ヨーガの実践」カテゴリーアーカイブ

私を鼓舞するもの

私は今、いけばなを習っています。お稽古はとても楽しく、集中して生けているとあっという間に時間が経ってしまいます。もともとお花や植物が好きだったこともありますが、お花をいただく機会がある度に「もっと綺麗に生けてあげられたらいいのになぁ……」と、残念に思っていたことがキッカケでした。また、元来、仏様にお供えした花がいけばなに発展したという歴史にも惹かれるものがありました。

先日、お稽古の花材で使った紅花が萎(しお)れかけてきたのですが、お花のオレンジ色がまだとても綺麗で形もカワイイので、そのままサヨナラするのが忍びなくなり、枯れた葉を切って西洋ナズナ(ペンペン草の仲間)と一緒に窓際に飾ってみました。ちょうど夕刻で、窓の外から差し込む夕日に紅花のオレンジ色が一層映え、その様子がとても綺麗だったのでしばらく見入ってしまいました。

ハート形の葉っぱが可愛い西洋ペンペン草と

オレンジ色は私にとって、ブッダや修行僧、師、悟り、などを想起させる特別な色です。以前ブッダが、使い尽くされてボロボロになって捨てられた布を洗って縫い合わせて作った「糞掃衣(ふんぞうえ)」と呼ばれる布で、身体を覆ったと聞いたことがありました。近くに生えている草木などを使って布を染めるとオレンジ色に染まったのだそうです。すべてのものを慈しみ、最後まで大切にされたブッダの人柄が伝わってくるようなエピソードです。ブッダの弟子たちはその「糞掃衣」を着て、彼の教えに従い、悟りの境地を目指して修行に励んだそうです。

私の師も、弟子によって縫われ染められたオレンジ色の服をよく纏っておられました。私の脳裏に浮かぶ師は、オレンジ色のクルター姿でなんとも言いがたい美しい姿勢で座し、たくさんの弟子たちに囲まれ、優しく真剣に教えを授けておられるお姿です。
夕日と夕日の色に染まったような鮮やかなオレンジ色の紅花に目をとめたまま、「私もブッダや師の教えに少しは染まってきただろうか……覚者たちが歩まれた、古(いにしえ)から連綿と続く真理の道を一歩でも進めているのだろうか……」と、自問しました。その答えは直ぐにハートの内に響いてきました。

ーそれは師のみが知ること。そんなことは気にせず、恐れず諦めず、生命の限り精いっぱい進め ー

師の力強い鼓舞は常に私の内にある!

シャルミニー


マザーに導かれて

マザー(サーラダー・デーヴィー)に初めて出会ったのは、ヨ―ガのクラスに通い始めて間もない頃、先輩グルバイからマザーの本を勧めていただいて読んだ時でした。馴染みのないインドの風習や、時代も今から百年以上前のお話でしたが、本を読むうちに不思議に風景がリアルに感じるようで、自分がマザーのお側にいるような気持ちになりました。そしてマザーが大好きになっていきました。
クラスでシャヴァ・アーサナ(休憩の形)の時に「何も考えないで」と指導されても、目を閉じるとマザーのお姿が浮かんでくるほど、マザーのことを思うようになっていきました。
私がマザーを思う時はいつも、自分が小さな子供のようにマザーの膝に甘えているような、そんな気持ちになります。それはきっとマザーが、

「私は、善人だけでなく、悪人の母でもあります。私を母と呼ぶ人に、決して背を向けることはありません。子供が泥や埃にまみれていたら、汚れを拭って膝に抱いてやるのが母の務めではありませんか」「困った時はいつでもあなたを守っている母がいることを思い出しなさい」

と言ってくださっているからだと思います。日常で誰かにそんなふうに言われても、私はきっと素直に受け入れることはできないだろうと思うのですが、実際にお会いできなくても、マザーのお言葉は心の奥で確かに真実だと思えるのです。

♦♦♦

今年の春の祝祭は、大好きなマザーをお祝いする会でした。
祝祭に向けてマザーへの讃歌を練習する機会を設けていただいて、何度も練習を重ねました。優しいメロディーはマザーの愛そのもののようで、歌う度にマザーに包まれているような幸せでいっぱいになりました。
祝祭当日は、初めて京都の会場で参加させていただいたのですが、祭壇の美しさや聖劇の迫力など全てが感動的でしたが、中でも一番心に残ったのは、大きなスクリーンに映し出されたマザーのお写真の数々です。マザーの瞳は例えようが無いような輝きに満ち溢れていました。マザーの瞳の先にはシュリー・ラーマクリシュナがいらっしゃって、全てに師を見ておられるのだと思うと、マザーの強い信仰心と汚れのない純粋さに感動しました。

