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ガンディーからキング牧師へと引き継がれた非暴力の精神

キング牧師は、1950~60年代、人種差別が色濃く残るアメリカにおいて、非暴力主義による公民権運動を行い、公民権法成立へと導いた人です。

1963年ワシントン行進の際に演説を行うキング牧師 写真中央

私は夢を持っています。それは私の四人の小さな子供たちが皮膚の色によってではなく、人格の中身によって評価される国にすむことができるようになるだろうという夢です。
(マーティン・ルーサー・キング自伝 日本基督教団出版局 271ページ)

キング牧師の「I Have a Dream」の演説を聞くと、感動して胸が熱くなります。
その言葉は慈愛にあふれています。

キング牧師はインド独立の父、マハトマ・ガンディーのサティヤーグラハ(真実と愛、あるいは非暴力から生まれる力)にインスパイヤされ、政治活動を行いました。そして、1959年にはインドに一カ月滞在し、主要な都市や、ガンディーが活動した地を巡りました。慰霊碑に花を手向け、塩の行進の出発点を訪れ、ガンディーの精神に触れる旅となりました。ガンディーへの尊敬の思いをこのように述べています。

彼(ガンディー)は生存中にエゴ(意識的自我)とイド(本能的自我)の間の深淵に架橋をなしとげていた。ガンディーは驚くべき自己批判能力を持っていた。(中略)
ガンディーは必要な時にはいつでも自己批判をした。間違いを犯した時にはいつでも、公の場で告白した。
(マーティン・ルーサー・キング自伝 日本基督教団出版局 154ページ)

私は、ガンディーの自伝を読んだ時、ガンディーが少年時代、自分が犯してしまった罪を父親に告白し、それを涙ながらに父親が赦し、人を赦す愛を教えられたエピソードにとても感動したことを思い出しました。

そして、私がキング牧師のインド滞在の記録の中で最も驚き、感動したことは、インド最南端の聖地、コモリン岬を訪れた時のエピソードです。キング牧師は、太陽が海に沈み、月が昇る美しい光景を見て、このように述べています。

太陽が完全に視界から去る時、暗闇が大地を飲み込んでしまう。だがその時東にはのぼってくる月の光が最高度に輝いていたのである。私はこれは世界中で最も美しい場所の一つだと言った(中略)
神はあらゆる暗闇を通してかがやくことができる光を、持っておられるのである。われわれには昼間の光が消えて暗い、寂しい真夜中に取り残されてしまうような経験――つまりわれわれの最高の希望が絶望の修羅場にかわるような、あるいは自分が悲劇的な不正義とか恐るべき搾取の犠牲者になるような経験がある。このような時にはわれわれの精神は、憂鬱さとか絶望感に覆われてしまい、どこにも光はないと感じてしまう。だがいつでもわれわれが東をみるならば、そこには暗闇の中に輝く一つの光があることに、気がつくのである。そして「挫折の槍」は「光の矢」に変わるのである。
(マーティン・ルーサー・キング自伝 日本基督教団出版局 153~154ページ)

コモリン岬はスワーミー・ヴィヴェーカーナンダ(スワーミージー)がアメリカへ行くヴィジョンを授かった聖なる場所です。ガンディーはスワーミージーの「ラージャ・ヨーガ」を読み、導きを受けていたそうです。スワーミージーがインドの人々の救済を誓ったコモリン岬で、キング牧師が人種差別撤回への誓いを立てたことは、二人の間に見えない繋がりがあったと感じます。私は、「真理は、時代や場所を超えて伝わる」と思いました。

私もキング牧師が夢見たように、人々が差別や争いをせず、心穏やかに暮らす世界を願っています。そのために、万人に平等に在る真我を実現するヨーガの教えを十分に理解し、次の世代へとそれを伝えていきたいと強く思います。その誓いを実現するため、日々精進してまいります。

島本 廉


瞑想ワークショップ「アートに瞑想しよう!」in 松山市

先日、2日間にわたって開催された愛媛県松山市のヨーガ・サーラ・スタジオでの「アートに瞑想しよう!」は両日共にたくさんの方にご参加いただきました。
まるで美術館のように作品が飾られた空間は、静かで穏やかな雰囲気と作品ひとつひとつから溢れる神聖さで満たされていました。


