恒河沙 ― 大都会東京でヨーガに生きる!    

故郷である大阪から家族とともに横浜に転居して3年、その後東京に移り住むこととなり早11年以上が経ちました。
こちらの生活にもすっかり慣れ、東京ライフをエンジョイ!?していますが、それでもいまだに東京の街の大きさや人の多さに圧倒されることがあります。まるで小高い山のようにあちこちにそびえ立つ高層ビル群、どこに行っても街中に溢れ返る人人人…。特に都心に行くと東京が世界有数の人口の多い大都市であることを実感します。

大都会東京

とても大きな数を表す単位に「恒河沙/ごうがしゃ」(10の52乗)というものがあるそうですが、これは仏教の経典に出てくる言葉で「ガンジス河の砂の数くらいたくさん」という意味なのだそうです。東京の人の多さを体感する度に、私はいつもこの「ガンジス河の砂の数」という言葉が頭に浮んできます。と同時に、ここ東京だけではなく世界中には多種多様なたくさんの人が生きているということを改めて思い出します。

以前、仏教の教えで「ガンジス河の砂の数ほどもあるこの世すべての命の中で、人として生を受けるということはそのガンジス河の砂を手ですくったほどであり、たくさんのご縁が重なって成る稀有なことである。さらにそこから親指の爪の上に乗る砂の数ほどの人が、人として生まれてきた本当の大切さに気づき、喜ぶことができる」というようなお話や、「ガンジス河の砂の数ほどの仏さまがいる」という教えがあると聞いたことがあります。
古代インドのリシと呼ばれる聖者や賢者たちは、人として生まれること、そして真実を探し求めること、それを実現することのできる人としての命はとても尊いもので、人として生まれたということは吉祥なことであると教えていると師から教わりました。またヨーガにもこの世のすべてが神の顕れであるという教えがあります。そして、ヨーガを志す者にとって本当の師に巡り合えるということは大変に稀なことであり、得難い宝であると教えられています。

母なるガンジス河

そんなことを思いながら大勢の人々がせわしなく行き交う東京の雑踏の中に立っていると、ガンジス河の砂の数ほどもあるこの世の命の中で、皆一人一人が人として生まれてきた尊い命をもっている人達なんだなぁと感じます。そしてその中の一人である私は、たくさんのご縁によってヨーガと出会い、本当のヨーガの師に巡り合うことができ、師の下でヨーガの道を歩むことを決意しました。

   「それ」は今、ここに在ります。
   「それ」は常にどこにでも在ります。
   「それ」のみが在るのです。
   「それ」が真のあなた自身なのです!
      シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサ

まだまだ道半ばの私ですが、たとえ何処にいたとしても、真実を実現することのできる人として生を受けたこの尊い命を吉祥なものとして生きたいと思います。

シャルミニー


『あるヨギの自叙伝』を読んで(6)ーーラマナ・マハリシーー

約2年ぶりの「『あるヨギの自叙伝』を読んで」のコーナーです‼️

今回は、20世紀インドの覚者ラマナ・マハリシです。

「身体は死滅するが、魂は死によって決して手を触れられることはない。私とは不滅の魂なのだ」

ーーラマナ・マハリシーー

16歳でこの不滅の魂である「本当の私」に目覚めたラマナ・マハリシ。
今年に入り私は、「本当の私」に瞑想を始め、ラマナ・マハリシにすごく惹かれるようになりました。

そこで最近、『あるヨギの自叙伝』にヨーガナンダがラマナ・マハリシのもとを訪ねていたことが書かれていたのを思い出し、読み返してみました。

すると、ラマナ・マハリシについて記されていたのは、写真を含めてわずか1ページ……😅

なぜこんなに短いのだろうと思ったのですが、2人の交流がわずか数時間だったこと、またラマナ・マハリシにはすでに弟子がいたので、ヨーガナンダは詳しい紹介を留めたのかもしれないと思いました。(現に今、ラマナ・マハリシの著作は弟子や信者によって数多く出版されています)

ただ、この1ページの中には、「沈黙の聖者」と称されるラマナ・マハリシとの「言葉ではない交流」が感じられます。

例えば、アーシュラマ(僧院)を訪れたヨーガナンダを暖かく迎えたラマナ・マハリシは、傍にあったヨーガナンダが発刊していた雑誌『イースト・ウエスト』が積まれた山を指差したそうです。
また、ラマナ・マハリシの弟子たちを交えての会話だったため、ラマナ・マハリシ自身はほとんど何も語らなかったようですが、その穏やかな顔は神のような愛と英知に輝いていたそうです。

