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『マハーヨーギーの真理のことば』” 生きる秘訣 “を読んで

 私は人と平和に仲良く付き合いたいという思いが強く、意識しすぎて他人とうまくコミュニケーションがとれず苦しみを感じています。ヨーガを始めて、他人によく思われたいという思いが原因だと分かりましたが、他人に好かれなくてもいいと心に言い聞かせようとすると、その人に対して無関心な冷たい感覚を感じたので、これは絶対違うとも思いました。好かれたいもダメ、好かれなくていいもダメ・・きっと好かれなくていいけれど、私は他人を愛し奉仕しますという境地が正しいのだろうと思いながらも、どうしたらそうなれるのか雲をつかむようでした。

 今回、「生きる秘訣」の章を読んで、他人と接する際、個性は無視すればいいとの教えに衝撃を受けました。ずっと、その人のいいところを見てそれを愛していくもの、悩みを打ち明けてもらえる程関係を深めて、その悩みや困りごとに対して自分ができることを親身になって行為することが「他者に善きことを行為すること」だと思っていたからです。
この教えをよく考えてみると、ここが好き、あそこが好きと判別すること自体、全ては等しく尊いという真実に矛盾しているのかなと思いました。

 また、愛に感情や言葉は要らない。ただ奉仕すればいいという教えも目から鱗でした。これもよく考えてみると、感情や言葉で仰々しく飾る程に、こんなに思っている私を分かってほしいというような見返りを求める気持ちが加わる気がします。無償の愛は本来もっとさり気ない、ただ状況がより良くなるよう行為する。そんなシンプルな姿なのかなと思いました。
そして自らを振り返ると自分を良く見せるために発している言葉がいかに多いか気づきます。やはり、きっぱりと「人に好かれたい」という気持ちを捨てることが必要だと改めて思いました。

他者のために思い、話し、行為できるように、「私」が出てきたら改めていけるように、日々自分の言動をしっかり観察するようにしていきたいと思います。

白石雅子 


仲間と共に 久しぶりの瞑想会で感じたこと

東京ではコロナ禍になってからオンラインで瞑想会を定期開催しています。
2年以上経ち、いつかまた実際に集まって瞑想会ができるといいなぁと思いながら過ごしていました。

そんな折、東京のグルバイ数人でオンラインで話していた中で、こんなやり取りがありました。
シャルミニーさん「コロナが終わったらみんなと合宿がしたい」
ターリカーさん「いきなり合宿ではなく瞑想会とかいいんじゃない?」
シャルミニーさん「しよう!しよう!瞑想しよう!!」

家ではなかなかまとまった時間をとって瞑想できないから、とにかく集中して実践する時間が欲しい!足が痛いから長く座れないと思っているけれど、座る形なんてどうでもいいから、まずは集中できる環境が欲しい、そしてグルバイと一緒なら最高!という思いがあったのだそうです。
画面越しではありますが、シャルミニーさんの溢れる熱い思いがひしひしと伝わってきました。

感染状況は相変わらず落ち着かないままですが、それなら感染対策に気を付けて、まずは月に1回でも集まって瞑想会をしてみよう!ということに。
それぞれ離れた場所で暮らしているため会場探しに苦戦することが多いのですが、今回はすぐにアクセスしやすい会場が見つかり、まず第1回目を開催する運びとなりました。

迎えた当日。
会場は広い和室で、部屋に入ると都心とは思えない静けさを感じました。

参加者は7名。久しぶりに集まれたこと、そして これまでクラスに参加しづらかったグルバイとも数年ぶりに再開できたことも、嬉しく、まずは輪になって近況報告などを交えてお話ししました。

その後、各自瞑想に座る準備としてアーサナや呼吸法をしてから、座りました。

同じ空間で皆で瞑想をするのは本当に久しぶり。目を閉じればもちろんみんなの姿は見えなくなるのですが、共に座っている気配を感じながら、自然と深く集中していけました。
瞑想の終わりの合図のオームが聴こえてきて目を開けると、みんなの姿が見えて、この上なく満たされた気持ちになりました。

瞑想を終えた後に話している中で、普段は腰の痛みを感じやすいのにあまり気にならなかった、実際に同じ空間で瞑想することでより集中が高まる感じがした、との感想を頂きました。

瞑想会を始めるきっかけとなったシャルミニーさんと同じく、家族がいる環境では瞑想もアーサナもままならないグルバイもいました。
一人でもできるサーダナですが、みんなで実践できる場を設けることで、普段できないことができる。より深く瞑想することができる。
サンガの大切さを改めて実感しました。

以前のように時間を気にせず話すことは難しくても、こうした機会を少しずつでも持ち続けることで互いに高めあっていけますように。

ハルシャニー 


つくレポ 〜完熟トマトとナスのパスタ〜

私はこれまで料理をするという機会はほとんどなく、もっぱら食べ役でした。そんな私が、さまらさの台所(ヨーガの料理)のオンラインクラスを受講させていただいたことを機に、料理にチャレンジしています! 7月のブログ掲載記事「ヨーガの料理 さまらさの台所 動画クラス紹介!」のメニュー:完熟トマトとナスのパスタを何度か作ってみました。このブログは、料理初心者男子がさまらさレシピのパスタを作ってみた!のつくレポになります。