いつも私のことを、母なるマザーが、そして最愛なる師、ヨギさんが見守っていてくださっているから、私は勇気を出して一歩一歩歩みを進めることができます。

大好きなマザーのように、私もいつか全てにヨギさんを見れるように歩いていきたいです。

小野ちさ

 


あるヨーギニーの願い

4月に始まった国分寺クラス。
スタジオから見える桜の木は葉が茂り、緑が濃くなってきています。

植物がぐんぐん成長するように、クラスに参加されている皆さんの中にも成長中の方がいます。そのお1人が、以前から東京のクラスに通われているNさんです。

国分寺クラスに初めて参加された時、クラスで60、70代の方がシールシャ・アーサナ(逆立ちの形)を練習をしているのを見て、驚いたそうです。シールシャ・アーサナは以前できていた時期があったけれどその後できなくなり、もうできないんだと諦めていたとのこと。でも、皆さんが練習しているのを見て「少しだけやってみます」と挑戦されました。その後練習を続けられ、ひと月半ほどで、もう少しで両足が安定して浮かせられるところまでできるようになっています。それに伴い、シールシャ・アーサナ以外のアーサナも、以前より集中感が増してきたように感じています。
「またできるかも、と思えたら、練習をやりたくないという思いがなくなりました」と、軽やかに笑顔で話され、周りでそれを聞いていた皆さんも笑顔になりました。

 

クラスの後、Nさんからとても素敵なお話を伺えました。

「孫が大きくなった時に読めるように、『マハーヨーギーの真理のことば』を贈りたいと思っています。その時自分がいなかったとしても、生きていく上でこの本が支えになると思うから。本に書かれていること、本当のことを、遠い未来になるとしても伝えたい。そして、私もヨーガに出会った吉祥なご縁を、行為で伝えられるおばあちゃんになれるよう、頑張ります」

ご家族のために日々忙しくされている中で、師の教えを実践されてきたNさんの思い、いつかお孫さんに届きますように。

 

いつも素敵な笑顔のNさん

ハルシャニー  

 

 


本当の自分は誰か?

もし生まれ変われるなら、どんな人に生まれ変わりたい? そう聞かれたことがある方も多いのではないでしょうか。性別、国籍、職業など、自分と違う人生を想像するのは楽しいものです。先日私は、しばらくの間、19世紀インドの盗賊に生まれ変わっていました。春の祝祭の聖劇でサーラダー・デーヴィーを襲い、その後改心する盗賊の役を頂いたのです。転職活動中で少し時間があるということで声をかけて頂きました。

私はこれまで、物を盗んだことはなかったので、盗賊になりきるのにとても苦労しました。特に人を脅すことは、劇と分かっていてもなかなか慣れませんでした。しかし、練習を重ね、段々と盗賊の気持ちを理解していきました。夜道で人を襲うシーンで、物陰から獲物を見ている時、緊張で鼓動が高まりました。有り難かったのは、その盗賊がたいへん信仰深い人だったことです。彼はサーラダー・デーヴィーの中にカーリーを見て、それによって改心することになります。信仰心が大切であることが分かりました。

春の祝祭が終ったある日、ほっとした気持ちで過ごしていると、現実の自分をまるで劇中の役のように感じる瞬間がありました。私は家、職場、友達、趣味の場で、色々な役を持っていることに気付きました。普段はアイデンティティーとして固定的に捉えているそれらの役が、奇跡的な巡り合わせによって一時的にできたものに見えました。そして、その役を超えたところに在る本質的な自分をもっと知りたいと思いました。以前、仕事の悩みについて師に相談した時、「本当の自分を知ることがあなたの人生にとっての一番大切な仕事ですよ」と教えて頂いたことが思い出されました。

それから1ヶ月ほど経ち、私は、縁のあった会社に就職することになりました。今、この役割を全うしたいと思っています。日常生活では色々なことが起こりますが、真我(本当の自分)の探求を中心に日々の修行を続けていきたいと思います。

苔寺近くの沢。新しい職場への通勤途中で見つけた瞑想スポット。

島本 廉


ヨーガ・瞑想 西宮北口クラス

2017年より始まった西宮北口クラス。
このクラスは、通常は2、3人、多い時で5人ほどが集まる少人数のクラスで、その内のお二人は女性で、初めてご参加いただいてから1〜2年ほどになります。