心の波が静まる「沈黙」が訪れると、その奥に在る不滅の魂「本当の私」から「無限の歓び」が湧いてくると言われています。
たとえ言葉を発さなくても、ラマナ・マハリシのちょっとした行為やその表情から、霊的な交歓がなされていたことが感じられるエピソードです。

そしてヨーガナンダは、ラマナ・マハリシの紹介を最も主要な教えである「私は誰か」で表しています。

スリ・ラマナは、苦悩する人類に、彼らが見失ってしまった〝完全なるもの〟を取り戻させるために、「人はたえず『おのれとは何者か』と自らに問いかけるべきである」と教えている。これこそまさに〝偉大なる問い〟である。これ以外の考えを厳しく排除することによって、人は、真の自己の中にしだいに深く沈潜し、雑念に惑わされないようになるのである。

「おのれとは何者か」、つまり「私は誰か」ーーこれをヨーガナンダは「偉大なる問い」と言っています。
いろんな問いがこの世界には溢れています。
例えば、「仕事とは何か?」「人生とは何か?」
ただ、どんなことを考えるにしても、「仕事をしている私」「この人生を生きている私」というふうに、そこには「私」がいます。
「私のしたい仕事をする」「私がやりたいように人生を生きる」とはよく聞きますが、「では、その私は誰か?」と考える人は本当に稀です。
この主体を考えないこと、これこそ苦悩する人類の盲点であり、その主体である「私」を熟考し、偉大なる「本当の私」を自覚するための問いが、「私は誰か」にあると思います。

今年に入り私自身、「私は誰か」という瞑想を始めていますが、上記のヨーガナンダの一文にそのヒントをいただいた気がしました。
それは「たえず」「それ以外の考えを厳しく排除」というところです。
バクタが神以外のことを思わないように、心にいかなる思いが起こったとしても本当の私に立ち戻る「私は誰か」、その問いを繰り返し繰り返し実践していく、これを徹底していきたいと私自身、強く思いました。

そして今回、『あるヨギの自叙伝』はどんな小さなエピソードや一文からでも真理が学べ、本当に素晴らしい聖典であると改めて実感しました!
まさに真理で埋め尽くされた宝の宝庫です🌝💎

ゴーパーラ


カーリーヤントラ・カラートートバッグ!

トートバッグ カラー

見てください〜。このカラフルなトートバッグ。
マハーヨーギー・ミッションオリジナルのトートバッグに、新たにカラーバージョンができました!!! ぱっと目を引く鮮やかな色合いから、これからの季節に似合いそうな、こっくりとした深みのある色目まで彩り豊か。全17色ほどあります!

実はこれらのバッグ、一点ずつ手染めされているんです〜!
同じ色でも一点ごとに微妙な表情の違いがあるのも、多少の色ムラが出ているのも、手染めならではのいい味わいとなっています。

ミラバイ@@プレーマ・アーシュラマ

ゴールドとシルバーで描かれたカーリーヤントラは、シヴァ(男神)とシャクティ(女神)の合一から宇宙万物が展開するというヨーガ哲学が表されています。
伝統的にも瞑想に用いられてきたシンボルだそうで、シンプルで直線的な形に秘められた真理のエッセンスが感じられます。持ち歩いていると大いなるパワーをもらえそうですね!
ぜひお買い物に、お仕事にと、日々活用していただけたらと思います。

たくさん入る!トートバッグ

たっぷり入るLサイズ。ノートパソコンも余裕で入ります!

バッグは全部で80枚限定なので、ご希望の方はお早めに〜。
詳細・ご注文はこちら

ちなみにカーリーヤントラの半袖Tシャツは完売、レディースのロングTシャツSサイズのみ、赤・黒各1枚あります。小さめなのでお子様にもおすすめです(キッズ150サイズくらい)。ご希望の方はご連絡ください。

ヨーガダンダ、ラームダース

ヨーガダンダさん&ラームダースさん(やっぱり兄弟。似てますね〜)
真夏の暑い最中に黙々と染色してくれました。ありがとうございます!
無心に作業することで、サットヴァ(純粋)になるのを感じたとか。

