MYM刊行物」カテゴリーアーカイブ

アートマンが愛おしい

聖典の真実の言葉から、心に留めてほしいものが一つあるのです。それはある覚者が語ったもので、「夫が大切だから夫が愛おしいのではなく、アートマンが大切だから夫が愛おしい。妻が大切だから妻が愛おしいのではなくて、アートマンが大切だから妻が愛おしい。子供が大切だから子供が愛おしいのではなくて、アートマンが大切だから子供が愛おしい。僧侶が偉大だから尊敬すべきなのではなくて、アートマンが尊いから僧侶が尊い」。

『マハーヨーギーの真理のことば』P87

この世界には自然と愛情が湧いてくる相手もいれば、そうでない相手もいるように見えてしまいます。でも、師であるヨギさんはそんなことには頓着せず、いつも目の前の相手の本質だけを見て接してくださっていました。それは弟子に対してだけではなく、全ての人や物に対しても同じでした。そしてヨギさんの見ておられた世界を言い表したものが上記の美しい言葉なのだと思います。

対人関係で毎日色んな出来事が起こり、時には相手に対して複雑な感情を抱いて心が混乱してしまうこともあります。それでもヨギさんのまっすぐなまなざしを思い出すと、本当はヨギさんが見ておられた世界が真実なのだと認めざる得ない気持ちになって、自分の心のあり方を正していきたいと強く思います。ヨギさんはご自身の生き様を通して、私達に真実を見せてくださいました。

でもその心さえも超えて、その奥にある本質を見つめることができれば、そこには何の違いも見つけられません。区別のない、差別のない、無差別な一つの実体が在るだけです。そして、私たち自身がそれであるということです。私もそれならあなたもそれである、万物がそれである、それだけが在る。

いつかヨギさんと同じ世界が見れるように、全力でヨーガに励んでいきたいと思います。

船勢洋子


天国と地獄

ある男が死んで黄泉の国に行きました。そこで二つの館を目にします。

一つ目の館では、大勢の人間たちが食卓を囲み、食事をするところでした。彼らの片腕は椅子のひじ掛けに結わえ付けられていて、もう一方の手には長い柄のスプーンがくくり付けられている。彼らは目の前のご馳走を食べようとするのだが、口に運べず、頭に被るやら床に落とすやらで、いら立ち怒りだし、とうとう喧嘩を始めた。彼は、これは地獄だと思って次の館に入ります。

ここでも多くの人間たちが同じように片手を椅子に、片手に長いスプーンをくくり付けられて食事をするところだった。すると彼らは長いスプーンで相手の口に食べ物を運んでいる。もらったものはお返しをする、という具合で皆満足気に喜んでいる。彼は、ここは天国だと思った。

天国と地獄は人の心の中にあります。一つ目の館では、人は「私」と「私のもの」を固持し、自分のことだけを考えて行動する結果、誰も幸せになっていません。二つ目の館では「あなた」と「あなたのもの」に自らを捧げることによって、他者が幸せになり、その場に調和がもたらされ、自らも幸せになりました。

・  ・  ・  ・  ・

自分の欲望よりも、他者の喜びになることを行為することが、その場の調和や円満さを作り、結果的に自分も幸せになる、ということがイメージを通して直感的に理解できる教えです。
イラストに目を戻すと、二つ目の館の人はみんな他者のことを見ています。
イラストを描いてみて、他者のことをよく見ること、それが他者へ自分を捧げる行為への第一歩だと思いました。

(『ヨーガの福音』 愛の真理 より抜粋)

サルヴァーニー


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『マハーヨーギーの真理のことば』第十六章「聖なる存在」

書籍発刊から1年が経ちました。章ごとにレビューを綴ってきたこのシリーズも、ついに最終章となります。
この本の編集に携わらせていただき、実は10年ほどかけて何度も内容に目を通してきたのですが、改めてこの章を開いた時、以前に感じていた以上の大きなものが訴えかけてくるように感じ、正直圧倒されました。

