが、それでもいまだに東京の街の大きさや人の多さに圧倒されることがあります。まるで小高い山のようにあちこちにそびえ立つ高層ビル群、どこに行っても街中に溢れ返る人人人…。特に都心に行くと東京が世界有数の人口の多い大都市であることを実感します。

大都会東京

とても大きな数を表す単位に「恒河沙/ごうがしゃ」(10の52乗)というものがあるそうですが、これは仏教の経典に出てくる言葉で「ガンジス河の砂の数くらいたくさん」という意味なのだそうです。東京の人の多さを体感する度に、私はいつもこの「ガンジス河の砂の数」という言葉が頭に浮んできます。と同時に、ここ東京だけではなく世界中には多種多様なたくさんの人が生きているということを改めて思い出します。

以前、仏教の教えで「ガンジス河の砂の数ほどもあるこの世すべての命の中で、人として生を受けるということはそのガンジス河の砂を手ですくったほどであり、たくさんのご縁が重なって成る稀有なことである。さらにそこから親指の爪の上に乗る砂の数ほどの人が、人として生まれてきた本当の大切さに気づき、喜ぶことができる」というようなお話や、「ガンジス河の砂の数ほどの仏さまがいる」という教えがあると聞いたことがあります。
古代インドのリシと呼ばれる聖者や賢者たちは、人として生まれること、そして真実を探し求めること、それを実現することのできる人としての命はとても尊いもので、人として生まれたということは吉祥なことであると教えていると師から教わりました。またヨーガにもこの世のすべてが神の顕れであるという教えがあります。そして、ヨーガを志す者にとって本当の師に巡り合えるということは大変に稀なことであり、得難い宝であると教えられています。

母なるガンジス河

そんなことを思いながら大勢の人々がせわしなく行き交う東京の雑踏の中に立っていると、ガンジス河の砂の数ほどもあるこの世の命の中で、皆一人一人が人として生まれてきた尊い命をもっている人達なんだなぁと感じます。そしてその中の一人である私は、たくさんのご縁によってヨーガと出会い、本当のヨーガの師に巡り合うことができ、師の下でヨーガの道を歩むことを決意しました。

   「それ」は今、ここに在ります。
   「それ」は常にどこにでも在ります。
   「それ」のみが在るのです。
   「それ」が真のあなた自身なのです!
      シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサ

まだまだ道半ばの私ですが、たとえ何処にいたとしても、真実を実現することのできる人として生を受けたこの尊い命を吉祥なものとして生きたいと思います。

シャルミニー


ある夏の日の出来事

今年の7月は太陽が恋しくなるほど梅雨空が長く続きましたが、8月は太陽のパワーを存分に感じる気候となりました。

私は6、7月の2ヶ月間、職場である治療院の移転作業をしていました。壁を塗ったり、畳からフローリングへ変える施工をしたり、普段はしない力仕事が続いたせいか、あちこちが筋肉痛になり身体が硬くなってしまいました。毎日自宅でのアーサナは続けていたものの、なかなか硬さが取れない状態。でもクラスでみんなと一緒にアーサナすると、次第に硬くなっていた身体がふわふわになる感覚がして、クラスが終わる頃には気分も頭の中もスッキリした状態になるので、これまで以上にクラスのありがたさを感じていました。

治療院に生けられている向日葵

ようやく移転作業が終わり無事に新しい治療院で診療を開始した日は、ちょうどクラスがある日でした。
最後の患者さんの治療を終えたら急にホッとして、眠気とともに身体が重だるくなりました。ああ、早くアーサナがしたい!とクラス会場のある代々木へ向かう電車に乗っていたところ、車内が急にざわめき始めました。乗客同士のトラブルで、男性2人が激しい喧嘩をしていました。他の車両へと移る人、スマホに夢中で無関心の人、車両内の光景に強い緊張感と違和感をおぼえました。ちょうど乗り換えする駅に到着したのでその車両から降りましたが、乗り換えを済ませても心拍数はしばらく上がったままで、自分で思っていた以上に動揺していたことに気付きました。とにかく早くアーサナがしたい!プラーナを調えたい!とすがるような気持ちになっていました。

その後クラス会場に到着し、いつも通りクラスが始まりました。最初のヴリクシャ・アーサナ(立木の形)では思いの外ふらついて、まだ落ち着いてないんだなという思いが頭をよぎりましたが、その思いはすぐに捨て去るようにして、今吐いている息に集中するようにしました。続いてマールジャーラ・アーサナ(猫の形)では、普段はない背骨がきしむような感覚がありましたが、今できる最大限まで形を深めたら、あとは息を吐くことだけに集中しました。シャヴァ・アーサナをする度に身体から緊張感が取れて、眠気と重だるさはすっかりなくなりました。疲れている時にアーサナをすると、これはきついだろうな、とか今日は無理しないようにしよう、という思考がいちいち出てきてしまうことがあったのですが、この時は最初に多少の思いがよぎっただけで、あとはリードの声に導かれながら淡々と形を作り呼吸を深くしていくことをやり続けたような感覚がありました。

