日常のヨーガ」カテゴリーアーカイブ

人を見るとき

 

京都は祇園祭の最中ですが梅雨が終わったかのように毎日猛暑日が続いていますね。
熱中症にご注意を!!さて、クラスの報告が続きましたが、久しぶりに日常(仕事)の中で良い気づきを与えてもらった真理の教えをご紹介します。

(私は介護の仕事をしています)
先日のこと、支援に入っている方(精神障害のある方)は調子が悪かったのですが、ご自身では自覚がなく、出かけたい!と言われるので、お供しました。途中、道端で何度もバッタンバッタンと倒れられました。時々あるので、ゆっくり休みながら行きと帰りをお供しました。家に帰ってからは、精神状態がさらに悪くなったようで、幻覚が見えたり、幻聴によって外に飛び出しそうになったりと、いろいろありました。本人も自分自身の行動が手に負えないようで、時々正気に戻ったように「アーーーしんどい・・・」と言われます。でもまた幻覚や幻聴の方に引き寄せられていく・・・・私もどうしたものかと悩みましたが、とにかく彼女の安全だけは確保しようと努めました。

家に帰って見つけた真理の教えを読み、改めて感じることがありました。

「いろんな人にはいろんな事情や状況があると思いますけれど、そういうことを無視して、ただその人の存在と命だけを見つめるようにすればよろしい」(シュリーマハーヨーギー)

病気と、存在と命とは全く別物だということ。私はそれだけを見つめて仕事に励めばいい。
この世の中には本当にいろんな人がいるけれど、ただその人の命だけを見つめるよにすればいいのだなと思いました。


ヨーガの秘訣・北海道編 神は私を待っておられる!

シュリー・マハーヨーギーの弟子には、遠方に住んでいて、容易に師に会えない方もいます。京都に住む弟子たちは、直伝クラスに通ったり、サットサンガなどで、よく師にお会いすることができますし、ブログでもご紹介させていただいているように、昨年からは台湾や松山、京都など各地で特別サットサンガも開催していますが、それでもなかなか会えない人はどのようにヨーガへの思いを高め、日々実践していけばいいのでしょう。

それについて、遠く北海道に住んでおられる三井さんが、ご自身の思いと日々の実践について投稿してくださいました。北海道から京都まで容易く来られませんから、三井さんはブログやパラマハンサに掲載される師のお言葉を何回も読まれているそうです。そして、年に一度ヨギさんに会いに来られた時の三井さんの、実に濃密な師との交流シーンが目に焼き付いている方も多いと思いますが、この記事を読むと、物理的な距離や回数ではないということが実証されているように感じます。


まだヨーガに出会っていない頃、よく見る夢がありました。
夢の中で私は、とっても大事なことをしていないことに気づき、これをちゃんと覚えておいて毎日やらなきゃ!と決意するのですが、目覚めた時には、その大事なことが何だったのか全く思い出せないのです。
私は何か、とても大事なことをしていない・・・・・。
そこで、今までよりも注意深く意識しながら生活してみることにしました。大事なことをしていないはずなのに、日々の生活は何の支障もなく過ぎていきました。そしてまた同じ夢を見るという繰り返し。

私は一体何をしていないのだろう?

ヨギさんの下に導かれ、ヨーガを学び、毎日アーサナと瞑想をするようにな ってから、あの夢を見ることはなくなりました。
毎日続けるに値する確かなものを得て、心はようやく安堵しました。私の魂は、ヨーガを渇望していたのだと思います。
ご飯を食べたり、お風呂に入ったり、歯を磨いたりするのと同じようにアーサナと瞑想も当たり前の習慣になり、何をしていても時間になれば2階の修行部屋へ向かいます。階段を上りながら思うことはただ一つ。

「神は私を待っておられる。もっともっと深い瞑想を捧げよう!」

どんなに離れていても、どんなに会えなくても、心から尊敬できる師と、同じ志を持つ仲間に巡り会えたことは大きな喜びです。
京都に伺い、ヨギさんにお会いした時に伝わってくる神聖なバイブレーションや、慈愛 に溢れた眼差しや、とろけるような笑顔や、ぬくもりのある声は、言葉や文章ではとても伝えられず、実際に味わってみなければ決してわからないことです。
そして、謙虚で穏やかで親切なお弟子さんたちに接すると、頭が下がる思いになります。ヨギさんの教えが深く浸透し、ヨギさんの存在が心にも身体にも染み渡っていると感じます。ヨギさんのお側にいるということは、こういうことかと思わずにはいられません。
ヨギさんのお側でグルバイと一緒にヨーガを学べたらどんなにいいだろうと思う時、頭に浮かぶのはパラマハンサ・ヨガナンダの『あるヨギの自叙伝』の中の一節です。

