ダヌル・アーサナで苦手意識を克服する

ダヌル・アーサナ弓の形は、その名の通り弓を模した形です。
横から見ると矢をつがえ弓のように見えます。 

初めてクラスでダヌル・アーサナを行った時、あまりにきつくて息を吸うのも吐くのも大変、この状態で形を保持するなんてとんでもないと思いました。

毎日アーサナすることが習慣になっても自宅ではダヌル・アーサナは短い保持で戻しがちでしたがクラスでは他の参加者の方々の集中力に助けられて、少しずつではありますが、長めに保持することができるように。
ただ、自分としては限界まで足を引き上げたところからクラス担当者のサポートによりさらに足が引き上げられると、「無理無理無理無理!!」と心が悲鳴を上げることもしばしば。せっかく引き上げてもらったのに、段々下がっていく息を吐き切るようにとアドバイスをもらっても、形を保持することに必死で浅いままの呼吸
ダヌル・アーサナ対する苦手意識消えないまま月日が流れていきました。 

しかし、あるを境にその苦手意識がなくなっのです
それは自宅でアーサナしていた時のこと。
次はダヌルかぁ…と毎回気が重くなことにうんざりして、もうこんなのは終わりにしたいと思いました。 

ダヌル・アーサナはきつい苦しいというのは思い込みだから無視する!
他のアーサナで息を吐き切れることもあるのだから、ダヌルの時だってできるはず!
そう決めてから、ダヌル・アーサナへの取り組み方が変わりました。 

しばらく経ったある日。いつも通り形を作り限界まで足を引き上げできる限り息を長く吐き切るようにしていたら「あれ?意外と苦しくないかも?初めて感覚に驚きました。
いつもより高く上げることができてこれまでよりは少し楽にその位置を保つことができて足が上がったことで胸が広がり、深く吐き切れました。れだけでなく、自然に吸う息が入ってくるまでの間、一瞬時が止まったように感じました。深く吐き切るなんて苦しいと思っていたのに、むしろそちらの方が楽に感じることにも気付きました。

これを機にダヌル・アーサナをするのが少し楽しみになり、アーサナ全体を通してより丁寧に吐き切ることが習慣になりました。また、形を取ることで体がきついと感じても、その感覚に囚われずに実践できるようになったと思います。
そして、アーサナだけでなく日々の行為においても避けてしまいがちなことに対してもあれこれ考えずにとりあえずやってみよう、と思えるようになっていきました。 


二元性を超える

この世界は二元性の世界です。生理的に感じる暑い寒いというようなものから、心が思う好き嫌い、得手不得手、全ての事柄が対立的に二元性を持っていると思います。そして心はそれらの二元性の中で振り子のようにいつも動揺して、定まることを知りません。ヨーガを学んでいけば、世界の二元性という現象そのものは認めるのだけれども、結局それによって心が動揺してしまうことは防がなければならない、つまり二元性を克服しなければならないということが見つけられます。暑い寒いや、快適さや不快などもそうですが、やはり心が創り出す好き嫌い、好ましいもの好ましくないもの、そういう偏見を何より無くさなければいけないということになります。
アーサナが落ち着いてくると呼吸が落ち着いてきて、同時に心も落ち着いていきます。それは聖典や真理の言葉を理解する土壌ができていくということを意味します。
心が動いている間は動揺して止みませんが、心が静まってくれば、真理、真実という不動のものを感じる力が出てきます。アーサナは間接的かもしれないけれども、そういう心に与える影響をもって、二元性の克服を目的に挙げています。 

『マハーヨーギーの真理のことば』より 

 

私の苦手意識の克服に大きな影響を与えてくれたダヌル・アーサナ。
私と同じような方にとって、少しでも参考になれば幸いです。

国分寺クラスに来られている皆さんも、ダヌル・アーサナに真剣に取り組まれています!

