投稿者「MYMメンバー」のアーカイブ

「私を愛している?」

黄緑色だった若葉も濃い緑に変わり初夏の陽気を感じます。生い茂る木の下を通ると、葉と葉の間から届く満ち足りた光や空気に、気持ちがスーッと静まります。
以前よく一緒に歩いた目の不自由なおばあさんが、建物の陰と木の陰とでは心地良さが全然違うから見えなくても木の陰に入ったらすぐに分かるわ~とよく仰っていました。それまで私は木の陰よりも建物の陰の方がしっかりした陰で涼しいのでは?と思っていたのですが、意識して感じてみると本当に仰る通りで、なるほど!と一緒に喜んだものでした。また、おばあさんは整備された歩きやすいアスファルトの道よりも不安定で危なそうな河原や砂利道などを好まれる方で「土とか石のデコボコ道の方がしっかりと踏み込んで気ぃ張って歩ける。天然の足裏マッサージみたいで気持ちいい~」とも言われていました。私の固定観念を次々と壊していただき(笑)自然を感じて豊かに生きる、ということを実地で教わった方でした。自然に抗わずその時々を楽しまれ、また暮らしぶりや持ち物が驚くほどシンプル身軽で、闊達な方で憧れでした。今も木陰に入ると、あのおばあさんのクシャっとした笑顔が浮かび嬉しくなります。

大きな木陰

包み込まれるような大きな木陰

ところで、まだ福祉的な仕事とは無縁だった頃、目の不自由な方に拙い道案内をしたことがありました。その時、お相手がとても素朴であたたかい感謝を示されたため、その御恩をお返ししたくて、しばらく気持ちがずっと落ち着きませんでした。どうすればいいのかが分からなかったからです。でもその時、以前に『パラマハンサ』(機関紙)の紙面で読んだ『ホーリー・マザーの生涯』からの大好きなお話に導かれるように私はある方法を見つけられました。これからは道で出会った目の不自由な方へ、みんなへ同じようにしていこうと。
時には、さまざまな事情から会いたくても会えない人や状況があるかもしれません。人とは本当に一期一会だなと感じます。そのお相手には直接出来ないことを別の方へ、他のみんなへ、同じようにする、ということを意識するようになりました。

きっかけとなったホーリー・マザー(ラーマクリシュナの御伴侶であられたサーラダー・デーヴィー)のお話はこんなお話です。


たいへん手のかかる家庭の厄介者だったという女の子が、お母さんと一緒にホーリー・マザーをよく訪ねていました。女の子はホーリー・マザーが大好きでしたが、ある日ホーリー・マザーが別の場所へ発たれる日が来て、少女へおっしゃいます。

いい子ね、私のところに来るようになって、もう随分になりますね。私を愛している?

「はい、とっても。大好きです」

どれくらい?

女の子は思いっきり両腕を伸ばして言います。「これくらいよ」

・・・遠くなってしまっても、それでも愛してくれる?

「はい、同じように愛します。忘れることはありません」

どうしたらそれが分かるかしら

「マザーに分かってもらうには、どうしたらいいかしら」

もしあなたがお家の人をみんな愛することができれば、私を愛してくれていることもきっと分かるわ

「分かったわ。家族のみんな愛します。わがままはもうやめにします」

それはとっても良いことですよ。でもあなたが分け隔てなくみんなを平等に愛するってことが、どうしたら私に分かるかしら

「みんなを等しく愛するにはどうすればいいの」

平等に愛するには、愛する人々から何も求めないことですよ。もし求めれば、もっとたくさん与えてくれる人とそうではない人ができるでしょう。そうなれば、もっとくれる人たちを好んで、少なくしかくれない人たちは愛さないということになってしまうわ。そしてあなたのみんなへの愛は平等ではなくなってしまうでしょう。偏りなく皆を愛せなくなってしまうわ

少女は何の見返りを求めることもなく、みんなを愛することを約束したそうです。

*参考・引用:『ホーリー・マザーの生涯』


2020年にコロナが蔓延し始めサットサンガ(真理の教えを問答形式で学ぶ場)もお休みになり、マスク生活で息を潜めるように過ごした3月、コロナ禍で初めての『パラマハンサ』が郵便で届きました。サットサンガの記事に、いちばん聞きたかった師のお言葉がありました。

