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心の立て直し方

ゴールデンウィークも終わり、普段の生活が戻ってきました。私事ですが、長い休み中は子供の習い事の行事があったり、親戚が泊まりに来たり、ときどき仕事に行ったりと充実した日々を過ごしていました。

しかしながら主婦(夫)は平日も休日も忙しいですね。つい「疲れた〜」と口にして、もう何にもしたくない!動きたくない!と思ったりすることもあります。そんな時、何時からか心掛けるようになったことがあります。それは「心の主張と真逆のことをする」です。

なぜそういうふうにしようと思ったのかな〜?と考えてみると、それは日々のアーサナを通して感じてきたことだと思います。きついポーズの中で味わう苦痛を無視して、愛おしい神、または呼吸に心を向けていく。毎回それを繰り返すことでいつの間にか苦痛だったポーズが心地良いものへと変容していく・・・。

日常も同じ。もう何もしたくない!と心が苦痛を訴えた時こそ、洗濯物を干す、食事作りに取り組むなど、家でのやるべきことに意識して集中するようにすると、「疲れた」という思いがいつの間にか消え満たされた気持ちになっているのです。

つくづく心の主張ほどいい加減なものはないな〜と思います。そういう経験を何度も何度も繰り返していくうちに、以前より心の扱いが上手くなったよう気がします(ウシのように寝そべっていることもありますが・・・苦笑)。

ちょっとしたことなのですが、こうして毎日心を立て直す機会を与えてもらえて有り難いなあ・・・と思います。ちなみに昨日の夕食はさまらさレシピより、我が家みんなのお気に入りスパイス入りコロッケを作りました美味しかった!

さあ、本日も頑張っていきましょう!

                                                                                                                                                            アマラー


ラーマクリシュナの導き

私はヨギになり、愛という山の洞窟に住もう。

至福の泉のそばで、ヨーガに没入しよう。

真理という果実によって知識の飢えを満たそう。

離欲という花を添えて、神の御足を礼拝しよう。

わが魂なる水瓶に平安という水を引き入れよう。

あなたの、蓮華の御足の栄光に満ちた

甘露水を飲んで、歓喜のあまり

笑って踊って泣いて歌おう。

 

これは『ラーマクリシュナの福音』の中で歌われる歌の歌詞です。これを聞いたラーマクリシュナは、「あぁ、なんとよい歌だろう」ととても喜ばれます。私もこの歌の最後の部分が特に好きです。

「あなたの、蓮華の御足の栄光に満ちた甘露水を飲んで、歓喜のあまり、笑って踊って泣いて歌おう」まるで、先日行われた祝祭を象徴しているかのように感じ、当日の歓びが蘇ってきます。

先日の祝祭では(祝祭の内容はこちら)祝辞をさせていただきました。私は『ラーマクリシュナの福音』が好きで、よく読んでいたこともあり、福音を通してラーマクリシュナの霊性と息吹を話すことになっていました。そして、その場に参加しているみんなが福音の世界に入っていければ…という目標もありました。

祝辞の原稿は歓びをもって割と早い段階で仕上げることができました。出来上がってから当日までも福音を読みながら過ごしていました。でもある日、心の中に浮かんだ思いがありました「こんな祝辞の内容でいいのかな……」

『ラーマクリシュナの福音』は直弟子であるマヘンドラナート・グプタが1882年2月にラーマクリシュナに初めて会ったその日の記録から始まり、ラーマクリシュナが亡くなる1886年8月16日まで、弟子や信者を導くために説いた教えの記録が詳細に残されています。教えはもちろん、信者との会話、日常の様子まで書かれており150年前の記録ですが、その細やかな描写により親近感を持って聖者に接することができる、真理を求めるものにとって、いや、人類にとって宝のような福音です。

そのようなものについて、いったい私が何を言えるでしょうか……急に我に返り、恐れと不安が心を占領しました。もう一度祝辞を読み返してみても、なんと稚拙な文章、とても個人的な内容、これでは普遍的なラーマクリシュナの福音について話をするというような段階ではないように感じ、ネガティブな思いでいっぱいになりました。当日まであと10日、書き直すべきかどうか悩みましたが、焦りもあり、書き直すことができるのかどうかも分からないような状態でした。