会の最初に与えられた個人で自由に作品を見て感じる時間は、参加者全員が食い入るように作品に見入る姿がありました。


そして、その後ゴーパーラさんが話された作者であるヨギさんの紹介や作品が描かれたきっかけ、作品にまつわるエピソードには、笑ったり、驚いたり、圧倒されたりしながら、皆が耳を傾けました。


そしていよいよ各自が魅かれた作品の前に座って20分ほど瞑想です。今回、私は『如意輪観音』に瞑想しました。その理由はお姿が師に似ていて、立膝をついている理由が「必要な時すぐに動けるように」と会の中で知ったこと、また私には手が何本もあるように見えて、それは何か知りたいなぁと思ったからでした。瞑想で感じたことは、その手は、すべての人々を救済していました。

如意輪観音 1984年

会の終盤、それぞれの作品に瞑想し、感じたり体験したことを5人の仲間が話してくれました。その内容は聞いている私たちを鼓舞し、気づきを与えてくれる素晴らしいものでした。その中で私にとって印象的だったのは、如意輪観音ではない別の作品について話しているにもかかわらず「救済」という言葉と共に同じように感じた方がいたことでした。それを聞き、ヨギさんのすべての作品は『人々を救済するため』に描かれたと直観し、ヨギさんの偉大な役割と働きを改めて感じ、心が平伏しました。

5人のスピーカーの1人、笹沼さん。「アーディナート(原初の師ーシヴァ)とシャクティ」に瞑想した体験談をお話されました。

今回、思いがけずヨーガに興味を持ち、ワークショップに参加してくださった職場の同僚は、「色が綺麗だなぁ」という理由で瞑想する絵を決めました。瞑想初体験後、帰宅してからの連絡で「肩の力が抜けて、リラックスできた。そのおかげで今直面している出来事に適切な判断ができた」と喜んでいました。そして2日後、職場で会った彼女は晴れやかな表情と共に「自分を縛っていたのは自分だったと気づいた」と自分の中に起こった変化について話してくれました。彼女の感想は、ヨギさんがすべての人を救済しているという事実となって、私の中に大きな歓びを残しました。

ヨギさんが残された真理への道を指し示すものは、アーサナや書籍、アート作品だけにとどまらず、お写真、映像、Tシャツやバック、さまざまな形となっています。もっともっとたくさんの人に届けて、触れていただけますように。もっともっと松山での活動が広がっていきますように。改めて、その活動を支えていこうと誓う機会となりました。
最後に、このワークショップに参加してくださった皆様、企画や準備、運営にかかわってくださったすべての皆様、本当にありがとうございました!

山口正美


京都 新スタジオでのヨーガクラスが始まりました‼️

5月1日、マハーヨーギー・ミッションの新スタジオが開設しました!
(https://www.mahayogi.org/kyoto/studio)

プレ・オープンとして、これまで近隣の京都アスニーで行なってきたアーサナ・瞑想クラスを、一足早く5月10日(土)に新スタジオにて行ないました。

当日は初夏のような少し蒸し暑い気候でしたが、室内は冷んやりとして、自然素材の調湿効果でちょうどいい湿度に感じました。クラスに参加される皆さんは、新しいスタジオでの初めてのクラスということで嬉しそうでした。
クラスは一階の二間つづきの部屋で行ないます。木の香りのする肌触りのいい床に、自然素材で塗装された柱と梁、また土壁、奥の間は屋根勾配を活かした斜めに上がる天井が伸びやかで、リラックスできる空間です。
初めての空間への興味や喜びの中、クラスは始まりましたが、アーサナをしていくと皆さんすぐに集中されて、だんだんと静寂に包まれていきました。

実際、スタジオの周囲はとても静かで環境に恵まれているのですが、物理的な静けさ以上に、クラスの最後に瞑想をする時にはピタッと空気が止まっているかのような静寂を感じました。これからクラスが行なわれていく中で、スタジオのプラーナ(気)が充実していって、スタジオに来るだけで心が調うような、祝福に満ちた場所になっていったらいいなと思いました。

 


新スタジオでの新クラスは、5月19日(月)からスタートします。クラスの数が増えて、毎日どこかの時間にはクラスを開催するようになります。お子さん連れOKなクラスや、50歳以上の方に向けたゆっくり行なうクラスも新しく始まります。

ぜひ一度新スタジオでのクラスを体験しにいらしてください。新スタジオでこれからたくさんの方と出会い、ヨーガを共に実践していけることをとても楽しみにしています!