ハルシャニー  

 

 


アーサナの秘儀 ――師が確認された古の道――Raja Yogaを終えて

5月に1年間続いた「アーサナの秘儀――師が確認された古の道――Raja Yoga」のクラスが終わりました。この1年間、一つ一つのアーサナのポーズの作り方のポイントや効果など、教わったことを家やクラスで実践しては質問する。また、他の方の質問に対するアドバイスを聞いて、自分も実践してみるということを繰り返し、正にアーサナと共に駆け抜けた1年間でした。


毎日アーサナをしていたので、できている!と思っていたことが実は全然できていなかったということがありました。ハラ・アーサナ(鋤の形)は手で背中を支えて、と教えられますが、私は手に全く力が入っていなくて、ただ背中に添えていただけでした。意識して背中をしっかり手で支えると、もっと遠くまで足を伸ばしていけることに気付いた時には、今までなぜ気付かなかったのか、と本当に驚きました。
また、サルヴァンガ・アーサナ(肩立ちの形)で、パドマを組んで頭の方に倒そうとした時に、講師の方が背中を一押ししてくださいました。その一押しは自分では今まで行くはずがないと思っていた限界を超えたところまで、ぐいっと背中が倒れていきました。「あっ、いった!」と思った瞬間に体の中が熱くなり、心がすっきりして何か付いていたものが取れたような感覚、壁みたいなものが剥がれ落ちて自然にいろいろなものが流れ始めた感覚がありました。自分でも気付かないうちに作っていた限界や苦しみから解き放たれたようでした。

気付きや学びをいただき、改めて一つ一つのアーサナに集中して、丁寧に意識して作っていくことで、アーサナ全体への集中感が増しました。その集中は瞑想へと繋がり、日常でも心が安定していました。そしてアーサナの大切さや信頼が深まり、自分を信じる強さが生まれたように思います。
このような変化は、クラスのみんなが感じられたことだと思います。

後半に設けられたサットサンガ(霊的問答)では、回数を重ねるごとに「できないと思っていたことができるようになりました!」という感想が増えて、その度にみんなで喜び合いました。ヨギさんから教わったアーサナを正しく理解したいという同じ思いで、真剣に学び、質問し、その質問に対し講師のシャンティーマイーさんが真摯にアドバイスをくださったことで、学びが深まっていきました。そして最終回では、みんながこれからの実践への期待と喜びに満ち溢れた顔になっていました。今、クラスを終えて、本当に貴重な機会だったと思います。これからの実践に生かし、精進していきます!

桜井みき桜井みき


『マハーヨーギーの真理のことば』 ~ヨーガは万人に開かれた道

「ヨーガは万人に開かれた道です。無一物として出家して励むという道もあれば、在家として家庭を持ち、仕事をしながらヨーガを深めるという道もあります。男も女も、誰もが実現できます。徳のある家に生まれる方もいれば、貧しい家に生まれる方もいます。でも、そのような条件は関係ありません。あくまでも内面の問題です」

『マハーヨーギーの真理のことば』 第四章 ヨーガの道

「真理・真実」は誰の中にもあります。そして、それは生まれることも死ぬこともない、永遠の存在であるとヨーガでは教えられています。その「真理・真実」を探求する道であるヨーガが、一部の限られた人だけのもののはずがありません。

シュリー・マハーヨーギーに出会った頃、私は既婚者で、毎日、子育てや家事に追われる普通の主婦でした。でも、心の底から「この世界の真実を知りたい!」と渇望していました。

ご縁があってマハーヨーギー・ミッションの扉を叩き、自分の思いをシュリー・マハーヨーギーに打ち明けたところ、師は心から温かく迎え入れてくださり、たくさんの弟子たちとまったく同じようにヨーガの教えを真剣に説き、私が正しくヨーガの道を歩めるよう導いて下さいました。

ヨーガの道を歩むのに、資格も才能もいりません。性別も年齢も関係ありません。どのように学び、進んでいくのかも、すべて自分の自由意志です。
そして、学ぶ方法や実践のアドバイスは、古代から続く教えの中に数えきれないほど示されています。

ヨーガに出会って、自分のこの人生がかけがえのない価値あるものになりました!
もし、少しでもヨーガに興味があるなら、ぜひ一歩を踏み出してみてください。
きっと、あなたの人生にもかけがえのない光が差し込んでくると思います!