今日のブログでは、そのお一人である森澤さんの、いくつかのエピソードをご紹介したいと思います。

ヨーガは初めてに近かったと思うから、最初はクラスでアーサナをするだけでも精一杯だったと思います。そんな中、家で毎日アーサナをすることは、誰もにとって難関の一つになったりしますよね。森澤さんもそのお一人だったのではないかと思います。
けれどもしばらく経った後、森澤さんは家でアーサナをした後に私にメッセージをくださるようになったのです。「メッセージを送ることで毎日続けていく励みになる」とおっしゃっていたのですが、それは私にとっても、とてもありがたいことでした。頑張って続けていこうと思ってくださることもとても嬉しいことでしたし、加えて、アーサナをした時に感じたことや、クラスでお話ししたことへの感想も一緒に送ってくださり、次のクラスへと繋げることができたからです。

そうしてアーサナにも慣れた頃から、アーサナ以外のヨーガの教えにも少しずつ触れていただくようになりました。ただ初めて聞く真理の教えに、森澤さんの頭の周りに???が飛んでいるのが目に見えて分かる時もありました。
それでも「アーサナを続けていくことで教えを理解していくことができるようになる」という師の教えをお伝えし、今はアーサナを続けていきましょう、とそんなお話をしたこともあります。

1年も経った頃だったでしょうか、とても嬉しいことがありました。
彼女はマラソンをされているのですが、ある大会でとても成績がよかったことをお話しくださいました。そして、その結果には「最初は呼吸が関係しているのかと思ったけれど、よく考えると、余計なことを考えることなく最後まで集中して走れたからではないか、それはヨーガの効果だと思う」とお伝えくださったのです。

そしてその後の4月、MYMの春のキャンペーンで、本を少し安く購入していただけることを皆さんにご案内した時のことです。『さまらさの台所』は購入を決めていますが、他に何を読んだらいいですか?と森澤さんが尋ねてくださいました。実際に見ていただいて一番読みやすそうなものを選ばれたらいいのでは?と手に取っていただいた後、森澤さんが選ばれたのは『ヨーガの福音』でした。きっとその時、何かしっくりくるものがあったのでしょう。

その次のクラス、森澤さんのアーサナが変わりました。
というのは、これまでクラスに来てアーサナをすると、足がつって続けられないということが何回かありました。家でするとそんなこともないらしく、クラスではかなり頑張ってしまわれるからだと思いますが、『ヨーガの福音』を購入されたあの日も、足がつってしまい、アーサナを続けられなくなったのです。その分、ヨーガの話をたっぷりとできた良い時間にはなりましたが、アーサナに関しては不完全燃焼!と残念に思っておられたようです。

そうして迎えた次のクラス、この日は、足がつることもなくアーサナを終えることができました。今日はつりませんでしたね、とお声かけすると、「これまでは、アーサナの柔軟性を高めようとして頑張ってしまっていたけれど、『ヨーガの福音』を読んで、アーサナをすることへの目的意識が変わり、力を抜いてできたからだと思う」とのこと。そして「『心と体は自分ではない』という教えなどが、スッと心の中に入ってきた。『ヨーガの福音』は何度も何度も読んでいきたい本だと思った」とおっしゃいました。

今、森澤さんは、自分が習っているヨーガがどんなものかもっと知ってみたくなった!と、軽やかに、熱心に通ってくださっています。

真理を体得された師のお言葉は、誰もの心の奥に届き、変革をもたらすものだと、それを改めて実感できた出来事の数々でした。
こうして真理の教えを残してくださった師のお働きに、深く感謝を捧げます。

***

西宮北口クラスは、毎月第1、3木曜日に続けています。
お近くの皆さま、ぜひご参加ください!

シャチー


ホーリー・マザーからの贈り物④

昨年末から、ホーリー・マザーの生き様に少しずつでも迫って行けるように取り組みました。
『ホーリー・マザーの生涯』を読み、この世の中でどう行為すべきか、ホーリー・マザーはそのお手本を示してくださっていると感じました。

教えを実践することが毎日の習慣となり、最初は意識して想うようにしていたホーリー・マザーの存在は、いつしかハートに張り付いたようになりました。 
それは、私にとって揺るぎない信仰の対象である師を想っているのと同じ感覚でした。

