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弟子と師の絆

『あるヨギの自叙伝』で、パラマハンサ・ヨーガーナンダと師のスワミ・スリ・ユクテスワが初めて出会う場面はとても感動します。二人は運命の絆で結ばれていました。

「尊い先生!(グルデーヴァ!)」
「おお、わが子よ、とうとう来たか!」
わが師は、この言葉をベンガル語で何度もくり返した。その声は喜びに震えていた。
「何と長い年月、お前の来るのを待ったことだろう!」
あとはもう言葉など必要はなかった。沈黙のうちに、二人の心は溶け合った。無言の雄弁が声なき聖歌をかなでながら、師の心から弟子の心に流れ込んだ。

『あるヨギの自叙伝』p. 102

左:スワミ・スリ・ユクテスワ 右:パラマハンサ・ヨーガーナンダ

スワミ・スリ・ユクテスワは、著書『聖なる科学』の中で、弟子と師の出会いについてこう述べています。

人はいつサット・グル(聖師)にめぐり会えるか

真剣な求道者が一定の進鏡(ルビ:しんきょう)に達すると、このような聖者にめぐり会う恩恵が与えられる。その人は、サット・グル(真理への道案内、救い主)として、求道者を霊的に導いてくれる。このような聖者の導きに忠実に従うことによって、求道者は、自分の全感覚器官の働きを、それらの共通の中枢であるスシュムナドワーラ(内なる世界への入り口)に集中することができるようになる。

『聖なる科学』p. 23

私は2019年の夏頃、師シュリー・マハーヨーギーと初めてお会いしました。師は、会って間もない私に対して、最大限の優しさをもって、導きを与えてくださいました。当時抱えていた仕事の悩みの原因について、分かりやすい言葉で説明し、真の自分(アートマン)を知ることが一番重要な仕事であると教えてくださいました。また、仕事の手を抜くのではなく、精度を上げ、効率化するのがよい、それによって色々進めやすくなっていくだろう、という具体的なアドバイスまで頂きました。その後、師の導きに従ってヨーガの修行を続けてきました。五年が経ち、気が付くと仕事の悩みは解消され、円満な暮らしを送っています。大変有難いことです。

師は弟子と師についてこのようにおっしゃっています。

真理を学ぶこと、内的な、あるいは外的な無私の行為、瞑想、これらを欠かさないこと。尊い存在に対する敬愛を深めること。そうしたことによって、弟子はいつかは誰かの弟子から、誰かの師と呼び名が変わるでしょう。弟子というのも師というのも、一つの段階の呼び名にすぎません。在るのは、名のない、名付けようのない真実の存在だけです。それが弟子の全てです。

『マハーヨーギーの真理のことば』第十六章 p. 531

師への感謝を忘れることなく、真の自己の実現に向けてヨーガの修行を続け、いつか師のような優しい人間になれたらと思います。

島本 廉


【京都】11/3 瞑想ワークショップ開催‼️

ようやく秋らしい気候になってきましたが、紅葉が深まり始める11月3日(日)に瞑想ワークショップを開催させていだきます‼️

瞑想ワークショップ
テーマは「芸術に秘められた真理に瞑想する」です。
今回は、師シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサの生家でその芸術作品を鑑賞し、瞑想するというたいへん貴重な機会になっております。
シュリー・マハーヨーギーは、ヨーガのみならず芸術にも精通し、その卓越した直観で仏画や書を残されています。

機関紙『パラマハンサ』の表紙を飾った師の作品。 「アーディナート(原初の師ーシヴァ)とシャクティ」(左)・「如意輪観音」(右)。 今回のワークショップで展示される。

以前にシュリー・マハーヨーギーは「本来、仏画は僧侶でないと描いてはいけない」とおっしゃったことがありました。
ブッダの時代やその後の数百年は、ブッダの存在があまりにも尊いので、その姿形が描かれることはありませんでした。
しかし時代が経るにつれ、さまざまな仏や菩薩が絵や像で表現されることになり、文字や言葉だけではなく具体的イメージをもってブッダに思いを馳せることができるようになりました。
仏や菩薩を描くことは神聖な行為であり、純粋な精神でもって為され完成し、見る者の心を浄らかにします。