🍀YouTubeにもスタジオの動画をUPしていますので、ぜひご覧ください!

・YouTube  ヨーガスタジオ紹介
・YouTube  OPENに向けての準備

サルヴァーニー


吐き切る呼吸

マハーヨーギー・ミッションのアーサナクラスでは、「吐き切る呼吸に集中してください」と教えられています。ただ、この「吐き切る呼吸」は実際にやってみると案外難しいものです。ああでもないこうでもないと、やってみては失敗し、失敗してはやってみて‥‥その繰り返しを私は何年続けてきたことでしょう。
そんな中、昨年6月に開講された「アーサナの秘義」に参加しました。講座の中でも、当然のように呼吸の質問や実践談はたくさんありました。その際、私は呼吸に関することを聞きながら、自ずと呼吸に集中し、吐いて、吐いて、吐いているうちに、お腹がきゅっと凹でいるのに気がついて、「そうか、吐き切る呼吸って、そういうことか」と、突然腑に落ちることがありました。講座の後、腑に落ちたその呼吸をやってみると、なんだかアーサナの集中感というものがいつもと異なっていました。
例えば、前屈のポーズをはじめると、ただ足を伸ばして座っているだけなのに、膝がすごく伸びて、身体もピ〜ンと伸びて、背骨もしっかりしてきます。これが「吐き切る呼吸」の成果なのでしょうか。


あとで気がついたことなのですが、これは呼吸を吐き切っていることの効果というよりも、「呼吸を吐き切ることに集中した」結果だと思いました。
呼吸という行為を丁寧に一所懸命に行なって、自分の呼吸に向き合っていった結果、アーサナに集中感が生まれたのだと実感しました。どうやって息を吐き、どうやって吸うのか。その息がどこからやってきて、どう身体を流れていくのか。私は、アーサナの形を維持するのに必死で、力んでしまい、吐いているつもりで息が止まってしまう傾向に気づきました。その力をそうっと抜いてやると、まだ吐くことのできる息を見出すのです。そうやって絶えず呼吸に向き合うということは身体のすみずみに向き合うということになり、それなら、アーサナが深まるのは当然のことだと感じるのです。

さらに、呼吸に集中するというのは、つまり「生きている」ことに集中するということですから、自分の中にある生命の尊さやその背後にある力に集中することに自ずと導かれていきます。その結果、自宅でも職場でも、私の背骨はしっかりとしてきて、なんだか歩くのにも動くのにも、堂々と自信がみなぎってくるのを感じるのです。これこそ、アーサナの呼吸が日常の呼吸を変えたということなのではないでしょうか。
まだこれからというところですが、アーサナの実践をコツコツと続けていって、「吐き切る呼吸」の体得をしていきたいと思います。

笹沼朋子


「アートに瞑想しよう!」in 松山のご案内

このたび、ヨーガ・サーラ・スタジオ20周年記念の一環として、「アートに瞑想しよう!」という素敵な瞑想ワークショップを愛媛の松山で開催することになりました!
昨年11月に京都で瞑想ワークショップがあり、私たちの師シュリー・マハーヨーギーの描かれた聖なるアートを通して静寂や歓びが感じられるという内容を知り、ぜひ松山でもそのイベントをしていただきたいと講師のゴーパーラさんに相談していました。ちょうど今年は松山でヨーガの活動が始まって20年になるため、支えてくださっている皆さまへの感謝を込めて記念イベントとして企画が実現しました!