私はカラ・パトリに、彼の放浪生活について尋ねてみた。
「あなたは冬でも、ほかに着物を着ないのですか」
「着ません。これで充分です」
「あなたは本をお持ちですか」
「いいえ、ひとに物を尋ねられたときは、記憶の中から答えます」
「ほかにはどんなことをなさいますか」
「ガンジス河のほとりを散歩します」
この淡々たる答えを聞いたとき、私の心に、彼の素朴な生活に対するあこがれが強く湧いてきた。私は、アメリカと自分に負わされた重い責任の数々を思い起こした。『いけない!ヨガナンダ』私は一瞬さびしく自分に言いきかせた。『この生涯では、ガンジス河の散歩はお前には許されていないのだ』

この生涯では、ヨギさんのお側でグルバイと一緒にヨーガを学ぶことは私には許されていない・・・・・。
パラマハンサ・ヨガナンダの崇高な使命とは比較にならないとわかっていても、そんなことを考えて寂しくなる時、私を励まし力づけてくれるのは、機関誌『パラマハンサ』に掲載されているサーナンダさんの文章です。

インドの山奥で瞑想行に勤しむヨーギーたちも、社会において多忙な仕事に勤しむ世俗人も、等しく神の思し召しによってその境遇が与えられている。私たちを神の御下に導くための道筋がその境遇にある。
今ある状況は、カルマが要請したものであると同時に、カルマを果たすためにはなくてはならないものであると理解できる。
自分の前にやってくる状況は、すべて神が私たちに与えられる素晴らしい導きなのかもしれない。
肝要なことは、現状に不満を言わず、知足し、淡々とヨーガを実践していくことである。
私たちの真剣なヨーガの実践は必ず神に届き、神はそれを見て慈悲深くもヨーガの道を歩むに必要な熱意と力を与えて下さる。これは真実である。

振り返ってみれば私はずっと、本当のことだけが知りたいと願い、探し求め、これも違う、これも違う・・・と彷徨っていました。もう探し回らなくていいと思うと、深い安心感に包まれます。
お導きくださったヨギさんには、感謝の気持ちでいっぱいです。

サーナンダさんは、「私たちには、戻ることのない長い旅路の覚悟が必要です。」と書いておられます。途中下車することなく最終目的地だけを目指し、風景を楽しみながら長い旅を続けていこうと思っています。

三井


ヨーガはライフワーク

シュリー・マハーヨーギーは昨日台湾からご帰国されました!初めての師の台湾ご訪問でしたが、実にたくさんの道を求める台湾の人々が真実の師に巡り会えたことに歓喜し、師の存在と教えに魅了され、ヨーガの道に一歩足を踏み出そうとしているようです!彼の地に新しいたくさんの仲間が増えることを、心から嬉しく思いますし、これからが本当に楽しみですね!師との吉祥な縁によってヨーガが一層台湾に根付いていくことでしょう!すぐにブログでもご紹介できればと思います。

そして、師は今週末は松山での特別サットサンガに向かわれます。松山ヨーガ・サークルにて、5月20日(土)14:00〜16:00、5月21日(日)14:00〜16:00の2回行なわれます。とても貴重な機会ですので、皆さん、ぜひご参加ください!

さて、その松山に17年前に師と共に初めて訪問した際、師から「ヨーガはライフワークです」と言われたことを鮮明に覚えています。実はその時はよくわからなかったのですが、最近はその意味を実感します。今日はそのことについて書いてみたいと思います。

ライフワークとは、生涯をかけて成し遂げる仕事という意味です。畢生(ひっせい)の事業です。師はヨーガを成そうとすることは大事業だと言われます。

この社会のどんな事業も人の心が欲して成し遂げられ、人々に影響を与えますが、その心そのものを浄化し、人間を完成させるヨーガは、時を越えて多くの人々に恩恵をもたらす大事業になるということです。ブッダが成し遂げられたことは2500年経った今なお人々に恩恵をもたらし続けています。