8月26日の代々木クラスにて

クラスが終わり家に戻ると、夫に「今日は(移転初日で)大変だっただろうに何でそんなに元気なの?」と言われました。そう言われて初めて、そうか今日は確かに大変だったかも、と人ごとのように思い出したくらいでした。もちろん電車内での出来事の記憶もありましたが、それに対しての印象や思いは消え去っていました。クラスの後でなければ帰ってすぐに夫に一連の出来事を報告していたと思いますが、話そうという思いもありませんでした。

アーサナをすることもクラスに通うことも日常の一部となり、毎回集中して行うようにしていたつもりでも、いつの間にか真剣さが足りない状態になっていたのかもしれません。
今回のクラスに関しては、切羽詰まった状況に陥ったことで真剣さが引っ張り出されたのだと思われます。
このことで思い出したのが、『ヨーガの福音』の中の、神を求める1人の男が聖人の元へ行き「神を悟らせてください!」とお願いをするという話です。
聖人はくる日もくる日も同じ生活をしていましたが、ある日河で沐浴している時に、聖人についてきていた彼の頭を河の中に押さえつけました。彼の苦しみが限界を超えようとしたとき、聖人は手を放して彼に言いました。
「何が欲しかったのか?」
彼は答えました。
「息がしたかったのです!」
聖人は言いました。
「もしおまえが、ちょうど息を求めたように心底から神を求めるなら、神を悟ることができるだろう」

息ができなくなるというのは苦しく、そのまま死に直結するという恐怖もあります。
それが限界を超えようとしたときに、ただ息がしたいとそれだけを求める純粋さと真剣さが生じる。それを日常の中でいかに持ち続けるか。けして容易いことではありませんが、そうしていく必要があります。

人はあっという間にその時々の状況に慣れて、何となく日々を過ごすことができます。
どんな状況下でも流されることなく、何にも惑わされることなく、本当の自分を実現するという目的を達成したい。より純粋に、より真剣に、求め続けたい。
そんなことに気付かされた、夏の出来事でした。

ハルシャニー


聖典を読む喜び

私は今、とても楽しく毎日聖典や聖者の本を読んでいます!

普段の私の日常生活は仕事や家庭が中心なので、自然にヨーガの話に触れたり、いつでも周りの誰かとヨーガの話ができるという環境ではありません。ですがこれまでは、毎週クラスでヨーガの仲間と顔を合わせ、クラスの後にそのままいつまでもヨーガの話をしたり、一緒にキールタンを歌い共に神の御名の歓びを分かち合うということが当たり前のようにできていました。それは私にとって大きな喜びであり、確実に日常生活の中でヨーガの実践を継続していく一つの原動力にもなっていました。
ところが、緊急事態宣言以降はそのような機会がなくなり、長い間、師にお会いすることもできず徐々にモヤモヤとした気持ちが膨らんできました。
「あぁ、師にお会いしたい!真理や神の話が聞きたい!語り合いたい!でもこんな状況でどうすれば……。そうだ聖典があるじゃないか!!」
いつもはじっくり本を読む時間がなかなか取れないのですが、外向きな活動が減り在宅時間が増えたので、分厚くて家でしか読めない本もゆっくり読むことができます。

最近よく読んでいる本。『ヨーガの福音』は師の教えが編纂されたとても読みやすい一冊。いつもすぐ手に取れる所に置いています。

実は、以前は聖典や聖者の本と聞くと何やらとても難解で、私が理解するにはハードルが高すぎるというイメージがありました。実際「さあ、読むぞ!」と気合いを入れてから読み始めるのですが、カタカナで書かれた聞きなれない言葉を正確に読むことから難しく、言葉の意味や書かれている内容を理解するのは更に根気がいることでした。「何のことやら、さっぱり分からん…」何度も挫折しそうになる心を叱咤激励しながら何とか読んでみるものの、大抵はしばらく読んでいるうちに睡魔との戦いにあえなく敗れて本を閉じる、というのがお決まりのパターンでした。笑
そんな状態の私でしたが、師の下でヨーガを学ぶようになってから、たくさんの学びの機会をいただき、聖典に出てくる言葉の意味やヨーガの教えを少しずつ理解できる様になっていきました。師は、真理の言葉や教えを誰にでも分かるように、時にユーモアを混じえながら実に分かり易くシンプルに教えて下さいます。直接師より授かる教えは何ものにも代え難い大切な宝物です。ですがそのような貴重な機会はいつもあるわけではありません。師にお会い出来ない時には、師の教えが編纂された書籍や機関誌『パラマハンサ』を読むことで、いつでも師の教えに触れることができます。
また、皆で聖典の読書会をしたり、バクティ・サンガムではたくさんの神々や聖者の物語に親しみ、キールタンで神の御名を歌うことを通して自分の中にある歓びの源泉に触れるような体験をしました。
そうしているうちに、気が付くといつの間にか聖典がとても身近に感じられるようになり、聖典を読むことが楽しく好きになっていたのです!読んでいるだけで歓びが溢れてきたり、時には面白くて笑ってしまったり、神の栄光と祝福に圧倒されて涙で字が読めなくなったりします。それは、以前思っていた頭で知識として理解するというものではなく、ハートで読んでいるような感覚です。