皆さま、ぜひこの機会に、ヨーガを成就されたシュリー・マハーヨーギーの芸術作品に触れ、静寂や歓喜、真実の存在を味わっていただけたらと思います。
ちょっと固い案内になりましたが(笑)、どなたでもご参加できますので、少しでもご興味がありましたら、どうぞお申し込みください😇

詳細はこちらになります💁「瞑想WS〜芸術に秘められた真理に瞑想する〜」

ゴーパーラ


『マハーヨーギーの真理のことば』〜弱音を吐いてはいけない  

2022年の11月に新刊『マハーヨーギーの真理のことば』の目次がアップされました。
嬉しくて何度も目次を読み返しました。すると目次を読んだだけなのに、心が強くなる感覚がありました。そのように感じた項目のひとつが「弱音を吐いてはいけない」です。

家族がいる環境の中でヨーガの実践の難しさを訴えた修行者に対して、師は次のように答えられました。

真剣に求めているならば、絶対に弱音を吐いてはいけない。どんな事柄、状況に対しても弱音を吐いてはいけない。状況がどうであれ、そんなことには関係がないと、義務は義務として果たしておく。だけど二十四時間義務が付いて回っているということはないと思うし、義務を離れた時には、真実だけを求めて、他のことには一切無関心になること。その強さは必要。絶対に言い訳はしてはいけない。

――第八章222ページ

ここを読むたびに鼓舞された私は、この実践を徹底的にやっていこう!と心に決めました。
私は仕事(ヨーガのワークス)や家庭における場面で心が動きそうになると、瞬時に師が「絶対に弱音を吐いてはいけない。絶対に言い訳をしてはいけない」と仰っている想像をして、心の中で師の教えに必死でしがみつき、弱音が出てくる前に吹き飛ばす練習をしています。
もう一方で心身が疲れてくると弱音が出そうになるので、思いっきりアホになって「私は今起きたばかり!」とエネルギーに満ち溢れた感覚を思い出し、余計なことは考えないで最後までやり遂げることを心掛けています。以前は「今日はあれもこれもしないといけない」と考えるだけで心が疲れていたのですが、「今起きた!」と強く思うことで過去や未来を気にすることなく目の前のことだけに向き合う力が湧いてきます。
このような訓練によって心が強くなり、やるべきこととやりたいことが一致して、心が満ち足りた状態になっていくのです。

徹底して実践し、弱音に対して毅然として、最高の歓びに向かって突き進んでいきたいです!

アーナンディー


『Paramahamsa』表紙絵シリーズ ⑪

今回は、『Paramahamsa』No.88の表紙絵と絵にまつわるお話をご紹介します。

「ラーサ・リーラー」

秋のジャスミンの花開く、いとも優しい月が昇った時、その夜が来たのを見たシュリー・クリシュナは、ゴーピー(牧女)たちとの約束通り、一緒に踊って楽しもうと思いました。
彼は甘美な笛の音を奏でつつヴリンダーヴァンの森へと向かいます。その歌を聞いたゴーピーたちは上の空となり、家族も仕事も忘れて家を抜け出し、彼の下に駆け出します。外出できず、家の中にいるゴーピーたちはシュリー・クリシュナを心に思い、目を閉じて彼の瞑想にふけりました。森の奥で蒼い肌に月光を浴びて笛を吹く、シュリー・クリシュナの姿に息をのんで見とれている彼女たちを、シュリー・クリシュナはヤムナー川の岸へと誘います。