講師のゴーパーラさんは打ち合わせをした時、京都で瞑想ワークショップをした際に感じたことを話してくれました。「目の前に神聖なアートがあるから眺めるだけでもいい。どんな人でもできる。子どもでもできる!と感じた」と力強く話してくれたのですが、私の頭に子連れの主婦の方やヨーガに興味がないけどアートに興味がある方、老若男女問わずいろんな方が瞑想ワークショップに参加している絵が浮かび、一気に可能性が広がったように感じて、わくわくしました。

イベントだけでも嬉しくてたまらないのに、なんと、ヨーガ・サーラ・スタジオ20周年の特別イベントとして、師の作品の「白ターラー(菩薩)」「サハスラーラ・チャクラ(千弁の蓮華)」の原画を京都から持ってきていただけることになりました!私にとっては、まるで敬愛する師が松山にお越しくださるほど、貴重なことです!松山で原画を味わえるなんて、またとない機会です!!
私たちは見るもの、聞くもの、触れるものから様々な影響を受けています。1人でも多くの方と聖なるアートを味わい、本当の歓びは誰もの心の中にあるというヨーガの真髄を感じられますように。
ご参加お待ちしております!

・お申し込みはこちらから💁‍♀️「アートに瞑想しよう!」

・今回のワークショップでご紹介するアート作品はこちらをご覧ください。
https://www.mahayogi.org/other/meditation-card

※ヨーガ・サーラ・スタジオで、アート作品のカードをお求めいただけます。
※こちらのリンクのページからでもお求めいただけます。

アーナンディー


春の祝祭レポート:ヴィヴェーカーナンダに出会った日

4月6日 第8回サナータナ・ダルマ アヴァターラ メーラー 神性示現大祭に参加しました!今年は、インドの聖者スワーミー・ヴィヴェーカーナンダの魂に迫っていく祝祭でした。
春の暖かな日差しがあふれる京都アスニーの会場には、等身大のヴィヴェーカーナンダのパネルが祭壇の横に設置されました。私は「ヴィヴェーカーナンダが会場に来ている!」と感じました。


祝祭はプージャーから始まり、讃歌、祝辞、ショートメッセージ、映像の上映、聖劇などが奉納されました。第一部「師シュリー・ラーマクリシュナの導き」、第二部「衝動と覚悟」、第三部「サナータナ・ダルマの布教、そして後世へ」で進行しました。
台湾やニューヨークの兄弟弟子たちもオンラインで参加し、国を越えて心をひとつにして、皆でヴィヴェーカーナンダの生き様に触れ、その言葉に鼓舞されて、新たな一歩を踏み出せた一日でした。


祝祭の中で私は何度も感動しましたが、今も印象に残っているのは、ヴィヴェーカーナンダが「とても忙しく働き、すべてを人のために捧げていたこと」です。ヴィヴェーカーナンダの西洋での活動をまとめた映像が紹介されました。その中で、彼がアメリカ滞在中に講演を行なった数十カ所の都市を、地図上にマークしたシーンがありました。私はそれを見た時、ヴィヴェーカーナンダは寝る間もないほど忙しかっただろうなと気付きました。アメリカという異国の地で、様々な不自由もある中で、人々に真理を語り続けたこと。その裏には、辛抱強さや優しさがあったと思います。私は、仕事で悩んだとき、彼の講演の一部がまとめられた『カルマ・ヨーガ』にいつも勇気づけられています。この本の中で、「すべてを人のために捧げて働きなさい」と教えられていますが、ヴィヴェーカーナンダご自身が、本当にそのように働かれていたのだなと思いました。深く心を打たれ、この本がますます大切な一冊になりました。
そして何より、印象に残ったのは、祝祭のさまざまな場面で紹介された、ヴィヴェーカーナンダの力強い言葉の数々です。その中でも、ショート・メッセージの方が引用されていた次の言葉は特に私の心に深く響きました。

「弱さの治療薬とは、弱さについて考えることではなく、強さについて考えることだ。人には強さについて教えよ。それは既にわれわれの中にあるのだ。信じること、信じること、自分自身を信じること、神を信じること――これが偉大さの秘訣だ。……自分自身を信じ、自分自身への信仰に立脚して、強くあれ」

(『立ち上がれ目覚めよ – スワーミー・ヴィヴェーカーナンダのメッセージ』 15~16ページ)