最近では、日々の生活のいろいろな場面でまるで聖典連想ゲーム?のようにそれらを思い出すようになりました。
先日、ちょうど『ラーマクリシュナの福音』を読んでいたところへ娘がおやつのリンゴを持って来てくれた時のことです。突然、そのリンゴがプラサード(神に捧げられた供物のお下がり)のように感じられ、一瞬輝いているように見えました。運んでくる娘の様子もなぜか恭しく見えます。不思議な気持ちでリンゴを口に入れようとした時、今度は自分の体がヨーガの教えにある“神の神殿”であるように感じ、自分のために食べるのではなく自分の中に住まわれている神のために食べているという感覚になったのです。同時に、神殿であるこの体を大切にしなければいけないという思いが湧いてきました。“食べる”という行為をこの時ほど神聖なものに感じたことはありませんでした。
また、私は今小さな保育園で保育補助の仕事をしているのですが、毎日子ども達がゴーパーラ(ベイビー・クリシュナ)に思えて仕方がありません!幼い子ども達のお世話は気を付けなければいけないことがとても多いのですが、いたずらをしたり、わがままを言ったり、泣いたり甘えたり、仲良く遊んでいたかと思うとケンカをはじめたり…、子ども達の無垢な笑顔を見ていると、まるで純粋で愛そのものであるゴーパーラが私の周りで遊び戯れているように思えるのです。そして同僚の保育士さん達も私自身もヤショーダ(クリシュナの養母)のような気がしてきます。

ゴーパーラ(クリシュナ)は兄のバララーマや遊び友達の牧童たちと一緒にさまざまな悪戯をして大人を困らせます。あ、今みんなでしめし合わせて好物のバターを盗もうとしています!

今、私が聖典を真に理解しているとはとてもいい難いでのすが、それでも本を開けばどのページも真理の教えや神を讃える言葉で埋め尽くされ、それらの言葉を目にするだけでも胸に歓びが広がりますし、聖者の生き様に触れると決して諦めずに少しでも前進しようという勇気が幾度となく呼び起こされます。難解で取っつきにくいイメージしかなかった聖典がいつの間にか私の日常の中に入り込みイキイキと動き出すなんて、以前の私からは予想だにできなかったことです。師の導きがなければ、未だに睡魔との戦いに敗れ続けていたことでしょう。
どうぞ、聖典の真実をこの世界の中に見ることができますように。どうぞ、聖典の言葉が私を通して顕わされますように。最愛の師を想い、お会いできる日を待ち望みながら、今日も歓びとともに聖典を開きたいと思います。

シャルミニー


引っ越しとアパリグラハ

物も情報も溢れている世の中では、必要な物が何なのかを見極めるのが難しいことが多々あります。むしろ見極めようともせず、欲しいものはできるだけ手に入れようとし、手に入れたものは手放そうとしないのかもしれません。

ひと月ほど前に引越しをしました。
その時、改めて自分の持っている物を確認すると、まだまだ不要な物が多く、最少限度の必需品とは到底言い難い状況であることを目の当たりにしました。
なぜそんなことが気になったかというと、ヨーガの教えに「アパリグラハ」という教えがあるからです。「不貪(ふどん)」と訳されるそうで、要は貪(むさぼ)らないという教えです。ヨーガを実践していくにあたって、最少限度の必需品以外を持たず、他者から贈り物を受けないという教えです。
物を所有したいという欲にはきりがなく、何かが欲しいと思うとそれを手に入れるために夢中になります。それが手に入るとまた新たな欲しいものに夢中になり、次から次へと手を伸ばしてたちまちに物が溢れることになってしまいます。欲求に支配されていては、到底静かな境地は訪れるものではないので、心の欲望を制御していくというのが、アパリグラハの実践になります。