彼が最愛のゴーピーと踊り始めると、二人を囲んだゴーピーたちは愛と情熱に身を任せて、慎みを忘れて歌い踊ります。踊りの輪の素晴らしさは月よりも輝き、辺りにはかぐわしい空気が漂うほど。踊りがクライマックスに達すると、シュリー・クリシュナは同時にたくさんの姿を現して、ゴーピーたちの一人一人が自分と踊っているように信じさせるのです。
こうして長い夜を歌い踊り続け、恍惚の中に過ごしていると、神々さえもこのありさまを見ようと天空に出現し、散華を行なうのでした。                            

『バーガヴァタ・プラーナ』より

ラーサ・リーラーを題材とした細密画は多く描かれています。それらを見て、私もクリシュナとゴーピーたちが踊る姿を描いてみたいと思いました。
絵が出来上がった時、ヨギさんはとても喜んでくださいました。
けれどその後、どのくらい経った頃だったでしょうか。
この絵を再びご覧になったヨギさんは、ゴーピーの2人が着用している紫色のサリーがオレンジだったらもっと良かったと話されたのです。

ヨギさんがオレンジの衣を着用されるようになってから、私たちもオレンジ色のものを身に付けるようになり、今ではまるでMYMのイメージカラーのようになっているこの色。
サリーを着ている人を描く時には、大抵はオレンジ色にするのですが、今回は見た目に変化をつけた方がいいかなと思い、紫色を入れて描きました。
でもヨギさんに言っていただいて、紫のサリーの部分を指で隠してみると、ヨギさんはただオレンジに揃えた方が良いと言われたのではないということが分かりました。
そこには、なんとも円満な姿が現れたからです。
計らいがないところに調和は生まれるものだと学ばせていただいた出来事でした。

シャチー


『ホーリー・マザーの生涯』に触れて

マザー(サーラダー・デーヴィー)に聖典を通してお会いできたのは、ヨーガを始めて比較的早い時期でした。その頃の私は、マザーの生涯に触れる度に、考えられないほど多くの家事を淡々とこなし、日夜、家族の問題を抱えられている・・・他者の幸せを喜び、苦しみに泣かれる姿を想像し、なんて大変なんだろうという思いでいっぱいになり、憧れというよりは遠い存在に感じました。しばらくは聖典を手に取ることもなく本棚に並べたままになっていました。

けれども、今年の春の祝祭では「サーラダー・デーヴィー」に焦点が当てられることになり、バクティ・サンガムのクラスでは毎回マザーを讃える歌や、講師の方が聖典を通して彼女の生き様からどのようなことを学んでいったのかを教えていただく時間がありました。クラスで学びながら、久しぶりに聖典を取り出し、もう一度、読み進めていきました。改めてマザーの生涯に触れると、前とは違う気付きがありました。それは大変なことが多かったかもしれないマザーの生活は、霊性の修行が礎にあって成り立っているということでした。

“大小を問わずひとつひとつの行為に、神との全き合一であるヨーガを実践しておられた。彼女と神のご意志はひとつだった。家住者でありながら、出家者に定められた放棄の理想から決して逸脱されることはなかった。不快な務めを避けられることも、快い務めを歓迎されることもなかった。あらゆる活動の最中にあって、決して神を忘れられることはなかったのである”

『ホーリー・マザーの生涯』より抜粋

マザーが実践された修行は、とても凄まじいものだったと思いますが、このことに気付いてからは、私たちもヨギさんから教えていただいたアーサナや瞑想、聖典の学習などの修行をしているのだから、少しずつマザーに近づいていけるに違いないと、マザーの存在を以前より近くに感じられるようになっていきました。

そんな時、職場で、準備から当日の発表まで何カ月もかかる仕事を任されることがありました。そしてその仕事が終わってからも、なかなか忘れられずに抱えたままになっていて、ふとした時に思い起こされる日が続いていました。アーサナをしていても、ちょっとした隙に思い出してしまう・・・もう捨て去りたいと思いながら瞑想に座りました。瞑想に座ってしばらくすると、マザーが近づいて来てくださり、真剣な表情で「一体それは誰の仕事だというのですか」と言われました。思いもよらないお導きでした。そのお言葉に気付かされ、抱えていたものは消えていきました。神と一体であられるマザーの力強いお言葉に救われ、常にお傍にいてくださっていることを感じました。

