投稿者「Harshani」のアーカイブ

それだけがある

静岡で、長年ヨーガを実践されている森ひとみさん。
京都のクラスやサットサンガだけでなく、東京での特別クラスにも時々参加してくれています。

ひとみさんの自宅の近くにある海

クリシュナ神が大好きで、クリシュナ神のキールタンを嬉しそうに楽しそうに満面の笑みで歌われているのを見ると、こちらまで幸せな気分になります。

 

ひとみさんがヨーガに興味を持ったのは、2001年。当時勤めていた会社で心身の不調に陥り、退職した頃でした。気持ちを安定させる方法を模索していた中で、瞑想の存在を知りました。
これなら自分の心をコントロールできるかもしれないと、近所で開催されていたヨーガ教室に参加。そこにいた先生とクラス参加者の方々が自由に生きているように見えて、ヨーガを学べば自分も自由になれるかも、と通い始めました。

そのヨーガ教室の先生はいつも「自分の心の赴くままに生きていれば、何も問題はない」と言っていましたが、ある時、本当にそれが自由に生きるということなのか疑問を持ちました。その答えを知りたくて、『あるヨギの自叙伝』や『秘められたインド』を読み、真実を実現した存在、グルのことを初めて知りました。
「私もグルに会いたい!」
どうすればグルに会えるのか?インドに行けばいいのか?
調べるうちにMYMのHPに辿り着き、この日本でグルに会うことができると知ってとても嬉しくなったそうです。

そして2007年9月、ひとみさんは初めて師にお会いしました。
サットサンガでは真剣な質疑応答が繰り広げられ、時に笑いが起こり、会場は終始熱気に包まれていました。皆、師を一心に見つめていて、まるで師という花に蜜蜂がむらがっているように見えました。それはこれまで感じたことのない甘美な光景でした。
そのサットサンガの中で、いつも不安感があることについて師に質問しました。

師は「ヨーガを行うと無恐怖(むくふ)になります」と答えられました。初めて聞く言葉でしたが、ひとみさんはこの上なく安心しました。
「ヨギさん(師)のことをグルだと思っていいですか?」
「はい、いいですよ」
そう答えられた師の目元に涙がにじんでいて、そのお姿を見て、ずっと探していたグルにやっと会えたという気持ちになり、胸がいっぱいになりました。

その後はサットサンガに参加する度に背負っていた荷物を下ろしていくことができましたが、未来に対する漠然とした不安と死に対する恐怖は、なかなか消えませんでした。

「それだけがある」
ひとみさんが一番大切にしている教えです。
「それ」とは、神のこと。 

「すべては神である」ということをはっきりと感じているのに、不安や恐怖がこびりついているような感覚があり、その不安や恐怖がどこから来たのか、瞑想で辿っていったことがありました。 
瞑想の中で、その大元には「純粋な意識」と「私という意識」が存在していると感じました。

それからしばらくして、この私という存在がどこから来て、どうやって成り立っているのか、それを辿っていくように瞑想した時に、大好きなクリシュナが自分の命そのものであることと、生も死もクリシュナと共にあるのだということを実感。とてつもなく安心し、それからは死への恐怖が少しずつ薄らいでいきました。

 

ひとみさんは師が描かれた絵の一つ、『アーディーナート』を観ていると、「それだけがある」という教えそのものだと感じるそうです。

『アーディーナート』とクリシュナ神

絵の中の黒い神は師であり、クリシュナでもある。白いのは私という意識。

神の光は圧倒的。自分が囚われていることは取るに足らないこと。

神はあまりにも眩しいから、それに照らされたら光で真っ白になる。

「それだけがある」、絵に描かれている状態になりたい!