この言葉は、私の内側に静かに突き刺さりました。これまで私は、自分に対してどれだけ信頼を持っていたのだろう。ヨーガを学び、「真理を求めている!」と言いながらも、どこかで言い訳を作って諦めていたのではないかと思いました。しかし、同時に、前向きな考えも浮かびました。「日々の行ないを正し、精進することで、自分自身をもっともっと信じることができる。強くなれる。自分自身の中にもきっと真理はあるはずだ!」と強く思えたのです。

祝祭の三部、「サナータナ・ダルマの布教、そして後世へ」の中で、とても力強く祝辞を述べるグルバイの言葉がありました。「今、失敗や成功だとしても、その判断さえも間違っているかもしれません。私が失敗しても、次の人がその失敗を学びとして、それでうまくいけば、それで成功です。一人ではただの失敗や不可能なことでも、みんなで力を合わせれば、目標に到達できる」「スワミジー(ヴィヴェーカーナンダ)からの仕事が今も進行中で、私たちは今も仕事をしています。彼からのバトンを受け取り、走っている最中です」とおっしゃっていました。その姿はまるでヴィヴェーカーナンダのようでした。私も、「まだヨーガを始めたばかりで、人に伝えるなんてできません」と言い訳せず、「自分も学んでいることを還元できるようにしていきたい!」と思いました。

今回の祝祭では、ヴィヴェーカーナンダの言葉に何度も勇気づけられました。なぜ彼はこれほどまでに人々を鼓舞し続けたのだろう、その原動力はどこにあったのだろうかと疑問に感じました。その疑問に対する答えを、司会者の方が教えてくださいました。それは、師シュリー・ラーマクリシュナの恩寵だということです。
恵まれたことに、私達にも尊敬する師シュリー・マハーヨーギーがいます。この春の祝祭を考案されたのは師です。師に教えていただいたヨーガをしっかりと体得し、できる限り多くの方々に伝えていきたいと思います。そのために、これからも精進してまいります。

聖劇では金森さんがヴィヴェーカーナンダを力強く演じられていました。「放棄せよ!放棄せよ!--あなた方は自由である!自由である!自由である!」という言葉は私の中に今も響いています。祝祭後にその金森さんと撮った一枚の写真は、私にとって大切な一生の思い出です。

島本 廉


『ヴィヴェーカーナンダの生涯』イラストシリーズ②

4月6日に開催された春の祝祭は、スワーミー・ヴィヴェーカーナンダの魂に迫っていく内容でした。ヴィヴェーカーナンダの力強い言葉、人類の救済に全てを捧げた生き様は、兄弟弟子や大勢のヴィヴェーカーナンダの元に集った人々を真理へと導きました。そしてその導きと恩寵は、今も私たちにも注がれていることを感じました。ヴィヴェーカーナンダの衝動によって魂が奮起するような、祝福に満ちた会でした。

さて前回から始まった『ヴィヴェーカーナンダの生涯』イラストシリーズ。
大学生になったナレンドラ(後のヴィヴェーカーナンダ)は、ブラフモ・サマージという社会運動及び宗教運動組織に参加していました。しばらくの間その祈祷会や信仰の歌に心の高揚を感じたものの、霊性の実体験を伴っていないことに気がつきました。そして「神を見た人のもとで教えを乞いたい」という抑えがたい欲求を感じ、その切望のもと、1881年11月、師ラーマクリシュナに出会いました。

ラーマクリシュナから見て、身なりや外見に無頓着なナレンドラは、一緒に寺院を訪れた他の若者たちとはまったく違っていました。いくぶん内に向いた目が印象的で、瞑想的な雰囲気を醸し出していました。ナレンドラは師に尋ねました。

「師よ、神をご覧になったことはありますか?」
師は間髪入れずに答えられました。
「ああ、あるとも。私はここでお前を見ているように神を見るのだよ。しかももっとはっきりと見るのだ」
ナレンドラは、初めて神を見たと言いきる人に対面して驚愕しました。

