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ホーリー・マザーからの贈り物②

今回このブログのタイトルを「ホーリー・マザーからの贈り物」にしたのは、実際にそのお姿を拝見することやお声を聴くことはできなくても、時間も空間も超えて、今を生きる私に幾つもの贈り物をくださっているように感じたからです。 

 まず、ホーリー・マザーの存在を知ることが聖者の生き様に触れるきっかけとなったこと。
また、ヨーガを学び始めて間もない私にも分かりやすい言葉で真理の教えを語られていること。
 
そして前回のブログで書いた、毎日アーサナや瞑想をする習慣を身に付けられるようになったことも、ホーリー・マザーが与えてくださった贈り物の一つです。 

 
ホーリー・マザーの教えはシンプルなものが多いと思います。私にとって親しみやすく、これならできるかもと実践のきっかけになることが何度もありますが、シンプルな教えだから実践しやすいというわけではないことを痛感したのが、この教えです。 

 「心がすべてです。浄らかに感じるのも、不浄に感じるのも心一つです。心が罪悪感にさいなまれると、他人の欠点を見るようになるのです。欠点を数え上げることで、相手を傷つけられますか?自分を傷つけているだけなのですよ。私には誰の欠点も見ることもできません。小さな親切も覚えておくようにします。人の欠点を見るなんて!許しは素晴らしい信仰の苦行なのです。忍耐よりも高い徳はありません」 

他人の欠点を見ないことを徹底しようとすると、自分の心がどのような状態にあるのか、観察するのが習慣になりました。ところが実践を続けるほどに、この教えを徹底するのは毎日アーサナや瞑想を続けることよりもずっと難しいと気づきました。 

 ホーリー・マザーは純粋で真理を体現された存在だったから、誰の欠点も見ることができなかったのだと思います。 
真実の側から見れば、全ての人は顕れが異なるだけで等しく純粋そのものの存在です。 

ホーリー・マザーの境地にほんの少しでも近付いていけるように、欠点を見ていると気付いたらホーリー・マザーのお顔を思い浮かべるようにしました。 
繰り返しホーリー・マザーの穏やかな表情を思うようにしていると、例えうまくいかなくても心が穏やかさを取り戻すのが早くなったように感じました。また、この教えの中にある、人の欠点を数え上げることは自分を傷つけているだけ、ということが、本当にそうだとはっきり分かるようになりました。相手の欠点を見ることで心はもっと乱されて苦しくなる。心に振り回されると、もうすでに自分の中にある真理から遠ざかってしまいます。 
反対に、この教えの通り、相手がしてくれた小さな親切を覚えておくようにしたり、何か嫌なことをされたとしてもそれを許し過去のこととして囚われないようにしたりすると、心は平安に保たれて、すでに私たちの中にある真理、真実の存在そのものを、ほんのひとときでも実感できるようになります。 
これは日常におけるヨーガの実践の上でとても大切なことではないかと思います。 

私は現在進行形でこの教えを実践中ですが、取り組むほどに何より私自身の心が穏やかになり、幸せを感じるようになっています。 

ホーリー・マザーがすぐそばで力を与えてくださっていると信じています。

 

ハルシャニー  


ホーリー・マザーからの贈り物①

私が初めて真剣に読んだ聖典は、『ホーリー・マザーの生涯』です。

ヨーガをもっと学んでいくには、聖者について書かれた本を読むのもいいと聞き、幾つか本を手にしたものの、そこまで関心を持てずにいました。
他のグルバイのような熱心さが私には持てないのかもしれない…少し焦るような気持ちになっていた頃、出会った本でした。
本を開くとすぐにホーリー・マザーのお写真があるのですが、初めてそのお顔を見た時、なんて穏やかな表情なのだろうと思いました。見ているだけで心が静まるようでした。きっと優しい方だったんだろうな。それが第一印象でした。
この本にはホーリー・マザーの生涯においてのさまざまなエピソードが書かれていますが、理不尽と思われる目にあっても、苦境に立たされても、時に包み込むような優しさを持って、時に毅然として、立ち向かわれる姿がそこにありました。そのことに圧倒されつつも、ホーリー・マザーがどんな人生を送られたのかをもっと知りたくなって、本を読み進めました。