そう語るひとみさんからは熱い想いが溢れていて、私の中にも流れ込んでくるようでした。

ひとみさんの純粋な想いをもってすれば、必ずその境地に至れるはず。お話を伺ってそう思いました。

 

ハルシャニー  

 


東京イベント報告 ヨーガに触れる2days

8月2、3日に、東京・中野で、特別クラス「ヨーガに触れる2days」を開催しました。 
京都在住で大阪・西宮北口クラスを長年担当されているシャチーさんを講師にお迎えして、2種類のクラスをしていただきました。 day1は、「呼吸を知る・体と向き合う・心を静める アーサナ・瞑想」のクラス。初めての人にも分かりやすいように、MYMのクラスで行なっているアーサナ(ポーズ)について大切なポイントを聞いた後にアーサナする流れで行なっていきました。 
      アーサナ後の静まった雰囲気の中、しっかり集中されているように感じました。

この日初めてクラスに参加された方に感想を伺うと、楽しかった、気持ち良かった、と笑顔で答えてくれました。  私も参加者の1人としてアーサナしましたが、長年実践している人にとっては、1つ1つの動きを今一度確認し、丁寧に形を作り、吐ききる呼吸を意識して行なうことで、より集中感を高めて瞑想しやすい心身に調えることができたと思います。 

day2は、「カルマ・ヨーガに倣う 働きの秘訣」を学ぶ講座。 
現在、東京で毎月開催している瞑想会ではヴィヴェーカーナンダの『カルマ・ヨーガ』をテキストにして進めていることもあり、カルマ・ヨーガを分かりやすく教えていただきたく、シャチーさんにリクエストして実現しました。 
 
カルマとは、原因とその結果。この世界に対して行なった行為は、必ず自分に帰ってくる。
例えば愚痴を言うとスッキリするように感じるかもしれないけれど、かえって心に愚痴の印象が刻まれて苦しくなる。言葉として外に出さないようにすることで、次第に思いはなくなり、心は真の穏やかさを感じるようになる。
目の前に困っている人がいたら助ける。これは他者を助けているようで実のところ私たち自身を助けていることになる。
日常生活のあらゆる場面で「私がしている」という思いを手放していくことで、目の前の人だけを見てその人が喜ぶことができるようになる。いつもの行為がヨーガとなり、喜びをもって他者に奉仕する、というカルマ・ヨーガの理想に近付いていく。

カルマ・ヨーガという言葉を初めて聞く方もおられましたが、シャチーさんご自身の体験談を元に親しみやすく話してくださったので、皆さん時折笑いながら熱心に聴き入っていました。 
シャチーさんが描かれた細密画。講座の中で描くきっかけになったエピソードも紹介してくれました。

 
初めて参加された方からの感想です。 
・今日のお話は目から鱗で、どれから実践してみようか、楽しみながらトライしてみようかと思っています。 
・講座の中で耳にした「軽やかに生きる」、良い言葉だと思いました。そうなれるように生きていきたいと思います。 
・これまでアーサナをしたり、クラスで聞いたことを実践をしてみて、特に介護をする上でヨーガの効果を感じてはいたけれど、今回のお話を聴いて、自分が感じていたことが一つに繋がったような感じがしました。これからは今日のお話を思い返し、進んでいきたいと思います。 

講座が終わった後、細密画をシャチーさんの解説付きで改めて鑑賞。

特別クラスから1週間ほど経った頃、改めてお2人の方にその後の様子を伺ってみました。 

day1に参加されたIさんは、その日から毎日アーサナを続けるようになったそうです。 これまで毎日やった方がいいと思いつつできずじまいだったけれど、仕事の疲れや悩みを解消して自分を変えるためにも、今度こそ続けていきたいと思いを強くされたようでした。

day2に参加されたMさんは、何かとぶつかりがちだった家族の話を、相槌を打ちながら聞くようにしているとのこと。それは、シャチーさんが語られた、師が目の前の人に常に穏やかに優しく接して、頷きながら真剣に話を聞いていた、というエピソードが印象に残ったからだそうです。

2日間の特別クラスがヨーガの本質に触れる良い機会になったようで、嬉しいです。 

大阪でシャチーさんのクラスを受講していた方も参加してくれました!