それにより大きな安心感が与えられ、日々行為する際には、ホーリー・マザーがいてくださるから大丈夫だと思えるようになりました。

そして迎えたサナータナダルマ・アヴァターラ・メーラー当日。

一人一人がホーリー・マザーの生き様に触れ、その行為に倣い実践をしている様子を見ていたら、
母であるホーリー・マザーは時間も空間も超えて今ここにおられる!
私たちのすぐそばで、大きな愛を持って見守ってくださっている!!
そう感じられたのです。

今、ホーリー・マザーは私にとってかけがえのない存在となりました。この事実が、今回頂いた贈り物の中で一番大きなものです。

きっとこれからも、ホーリー・マザーだけではなく、人々を真実の光を導き続けてくださっている、アヴァターラ(神の化身)たちから贈り物が届きます。
それを大切に受け取り、他者へ行為することで、僅かでも感謝の意を示すことができますように。

ハルシャニー  


『Paramahamsa』表紙絵シリーズ ⑨

今回は、『Paramahamsa』No.13の表紙絵について紹介させていただきます。

これは表紙絵を描き始めてから3つ目の作品になります。
一つ目の絵は、ヨギさんに教えていただいたインドの細密画を真似て描きました。この時は、ヨギさんに喜んでいただきたいという思いだけがあり、ただ描くことが楽しくて、幸せで、仕上がりまで夢中になって描いたのを覚えています。
そして昨年1月のブログで紹介させていただいたように、その時から『Paramahamsa』の表紙絵を隔月で描くことが始まったのです。

心というのは実に不思議なもので、その次の2作目を描く時、私の心境は全く別のところにありました。最初にヨギさんに褒めていただいた経験が、「うまく描かないといけない」「ヨギさんに喜んでいただけるものが描けるだろうか」とネガティブな思考に向かってしまい、どんな絵を描いていいのか分からなくなって、何度も描き直したのです。
描きたいと思っていた1作目とは違い、描かないといけないと思った2作目。
出来上がった絵は、背景にある木は突っ立っているし、何だか固い。ヨギさんは褒めてはくださいましたが、本当のところは分かりません。

そして今回の作品です。この時は思いにとらわれることなく、もっと肩の力を抜き、想像を働かせました。大好きなヨギさんの、優しく、そして優雅な感じが表せたらいいなとか、そうだ、聖なるガンジス河とシュリー・ラーマクリシュナが過ごされたドッキネッショル寺院を描こう、など、思いつくままに描いてみました。

これらの3つの絵を含め、初期の絵に対してヨギさんは、ずっと後のことになりますが、「初期の頃のシャチーの作品はオリジナリティーがあっていい」と言ってくださったことがありました。技術こそまだまだでしたが、ヨギさんに集中し、表したいことを素直に描いてみた結果だったのかもしれません。この絵から、それぞれが好きなヨギさんを少しでも感じていただけると嬉しいなと思います。

シャチー


師の導き

小さな存在

もうすぐ師が御入滅されて一年です。この5月の大型連休から心が落ち着かず、やっぱりドキドキしていました。私は20年前の5月18日に師と初めてお会いしました。クラスに参加したのは3回ほどで、まだ一か月も経っていない頃でした。初めてマハーヨーギー・アーシュラマの階段を上り、二階の間で師にお会いした時、師は白いクルタをお召しになっていて、白いムートンの上に座っておられました。そして、ものすごく優しい微笑みで迎えてくださいました。その印象が今でも深く心に刻まれています。

私は子供の頃たまたま幼稚園がキリスト教で聖書のお話によく触れていたのでイエスさまにお祈りするのが普通になっていました。大人になり特には無宗教でしたが、子供の時からのお祈りは自然に続けていました。師にお会いした時、私のすべてをいつも話してきたイエスさまという存在は、師だったんだと感じ、本当に安心しました。これまでのいろんなことが、全部この瞬間のためだったと思いました。

師は弟子の人生を寸分違わず導かれているとお聞きしたことがあります。今になっていろいろと気付きます。ひょんなことから数日前、毎週水曜日の朝の長岡京町家クラスに、実家の父親が朝、車で送ってくれました。父が車で送迎してくれることは滅多にないことなのですが、事情があり母からの希望でそうなったのでした。有難くも送ってもらえることになり、車で長岡京へと父の運転で向かいました。ふと、そういえば長岡京にあったはずの幼稚園のことを思い出しました。大人になってから長岡京に行った際、幼稚園を何度か探しましたが場所が分からなくて、もう無くなったのかもしれないなと思っていました。