料理をするにあたり、さまらさのクラスで学ばせていただいたことを心がけました。「食材の選び方」「丁寧に調理をすること」「何より楽しんで料理をする!」など、教えていただいたことを心に留めて取り組んでみました。

ステップ1   食材選び!
買い物では新鮮なお野菜を選ぶために、店員さんに尋ねてみました。「新鮮で甘いトマトはどれになりますか?」というように質問すると・・・私には新情報!?トマトの特徴を教えてくださりました。「今は北海道産のトマトが甘くておすすめですよ! また少し時期が進むと南の方の熊本県産のトマトも美味しくなってきますよ」とお聞きしました。そして、沢山並んでいるトマトの中から赤くて一番美味しそうなものはどれだろ〜と食材とにらめっこしながら選びました。ナスを選ぶ時には色鮮やかで軸がしっかりしているものを見分けながら決めました。


ステップ2   いざ調理!
調理する前にもう一度動画を観て確認しながら始めました。食材の量や調味料の分量、火加減などは奥さんに教わりながら料理を進めました。まず食材を切っていく工程では、動画でされているのに倣って見様見真似で切りました。大きめのカットだったので包丁が不慣れな私でも切りやすかったです。それでも、同じ幅間隔で切っているつもりが、だんだん切る幅が小さくなったりもしました。次にお野菜を焼く工程では、ナスの火の通りや焼き加減を見ながら炒めてはいましたが、ちょっと焦げてしまいました(汗)。木べらを使って炒めるのも手の動きが何だかぎこちなく、丁寧にできているだろうかと不安に思う心もありました。それでも気にし過ぎないように気持ちを切り替えて料理を進めました。炒めたナスにトマトを加え、しっかりと煮詰めました。「美味しくできますように・・・」と心を込めながら混ぜてトマトソースが完成です。ここまで料理が仕上がってくると先ほどの弱気がどこにいったのか・・・「僕、料理できるやん!」という気持ちにもなり、嬉しくなってきました。 

ステップ3   盛り付け!
いよいよ盛り付けまでやってきました。最後の工程ということもあって、一番緊張していたように思います。額からは汗を感じ、手の感覚もいつもより硬く張りつめていました。作った料理が美味しく見えるようにゆっくりと丁寧にお皿に盛っていきたいところでしたが、パスタがグチャっとしたり、ぼたっと・・ソースが落ちたりすることもあって心はざわつき状態でした(汗涙)。必死でお皿に盛りつけて最後にバジルの葉っぱを添えて、やっとの思いで完成できました。

ステップ4   いただく!
なんとかパスタが出来上がって少しほっとしました。料理が冷めないうちにいただきます。隣で食べている奥さんの表情も横目で気になりながら一口・・・「うんっ! 美味しいやん」と心の中で一言。自分で作って言うのも何ですが(笑)、初めて作ったにしては良い味に仕上がっていると思いました。そして、食べてくれた奥さんの表情にも笑顔が溢れていて、とても嬉しい気持ちに満たされました。
作ってみたパスタの味付けはトマトの甘さと塩だけでシンプルなのにこんなに美味しくできるんだと、さまらさの料理ってすごいなと感じました。料理ができなかった私が誰かを笑顔にできる料理が作れたことはさまらさの魔法!?・・・いや、それこそがヨーガの精神なんだと思いました。
さまらさの台所のオンラインクラスで講師のシャーンティマイーさんが仰っていたお言葉「料理はうまい、へたではなく、真剣に食材に向き合い活かす。これが大事」ーー誰でもどんな人でも料理ができるということを自分が作ってみて改めて教わったように思いました。

その後も何度か作ってみました。2度目以降は準備を整えることをより意識しました。使う調理道具が必要な時にすぐに取って使えるように置き位置を考えたり、スムーズな料理ができるように準備しておくことで少し手順も良くなりました。気持ちのゆとりが少しできて、より丁寧に美味しくできるように一層の思いを込めて作ることもできました。また、作って食べることを重ねた中で感じたのは、食材そのものの味によって料理自体の味も変わってくることです。特にトマトは少し酸味を含むものなどもありました。じっくり火にかけることで食材の味わいが出てくることも繰り返し作ることでよく分かりました。

料理を作ることを通して今回、行為に対する考え方を学んだ気がします。料理は食材を選ぶところから調理する工程、調理したものをいただくまでの一連の行為の一つ一つがとても大事だと思いました。また、思いを込めて行為することで、料理の味はいかようにも変わることを知りました。さまらさの料理はシンプルで初心者の私にも優しくて作りやすいものでしたが、シンプルだからこそ純粋な気持ちが味に現れるのだと感じました。そして誰かを思い、その人のために、心を注いで料理に向き合うことで喜びや幸せにつながることを実感しています。
男子ごはん、これからも楽しんで続けていきたいと思います!!

金森淳哉


東京のグルバイ(ヨーガ仲間)をご紹介します!