日々の務めのただ中にありながら、常に心は神に向けられ、内なる平安を乱されることはなかったマザー、神聖の権化であられたマザーに謹んで礼拝いたします。これからもマザーの生き様に瞑想し、もっともっと近づいていきたいと思います。

毎日、自然の美しさを感じながら、賀茂川沿いを自転車で走って通勤しています。
賀茂川の清らかな流れを見ると、純粋なマザーのお姿を思い出します。

桜井みき桜井みき

 

 


聖典に親しむ(ラーマの思召し)――『「不滅の言葉(コタムリト)』」

ある村に一人の機織職人が住んでいた。大そう信心深くて心掛けのいい人なので、誰もが彼を信用して愛していた。この職人は市場にいって自分の織った布を売っていた。買手が値段を聞くとこういう。

人びとは彼を心から信用していたので、値切りはせずにすぐその金を払って布を買ってゆく。
熱心な信仰者だから、夕方食事をすませると、チャンディー(ドゥルガー)を祀ってあるお堂の前に長いこと坐って、神を想い、称名讃歌を称えるのが常だった。
ある日のこと、夜も更けたが一向に眠くならないので、坐って時々タバコを吸っていた。するとそのとき、前の道を一群の盗賊が強盗しに行くために通りかかった。そいつらは荷物運びの手が不足していたので、その職人を「おれたちといっしょに来い」と言って引っぱって行った。それからある家に押し入って強盗を働いて、いくつかの品物を職人の頭にのせて運ばせた。
そこへ警察がやってきて、盗賊どもは皆いち早く逃げたが、職人だけは頭に盗品をのっけたまま捕まった。その夜、彼は警察に留置された。

翌日、職人は署長の前に引き出された。村中の人が事件のことを知って集まってきた。そしてみんなは口をそろえて言った、「署長さま!この人が盗みなどするはずがありません」 署長は職人にきいた、「どうしたんだね、どういうワケなのか、昨夜のことを話してごらん」職人は答えた、

信仰篤い正直な男であると見てとって、署長は職人を釈放するように命じた。
彼は家へかえる途中仲間のものに、「ラーマの思召しで釈放された」と話していたそうだ。


ラーマはインドの神様です。このお話では、機織職人が神に全てを任せきる、という態度がどのようなものかを具体的に示しています。
『コムタリト』でこのお話を教えてくださっているインドの大聖者シュリー・ラーマクリシュナは、神への信仰を持つということ、これ一つだけが何より大切なこと。心の中からよけいなものを全部捨ててしまわなければ神はつかめない。だけどそれはとても難しい、だから神に一切を任せるように、とお話されます。

「あの御方がこの世に置きなすったのだ。しょうがなかろう。もういっそ、何もかもあの御方に任せきれ。あの御方に、素直になって自分を任せ切っておしまい。そうすりゃ、なんの心配も面倒もない。そうしたら、“すべてはあの御方がやっていなさるのだ”ということがわかってくる。“すべてはラーマの思召し”ということがね」−−−−シュリー・ラーマクリシュナ

『コムタリト』を読んでいると、ラーマクリシュナのお話がじわじわと私の中に染み込んでいって、本を読んでいないときにも継続して考えさせられます。日常の様々なことに対面するときにこの教えが浮かんできて、全ては神がされていること、というふうに受け入れることができるか試されているかのように感じました。
まだまだ全ては神がされていると受け入れることができるわけではないですが、生きていると好ましいこと好ましくないこと色々あるけれど、それらをいちいち判断することに心を使うよりも、心を神に向けようと思いました。それが神に全てを任せきるためにできることだと思います。
ラーマクリシュナの永遠の導きに感謝して、引き続き聖典に親しんでいきたいと思います。