質問者「ヨギさんのことはとても好きですが、自分のことをもっと愛していることに気付きました。このような自分は嫌です。どうしたらいいでしょうか」

師「そうして気付いたことは良かったです。これからはそれを改めていけばいい。そして本当に私を愛しているのならば、あなたの周りにいる人たちを愛して、奉仕してください

師のお言葉は、ホーリー・マザーのあのお言葉と全く同じものに感じ、以来、大切な指針となっています。ホーリー・マザーが少女に仰った「私を愛している?」。その問いかけは、その時々の目の前の人、一(いち)なる「あなた」からの声なのかもしれません。

長岡京の花

クラスへ行く道すがらの一期一会

 

 野口美香 


一点集中

前回のブログで「大いなる真剣さ」とは、カミソリの刃の上を渡り切るほどの強い信念を持ち、一分の隙もなく集中し続けることではないか、と書きました。 
ヨーガではこの状態のことを「一点集中」といいます。常に一点集中の状態でありたいと願うものの、日常生活の中で起きる様々な出来事や、自分の心に振り回されて、持続することができないことが多々あります。 
葛藤したり悩んだりしながらも、その境地への憧れの思いだけは強く持って実践を続けていますが、強烈な一点集中状態になっていたのだと後で気付いたことが何度かあります。 

最初にそれを体験したのは、乗り越えられると思えないような大きな問題が起きた時でした。 

あらゆることが信じられず、真理の教えも無意味に感じてしまい、ヨーガの実践を続けることが苦しくなりました。かといって元通りの生き方に戻るのは怖く、寄る辺ない思いで過ごしていました。教え導いてくださっている師に対し、心の中で申し訳ないと詫びながらも、何とかしてほしいと助けを請うような日々が続きました。 
ある日、息をするのも苦しくなり、体を動かす気力もなくなり、自分の存在を今すぐ消してしまいたい、そんな思いに支配されました。 
私自身のことも世の中のことも真理の教えも、何もかもどうでもいい! 
そう思った瞬間、私という意識や思い煩っていたこと全てが消え、ただ師の存在だけを感じました。 
大量の涙とともに抱えていたもの全てが流れ出て、久しぶりに息ができたような感覚になり、他には何もいらないから師への想いだけは失いたくない!!と必死に願いました。 

それからしばらくの間、師に意識が集中した状態が続き、不安も恐れも全くない、これまで感じたことがないほどの平安な気持ちで満たされました。 
何がそんなに苦しかったのかも思い出せなくなり、気力が戻って普通に動けるようになりました。 
問題が解決されたわけでも、状況が改善したわけでもなかったけれど、意識が師からそれることがなかったため、心が何にも反応しなくなり、やるべきことを淡々と行えるようになっていったのだと思います。

 苦しかった時、光り輝く真の自己が私の中にもあると信じたい一心で、タペストリーを見つめ続けていました。

 

その時の師の存在だけがあるという感覚は、今もずっと胸の奥にあります。 
そして、私の意識が師に集中されている時に平安な気持ちを感じたのは、師が永遠に変わることのない純粋な存在そのものだからだと思います。 
これからも、どのような状況にあっても真実に憧れ向かっていこうとする想いだけは手放さず、強く求めていきたい。それによって、私たちの中にある永遠に変わることのない純粋な存在、それだけになることができるまで。 

ハルシャニー


これぞまさにラーサ・リーラ―だ!