私はなかなか物を捨てられないタイプでした。アパリグラハの教えを知った当初は、つくづくその通りだと感服し、肝に命じて実行していこうと決めたのですが、日常生活の中で頓挫してしまうことがしばしばでした。それでも繰り返し取り組んで、少しずつましになってきたかな?とは思っていました。しかし、引越しにあたって、いつの間にか沢山の物を持っていたのだということに気付かされたのです。
新居はこれまでよりも狭く、収納場所も少なくなるため、事前にできる限り荷物を少なくしなくてはならない・・・これは絶好の機会。今生きていくのに本当に必要なものかどうかを基準とし、荷造りを進めました。やっぱり必要かな?と迷いが出ることもありましたが、少し時間を置いてからもう一度物と向き合うと、やっぱり要らないという結論に至ることがほとんどでした。
引っ越しが終わり新居で暮らし始めると、部屋の狭さや収納の少なさは全く問題がなく、むしろコンパクトに暮らせるようになって良かったと感じました。

ところが1週間ほどすると、これがあったら便利かな?と新たに物を探し始めていることに気付きました。愕然としながらも、心の習性って本当に手強いなあと、しみじみ納得。最少限度の必需品で暮らすことを目指して、今後は必要な物以外は買わない!と決意を新たにしました。
これがあったら便利かな?という思いが出てきたら、絶対ないと困る?今すぐ必要?と問いかけてから判断する様にしました。店頭で品物を手に取ったものの、なくてもなんとかなるか、と何も買わずに帰ったこともありました。こんなことを繰り返すうちに、物に対する興味が随分少なくなったよう思います。
今、引っ越ししてひと月ほど経ちましたが、既にあるもので工夫をして、快適に暮らせるように生活を整えられつつあるかなと思います。

私は、今回ほど真剣に「自分に必要な物は何か」と問いかけたことはありませんでした。まだ必要最少限度の物で暮らしているとは言えない状況ではありますが、引き続き実行していきたいと思います。
また、アパリグラハを実行していく中で、今やるべきことをこれまでよりも速やかに判断して行動に移せるようになってきた気がしています。それによって、慌ただしい中でもゆったりとした時間も持てるようになりました。
本当に必要な物を大切に使っていこうと思うようになり、心身ともに軽やかに、手放すほどにどんどん豊かになっていくようです。

真実を実現するためには自分にとって何が本当に必要なのか、しっかり見極めながら生きていきたい、そのように改めて思った引越し時のアパリグラハの実践でした。

ハルシャニー


代々木にてヨーガ・瞑想クラスが新規開講!

おはようございます!
MYM東京では、6/13(土)よりヨーガ・瞑想クラスをこれまでの新宿、吉祥寺から代々木にスタジオを移し、新規開講しました!
場所は副都心線「北参道駅」、JR「代々木駅」、JR「千駄ヶ谷駅」から徒歩3~7分のところにあるノアスタジオ代々木。周辺には、新宿御苑、明治神宮、国立能楽堂、新国立競技場などがあり、都心にありながら緑豊かな落ち着いた雰囲気の場所にあります。

これから水曜夜クラスが始まります。夕日が綺麗でした。

新型コロナウィルス感染防止のためクラスが約3ヶ月程休講となっていたので、久しぶりの再会にみんな笑顔で喜び合いました!準備をしながら明るい声が飛び交い、みなさん本当に嬉しそうです。
全員準備が整ったところで、呼吸と気持ちも整えて、さぁクラス開始です!

土曜クラスのみなさん

水曜クラスのみなさん

アーサナが始まると皆集中して真剣そのもの。さすがです!
休講中はそれぞれ家でアーサナや瞑想に取り組まれておられたそうですが、クラス終了後に「やっぱりクラスはいいね!」と話されたり、「家で一人でアーサナをするのとクラスでするのとは全然違う!」という感想をもたれた方もいらっしゃいました。
家でのアーサナは自分のペースで集中して取り組めるのが良いところですし、またクラスでは、一人一人の集中感がその場全体のプラーナ(気)を作り、そのプラーナによってより一層集中してアーサナや瞑想に取り組めるところが醍醐味だなーと、改めて共にヨーガを学べる喜びを噛みしめました!
まだ、しばらくは状況に応じたクラス開催になるかと思いますが、新しい場所で新鮮な楽しいクラスになるといいなと思っています。皆さま、どうぞよろしくお願い致します!

※現在、代々木クラスでは三密を避けるため予約制になっています。詳細はこちらでご確認下さい。

シャルミニー


この世は美しい!