五年間にわたって師と間近に接したナレンドラは、決して盲信に影響されることなく、常にラーマクリシュナの言動を厳しい理性の試験にかけました。近代精神の象徴の如く、知識欲旺盛で、機敏で、知的な純粋さを持つナレンドラは、どんな結論も合理的な証明なくしては受け入れませんでした。しかし、師がナレンドラに理性を捨てるように求めたことは一度もありませんでした。ナレンドラの理性が究極の神秘を解き明かせなかった時には、師が弟子に必要な洞察力を授けられました。こうして師は限りない忍耐と愛、そして慎重さを持ってナレンドラの反抗的精神をなだめ、霊性の修行へと導かれました。

ヴィヴェーカーナンダが肉体を離れる2年前に、弟子に宛てた手紙にこのように書かれています。

「結局私はドッキネッショルのバンヤンの樹の下でラーマクリシュナの素晴らしい言葉に耳を傾けて心を奪われていた少年に過ぎないのです。それが私の本性なのです。善をなすことなどはすべて付け足しです。今再び師の声を、私の魂を感動で震わせたあの懐かしい声を聞くのです」

『スワーミー・ヴィヴェーカーナンダの生涯』より

最愛の師の下で、仲間と修行に励んだかけがえのない日々。美しいドッキネッショル寺院、ガンジス川、バンヤンの樹。後に西洋へ渡り、世界中に真理を広めたヴィヴェーカーナンダの胸の内にはいつもこの情景があり、力の源となっていたのではないかと思います。

サルヴァーニー

 


『マハーヨーギーの真理のことば』第八章 部分と全体を同時に見る集中力

私は三人の子どもを育てている主婦です。特に下の二人は幼稚園児の男の子で、毎日元気いっぱいです。一家五人の洗濯、掃除、炊事、幼稚園や学校との連絡など、やることはたくさんあります。家の中では、子どもたちが仲良く遊んでいる時もあれば、喧嘩をする時もあり、てんやわんやの毎日です。

『マハーヨーギーの真理のことば』にこんな質問者の問いがありました。

ー子供は凄くパワーがあって、あちこち動き回ったり、ずっとおしゃべりしています。家事などやらなくてはいけない仕事が多くて、本当は一つ一つ丁寧に仕事を熟したいのですけれども、全体も見ないといけない。ヨーガを深めていくと視野がどんどん広くなっていくということも聞いているのですが、どうすればいいのでしょうか。

この質問者が置かれている状況と、私が置かれている状況は一緒だなぁと深く共感しました。この質問に対して、マハーヨーギーはどのように答えられているのか、とても興味がわきました。

すごくヨーガ的だと思うんですね。(中略)それをどのようにしてうまく熟していけるかということは、やっぱり集中力です。
集中力というと、つい目の前のことだけに集中して、他のことが見えないというふうになりがちですけれども、そうではなくて、この両方の集中力を同時に発揮させるということ、それはヨーガの力でできるはずなのです。ヨーガの力というのは具体的に言うと、呼吸のあり方というか、呼吸の長さのことです。心がちょっと動いたり動転したり、刺激を受けたりすると、せっかく落ち着いていた心も乱れることがありますね。でも集中している時の心というのは、非常に落ち着いた深い呼吸になっていて、注意、集中力をいろいろ動かしても、あるいはまたいろんなことが起こって刺激として飛び込んできても、呼吸のリズムが乱れることなく、同じ状態でいられる。そうしたら結構うまく対処ができていくと思います。呼吸と心の集中力を養うためには、もちろんヨーガが不可欠だということにもなりますけれど、それはアーサナだけではなくて、瞑想とかヨーガ全体のことです。だから常々にそういうことをしておくことは、もちろん大事なことです。そしてもう一つは、その現場、今は日常の、子育ての一日一日の中でそれを訓練していっていると思って取り組んでいけば、きっとそのうちに見え方が違って来ると思います。

私は週一回ヨーガのクラスに通うようにしています。ヨーガを続けていくうちに、呼吸が調い、心が落ち着いていっているのを実感しています。だから、このマハーヨーギーの答えにとても納得がいきました。呼吸が調えば、心が落ち着き、おのずと集中力が養われていくーーーヨーガのおかげで、外から飛び込んでくる刺激に心が惑わされにくくなっていきました。