ハルシャニー  

 


ダヌル・アーサナで苦手意識を克服する

ダヌル・アーサナ弓の形は、その名の通り弓を模した形です。
横から見ると矢をつがえ弓のように見えます。 

初めてクラスでダヌル・アーサナを行った時、あまりにきつくて息を吸うのも吐くのも大変、この状態で形を保持するなんてとんでもないと思いました。

毎日アーサナすることが習慣になっても自宅ではダヌル・アーサナは短い保持で戻しがちでしたがクラスでは他の参加者の方々の集中力に助けられて、少しずつではありますが、長めに保持することができるように。
ただ、自分としては限界まで足を引き上げたところからクラス担当者のサポートによりさらに足が引き上げられると、「無理無理無理無理!!」と心が悲鳴を上げることもしばしば。せっかく引き上げてもらったのに、段々下がっていく息を吐き切るようにとアドバイスをもらっても、形を保持することに必死で浅いままの呼吸
ダヌル・アーサナ対する苦手意識消えないまま月日が流れていきました。 

しかし、あるを境にその苦手意識がなくなっのです
それは自宅でアーサナしていた時のこと。
次はダヌルかぁ…と毎回気が重くなことにうんざりして、もうこんなのは終わりにしたいと思いました。 

ダヌル・アーサナはきつい苦しいというのは思い込みだから無視する!
他のアーサナで息を吐き切れることもあるのだから、ダヌルの時だってできるはず!
そう決めてから、ダヌル・アーサナへの取り組み方が変わりました。 

しばらく経ったある日。いつも通り形を作り限界まで足を引き上げできる限り息を長く吐き切るようにしていたら「あれ?意外と苦しくないかも?初めて感覚に驚きました。
いつもより高く上げることができてこれまでよりは少し楽にその位置を保つことができて足が上がったことで胸が広がり、深く吐き切れました。れだけでなく、自然に吸う息が入ってくるまでの間、一瞬時が止まったように感じました。深く吐き切るなんて苦しいと思っていたのに、むしろそちらの方が楽に感じることにも気付きました。

これを機にダヌル・アーサナをするのが少し楽しみになり、アーサナ全体を通してより丁寧に吐き切ることが習慣になりました。また、形を取ることで体がきついと感じても、その感覚に囚われずに実践できるようになったと思います。
そして、アーサナだけでなく日々の行為においても避けてしまいがちなことに対してもあれこれ考えずにとりあえずやってみよう、と思えるようになっていきました。 


二元性を超える

この世界は二元性の世界です。生理的に感じる暑い寒いというようなものから、心が思う好き嫌い、得手不得手、全ての事柄が対立的に二元性を持っていると思います。そして心はそれらの二元性の中で振り子のようにいつも動揺して、定まることを知りません。ヨーガを学んでいけば、世界の二元性という現象そのものは認めるのだけれども、結局それによって心が動揺してしまうことは防がなければならない、つまり二元性を克服しなければならないということが見つけられます。暑い寒いや、快適さや不快などもそうですが、やはり心が創り出す好き嫌い、好ましいもの好ましくないもの、そういう偏見を何より無くさなければいけないということになります。
アーサナが落ち着いてくると呼吸が落ち着いてきて、同時に心も落ち着いていきます。それは聖典や真理の言葉を理解する土壌ができていくということを意味します。
心が動いている間は動揺して止みませんが、心が静まってくれば、真理、真実という不動のものを感じる力が出てきます。アーサナは間接的かもしれないけれども、そういう心に与える影響をもって、二元性の克服を目的に挙げています。 

『マハーヨーギーの真理のことば』より 

 

私の苦手意識の克服に大きな影響を与えてくれたダヌル・アーサナ。
私と同じような方にとって、少しでも参考になれば幸いです。

国分寺クラスに来られている皆さんも、ダヌル・アーサナに真剣に取り組まれています!

ハルシャニー  

 

 


ロープを外して本当の自分を実現する

3年ほど前、義父が難病と診断されました。 
主治医から、治療方法はなく急に悪化して亡くなる可能性が高いと言われました。 
義父は現役の頃は困難を抱える人たちが安心して暮らせる環境を整えるために働き、引退後は地域の人たちのために様々な活動をしていましたが、それらを他の人に引き継ぎ、闘病生活が始まりました。 

 私は師の教えを支えとして、自分にできることを精一杯やろうと努めました。 

実に善き人の、たとえ悪しき人であっても、死に接するのは寂しいものです。 
私たちの本性が永遠不死であるから、それを知っているからかもしれません。 
病に苦しむ人、死に逝く人に奉仕することは最善です。 
身近なあなた方の家族の場合においてもそのように尽くしなさい。 
食べ物を口に運び、排泄をさせ、体を洗い、床擦れを防ぐため、時折体の向きを変えてあげねばなりません。 