しばらくして、師に質問しました。
「ラーマクリシュナよりもホーリー・マザーに親しみを感じているけれど、それで大丈夫でしょうか?」
師はにっこり微笑まれて仰いました。
「ラーマクリシュナは神であることを隠せなかった。サーラダー・デーヴィー(ホーリー・マザー)はそれを隠していた。だから、もっと親しんでいったらいいよ」

それからは本を読むごとにホーリー・マザーが身近になり、その人柄に惹きつけられるようになっていきました。

当時、特に印象に残った教えがあります。

”もちろん義務は果たさなくてはなりませんよ。そうすることで心を良い状態に保てるのです。でもジャパと瞑想と祈りも必要です、少なくとも朝晩には実践せねばなりません。これは船のような働きをします。夜に祈りの座に着くと、今日一日の行いの善悪を振り返ることができます。それから今日と昨日の心の状態を比べてみるのです。…仕事をするだけで朝晩の瞑想をしないのなら、自分のしていることが正しいのか、間違っているのかどうしてわかりましょうか?”

毎日アーサナや瞑想をすることを困難に感じている私にとって、グサっと刺さる言葉でした。
今の自分にはできない気がする。でも継続して行うことが本当に大切なのだということはよく分かった。どんなに短くてもいい。アーサナ、瞑想を毎日やってみよう!
そう決意するきっかけの一つとなりました。

 

ハルシャニー  

 


謝ることの意味

幼い頃から、私と父は事あるごとにぶつかり、関係を絶った時期もあったほどでした。しかし、ヨーガを実践する中で関係を修復することができ、少しずつ穏やかな交流ができるようになっていきました。

先日のこと、父と会い、仕事のことを中心に近況報告をしていたところ、驚いたことに父の口から昔のことを詫びる言葉が出たのです。 
当時の父は何の仕事をしてもうまくいかず、経済的に厳しい状況が続いていたため、子供である私にも辛く当たってしまったこと、その頃のことを、親として本当に申し訳ないことをした、と話してくれました。 
また、そのようなことがあったにも関わらず、今私がしっかり働いていることが嬉しい、と言いました。 
私は、自分の力で生きていくことの大切さを教わったから、大丈夫、と答えました。 
父は少し微笑んで、今までで一番穏やかな雰囲気で頷いていました。 

私は師の教えを思い出し、読み返しました。 

 

”——もし他者を傷つけてしまった場合、どのようにしたらいいですか。 

誰かを傷つけたということを自覚しているのはよろしいです。可能ならば、その傷つけた相手に謝罪をする。もしできなければ、心の中で謝罪をする。そして二度と同じような行ないをしないように気を付けてください。 

——心の中で謝るのは何のためですか。 

自分のためです。それによって心は一つのカルマを浄化するべきなのです。 

 

もし誰かを傷つけてしまったと気付いたら、直接謝るのが一番だけれど、たとえそれが叶わなかったとしても、自分の行為を振り返り、真剣に反省し、その方に心の底から謝ること。その結果、自分の中の過去との決別がもたらされる。そう師は教えてくださっているのだと思いました。

父はずっと前から私に対して心の中で謝っていたのかもしれません。もしかしたら今回言葉にして直接謝ることで、父は背負ってきた荷物を一つ下ろせたのではないか。そうだったら私も嬉しい。

この出来事で、謝ることの本当の意味と、それを真摯に実践することの大切さを改めて感じました。

父の家の近くの道は、イチョウが落葉して絨毯のようになっていました。

 

 ハルシャニー  

 


