聖地を巡る

パワースポットなるものが人気ですね。
(今でも人気があるのかな? もう下火なのでしょうか?)
われわれ日本人は宗教を毛嫌いしていると自分たちでは思っているのですが、世界でもまれに見る宗教的な民族だと思います。
どうしてパワーがあるのか知らなくても信じることができるわけですから。(感じる能力が精細とも言えるし、ある意味では迷信的とも言える)
それが良いところであり、悪いところでもあると思います。

パワースポットというのは、昔の言葉で言えば「聖地」ということなのだと思います。
聖地はどうして聖地なのか?
そこで聖なることが行われたからです。

そこを訪れる人が皆、聖なる気持ちをもって歩くだけでも、その思いが土地のプラーナ(生命)として蓄積されて、現代的に言えば「パワー」として感じられるのでしょうね。
特に、聖なる人がかつて住んでいた場合には、特別な聖地になります。
聖者の純粋な思いと行為がその地に染みつき、人々にそれを思い出させ、また無意識のうちにもそれに影響されます。
インドにおける聖地というのは、そういうものです。
インドの人はそうした聖地を巡って、かつてそこに生きた聖者たちの思いや息吹を浴び、祝福を受けようとします。

シッダ・マールガでは今、そういう試みをしています。
かつてこの地上を生きた聖者たちの生命(いのち)、息吹を感じ、清純な思いと憧れで、その生命の中に入っていこうとしています。
手がかりは彼らの生きざま、その行為と言葉です。
残された手がかりを頼りに、彼らの思いそしてハートへと入り込んでいきます。
どのような決意をもって彼らは悟りを目指す旅に立ったのか? 日々を淡々と過ごしながらも、その無執着とは対称的な燃える信仰をいかに生きたのか? 彼らの人々を見つめる眼差しはいかなるものだったか?
残された情報は多くはありません。
それでもその行間に彼らの魂を感じることができます。

今週日曜日のシッダ・マールガでは、佐野さんが素晴らしい発表をしてくれました。
近代の覚者シュリー・ラーマクリシュナの直弟子、スワーミー・ラーマクリシュナーナンダについて本を読み、彼の生きざまについてじっくり考えて、瞑想をしてくれました。
じっくりとはいっても、考えて瞑想していたのは実質3日だったそうです。
時間・期間の長さではなく、やはり瞑想は集中の強度が大事だということが改めて分かりました。
インドの地図を買ってきて、スワーミーが歩いた足跡を丹念に辿りながら、まるで聖地を歩むように、彼の魂の足跡を辿っていったようです。
その地を歩き、修行に情熱を傾け、そして人のために働いたスワーミーの短い生涯が、佐野さんの言葉を通して伝わってきました。
特に、師であるシュリー・ラーマクリシュナに捧げられた思いが格別で、それが彼を愛と無恐怖の境地に導いたことが印象的でした。

聖地を巡ってパワーをもらうというのも、その根源の真実を知って、むしろダイレクトにその聖なる生命の源に入っていけば、単なる迷信に終わらない、確かな祝福があると思います。
そういう意味で、聖者たちのハートこそが詣でるべき真実の聖地であり、またその息吹を感じられれば、われわれの心もまた聖地にすることができるのだと思います。

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