こんにちは。夏真っ盛りですね!
コロナ禍となり二年以上が経ちましたが、東京は人の多さからさまざまな行動が制限される状況が続きました。
MYM東京のクラスや活動も最小限に抑えざるをえなかったのですが、感染者数の増減を考慮しながら少しずつ活動を再会し始めました。
今日はそのような中で、ずっと変わらず真摯にヨーガに取り組まれている中村さんをご紹介させていただきます!
中村さんはご家庭の事情で、以前からクラスなどに参加出来ないことも多かったのですが、最近、クラスでお会いした時にとてもイキイキとされているご様子を拝見して、お話をうかがってみました。

─中村さんは決まった時間にご自宅でアーサナをするのが難しいこともあり、オンラインクラスへの参加が出来ず、お一人でのヨーガの実践が続いていたと思うのですが、どのように過ごしていらっしゃいましたか?

中村さん)
コロナの影響で、京都に行くことはもちろん、クラスにも行けなくなりました。いろいろな予定がなくなって時間がとれるようになり、パラマハンサ(機関誌)を遡って読んだり、瞑想の時間ができたのは良いことでしたが、やはりクラスがお休みなのは寂しいことでした。
やっとスタジオでのクラスが一ヶ月に一度ですが再開して、皆さんとお会いできた時は涙がでました。

─先日、東京のメンバー数人で多摩川にキールタンを歌いに行った時、飛び入り参加されましたよね。すごく嬉しかったです!

中村さん)
河原で歌うのは初体験!キールタンをみんなで歌うのも何年ぶり!花もいっぱい咲いていて夢の中にいるようでした。
ハルモ二ウムや太鼓を持ってきてくださり本格的でした。曲は難しくないものを選んでくださっていたのですが、間違えてばかり。でもそんなことより、こんな楽しくていいのかしら?というくらい楽しくて、嬉しくて、あっという間のひとときでした。
その時歌ったManasa Bhajareはそのあとも口をついででてきてよく歌っています。

─今年の春から、松山クラスと東京クラスの有志メンバーでヨーガの教えの「ヤマ」の実践に取り組んでいますが、そちらにも参加されていかがですか?

中村さん)
シャルミニーさんから「松山の皆さんと一緒にヤマ・ニヤマ(禁戒・勧戒)の勉強会をするので参加しませんか?」とお誘いいただいた時、まず不安になったのはオンラインって、私にできるかしら?ということでした。
コロナが流行ってからインターネットを使うことが増えましたが、私は苦手でした。又、使わなくても済んでいました。ですが、ミッションでもパラマハンサがウェブ配信となり、逃げてばかりもいられないこともわかっていましたし、ヨギさんの「苦手なことこそ、したほうがよいですよ」というお言葉も心に残っていました。
オンラインで初顔合わせの時は私の音声がでず、かなり焦りましたが、その後家族と練習したりして、無事に参加することができました。ほっとしたのと同時に、「わー、遠く離れた皆さんとお会いできてる!」と嬉しくなりました。
コロナの間、ずっと味わえなかったヨーガのお話ができる楽しさ!貴重な一時間となりました。苦手なこともチャレンジだなあと思いました。
グルバイの皆様は、外に出られる時間が限られていたり、ネットの苦手な私をいつも気遣ってくださり感謝しています。今回も大変お世話になっています。ありがとうございます。

─ヤマの一つ目、アヒンサー(非暴力)の実践に取り組まれていかがでしたか?

中村さん)
家族とは仲良くしているつもりでしたが、今回、家族なら多少のことは許してもらえるという甘えから、言葉や態度で傷つけてきたことがだんだん見えてきました。ちょっとした対立から、家族にきつい言い方をしてしまい、それが止められないこともありました。
その思いはどこからくるのか考えたところ、やはり「自分は間違っていない、自分が、自分が…」というエゴそのものだと思いました。
ヨギさんだったらどうなさるだろう。又、相手がヨギさんだったら私はどうするだろう。その光景は目に浮かぶようなのに、実践となると悲しいことになかなかうまくいきません。
それでも、その瞬間にヨギさんを思い浮かべることが一番だと思いました。
そしてその時だけではなく、いつもいつもヨギさんと共にいられるように、と改めて願いました。
頭でわかっていたはずのことも、実践となるとその通りにはいきません。今回、実践したことをオンラインで皆さんとお話するという機会を与えていただいたことで真剣に取り組むことができたと思い、感謝しています。そして、私が初めてヨギさんにお会いした時に、ヨギさんみたいになりたいと願った、憧れの境地へとまた気持ちが繋がりました。
まだ始まったばかりですので、これからも努力を怠らないように精進していきたいと思います。

左手前から2人目が中村さん。大空の下でのびのびとキールタンを歌いました。気分はすっかりガンガーのほとり!? 6/18

同じ師の下で共にヨーガを学ぶ仲間の存在は、なんと心強くありがたいことでしょう!中村さんのお話をうかがいながら、私も勇気をいただきました。そして、どこにいても、どんな時でも常に師の恩寵が降り注いでいることを実感し、喜びでまた胸がいっぱいになりました。
中村さん、本当にありがとうございました!!!これからも、どうぞよろしくお願いします!