マードゥリー


永遠の物語 牡牛ー神

最近、『永遠の物語(日本ヴェーダーンタ協会)』の本を読みました。

その中でこんな話がありました。

ある1人のヨーガ行者が人里はなれた森で修行をしていました。1人の牛飼いが、このヨーガ行者が何時間も瞑想や苦行をし、1人で勉強して過ごしているのを毎日見て、何をしているのか興味が湧き、近寄って言いました。

「旦那、神への道を教えてください」このヨーガ行者は非常に学識が深く、偉大な人物でした。「お前がどうやって神を理解できるのかね。お前はただの牛飼いだ。うすのろめ。帰って牛の番でもしていろ」と答えました。男は立ち去りましたが、しばらくすると本当に知りたいという欲求が強くなりました。居てもたってもいられず、またヨーガ行者のところにやって来て、神の教えを請いましたが、また追い返されました。

それでも牛飼いは神について知りたくてたまらず、またヨーガ行者のところに行きました。あまり強引にせがむので、ヨーガ行者は男を黙らせようと、「お前の飼っている群れの中の大きい牡牛のようなものだ。それが神だ。神はそのような大きい牡牛になるのだ」と言いました。

男は牡牛を神と信じ、日夜拝み始めました。その牡牛のために一番緑の濃い草をやり、横で休み、明かりを灯してやり、近くに座り、後を追いました。そのようにして年月がたちました。

ある日、あたかも牡牛から出たような声が聞こえてきました。「私の息子よ、私の息子よ」牛がしゃべっているのかどうなのか、心の悩みを思いめぐらしました。何度か声を聞くうちに、やっと分かりました。声は自らの心の中から聞こえて来たのです。そして神は自分の心の中に居ることを悟りました。最高の教師が説くすばらしい真理が分かったのです。「私はつねに汝とともにある」。まずしい牛飼いは神秘の全容が分かりました。

そこで彼はヨーガ行者のところにまた赴きました。牛飼いは全身神々しい姿に変わり、顔つきにも天国の光の輝きが放たれているかのようでした。ヨーガ行者は思わず立ち上がりました。「何という変わりようだ?どこで見つけたのだ?」「旦那、あなた様がそれをくださいました」「なんだって?私は冗談で言っただけなのに」


牛飼いの、偏見をもたれても2度断られても諦めず、ヨーガ行者に教えを請いに行った心の強さに感服しました。彼の中では、ただ純粋な神への探求心で胸がはち切れそうなのがひしひしと伝わってきました。

そして牛飼いは、方便であるヨーガ行者の言葉をそのまま素直に受け入れて実行し、ついに内なる神に目覚めました。牛は神のシンボルとなっていたのです。純粋に神だけを求めて礼拝する真剣な思いを、ヨーガ行者の思惑とは別のところで神はちゃんと受け止めておられ、ついには恩寵を与えられたのです。

どこにいても、何をしていても、純粋に神に捧げたいという気持ちで日々を過ごしていれば、神はその思いに応えられ、いつか道が開ける時が来るのだと勇気をもらいました。

                                                                                                               アマラー


ある夏の日の出来事

今年の7月は太陽が恋しくなるほど梅雨空が長く続きましたが、8月は太陽のパワーを存分に感じる気候となりました。

私は6、7月の2ヶ月間、職場である治療院の移転作業をしていました。壁を塗ったり、畳からフローリングへ変える施工をしたり、普段はしない力仕事が続いたせいか、あちこちが筋肉痛になり身体が硬くなってしまいました。毎日自宅でのアーサナは続けていたものの、なかなか硬さが取れない状態。でもクラスでみんなと一緒にアーサナすると、次第に硬くなっていた身体がふわふわになる感覚がして、クラスが終わる頃には気分も頭の中もスッキリした状態になるので、これまで以上にクラスのありがたさを感じていました。

治療院に生けられている向日葵

ようやく移転作業が終わり無事に新しい治療院で診療を開始した日は、ちょうどクラスがある日でした。
最後の患者さんの治療を終えたら急にホッとして、眠気とともに身体が重だるくなりました。ああ、早くアーサナがしたい!とクラス会場のある代々木へ向かう電車に乗っていたところ、車内が急にざわめき始めました。乗客同士のトラブルで、男性2人が激しい喧嘩をしていました。他の車両へと移る人、スマホに夢中で無関心の人、車両内の光景に強い緊張感と違和感をおぼえました。ちょうど乗り換えする駅に到着したのでその車両から降りましたが、乗り換えを済ませても心拍数はしばらく上がったままで、自分で思っていた以上に動揺していたことに気付きました。とにかく早くアーサナがしたい!プラーナを調えたい!とすがるような気持ちになっていました。