日に日に近づく祝祭、どうしよう…という思いが膨らんできた時、突然ラーマクリシュナの教えが胸に飛び込んできました。

「神がしている神の仕事 人は私がするという」

木葉一枚でも神のご意思がなければ落ちることはできない、全ては神がなされていること、神が使い手、人は単なる道具、ラーマクリシュナは常々こう教えられます。
教えが心に染み渡るにつれて不安や恐れは薄れ、消えていきました。そして安堵と歓びが心を満たしました。私に必要なことは、良い道具となるようにラーマクリシュナを愛していくことだけで、恐れを持ったり、不安から祝辞の内容を書き直したり、言葉を変えたりすることではないと分かりました。それからは、「未熟な祝辞ではありますが、どうかあなたへの愛と感謝を捧げることができますように」と祈り、ただただラーマクリシュナを見つめて当時を楽しみに待つことができたのでした。

いつでも、どんなときでも、時間と空間を超えて、常に導いてくださっていることに心から感謝しています。

 

サティヤー


神だけを見つめて! <ラーマクリシュナの導き>

桜の花が美しく咲き始め、鳥たちが喜びをさえずり、大地が春の喜びを身にまとっています!もうすぐ春の大祭サナータナ・ダルマ アヴァターラ メーラー(4/7)です!

マハーヨーギー・ミッション主催の今年の春の祝祭では、大聖者シュリー・ラーマクリシュナの存在と導きに心から感謝を捧げ、サナータナ・ダルマを歩む吉祥な生を受けたことを喜び、お祝いします。

ラーマクリシュナといえばキールタンを歌われるシーンが『ラーマクリシュナの福音』の中でもたびたび登場しますが、私たちの周りでも日常でキールタンに親しまれている方が増えてきました。今回、松山で熱心にヨーガをされている山口正美さんがご自身の日常の実践について寄稿してくださいましたので、ご紹介したいと思います。


ヨーガを始めた頃のことですが、ヨーガをやっていこうという決意だけはあったのですが、聖典を読んでも意味がわからない、アーサナも瞑想も続かず、空回りを続けていました。そんな私が唯一興味があったのは「神」でした。思い切って師にお聞きしました。

―私は、神だけしかわかりません。それだけで、いいでしょうか。

「それだけでいい」

―聖典も読めません。聖典の勉強はしなくていいでしょうか。

「しなくていい」

―本当にいいんですか。

「あのね。登り口は人それぞれ違って、いっぱいあるんだよ。いつか、それもわかる時が来る」

それから数年が経ち、やっと「もう、私には神しかいない」という思いになってきました。ところが、そうは思いながらも、日常で神を忘れている自分につくづく嫌気がさし、少しでも「神に近づきたい」と歌い始めたのがキールタンです。

最初は、心が世間のことでおしゃべりをはじめたら、強制的に神の御名を唱えて、神に必死でしがみついていました。 それから毎日、いつでもどこでも、心の中で、声に出して、キールタンを歌って生活してきました。いつからか、神の御名は胸の奥から湧き上がるようになり、最近では、自然の中に神を感じてそれを讃えて歌うこともあります。二年近くたった今、あんなに強かった心がどんなに主張してもキールタンを歌えば、瞬く間に退散してしまうほど、神の御名が、私の日常の支えになっています。

私の憧れの聖者シュリー・ラーマクリシュナは、

「神のみが実在、他のすべては非実在である」

と教えられます。それは、師の教え

「真理、神のみが唯一のリアリティー、それ以外は幻」

と合わさって、私にとって片時も忘れられない大切な教えになっています。 幻なんかいらない、リアリティーだけが、神だけが私の求めるものだ!幾多の輪廻転生の中で感じてきたカルマを生きる虚しさから抜け出したい心の叫びかもしれません。また、本当の生きる目的を見つけた喜びかもしれません。それほどの衝動となって、私を神へと向かわせます。

神を、神だけを見て、神だけを求めて、神だけを信じ、愛し、神の道具となっているラーマクリシュナの姿は、私にとってバクティ・ヨーガの教えそのものです。師のサットサンガに通うように、『ラーマクリシュナの福音』を開いてラーマクリシュナのもとに通って、そこにある息吹を感じています。 これからも師とラーマクリシュナのもとに通い、学んでいきたいと思います。