それに気づいたのは、ナーグ・マハーシャヤというシュリー・ラーマクリシュナの直弟子の生涯を記した伝記『謙虚な心』を読んでいる時でした。ナーグ・マハーシャヤの生涯は、神への信仰とはどういうものなのか、そして謙虚さとはどういうことなのかを、人々に伝えるために捧げられたものだと思いました。神への純粋な信仰に生き切ったナーグ・マハーシャヤの生涯は、不滅の力をもって、私たちに真理を伝える力を持っています。その力は衰えることなく、未来に渡って道を求める多くの人間の魂を呼び起こし、心を変容させる力を持ちます。


ナーグ・マハーシャヤ

誰でもが、神への信仰や謙虚さを語ることはできるし、パートタイム的に行動することもできるけれど、その本当の意味は、生涯をかけて生きることで初めて伝えられることなのだと思いました。思いや言葉、行動の全てが100%それになって初めて、存在そのものが純粋な信仰となり、謙虚さそのものとなり得るのでしょう。それは生涯を捧げることによってしか成し遂げられないことなのだと思いました。それまではどれほど言葉巧みに語ろうと、単なる戯言に過ぎないのかもしれません。

ナーグ・マハーシャヤの生涯は、どこまでも神の僕であり、謙虚さが人の姿をとって顕れた存在だったのです。何の説明がなくとも、人は彼に会っただけでそれを感じざるを得なかったのです。

聖者と呼ばれる方々の生涯は、まさに真理の中に、神の中に生きた生涯であり、その尊い足跡は、永遠に輝き続けるのだろうと思います。ヨーガとはそのようなものであり、ライフワークとして、生涯をかけてやり遂げる理想と志を持つことがとても大切なことだと思いました。

サーナンダ


アーサナを始める時期

今日「みなさん毎日アーサナされていますか?」とクラスで聞いたとき、みなさん、視線をそらされ、苦笑いされていました……。あら!?それはどういうことですかね?では、そんなみなさんに朗報です!

「ヨーガの修行は春かまたは秋に始めるべし。この季節にはヨーガは苦労なしに成功するといわれている」(ゲーランダ・サンヒター5−15)

春や秋は気候が穏やかでアーサナを始めるのに苦労がいりません。(夏は暑くて血管が膨張し、冬は寒くて体が硬く、やりにくいことがあります)
また、春や秋から始めることで過酷な季節を乗り切る準備ができます。

毎日するのは難しいこともありますが、特に私は疲れている日は必ずするようにしています。
なぜなら、翌朝、起きた時の感覚が全然違うからです。疲れがたまってくると、寝るだけでは疲れが取れず、布団から出るのがしんどい時はありませんか?私も疲れている日は、今すぐに布団に入って寝たいと思うこともあります。でも、そんな時こそアーサナを2つ〜3つ(気分が乗れば4つ5つ)とするようにしています。そうすると、先ほども書きましたが、起きた時、完全に体は回復し、疲れが取れているのです。

もう1ついいことがあります。寝たいというのは生理現象ですので、その気持ちをストップして、別のことをするにはかなり意志の力がいります。でもそれをしていくことで自分の心をコントロールする力を付けることができます。それは日常の中でとても役に立ちます。

疲れていてもちゃんとアーサナした!と思うと、気持ちもすっきり、爽快感があり、思いを残していないのでぐっすり寝られるのだと思います。

さて、良いことずくめのアーサナですので、ぜひこの時期から始めてみてください。
ちなみに私は、最近アドヴァンスのアーサナに挑戦中です。まだ全然できませんが、なぜか最近朝の5時にぱっちりと目が開いてしまいます 😯 恐るべし!アーサナ!!!


コツを持たないコツ

春から担当が変わり新しい方の支援に入っています(私はヘルパーの仕事をしています)

私の事務所は身体に障害がある方の支援を主に担当していているのですが、今回新しく入ることになった方は知的に障害があり、精神的にも少し不安定なところがあります。私もですが、事務所としてもあまり経験がない仕事内容です。

先日、その方を担当しているヘルパー同士で集まり、支援の情報交換をしました。みなまだ慣れず、それぞれに不安と悩みがありました。

私も担当してわずかですので、その方を理解しているとは到底言えないのですが、比較的上手く支援に入っていると思われているようで(私はそうは思わないのですが……)「何か支援のコツはありますか?」と聞かれました。いろいろと考えたあげく出てきたのは「分かりません……」という言葉でした。

本当に分からなかったのです。なぜなら、その方の様子は支援の度に違います。気分も体調ももちろん違うのです。ある時はイライラしている。ある時はとても親しげにくっついてこられる。一日に何度も機嫌が変わることもあります。そのどれをとっても、私が原因なのかどうかは分かりません。私が支援に入る前に何か良いことがあったのかもしれないし、何か嫌なことがあったのかもしれない、そのような条件の中から人のことを断定することはとてもできないと思ったからです。