バクティ・サンガムのWebクラスを2年間受講させていただき、その最後のクラスでキールタンを歌っている時でした。画面の向こうに広がる、喜び溢れる笑顔の数々、距離を超えて共に高らかに歌う姿。
みんなの笑顔の中に、クリシュナが見える。
クリシュナが姿・形を変え、楽しんでいる。
Web上とはいえ、このようにみんなで歌っている状況に神の恩寵を感じ、涙が止まらなくなりました。

2年前、コロナ禍において、バクティ・サンガムのWebクラスが開催されることになりました。これまでも大阪や京都でバクティ・サンガムの実クラスが開催されていましたが、静岡に住む私はなかなか参加することができず、バクティ・サンガムの話題があがる度、私もみんなと一緒に歌いたいなぁといつも憧れの気持ちをもって聞いていました。そんな憧れのクラスがWebで開かれるということで、喜び勇んで参加を決めました。

この2年間、キールタンの歌詞だけでなく、関連するお話を毎回趣向を凝らして(ミニチュアールの紹介や手書きの紙芝居もあり!?)教えていただきました。歌に対する理解が深まるだけでなく、情景がリアルに感じられ、これまでにも増して神に対する思いを乗せて歌うことができるようになりました。またクラスの後には、紹介していただいた神や聖者のことをもっと知りたいと思い、関連する本を読みました。そうすることによって私の中でぼんやりと理解していた神や聖者が確かな存在として感じられるようになりました。

特に印象的だったのは、クリシュナ神とゴーピー(牧女)が織りなす「ラーサ・リーラー」のお話です。 ラーサ・リーラーとは、クリシュナとクリシュナを愛してやまないゴーピーたちとの愛の遊戯の物語。そのクライマックスとして、クリシュナがご自分の姿を複数に顕現させ、ゴーピーたちと輪になって踊るシーンが紹介されました。

そのお話を聞いた瞬間、ありありとその歓喜に包まれた美しい情景が私の脳裏に浮かび、「私はこれを知っている」という直観のようなものが胸に押し寄せました。それは、この光景を実際に見たことがあり、経験したことがある!というような、なんとも不思議な感覚でしたが、知っているという感覚がずっと胸の中に残りました。

その後、『ラーマクリシュナの福音』の中に、次のような詩を見つけました。

「深く潜れ、おお心よ、
神の美の大海に、

 もしお前が底の底までおりるなら、
 そこに愛の宝石を見いだすだろう。
 行って探せ、おお心よ、
ハートの中のヴリンダーヴァンを探せ、

 そこで彼の愛する信者たちと、
 シュリー・クリシュナが
永遠に遊んでいらっしゃる」

この詩を読んだ瞬間に、あの「知っている」という直観の理由が分かりました。私の胸の中にヴリンダーヴァンがあり、クリシュナとゴーピーたちが踊っているのだ。私は甘美な喜びに包まれました。ラーサ・リーラーのお話を聞いてから、その絵を眺めては、クリシュナと踊ることをずっと夢見てきました。そんな折、冒頭のように感じたのです。

ラーサ・リーラーとは、本来はあらゆるところに溢れている歓びなのかもしれません。心を純粋にし、神だけを想うことができれば、あの喜びは今ここにあるのだと思います。クリシュナに手を取られ、踊ることができるのなら、他に何を求めるというのでしょうか。

永遠の歓喜の中で、神と戯れたい。
そしていつの日か、クリシュナと一つになりたい。

これが私の願いです。

森ひとみ


真理を実現する道〜アーサナ

「ヨーガのアーサナ(体位法)や内容は、すべて生理的にも心理的にも哲学的にも科学のように説明が可能です。いつでも簡単にできます。しかし大事なことは、それらを知的に理解するよりも、体験によって良い変化を身体と心に与えてやることです。悟りとは単に知ること(知識)ではなく、成ること(体得)なのです。これが何千年にもわたる東洋の霊的修行なのです。真理はすでにあなたの中に在ります」——『悟り』より

思い返せば、アーサナの体験によって良い変化を身体と心に、ずっと与えられ続けてきたのだと思います。

七年前、ヨーガへの信頼はすでにありましたが、ヨーガを生きるということに対して、難しいから私には無理なのでは? 何かを失うのではないか? という思いも同時に抱えていました。度々、表面的な心の動揺に心が占められてしまい、苦しくなることがありました。
そのような中、京都でのアーサナのデモンストレーションに参加する機会をいただきました。いつもより自然と集中した中、アーサナを行なっていると、「真理の道とそうでない道」という言葉が浮かんできました。その瞬間、師から伝えられたアーサナは「真理を実現する道」であると直観的に感じました。真理に反する思いがあれば、抗うような力が内にあり、もうすでに私の身体と心は真理の道を歩むためのものに大きく変化させられているということが分かったのです。私自身、本当は真理の道を歩みたいと強く思っていることにも気付かされ、涙が溢れました。