早いもので、在宅勤務生活が4カ月目に突入しようとしています(私は3月から一足お先に在宅勤務を始めています)。その間に出社したのはたった6回(それも全て午後のみ出社)、それ以外は毎日ステイホーム!ひとりお家で1日を過ごしています。

4月1日までは週1回出社していたので、会社で同僚とおしゃべりをして息抜き(?)ができていましたが、非常事態宣言以降は出社禁止となり、8~17時のうち実働8時間(日によっては残業することも)、もちろんお家でも息抜きをすることはありますが、案外しっかりパソコンに向かい仕事をする毎日です。

そんなある日、洗濯物を干している時でした。「毎日誰にも会わず、ここで起きて、仕事をして、食事をして、寝て、また起きての繰り返し、生きるってなに⁈」という思いがふとよぎったのです。ヨーガを学び実践する者としては、「真実に目覚めること、それが人生の目的だ!」となるのでしょうが、私はその時その答えに満足することができず、それからしばらくその問いを持ち続けていました。

スーパーへの買い物以外は外に一歩も出ない毎日のなかで、生活のリズムをつくるためにジョギングを始めたのですが、夕暮れ時に走りながら、ふとブッダの「諸行無常」、そして「この世は美しい」という言葉を思い出しました。
そうだ、この世は移り変わるもの、永遠に変わらないものなど何もない。その一方で、いま私が見ている夕日、風にそよぐ新緑、それぞれのスタイルで生活を調えようとしている人々、そして日が落ちた後に浮かぶ満月も、すべてが美しい!! この世をどう捉えるかは私の心ひとつで決まる。それならば、変わりゆく日常を受け入れて、いまできることに最善を尽くせばいい!と、心が軽くなりました。

ジョギングコースの夕暮れのシーン

しかしその翌日、会社がフリーアドレス席になるらしい(在宅勤務を前提として、部員の半数分のみ席を用意。決まった座席はなく出社したら好きな席で仕事をする)と聞き、「これで出社したとしても、いつもの席で同僚と世間話すらできない、この前まであった当たり前の日常は本当に戻らないのだ」と、再びやってきた現実に少々揺れましたが、すぐさま諸行無常!と切り替えることができました。笑

たとえどのような状況でも、私自身がサットヴァ(純粋)であればこの部屋からそれは振動となって伝わるはず、師がずっとそうされているように。私がすべきことはただ一つ、やっと答えがすんなり入ってきた、5月の終わりでした。

3月から成長を見守ってきた新緑

ターリカー


グルの不思議な導き!

3月末、会員向けの瞑想専科「ヨーギーを目指して12回コース」が最終回を迎えました。最後のサーナンダさんのお話の中で、「グル(師)は真剣に道を歩もうとしている人が速やかに歩んでいけるように、障害を取り除き道を整えてくださる。弟子が自らのカルマを速やかに果たして歩めるように、弟子を導かれる。」とありました。
それを聞いて、私自身に起きた出来事を思い出しました。

いつの間にか芍薬の花が咲く季節になりました。

12年前に師の下でヨーガを学ぶために、東京から京都に通い始めた頃、私は鍼灸専門学校の学生でした。基礎的なことは学内で学べましたが、技術的なことなどは学内で教わるには限界があり、在学中から学外の勉強会で学んだり、師弟関係を結んで先輩鍼灸師から学ぶ人が多くいました。
私の場合、最終学年を迎える頃になってもこれだと思える勉強会がなく、師匠と慕えるような方との出会いもなく、宙ぶらりんな状態でした。
ヨギさんに2回目にお会いしたのは学校の春休み中のことでした。サットサンガが終わった後、ある先輩グルバイ(兄弟姉妹弟子)から、インドでは霊性のグルと、世の中で生きていくのに必要な技術を教わるためのグルの、2人のグルがいるという考え方があると聞きました。
翌日は個人的にヨギさんにお会いすることになっていたため、このことも質問してみようと思い、アーシュラマへ向かいました。

私は、「ヨギさんを霊性のグルと思っても構いませんか?」とお伺いしました。
ヨギさんはにっこり微笑まれて「いいですよ!」とお答えになりました。
嬉しくて胸がいっぱいになりながらも、続けて、もう1人の技術を教わるためのグルについて質問しました。今私にはそう呼べる方がいないが、そういう存在は必要なのか、お伺いしました。ヨギさんは少し間をおいてからお答えになりました。
「確かにインドではそう考えられているけれど、気にしなくても必要があればこれから現れるかもしれないし、もしかしたらもう出会っているかもしれないよ。」と、最後に満面の笑顔で私の方を見てくださいました。

東京に戻って程なくして、最終学年の授業が始まりました。ヨギさんの言葉は頭の片隅にありましたが、それほど意識することなく過ごしていました。
ある日実技指導の先生から、放課後に行なう勉強会のまとめ役をしてほしいと依頼されました。なんで私が?と思いつつ、仕事のためできないとお断りしたら、何とか引き受けてほしいと再度依頼されました。私じゃないとダメなのかな?と納得できないまま仕事に行ったら、無理だと思っていた仕事の調整がうまくいき、まとめ役を引き受け勉強会に参加する運びとなりました。正直仕方なく参加し始めた勉強会でしたが、私はこの先生の人柄と技術に惹かれ、2ヶ月後に弟子入り志願することになったのです。