山口さんのキールタンの原点となった細密画。MYMオリジナルカレンダーより。

山口正美


ラーマクリシュナの直弟子―トゥリヤーナンダに導かれて

先週末の日本列島に寒気が訪れた2月9日(土)、師シュリー・マハーヨーギーはNYご布教のためご不在でしたが、たくさんの熱心な弟子たちがマハーヨーギー・アーシュラマに集まり、弟子たちによるサットサンガが行なわれました。

2月9日の弟子たちによるサットサンガ

この日は、19世紀の大聖者シュリー・ラーマクリシュナ・パラマハンサの直弟子たちに焦点を当て、4人のスピーカーがそれぞれの理想とする直弟子のエピソードや教えを紹介しながら、自分自身の実践と理想について熱く語り、皆で思いを高めていきました。

今回そのうちの一人である、野口美香さんのお話を、追記抜粋編集してご紹介したいと思います。本当に寒気を吹き飛ばすかのような迫力のある熱を感じるお話でした。


私はトゥリヤーナンダの強い信念と、神への信仰心、師への信仰心に憧れています。

トゥリヤーナンダは、すべての行為を母なる神への礼拝としなさい、母を思いなさい、ということを強調されています。生涯師の教えに従って、母なる神を思い生きていかれました。そしてご自身が実践してきたからこそ、人々にも常に母を思いなさい、母だけを頼りなさい、行為を母への礼拝としなさいというふうに伝えていかれました。

スワーミー・トゥリヤーナンダ

どのようにすれば自分の生活の中の行為を、トゥリヤーナンダのようにできるのでしょうか。花も虫も、動物も人もすべてを同じように本当の意味で大切にしていけるようになりたい!と私は思うのです。

トゥリヤーナンダの生涯が書かれている『神を求めて』の本の中で、とても印象に残っているシーンがあります。

トゥリヤーナンダが、ベルル僧院に住んでいた時、若い修行僧たちを訓練するために、常に一緒にご自分自らが、いろんな仕事をこなしていかれていました。
ある時、調理できるように処理されなければならないたくさんの野菜があったので、見習い僧たちと一緒にその仕事をされます。その仕事の途中で、朝食を知らせるベルが鳴りました。もう少しで仕事が終わるから、この仕事が終わってから朝食を摂ろうとトゥリヤーナンダは言われます。そして仕事が終わってから、食堂へ行くと食べ物は何も残っていませんでした。普通は、後から来る者たちの分はとっておかれることになっています。
それで、トゥリヤーナンダは係りの見習い僧に、「われわれの食事はどこにあるか?」と尋ねます。その見習い僧は、「皆さんにとっておいた分は、プレマーナンダが不意に来た信者に上げてしまわれました」と答えます。プレマーナンダも、ラーマクリシュナの直弟子である方です。
トゥリヤーナンダは、「なぜそれが私たちの分であることをプレマーナンダに話さなかったのか」と尋ねると、
見習い僧は「どうして、私が非常に偉いスワミにそんなことが申し上げられましょう」と言います。
トゥリヤーナンダは、「なぜできないのか。もし君が彼を本当に愛しているのなら、彼が知らないことを知らせてあげることをなぜ躊躇するのだ。愛している者に向かっては、何でも話すことができるはずだ。人を愛する時、どうしてそこに恐れなどがあり得よう」と言いました。

このエピソードを初めて読んだ時、本当にそうだと思いました。トゥリヤーナンダの一点の曇りもない、真っ正直な言葉が自分の中に広がっていきました。見習い僧のとった行動が自分の傾向と似ているように思え、「なぜできないのか?」というそのトゥリヤーナンダの言葉に、私自身の問題に対しても、「なぜできないのか?」と考えさせられ、この言葉が胸に突き刺さりました。

このエピソードがずっと私の心に刻まれていて、こういう場面に自分が出くわすと、この教えが自然に浮かび、力を与えてくれるようになりました。

もし自分の役割に徹するならば、その食事は後から来る人たちのために取ってあることを伝える必要があったし、そこに何の計らいも必要ありません。相手がどういう立場の人であっても、遠慮したり、気付いているけれどしない、というのは、どこかに自分を守ろうとしている弱さがあるからです。誠実とは真逆のことになります。そんな行為は、神に捧げられないと思います。