その後クラス会場に到着し、いつも通りクラスが始まりました。最初のヴリクシャ・アーサナ(立木の形)では思いの外ふらついて、まだ落ち着いてないんだなという思いが頭をよぎりましたが、その思いはすぐに捨て去るようにして、今吐いている息に集中するようにしました。続いてマールジャーラ・アーサナ(猫の形)では、普段はない背骨がきしむような感覚がありましたが、今できる最大限まで形を深めたら、あとは息を吐くことだけに集中しました。シャヴァ・アーサナをする度に身体から緊張感が取れて、眠気と重だるさはすっかりなくなりました。疲れている時にアーサナをすると、これはきついだろうな、とか今日は無理しないようにしよう、という思考がいちいち出てきてしまうことがあったのですが、この時は最初に多少の思いがよぎっただけで、あとはリードの声に導かれながら淡々と形を作り呼吸を深くしていくことをやり続けたような感覚がありました。

8月26日の代々木クラスにて

クラスが終わり家に戻ると、夫に「今日は(移転初日で)大変だっただろうに何でそんなに元気なの?」と言われました。そう言われて初めて、そうか今日は確かに大変だったかも、と人ごとのように思い出したくらいでした。もちろん電車内での出来事の記憶もありましたが、それに対しての印象や思いは消え去っていました。クラスの後でなければ帰ってすぐに夫に一連の出来事を報告していたと思いますが、話そうという思いもありませんでした。

アーサナをすることもクラスに通うことも日常の一部となり、毎回集中して行うようにしていたつもりでも、いつの間にか真剣さが足りない状態になっていたのかもしれません。
今回のクラスに関しては、切羽詰まった状況に陥ったことで真剣さが引っ張り出されたのだと思われます。
このことで思い出したのが、『ヨーガの福音』の中の、神を求める1人の男が聖人の元へ行き「神を悟らせてください!」とお願いをするという話です。
聖人はくる日もくる日も同じ生活をしていましたが、ある日河で沐浴している時に、聖人についてきていた彼の頭を河の中に押さえつけました。彼の苦しみが限界を超えようとしたとき、聖人は手を放して彼に言いました。
「何が欲しかったのか?」
彼は答えました。
「息がしたかったのです!」
聖人は言いました。
「もしおまえが、ちょうど息を求めたように心底から神を求めるなら、神を悟ることができるだろう」

息ができなくなるというのは苦しく、そのまま死に直結するという恐怖もあります。
それが限界を超えようとしたときに、ただ息がしたいとそれだけを求める純粋さと真剣さが生じる。それを日常の中でいかに持ち続けるか。けして容易いことではありませんが、そうしていく必要があります。

人はあっという間にその時々の状況に慣れて、何となく日々を過ごすことができます。
どんな状況下でも流されることなく、何にも惑わされることなく、本当の自分を実現するという目的を達成したい。より純粋に、より真剣に、求め続けたい。
そんなことに気付かされた、夏の出来事でした。

ハルシャニー


仕事の動機は?

面接や履歴書で問われるのは、志望動機。幼い頃も「将来は何になりたい?」と聞かれた。私はずっとなりたいものが見つからず、学校の進路指導では、最後は先生にも諦められた(!)

仕事というのは、人生の中で重要な位置を占めていると思っていた。けれど、ヨーガでは仕事が特別な位置付けではなかった――仕事自体は何でもよく、従事することになった仕事に対してベストを尽くすが、それ以上でもそれ以下でもない、仕事での結果にも執らわれない。それを知った時、目から鱗が落ち、仕事像の呪縛から解き放たれた。

空に向かって真っ直ぐ咲く!