毎回変わることに対して支援の側だけが「このようにすれば上手く入れる」というひとつのコツを出すことはできないと思い、思わず正直に言ってしまった言葉が「分かりません」でした。

でもそれではあまりにもいい加減だな〜と思い、終わってからまた考えていました。それで出た答えは「こちら側の心を空っぽにしておくこと」(心に一物もないようにしておくこと)でした。ころころ変わる心に対応するには、こちらの心を空っぽにして、相手がどういう態度に出てもそれに順応して対応できるようにしておくことかなと思いました。

コツというのは時として断定的なもので、コツを作るとそれに縛られてしまうこともあります。コツを持たないことがコツということもあると思いました。

今のところそれ以外にコツはないなと思ったのですが、「今のところ」ではなく、これは本当はどんな仕事のコツでもあるのではないかと思いました。

新しい仕事に就くと、慣れるまでいろいろ大変ですが、このように新鮮な気付きをいただくこともあり、とても感謝しています。


ヨーガの秘訣・大阪編 ヨーガの宝物!

多くの方が、仕事や家事、育児、あるいは介護に忙しい毎日を送っている中で、どのようにヨーガを実践していけばいいのか、悩む時があります。忙しい日々に追われ、ヨーガや理想を忘れてしまうことすらあるかもしれません。
大阪でプレーマヨーガサークルを運営するニルマラーが自らの経験を寄せてくれました。


グルバイ…真理を求めて同じ師のもとに辿り着いた仲間(兄弟姉妹弟子)、その存在がどれほど私を支えてくれているか。昨年度はその存在の大きさを特に実感する1年だった。

この春から、任される仕事の内容が増えたり、子どもの進学があったりと忙しさは続いているが、昨年度は特に、日常生活において次から次へとやらなければいけないことがきて、本当に慌ただしい日々だった。内容は家事・育児・仕事、文字にするとたったこれだけなのに。
目の前にやってきた仕事に対して、感情に振り回されずに淡々と、しかしそれがより良くなるよう誠意をもって一所懸命行う。ヨーガで学んだ仕事に対する姿勢をもって一つ一つのことに向き合うようにしていても、許容量の少ない私は、時々糸が切れたかのように「もう無理!」と叫びだしたくなることが何度もあった。自分の不甲斐なさに涙が出ることもあった。
それはヨーガの実践にも及んだ。1日の終わりにはもうクタクタで、アーサナも瞑想もせずに気づいたら眠っていたという日も多かったし、何より神への思いを忘れてしまいそうになっている自分に失望したこともあった。
しかし、雑多な日常生活の大波にのみ込まれそうになるたび、ヨギさんが使者を送ってくださっているかのように、先輩グルバイとの交わりの機会が与えられた。
プレーマヨーガサークルの活動を通してだったり、御聖誕祭の祝辞を書くということだったり、様々な形で普段はなかなかお会いできないグルバイの皆さんとお話をする機会に恵まれた。
そこでいただいた言葉の数々、それらが私にとってはヨギさんからの叱咤激励のように感じられた。

ある時は、ミラバイさんが「もし神を忘れてしまったと思える時でも、神はあなたを忘れることはない」というヨギさんの言葉を教えてくださり、あまりにタイムリーな言葉に驚き、瞬時に涙腺が崩壊した。
ミラバイさんが教えてくだるキールタンもまた、忙しい日々の中でいつでもどこでも実践できることとして、私の生活には欠かせないものになっている。
初めて歌ったのは確か10年ほど前だったと思う。神の御名を唱える、そのシンプルな行為によって、彷徨っていた心があっという間に神のもとへと戻っていく。生活をまわすだけで精一杯な時、とにかくキールタンを歌うことでなんとかヨーガと繋がってきた。

また、NYのアーナンダマーリーさんからご連絡をいただいたこともあった。
御聖誕祭での祝辞に、NYやクロアチアのグルバイの方が共感してくださっているという内容だった。そのことを聞いて私の方が励まされた。何より、1年前はご挨拶するだけでもすごく緊張していた大好きなアーナンダマーリーさんとメールのやり取りをするだけで、神聖なバイブレーションが伝わってくるようだった。
週に1回行なっているプレーマヨーガサークルも、グルバイと交わる貴重な時間だ。お互いがそれぞれ忙しくなっても、この活動だけは大切にしている。
それはヨギさんが与えてくださった大きなプレゼントなのだと感じているから。