シャルミニー


真実の旅

あじさい ピンク

明るい陽の光

「あ!アジサイ」
楽しみに待っていた紫陽花をバスの車内から一輪、見つけ、一瞬にして紫陽花の花が胸いっぱいに広がりました。美しいものを見た瞬間、それだけになる気がします。特に自然のお花などは、無垢で純粋なそのものが、丸裸で存在しているように感じて反射的にハッとします。一体私は何にこんなに感動しているのだろう?と思うことがありますが、ヨーガでは、何かに魅せられたり惹きつけられたりする時はアートマン(真の自己、真我)に惹きつけられている、本当の魅力の持ち主はアートマンだけ、と学びました。私たちの本性がそれであり、無垢で純粋なるものだから、それに共鳴していると。

そういえば最近、ひょんなことから出会ったある女性が、マハーヨーギー・ミッションに関する創造物すべてに美を感じる、と仰いました。「神は美」という教えの言葉が浮かび、あぁこの方は神に惹きつけられておられるんだなぁ・・・と思いました。私も初めてマハーヨーギー・ミッションを知った時、しんと静まり返った世界観に美を見たからです。自然のお花などとは違って、人が作ったものにはその人の思いが注入されると思いますが、もし、その作り手にエゴ(利己的な我)がなければ、その人は神の道具となり、出来上がったものには本来の作り手である神、宇宙の創造主の完全なる美だけがあるのかもしれません。私たちは創造物を通して、その根源の光、存在をダイレクトに感じているのだと思いました。

あじさい

梅雨の晴れ間

そんな出会いがあった翌日、目を覚ますと一曲のキールタンが頭の中で鳴り始めました。特別その曲が好きなわけでもなく、昨日その人と歌ったわけでもなく、思い当たるふしがなく不思議に思い、ミッションのYouTubeにその曲がアップされているか調べました。その曲があり、説明欄にこう書かれていました。
「シヴァの街と呼ばれ、かのシュリー・ラーマクリシュナが黄金で出来ている街と表現したインドの聖地ヴァナラシ(カーシー)。
何万人もの人が巡礼に訪れるその地には、現代においても神の中に生きる人々の信仰心で満ち満ちている。
神を愛し、神を讃える喜び溢れるまさに歓喜のキールタン『Hara Hara Mahadeva』」

・・シヴァ神の祝福?! その人はシヴァが大好きな人だったからです。映像をスタートさせると、たちまちその人も皆も共に巡礼をしているイメージに包まれました、そしてそれは神の手の中でした。生き生きと人生を謳歌するような皆の姿から、生きることの意味を感性によって知らされた気がしました。ちょうど最近の瞑想専科クラスで聞いた師の教え「――本当は楽しむために生まれて来た」それが、溢れんばかりに。
そのキールタン映像もまた根源の煌めきを放っているようでした。まるで歓喜の巡礼さながらの皆の姿や神的な映像を見つめていると、師に初めてお会いした時、人との縁やつながりについて教わったお言葉を思いました。

師「心の領域も超えた、魂の領域というような、一番自分の核になっているところで見れば、おしなべて皆同等の関係であって、特別に関係が深まるというのは、その魂の目覚めをもたらすところのヨーガの仲間であるとかね、それは何生涯にも渡る深い家族関係のようにも形容されることがある。
皆、魂の旅を続けている。それぞれが経験をして、いろんなことを味わいながらその最終的な自由に目覚めるまで旅をしているのかもしれない
私「終わりはないんですか」
師「その終わりは悟りと言われている。本当の自由とか、本当の自分に目覚めるとき、その時に旅が終わると言われている――例外なくね。だから魂の旅人としては、同じ旅人同士

ヨーガをしている人もしていない人も、信仰する神様や宗教が違う人も、性別、年齢、人種関係なく、みんな魂としての最終目的地は同じ、同じ旅人同士。本当の自由、本当の自分に目覚めるための今回の旅。
旅路途中で出会う様々な人、ものを通して、私たちは楽しむために生まれてきたこと、世界は美しいに違いないこと、その真実を互いに交換し合っているような気がします。それぞれに役割があり、それぞれが真剣に生きていると思います。

Hara Hara Mahadeva』を最後まで観終え、今、聞こえてくるこの様々な音も、この見えるものすべても、シヴァ(宇宙の主)ご自身、自らが奏でて、創り出してくださっていると実感しました。すべての万物はその大いなる恩寵の中で、旅を進めさせてもらっているに違いありません。

ヨーガの守護神シヴァのご加護の下、それぞれの現在地から正しい目的地に向かって、ともに歩みを進めていくことができますように。時には気が急くこともありますが・・・「急がば回れ、コツコツと丁寧に歩んで行きましょう!」と先輩から頂いた応援メッセージとともに。

京都タワー

一人では迷いそうな大海原でも、光があれば大丈夫!