The 75th SATGURU JAYANTI

マハーヨーギー・アーシュラマ

11月23日、サットグル・ジャヤンティー<シュリー・マハーヨーギー 御聖誕75周年祭>が開催されました。
私たちにとっては最愛の師が旅立たれるという大きな衝撃が走った年でしたが、吉祥なる日に、変わらぬ感謝と誓願を師に捧げられるよう、日本各地、ニューヨーク、台湾より100名を超える弟子たちが集い、歓びと希望に満ちた一日となりました。今回、京都は3会場に別れ、各地もそれぞれ会場に参集しつつ、それをZoomで繋げるというデュアル開催を試みました。

マーラー

師のご生家であり、師が長年にわたり道を求める多くの人々に真理を説き、導いてこられたマハーヨーギー・アーシュラマでのプージャー(礼拝の儀)から祝祭は始まりました。その後、会場から会場へ順々に繋ぎながら、祝辞やキールタン、映像などが奉納されました(一人一人の祝辞や詳細は会員サイト「Web版パラマハンサ」にて後日掲載します)。

キールタン「Panduranga Vitthale」

有志メンバーによるキールタン「Panduranga Vitthale」

台湾から奉納されたヨーガの展覧会の映像

皆の言葉や姿には、師を心から慕う溢れる想いとともに、悟りの実現に向けて、師の教えを自分たちがまさに生き、師に倣っていこうという力強い決意が現れていました。私たちは新しい幕が開けたことを自覚し、一つの方向を見てさらに前へ進むことを改めて確信することができたと思います。

生きとし生けるすべての生類、誰もの本質は尊い、永遠なる真実の存在である――この普遍的な真理を示すために、各地を駆け巡り、惜しみなくすべてを注いでくださった師に、深い感謝を捧げます。
これからの未来にわたって、師が語られた真理の言葉がこの世界に清らかに響き渡っていきますように!`

シュリー・マハーヨーギー

Jai!
Satguru Shri Mahayogi Paramahansa
ki jai!!!

 

マハーヨーギー・ミッション 


神に行為していただくために

私は鍼灸師として、様々な症状を抱えた人に会います。不安や痛みを抱えている人は、自分の中に真実の存在、神がいるとは思いも及ばないような状態です。 
私にできるのは、患者さんが発する言葉に耳を傾け、その気持ちに寄り添い、少しでも楽になってほしいと願って行為することだけです。 
ただ、この思いが強くなりすぎると、こうしたらもっといいのではないか?もっと結果を確実に出すには?と考えてばかりになり、どう行為すべきか定まらなくなることがあります。 

 師はいつも目の前にいる人の話に真剣に耳を傾け、その人にとって必要なことを、一つ一つ丁寧に言葉にして伝えられていました。師の言葉を聴いた人は、悩みや苦しみが消えてホッとしたような表情になったり、明るい表情になったりしていました。その光景を見ているだけで、私の心も洗われるようでした。 

私も、僅かでも師のように行為できるようになりたい。 

私の中にある真実の存在、神である師に行為して頂けるなら、そうした状態の方たちにも、自らの中にも神がいる、と感じてもらえるかもしれない。 
そうすれば、痛みや苦しみを感じているのは本当の自分ではないこと、自らが喜びそのものであることを自覚し、今をより良く生きていけるようになるはず。 
それを実行するためには、私という思いをなくし、目の前にいる人の中におられる神を見て、行為すること。 

師が共にいてくださると想いながら患者さんに触れていると、時折私が行為しているという感覚がなくなっていることがあり、患者さんの表情がハッとするほど晴れやかになったり、安心したような雰囲気に変わったりします。きっと、私の中におられる神、ヨギさんが行為してくださっているのだと思います。 

 一歩一歩ヨギさんに近付いていくことで患者さんのためにもっと良い行為ができると信じ、ご自身の中に神がいることを感じてもらえるよう、日々患者さんに接しています。 

空に向かって真っ直ぐに伸びて咲く、皇帝ダリア。この花を見ると秋の深まりを感じます。

 

 ハルシャニー  

 