サルヴァーニー


泥棒アムジャッドの信仰とホーリー・マザーの愛

「私は徳のある者の母。そしてよこしまな者の母。悩める時にはいつでも自分に言い聞かせなさい。『私にはお母さんがいるのだ』と」。

ホーリー・マザー(シュリー・サーラダー・デーヴィー)は、全く驚くべきことに、あらゆる人々に対して平等に接していました。それを示す逸話はいくつかありますが、その一つに盗賊のアムジャッドの話があります。アムジャッドはイスラム教徒の盗賊の一人でした。ホーリー・マザーはそうした人々にもお仕事を用意し、親切にされていたのですが、周囲の人々の中には不可触民とされていた彼らをぞんざいに扱う人もいたようです。マザーは、しかし、「シャラトが私の息子であるのとまったく同じように、アムジャッドも私の息子なのです」とおっしゃり、アムジャッドに対して親身に接しました。シャラトというのは、シュリー・ラーマクリシュナの高弟の一人であるスワーミー・サーラダーナンダのことです。スワーミー・サーラダーナンダと盗賊のアムジャッドが同じというのですから、まったく驚くばかりです。

あるとき、泥棒のアムジャッドは心身ともボロボロになって、病床にあるホーリー・マザーを訪ねます。それを見て、ホーリー・マザーは「我が子のアムジャッドではありませんか」と迎え入れたのです。そして、彼に沐浴をさせ、彼の空腹を満たし、新しい布を与え、お土産もたくさん渡されて、アムジャッドはやってきた時とは別人のようになって帰っていったそうです。その後、アムジャッドはホーリー・マザーに珍しい果物を持ってきたりして、マザーに献身するようになりました。けれども、それでもアムジャッドは泥棒をやめることができず、何度も捕まって、牢獄に出たり入ったりしていました。それでも、ホーリー・マザーはそのような犯罪行為にはなんら留意されずに、常にアムジャッドに対して非常に情け深い様子で接しておられたそうです。最期の病で伏せっておられるときには、アムジャッドは強盗を犯して逮捕されていました。それを知らされて病床にあるホーリー・マザーは、「アムジャッドが古い悪癖をやめていないことはずっと知っていましたよ」と言われたと伝えられています。

悪行を止めることができない者を「我が子」と呼び、深い慈悲を与えるマザーのこの逸話を読んで、何度も涙をこぼし、「ああ、お母さん!」と叫んだのは私だけではないでしょう。ここで救われるのはアムジャッドだけではなく、全世界のあらゆる罪人たちであろうと確信するのです。

けれども、何度か読んでいるうちに、アムジャッドがマザーの深い慈悲を受け取ることができたのは、彼の中にある純粋な信仰心、ホーリー・マザーへの純粋な愛ゆえなのだろうと思い至りました。アムジャッドの犯した犯罪というものは、彼の癖であり、直すのはとても難しいけれども、本質とはかけ離れたもの。だからこそ、ホーリー・マザーは癖を相手にせず、本質だけを慈しみ、そしてアムジャッドもその純粋な信仰心を持ってその愛を受け取ることができたのでしょう。ここにはホーリー・マザーとアムジャッドの本質、魂の関係だけがあって、星がまたたく夜空のような深く広大な美しさが広がっています。

私たちは、いくらでも間違いを犯してしまいます。それが積み重なって、悪い癖もいくつも持っています。悪い癖と格闘してなんとか直そうとしますが、それは本当に苦しくて、難しく、何度も失敗して絶望します。それでも、どんな絶望の淵にあっても、ホーリー・マザーの愛を受け取ることができますよう、純粋な信仰を持ち続けたいと切望するのです。

そして、同じように悪い癖で苦しむ人々に対しては、ホーリー・マザーがアムジャッドに対して与えられた寛容さを真似していくことができるのです。ちょうど少しばかり理不尽な行為を受けたことがありました。それで、そっと「それはこの人たちの癖なのだ」と呟いてみました。するとどうでしょう。そんな理不尽なことがらに対する思いも、みるみる「窓を開けたので、風が入ってきたよね」という程度の出来事に変容していき、寸前のところで、怒りをぶちまけるという罪から逃れることができたのです。ああ、お母さん、なんとあなたの愛は大きいのでしょう!