トゥリヤーナンダは、「礼拝の精神で行なわれる仕事は、現代に相応しいたった一つの霊性の修行である。すべてを母なる神への礼拝として、母に捧げなさい、そしてただ誠実であれ」というふうに言われています。
誠実であるためには、些細なことですが、自分の弱さや余計な計らいがたとえあったとしても、それに気付いたなら、すぐさま無視して、自分の中の真理への信念を貫くという強い意志が必要になるのだと思います。
毎日の中の小さな仕事を礼拝として行なうためには、その些細な矛盾をなくしていかないといけないと思っています。自分に与えられた役割に全注意力を向けて、少しの計らいも入らないほど集中する訓練を繰り返ししていこうと思います。
トゥリヤーナンダがラーマクリシュナの教えに従って信仰を貫いて生きていかれたように、私も師であるヨギさんからいただいた教えを貫いて生きていきたいです!!!

今の私に最も響くトゥリヤーナンダの言葉を紹介します。トゥリヤーナンダはこの言葉をたびたび繰り返されたそうです。

あなた自身であれ、強くあれ。悟りは強く、純粋で、真っ正直な者だけに与えられる。自分はアートマン(真の自己)である、ということを忘れるな。このことはあなたに最大の力と勇気を与える。勇敢であれ。マーヤー(無知)の束縛を断ち切れ。ライオンのようであれ。何事にあってもびくびくするな!スワミジ―(スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ)はあなたに、あらゆる魂は内に神性をひそませている、と教えたであろう。自己の神性を悟れ。そのときにあなたは、すべての魂は神である、ということを悟るであろう

野口美香

サットサンガにて話をする野口さん。


如何なる場合にも平気で生きる

私が介護の仕事で訪問している方は、病気で体を一ミリも自分で動かすことができません。動くのは、目と口が少しだけ。口が動いても、言葉は話すことはできません。生きるために必要な食事や排泄は、人の手を借りてされ、もっとも生きる上で必要な呼吸は、呼吸器を使ってされています。でも彼は、少しだけ動く口を使って(あと特殊な機械を使って)パソコンで仕事をされ、驚くほど精力的に生きておられます。リフトを使って車椅子に移動され、それに乗って、どこまでも出かけて行かれます。(もちろん家族やヘルパーと一緒に)毎月の予定を見ていると、講演や会議、飲み会?などとても忙しそうです。

先日支援に入っていた時、今度テレビの撮影のためにカメラマンが来ると教えてもらいました。特殊な病気の方なので、これまでにもテレビや新聞に出られたことはあるのですが、今度の企画は、病気や介護がメインではなく、もっと違う角度から彼の生活を撮影したいということでした。メインテーマは、ちょっと意外なのですが、正岡子規。子規は23歳で結核になり、徐々に進行し、死に至るまでの2年間は疾病と患部による苦痛のため、ほとんど動くことのできない重度障害者になったようです。しかし、動けない体になってからも、口述により精力的に執筆活動を続けたそうです。そして、結核という不治の病に冒され、限られた生活空間の中で(六尺、1.8m四方の部屋の中だけにいたようです)あることを悟ったそうです。

「悟りとは、如何なる場合にも平気で生きている事である」

このような言葉を残されていることに衝撃を受けました。私など、ちょっとした思い通りにならないことで悩んだりすることがあるのに、一ミリも体が動かないような状態で生きておられる方がこのように考えておられていたとは!!なんとかっこいい!!

正岡子規が不自由な体になっても執筆活動を続けたように、私の利用者さんも同じような境遇でも充実した生活をされていることが、今回の撮影対象になったのでしょう。尋ねたことはないですが、私の利用者さんも少なからず、正岡子規が感じたようなことを感じておられるのかもしれません。本当は想像にも及ばないほどの、肉体の制限や苦痛の中で生きておられると思いますが、それを感じさせない、その生き様に改めて尊敬の念が湧きました。足元にも及びませんが、私も如何なる場合にも平気で生きていけるようになりたいと強く思いました。

通勤でいつも見る景色、冬の鴨川

 


日常が真剣勝負!