野口美香 


母なる神像

私の部屋の祭壇にはカーリー女神の神像があります。とあるきっかけで、先日その神像を初めて磨きました。真鍮製の像を専用の研磨剤と布を使って磨くのですが、これがまぁ驚くほどに汚れが落ちるんです。(どれだけほったらかしていたの…!)あっという間に布が真っ黒になっていきました。それでも一通り磨いたくらいでは汚れは落ち切らず、何度も何度も、お顔、胴、手、脚、土台、と細かい部分まで目を凝らしてきれいにしていきます。

そうして磨いていくうちに、今までカーリーのことを見ていたようで全然そうではなかったのだと気が付きました。瞳が真ん丸でキュートなこと、お鼻が立派なこと、後ろから見ると髪の毛の筋があること、足の爪もちゃんとあること。なんてかわいいんだろう!手で触れ、近くで見つめ、きれいになりますように、と磨いていくうちに、赤ん坊の世話をする母親のような気持ちになりました。宇宙の母であるカーリーに対して、私が母親のように感じるとはどういうこっちゃ?!と思いましたが、すべてを展開されたカーリーは、私が思う役割の枠になんて収まるはずがありません。今回の出来事で私は、カーリーによって、目の前の存在を大事に思い、愛おしむという気持ちを呼び起こしてもらったように思います。

きれいにしてからというもの、自然とカーリーに目を向ける回数が増え、眺めては胸の奥が愛おしい気持ちでいっぱいになるのを感じました。そして、カーリーだけでなくほかのすべての存在に対しても、同じような気持ちをもって接したいなぁと思うようになりました。大事に思う気持ちは、たとえまた薄れてしまったとしても、祭壇で変わらず輝くその姿を見つめていればきっと大丈夫なように思います。目の前の人、もの、すべての中にカーリーを見ることができれば、なんて素晴らしいだろう!そうなるために、私自身のハートもヨーガという研磨剤を使って根気よく磨き上げているところです。必ずきれいにできると信じています。なぜなら私の本質も、ピカピカに光ったカーリーと不異(同じ)だからです!

愛媛(今治)と広島(尾道)を繋ぐしまなみ海道です。秋晴れの中、穏やかな海と無限に広がる空がとても清々しく感じられました。

大森みさと


マウナと信仰

松が開けたばかりの頃でした。
長年抱えていた心労で母の体調が急激に悪化しました。その時、大先輩の姉弟子に電話で相談させていただくことがありました。姉弟子は、根気よく聴いてくださって、複数回にわたりメールを頂戴し気遣い励まし下さると共に、熱意をもって次のように助言をくださいました。

  • 起こることはカルマのためであるから、自業自得と覚悟をもって受け止めて、その時すべきことを行なってゆく。
  • 波風が立つような話題に対してマウナ(霊的沈黙)を徹底する。
  • 目的をしっかり見据えて教えを手放さないように。

「師が姉弟子を通じて導いて下さっている」と有難さを感じながら、もしここで実践できなかったらと思うと奈落の底に落ちてゆくようで心は激しく動揺しました。けれどもカルマは問題と正面から向き合うことでしか昇華出来ません。怯む心を押さえて、頂戴したメールを読み返しながら向き合う毎日が始まりました。

マウナについては、形から入れることでもあり、とにかく徹底せねばと心して臨みましたが、波風の方角へと一方方向だった母の思考傾向が一時的にも停止して、スムーズに新たな話題へと心が切り替わってゆくのを目の当たりにしました。
私が行なっているのは本来的なマウナにはあたらないかも知れませんが、それでもマウナが単なる避難ではなく、積極的な傾向を生み出す実践的な教えであることをひしひしと実感するようになりました。

しかし受け止めるということに対しては、苦しみの原因を他者に求める傾向から抜け出せず、一旦受け止めたと思ってもいつの間にか思い煩いが入り込んでしまいます。
ある時、切羽詰まった状況でも滑稽なほど蒔いた種から逃げ回っている自分が情けなくなり、「このままでは教えを手放してしまう!」と真剣に一番大切なものを問いました。
「信仰」でした。
師に御縁を頂戴し信仰の本質を教えていただける機会に恵まれながら、不平不満を漏らす自身に気づき、本当に大切なものを大切に出来るようにならねばと以後不平不満にマウナすることを意識するようになりました。
十分に対応できた訳ではありません。しかし師の恩寵を頂戴し、母は奇跡的に快方に向かい、ひと月後にはこれまでとあまり変わらぬ生活を過ごせるまでに回復するにいたりました。

市内の山側集落栢野(かやの)町にある菅原神社。境内には4本の巨木杉があり、右の二又杉は樹齢2300年ほどだそうです。5年前に健康診断を受けましたが、いたって健康と診断されました。近づくにつれ神聖なプラーナを感じます。

師やマハーヨーギー・ミッションとご縁いただいていることは何という幸せかと思います。家庭やその他に難があっても克服へ向けて愛情深く力強くご助言いただける存在がある。
またパラマハンサやブログでは聖者だけが語れる真実を伺う機会に恵まれるとともに、そこへ向けて突き抜けてゆこうとするグルバイ(兄弟姉妹弟子)の情熱的なサーダナ(修練)の様子を知ることが出来ます。
石川県に住んでいるのでコロナ禍以前はアーサナクラスに参加出来る機会が限られていましたが、オンラインで開講となり毎週参加させていただけるようになりました。毎回全身にプラーナが行き渡るのを実感し、特に月曜日受講ですので一週間の活力源とさせていただいています。