シャルミニー


『ヴィヴェーカーナンダの生涯』イラストシリーズ③

1886年、最愛の師シュリー・ラーマクリシュナ御入滅の後、ナレンドラ(後のヴィヴェーカーナンダ)と数人の若い弟子たちは、ボラノゴルに家を借りて共同生活を行ないました。

ある時全員でボラノゴルを離れてアントプルの村で数日を過ごしました。ヒンドゥ教の習わしに従って焚き火を囲んで瞑想をしていた時、頭上には星が瞬き、静寂を破るのははじける薪の音だけでした。ナレンドラは突然目を開くと、師の如き情熱をもって、キリストの生涯を兄弟弟子に語り始めました。「枕する場所」がなかったキリストのように生きることを説き、熱意に燃える彼らは、神と聖なる火を証人として出家を誓いました。

ボラノゴルに戻ると、食事を忘れて、瞑想、礼拝、研究、信仰の歌に没頭しました。各自が2枚の腰布を持っていましたが、他に外出時に必要な着物は皆が交代で着ました。様々な国の歴史や哲学体系を共に学び、議論して、疑問が生じた時には、師の教えという光に照らすことで解決されていきました。

やがて彼らは、神への明け渡し、無執着、内なる沈着を身につけようと、杖と托鉢の椀以外は一切持たないサードゥの生活に焦がれ始めます。ナレンドラもまた、孤独の平安に浸ることを願っていました。他者に自分に頼らないこと教えると同時に、自分の内なる強さを試したいとも思いました。初期の放浪は、仲間に請われると戻らなくてはならなかったため一時的なものでしたが、ついに1890年、杖と椀だけを手にしたナレンドラは、名もなきものとして広大なインドに旅立ちました。

インドを遍歴する中で、ナレンドラはあらゆる人々と交わりました。統治者、地主、神職者、そしてそういった権力者の不徳な気まぐれの犠牲にされている大衆の惨状を知りました。インドの民衆が貧困を極めているのを目の当たりにして、人々の苦しみがナレンドラの繊細な心を痛めました。こうした状況にあって自分の義務とは何か?神と交流すべく隠遁すべきなのか?と何度も自問しました。しかし、その神は人間を通して現れることを確信し、神への奉仕はインドの人々をもって始めなければならないと感じていました。

ボラノゴルから始まり雪を頂いたヒマラヤを経て、インド最南端に至る旅の終わりにコモリン岬に辿り着いたナレンドラは、鮫が生息する海を泳いで小島に渡ると、岩の上に座りました。自分の目で見てきたことを思い出し、自分の義務を自問しました。苦行と自己抑制によって、偉大な霊性の力が蓄えられ、心は東洋と西洋の智慧に溢れていました。今こそこうした力のすべてを人の内なる神への奉仕のために使わねばならない、と結論しました。

しかしどのようになされるべきなのか? 岩の上で一人沈黙の思いに沈んでいたナレンドラにヴィジョンが示されます。それはアメリカの新大陸でした。人々の心が階級という重荷から自由な国、限りない可能性に恵まれた国。感受性の高いアメリカ人に、インド古代の智慧を授け、それと引き換えに科学技術の知識を母国に持ち帰ろう。アメリカでの伝道に成功すれば、インドの国威を西洋に高めるばかりでなく、自国の人々にも新しい自信が養われるだろう、と思いました。

来たるシカゴ宗教会議でインドを代表するように友人から熱心な要請を受けたことを思い出し、渡米を決めます。ボンベイからアメリカへ向けて出港したのは1893年、ヴィヴェーカーナンダは29歳でした。