義父が外出が困難になってからは、義父の好物を差し入れ、季節の変化を感じられるように話をしました。毎回義父は嬉しそうで、義父が喜んでくれそうなことを考えるのが夫と私の習慣になりました。 
急変を繰り返す度に義父の体力は低下、苦しそうな時間が増えていきました。定期的に鍼灸治療をしていたこともあり、義父の体が限界に近づいていることを痛感しました。それでも義父の気力は衰えず、一切弱音を吐くことなく力強く生き切り、旅立ちました。
義父の死が現実となり、苦しみから解放されて良かったという思い、よく頑張ってくれたことに対する感謝の思い、もっとできることがあったかもしれないという後悔の念、様々な感情が入り乱れました。 

義父が生まれ育った多摩川流域の景色

そんな中で迎えた義父の葬儀当日。
初七日の法要も併せて行われました。 僧侶の方が読経の前に、お経の意味を説明してくださいました。 

初七日とは、故人が三途の川に辿り着く日。無事に三途の川を渡れるようにと祈るお経を唱えるが、お経の最後に大きな声を出すことに意味がある。
故人が家族など大切な人たちを残したまま逝くことに未練がある場合、それはこの世に対する執着となり、三途の川への旅立ちを妨げることになる。大きな声で喝を入れるように読経することで、故人をこの世へと繋ぎ止めるロープを断ち切り、彼岸、悟りの境地へ向かいやすくする。そして同時に、残された家族も故人への想いに区切りを付けやすくする。 

僧侶の方の話に出てきたロープという言葉は、ヨーガを学ぶ中でも何度も見聞きします。 

ヨーガの目的は、誰もの中にある本当の自分を実現すること。それは仏教でいう悟りの境地へと至ることと同じです。
本当の自分とは、生まれたことも死ぬこともない永遠の存在で、誰もの中にあります。
悟りの境地とは、本当の自分に目覚め、そこに留まることです。 
私たちはこの世という此岸から、悟りの境地である彼岸へと、ボートを漕いで進んでいるような状態にあります。漕ぎ進んでいくためには、まずボートを此岸に繋いでいる「ロープ」を外す必要があります。 

「ロープ」とは無知、煩悩、執着の象徴。 
大切な人とずっと一緒にいたい、この幸せな状態が永遠に続いてほしい、と願うことは、執着にあたります。世界は常に移ろい変化するもの。どんなに大切な人であってもいつかは別れの時が訪れ、どんなに楽しい時間も無限に続くことはない。身体を持って生まれてきた以上、肉体は必ず終わりの時を迎えます。 
肉体があってもなくても「本当の自分」は永遠に変わらず存在し続ける。それこそが真実で、それ以外のものを手放していくことが、「ロープ」を外すということになります。 

義父との別れが辛く悲しいのは、限りある肉体が義父だと思っているから。それは真実ではありません。
生まれることも死ぬこともない本当の自分に向かいボートを漕ぎ進んだ暁には、永遠に自由で純粋そのものの存在として、共に在り続ける。

「善き人であっても悪い人であっても、その死に接すると寂しいと感じるのは、私たちの本性が永遠不死ということを知っているからかもしれない」

今私は、この教えに確かな希望を感じています。 
それは、死に接して寂しいとか悲しいとか感じること自体が、私たち自身の中にある本当の自分が永遠の存在であると知っていることの証明だと思うからです。

いつかこの身体を私と思っている意識がなくなり、永遠の存在と一つになったのなら、外すべきロープもなくなる。それを目指し、ボートを漕ぎ進めたいと思います。

国分寺クラス会場の近くでは毎年蓮の花が咲きます。今年ももうすぐ咲きそうです。

ハルシャニー  

 


ハラ・アーサナで体と心を耕す

新緑から深緑へと移り変わる季節になりました。 
二十四節気では、5月5日から5月20日までが立夏。そのうち、5月10日から14日までは、七十二候で「蚯蚓出(みみずいずる)」の期間です。 
ミミズは、土の中を活発に動き回り、土を柔らかく耕すことから、「自然の鍬(くわ)」と呼ばれていたそうです。  