ヨーガ・トークス in 東京

先日、東京特別バクティ・サンガムに触れたブログがアップされました。
バクティ・サンガムの後にはヨーガ・トークスも開催されたので、今回はそのことに触れたいと思います。

ヨーガ・トークスには、15名が参加。バクティ・サンガムの講師のミラバイさんを囲み、午前中に開催されたバクティ・サンガムの感想を話すことから会が始まりました。
ミラバイさんと共に座っているだけで、そのプラーナに触れて心が安定するような感じがしました。

ミラバイさんは一人一人の話を真剣に聴かれていました。

発心が揺らぐ場合はどうすればいいのかという質問に対しては、何度も立ち返ることで発心が強くなっていく、と答えられていました。
ヨーガに生きようと覚悟して実践しても、ヨーガではないことをついやってしまう、という悩みに対しては、ヨーガは〇〇をしてはいけない、と制限しているわけではないけれど、それに執着していないかどうかが大切、と話されました。
質問した人はミラバイさんの言葉を聴いてすっきりした表情になったり、笑顔になったり、それは師の元でサットサンガに参加しているのと全く同じでした。ヨーガを学び始めたばかりの人も、久しぶりにヨーガに触れた人にも、それぞれに感じるものがあったかと思います。

私が一番印象に残ったのは、師についてミラバイさんが語られたことです。

グルバイの1人が師のことを話しました。
師がお隠れになった翌月の弟子のサットサンガで、最後にストートラムを歌った時、人の姿をとられたヨギさんにストートラムを捧げることができたことが、いかに吉祥なことであったかを思い知ったと同時に、絶望感、喪失感に苛まれた。

話を聴き終えた後、ミラバイさんはこう仰いました。

師は「存在」という言葉をよく使われた。
存在とは、あったりなかったりするものではない。
目に見えていても見えなくても、確かにあるものを存在という。
師は、真実の存在そのものだった。ということは、師のお姿が見えなくなったから、師は存在しなくなった、とは言えない。
私たちはまだ本当の師を知らないと思う。いつか本当の意味で、師にお会いできるようになりたい。そして私たちが今できることは、師の存在と教えを残して、一人でも多くの方に伝えていくということ、そのために自分ができることを行為していきたい。

一言一言を丁寧に語ってくださる声は、耳から入ってきているのだけれど、直接胸の中に響いてくるようでした。
そしてその目は、真っ直ぐ師を見つめられているように感じられました。
話の内容だけでなく、ミラバイさんの身体全体から力強く伝わってくるものがあり、私もそうありたいと強く憧れる思いが溢れ出てきました。

自分の中にも確かにある真実の存在を信じ、真っ直ぐに師だけを見て、師の教えを生きていきたい、と決意を新たにしました。

 みんな良い笑顔!  

 ハルシャニー  


キールタンの醍醐味 ②東京にバクティ・サンガムが帰ってきた

晩秋のきりりとした空気の晴れやかな東京の朝。待ちに待った「東京特別バクティ・サンガム」の日がやってきました。バクティ・サンガムとはキールタン(注1)を通じて神について学び、愛を高めていくクラスです。歌好きや音楽好きにはとりわけ楽しいひとときでもあります。今回はヨーガの歩みの中で長くキールタンを歌い続け、多くの方々に神の喜びと信仰を伝えてこられた先輩弟子のミラバイさんを京都からお迎えしてのクラスとなりました。あの?!ミラバイさんが「東京で!目の前で!」歌ってくださるなんて夢のようです。当日は嬉しいことに青森、愛媛、大阪、静岡などの遠方からも含め17名の皆さんが参加されました。ミラバイさんの歌声の威力は絶大です。