ヴィヴェーカーナンダが遍歴した路(みち)を辿ってみたいと思い、イラストに描きました。遍歴を通じてインドの現状を目の当たりにし、あらゆる人々と交わることで、ヴィヴェーカーナンダの心はインドと一つになったのだと感じました。インドの苦しみは彼自身の苦しみとなり、この後人々への救済と奉仕に人生を捧げられたのだと思います。

サルヴァーニー


リーラー・ヨーガ・スタジオ 開設から1ヶ月の様子

6月19日で新スタジオをスタートして1ヶ月が経ちました。この1ヶ月の様子をご紹介します。まずスタジオの名前ですが、「リーラー・ヨーガ・スタジオ」に決まりました。「人の本性は喜びに満ち溢れている」というヨギさんの教えを多くの人と分かち合いたいという気持ちが込められています。

5月上旬にスタジオ近辺に1800枚のチラシをポスティングしていたので、初日から「ポストにチラシが入っていました〜」というご近所の方の参加がありました。その後もチラシを見たという方、クラスに通っている方の紹介、WEBを見てなど、新しく体験に来られる方が増えています。スタジオがあることでクラス数が増え、参加される方も選択肢があって通いやすくなったと思います。「来週は予定があるから別の曜日に来ます」と言われたり、「しばらくは60分のクラスを受けるけれど、慣れてきたら90分のクラスを受けます」と言われたり、それぞれのペースで続けてくださっていて、スタジオができて本当によかった〜と思っています。
スタジオの前の通りは車の通りが少なくとても静かです。特に扉を閉めてしまうと異空間のような静けさが訪れます。クラスは日常の喧騒から離れて自分自身に向き合える貴重な時間です。集中しやすく、とても気持ちの良い空間だと言ってくださる方が多いです。

クラスに来られた方からは嬉しい言葉もいただいています。「よく眠れるようになりました」や「久しぶりにこんなに深く呼吸をしました」、「体の痛みがマシになりました」など、クラスを1回〜4回ほど受けただけで、効果を感じておられるようです。「家でもやります!」という積極的な言葉もいただきました。また通い始めた方がご親戚やお友達を連れて参加してくださって、喜びの輪が広がっています。
クラスに来られた時は少し緊張されている方も、終わるころにはとてもリラックスされ、目がキラキラとして、まるで別人のよう!?毎回そんな様子を見せていただいて、私はとても幸せだな〜と思うと同時に、ヨーガの素晴らしさを再確認し、もっと多くの人に知ってもらいたいと思うのです。ヨーガは単なる健康法ではないけれど、痛みや悩みが少しでも減るというのは本人にとっては大切なことです。毎日を快活に過ごすことができるというのは、その人の人生にとってとても大きなことだと思います。ヨーガは地道に、長いスパンで続けることが大切で、ライフワークだと教えてもらっています。参加してくださった方がまた来たい、続けたいと思ってくださるように丁寧にクラスをやっていきたいと思っています。

6月からは15分無料体験会とエコマルシェと称して、グルバイの不要になったものを軒先に並べて安く販売、丹波から新鮮なお野菜を持ってきていただいて販売しました。さらに800枚ほどチラシをポスティングし、みんなで協力して、近所の方の目に止まるように工夫をしています。雨や猛暑もあり時期的に難しかったですが、無料体験会に来られた方がクラスにも参加されました。


また6月から
金曜日の夜のヨーガ・瞑想クラス(19:00~20:30)
土曜日の朝の瞑想クラス(10:00~11:30)
バクティサンガム(キールタン)も6/29(14:00~15:30)から始まります。
7月には日曜日の朝のヨーガ・瞑想クラス(第2、第4 10:15~11:45)も始まり、クラスが増えます。アーサナだけでなく、瞑想やキールタン、ヨーガの料理、どのクラスも同じ場所で受けることができ、多角的にヨーガを学ぶことができるのはマハーヨーギー・ミッションの特徴だと思います。