そう、グルバイの方々はそこから発せられる言葉はもちろん、その存在の中にヨギさんを見ることができるのだ。だからその在り方に触れることで、こちらを奮い立たせてくれたり、神聖なものへと思いを馳せるきっかけになったりと良い刺激を与えてくださるのだろう。それが、ヨーガを実践し続けていく大きな力になっている。

世間の大波の中にあっても、神だけを見て歩んでいけますように。
神への思いが溢れ出て止まらない、そんなグルバイの一人となれますように。

ニルマラー


大切にしている言葉

「一枚の草の葉よりも謙虚で、木のように忍耐強く、逆風に耐えるものであれ。人から名誉を受けることを拒み、すべての人を心から敬うものであれ。主の御名を絶えず唱えよ」

今日で8年努めてきた利用者さん宅での仕事が一旦終了しました。(私はヘルパーの仕事をしています)8年間、多い時で週に2日は一緒に夕食を食べ、並んで寝て、朝の時間を過ごしてきました。お昼勤務の時は車いすを押していろいろなところへ行きました。旅行にも行きました。考えてみるとお互い半分は家族のような存在になっていたように思います。

若い頃、障碍者自立運動をしていた彼女はヘルパーにとても厳しい人で、勤務が始まって何年かはよく怒られました。でもそれによってヘルパーとしてのあり方を教えてもらったように思います。教えられた数々のことにより、私がこれまでヘルパーとして仕事を続けてこられたといっても良いと思います。

さて、冒頭に書いた詩は中世の聖者、シュリー・チャイタニヤが残した詩の一節です。
いろいろなことがあった8年間でしたが、心に葛藤が起こるたび、思い起こされた一節です。
実際、このようであることを強く望まれる現場であり、このようでなくては耐えられないような現場でもありました。でも今では、どのような現場でも、どのような仕事でも、常にこのようにあれば良いのだと理解できます。その理解はまだ頭の理解なので、常にそうあるようにトライし続けているという状態です。

初めて読んだ時は、到底できるものではないと拒否反応すらありましたが、少しずつ、少しずつ心に浸透させていくことで、今ではこの世界の中に生きる上で、心の苦しみから逃れる唯一の手だてだと感じています。担当する現場が変わっても、同じ思いで仕事を続けていこうと思っています。


京都・春の瞑想1日ワークショップ

瞑想専科
京都瞑想専科の風景。キャンパスプラザ京都の和室は都会の中の落ち着いた空間です。

始めの頃は5分と座るのが苦痛だったのに、いつの間にか、10分、15分、30分と座れていくものですね。不思議な事です。

眠くなることも、雑念に終止することもなく、心は落ち着きを取り戻し、集中していきます。

毎日の積み重ねです。

ヨーガの精密な心のカラクリや神秘的な生理学、人間らしい生き方や理想についての教えも、最初はよくわからなかったものが、だんだんと慣れていって、わかってくるのも不思議な事です。

10月から始まった京都瞑想専科第1期は、今週3月30日に終わります。半年間共に学ぶと、気が通い合うようになることも不思議な事です。

でも、不思議な事ですが、普通の事のようにも思います。習うより慣れろですね。

第2期は、「日常を変えていく」をテーマに、日常生活の中での様々な疑問や課題を通して、瞑想を深め、心と行動を調えていく内容にしていきたいと思います。生活=生きるというところに、瞑想の秘訣があるように感じます。命の働きを知るということでしょうか。

心が変われば日常が変わり、生命の神秘を感じるようになっていくのだから、何とも不思議な事です。

4月23日には、瞑想1日ワークショップがあります。気軽に瞑想を体験してみましょう!