アーサナや瞑想は練習問題のようなもので、日常こそが真剣勝負だと師は教えられます。

今回、師の直伝クラスやサットサンガにも熱心に通われ、真剣にヨーガに励んでおられる藤原さんが、ご自身の体験を寄稿してくださいましたので、ご紹介したいと思います。


昨年末のサットサンガで、ヨギさんに識別についてお聞きすると、エゴに気づいたら、それが出てくる前に忍耐して制御していくように。そして、他者にはやさしく行為するようにと教えてくださいました。

ところが、年明け早々に久しぶりに夫と大喧嘩をしてしまいました。
その引き金を引いたのも、この喧嘩を招いたのも“私は正しい”というエゴ的な思いから生まれた日常の私の言動だったのです。私は今まで一体何をしてきたんだろう…と何もかもが崩れ去っていくように感じ激しく動揺しました。
その一方で、いつもと変わらず動じることもなくその様子を見ていた息子は、私の肩をやさしく撫でてそっと寄り添ってくれました。その姿にヨギさんを見たように感じました。

その時にやっと私は、ヨギさんから授かったこの教えが、自分にとってどれほど必要なことなのかを思い知るに至りました。
私はヨーガを学び実践が大切だと日常を過ごしていたつもりでした。そして、少しずつですがその日常に良い変化も感じていました。でも、いつの間にかその結果に執らわれてしまい、自分のエゴに気づかずにいたことに気づきました。

この激しい動揺をしずめてもう一度やり直さないといけないと思いました。
ヨギさんのようにいつも変わらず同じで在りたい。その為には、徹底的にエゴをなくしていかないといけない!

以前、クラスでラーマクリシュナが教えられている6匹のワニのお話があったことを思い出しました。
人の心にある怒り、嫌悪、色欲、欺き、高慢、羨望という6つの欲情をワニに、心を池に例えて、池に棲んでいる6匹のワニが時々出てきて心をざわつかせるというお話でした。
何事も自分の思いどおりにはならない、諸行無常、カルマの法則、この世の中の道理を正しく理解して、このようなネガティブな感情が湧いた時には、エゴが思いどおりにしようとして暴れているのだから、即座にその反対のポジティブな思いを起こすのがいい。怒りには寛容を、嫌悪には愛を、色欲には清浄を、欺きには誠実を、高慢には謙虚を、羨望には賞賛を。そして、その時のポイントは、条件付きではなく、いついかなる時も、誰にでも無条件に行なうことだと教えてくださっていました。

これからも何度も何度も心に言い聞かせ、忍耐強くエゴとの真剣勝負に挑み続けたいと思います。

藤原 里美

MAMA YOGA lilāは、篠山市、丹波市で活動しているヨーガのサークルです。藤原さんがアーサナをリードしています。下、写真右端が藤原さん。


善と悪を超える

ある時のこと、どうしても解り合えない人がいました。その人から物理的に離れたいと思い、師であるヨギさんにご相談すると、仏みたいな人なんてこの世に滅多にいないんだから、と諭されました。

ヨギさんからそう言われて、改めて考えてみれば、善と悪は人それぞれの経験や価値観によって変わってくるような、とてもあやふやなものです。自分の心を見てみると、小さな経験の範囲でその人を評価し、解り合えない、相手が悪いと決めつけていたことに気が付きました。そして、そのことに集中していると、自分のこだわりがパンッと弾けて消え、とても清々しい気分になって、これで完全に物差しが消えたと思いました。

でもまた最近、同じ思いが湧いてきたのです。解り合えないと思っていたその人が、自分に対して苛ついて怒っているように感じて、やっぱりこの人と付き合っていくのは無理なんじゃないかと思いました。

この世界は自分の心のフィルターを通して見ている世界であることは、ずっと教えてもらっているし、すべては神であることを恩寵によって少しは垣間見せて頂いてもきました。だから自分の意思で居場所を変えることは神のご意志に反すると思って今までやってきたのですが、今回のことは、別の環境に身を移してもいいというメッセージなのではないかと考えました。

それからは環境を変えることを思案し続け、神のメッセージ通りに動いているつもりでいたのですが、苦しみは一向に消えません。何か間違っている気がして、落ち着かない日が続きました。あまりにもしんどいので、この問題はひとまず置いて、絶えず神を思うようにしていきました。

すると、私に怒っていたその人が嘘みたいにニコニコするようになりました。あまりの変化に諸行無常を思うとともに、神のメッセージだと思っていたことは、自分の問題から目を背けて都合の良いように解釈していたのだということに気が付きました。