スタジオの魅力は、どのクラスに行っても同じことが学べることだと思います。担当者それぞれに個性はありますが、ベースはヨギさんから学んできたヨーガです。どのクラスに行ってもそのヨーガの真髄が学べます。参加される方が、ヨーガの面白さ、奥深さに触れ、私自身が感じてきたワクワクするような気持ちや希望を持ってくださったらいいなと思っています。誰もの人生にとって必要なことがヨーガの中にあります。それは難しいことではなく、最もシンプルなこと、でも他では誰も教えてくれないことだと思います。クラスの中で一緒に学び、ともに成長していきたい、スタジオ自体がみんなと一緒に成長していけたらと願っています。

クーラーや電気、冷蔵庫、コンロなどが揃いスタジオの中は少しずつ整ってきています。まだまだ完成ではないけれど、スタジオを使いながらみんなで使いやすい形に変化していけたらいいなと思っています。ぜひ遊びにきてくださいね〜!


ロープを外して本当の自分を実現する

3年ほど前、義父が難病と診断されました。 
主治医から、治療方法はなく急に悪化して亡くなる可能性が高いと言われました。 
義父は現役の頃は困難を抱える人たちが安心して暮らせる環境を整えるために働き、引退後は地域の人たちのために様々な活動をしていましたが、それらを他の人に引き継ぎ、闘病生活が始まりました。 

 私は師の教えを支えとして、自分にできることを精一杯やろうと努めました。 

実に善き人の、たとえ悪しき人であっても、死に接するのは寂しいものです。 
私たちの本性が永遠不死であるから、それを知っているからかもしれません。 
病に苦しむ人、死に逝く人に奉仕することは最善です。 
身近なあなた方の家族の場合においてもそのように尽くしなさい。 
食べ物を口に運び、排泄をさせ、体を洗い、床擦れを防ぐため、時折体の向きを変えてあげねばなりません。 

義父が外出が困難になってからは、義父の好物を差し入れ、季節の変化を感じられるように話をしました。毎回義父は嬉しそうで、義父が喜んでくれそうなことを考えるのが夫と私の習慣になりました。 
急変を繰り返す度に義父の体力は低下、苦しそうな時間が増えていきました。定期的に鍼灸治療をしていたこともあり、義父の体が限界に近づいていることを痛感しました。それでも義父の気力は衰えず、一切弱音を吐くことなく力強く生き切り、旅立ちました。
義父の死が現実となり、苦しみから解放されて良かったという思い、よく頑張ってくれたことに対する感謝の思い、もっとできることがあったかもしれないという後悔の念、様々な感情が入り乱れました。 

義父が生まれ育った多摩川流域の景色

そんな中で迎えた義父の葬儀当日。
初七日の法要も併せて行われました。 僧侶の方が読経の前に、お経の意味を説明してくださいました。 

初七日とは、故人が三途の川に辿り着く日。無事に三途の川を渡れるようにと祈るお経を唱えるが、お経の最後に大きな声を出すことに意味がある。
故人が家族など大切な人たちを残したまま逝くことに未練がある場合、それはこの世に対する執着となり、三途の川への旅立ちを妨げることになる。大きな声で喝を入れるように読経することで、故人をこの世へと繋ぎ止めるロープを断ち切り、彼岸、悟りの境地へ向かいやすくする。そして同時に、残された家族も故人への想いに区切りを付けやすくする。 

僧侶の方の話に出てきたロープという言葉は、ヨーガを学ぶ中でも何度も見聞きします。 

ヨーガの目的は、誰もの中にある本当の自分を実現すること。それは仏教でいう悟りの境地へと至ることと同じです。
本当の自分とは、生まれたことも死ぬこともない永遠の存在で、誰もの中にあります。
悟りの境地とは、本当の自分に目覚め、そこに留まることです。 
私たちはこの世という此岸から、悟りの境地である彼岸へと、ボートを漕いで進んでいるような状態にあります。漕ぎ進んでいくためには、まずボートを此岸に繋いでいる「ロープ」を外す必要があります。 