サーナンダ


ヨーガの秘訣・大阪編・・・ヴィヴェーカーナンダの詩

めっちゃ忙しい人がどうやって日常でヨーガを行なっていくのか。
その実践的秘訣を、大阪で家事に仕事に忙しくしながら、プレーマヨーガサークルをされているスディーティが寄稿してくれました。


この数年、私の周囲は何だか忙しい。それは、今までの生活を突然大きく変える必要に迫られるようなことでもあり、一般的に言えば「次から次へと大変やね~」みたいな状況でした。実際、もし自分がヨーガに出会っていなければ、いちいち大パニックになって悲劇のヒロイン気取りになっていたかもしれません。
そう、その時、確かに私はヨーギニーとして、やってくる出来事を淡々と受け止め、その時最善と思われる方針を決め、一つひとつ行動に移していったのです。すると、色々と困難なことが起こっているとは思えないほどスムーズに事が運び、「は~、ヨーガのお陰やわ。私も結構成長してるやん~!」といい気になっていました。

しかし!出来事を受け止めて方針を決めるのと、実際に一つひとつ実践していくのは大違いなのです。「ちょっと~!わかってたけど、やってみたらめっちゃ大変や~ん」なのです。まず時間がない、家族は色々と問題を起こしてくれる、慣れない仕事では自分の無能さに改めて気づかされる、毎日へとへとになって1日を終えることで精一杯と感じていました。いつも何となくイライラして不機嫌で、アーシュラマでヨギさんにお会いできる時だけがすべてを忘れ満たされている時間でした。ヨギさんは、いつも私たちと一緒にいると言ってくださっているし、それが真実だと分かってはいるけれど、その時の私はそれを感じることができず、「余裕がないんです!もう目いっぱいなんです!」と叫び出したくなるときが度々ありました。

それでも私がヨーガから離れてしまわずに済んだのは、一つには〝プレーマヨーガサークル〟があったからです。私には、サークルに来られる方にヨギさんのお言葉を間違いなくお伝えする責任があったし、何よりそこには仲間がいました。心おきなくヨーガの話ができる仲間との時間は、私にとって大きな支えとなりました。元々は一人でも多くの人の助けになるためにヨーガをお伝えしなくては!という思いで始めたサークルでしたが、助けられているのは私のほうだったのです。

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プレーマヨーガサークルでのバクティ・サンガムの様子

もう一つには、グルバイである先輩ヨーギー・ヨーギニーの存在がありました。先輩たちに私の状態を話すことはなかったし、頻繁にお会いできるわけではなかったけれど、知ってか知らずか、いつも少しの会話の中に〝はっと〟させられることが何度もありました。また、何も会話をすることがなくても、直接お会いするわけではなくても、その在り方を見るだけで心がリセットされまた新たな気持ちでやり直そうと思わせてくれる存在でもありました。

そして、上の二つの理由にも増して大きな一つが、師であるヨギさんの存在です。
私は、ヨギさんにお会いして弟子にしていただいて以来、ただひたすらヨギさんの喜ばれる様子が見たくて熱心にヨーガに取り組んできました。ヨギさんが最も喜ばれること、それは私たちが〝本当の自分に目覚める〟こと。そのために、ヨギさんが私に言われたことは「常に神を思う」ということです。それは私にとっては本当に進みやすい道で、いつも胸の奥のヨギさんを基準に物事を決断し、歩んできました。ヨギさんの弟子であるということは、私はヨギさんのものであるということだと思いました。ヨギさんのものである私の面倒はすべてヨギさんが見てくださっているのだから、何がやってこようとそれは私にとって必要なことだし、そのことについて私は何一つ余計なことを考える必要なんてない。ただその時その時最善を尽くせばよい。その考えは私を強くし、目の前で起きる出来事に振り回されることなく進んでくることができたのです。それがどうでしょう!ここ数年、押し寄せてくる出来事に踏ん張りがきかず、たった一つのことさえままならなくなっていたのです。それは本当に苦しい時間でした。ヨギさんにお会いしたい!と思う反面、今の自分ではヨギさんを喜ばせることができない……という思いが湧いてきて、お会いすることをためらう自分がありました。

そんな悶々とした時間を過ごしていたある頃、私にとって大きな出来事が起こりました。それは、私がヨギさんのものとして相応しく生きているかどうかを問われるような出来事でした。その時も、私が自分自身の行く末を心配する気持ちは少しも起きなかったのですが、その問題を起こした人に対してどう対応すればよいか、その対処の仕方を間違えてしまえばその人の今後に大きな影響を与えるかもしれない、という思いもあり本当にどうしていいかわからず途方に暮れました。最初は腹立ちや悲しみのような感情もあり、数日間そのことが頭から離れず、「ヨギさんのものとして相応しくあれますように」と祈りながら、必死でヨギさんに問いかけ、すがり、答えを待っていました。