今、私はアーサナを行なうことで心が内向きになり、すでに在る真理に近づいていけることを実感しています。このような具体的な方法を教えられ実践できることは、何と恵まれていることでしょうか。そして、真理の道を歩みたいと心から願うようになりました。それだけが本当の幸せになれる道だと確信しています。
師への感謝を胸に、日々実践を続けて深めていけますように。

師が歩かれた松山の大街道。私にとっては真理の道!

りょうこ


一切万物として顕現しているのだ!!

歓喜の祝祭から数日後の余韻の中、バクティ・サンガムの今期のクラスが先日、最終回を迎えました。祝祭会場でもあったプレーマ・アーシュラマから、講師のお二人がいつものように柔和な笑顔で爽やかにクラスを進められます。後ろに見える祭壇には祝祭で献上されたばかりのアーラティーの灯明のランプとお花とマーラーが掲げられ、師がお座りになっていたお姿を彷彿とさせます・・・いや、その日はそこに、師がおられるように感じたバクティ・サンガムだったのです。

少し時間が遡りますが、私は2004年の師の御聖誕祭の練習の時、キールタンに初めて出会い、インドの讃美歌みたいなものかな~と、うっとりしました。それからは毎年ヨーガ・ヴィハーラに皆で集まってキールタンの練習をする機会も多く、それは楽しい時間でした。みんな真剣そのもので、音程やリズムはもちろん、とても細かいところまで・・・ある意味、子供の頃入団していた少年合唱団よりもこれはスパルタな特訓・・・と実は私は感じていました。そのキールタンの練習の時「目を開けたほうがいい」とよく言われました。キールタンは神へ向けての愛の歌で感情が内に向くせいか、つい目を閉じて歌いたくなります。ですが、当時は御聖誕祭で師へお捧げすることが目的であったり、また外向けのイベントでは観客がいらっしゃることもあったので、自分の内にこもったり感情に浸るのではなく、皆との調和や息を合わせることも大切で、そのためには練習の時から常に目を開け、感じて歌うことに慣れた方がいい、というアドバイスを受けた記憶があります。
本番で最高のものを献上するためには、練習も一回一回ベストを尽くし、まず基本的なことや技術的な面を磨くのは当然で、時には専門的な先生?のような方から発声指導を皆で受けたり・・・とにかく地道な修練に、みんなの凄い熱情を感じていました。毎日の自主練も欠かせませんでした。キールタン練習のことは、今の私の物事への取り組み方の基盤にもなっています。

それで、当時は目を開けるようにしましたが、練習の時は視線のやり場に困る思いもありました。目を閉じた方が、師、神だけと繋がって歌える気持ちがあったからでした。つまり、目を開けて、目で世界を見ていると神を感じられない、と当時の私は思っていたのです。
ちなみに、今のバクティ・サンガムのクラスでは、目を開けても閉じても特に注意を受けることはなく、それぞれの思いのままにさせていただけます(笑)しかもオンラインクラスでは、自分の声は他の人には聞えないので(ミュート設定)音を外したり間違えても恥ずかしくないし人に迷惑も掛かりません(笑)