「ロープ」とは無知、煩悩、執着の象徴。 
大切な人とずっと一緒にいたい、この幸せな状態が永遠に続いてほしい、と願うことは、執着にあたります。世界は常に移ろい変化するもの。どんなに大切な人であってもいつかは別れの時が訪れ、どんなに楽しい時間も無限に続くことはない。身体を持って生まれてきた以上、肉体は必ず終わりの時を迎えます。 
肉体があってもなくても「本当の自分」は永遠に変わらず存在し続ける。それこそが真実で、それ以外のものを手放していくことが、「ロープ」を外すということになります。 

義父との別れが辛く悲しいのは、限りある肉体が義父だと思っているから。それは真実ではありません。
生まれることも死ぬこともない本当の自分に向かいボートを漕ぎ進んだ暁には、永遠に自由で純粋そのものの存在として、共に在り続ける。

「善き人であっても悪い人であっても、その死に接すると寂しいと感じるのは、私たちの本性が永遠不死ということを知っているからかもしれない」

今私は、この教えに確かな希望を感じています。 
それは、死に接して寂しいとか悲しいとか感じること自体が、私たち自身の中にある本当の自分が永遠の存在であると知っていることの証明だと思うからです。

いつかこの身体を私と思っている意識がなくなり、永遠の存在と一つになったのなら、外すべきロープもなくなる。それを目指し、ボートを漕ぎ進めたいと思います。

国分寺クラス会場の近くでは毎年蓮の花が咲きます。今年ももうすぐ咲きそうです。

ハルシャニー  

 


ガンディーからキング牧師へと引き継がれた非暴力の精神

キング牧師は、1950~60年代、人種差別が色濃く残るアメリカにおいて、非暴力主義による公民権運動を行い、公民権法成立へと導いた人です。

1963年ワシントン行進の際に演説を行うキング牧師 写真中央

私は夢を持っています。それは私の四人の小さな子供たちが皮膚の色によってではなく、人格の中身によって評価される国にすむことができるようになるだろうという夢です。
(マーティン・ルーサー・キング自伝 日本基督教団出版局 271ページ)

キング牧師の「I Have a Dream」の演説を聞くと、感動して胸が熱くなります。
その言葉は慈愛にあふれています。

キング牧師はインド独立の父、マハトマ・ガンディーのサティヤーグラハ(真実と愛、あるいは非暴力から生まれる力)にインスパイヤされ、政治活動を行いました。そして、1959年にはインドに一カ月滞在し、主要な都市や、ガンディーが活動した地を巡りました。慰霊碑に花を手向け、塩の行進の出発点を訪れ、ガンディーの精神に触れる旅となりました。ガンディーへの尊敬の思いをこのように述べています。

彼(ガンディー)は生存中にエゴ(意識的自我)とイド(本能的自我)の間の深淵に架橋をなしとげていた。ガンディーは驚くべき自己批判能力を持っていた。(中略)
ガンディーは必要な時にはいつでも自己批判をした。間違いを犯した時にはいつでも、公の場で告白した。
(マーティン・ルーサー・キング自伝 日本基督教団出版局 154ページ)

私は、ガンディーの自伝を読んだ時、ガンディーが少年時代、自分が犯してしまった罪を父親に告白し、それを涙ながらに父親が赦し、人を赦す愛を教えられたエピソードにとても感動したことを思い出しました。

そして、私がキング牧師のインド滞在の記録の中で最も驚き、感動したことは、インド最南端の聖地、コモリン岬を訪れた時のエピソードです。キング牧師は、太陽が海に沈み、月が昇る美しい光景を見て、このように述べています。