昨年冬のオンラインでの親睦交流会を機にグルバイ4名で『マユーラ(孔雀)の会』を立ち上げました。孔雀が毒をも解毒して食べてしまうようにそれぞれの無知をミーティングを通じて浄化しあい、理想と目的意識を各自もって象徴とするところのクリシュナの境地に向かってゆこうと月1で開催しています。
直接グルバイと話す機会が中々無い私にとってこのような会に参加させていただけることは大きな喜びであり、また意識を持って日常を過ごす糧にもなっています。

マユーラの会の一場面(2021.1.23)

また先日は『フォカッチャの会』にも参加させていただきました。折しもブラザー・ローレンスについてのブログが掲載され感銘を受けた後でした。全てを神への礼拝として行為し、至福の境地を生きられた聖者に目標とすべき姿を見たような気がして、フォカッチャをいただきながらのトークも楽しい中にも色々と感化されることが多く、『マユーラの会』でも毎回思うのですが、目的を同じくするグルバイの存在の有難さをあらためて感じました。

そして何よりも揺るぎない存在を実現されたお方を知って、そのお方が常に見守って下さっているということがどんなに心強く有難いことかと思わずにはいられません。
コロナ禍のみならず世間に深刻な問題が渦巻く中も、ある意味安心感に包まれて日々過ごしてゆける。これほどの幸せはあるでしょうか。
数多の祝福にもかかわらず顔を出そうとする我欲を一刻も早く必要ないものだと納得させ、きちんと霊性の向上という形で感謝を表してゆけるよう精進に努めてまいります。

当地は『弁当忘れても傘忘れるな』といわれるほど雨の多い地域ですが、この日は快晴。 さんさんとおひさま降り注ぐ海岸にはたくさんのわかめ(手前の茶色の部分)が流れ着いていました。

オーム・タット・サット・オーム

竹下千佳


オンラインで「理想の聖者」について語らう!

6月に入りましたが、皆さま、いかがお過ごしですか?
こちら京都は緊急事態宣言が再々延長され、私の住む嵐山は観光客も少ない状況です。
そんな中ですが、5月は多くのグルバイ(仲間)とオンライン交流をしました!

「フォカッチャの会」では愛媛、金沢、和歌山、また台北のグルバイと楽しく有意義な時間を共有しました。

また、ニューヨーク・ミッションで行なわれている「Study In Practice (SIP)」にも3回続けて参加させていただきました。

「学ぶことを学ぶ」がテーマのSIPは、余談なしの真剣な勉強会で、終始ヨーガの話が展開されます。
「ヨーガは知識ではなく実践、そして体得」
そう師は教えられますが、「どうしたら知識ではない学びができるのか?」「自分の偏った考えに陥らずに学べるのか?」「どのようにヨーガの教えを日常に結び付けられるのか?」といったことを話していきます。
会に参加する中で、私自身改めて感じたのは、やはり「学ぶ」には「理想の存在」が必要不可欠だということです。
「こうなりたい」「こう生きたい」「こうすればいいんだ」という気付きや道標が、理想の存在を見つけることでより明確になるーー
つまり、理想の存在を持つことで、学び、見倣うことがより実際的になされ、修行者の大いなる助けになると思ったのです。

SIPに参加した数日後、フォカッチャの会のヨーガ・トークスの時間には、皆さんと理想について話をしました。

参加したグルバイたちは、それぞれ理想の聖者をもっておられ、そこに近づく努力をされていました。
以下、要約したものをご紹介します!

神に対してひたむきで真っすぐなスワーミー・アドブターナンダが大好きで理想としていますが、私は以前、人間関係に悩み、部屋で声を押し殺してよく泣いていました。そんな時、アドブターナンダのエピソードを読みました。「人気のないところに行き、泣いて神に祈らなければならない。その時に初めて、彼はご自身をお示しくださるだろう」というシュリー・ラーマクリシュナの教えを実践していたこと、「彼はこの世の何事にも頓着せず、人生の唯一つの関心ごとは師にどのように忠実にお仕えするかということだった」、これらに衝撃を受けました。「私は自分のことばかり考えて自分のために泣いている。こんなばかばかしいことは、もうしたくない!神を求めて泣きたい!神に対して誠実に真摯に生きたアドブターナンダのようになりたい!」苦しい時だったからこそ、真逆の生き方をしていたことに気付き、より深く心に響き、理想に生きたいと心底思うことができました。

・昔から闘う女性に憧れている自分がいて、その性質を棄てるのではなく、ある時から生かそうと思い、闘う女性の究極に女神カーリーを見出しました。また理想の聖者は、煉瓦に頭をぶつけるぐらい狂っているナーグ・マハーシャヤ、それしかないと思っています。