ところで私は最近、転職を考えていた。目の不自由な方に付き添う仕事をしてきたが、情熱が薄れてきていた。しかし、「仕事は何でも構いません」と師もいつもおっしゃっているし、ここから淡々と続けるのも大切に思える。これまで仕事を続ける中で、師はさりげなく私の仕事への思いを尊重され、そして優しく背中を押してくださった。だからこそ迷いながらも続けられてきた。…と、悩んでいた矢先、不意に元日から眼に不調があり仕事をセーブすることになり、調子が元に戻ると次はコロナ禍で仕事ができなくなった。必然的にお金や仕事について、じっと見つめることになった。(お金については前回書かせていただいた→前回ブログ

振り返ると、始めた当初は、私が目になる!役に立ちたい!と思い入れがあり、やりがいも大きかった。いつからか、誰もがそれぞれの立場で人生を歩んでいると知るにつれ、目が不自由ということが単純に不自由とか障害というふうには思えなくなり、最初に抱いていた「困っている人」という見方がなくなった。この仕事の必要性を見いだせなくなり、最近は仕事をする動機がよく分からないまま働いていた。
その状態を何とかしたくて、ヨーガの教えを拠り所に仕事自体の目的を考えていたことがあった。目の不自由な方が求める視覚情報を正しく伝え、自分の体を道具にして道中を安全に案内し、相手がその日の目的を果たせれば、仕事の目的も果たされたことになる。仕事の前には、そう意識し、相手の今日の目的に集中するよう徹していくと問題点は気にならなくなり、どんな仕事も仕事自体の目的を果たすことが仕事なのだと実感する瞬間があった。仕事が存在しているということは、その仕事自身の目的があるから。道理として、目的がない仕事なんて存在しないことになる。だから、この仕事は必要ないのでは?と私が考えるのは愚問だったことが分かった。けれど、情熱は戻らないままだった。

そしてステイホーム期間、生活にさほどお金がかからないと気付いた時、お金を得るための仕事は優先順位が下がっていった。その頃、前回ブログを書き進めていた。
種明かしになってしまうけれど、前回ブログ『何のためのお金?』の中で
「生きていく、それだけをシンプルに考えれば、本当はそんなにたくさんのお金は必要ないのかもしれない」という文章の後、最初は
“そんなにたくさん働く必要もないのかもしれない”
と続けて書いていた。しかし校正してくださった先輩から、この一文に対してコメントが添えられていた。
「働くのは結果的にはお金を得ることが目的になりますが、それだけでなくて、仕事を通じて様々な経験を積むというカルマを果たすためだとも考えられます。生きている限り行為をしなければなりませんし、ではどう働くのかという働き方と働きの目的が大事になってくるのかなと思います」

ハッとした。 ここだけ文章の校正というよりも、私への核心を突かれるヨーガの教え…、働きの目的…、私自身の働きの目的は、はっきりしないままだった。お金、仕事、人生…もう一度それぞれの目的について考え続けた。

そんな時、久しぶりに長時間の仕事があった。内容的にも安全確保に神経を注ぐ仕事だったので、ちゃんと動けるか不安もあった。結論からいえば、私の体が私自身を導いてくれた。口からは必要な情報が勝手に飛び出し、足と手は安全確保をしながら勝手に動いてくれた。不思議だった。こんな感覚は初めてだった。仕事後、妙に静まり返り、私はこの身体を生かさなければいけない、と思った。昔、「自分が人間として生まれたからには、この心と身体を使って生かせることがしたい」と思ったことを突然、思い出した。たしか当時の履歴書にもそう書いた。人生の目標が「悟り」なら仕事もそのためにある、だから働くんだ、ということが実感を伴って繋がった。

仕事帰りによく立ち寄る。いつも季節の花が咲いている。

眼に不調が出た期間、やっぱり困ること不自由なことがあった。それで気付いた。困っている、不自由というのは、ただの事実なだけで良い悪いの次元ではないと。つべこべ考えず、ただあるがままを見よ!と自分の眼から一喝された気がした。仕事にベストを尽くすには、自分の情熱とか、相手が困っている・いないとか感情論は必要なく、あるがままの事実を正しく見ることがまず必要だった。そういえば、事あるごとに意識してきた言葉がある。「一にも二にも観察」 十数年前、福祉職に転職した時にヨーガの先輩から言われた言葉だ。先輩は全く違う仕事をされていた。けれど私はこのアドヴァイスを守ることで、仕事中、幾度も助けられてきた。職種は関係なかった。どれだけ自分を棄てて、対象だけを正しく見れるか? 長年、師の下で学ばれた先輩は私にそう示唆されていたのかもしれない。