すると2日後、急に「みんな苦しんでいるんだ」という思いがやってきました。それと同時に、ヨギさんならこの人たちの暗闇に光を投げかけてあげることができるのに、私はヨギさんの弟子でありながらこんなに近くにいる人たちを助けてあげることもできないんだ!という事実に気づかされたのです。それは言い換えれば、一刻も早く苦しんでいるこの人たちのために、私はヨギさんと一つにならなければならない、ということなのです。一刻の猶予もない!という焦りを感じ、自分のことを情けないと思っている時間さえないのだと思いました。
そうして改めて気づいたことは、ヨギさんは「〝常に〟神を思いなさい」と言われたということ。〝常に〟はあくまで〝常に〟であって、〝できる範囲で〟とか〝都合の良いときだけ〟ではないのです。そうして振り返ると、今までの自分は熱心に実践しているようでいて、隙だらけだということにも改めて気づいたのです。もっと隙なく、もっと注意深く、もっとやれる……と。

それ以後も私の状況は特に変わることなく、むしろ叫びだしたくなっていた頃より忙しくなり、周囲の人たちも相変わらず問題を起こしてはくれますが、それらのことは以前のように私を苦しめる力を失ったようです。そんなことよりも、私は周囲の人たちの苦しみを取り除くために、一刻も早くヨギさんと一つになり、ヨギさんを愛するように、ヨギさんが私たちを愛してくださるように、この人たちを愛したいのです。

われ汝について何も知らず
知れるはただ われ汝を愛すということのみ
汝は美し おぉ 汝は美し!
汝は美そのものなり

おぉ 愛しき者
汝の唇のひとつのくちづけよ!
汝のくちづけを受けし者は
汝を慕う心 とこしえにいやまさん!
すべての悲しみは消え
来し方
今 行く末を忘れて ただ汝のみを思う

誰が救いを願わん
誰が救わるることを願わん
解脱をも誰が願わん
われ富を欲せず 健康さえも欲せず
われ美しからんとも 賢からんとも願わず
数多度(あまたたび)生まれさせ給え
この世の諸々の悪の只中に
われつぶやくことなからん
ただわれをして汝を愛させ給え
愛のための愛もて

スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ
『愛の叡智』より

この詩は、5年ほど前にミラバイさんがスワーミー・ヴィヴェーカーナンダの美しい写真と共にカードにしてくださったものです。それ以来、毎日仕事に出かける前にこの詩を唱えています。最初はその美しい詩を唱えることで心を静めようとしたのか、集中させるために行なっていたのか、はっきりと覚えてはいないのですが、いつの頃からかこの詩は私の生きる理想になっていました。「どうか、こうして外から内に向かってこの詩を唱えるのではなく、止めようとしても内から溢れ出す私の言葉となりますように!」と。
そして、今、また新たに強く決意するのです。それを遠くない未来に必ず実現するのだと。

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スディーティ


松山ヨーガ・サークル 瞑想特別クラス7回シリーズ

3月20日は春分の日でしたね!松山ヨーガ・サークルのアーナンディーです。

松山ヨーガ・サークルでの瞑想特別クラスも3年目を迎え、今年はヨーギーの生き方に学ぶ7回シリーズが2月から始まり、3月18日に2回目がありました。講師はサーナンダさんです。
今回は34名(男8名、女26名、初参加5名)の方が参加されました!
サーナンダさんが「来週は春分の日ですね。昼と夜のバランスがとれているので瞑想しやすい季節です。この頃からヨーガを始めると成就するといわれています」と優しく柔らかい声で話された時、まるで会場に春が呼び込まれたように一気に和やかな雰囲気になり参加者の皆さんが希望で胸が満たされたのが伝わってくるようでした。

瞑想 (1)
おさらいで瞑想の基本を教わり皆で10分ほど座ります。

瞑想のあと、いよいよ本日のテーマ「無執着の生き方」の本題に入っていきます。
全部ご紹介したくてムズムズするほど本当に面白い内容だったので長くなってすみません!
要点としては
1、 ヨーガの極意は執らわれないこと
2、 無執着の秘訣
3、 ヨーギーの日常
という流れでヨーギーの生き方をわかりやすく紹介してくださいました。