無事弟子入りが決まり、真っ先に浮かんだのが、ヨギさんの満面の笑顔でした。
私はこの先生にすでに出会っていましたが、最終学年になるまで授業を受けることがありませんでした。”これから現れるかもしれないし、もう出会っているかもしれないよ。”・・・ヨギさんの言葉が頭の中で響いていました。この出会いがなければ、私は鍼灸師として自立するのは難しい状況であったと思います。技術のグルも私の人生には必要で、それをヨギさんが導いてくださったとしか思えないのです。
この出来事を思い出す度に、ああ、ヨギさんはこんな些細な悩みですらも速やかに解決できるように導いてくださったのだ、と胸が震えます。

やがて自分の鍼灸院を開院できるまでになりました。

グルバイと話していると、ヨギさんからそれぞれにバラエティに富んだ導き方をされていることに驚くばかりです。そのエピソードを話すグルバイの表情は生き生きと、全身から歓びが溢れ出ていて、聴いているこちらまで歓びに満たされます。生まれ育った環境は様々、ヨギさんとお会いした時期もそれぞれですが、どの人に対しても平等に、絶妙なタイミングで導いてくださっていることが分かります。 いつ何時でも優しく愛をもって接してくださっているヨギさんとの間に起きた出来事一つ一つが、私たちにとって尊くかけがえのない宝物です。私たちはすでにたくさんの宝物で満たされています。時に忘れてしまうことがあったとしても、それは事実であり消えることはありません。
弟子一人一人に対してどれだけヨギさんが関わってくださっていて、どれだけ与え続けてくださっているのかを思い知り、言葉にならないヨギさんへの感謝の想いが溢れて、いてもたってもいられなくなりました。

私もいつかヨギさんのような行為を、ほんの少しでもできるようになりますように!

ハルシャニー


偉大なバクタ ミーラー・バーイー

最近家にいる時間が多くなり『ミーラー・バジャン』をゆっくり味わうように読んでいます。
ミーラー・バジャンとは中世のインドに生きた聖女ミーラー・バーイー(1498-1546)がクリシュナ神に捧げた愛の歌、讃美歌集です。日本ではあまり知られていませんが、インドでは教科書にも載っており知らない人がいないほど有名で、マハトマ・ガンディーも彼女の歌を愛されてよく歌われたそうです。

以前、ミーラー・バジャンをよく読んでいた頃は、ミーラーのクリシュナへの純粋な愛や何ものをも恐れぬ神への信仰心に憧れ、また詩の情景や言葉の美しさに惹かれて読んでいました。今回改めて読んでみると、そのほとんどが苦しみの中にあった生涯で、ただ唯一クリシュナだけを求め続けたミーラーの心情が私の中に流れ込んでくるように感じました。

長く戦乱が続くラージャスターン地方の小国の王女として生まれたミーラーの人生は苦難の連続でした。強国だった隣国の王子と政略結婚を余儀なくされ、夫の戦死後は婚家で迫害を受け続けました。何度も命を狙われることさえあったようです。その理由として、当時のインド社会では夫を亡くした女性は婚家で疎まれたことに加え、ミーラーが婚家の宗教に改宗することなく、幼い頃から信じていたクリシュナ神だけを愛し、婚家の妃としての役割を果たさなかったことにあったようです。

ミーラー・バジャンには、クリシュナへの純粋な愛や献身を歌った詩やクリシュナの愛に満たされる歓びを歌った詩もありますが、クリシュナを求め続けてもなおクリシュナとの合一を果たせない苦しみを詠んだ詩が多くあります。
苦難に次ぐ苦難の日々の中でクリシュナだけを求めるミーラー。クリシュナの愛に満たされたと思った次の瞬間にはクリシュナの面影は跡形もなく消え去ってしまう─。
次の詩からはそんなミーラーの心情が伝わってきます。

なぜに 私は眠りえん

恋人を待ち 見続けて
夜はすぎゆき 朝となり
友はみな来て 諭せども
なぜに 心は聞きえよう
主に逢えぬなら 眠りえようか
心は嘆きに 満たされて
体は細りて 途方に暮れて
主よ 主よ と口は語るのみ
内なる苦しみ 寂しさの
痛みは 誰が知りえよう
チャータクが 幾度も呼ぶように
魚が 水を求むように
ミーラは眠れぬ 悲しくて
心は すべて 忘れるほどに

※チャータク(鳥)の鳴き声は“恋人よ”と聞こえる

美莉亜訳『ミラバイ訳詩集』より

クリシュナへの愛だけに生き、すべてをクリシュナに捧げ尽くして「私」というものがなくなったミーラーの最期は、クリシュナの像に吸い込まれて永遠にクリシュナと一つになったという伝説が残っています。