どんな仕事にも必ず対象(人やモノ)があり、対象のために仕事を進めていっている。その仕事自身の目的を果たすことが仕事。でも仕事は単なる一つの役割。だからこそ役割ならば、それに徹しなければいけない。もっと目的に集中しなければいけない。この身体に任せて、今の仕事がくるなら無心で働けばいい。「どんな役割にも優劣はなく同等で、できることは心を込めてやっていくということ」と師から教わってきた。
この命が生かされ、身体が動くのは、やっぱり摩訶不思議で、大いなる存在を思わずにはいられない。ヨーガでは、本当の自分はこの体でもなく、この心でもないという。心のざわめきが静まったとき、本当の自分が輝き出るという。

夏の光で輝く花

自分のやりがいも動機も何も要らないじゃないか!と思えた。むしろこれからは、自分自身の個人的動機のない働きを目指したいな。そして、師が仕事に対して贈ってくださった言葉、「真心を込めて、やっていく」を胸に、その時々の与えられた役割に徹したい。それが仕事をする動機だと思う。
今なら進路指導でも、「将来は何になりたい?」の質問でも、堂々と言えそうかな(笑)「なりたいものはヨーギーです」

野口美香


食生活の中にヨーガを

仕事の大半が休みになってしまい自宅で過ごす自粛生活の日々が始まりました。ヨギさん(師)にお会いできない、クラスに参加できない、グルバイ(兄弟姉妹弟子)に会えない、そんな状況の中で自分をヨーガに繋ぎ留めておくためにできることを何とか考えて、毎度の食事を「さまらさの台所」レシピで埋め尽くすことにしました。
スパイスを買い揃え、普段使わないハーブや食材を使うことは新鮮でした。今までの自分の家庭料理にはなかった味が食卓に並ぶことで以前よりも素材の味を味わいながら食事するようになり、味覚が豊かになったように感じました。また以前は“家では揚げ物は作らない主義”だったのですが、当たり前に揚げ物を作るようになり、(家にばかりいるのに)行動範囲が広がったように感じました。
特に好きなメニューは梅ごはんでした。梅としその香りが爽やかで、何よりお米のおいしさを味わえるレシピだと感じました。夏の蒸し暑い、そして突然大雨が降る状況の中で、梅ごはんの香りと塩気が気持ちを落ち着かせてくれると感じました。季節を感じることができるメニューだと思いました。

梅ごはん!

1か月半ほど自粛生活が過ぎた頃、仕事の状況が変化しとても忙しくなり、ゆっくりお料理している時間がなくなりました。そして、忙しい生活の中でもパパっと作れるさまらさレシピや、冷蔵庫の中にある食材だけで作るアレンジレシピが自然と思い浮かぶようになっていることに気づきました。日常の食生活の中にヨーガが現れるようにと頑張らなくても、すでにその流れの中にいることができているような感覚がありました。
ある時、近所のスーパーで以前よく使っていたパスタソースが特売になっていて「まとめ買いしようかな」と思いましたが、出かける直前に思いとどまり、「もしヨギさんにお出しできるお料理なら絶対に出来合いのソースで作った料理は出さない、もっと心を込めて作ったものをお出ししようとするはずだ。ヨギさんの弟子として生きていきたいと願うのなら、ヨギさんにお出しできないと感じる食べ物は極力自分も食べない方がよいのではないか」と思い、買い物をやめました。日常のふとした瞬間にヨギさんの存在が現れて下さることがとてもありがたく、この感覚を決して手放さないようにしようと思いました。

自粛生活が始まったばかりの頃、どうやって自分の心をヨーガに繋ぎ留めていったらよいのだろうかとハラハラしました。もし心がさまよい始めてしまったら、それを自分の力で再びヨーガに戻していける自信がなく、危機感を感じながら「絶対にさまよわないようにしなければならない」と思いました。今、食生活がゆっくり改善され始め、サーダナ(修練)をしている時以外の日常の中でヨギさんの存在を感じる瞬間が以前よりも増えてきたように感じています。たとえヨギさんにお会いできなくてもヨギさんの教えを実践していくことを通してヨギさんと共にいる、その糸口を発見できたように感じています。まだまだ糸口を見ただけなので、これから毎日こつこつと実践し、ヨギさんとシヴァのことを想い続けながら、よりヨーガを深めて自分の中に根づかせていこうと固く決心します。