第十六章には、自ら具現された普遍なる真理を、人々に、この世界に分け与えてきたヨーギーや覚者、グルという存在の生き様がありありと語られています。偉大な存在の生涯や使命は、インスピレーションの源であり、それらに触れると強大な熱量のエネルギーが流れ込んでくるように感じます。
中でも多くの内容が編纂されているのがブッダについてです。
私たちの師は十代の頃、瞑想によってブッダの悟りと、ブッダその人そのものに肉薄されたといいます(→瞑想の章でも触れられています)。師の口からこぼれ出たブッダの心境や境地というものは、ただ史実として残されているという範疇を遥かに超えており、それはまるでブッダが語られているかのようでもあり、また、まさに師はそのようであったと、師のあり方そのものであると思えるのです。

ブッダは最後に、私は全てを教えた、これからは自らを拠り所として努め励めと弟子たちを導かれた。また一方で、「この世界は美しい」という言葉も残されたとされています。完全なる自由の境地に留まられていたブッダは、この限りある世界において何を見て、何を思われたのか。師はブッダの心境について次のように語られています。

近いところではシュリー・ラーマクリシュナの例がそうであったように、ブッダの生涯も、ただ人を救うためだけに充てがわれました。人の苦しみを気付かせ、そうして正見という正しい道に導くためには、苦しむ人と同じ立場で手を引かなければなりません。そうして四十五年間ひと時も休むことなく、ブッダは人、そして生きとし生けるもの全てを救い続けてきた。

ブッダとて肉体を持つ身、いつかはこの地上から離れなければならない。肉体の衣を脱ぐにはそれなりの理由が必要です。永遠の存在であったブッダもまた、その肉体は限界を持っています。彼はこの世を去るということを悟った時、もはや最後の教えは自らの死、そのものだったと思われます。それは生前教え続けてきた、人は誰もが死ぬということを改めて教えることです。しかし死ぬのは肉体だけであって、その存在が死ぬわけではありません。この崇高な不二一元の教え、これが最後に彼の口から漏れた「この世は美しい」ということになると思います。もはや苦悩も絶望も、希望も願望も何もない。たとえ時間がこの肉体を朽ち果てさせたとしても何も問題はない。だからこそ、その瞬間において彼はそう呟いたに違いない。それは生きとし生けるもの全てに与えられた、もたらされた祝福でした。

『マハーヨーギーの真理のことば』第十六章

不二一元――アドヴァイタ。ただ、一つのもの、真実のみが在る――。
人々の真の救い、理想となる永遠の真理を、ブッダは最後の最後まで、そのお体から離れることをもっても示された。
二千五百年という時を超えて、師が伝えてくださったかけがえのないメッセージであると、新たな気持ちで受け止めました。

アーシュラマ

第十六章の章扉前の写真(マハーヨーギー・アーシュラマ)

マードゥリー 


『Paramahamsa』表紙絵シリーズ ⑥

私が絵を描き始めたのは、ヨギさんにインドの細密画について教えていただいてからです。
最初はインドの細密画を模倣するところから始まったのですが、何枚か描いていくうちに、ヨギさんは日本にお生まれになり京都にお住まいなのだから、京都アーシュラマや日本を感じるような風景の絵を描きたいと思うようになりました。

そう思って描いた1枚が、今日ご紹介する『Paramahamsa』No.29の表紙絵で、この号には、2001年のサットグル・ジャヤンティーの模様が掲載されました。

 

そして、今年、2023年のサットグル・ジャヤンティー、師の御聖誕75周年祭はもう目前です。

私たち各国の弟子にとって、今年は大きな節目を迎えた年であり、来たるサットグル・ジャヤンティーは、私たちにとって意味深いものとなると思います。
たとえ師のお姿が見えなくても、師が目の前におられる時と同じようにジャヤンティーを迎えることができますように。

師はおっしゃいました。
アヴァターラがこの世界にお生まれになる日、全世界が祝福されるのだと。
この吉祥な日を、全員で歓びをもって迎えたい。
そして、師に出会えたことを、決して良き思い出として終わらすことなく、一人一人が師の教えを生き、師が示された真実を生き生きと表すことができるように、身口意をもって行為していきたい、そう思います。