立夏の頃に咲くムサシノキスゲ。東京都府中市にのみ自生しているそうです。

私は耕すという言葉を聞くと、ハラ・アーサナが頭に浮かびます。 
ハラとは鋤(すき)のこと。 
鍬も鋤も田畑を耕す道具。その名前が付いたハラ・アーサナを行うことで、身体という田畑を耕すことができるとされています。

ハラ・アーサナの完成形では、日常生活において凝りや疲れが出やすい首・肩・背中・腰・足の裏側、が一気に伸ばされます。 
まさに土が耕されて柔らかくなるように、凝り固まった体と心が柔らかくほぐされていくような感じになります。 
また、上半身が逆さになるため内臓が反転し、その形で息を吐き切ることによって内臓も揉みほぐされるような状態になり、胃腸など消化器官の働きが良くなります。

私自身の体感としては、ハラ・アーサナは他のアーサナ以上に、その時の心身の状態が反映される気がします。 
食べ過ぎた時は体が重くて背中を起こしづらく、息を吐き切りづらい。 
気持ちが落ち込んでいる時に行うと、体全体が硬くて呼吸が浅く短くなる。 
しかしそのような状況でも、焦らず丁寧に形を作り呼吸に集中していくことで、形を戻してシャヴァ・アーサナをする頃には、スッキリ軽くなっているのです。

 クラスで初めてハラ・アーサナを行ってもらう前に見本をお見せすると、難しそう、私にはできない、というお声を耳にすることがあります。 
確かに、腰や首などに症状がある方は慎重に形を作る必要があります。また、ある程度腹筋が使える状態でないと、足を直角に上げるだけでもかなりきついと思います。 
やってみて難しい場合は、足を直角に上げて数呼吸保持してから足を下ろす動きを数回行うだけでも効果はあります。 
その日の調子に合わせて自分ができるところまでやってみる、あるいはやってみようとすることで、少しずつでも体が柔らかくほぐされていきます。 

MYMのクラスでは1人1人の身体の状態に合わせて、より行いやすい方法をお伝えしていますので、ぜひクラスでハラ・アーサナの効果を体感して頂けたらと思います。 

 ここ数年は高温多湿の気候が長く続くようになっており、体も内臓も疲れがち。 
ハラ・アーサナで心身の疲れを取り、軽やかな身体でこれからの季節を過ごしたいです。 

ハルシャニー  

 


東京クラスからのお知らせ

東京国分寺クラスが始まって1年。
クラス会場から見える桜が満開を迎えた今週、Instagramで東京クラスのアカウントを開設しました。
@mym.tokyo

プロフィールの画像は、2014年に当時クラスに通っていたメンバーで制作した「サハスラーラ・チャクラ」。2㎡くらいの布をメンバーの1人が自宅の浴室でコーヒーで染めた後、公共施設を借りてみんなで蓮の花を描きました。
各自仕事などで忙しくしていたけれど、この「サハスラーラ・チャクラ」を制作した期間は、不思議とみんなの予定を合わせることができました。全員揃うことはなかったけれど、その時いるメンバーで集中して一気に描き上げたことは、何物にも変え難い経験でした。

クラス会場の前にある桜

現在国分寺クラスでは、30〜70代の方々が毎週熱心にアーサナに取り組まれています。
還暦を過ぎてから始めた方もおられますが、少しずつ形や呼吸が深まっていく姿を見ていると、ヨーガは年齢に関係なく誰にもできることを実感します。

 参加されている方々から、「疲れているけれど、クラスに行った方が楽になると思って参加したら、とてもスッキリした」という感想をよく耳にします。
これはアーサナによってプラーナ(気)が調えられ、身体の隅々まで良いプラーナで満たされるからです。

私たちが身体を使って活動したり、喜怒哀楽などで心が動いたりするのは、すべてこのプラーナの力によるもの。アーサナの形を正しく作り、プラーナの大きな現れである「呼吸」を深く長く吐き切っていくことで、心は落ち着き身体の疲れは癒やされ、心身ともに軽やかになります。
アーサナは自宅で1人でもできますが、他の人と一緒にアーサナすることで、より集中感が増して、形を深めやすくなることがクラスの醍醐味だと思います。
クラスでは、まずは1人1人の身体の状態に合わせて形を作り、息を吐き切るようにしていくことが目標となります。基本的な形を丁寧に行うことが大切ですが、やってみたいと思う形があれば、完成に向けて少しずつ練習を重ねていきます。