コロナ禍を経て久しぶりの実開催のためか、東京という少々気取った土地柄のせいか、着座した皆さんからは期待と同時に微かな緊張が伝わってきました。一番緊張していたのは私かもしれませんが……。
ひとたびミラバイさんの声でキールタンが歌われ、追いかけて皆さんの歌声が聞こえてくると、会場はたちまち神様の愛に満たされたかのように暖かい雰囲気に包まれました。
今回はシヴァとクリシュナを讃える歌を1曲ずつ歌いましたが、クリシュナの歌の時には立ち上がって手を繋ぎ踊る方もいて、まるで東京にラーサ・リーラー(注2)が現れたかのように見えました。

私はハルモニウムを弾かせていただきましたが、演奏しながらこんなイメージを思い浮かべていました。前奏に続いてミラバイさんの声が天から聞こえてくる。さりげなく入ってくるナンディニーさんの太鼓はシヴァ神の足音。はじめは軽やかに、そして次第に力強く! 追いかける参加者の皆さんの声が厚く重なってくる。私も歌う!! やがてそれらがひとつになって昇竜のように空に舞い上がっていく。「演奏冥利に尽きるなあ!!」とずっと感じていました。

クラスの最後に、参加された方が「コロナ禍が終わり、こうして皆さんと直接お会いしてキールタンを歌えることが本当に、本当に嬉しい」と涙ぐみながら感想を話されたことがとても印象に残りました。他の皆さんも同じ気持ちだったことと思います。開催できて良かったと心から思った瞬間でした。

個人的には「バクティ・サンガムでミラバイさんの隣でハルモニウムを弾く!」という、初めてハルモニウムに触れた時からの秘かな夢が実現してしまったわけです。神様への愛の強さについて自問自答すると恥じ入るばかりに未熟な私ですが、このような機会が与えられたのは師の恩寵によるほかありません。東京の先輩グルバイの皆さんが、参加される皆さんのことを一番に考え準備されてきた今回のバクティ・サンガムはひとまず終了しましたが、これに留まることなくヨーガの学びに励んでいきたいと思います。今、師の御声が聴こえてきます。
「これがゴールじゃないで」

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最後に参加者のSさんから寄せられた感想をご紹介します。

「日曜日は大変貴重な体験をさせていただきありがとうございました。初めて触れた生のキールタンがミラバイさんによるものだったことはすごく幸運だったのではないかと思っています。美しいお声やお話やお姿全てに深い信仰を感じました。
始めは皆さんを乱さないようにとおっかなびっくり小声でひっそりと歌っておりましたが、ふと歌詞カードから顔を挙げると目の前で太鼓を叩くナンディニーさんの喜び溢れるお姿が目に飛び込んできて目が離せなくなりました。突然熱いものがこみ上げてきて堪えきれず涙が零れてきたのには我ながらびっくりしました。私というより私の内なる何かが悦んでるような、自分ではコントロールできない感覚を覚えました。その後は何でもいいから自由に歌いたくなって声も大きくなっていました。
そして翌日、いつもは起きたとたんに大好きな常連曲が頭をぐるぐる回っているのですが、その中に昨日聞いたばかりのキールタンが時折顔をのぞかせます。今まで見たことのない景色を見せていただいたような、新たな世界への一歩かもという予感と共にキールタンのパワーの大きさに驚きワクワクしています。素晴らしい会をありがとうございました」

(注1)キールタン:インドの神々の御名を繰り返し唱え賛美する歌
(注2)ラーサ・リーラー:主クリシュナとゴーピーが輪になって踊る遊戯のこと

小菅貴仁


今やるべきこと

人は歳を重ねるにつれて、それまで普通にできていたことができなくなっていきます。
関節が動き辛くなったり、筋力や視力が低下したり、記憶力が落ちたり、老化現象として少しずつ現れることもあれば、病気を発症して、一気に大きな変化が起きることもあります。
また、認知症など脳に関する病気の場合、別人格になってしまったのではと思うほど、言動に変化が起きる場合もあります。

私の鍼灸院に来ている患者さんにも変化の時を迎えている人や、そのような状態の家族を介護している人がいます。
自らに起きている変化を受け入れられず、なんでこうなってしまうのだろうと落ち込む人。
病気によって自分が知っている家族がいなくなっていくような感じがして戸惑う人。