・以前、理想(の聖者)を決めかねていた時、先輩弟子から「気楽に決めていいよ」とアドヴァイスをもらいました。理想って気楽に決めてええの?と戸惑いつつ再考……スワーミー・プレーマーナンダの伝記の一節「彼は骨の髄まで清らかだった」に触れた時、「私には無理だ」とすぐに自分でもびっくりするほどの拒否反応が出た事を思い出しました。そして、なぜそれほどまでに拒否したのだろうとその原因を探っていく中で、逆に清らかさに憧れをもっている自分に気付き、プレーマーナンダを理想としました。彼に近づきたいけれど近づけない。壁を感じていたのですが、つい最近、どうにかしたいと七転八倒していると、「プレーマーナンダ」という「名前と姿」を超えた言葉では表せない『何か』が理想であり、更にその先に師のヨギさんがおられるのを感じました。
プレーマーナンダの言葉、「まずはじめに全身全霊でひるむことなく誠実であるように試みることだ。過去、現在、未来におけるいかなる時も、真理は必ず勝利する」が大好きです。

・最近、ブラザー・ローレンスの『敬虔な生涯』を読んで、とても感銘を受けました。この人生を彼のように神への礼拝に生きたいです!

理想について話すのは、本当にいいですね。
とってもポジティブになれます!!

最後に、私の理想の聖者スワーミー・ヴィヴェーカーナンダの最高に力強い言葉を紹介させていただきます。

皆さん自身の心にむかって、「私は彼である、私は彼である」とおっしゃい。歌のように、それを昼夜、心の中に響かせなさい。そして死の時には、「私は彼である」と宣言しなさい。それが真理です。世界の無限の力は皆さんのものです。皆さんの心を覆っている迷信を追い払いなさい。勇敢になろうではありませんか。真理を知り、真理を実践せよ。ゴールは遠いかもしれない、しかし目覚め、立ち上がり、ゴールに達するまで止まるな!

今こそ、内面へのヨーガを深める時ーー理想を見つけ、学び、近づき、一つになる時だと感じます!!

誰かが間違ったボタンを押したら、こんな画面になりました。

ゴーパーラ


フォカッチャの会は『Automatic(オートマチック)』

ゴールデンウィークですが、どこにも行けないですね。。
でも暗くなっていても仕方がないので、今回のブログは「ポップ」にいきたいと思います〜☘

最近、宇多田ヒカルの『Automatic』という曲を思い出しました。
私が中学生の頃、流行った曲です💿
特に好きな曲でもなかったのですが、あることがきっかけでその心に眠っていた曲の再生ボタンが押されました。
「心のサンスカーラ(潜在的な残存印象)が克服されていないのでは?」と指摘されたら本当に何も言えないのですが……😓、以下その経緯を説明させていただきます。

3月のブログで紹介された「フォカッチャの会」ですが、一応私は主催者でありまして、4月は要望も多く、2週連続で開催させていただきました。
このフォカッチャの会は、オンラインでの宿泊・交流会で、以下のプログラムで行なっています。

🌃土曜の夜:フォカッチャ生地の仕込み(15分)&ヨーガトークス
🌅日曜の朝:瞑想(45分)&フォカッチャ焼き(30分)&朝食・ヨーガトークス

私自身、当初はオンラインというツールには抵抗があり、巷で「オンライン飲み会」というものが出てきた時には、「そこまでして、誰かとお酒飲みたいか?」と思っていました。
しかし、このフォカッチャの会でオンライン交流してみると、師が毎日好んで召し上がっているフォカッチャを皆で作り、いただき、そしてヨーガについて語らうーー「これ、こんなに楽しくていいの?」と思うほど、毎回笑いの絶えない楽しい会になっています。

また朝の瞑想もオンラインで皆でする方が集中感が増し、清々しい気持ちになれます。
前回参加した松山のグルバイ(仲間)の方からは、「オンラインの特徴として、ヨーガが自分の生活に入り込む感じがいい」という感想をいただきました。
確かに、私自身もそうだと思いました。
コロナ禍でグルバイとなかなか交流できない日常生活にヨーガのプラーナが入り込んで、その集中や喜びに満たされるーー
オンライン上ですが、グルバイと密な時間を過ごすことで、「自動的にヨーガの状態になる」という感覚がありました。
それを思った時、自動的➡︎オートマチック、はい、それで宇多田ヒカルの『Automatic』が流れ出しました。
そして断片的ですが「君とパラダイスにいるみたい♪」という歌詞が出てきました。

「なんや、そのオチは!」と言われたら、「私は関西人ではないので」と言わせていただきます✋

話を戻します↩️、師は「フォカッチャはただ単純に美味しい」とおっしゃられているそうです。
そのようにフォカッチャを単純に美味しいから毎日いただくように、いつもただ「神だけを愛する」ことができたら、心は自動的にパラダイスになると思いました🏖

美味しいフォカッチャもいただけ、親交(神交)も深められるフォカッチャの会の参加申し込み、ぜひお待ちしております🙋‍♂️

ゴーパーラ


フォカッチャの会

先日、京都と松山の数名でオンラインでの勉強会をしました。私は松山に住んでいますが、京都へ通うことができていた時には、毎月先輩グルバイが住む庵に滞在させていただいていました。その時に過ごした時間のように、気軽にヨーガの疑問を聞いたり、皆で師に思いを寄せて語り合ったりできるような交流を、ということで、先輩方が実現してくださったのです。私たちはこの勉強会を「フォカッチャの会」と呼んでいます。なぜこのようなネーミングなのかは後ほど触れるとして、まずはその様子をご報告したいと思います!