自分の物差しで相変わらず人を評価する習慣がまだある、だから心が動揺する。原因は自分の中にあり、それに心が反応しているだけなのだと、やっと冷静になれました。

自分のもつ原因がなくなれば、どこにいようと誰といようと円満で楽しい時間が過ごせるはず。もういい加減、こんな茶番劇は終わりにしたいです。神への思いをもっと強くして、今ある環境の中で、これからもやっていこうと思います。

amara


ラーマクリシュナがうたわれたキールタン 至福のお酒

さて、年末のシーズンになり、忘年会などお酒を飲む機会が増えてくる時期ですね。そこで今回は「ラーマクリシュナの福音」に出てくる詩のなかで、お酒にまつわるものをご紹介します。

私は並の酒は飲まない
永遠の至福の酒を飲む
母カーリーの御名を繰り返しながら。
それは私の心を深く酔わせるので
人々は私が酔っ払ったと思う。
まずグルがその酒をつくるための糖蜜をくださる。
わが渇仰の心は、それ酒を変容させる酵母。
知識という作り手が、私のために酒を醸す。
酒ができたとき、私の心はそれを
マントラというびんから飲む。
それを浄めるために母の御名をとなえながら。
この酒を飲め、とラームプラサードは言う、
そうすれば人生の四つの果実はお前のもの

私はお酒を飲むことが割と好きなので、これまでの人生でそれなりにお酒を飲んできたと思いますが、この詩に出会ったとき、私が飲みたかったのは、この「永遠の至福の酒」だ!!!とはっきりと分かりました。そして、私はもう並の酒は飲みたくない!と思ったのでした。

ではその永遠の至福の酒はどうしたら飲めるのか!?それをつくる方法が詩の中に書かれています。まず、グルがその酒をつくるための原料となる糖蜜をくださるのです。糖蜜とはサトウキビの絞りかすで、お酒の原料になるもの、日本酒ならお米のことです。まずはグルの恩寵が必要なのですね。そして、お酒作りに酵母が必要なように神への渇仰の心、信仰心は欠かせないものです。そして作り手として、真理の知識(真知)が醸造してくれるのです。

あーそのようなお酒を心が飲むとき、どれほどに甘美なのでしょうか!!この詩を読むたび、私は永遠にその至福のお酒に酔いしれたいと思うのです。最後に書かれてある四つの果実は、ダルマ(正義)アルタ(富)カーマ(欲望の達成)モクシャ(解脱)のことを指します、憧れは増すばかりです。

さて、収穫が秋のお米を原料に作る日本酒は、冬に仕込むことが多いようです。それは雑菌が少なく温度調整がしやすいためと言われています。ぜひ仕込みやすいこの寒い時期に、みなさんも永遠の至福の酒を仕込んではいかがでしょうか。


夏休みの思い出〜神と一つになる〜

ある時、師であるヨギさんがもっと神と一つになるようにと私におっしゃられたことがありました。神と一つになる、か・・・・・・と考えていた時、インドの大聖者シュリー・ラーマクシュナが弟子であるヴィヴェーカーナンダに授けた次のような教えが心に留まりました。

「愛のネクター(甘露)がビンの中に入っているとしたら、お前はどのように楽しもうと思うか」とおたずねになり、ナレーンドラは「私はネクターの入っているビンのふちに座って、そこから吸いましょう」と答えた。師は微笑され「なぜ中に入って吸わないのか。ビンの真ん中に入って吸えばよいではないか」とおっしゃった。「いいえ、そんなことをしたら死んでしまいます」シュリー・ラーマクリシュナは「そういうものではないのだよ。人は愛に溺れてもけっして死にはしない。それはアムリタ、不死そのものなのだから」と笑いながらおっしゃった。

ひとたびこの愛の味がわかると、魂にとってこれ以上ほしいものは何にもなくなる。この歓びは無限であり、何ものによっても増やすこともできなければ滅することもできない。

この教えに触れて、私の中で「神の愛に溺れたい!神と一つになりたい!」という思いが強くなっていき、しばらくは甘美なムードに浸っていたのですが・・・・・・。そのムードは小学校4年の娘が、夏休みに入るとともに消えていきました。