最初の導入としてサーナンダさんは十八番のシュークリームを事例に話されました。
「たとえばシュークリームに執着するということは自分がシュークリームの奴隷になっているようなもの。そんな人生、嫌ですよね(笑)しかもたとえばカスタードクリーム系にこだわりがあるとします。するとカスタードクリーム系シュークリームしか食べられなくなる!不自由だと思いませんか?美味しいスイーツがたくさんあるのに、それしか食べられないなんて。なぜ、それにこだわるかというと、たいしたきっかけではないんですね。たとえば好きな人が生クリームとカスタードクリームのダブルシュークリームが好きって言ったらすぐに変わるでしょ?(皆爆笑)そうやって心って変わっていく。こだわりがある方がかっこいいと思いがちですが、心がこれが美味しいと幻想のように執らわれているんです。執らわれ=不自由です。でもヨーギーは執らわれがないから、空っぽで自由自在。何でもできるし何もしないでもいられる。シュークリームを趣味や仕事や考え方、生き方などに置き換えてみればいいのですが、いずれにしても執らわれが自分を不自由にしているのかもしれません。
では、意見や志は必要ないのかというと、自分の意見や志は大いにもつべき。ただ、こだわらないだけです。そうすると違う意見や志も尊重することができる。自分の意見も大事にするけれど、他の人の意見も大切にできる」

サーナンダさんはさらに、よくある日常的な事例として、嫉妬、卑屈、思い込み、過去の記憶など心を乱すものがどのような執らわれによって起こるのか、そしてヨーギーのあり方はどうなのかをひとつひとつ話されました。
最初はシュークリームの事例で他人事のように大笑いしていた皆さんもだんだん、ああ、こんなにも執らわれていたのかと気付かされ、次第に真剣な質問がたくさん続き、サーナンダさんの明快なお答えに唸ったり、考え込んだりしました。

私がとても印象に残ったのはサーナンダさんの次の言葉です。

「無執着の別名は無一物(むいちもつ)です。腹の中に一物もない。腹=心のこと。先ほどの嫉妬などの事例は腹に一物があるということですね。いろんなものが何にもなくなった時が無一物です」そして終盤に話された次の言葉です!「空っぽじゃないといけない世界があるんです。一物をもっていると真理にたどりつけない。物にしても考えにしても、悩みにしても、何かに執らわれていては見失ってしまう。真理は無限の喜びといわれます。ハートに無限の喜びがある人は何にも執らわれないのでしょう」

このように誰もがヨーギーの生き方に理想を抱き、憧れをもって近づけるように励ましてくださいました。参加者の皆さんの声を少しご紹介します。

  • 心のあり方としての無執着について事例をあげていただき、より具体的に理解できた。そもそも条件付きで物事をみてそこに価値を見ていた。真理に沿った心のあり方、無執着に向かってサットヴァ(軽快)になっていきたい。
  • 自分自身、レッテルを貼る。感想を持つ。違いに執らわれる・・・すべて当てはまり茫然自失。でもブッダの憂いを離れた境地に瞑想するというのを今日初めてやってみたところ少しだけ感じられた気がして心地よかった。

サットサンガ
翌日のサットサンガも大変充実した時間で「理想を明確にするには?」「謙虚について」「依存から抜け出したい」など実践に基づいた熱意のある質問ばかりでした。
土曜日の講座と関係する質問でサーナンダさんのお答えで印象的だったものをひとつだけ紹介します。昨日の講座を聞いて、違いに執らわれないということは何となくわかるが、実際なかなか思うようにいかず、いつも執らわれてしまい、全然変わらない。どうすればいいのかという真剣な質問者の問いに対して、サーナンダさんは少し考えられ、次のように話されました。

「本当にカルマの力って強いんです。ヨーガを始めた最初の頃や、聖者にお会いした時、大きな衝撃を心が受けてカルマの力が弱まるということが起こります。やっていけそうな気がします。でも放っておくとカルマの力がまた盛り返してくるかもしれない。心が円柱だとしたら、日常で顕在している心は円柱の上の部分だけですが、心の大部分は潜在下にあると言われています。1回や2回教えを聞いて頭では理解できても、それは表層部分の話で、心は潜在下では全然納得しておらず、カルマの影響を受け続けているかもしれません。少しばかり瞑想しても、心全体をすぐさま変えることは難しいのです。だから繰り返し繰り返し理解を育んで実践して体得していく必要があります。しかしそれでも、潜在下ではカルマの掃除が進んでいるんですよ。それが自覚できるほど表層に変化が表れるには少し時間がかかります。
今はまだ変化していないように感じるかもしれませんが、実践していけば、いつの間にか執らわれはなくなっていきます」

サーナンダさんの謙虚さと誠実さを感じた濃密な2日間。そこには常に師であるヨギさんを見倣う姿がありました。
そして敬愛するヨギさん、さらに熱意を込めて実践を続けることで感謝に代えさせていただきたいです!いつも本当にありがとうございます。

アーナンディー