私は、最近は目を閉じたり開けたり自然に任せていましたが、最終回では、みんなの顔も見たいから今日は目を閉じないゾと決意しました。ただ最終回は、初めての曲で歌詞を見ないとならないから、みんなの顔を見る余裕もないかも?と少し心配しつつ。そして、歌い出しました。すると実は以前に歌った曲で、当時のみんなの歌声がありありと蘇り、その歌声と今がシンクロし、歌が歌を導きました。カーリーやマーという母なる神の御名を讃える詩です。以前も今も、ずーっとみんなでこの歌を途切れることなく歌い続けてきたような至福感に包まれ、気付くとまた目を閉じて歌っていました。その時、ふいに『ラーマクリシュナの福音』で読んだラーマクリシュナからのお言葉が響きました。
目をとじて思うときだけ神がいらっしゃるのだろうか。目をあけて見まわしたときにも、彼はいらっしゃるのではないだろうか
私は目を開けました。パッと咲いたお花のような美しい表情をした、みんなのキラキラした姿。小さな子供みたいに元気いっぱい、ありったけの思いで歓び歌うみんなの生き生きした姿がそこにありました。ここ数ヶ月、思い続けて、封じ込めてきたマーへの自分なりの思いがそこに燦燦と溢れ出し、みんなの顔、みんながそれに見えて、目を開けても閉じても、見えても見えなくても、歌が聞こえても聞こえなくても、やっぱりそこに、ここに・・・と思いました。目を開けて、みんなを見ていると、師のお言葉が波のように、何度も何度も押し寄せました「一なるものが、一切万物として顕現しているのだ」。

至高の真実は名も無く形も無く、ただ存在である。
それだけが真実在であり、真我であり、神と呼ぶものである。
その一なるものが一切万物として顕現しているのだ。
不二の寂静の中、歓喜に遊び戯れなさい
――シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサのお言葉

チューリップ、菜の花、桜

春爛漫

 

 野口美香 


神への明け渡し ––マハリシの教え––

私たちには思いや悩みが尽きないものです。欲しいものがなかなか手に入らなかったり、駄目だと思ってもついやってしまったり、大事な時にオロオロして何もできなかったり、沢山の事で思い悩むものです。それについてバガヴァーン・ラマナ・マハリシはこう言います。

『神の至高の力が全ての物事を動かしているというのに、なぜ我々はその力に身をまかせず、何をどうするべきか、どうすべきではないかと思い悩むのだろうか?
我々は列車が全ての荷物を運んでくれることを知っている。列車に乗ってまでも、自分の小さな荷物を頭に載せて苦労する必要がどこにあろう。荷物を下ろして安心しなさい』
 

ーー『あるがままに ラマナ・マハルシの教え』より引用ーー

そうです、自分の小さな思いを神に渡して、神の言うことに従えば楽になるのです。なんて簡単なことでしょう!

バガヴァーンは自我を無くすために『私は誰か?』という真我探求を説いたことで有名です。しかしそれはなかなか険しい道なので、彼は多くの信者には探求よりも容易な神への明け渡しを勧めました。しかしこの道も非常に困難な道であるのは確かです。なぜなら頭に載せた荷物のうち少しは降ろせるでしょう、しかし全ての荷物を降ろすとなると、自分の思いの全てを神に委ねるということになるのですから、自分では好き嫌いも、都合の良い悪いも言えなくなるからです。それが全て自然にできるようになって初めて明け渡せた、となるのです。といっても、バガヴァーンは一足飛びにそうしなさいと言っている訳ではありません。彼はその準備として神への瞑想、ジャパ、神の賛歌を歌うなど、神に帰依することなどを信者に勧めました。

彼が住んでいるアルナーチャラ山はプラダクシナという巡礼をするための山でした。巡礼のために人々は山の麓(13.5km)を神の賛歌を歌ったりジャパを唱えたりしながらゆっくりと歩くのだそうです。バガヴァーンはこれをよく信者に勧めました。そしてさらに彼はこう言います。プラダクシナをしているうちに、

『身体は疲れ、感覚器官は力を失い、すべての活力は内面に吸収されます。こうして自己を忘れることが可能となり、瞑想状態に入っていくのです』  

  ーーラマナアシュラム HPより引用ーー

長距離を歩くのですから何度もジャパなどを繰り返すことが必要で、それが自動的にできるくらいやることが大事なのだと思います。さらに大事なことは、本当のサーダナができるのは、体と心がフラフラになってからなのだということです。与えられたサーダナをやり続けること、そしてやってくるタパスを受け入れること。それをやり続けていけば神に本当に帰依することができるはずです、そうすれば神への明け渡せる日は近くなっていることでしょう。