シャチー


『マハーヨーギーの真理のことば』第十三章 瞑想ーー基礎編

私は10代の頃から「早く落ち着きたい」と口癖のようにしょっちゅう言っていました。自分はただ落ち着きたい願望が強いタイプだと思っていましたが、ヨーガに出会い、「自分の中に真実(神)が在る」という教えを知り、「落ち着きのない心が静まってわだかまりのない心境になることで、自分の中に在る真実(神)が自ずと顕れてくるのか」と妙に納得しました。ずっと感じていた落ち着きたい願望は、「自分の中に在る真実(神)を無意識に求めていたからだ」と気付き、嬉しくなりました。そしてそれを実体験したいと思い、瞑想を始めました。
瞑想における心とその奥に在るものについて、『マハーヨーギーの真理のことば』第十三章 瞑想ーー基礎編に説かれているので引用させていただきます。

瞑想の実際的な面として、座って息を調えて心を落ち着かせる、これも簡単な瞑想の一つになりますけれども、経験すると、少々普段の活動とは違う心地良さが伴ってくると思うのです。その心地良さがどこからくるのか、これは私たちの本質として、心の潜在下、奥の方にはもう既にその心地良さのような状態、平安な状態があって、逆説的ですけれども、普段は心の表面の活動によってその平安な状態が現れないでいる。日常の様々なことや行動、あるいは心の様々な想念によって搔き乱されてしまっている。ですから息を調え、静かにすることによって、その上辺の活動が静まって、本来の静けさが現れてくる。

「自分の中に在る真実(神)」に触れたいと瞑想を始めましたが、集中力のなさ、また座法の不安定さに苦労しました。それでも自分の内面を見つめようと努力することに安らぎを感じ、とにかく毎日瞑想するようにしていると、不思議と日常で自分を見失うことが減っていきました。またやり続けていく中で、座ると自然と心が静まることが増えていきました。

ただ、毎日の瞑想が習慣付いてくると、瞑想を深めていく難しさを感じ、それには根気強くこつこつやり続ける熱意が必要だと感じました。そのような時、師は力強く励ましてくださいます。

サマーディは必ず訪れます。それを聖典の中だけの話だと思わないでください。熱心になることです。それだけが必要です。それを十分に準備するためには真理を学び、それだけを求めなければならない。自分は何者なのか、誰なのか、あるいは完全なる存在としての神、そのどちらかに集中していくなら、心の中にあるそれ以外のものは取り除かれていきます。
覚者の命の言葉をよく学んでください。更には、その覚者たちは私たちと全く同じ体を持っていたということを忘れないでください。その具体的実例が、無知とエゴという名の敵に勝つための私たちの最も強い味方であり、武器です。学び、考え、そして瞑想。そして、あなた方は真理を実現するでしょう。
【注釈:サマーディ 三昧。心が消え、対象のみが意識面にある状態】

師はご自身を通して、サマーディは本当に在ると私たちに見せてくださいました。師のお言葉、行為、1つ1つが真実の現れそのものでした。師が与えてくださった大きな導きは、たとえ師にお会いできなくても、この『マハーヨーギーの真理のことば』を通して感じ取ることができます。そして師の境地への憧れが、瞑想への情熱の支えになります。師が与えてくださった大きな祝福に感謝し、これからも熱心に瞑想を実践していきたいと思います。

 

船勢洋子


『マハーヨーギーの真理のことば』 ~第十一章 真の愛

「恋は盲目」という言葉がありますが、周りのことなんて一切目に入らなくなるほどその人のことが好きで好きで、朝から晩まで寝ても覚めても、気が付けばその人のことばかり考えている……。そんな経験がある方はいらっしゃいますか?(私はあります!!)
たとえばそんなふうに神を一心に愛し、神と一つになろうとするヨーガをバクティ・ヨーガ(信愛のヨーガ)といいます。