日ごろ感じていた些細な疑問を先輩にたくさんお聞きしたのですが、中でも強く印象に残っているものがあります。質問したのは、<日常生活で何を大切にしているか>ということです。
私は食材などの買い物をする時に、同じものを買えるならできるだけ安く買いたいという思いを持っていました。少し遠いお店へ行けば安く買えるけれど、時間がなくて近いお店で高く買った場合、「時間がかかっても睡眠時間を減らせば遠くのお店へ行けたのに、ベストを尽くしていないのではないか」といったことを考えてしまっていました。
ベストを尽くすことは大切だけれど、この場合<安く買うこと>に執らわれているようにも感じていて、先輩たちは普段どのようなことを大切にして日常生活を送っているのかを尋ねました。

この質問に対して先輩は、八正道 の中の『正命』について話してくださいました。以前先輩は師に、「正命とは生活を整えることですか?」と質問されたそうです。師は力強い口調で、
「正命とは生活を整えるとか、そんなこと小さなことではない。どう生きるかということだ 」
と教えてくださったそうです。そのお話を聞いて私は、「ヨーガを中心に生きたい」と思いました。今の私にはアーサナ、瞑想、聖典の学習が必須です。その時間を確保し、かつ疲れて集中できないといった事態は避けたい。ではそのためにはどうすることがベストなのかと考えれば、答えは自然と出てきます。
(※ここで言う『どう生きるか』ということは理想と同義です。私は咄嗟に『ヨーガを中心に生きたい』と感じたためそのままお伝えしましたが、もっと考えれば、理想を掲げ、それを実現するためにはどう生活するのか、と落とし込んでいくことになると思います。)

加えて、思いを残さないということも教えてくださいました。こう、と決めて行動したなら、思いを残さない。例えば、日々の料理は大切だと教えられていますが、「今日は時間が限られているから、料理は簡単なもので済ませよう」という日があってもいい。もしそう決めたら、それ以上料理のことについては思わない。当たり前のようですが、ベストを尽くせているのか?と悶々と考えていた私にとってはとてもクリアな答えでした 。

実は、この勉強会は二日間にわたって行われました。このようなやり取りに加えて、一日目の夜にフォカッチャ(イタリア発祥の平たいパン)の生地を仕込み、二日目の朝には瞑想会をした後、仕込んでいた生地を焼いて朝食を共にするという何とも贅沢なプログラムだったのです!!ここでフォカッチャの登場です!最近、師が好んで召し上がられているフォカッチャのレシピを、一緒にお住まいのシャーンティマイーさんが先輩に伝授され、それをさらに私たちが教えていただいたのでした。このフォカッチャは簡単に作ることができるのに、とっても美味しいんです。何より、師を思いながら同じものをいただき、味わえる歓びを毎日感じることができます。


そのフォカッチャのレシピをブログにも掲載させていただけるということで、ご紹介いたします!

<材料>
(A)強力粉 200~240g
(A)ドライイースト 小さじ1
(A)砂糖 小さじ1
(A)塩 小さじ1/4
(A)ぬるま湯(40度くらい) 200ml
(A)オリーヴオイル 大さじ1
オリーヴの実・乾燥バジル 適量
岩塩 少々

1.(A)を大きめのタッパーに入れて混ぜ、ひとかたまりにして冷蔵庫で一晩寝かす
2.翌朝タッパーを冷蔵庫から出し、常温で30分~1時間ほど放置
3.バットのようなものにクッキングシートを敷き、生地を平らに広げる
4.種を除いてスライスしたオリーヴを表面に押し込み、乾燥バジルとオリーヴオイル(分量外)、岩塩を全体に馴染ませ、フォークで生地を何か所か刺す
5.オーブンまたは魚焼きグリルで加熱
 加熱の目安…オーブンなら220度で予熱後、15分程度焼く。魚焼きグリルなら始めはアルミホイルをかぶせるなどした後、焼き色がつくまで焼く。
※ご家庭の調理器具によって分量や加熱方法などは微調整していただければと思います。
6.食べる前に好みでオリーヴオイルをかける

二日間の交流を終えた後は、まるで京都から帰ってきた時のようなすがすがしい気持ちで一日を過ごすことができました。シッディ(ヨーガの修練の副産物として現れる超自然力)を使って同時に二か所に姿を現した聖者がいましたが、私たちはオンラインという現代のテクノロジーを利用して、離れていても空間を超えることができます。 そして、グルバイとの交流によって前に進む力を与えていただいているということ、それは何にも代えがたいほど力強いということを、あらためて実感しました。
このような機会を与えてくださった先輩方、そしてすべてを導いてくださっている師への感謝を胸に、今日も理想を見つめて生活しています。

3月に入って行なわれた第3回目のフォカッチャの会。この日は東京のグルバイの方も参加されました! (写真のフォカッチャはオーリブの実がなかったので、ブルーチーズと粉チーズで代用しています)

大森みさと