早く頭に載せた荷物を降ろして本当に安心したいものです。

グルダース


大いなる真剣さで実践し、堅固な基礎を持つ

 

〝修習は、長い間、休みなく、大いなる真剣さをもって励まれるならば、
 堅固な基礎を持つものとなる”   
 

『ヨーガ・スートラ』第1章-14 

アーサナ・クラスに通い始めたばかりの頃、『ヨーガ・スートラ』という聖典があることを知りました。読むと、見慣れない言葉が並んでいる中で、この一節がすっと目に入ってきました。 

当時、鍼灸の技術を身に付けるための基礎訓練がうまくいかずに悩んでいたので、惹かれたのだと思います。この言葉の通りにやればしっかりと基礎的な技術が身に付くかもしれない、と、実践してみることにしました。 
諦めそうになったらこの一節を読む、それを繰り返すうちに気付いたのは、長い間休みなく続けることは比較的実践しやすいけれど、真剣さをもつのは、そう簡単ではないということです。元々あった思いをもっと強くして、退路を断つ思いでひたすら練習を続けることで、次第に訓練することが日常生活の一部となり、少しずつ技術を習得していけたように思います。
 

数ヶ月前、ふとしたことをきっかけに、この一節を思い出しました。 
今私はこの一節の通りに実践できているだろうか。アーサナ、瞑想、仕事…長い間休みなく続けてはいるけれど、大いなる真剣さをもって臨めているか? 
「大いなる真剣さ」とは何なのか? 

悟りへの道はカミソリの刃をわたるようなものだと言われますが、「大いなる真剣さ」とは、カミソリの刃の上を渡り切るほどの強い信念を持ち、一分の隙もなく集中し続けることではないかと思い至りました。 

私にとって悟りとは、師です。悟りへの道を歩むということは、師に少しでも近づいていくために一歩一歩進んでいくということ。 

師のように、ただ他者への愛ゆえに、いついかなる時も誰に対しても、優しさを持って行為できるようになるには、私も悟らなければなりません。それがどんなに難しくても、師が私にしてくださっていることを同じように誰かにするためには、悟りを目的地として進むしかないのです。 

そして、私には治療をする上での理想があります。 
師の目で見て、師の耳で聞いて、師の口で語り、師の手で触れる。 
「あなたの中にも真実がある」 
私が関わる全ての人に少しでもそれを感じてもらうために、外側から見える姿形は私であっても、内側は全て師に明け渡して、師のみがおられる状態であり続ける。 

そうなれるように、あらゆる行為に対して「大いなる真剣さ」もって励み、堅固な基礎を積み重ねて、悟りへの憧れをもっともっと高めて向かっていきたいです。 

ハルシャニー


春の祝祭 開催のご報告

桜

京都では桜が満開を迎えています。
プレーマ・アーシュラマのある御室界隈の桜並木も見事に美しく咲いています。

先日4月3日(日)、マハーヨーギー・ミッションの春の祝祭「サナータナ・ダルマ アヴァターラ メーラー」がオンラインにて開催されました。

この祝祭は、私たちマハーヨーギー・ミッションの礎となっている、形なき永遠の真理そのものを祝い、それを身をもって現し、古来人々を救済してきた神の化身たちの存在に思いを馳せ、感謝を捧げる機会にしようと、主ブッダの御聖誕日、花祭りの時期に合わせて開催されています。

5回目となる今回、日本各地、そしてニューヨークや台湾から、参加者は総勢110名を超えました。海外の仲間たちとも一緒に同じ時を分かち合えるのは、オンラインならではの歓びです!