師シュリー・マハーヨーギーに出会うまで、私はバクティ・ヨーガについて何も知りませんでした。師の下でヨーガを学ぶようになってしばらくたったある日、東京の自宅で瞑想中に師のヴィジョンを見るということがありました。驚いた私は京都にいる師を訪ね、そのことについてお話をしました。その際に「あなたはバクティ・ヨーガが向いているかもしれませんね」と言われたことがきっかけとなり、私はバクティ・ヨーガを一から学ぶことにしました。
初めは神を信仰の対象とするだけでなく人間のように愛するなんて!?と困惑し、どうしたら神を人間と同じように愛することができるのだろう?と、正直戸惑いました。
ところが、マハーヨーギー・ミッションのバクティ・サンガムに参加して、キールタン(インドの讃美歌)を歌ったり、インドの神や聖者のことを学び、また自分でも聖典を読むうちに、知らず知らず私はクリシュナという神に強く惹き付けられ、まるでクリシュナ神の神秘力によって絡め取られるように恋に落ち、気が付けばクリシュナ神を心から愛するようになっていました。今、思い返しても、その経緯は不思議としか言いようがありません……。

『マハーヨーギーの真理のことば』の中に、まさにその時の私の状況を表したような箇所を見つけました。その一部を抜粋してご紹介させていただきます。

バクティ・ヨーガというのは、単純に神を好きになることです。好きになること、そして神に語り掛けることです。ちょうど恋と似ているというふうにいわれる。好きな人が現れたら、やっぱり近づきたいと思うだろうし、話したいと思うだろうし、そのような行為を積極的にしていくよね。その人のことで心がいっぱいになってきたら、他のことなんてもうどうでもよくなる。その人だけが全てになってくる。バクティ・ヨーガというのは、ちょうどそんな感じなの。
本当に、狂おしいほどの情熱というか、神への渇望がそうさせるのです。

『マハーヨーギーの真理のことば』第十一章 第一節/ 神への渇望 より抜粋

愛は誰もの胸の中に既にあります!神を渇望することで、その愛を大きく大きく育てていくことができます!
私自身、もっともっと神への愛を純粋にし、美しい愛の花を神に捧げることができるよう心から願っています!!!

太陽を見つめ、まるで太陽を真似ているかのような姿のヒマワリ。私もヒマワリのようにいつも神だけを求め続けていたい。

シャルミニー


『マハーヨーギーの真理のことば』 第九章 大宇宙と小宇宙の神秘

私はヨーガを始めてまだ数年の初心者です。ヨーガの教えは、聖者・覚者によって見出された叡知であり、目から鱗が落ちるようなものが多く、学ぶのがとても楽しいです。今は、シュリー・マハーヨーギーへの質問と答えがまとめられた『マハーヨーギーの真理のことば』を読んでいます。シュリー・マハーヨーギーのお話は自らの経験に基づいており、とても説得力があります。また、対話形式で書かれていて、とても読み易いです。
今回はこの御本の第九章をレビューさせていただきます。

第九章は「大宇宙と小宇宙の神秘」というタイトルとなっています。ヨーガでは、物理的に存在する宇宙を大宇宙、それに対して私達の身体のことを小宇宙ととらえています。私は瞑想中に、自分の中に内なる世界が広がっていることを感じることがありました。小宇宙という言葉を聞いた時、本当にその通りだなと思いました。

さて、この章の中で私にとって最も印象的だったのは、大宇宙と小宇宙の一致(梵我一如)の部分です。
私が梵我一如という言葉を知ったのは高校生の頃で、教科書にこのように書いてありました。
「ウパニシャッド哲学では自己の本質であるアートマン(我)と宇宙の理であるブラフマン(梵)が一体であるという真理(梵我一如)を悟ることで輪廻転生から解脱できるとされる」
言葉の雰囲気にとても惹かれたのですが、意味は分からないままでいました。

シュリー・マハーヨーギーは、梵我一如について、このように説明されています。

サマーディ(三昧)においては、いわばその物質的な粗大な局面から、より微細な原因体の方に心が移行していくことになる。そうするとその大宇宙と小宇宙を造り出した原因というのは同じということになってくるので、そこでの物理的な空間の大きさとか量とか時間とかいうものが消滅してしまうということになる。そういう中でより深まっていけば、その根源的な宇宙と万物の展開を始める原初体のようなところに入り込んでしまう。するとそれは二つとないものとして、体感することになるのです。相対的な大宇宙、小宇宙というふうに物理的な条件を伴った観念がそこにある以上は、大宇宙と小宇宙の一致とか一体というような表現になるだけのことです。要は宇宙万物の根源にサマーディは連れていく、あるいはサマーディの中でそれを体験するということです。