松山のヨーガ・サーラ・スタジオでのクラス。

例えば、子どもの兄弟喧嘩はそれぞれが感情むき出しで、怒りのエネルギーを爆発させます。その現場に居合わせて、自分の心が巻き込まれてしまうと、頭ごなしに叱ってしまいます。けれど、集中力が深まっていくと、自分のエゴを押し付ける前にブレーキがかかり、それぞれの子どもの中にある本質を同時に見極めようとするようになってきました。すると、私が余計な干渉をせずとも、子どもたちは自分に備わっている力で喧嘩を治められることに気がつきました。そして、必要な時には、後回しにせず子どもの気持ちを聞いて受け止めるようになりました。集中力が高まると、瞬間瞬間で今するべきことを判断する直感力がついてきたように思います。

ヨーガに取り組むことで図らずとも結果的に、円満に子育てをできるようになってきていると感じています。世界の見え方を変えることができるヨーガは本当に確かな道なのだと実感しています。性別、年齢、置かれた状況にかかわらず、万人にひらかれたヨーガの道に深く感謝するとともに、これからもヨーガをしながら子育ての一日一日を集中して取り組んでいきたいと思います。

井上江理


「サンニャーシンの詩」に触れて

1カ月後の4月6日(日)にマハーヨーギー・ミッション主催の春の祝祭が開催されます。今年はスワーミー・ヴィヴェーカーナンダの魂に迫っていく内容となっています。
最近私は、ヴィヴェーカーナンダが作られた『サンニャーシンの詩』というものを読み、その力強い詩に感銘を受けましたのでご紹介(詩の一部を掲載)させていただきます。

この音色を呼び起こせ!
その歌は生まれた。
この世の穢れが決して届くことのない、はるか遠く離れた山の洞窟や森の奥地で。
その場所は知識、真実、至福の波が渦巻いている。
高らかに歌え、その音色を。勇敢なるサンニャーシン!
唱えよ オーム・タット・サット オーム!

汝の足枷を取り払え!
愛と憎しみ、善と悪、すべての二元的束縛を。
知りなさい。奴隷は奴隷であり、優しく撫でられようとも、ムチ打たれようとも自由ではないのだと。
それら束縛を断ち切れ。勇敢なるサンニャーシン!
唱えよ オーム・タット・サット オーム!

“蒔いた種は刈り取らなければならない“
“そして、原因は確実に結果をもたらす。
誰もこの法則から逃れることはできない。
形を取るものはみな鎖をまとわなければならない“
しかし名前と形を超越しているのがアートマン。
それは常に自由である。
汝はそれであると知れ。勇敢なるサンニャーシン!
唱えよ オーム・タット・サット オーム!

汝はどこに探し求めるのか?
友よ、自由はこの世界では得られない。
汝を引きずるロープを掴んでいるのはあなた自身の手なのだ。
嘆くのをやめて掴んでいるその手を離せ。勇敢なるサンニャーシン!
唱えよ オーム・タット・サット オーム!

この詩はサンニャーシン(出家者)の心の放棄を詠っています。私たちの心の中にある執着や欲する思いを手離せば、心が生み出す苦しみや問題から解き放たれて自由になることができる。真の自由を手にすることをヴィヴェーカーナンダは熱いハートをもって高らかに教えられています。

私はこの詩に触れて心の奥底から力が漲ってくるような気持ちになりました。ヴィヴェーカーナンダの言葉の一つ一つに熱の波動を感じ、その熱が私の心に響きわたるようでした。この詩を読み唱えると、その言葉だけに集中され、その他の思いが浮かばないほどに強い純粋な思いで心が満たされているような感覚がありました。
ヴィヴェーカーナンダの言葉にとても惹きつけられて胸が熱くなりました!
私は自由な心でありたい!自身の心に引きずられることのない自由を求めて生きたいと思いました。

最後に私はこの詩の中で何度も繰り返し出てくるフレーズにとても鼓舞されました。
勇敢なるサンニャーシン! 唱えよ オーム・タット・サット オーム!(神は真実在なり)