キールタンに出会って、バクティ・ヨーガを知った頃は神に至る道には歓びだけがあるように見えましたが、プレーマと呼ばれる真の愛を実現するまでには、心から神を愛し求めるが故の渇望の苦しみや、さまざまな内的葛藤を乗り越えるための揺るぎない信仰心を持つ必要があることを強く感じています。
今、私たちはミーラー・バーイーが生きた時代、国、取り巻く状況もまったく異なる世界に生きていますが、500年前のインドに実際に生きた偉大なバクタ、ミーラーの息吹がどうぞ私の中で力強く息づきますように!と、心から願わずにはいられなくなりました。

シャルミニー


心をピカピカに磨く!

ヨーガを実践する上で、大切にしている教えがあります。それは、「真実は既に自分の中にある」ということ。ヨギさんはこの教えを繰り返しおっしゃってくださいますが、耳にする度に胸が高鳴ります。この真実があるから私は生きているんだ!ハートの奥底から力がみなぎってくるのです。
ところが日常生活を送っていると、いつの間にかこのことを忘れてしまい、目の前のことに振り回されてしまっていることに気付きます。クラスやサットサンガが休止状態になってからは、この教えで胸がいっぱいになっている時よりも、忘れている時の方が多くなっていました。だから言い聞かせるように心の中で唱えるようにして、唱えること自体を忘れてしまうことがあっても気にせずに可能な限り続けていました。
そうして過ごすうちに、「真実は既に自分の中にある」ことを忘れてしまう原因に思い当たりました。

それは、「真実」が本当に自分の中にあると信じられていないからなのではないか?
自分には無理…まだできない…そういった心の思いが、曇ったガラスのように真実を覆って見えなくしているからではないかと思いました。

「真実」は物体のように手を伸ばして掴めるわけではありません。
真実は掴むものではなくて、体感するもの。体感するためには、心の思いで曇ったガラスをピカピカに磨いて綺麗にすることが必要なのではないかと思い至りました。

では、どうすれば曇ったガラスを磨いて綺麗にできるのか?
何か手がかりはないかと、これまで参加したクラスやサットサンガの中で印象に残って自分で書き留めたメモ、聖典、等々、これまで以上に意識して読み返しました。そうしている中で、『ヨーガの福音』のある一文が目に飛び込んできました。

”心も複合物です。エゴや知性や想念や記憶などさまざまなものによって成り立っていますから。
心は心のためにあるのではなく、他者のためにあるのです。主人である本当の自己のためです。”

何度も何度も読んで十分に知っているはずなのに、今回初めて胸の中にすぅーっと入ってきて、ストンと音がしたと感じるほど、腑に落ちました。

心は主人である本当の自己のためにある。これこそが「真実」であり、これだけを信じて進むのみ。他の思いは一切いらない!
曇ったガラスをきれいに磨き上げるには具体的に何をすればいいのか、数日間ずっと考え続けているうちに、自然と心が「真実」に集中されていたのかもしれません。
自分で勝手にいろいろ考えて自信をなくしたり、できないと諦めたり、心というのは本当に厄介なものだと手を焼くところがあったのですが、何かに依りかかることでしか存在できないようなものだから、たいしたことではないと感じられました。そして心を構成するものをエゴに依るものではなく真実に拠るものにすればいいだけ。そう思えるようになりました。

「真実」は 純粋そのもので、普遍的なもの、永遠に変わらないものです。
対してエゴから生まれる思いは純粋ではありません。それは人によって異なるし、過去に経験してきたことなどによって物事を判断するので、その時々の条件で変化します。
条件によって変化する「私」というエゴ意識をなくすことができれば、心の思いは純粋なものとなり、「真実」に近づくことになります。
これも何度も繰り返し教わってきたことですが、エゴをなくそうと頑張ってもなかなか簡単にはいきません。自分が憧れている具体的な存在だったり、聖典の言葉1つだったり、まず1つのことを足がかりにしてそれに倣うようにすることで「真実」へ近づき、一点集中へと繋がる。それが曇ったガラスを磨いて綺麗にする行程ではないか。ガラスを磨いて綺麗になった暁には「私」という思いはなくなり、覆い隠されていた「真実」がありありと見えるようになるのではないかと感じました。

真実がクリアに見えるようになると、真実という対象が明確になり、自分がどう行為すべきかも明確になる。それ(真実)しか見えなくなったら、どのような手段を取ってもそこに辿り着ける。最終的には覆っていたガラスが砕け散って真実と一つになれる。
身体の奥底から、強い確信のようなものが湧いてきました。

いつも私たちを真実へと力強く辛抱強く導き続けてくださっている、ヨギさん。
時間や距離は何も関係ないと、そのお姿が目の前にある時もない時も、常に私たちと共にある
と言ってくださっていますが、ヨギさんが力強く真実へと手を取り引っ張ってくださったよう
に感じた出来事でした。

きっとグルバイ(兄弟姉妹弟子)のみなさんもそれぞれの場所でヨーガの実践を続けられていることと思います。
今は一人一人が自分と向き合い、すでに学んだことを淡々と実践する時期なのかもしれません。
みんなで集まれる機会はまだ少し先になりそうですが、今できることをやり続けつつ、少しでも成長してその日を迎えられたらと思っています。

 

ハルシャニー


子育ても家事も仕事もぜんぶがヨーガになる!