太陽が完全に視界から去る時、暗闇が大地を飲み込んでしまう。だがその時東にはのぼってくる月の光が最高度に輝いていたのである。私はこれは世界中で最も美しい場所の一つだと言った(中略)
神はあらゆる暗闇を通してかがやくことができる光を、持っておられるのである。われわれには昼間の光が消えて暗い、寂しい真夜中に取り残されてしまうような経験――つまりわれわれの最高の希望が絶望の修羅場にかわるような、あるいは自分が悲劇的な不正義とか恐るべき搾取の犠牲者になるような経験がある。このような時にはわれわれの精神は、憂鬱さとか絶望感に覆われてしまい、どこにも光はないと感じてしまう。だがいつでもわれわれが東をみるならば、そこには暗闇の中に輝く一つの光があることに、気がつくのである。そして「挫折の槍」は「光の矢」に変わるのである。
(マーティン・ルーサー・キング自伝 日本基督教団出版局 153~154ページ)

コモリン岬はスワーミー・ヴィヴェーカーナンダ(スワーミージー)がアメリカへ行くヴィジョンを授かった聖なる場所です。ガンディーはスワーミージーの「ラージャ・ヨーガ」を読み、導きを受けていたそうです。スワーミージーがインドの人々の救済を誓ったコモリン岬で、キング牧師が人種差別撤回への誓いを立てたことは、二人の間に見えない繋がりがあったと感じます。私は、「真理は、時代や場所を超えて伝わる」と思いました。

私もキング牧師が夢見たように、人々が差別や争いをせず、心穏やかに暮らす世界を願っています。そのために、万人に平等に在る真我を実現するヨーガの教えを十分に理解し、次の世代へとそれを伝えていきたいと強く思います。その誓いを実現するため、日々精進してまいります。

レン


瞑想ワークショップ「アートに瞑想しよう!」in 松山市

先日、2日間にわたって開催された愛媛県松山市のヨーガ・サーラ・スタジオでの「アートに瞑想しよう!」は両日共にたくさんの方にご参加いただきました。
まるで美術館のように作品が飾られた空間は、静かで穏やかな雰囲気と作品ひとつひとつから溢れる神聖さで満たされていました。


会の最初に与えられた個人で自由に作品を見て感じる時間は、参加者全員が食い入るように作品に見入る姿がありました。


そして、その後ゴーパーラさんが話された作者であるヨギさんの紹介や作品が描かれたきっかけ、作品にまつわるエピソードには、笑ったり、驚いたり、圧倒されたりしながら、皆が耳を傾けました。


そしていよいよ各自が魅かれた作品の前に座って20分ほど瞑想です。今回、私は『如意輪観音』に瞑想しました。その理由はお姿が師に似ていて、立膝をついている理由が「必要な時すぐに動けるように」と会の中で知ったこと、また私には手が何本もあるように見えて、それは何か知りたいなぁと思ったからでした。瞑想で感じたことは、その手は、すべての人々を救済していました。

如意輪観音 1984年

会の終盤、それぞれの作品に瞑想し、感じたり体験したことを5人の仲間が話してくれました。その内容は聞いている私たちを鼓舞し、気づきを与えてくれる素晴らしいものでした。その中で私にとって印象的だったのは、如意輪観音ではない別の作品について話しているにもかかわらず「救済」という言葉と共に同じように感じた方がいたことでした。それを聞き、ヨギさんのすべての作品は『人々を救済するため』に描かれたと直観し、ヨギさんの偉大な役割と働きを改めて感じ、心が平伏しました。

5人のスピーカーの1人、笹沼さん。「アーディナート(原初の師ーシヴァ)とシャクティ」に瞑想した体験談をお話されました。

今回、思いがけずヨーガに興味を持ち、ワークショップに参加してくださった職場の同僚は、「色が綺麗だなぁ」という理由で瞑想する絵を決めました。瞑想初体験後、帰宅してからの連絡で「肩の力が抜けて、リラックスできた。そのおかげで今直面している出来事に適切な判断ができた」と喜んでいました。そして2日後、職場で会った彼女は晴れやかな表情と共に「自分を縛っていたのは自分だったと気づいた」と自分の中に起こった変化について話してくれました。彼女の感想は、ヨギさんがすべての人を救済しているという事実となって、私の中に大きな歓びを残しました。