*参考・引用・抜粋 『ホーリー・マザーの生涯』

笹沼朋子


『Paramahamsa』表紙絵シリーズ ⑩

今回は、『Paramahamsa』No.86の表紙絵を紹介させていただきます。
冊子のイラストは実際にはモノクロですが、ヨギさんが選んでくださった書体がとても素敵なので、表紙デザインをご覧ください。

この絵は、ガルダに乗ったヴィシュヌ神とラクシュミー神妃です。
ヴィシュヌ神がラクシュミー神妃を抱きかかえるようにしてガルダに乗り、弓に矢をつがえているシーンはよく見ますが、神に抱かれながら、自らの煩悩を撃ち落としたい、強い意志をもちたいというイメージで、ともに弓を持つシーンを描いてみました。
放つ矢に当たって落ちていくのは「煩悩くん」です。

7月といえば、ヨギさんはニューヨークに行かれていることが多くありました。
そうやって離れてみることで、ヨギさんが京都いてくださることで私たちは守られていたのだと感じることが多くありました。しかしそれと同時に、矛盾しているかもしれませんが、離れていることで、常に一緒にいてくださる安心感があり、そしていつも導いてくださっているのだという強い思いにも満たされるのでした。
離れていると感じるのは心であり、実は、今この瞬間も私たちは神に支えられ、力を与えられているのだと思います。それを忘れることなく、真実の道を歩み続けていけますように。

シャチー


マザーに導かれて

マザー(サーラダー・デーヴィー)に初めて出会ったのは、ヨ―ガのクラスに通い始めて間もない頃、先輩グルバイからマザーの本を勧めていただいて読んだ時でした。馴染みのないインドの風習や、時代も今から百年以上前のお話でしたが、本を読むうちに不思議に風景がリアルに感じるようで、自分がマザーのお側にいるような気持ちになりました。そしてマザーが大好きになっていきました。
クラスでシャヴァ・アーサナ(休憩の形)の時に「何も考えないで」と指導されても、目を閉じるとマザーのお姿が浮かんでくるほど、マザーのことを思うようになっていきました。
私がマザーを思う時はいつも、自分が小さな子供のようにマザーの膝に甘えているような、そんな気持ちになります。それはきっとマザーが、

「私は、善人だけでなく、悪人の母でもあります。私を母と呼ぶ人に、決して背を向けることはありません。子供が泥や埃にまみれていたら、汚れを拭って膝に抱いてやるのが母の務めではありませんか」「困った時はいつでもあなたを守っている母がいることを思い出しなさい」

と言ってくださっているからだと思います。日常で誰かにそんなふうに言われても、私はきっと素直に受け入れることはできないだろうと思うのですが、実際にお会いできなくても、マザーのお言葉は心の奥で確かに真実だと思えるのです。

♦♦♦

今年の春の祝祭は、大好きなマザーをお祝いする会でした。
祝祭に向けてマザーへの讃歌を練習する機会を設けていただいて、何度も練習を重ねました。優しいメロディーはマザーの愛そのもののようで、歌う度にマザーに包まれているような幸せでいっぱいになりました。
祝祭当日は、初めて京都の会場で参加させていただいたのですが、祭壇の美しさや聖劇の迫力など全てが感動的でしたが、中でも一番心に残ったのは、大きなスクリーンに映し出されたマザーのお写真の数々です。マザーの瞳は例えようが無いような輝きに満ち溢れていました。マザーの瞳の先にはシュリー・ラーマクリシュナがいらっしゃって、全てに師を見ておられるのだと思うと、マザーの強い信仰心と汚れのない純粋さに感動しました。

いつも私のことを、母なるマザーが、そして最愛なる師、ヨギさんが見守っていてくださっているから、私は勇気を出して一歩一歩歩みを進めることができます。

大好きなマザーのように、私もいつか全てにヨギさんを見れるように歩いていきたいです。

小野ちさ

 