国分寺クラスに参加されている皆さんも、基本的な形がある程度出来てきたら、少し難易度が高めのチャクラ・アーサナ(輪の形)やシールシャ・アーサナ(頭立ちの形)に挑戦してもらうようにしています。皆さんの共通点は、やれるか分からないけれどやってみたい!という前向きな気持ち。皆さんがお互いを応援し合いながら楽しそうに、かつ真剣に取り組まれる様子から、いつも良いプラーナをもらっています。

このようなヨーガの素晴らしさをさらに多くの方に体感して頂きたく、隔週火曜日夜にクラスを開講することになりました。東京ではコロナ禍以降平日夜クラスを休止したままだったので、約5年ぶりの平日夜クラスです。新たな出会いを楽しみに、只今準備中。最寄りはJR中央線中野駅、6月からのスタートを予定しておりますので、日にちが確定しましたらInstagramでお知らせします。

フォローよろしくお願いいたします!

 

ハルシャニー  

 


力を与えてくれるヴィヴェーカーナンダの言葉

インドの聖者、スワーミー・ヴィヴェーカーナンダは、数多くの力強い言葉を残されています。

『立ち上がれ、目覚めよ』は小さな本ですが、ヴィヴェーカーナンダの力強いメッセージが凝縮されていて、私は幾度となくこの本を開いています。

まず自分を、それから神を信じよ”

日々悩みや苦しみに翻弄されている自分に自信が持てず、これでヨーガを実践しているといえるのかモヤモヤしていた時に目に飛び込んできたのが、この言葉でした。
「神」「真理」「真我」と呼ばれる、永遠に変わらない純粋そのものである存在が、誰もの中にある。
そう教わる度に心底安心して、それだけになりたいという思いが湧き起こるのですが、気持ちが落ち込むと、私にはできないという思いの方が勝ってしまう状態でした。
この堂々巡りから抜け出したくて、ネガティブな思いが湧いたらこの言葉を呟くことにしました。最初はただ呟いているだけでしたが、続けているうちに胸の奥の方に意識が集中されて熱を帯びてくるようになり、その体感しているものが、「神」と呼ばれる存在なのかもしれないと思うようになりました。気付けば自分自身を、そして神を、確かにあると信じられるようになっていました。


しかし、実践を続ける中では葛藤することや悩むことが度々起こります。そんな時、勇気を与えてくれるのがこの言葉です。

失敗を気にするな。それは自然なことだ。失敗——それは人生の美だ。失敗のない人生などありえない。もがき苦しむことがなくなれば人生に意味はない。…苦しみや間違いを気に病むな。…これらの失敗や小さな後退を気にするな。千回でも理想を掲げよ。そしてもし千回失敗したら、さらにもう一度チャレンジせよ”

失敗してしまった時にこの言葉を思い出すと、目の前にヴィヴェーカーナンダが現れて、私の手をぐっと引っ張ってくれるように感じるのです。
落ち込んだ気持ちはリセットされて冷静になり、失敗した出来事と真理の教えとを照らし合わせ、何が原因だったのかを見付けて、もう一度やってみようと思えるようになります。
たとえそれでまた失敗したとしても、この言葉の通り、千回でも理想を掲げてまた挑戦すればいい!
私にとって最も気合が入る言葉かもしれません。

先日『立ち上がれ、目覚めよ』を読み返したら、これまであまり気にならなかった言葉が目に留まりました。

愛に失敗はないのだよ、君。今日であろうと、明日であろうと、何十年後であろうと、真実は征服する! 愛は必ず勝つ。君は仲間を愛しているか?”