さまざまな地域から7名の方の祝辞が献上されました。
目には見えない永遠の真理を、どのように自らの内に実現し、そしてこの世界に対して行為していくのか。また尊く清らかな聖賢たちの存在、生き様によって示されたサナータナ・ダルマとは何なのかーー。
生き生きと語られたメッセージは、それぞれ最高の理想に向かって献身していこうとする強い思いが溢れ、絶えず私たちを真実へと導いてくださっている師や神の化身たちへの敬愛と感謝に満ちていました。それらの言葉は、これまで積み重ねてきた実体験があってこその深みを感じるものでした。

*  *  *

聖劇タイトル

祝辞の他、以前、師の御聖誕祭で奉納された聖劇から、クリシュナ神を信仰する聖者スダーマの物語「一握りの米」がダイジェスト版で配信されました。神へ純粋な愛を捧げることの大切さ、またそれに対し絶大的な歓びをもたらす、量り知れない神の恩寵が表された内容でした。

聖劇

スダーマ(左)とクリシュナ神(右)。幼馴染だった二人が再会に歓喜するシーン。

「サナータナ・ダルマとアーサナ」をテーマに祝辞を述べたニューヨークのサーディヤーは、アーサナを奉納しました。息を呑むほどの集中感、迫力に満ちた彼女の姿は、師から伝承されているアーサナの極意、深遠なる領域があることを物語っていました。

サーディヤー アーサナ

ヨーガダンダ・アーサナ(ヨーガの杖の形)

*  *  *

インスパイア溢れる言葉や仲間たちの姿に魅了されているうちに、あっという間に時間は過ぎていきました。
この日、画面を通して受け取ったものすべては私たちの糧となり、道を進む原動力となっていくことでしょう! この混沌とした変化のやまない世の中において、最も大切なこと、この命をもって生きる核となるものを、私たちは胸の奥に、確かに思い起こすことができたと思います。

シュリー・マハーヨーギー

最後にシュリー・マハーヨーギーからお言葉をいただきました。

「みんなの純粋な信仰と愛に満ちたメッセージの数々、本当にうれしく、また頼もしく感じました。今も、そしてこれからも、益々みんなが聖なる者の輝きに満ちていきますように。いつも、いつも私はあなたと一緒にいます」

ジャイ! サナータナ・ダルマ アヴァターラ
ジャイ! サットグル・シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサ キ ジャイ!!!

 

桜

*献上された祝辞についてはWeb版パラマハンサ(会員専用サイト)にて配信する予定です。
楽しみにお待ちください。

マハーヨーギー・ミッション 


スワーミー・アドブターナンダ

私の理想の聖者は、シュリー・ラーマクリシュナの直弟子で無学でありながら最高の叡知を悟り、「シュリー・ラーマクリシュナの最大の奇跡」と言われたスワーミー・アドブターナンダ(ラトゥ)です。

彼は幼くして孤児となりましたが、シュリー・ラーマクリシュナにお会いすることで人生が一変しました。ラトゥは疑うことを知らない純真さで師の教えを忠実に守り、心の清らかさを保つようひたむきに努力し続けました。文字の読み書きは全くできず、聖典も読めなかったのですが、夜は一睡もすることなく瞑想を深め、神の御名を繰り返し唱える修行を熱心に行い、神に憧れ、神のために泣き、肉体の快不快に心を乱されなくなっていきました。

ラトゥの心にあるのは神だけでした。ラトゥに出会った人々は彼の独特の言葉に驚き、その清らかさに感化されました。たとえ多くの聖典を読まなくても、豊かな霊的叡智は内的な悟りから生まれることを彼が教えてくださっています。

 「心の性質は神の御名を唱えることによって変えることができる。次第に欲望と疑いは消える」

後年のラトゥ・マハーラージの言葉で、私の大好きな教えです。どうかラトゥ・マハーラージのように一心に神を求め、神の御名の深遠さに触れ、心が神だけになりますように。

 ※『スワミ・アドブターナンダ―教えと回想―』を参考にしました。

アーナンディー 


悟りを頭で難しく考えない

沈丁花

沈丁花。ふわりと届く春の香り

3月21日は春分の日ですね。昼と夜の長さがほぼ同じになり大気のプラーナ(気)が整い、私たちもその恩恵を受けヨーガの修練も行ないやすくなるといいます。また、春分の日は、自然を称え、生物を慈しむ日だそうです。
電信柱の上にある雀の巣に、代替わりした新しい雀たちがやってきたようで、朝からチュンチュンチュンチュン・・・と可愛らしい声が聞こえてきます。私がよく通る道にはたくさんの街路樹があり、中でも多いのが桜の木。枝先の花芽が日に日に膨らんでくる様子がよく見えます。