肉体が変化し、なくなったとしても、その人の中にある真実の存在は永遠に変わらず存在し続ける。
私はヨーガに出会い、それこそが真実だと思えるようになりました。

しかしそれを知らない人にとっては、そう聞かされても、そうですか、とすぐに納得することは難しいと思います。
そう考えると、落ち込んだり戸惑っている人に対して言うべき言葉が見つからないことがあります。

このような時、具体的な実践の手掛かりを掴むために、マザー・テレサが残した言葉を読み返します。
先日読み返したときは、この言葉が特に印象に残りました。

私たちの言葉などはどうでもいいのです。大切なのは、私たちを通して神が魂に語りかけられることだけなのです”

この言葉を私自身に当てはめると、神は師であるヨギさん、魂は誰もの中にある真実の存在、となります。
1人でも多くの人に、私を通してヨギさんに語りかけて頂けるよう、私自身が誰もの中にある真実を揺るぎなく信じ、ヨギさんへの想いでいっぱいに満たしておくこと。

それが今やるべきことなのだと、この言葉を読んで確信しました。

この写真のマザー・テレサの表情が大好きです。

 

   ハルシャニー  


夏の瞑想会

 
東京では毎月瞑想会を開催しています。
 
7月の瞑想会に、京都から先輩が来てくださいました。
 
酷暑の中、先輩を含め11名が参加。
コロナ禍で京都での定例サットサンガが休止となり、オンライン上での交流を続ける日々でしたが、実際に顔を合わせてゆっくり話すのは本当に久しぶりのこと。
みんなとっても嬉しそうで、それを見ているだけで胸がいっぱいになりました。
 
再会を喜び合い少し話をした後、瞑想しました。
瞑想会の会場は、都心にも関わらずほとんど物音が聞こえない静かな空間。静寂の中、同じ空間で一緒に瞑想できる喜びを感じつつ、小一時間座りました。
 
瞑想の後は先輩を囲んでのサットサンガ。
 
東京のKさんは、コロナ禍でもオンラインで各クラスを受講できたのが有り難かったこと、今後は対面で会う機会も増やしていってもらいたいと提案してくれました。
普段お会いしていてもこうした話をすることがなかったため、お話を伺えて良かったです。
 
静岡から参加されたMさんは、瞑想会に参加すると決めた時からずっと楽しかったそうで、当日も終始笑顔で過ごされていました。
みんなが優しくて嬉しかった、とのことでしたが、遠くから参加してくれたMさんの思いが私たちにも伝わってきて、嬉しくなりました。
 
 
京都から参加された先輩は、ヨーガを実践していく中での気付きや発心について話してくれました。また、長年師が行為される姿をお傍で見ておられ、印象に残っているエピソードも話してくれました。
そして、一人一人の話に真剣に耳を傾け、真摯に答えてくれる姿は、師が私たちにしてくださっていたことと全く同じだと感じました。
先輩とともにいることで歓びに満たされ、大きな安心感を得られたのは、きっと私だけではなかったと思います。
 
師がずっと見守ってくださっているような雰囲気の中、互いの熱を高め合い、これからどう行為して行くべきかを具体的に考えるきっかけとなった瞑想会でした。
 
瞑想会の後に記念撮影。みんないい笑顔。
 
 

それから3週間ほど経った先日、8月の瞑想会がありました。

7月の瞑想会の後により良い瞑想会にするために話し合いをして、今回から瞑想の後に『マハーヨーギーの真理のことば』の教えをみんなで学び合うことにしました。
各自が惹かれる教えや、気になる教えを取り上げて、理解しづらかったり疑問に感じたことがあれば質問し合い、みんなでその教えを読み、それぞれに感じたことを話す形で進めました。
人によって視点が異なるからこその気付きが幾つもあり、充実した時間になったと思います。
何となく理解していたことが話しているうちにしっかり納得できた、朗読で教えを聴くことで内容がすっと入ってきた、という感想も頂きました。
 