愛とは純粋に、ただ相手の幸せのために自らを捧げること。
そこには失敗か成功かなどということは一切なく、ただ愛があるだけ。
ハートをギュッと鷲掴みにされたような感覚になりました。 

また、初めは仲間というのは共に真理へと続く道を歩む人たちのことを指していると思っていたけれど、何度も読み返すうちに、仲間とは、全ての共に生きる人たちのことを指しているのではないかと思うようになりました。
目の前にいる人かもしれないし、遠く離れた場所にいる人かもしれない。
それぞれの人にとって大切な人たちを愛し、その幸せを願い行為することで、不可能なことも可能にする力が、きっと生まれる。
ヴィヴェーカーナンダも、そのように人々を愛し、彼に愛された人々も彼を愛し、それが大きなうねりとなり、数々の仕事を成し遂げられたのかもしれない。

今生で出会えた愛おしくて大切な仲間たちと共にいられることがどんなに吉祥なことか。私はこれまで以上にそれを実感しています。
1人でできることには限りがあるけれど、仲間がいることでできることは無限大に広がっていくと信じています。

少しでもヴィヴェーカーナンダに近付けるように、行為していきたいです

 

ハルシャニー  

 


円満であるために 〜献身奉仕の実践〜

人懐っこくて、誰とでもすぐに仲良くなれる。
周りをよく見ていて、困っている人がいたらさっと手助けする。
ナンディニーってどんな人?と聞かれたら、そう私は答えます。

ナンディニーがMYMのクラスに初めて参加したのは、2008年。
すでにMYMのクラスやサットサンガに参加していた友人から、「夢から覚めた人に会えた」と聞き、なぜかその言葉に感動し、嬉しくて涙が出たそうです。ちょうど心身ともに不調を感じていたこともあり、体調を調えたくてヨーガ・瞑想クラスに通い始めました。

元々、神さまのことを知りたかったナンディニー。祈りや信仰が確かにあるということを誰かに肯定してもらいたい、いつか信仰について誰かに教えてもらいたい、と思っていたそうです。
師の教えをまとめた『ヨーガの福音』を読み、信仰の大切さを知ることができた時、とても安心して、京都にいる師に会ってみたいと思うようになりました。

そして、2009年10月、師と初めてお会いすることができました。
マハーヨーギー・アーシュラマで師のお姿を拝見し、嬉しくてたまらなくなってニコニコしていたナンディニーを、師はしっかりと見つめてくださいました。その瞬間身体が熱くなり、その時は見つめられて照れたことで熱くなったと思っていたけれど、後に師から祝福を与えられたのだと思いました。
その後師にお会いするうちに、誰に対してもにこやかで優しく真摯に接されている師の周りは、いつも円満であることに気付きました。その境地に憧れ、目の前にいる人に寄り添い、その人が本当に必要なことができるようになりたいと思うようになりました。

 
ナンディニーの部屋にある祭壇

そんなある日、ナンディニーは「本当の献身奉仕とは何か?」を考え始めます。
当初は、「本当の献身奉仕」をするには自分を犠牲にしなければならない、義務のようなものだと感じていました。
しかし実践する中で、あらゆるものの中にある、真理・真実・神と言い表される純粋な存在が愛しくて、自らを他者のために捧げずにはいられなくなることが、「本当の献身奉仕」ではないかと思い至りました。

自らのエゴを一切なくして空っぽになることで、神への愛、信仰でいっぱいになる。そうすれば、純粋な愛そのものである師がなされていた、「本当の献身奉仕」ができるようになる。

そうなれるように、ナンディニーは日々実践を続けています。
長年続けているヘルパーの仕事においては、利用者さんのためにできることを行ない、家族に対しては介護や看護などを積極的に行なっています。

これまで以上に多忙な日々を送っているナンディニー。
「家族であっても他人であっても、同じように他者へ奉仕したい」
そう語る彼女は、以前よりもさらに人懐っこさがパワーアップして、目の前にいる人たちへの愛で溢れているように見えます。

それは、ナンディニーが憧れている円満な境地に向かって、一歩一歩着実に進んでいっている証だと思います。

 

ハルシャニー  


ブジャンガ・アーサナで心身を目覚めさせる

今年は巳年。 

ブジャンガ・アーサナ=コブラの形は、ヘビを模したポーズで、鎌首をもたげるヘビのように、うつ伏せの状態から上半身を反らせて形を作ります。

 MYMのクラスに通い始めた頃、私は首を痛めており、背骨を反らせると腕に痺れが出て、息を吐くのも吸うのも苦しく、ブジャンガ・アーサナに苦手意識を持っていました。 
クラスでは、手の動かし方、手をつく位置、視線の動かし方など、一つ一つの動作を細かく教わり、焦らず丁寧に背骨を一節ずつ反らせていくように、とアドバイスを頂きました。 
できる範囲で続けるうちに、背骨を反らせても痺れが起きることはなくなり、息をしっかりと吐き切れるようになりました。形を保持するのは楽ではなかったけれど、ブジャンガ・アーサナを行うと身体がシャキッとする感じがして、アーサナをするのが楽しくなっていきました。 
昨年から始まった、パラマハンサ会員対象の講座、「アーサナの秘義」の中で、ブジャンガ・アーサナは心身を目覚めさせるというお話を聞いて、まさにそうだ!と思いました。 
 