ヨーガ・瞑想 西宮北口クラス

2017年より始まった西宮北口クラス。
このクラスは、通常は2、3人、多い時で5人ほどが集まる少人数のクラスで、その内のお二人は女性で、初めてご参加いただいてから1〜2年ほどになります。

今日のブログでは、そのお一人である森澤さんの、いくつかのエピソードをご紹介したいと思います。

ヨーガは初めてに近かったと思うから、最初はクラスでアーサナをするだけでも精一杯だったと思います。そんな中、家で毎日アーサナをすることは、誰もにとって難関の一つになったりしますよね。森澤さんもそのお一人だったのではないかと思います。
けれどもしばらく経った後、森澤さんは家でアーサナをした後に私にメッセージをくださるようになったのです。「メッセージを送ることで毎日続けていく励みになる」とおっしゃっていたのですが、それは私にとっても、とてもありがたいことでした。頑張って続けていこうと思ってくださることもとても嬉しいことでしたし、加えて、アーサナをした時に感じたことや、クラスでお話ししたことへの感想も一緒に送ってくださり、次のクラスへと繋げることができたからです。

そうしてアーサナにも慣れた頃から、アーサナ以外のヨーガの教えにも少しずつ触れていただくようになりました。ただ初めて聞く真理の教えに、森澤さんの頭の周りに???が飛んでいるのが目に見えて分かる時もありました。
それでも「アーサナを続けていくことで教えを理解していくことができるようになる」という師の教えをお伝えし、今はアーサナを続けていきましょう、とそんなお話をしたこともあります。

1年も経った頃だったでしょうか、とても嬉しいことがありました。
彼女はマラソンをされているのですが、ある大会でとても成績がよかったことをお話しくださいました。そして、その結果には「最初は呼吸が関係しているのかと思ったけれど、よく考えると、余計なことを考えることなく最後まで集中して走れたからではないか、それはヨーガの効果だと思う」とお伝えくださったのです。

そしてその後の4月、MYMの春のキャンペーンで、本を少し安く購入していただけることを皆さんにご案内した時のことです。『さまらさの台所』は購入を決めていますが、他に何を読んだらいいですか?と森澤さんが尋ねてくださいました。実際に見ていただいて一番読みやすそうなものを選ばれたらいいのでは?と手に取っていただいた後、森澤さんが選ばれたのは『ヨーガの福音』でした。きっとその時、何かしっくりくるものがあったのでしょう。

その次のクラス、森澤さんのアーサナが変わりました。
というのは、これまでクラスに来てアーサナをすると、足がつって続けられないということが何回かありました。家でするとそんなこともないらしく、クラスではかなり頑張ってしまわれるからだと思いますが、『ヨーガの福音』を購入されたあの日も、足がつってしまい、アーサナを続けられなくなったのです。その分、ヨーガの話をたっぷりとできた良い時間にはなりましたが、アーサナに関しては不完全燃焼!と残念に思っておられたようです。

そうして迎えた次のクラス、この日は、足がつることもなくアーサナを終えることができました。今日はつりませんでしたね、とお声かけすると、「これまでは、アーサナの柔軟性を高めようとして頑張ってしまっていたけれど、『ヨーガの福音』を読んで、アーサナをすることへの目的意識が変わり、力を抜いてできたからだと思う」とのこと。そして「『心と体は自分ではない』という教えなどが、スッと心の中に入ってきた。『ヨーガの福音』は何度も何度も読んでいきたい本だと思った」とおっしゃいました。

今、森澤さんは、自分が習っているヨーガがどんなものかもっと知ってみたくなった!と、軽やかに、熱心に通ってくださっています。

真理を体得された師のお言葉は、誰もの心の奥に届き、変革をもたらすものだと、それを改めて実感できた出来事の数々でした。
こうして真理の教えを残してくださった師のお働きに、深く感謝を捧げます。

***

西宮北口クラスは、毎月第1、3木曜日に続けています。
お近くの皆さま、ぜひご参加ください!

シャチー