ヨギさんが残された真理への道を指し示すものは、アーサナや書籍、アート作品だけにとどまらず、お写真、映像、Tシャツやバック、さまざまな形となっています。もっともっとたくさんの人に届けて、触れていただけますように。もっともっと松山での活動が広がっていきますように。改めて、その活動を支えていこうと誓う機会となりました。
最後に、このワークショップに参加してくださった皆様、企画や準備、運営にかかわってくださったすべての皆様、本当にありがとうございました!

山口正美


バクティ・サンガム始まります!

6/29(日)より、京都にてバクティ・サンガムが始まります!

これまでは、毎年シリーズものを企画して、期間限定で行なってきましたが、もっと皆さまに常にキールタンに触れていただきたい!という思いから、通年のクラスを開講することになりました。

最近少しずつ世間でも知名度がアップしてきた(?!)キールタンですが、キールタンとはインドの神様の名前を何度も繰り返し歌っていくもので、これもヨーガの一つです。神の御名を繰り返すうちに、自分の心も神の神聖さに染められ、次第に純粋なものへと変容していきます。

”神は、本当は自分の内奥におられる”とヨーガでは教えられていますが、キールタンを歌っていると、自分の意志とは無関係に、まさに心の奥底から大きな歓びが沸き上がってくることがあり、それを経験すると、この教えはきっと本当のことなんだろうなあと思わずにはいられません。神の歓びの一端を感じられるという不思議なキールタン、ぜひ体験してみませんか? 

初めての方、ちょっとご興味のある方、一回だけの体験も大歓迎です! 歌の上手下手は関係なし! みんなと一緒に歌うと楽しいです。詳細はこちらまで。

皆さまのご参加を心よりお待ちしています!

ミラバイ


京都 瞑想クラスのご案内

5月19日、京都の千本出水で新スタジオがOpenしました🪷


6月からも新たにそこで3つのクラスがスタートします!

・アーサナクラス 金曜の夜(6/6)
・瞑想クラス(6/14)
・インドの歌 バクティ・サンガム(6/29)

今回のブログでは、私が担当の瞑想クラスについて、ご案内させていただきます。

昨今、瞑想といえばマインドフルネスやヴィパッサナー、座禅のイメージをもたれている方が多いのかなと思いますが、実は古来よりヨーガも瞑想が主軸になります。
王道のヨーガと呼ばれているラージャ・ヨーガは、瞑想で心を集中するための8つの段階が説かれています。
その1つがアーサナ(ヨーガのポーズ)で、アーサナをすることで、背骨が真っ直ぐになり、呼吸も安定し、瞑想に座りやすくなります。
アーサナは決して柔軟性を競うものではなく、座法と訳され、全てのポーズは座るために、つまり瞑想のためにあります。

土曜日(14ー16時)のアーサナクラスの様子

6月から始まる瞑想クラスでは、アーサナを6種類ほどして、瞑想を30分ほど行ないます。
座り慣れるまでは、休憩を挟みながら各自のペースで瞑想します。
また、ヨーガの神秘的で奥深い教え(生理学や哲学・シンボル)についても少しずつ学んでいきます。
アーサナをした後に瞑想するその感触というのは、本当に特別な静けさがあります。
ぜひ、古来より培われてきたヨーガの瞑想のためのメソッドを感じていただけたらと思います!
初心者の方も、瞑想を深めたい方も、どうぞお気軽にご参加ください🕉️

詳細やお申し込みはこちらから💁‍♂️【京都 瞑想クラス】

ゴーパーラ