東京・国分寺クラスでは、定期的にブジャンガ・アーサナの作り方を細かくお伝えしていますが、説明なしで行う時よりも皆さんの集中感がぐっと増すように感じます。 

先日の今年最初のクラスでも、今一度作り方を説明してからブジャンガ・アーサナをやってもらいました。皆さん一つ一つの動作を丁寧に行っていて、いつも以上に保持時間を長めにしても、最後まで集中力を保たれていました。終わった後のシャヴァ・アーサナはとてもリラックスされて、皆さんのプラーナ(気)が調い、充実しているように感じました。 

講座「アーサナの秘義」で、繰り返し教えてくださっていることがあります。 
 
時間は連続しているようだが、私たちは刹那を生きている。過去のことを悔やむ、未来を憂うのは、今という瞬間を生きていないから。 

心の様子や体の状態は時間の経過と共に変化するもの。それに囚われず淡々と集中して実践していく一つのアーサナでもいい、常に新鮮な気持ちでアーサナと向き合っていくことがとても大切。 

そうすることで、アーサナ中の一呼吸一呼吸の中に生きていけるということを、心身に覚えこませている感じになる。 

それこそが「今を生きる!」ということになり、今・今・今・・・の連続が未来を作っていく。

今年はこれまで以上に真剣にアーサナを実践していきます。
特にこのブジャンガ・アーサナをしっかり行って心身を目覚めさせ、今この瞬間を大切に生きることができるようになりたいです。

ハルシャニー  

 


愛は優しさとして表れる

いつも親子で一緒に来院される患者さんがいます。 
お母さんはおおらかで、いつお会いしても笑顔が素敵な方。お子さんは少しシャイだけれど人懐っこく、屈託ない笑顔が魅力的な小学生です。 
お子さんには障がいがあり、2歳の時に初めて来院されました。その頃も今も、お母さんはその子のペースや意思を大切に、ゆったりと丁寧に寄り添われています。 

 先日来院された時のこと。 
施術の最後、患者さんにベッドに腰掛けてもらう時に足元にスリッパを揃えて置くのですが、お子さんがちょうど良いタイミングでスリッパを揃えて、お母さんが履きやすい位置に置いてくれました。「ありがとう」とお母さんが言うと、ちょっとはにかんだような笑顔でお母さんを見つめました。「優しいね」と呟いた私に、お母さんが言いました。 
「この子はいつも周りの人に助けられることが多いからか、最近は誰かがしてくれることを良く見ていて、自分がしてもらっていることを他の人にも同じようにしてくれるんです。本当に素晴らしいと思う」 
お母さんの全身から愛が溢れ出てこちらに伝わってくるように感じ、師の教えを思い出しました。 

 愛と尊敬 

 愛というのは必ず他に向けられるものだと思うし、それは他を尊敬していないとできません。そして、本当に大切に愛おしく思うこと。単に好きとか嫌いとかいうものではなくて、愛おしむ、大切に思う、尊敬する、そういったことだと思う。そこで、そのためだったら本当に大切に扱う、行為する。それが優しさとして表れてくると思います。 

 『マハーヨーギーの真理のことば』より 

 
世の中にはたくさんの人がいて、状況も考え方も様々ですが、それぞれの中には等しく純粋な存在があります。そのこと自体が尊く、愛おしいこと。その愛おしい思いを目の前の人に向けて行為していくことで、愛は優しさとして必ず伝わり、それを受け取った人も同じように他者のために行為していく。この親子の姿を見てそう思いました。

近所の庭園の紅葉。やわらかな日差しの中、笑顔で紅葉を見ている人たちがたくさんいました。


ハルシャニー