バス停までの道すがら、その桜の枝を見て、もうすぐ春だなぁ~とホッとして嬉しくてスキップぎみで歩いていました。すると、やけにきれいさっぱりと明るい場所があり、あれ?こんなんやったかな?と立ち止まりました。下に目を落とすと、地面ギリギリに大きな切り株が幾つか残されていて、大きな木々がすべて伐採されたことに気がつきました。
でも木は、そんな姿になっても、じっと沈黙を守っているように見えました。この世界に次々と出来事が起こっても、いつも木々が同じようにただ在ることに私は安心を感じてきました。季節が巡り、鳥が歌い、虫が蠢き、木は葉を付けたり落としたりしながらも静かに佇み、変化する中にあっても一定の同じで在る何か、たった一つの絶対的なものが続いているということを教えてくれます。それがどれほど尊いものか……。切り株を見ていると、幹が無くなっても、やっぱり木は、あなたは同じだ、と思えました。姿、形が無くなっても無くならない、ずっと在る、と木が無言で教えてくれた気がしました。子供たちや生き物にはどんぐりを、鳥たちや虫たちには住処を、また真夏の暑い日には木陰を提供し、時々そこで腰かけて休憩しているおばあさんもいました。一本の木の存在に、どれほど私たちは恩恵を受けてきただろう、ありがとう!と思いました。

そんなことを考えながらバス停に着き、乗車した市バスの窓から景色をボーっと眺めていると、一軒のお家の庭に、赤と白の見事な梅がぱぁ―っと咲き誇っているのが目に飛び込んできました。あまりにも元気いっぱいに咲く力強さに圧倒され、その生命の力に感動しました。次はお葬式をする会館があり、前には黒光りした長い霊柩車が停まっています。こんなうららかな春を予感させる日にも・・・当然ながら死も生も同じようにあると思いました。すると今度は、保育園のまだ2歳か3歳くらいの子供たちがぞろぞろと先生に連れられて、子供同士で手をつなぎ合いながら、おぼつかない歩き方でニコニコ「バチュ(バス)バチュ~」と無邪気に手を振ってきます。思わず満面の笑みになりました。そしてバスが終点の駅に到着すると、少し離れた所に総合病院の送迎車が来ていて、大勢のおじいさんおばあさんたちが、ぞろぞろと送迎車に乗り込んでいくのが見えました。バスの窓を通して、自然の営みという一つの映画でも見たような気分でした。

水仙

春風に可憐にゆれる水仙

バスを降り歩きながら、これが自然の様相なんだと思いました。季節は止まることなく進み、そして世界も変化し、生まれる命があって、成長する命の育みがあり、死にゆく命もある。すべてが神の顕れ。どれも本当に同じなんだなと思いました。

最近、悲惨な出来事を目にしてから、胸の奥で騒めきが静まらないことを自覚していました。でも、そうやって感情的になることで、それで私は正しい判断や何かより良いことができるのか?と歩きながら自分に問いました。感情が際立ってしまったら肝心なものを見失ってしまう、平常心でいられない時こそ平常心で、と自然の様相を通してなぜかその時、思いました。そして万物の背後にある見えざる存在を思い、そうだ木のように不動でありたいと思いました。

師から教えていただいたことがあります。
悟りとは不安や苦悩の無い安心。平安な満ち足りたムードが壊れないようにすれば、それが悟りとも言える。だから悟りを頭で難しく考えないように

常に安らぎにあり、常に同じである存在は他者にも安心を与えることができる。木のように。
いつか師が仰っていた、ヨーガとは真人間になることーー正直で、人に優しく、慈悲深く
それこそが悟りにある人の姿であり、私にとって単純に人間としての理想です。
私たちは人間として生まれました。だから、誰もが真の人間、真人間になれると思います。正直で、人に優しく、慈悲深く。

木蓮のつぼみ

春を待つ木蓮のつぼみ。触るとふっくらフワフワしていました。

 

 野口美香