金森淳哉


アーサナの効果

京都に住む娘は現在28歳で、看護師として在宅の患者さんを訪問し、サポートする仕事をしています。当然ながら彼女は、私のことを28年間家族として間近で見てきたわけですから、私がヨーガに出会ってから、どのように変化してきたかを一番知る人物といえます。

娘にはこれまで、「ヨーガは良いから、やるといいよ。やったら、良さがわかるから」というような誘い文句でヨーガを勧めてきました。実際に、彼女自身もヨーガに触れる機会はありましたが、コロナ禍をきっかけに足が遠のいている状況が続いています。

そんな中、2023年5月から娘のところに泊まる機会が増え、今では月に1〜2回は必ず泊まり、その時には昔話や仕事、家族のこと、趣味や友達の話など近況を話すのですが、いつの頃からか、最後には必ずヨーガの話になって、夜遅く、時には明け方まで、笑いあり涙ありで語り合うようになりました。ある時、娘が私のことを「昔とは違って、許容範囲が広がって、どんどんキャパが大きくなっていってるのがわかるよ」と言ってくれたことがありました。その頃から、これまでとは違い、年齢や親子という枠を超えて、より親しく話せるようになったと感じています。

12月に宿泊した時のことです。仕事で患者さんと接する時のことについて

娘 「患者さんのいろんな言動や行為を見て判断していることは、私の心が判断していることだから、それは見ないで、相手に必要なことだけを見て援助するようにしているんだ」
私 「すごいね。それヨーガじゃん」
娘 (驚いた様子で)「えっ!それヨーガなの?」
私 「そうだよ。そうやって、目の前の人に行為していく。でも、そうだな・・・(一瞬考えて)できたら、アーサナをやるともっといいけどなぁ」
娘 「アーサナの効果は何?」
私 「そうだなぁ・・・(自分が体感している効果の中から、娘にいいものを、と考えて)自覚しているかどうかは別として、誰しも身体には疲労や歪み、偏りのようなものがあると思う。その状況がマイナスだとして、しばらくアーサナを続けているとそのマイナスが、アーサナしたらゼロになる、アーサナしたらゼロになるを繰り返すようになる。またしばらく続けていたら、どんな時もゼロでいられるようになって、またしばらく続けていたら、ゼロがたまに1になることがある。そうなった時、たった1だけれど、その1の分、余裕のようなものが生まれて、それが優しさや思いやりとなって行為することができる。そんなふうにアーサナが私の背後をしっかりと支えて、そうして支えられた行為は、相手に喜んでいただける行為となるよ」
娘 「はじめてアーサナの効果が分かった」

娘がすんなり納得したことに驚きました。これまで、何一つ伝えられていなかったけれど、やっと一つ伝えられたことに安堵しました。そして、体得したものでなければ伝わらないという事実でもありました。

私がこれまで行なっていたアーサナは形を真似たもので、体調を管理するために行なっていたように思います。しかし、オンラインクラス「アーサナの秘義」の受講をきっかけに、自宅でのアーサナでプラーナ(気)と背骨の関係を体感し、その日以来、アーサナの取り組み方が一変しました。
効果や変化が実感できなくても焦らないで、プラーナの働きを信じて、真摯に身体と向き合いながら、丁寧に行なうようになりました。すると、アーサナ中に必要なことが直感されるようになり、直感したことを実践すると驚くほど速やかに身体の状況が修復され、滞りがなくなり、さらにアーサナが深められるようになっていきました。

私が感じているアーサナの効果は驚くほどに広範囲です。日常の生活、仕事すべての行為が丁寧に感謝をもって行なうことができるようになります。これまでの価値観は一変し、上手くいかなかったことは、すべて自分の至らなさであると心から受け止め、自らを修正する力に注ぐことができます。が、しかしそこには多少、忍耐力が必要となります。その忍耐力さえもアーサナによって自然と培っていくことができます。

アーサナをすることによってヨーガの歩みは力強く加速し、自分の理想とする人間像を明確にし、それに向かって正しく努力できる叡知と方法が誰にでも開示されると確信しています。

私のアーサナを見守ってくれる大好きなシヴァ神。

山口正美