私「幼稚園の場所って覚えてる?確か長岡京駅の近くにあったけどまだあるかな?行ってみたいんやけど」。
住宅街に差し掛かった道中でそう話していると、なんとその幼稚園バスが私たちの車の前に現れました。幼稚園バスがスーッとお家の前で止まり、かつての私のような幼稚園児をバスに乗せ、そのお母さんが子供を見送っていました。
私「すごいな!偶然やな!幼稚園の帽子も変わってないな~」
父と話しながらドライブは続きます。

父曰く、幼稚園の位置は私が思い込んでいる場所とは違うということで、そちらへ車を走らせました。ナビに頼るのもなんだか面白くないので、勘を頼りに進みます。
父「あれ?!ないなぁ~移転したんかもしれんなぁ」
父が思っていた場所にもなく、歩いていた人に聞いてみても分からず(素直にナビを頼ればいいのですが(笑))細い路地の住宅街に迷い込み、もう時間的にもタイムリミットなので「もう無いのかもな~」と諦めました。「よし!ナビにたのも!」と父は切り替え(笑)ナビに導いていただき進みました。すると、タイミングよくさっきの幼稚園バスがまた現れて園の門に到着です。「おお~!ここやん!」。幼稚園にやっと辿り着きました。四十年以上ぶりに再訪した幼稚園は昔の園舎のままのところもあり、とっても可愛いらしい場所でした。幼稚園の一角にある墓地が目に入ってきた時、ある記憶が蘇りました。
幼稚園の中からその墓地が見える部屋があり、私はお友達と二人でよくその窓からお墓を見ながらイエスさまのことをひそひそ声で話していました。墓地が見えるその窓の前がなんとなく不思議な感じで好きだったので、その場面を大人になっても思い出すことがありました。だからその墓地が見えた時に、あ!となぜか師とのいろいろなことが繋がって、幼稚園のあの窓が始まりの発心に繋がっていたような気持ちになりました。

また、その窓の近くには大好きな園長さん(牧師さん)の部屋がありました。園長さんはサンタクロースのおじいさんみたいなあたたかい雰囲気で、戦争で片腕をなくされていましたが、もう片方の腕によく私たちはまとわりついていました。園長さんが教えてくれたイエスさまのことを思い出し、あぁここは私の神さまへの思いを芽生えさせてくれた大切な場所だ、師がずっと本当に導いてきてくださっていたんだと、あたたかい歓びが込み上げ感謝しました。
父と、この5月に、そこへ導かれるように来れたのは師からの導きだと感じました。何度探してもそれまで見つけられなかったその幼稚園は、私の記憶上の地図とは別の場所にあり、毎週通ってきた長岡京クラスのごく近くの場所にありました。何かと縁深いこの地で、クラスを手伝わせていただけることにまた感謝がこみ上げました。

その日には台湾からのヨーガの仲間がクラスに参加され、また他にも久しぶりに参加された方もいらっしゃいました。そして滅多に送迎してくれない(笑)父の車で運んだものは、私の母からのヨーガへの感謝の気持ちが込められたお花でした。

母は長岡京クラスに通っていたことがあり、ふとお花を届けてほしいとそんな思いになったということでした。いろんな偶然のような出来事が毎日毎日、師の手の中で起こっていることを感じるばかりです。師のお導きに感謝します。

ナリニー


『マハーヨーギーの真理のことば』〜カルマの法則〜

ヨーガに出会い、僕はカルマの法則の存在を初めて知りました。
僕はこれまで自分の置かれている状況や訪れる結果に対しての原因が自分の心の思いや行為にあるということを考えもしませんでした。とくに職場では業務がスムーズに捗(はかど)らない状態を周りの人たちに問題があると感じていたり、職場の環境がより良く変わらないのも職場に原因があると思っていました。
ヨーガを学び、師の教えに触れる中でその思いや行為が少しずつ変わっていきました。

「ヨーガの重要な言葉にカルマというものがあります。これは原因と結果、あるいは作用と反作用の理のことです。特に自分の行なった行為、あるいは思いーー心の中の思いも行為と見なされますから、粗大な行為、微細な行為というわけですーーその行為の善悪、あるいは無知と真理に基づくものはやがて結果を招く。悪いことをすれば苦しみの結果がやってくるし、善いことをすれば楽な結果がやってくる、その果実を自らが受け取らなければならないという約束事のことです。これは宇宙的な約束事のことです。人間だけではなく、あらゆるものがこの原理に従っています。
 種を蒔けばそこに実がなるように、良い環境で育てば良い実がなり、そうでなければ良くない実がなるように、そのカルマの法則というものを理解するならば、一口で言うと自業自得ということになります。良いことも良くないことも、全てその原因は自分の中にある。また未来にやってくるであろう結果も、自分が蒔いた種に違いない。そういうふうに何事も他人のせいにしない、責任転嫁をしないことですね。それでも誰もが良くありたい、幸せでありたい、自由でありたいと願っているはずですから、そうすれば自らの行為をより良くしていくほかありません。理に適った話です。何もしないでいて誰かが幸せにしてくれるわけではありません。やはり自分が努力をして、それに見合うものーー結果として幸せはやってきます」