船勢洋子


ふとした瞬間

夜勤に入る前、いつも時間調整をしている公園があります。その公園のベンチに腰掛けると、目の前には大きな田んぼが、見上げればどこまでも続く大空が拡がっています。

ほっと一息つき、心に空白が生まれるような瞬間。神に思いを馳せると、身体も心も、目の前の景色も、すべて神で満たされるような気持ちになります。田んぼから聞こえてくる蛙の声はオームの振動、電灯や星の光は純粋意識の顕れであるかのような・・・・・・ そんな時、私が憧れる境地を表わしたシュリー・ラーマクリシュナの教えが蘇ってきました。

 

水また水――

上も下も、果てしない水――

人は魚のように楽しげに泳ぐ

 

無限の大海よ、水に極みなく

その中に一つ 瓶が漂う

瓶の外も、中も水――

智者は悟る、これすべてアートマン

 

あぁ、早くこの境地を知りたい!と切に願いました。

瞑想の状態は必ずしも行儀良く座っている時に訪れるものではないと、師は言われます。集中しようという力みが抜けた――ふとした瞬間に、すっと瞑想に入れるのだと思います。だからこそ、何の手応えもなく、何の感触も得られないけど、ひたすら瞑想に座って集中し続けた時間も決して無駄ではないと思うのです。

これからもあきらめず、めげずに瞑想に座っていきたいと思います。

 

ヨーガダンダ


初!バクティ・サンガム オンラインクラス!

7月26日、8月2日、バクティ・サンガムの初オンラインクラスに参加させていただきました!
これまでバクティ・サンガムでは、主にインドの神様や聖者の物語に親しんだり、キールタンを歌うことなどを通してバクティ・ヨーガ(信愛のヨーガ)を学んできたのですが、新型コロナウィルス感染防止の為、3月以降休講となっていました。
が、そのような中でもやはり「バクティ・ヨーガを学びたい!」という要望に応え、講師のミラバイさんとヨーガダンダさんがオンラインで何とかクラスができないだろうかと試行錯誤をしながら何度もテストを繰り返して、やっと今回、初めての試みであるオンラインでのバクティ・サンガムが開催されることとなりました!ミラバイさん、ヨーガダンダさん、ありがとうございます!

第一回目の今回は「クリシュナ神の物語1(生誕から少年期)」。
最初に初めての方でも分かりやすいようバクティ・ヨーガについてのお話があり、続いて“バクティ名作劇場”と題し、クリシュナ神話を紹介して下さいました。画面には、ちょうど今回の物語の場面が描かれている美しいミニアチュール(インド細密画)が映し出され、講師のお二人がクリシュナ神の生誕から少年期までの物語を語ってくれました。幼いクリシュナが人の子として村の暮らしの中で両親に愛されながら成長していくお話は、様々な教えを含みながらもとても身近に感じられるお話ばかりです。そして、お二人のプロ顔負け!?の迫真のセリフとナレーションがとても楽しくて、笑ったり感動したりすっかり童心にかえって絵と物語に引き込まれました!

ミニアチュールの美しい色彩や絵の細かい部分まできれいに見えました。講師のお二人はソーシャルディスタンスを保ちながら…熱演です!

そしてキールタンですが、オンラインでは皆で一緒に歌ったり音楽を演奏するとタイムラグが発生して音がずれてしまうため、残念ながらみんなで声を合わせ歌うことが出来ません。歌と演奏をされる講師のお二人のマイクのみをオンにして、参加者はミュートにして歌いました。最初は一体どんな感じになるのだろうと思っていたのですが、実際に歌ってみると他の参加者の方々の歌っている様子や笑顔が画面いっぱいに広がり、共に神の御名を歌う歓びを分かち合っている感じが伝わってきて、とても嬉しくなりました!

また、オンラインクラスならではの嬉しい発見がもう一つありました。全国どこからでも参加できるので、なかなかお会いする機会がない遠方の方や初めてお会いする方と一緒に参加することができて、これは通常クラスではできなかったことだなぁと思いました。

長い間会えていない懐かしいヨーガの仲間たち。初めてお会いする方も。神への想いや歓びは距離や場所なんて関係ない!すべてを軽々と飛び超えて共鳴することができる!そう感じました。

お話の中で、ミラバイさんがクリシュナ神話のエピソードの一つを取り上げて「人は知的に神を理解しようとするけれど、それはできないこと。けれども神を愛する者に対しては、神はその恩寵をもって捉えさせてくれるという教えが含まれている」と説明して下さいました。
バクティ・ヨーガは五感すべてを使って神を愛し近づいていく、とてもダイナミックなヨーガだといわれます。そして神への近づき方は一つではないともいわれます。私は神様の物語が大好きなのですが、「神様ってよく分からない」「神を愛するってどういうこと?」と感じている方も、神を遠い存在としてではなく、クリシュナの物語のようにすぐ身近な存在として、まずは神に親しみを持つことからはじめてみるといいかもしれないなぁと思いました。
オンラインでの新しいバクティ・サンガム。次回はどうなっていくのでしょうか、楽しみです!