ママ・ヨーギニーの皆さま、今年の春休みはとーっても長いですね!毎日いかがお過ごしですか?まだ小さなお子さんがいらっしゃるお母さんはお休みなど関係なく、ずっとお子さんと一緒という方もおられることでしょう。外出を控えて家族みんなが家にいる時間が増えた方も多いのではないでしょうか。そうすると、必然的に家事が増えますよねー。あり余る子どものパワーを分けて欲しいくらいですが、大人にはホッとできる静かな時間も必要ですよね。もちろん、家族との時間がゆっくり取れるいい機会だという方もおられると思います。

私が横浜の方で担当させていただいているヨーガサークルも、先月から新型コロナウィルスの感染防止の為にお休みが続いています。先日、皆さんにご様子をお伺いしたところ、クラスに15年以上通われている小6中2高2の三人のお子さんがいらっしゃるお母さんから「ストレス・マックスです」とお返事が返ってきました。そしてその続きには「少しでも自分の時間を作ってアーサナをしたいと思います。皆さん、頑張りましょう!」とありました。長年続けてこられている方だけあってさすがだなぁーと、とても励まされました。

瞑想中の横浜のヨーガ・サークルの皆さん

私には今社会人と高校生の娘がいますが、実は子育て真っ只中の頃、自分の時間が取れず「ヨーガなんて出来ない!」と諦めていた時期があります。その頃はまだマハーヨーギー・ミッションにも師にも出会っておらず、ヨーガ=アーサナ(ポーズ)や呼吸法をすることだと思っていたのです。今、振り返るといつでもヨーガは出来たのに…と、少し勿体ないような気持ちになります。

例えば、ラージャ・ヨーガの一番始めにあるヤマ(禁戒)・ニヤマ(勧戒)は、日常生活の中でこそ行なわれるべきとても大切な基本の教えですし、家事や仕事、また一番身近な家族や自分の周りの人に対しての日々の行為をカルマ・ヨーガ(行為のヨーガ)にすることが出来ます。

そして、何よりも師に教えていただいたバクティ・ヨーガ(神への信愛のヨーガ)をその頃に知っていたら!聖典を読む時間がなくても、ベイビークリシュナにそうするように喜んで娘たちに絵本を読んで、子守唄にはキールタンを歌ったことでしょう。仕事から疲れて帰宅した夫をクリシュナを見るラーダー(クリシュナの愛人)のような笑顔で出迎え、時折、カーリー女神のように我を忘れ地球を破壊するほど怒って、うっかり夫を踏んづけてしまいそうになっても!?ハッと我に返り、ペロッと舌を出してすぐ素直にごめんなさいと言えたことでしょう!

幼子クリシュナ神と養母ヤショーダ。神を愛する態度の一つに、母が子を愛するように、神を我が子のように愛する母親の態度があります。クリシュナは偉大な神の化身でしたが、恩寵によってヤショーダは神の偉大な面ではなく、ただ愛しい我が子を愛するように、愛そのものである幼子クリシュナを愛し献身したのでした。

カーリー女神は悪魔の軍勢(人間の無知)との我を忘れるほどの激しい戦いに勝利し、その歓喜の踊りで大地が破壊されそうになりました。そこで夫のシヴァ神がカーリーの足元に横たわり自らがクッションに!夫を踏みつけたカーリーはやっと我に返りペロリと舌を出しました。

ヨーガでは、この世界のすべてに神が顕現していると言われます。たとえ、今の私にまだそれを見ることが出来なかったとしても、どんな時も全てのものの中に神を見よう、見たい!と思う時、子育ても家事も仕事も、家族や周りの人との関わり方に至るまで、毎日の生活全部がヨーガになっていくのだなぁと、感じています。

今、世界中が先の見えない状況にありますが、私の師は「どんな時でも、誰にでもヨーガは出来ます」と教えて下さいます。その時その時、それぞれの人の置かれた立場の中で実践出来ることが必ずあると思います。一人一人別々の場所にいたとしても、共にヨーガを学び、共に実践していきましょう!

シャルミニー/東京