『マハーヨーギーの真理のことば』P96より

すべては自分の心と行為次第であることを教わり気づかせていただきました。
そして自身の働きをより良くしていきたい、また周りの人や環境に対しても良くしていけるようになりたいと思うようになりました。どんな状況にあっても他人や環境のせいにしないように、今この瞬間をより良くしていくことだけ考えて働いていこうと決めました。そうすることで、仕事への目的意識がはっきりして業務を進める上での必要性が見えてくるようにもなりました。ゴールに向かって仕事が円滑に前向きにみんなで進めていけるような状況に好転していきました。
「未来を良くすることは今この瞬間を良くすること、それが未来につながる」と学び聞いた言葉を大切にして、目の前の仕事に励んでいます。

金森淳哉


瞑想専科「真理のことばに瞑想する」一年半コース

去年の6月からスタートした瞑想専科「真理のことばに瞑想する」一年半コースですが、もうすぐ一年が経過しようとしています。毎月『マハーヨーギーの真理のことば』の中の一つの章を取り上げて、実践した成果を発表し、互いに学び合っています。
今月は【第九章――大宇宙と小宇宙の神秘】について取り組みました。

クラスの中では、毎回2人の方に体験談を話していただき、クラス担当者からのレクチャーがあって、最後に30分ほど瞑想を行います。

廉くん
研究者である島本廉さんは、二十四の原理についての興味深い実践談を話してくれました。

OM
映像の仕事をしているNさんは、画面共有しながらオームのマントラの本質を直観的に捉えたお話をしてくれました。

マードゥリー、ヨーガダンダ
担当のマードゥリー、ヨーガダンダのどちらかがレクチャーを行います。今回はヨーガダンダが、タントラ全般についてのお話をしました。

瞑想専科
瞑想の後は質疑応答の時間です。
みんなの話を聞いて師のサットサンガの時と同じように自然と瞑想状態になったという感想も聞かれ、師の恩寵によってクラスが運ばれているのを感じました。
動画受講も含めると約60名の方が参加しています。

ちょうど一年ほど前、この瞑想専科が始まる直前に師は御入滅されました。重い心を引きずるようにしてクラスを始動させたのですが、私たちにとって希望の光となる師の教えをご紹介させていただきます。

グル(師)と弟子の関係は、肉体的な近さを意味してはいません。それはハートの問題です。ですから、たとえ地球の裏側にいても、その関係は強く結ばれています。それをもっと納得してもらうために、彼の偉大なブッダの最後の言葉を紹介しましょう。「私の弟子とは、この体の近くにいる者ではなく、私の教えを生きる者が本当の弟子である」。もちろんブッダの教え、真理の教えは、時間と空間を超えています。彼の教えに生きるならば、この二十一世紀に生きる私たちでも彼の直接の弟子になることができます。真理と真理の教えというのは、時間と空間を超えています。ですから、たとえ遠く離れていても、グルと弟子の関係は可能です。

時空を超えて誰もが師の弟子になれるように、そして真理を実現できるように、師は『マハーヨーギーの真理のことば』を残して逝かれました。
瞑想専科を通じて『マハーヨーギーの真理のことば』と向き合っていく中で、改めてこの本には、あらゆるヨーガの道から日常で直面する問題の解決法に到るまでの全てが網羅されており、内にも外にもあらゆる理を知り尽くした師が、限りなく多くの人に手を差し伸べられているのを感じます。
私たちがやるべきことは、どの教えからでも、どの入り口からでもいいから、生涯かけて真理に到達するということです。
その時、師が教えられるように、本当の弟子になれるのと同時に、本当の交流ができるのでしょう――師だけでなく、ブッダや過去の聖者たち、そして日常で関わる全ての人や生き物に対しても。
『マハーヨーギーの真理のことば』の後半は、ヨーガの核心に触れるような濃密な教えで溢れています。
理想に一歩でも近づけるように、最後までしっかりと取り組んでいきたいと思います。

ヨーガダンダ yogadanda