シャルミニー


さまらさの台所 WEBクラス一回目の報告

こんにちは、梅雨明けして暑い夏が始まりましたね。さまらさの台所では、7月に初めてのWEBクラスを開催しました。クラスは、2部構成になっていて、まず調理の動画を視聴していただき、一度家で調理してもらった後、別日にzoomを使ったオンラインクラスに参加してもらいます。オンラインクラスでは、小グループでお互いに感想を言い合ったり、質問をしたり、ヨーガの教えを紹介したりという内容です。実際に会うことが難しい昨今ですが、WEBクラスということで、遠方からの参加者もあり、久々の再会(オンライン上ですが)をみんなで喜びました!

さて、1回目のWEBクラスを終えて、参加してくださった深水さんから感想をいただきましたのでご紹介します。深水さん、ありがとうございました!!

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 長年料理に親しまれてきたであろうベテランの女性をして「今まで敬遠していた」と言わしめる『揚げもの』。初心者の男子には少々ハードルが高く、手を出すには神の思召しが必須でしたが、さまらさの台所WEBクラス開講という思召しを賜った私は、結果、一か月弱の間に5回ほど夏野菜を素揚げすることになりました。

 要点を分かりやすく伝える洗練された動画の力か、それとも講師のお二人の何とも言えないまったりとしたやりとりに催眠効果でもあったのか、動画を見終わった直後には「南蛮漬けなら俺にまかせろ」といわんばかりの出来る感に満たされており、意気揚々と調理に臨むことができました。

 しかしいざやってみると、初めて切ったかぼちゃの皮の硬さ然り、高温の油の中で弾け回るみょうがとのソーシャルディスタンス然り、なかなか思うようにはいきません。食材を油から上げるタイミングも、編集された動画内では比較的分かりやすいように感じたのですが、実地ではその変化に気付きにくく、「……ん? ちょっと長くね?」という心の指摘で慌ててすくい上げるといったこともしばしばでした。

 調理に手間取っている間に割り増した空腹感や、初心者の分際で『揚げもの』を作り遂げたという達成感などで、大概のものは美味しく感じたであろう状態だったことを差っ引いても、料理の出来はなかなかだったように思います。

 その後、WEB会議通話システムを利用したオンラインクラスで、他の参加者の話を聞きながら振り返る機会もいただきました。みなさん動画にあったことだけでなく、「トマトでもやってみた」「にんじんをフライドポテト型に切ってみた」などなど、それぞれに工夫なさっている様子がうかがえて、いろいろ勉強になりました。

 また昨今の状況下での実践の様子や、なかなか会えない師への思い、また先輩方の昔のエピソードなども聞かせていただきました。現代の通信技術を介して受ける刺激や学びに、状況に応じて形を変えながらも、なお変わらぬサンガの導きを実感します。

 今回さまらさの台所を受講してみて、長年ヨーガの実践を重ねてこられた方々が作った動画をとおして、改めてヨーガの普遍性を感じました。ミッションの動画でも、過去の映像を編集したものやクラスの様子を録画したものを見たことはありましたし、それはそれでどれも素晴らしいものばかりでしたが、考えてみれば、動画を作る目的で一から作成されたものは初めて見たような気がします。

 一緒にオンラインクラスを受講した方が「今回の動画を見てたら、サットヴァなプラーナを感じて、思わず掃除した」とおっしゃっていましたが、それほどの動画を完成させる根底に長年のヨーガの実践があると思うと、あらゆる仕事を深化させるヨーガの普遍性を感じずにはいられません。見ると作りたくなる料理動画は数あれど、見ると掃除したくなる料理動画などそうはないでしょう。神動画。

 今回の受講を経て、今学んでいるヨーガに対する信頼が一層増したとともに、サットヴァな食との縁を深めていただいたことに感謝いたします。ありがとうございました。

 

 深水晋治