 
これからもより充実した瞑想会となるよう、みんなで学び深め合っていきたいです。
 

   ハルシャニー  

 

 
 

キールタンの醍醐味 ①私にはバクティ・ヨーガは無理と思っていたら

ヨーガを学び始めたころ、私はバクティ・ヨーガ(神への信愛)が苦手でした。クリシュナ神の愛人ラーダーが狂おしいほど甘美にクリシュナ神を愛する物語を知り、男女関係なくラーダーのように神を愛するのだと言われても、正直なところ違和感しかありませんでした。神を愛する気持ちを感情に表すことなど気恥ずかしくてできない。自分の神への愛は確かに心の中にあるのだから、静かにしまっておけばよいと思っていました。しかし、神様は思いもよらない方法で、私のバクティに火をつけてくださいました。

マハーヨーギー・ミッションの活動に参加させていただく中で、多くのグルバイ(兄弟姉妹弟子)の皆さんが、それぞれ異なる人生経験や知識、仕事や家庭などの生活環境に応じて、その人の信仰が最大となる方法で神と向き合っていることを知りました。それでは私が全霊を捧げて神と向き合うためにはどうしたらよいだろうとぼんやり考えていたあるヨーガ・瞑想クラスの日、東京での「バクティ・サンガム」のチラシをいただきました。インドの神々を賛美し、神の御名を歌い奏でるキールタンのことや、そこではアコーディオンを横にして床においたような鍵盤楽器のハルモニウムが使われることなど、多少の予備知識はありました。「あの楽器弾いてみたい!」と即座に思いました。

ハルモニウムへの私の好奇心を察してくださったのか、ある時に先輩グルバイが「弾いてみますか?」と嬉しい一言をくださいました。私は子どものころからピアノを習い、趣味の音楽を続けていたので、「音楽で神を讃えられたら最高だ。それなら自分にもできる」と思い、皆さんと歌えるあてもないのに、さっそくハルモニウムを購入しました。

バクティ・サンガムで初めてハルモニウムを弾かせていただいた日。

その後間もなく新型コロナが流行し、バクティ・サンガムはオンラインクラスとなりました。毎回、聖者や神に関するスライドショーや参加者の体験談など、工夫を凝らした盛りだくさんの内容で、とても楽しく参加させていただいています。なにより、日本中のグルバイの皆さんとキールタンを歌えることがこのうえない喜びです。 

現在、新型コロナの感染も収まりつつある中で、東京では毎週土曜日のアーサナ・瞑想クラスや、月に一度の瞑想会のあとに有志でキールタンの練習をしています。キールタンを歌うときは、神を讃える歌声を邪魔しないように、楽器があまり出しゃばらないように気を付けています。でもせっかく神様に聴いていただくのだから音楽としても素敵にしたいとも思います。楽譜がないので先輩の演奏やCDの「耳コピ」をして、いろいろ工夫しながら弾いています。

そして先日、なんと静岡から参加してくださったグルバイも含めて総勢7人でキールタンを歌うことができました。最初にマントラ(真言)を唱え7人の声がひとつに重なった瞬間から、全員の気持ちが高まっていくのを感じました。クリシュナ神やシヴァ神の御名を繰り返し歌っていると、みんなの心が次第に熱くなり神に集中してくるのがとてもよく伝わってきます。立ち上がり身体を揺らす人、手拍子を打つ人、涙を流す人もあり、気が付けば、私も大きな声と喜びの笑顔で無心に神への愛を表現していました。表情が地味な方なのであまり分からないかもしれませんが…。

曲が終わっても、「終わりたくない!ずっと歌っていたい!」と皆さんの神への思いが高まり、なかなか収まらない様子でした。涙ぐみながら言葉にできない余韻を味わうグルバイの顔がとても印象的でした。苦手だと思っていたバクティ・ヨーガを自然に実践できるキールタンは最高です。

小菅貴仁