夏休みに入るといきなり、「学童に行きたくない!」と娘が泣き出したのです。事情を聴くと、仲の良い友だちが一緒に行ってくれなくなり、学童で一人ずっと過ごしているようでした・・・・・・。それからは家で一日どのように過ごさせるかや、お昼ご飯の準備などで頭の中はいっぱいになり、神よりも娘に集中する時間の方が多くなっていきました。娘と友だちの関係で気をもみ、一緒に遊ばせる段取りを組んだり、娘にこういうふうに考えたらどうかなとくどくど話したり、どうしてこんな簡単なことが理解できないのだろう・・・とイライラして感情的になったり、お世辞にも娘と調和がとれたようなものではありませんでした。

これではいけないと思って考えていると、娘が生まれた時、ヨギさんから「大らかに育ててください」と言われたことをふと思い出しました。私は自分の経験や価値観という小さな枠で彼女を見ている。物差しを当てず、常に自分を空っぽにする努力をして、彼女と向き合おうと思いました。

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そうして幾日が過ぎ、地蔵盆(※関西地域で行われる子どもたちの幸せと健康を願う行事)の日がやってきました。お布施をもって会場に行くと、先に行っていた娘が他の子どもたちと離れ、一人でポツンと寂しそうに遊んでいるのです。娘は私に気付くと(みんなで楽しく遊んでいるよ)と気遣って気丈に振る舞っているように見え、居たたまれない気持ちになりました。

その夜、娘の寝顔を見ながら、私は申し訳ない気持ちになって泣きながら謝っていました。この子の存在を自分は本当に尊んできたのだろうか、この子が友だちと楽しく過ごせるような環境を整える努力が、もっと必要だったのではないだろうか・・・・・・。・・・・・・でも・・・・・・友だちと仲良くなれるようにできるだけ努力をしてきたし、考えても、考えても、もう何をどうすればいいのか分かりませんでした。

シュリー・ラーマクリシュナの弟子であるトゥリヤーナンダは、『すべてのなやみを母(女神)のもとに持っていけ。彼女は一切の誤りを正して下さる、母を知れば、他の問題はなくなる。あなたが、自分を彼女に捧げ切ったとき、一切のものを新しい光の中で見るようになる。そして、この世の生活を問題にする必要のないことを知るのだ』と言われます。

もう神に祈るしかできない!という切羽詰まった思いで、ヨギさんとトゥリヤーナンダのお写真を前におき、瞑想に座りました。瞑想の後寝床についた時、突然聖なる力が私を押し上げ、ヨギさん、トゥリヤーナンダ、私、3つの意識が一つとなって、万物が展開していくビジョンが見えました。

意識が肉体に戻ったとき、すべては私が神から目をそらさないように神がなされていたんだ、と思いました。そして自分がすべきことは神だけを思うこと、という確信がありました。甘美なムードに浸るという漠然としたものではなく、日常としっかり向き合うことで神と一つになれるということが分かりました。

そして娘にとっての人生の目的もやはり、神と一つになること。友だちと楽しく過ごせるに越したことはないですが、友だちと一緒にいて安心することではないのです。親としてしっかりとそのことを踏まえ、関わっていきたいと思いました。

その出来事のあと、不思議と娘の状況はどんどん良くなっていきました。近所の子とまた自然に家を行き来するようになり、同級生が遊びに来たりするようになりました。また、他のお母さんたちと話すと少なからずどの子も同じようなことで悩んでいて、そういう多感な時期であることが分かりました。

こうして娘の夏休みは幕を閉じました。そして私の信仰をより強くしてくれたのでした。

amara


虫の音

猛暑を抜けて、やっと秋らしい気配が感じられるようになってきました。一日の仕事が終わる夜更けには、美しい虫の鳴き声が聴こえてきます。

伸びやかな虫たちの声を耳で愛でながら、ふと、虫たちはただ命を全うしているのであって、こちらに声を届けようなんて、これっぽっちも思っていないんだな・・・と思いました。

ベランダの外に出て空を見上げると、漆黒の中で小さな星が絶え間なく輝き、大きな雲の切れ間からは柔らかい光が放たれています。

計らいのないみずみずしい生命がこの世界を美しく彩って、誰かのために当たり前のように存在している。自分もその煌めく1つの命なのだ、と思うと胸が熱くなるのでした。

amara