なるほど、梵我一如とはサマーディの中で体験できるもの――では、サマーディとはいったいどのようなものなのでしょうか? 興味はつきません。

第九章にはその他にも、プラーナーヤーマ(調気法)、クンダリニー(根源力)、シュリー・ヤントラ(象徴的な真理の図象)、宇宙開闢(かいびゃく)論など、ヨーガの生理学と宇宙観に関する興味深い内容が、数多く取り扱われています。
ぜひとも読んでみてください。きっとヨーガの理解が進むと思います。

右は『マハーヨーギーの真理のことば』の表紙、左はシュリー・マハーヨーギーの描かれたブラフマーンダ(ブラフマンの卵)。ヨーガでは、宇宙が始まる前、有もない、無も無い時、そこから宇宙が生まれ、そして万物、万象が展開していったと語られています。ビッグバンが発見される遥か昔、太古の昔のヨーギーが、宇宙の始まりを直観していたことに感動します。

島本廉


『マハーヨーギーの真理のことば』 自分の一生は自分で生きる

子供の頃から我が家にはいちじくの木があった。母が養女としてこの家に来た時に、庭に好きなものを植えたらいいと養父が言ったので、好物のいちじくの苗木を植えたところ、いちじくはだめだ、根が強く他の植物をダメにしてしまうと引っこ抜かれてしまったそうだ。しかし母はその苗木をこっそり家から離れた小さな畑に植えた。養父は数年後に亡くなり、母はやがて結婚し、子供を育てながら、丹精込めていちじくの世話をして、毎年夏になると鈴なりに実がなった。家族だけでは食べきれず、好きな方に差し上げているうちに、甘くて美味しい、販売して欲しいと声が上がり、軒先で売ると、毎朝買いに来られる方が増え、口コミで遠い所からも来られるほど、評判となった。

風邪も引いたことがないと健康を自慢していた母であったが、思いがけず病を得た。手術と治療を繰り返し、なんとか日常生活を送っていたが、病状が進み、最期の2年ほどは坂道を転げ落ちていくように急速に悪化した。それでも母は最後まで前向きに生きた。大切に育てた畑を見るのが何より大好きで、私は週末になると母を車椅子に乗せて畑まで行った。いちじくの世話は父と姉夫婦が受け継ぎ、親木から挿し木をして子供の木も育てた。亡くなる2ヶ月前の6月には、親木も子供の木も立派な葉をつけているのを見て喜んでいた。母がいちじくを愛でたのはそれが最後となり、8月に旅立った。
その1年後、去年の夏の終わりのこと、雨の多い夏となり、例年より少し時期が遅れ、9月の初めになって実をつけた。そんな朝、前日まで青々とした大きな葉を伸ばしていた親木のいちじくが一夜にして実だけ枝に残して、全ての葉を地に落とし、寿命を全うした。この2回の夏に私たち家族は母といちじくの、二つの魂を見送ることになった。

愛する存在の死は悲しい。この上ない苦しみである。苦しみを乗り超えるために私は言葉の通り七転八倒した。そしてやはり最後にすがるところはヨーガだけであった。
死を理解することは今の私には難しい。それなら必死に生きようと思った。そして私は今、真理のことばに支えられて生きている。

問題は、一個人として自分はどう感じるのか。
どう生きたいのかを自分自身に問うべきです。本当の自由が欲しいのではないのですか。本物の幸せを得たいのではないですか。
真実在というべきその存在が自らの中に在ると教えられながら、
どうしてそれを探そうとしないのか。
この単純な問い掛けを自分自身に真剣に為すべきです!
それ以外の想念は全て、単なる情報の影響にすぎません。
そんな影響の渦に巻き込まれて、自らを失いたくはないでしょう。
自分の一生は自分で生きるのです!

『マハーヨーギーの真理のことば』 第八章 実践の秘訣 より

母といちじくが自らの人生を見せてくれた。そのことに感謝して、私も自分の人生を生きたいと思う。それがヨーガとなったら本望だ。
そして今年も我が家のいちじくが大きな葉を広げて甘い実をつけるのが楽しみだ。

サラニー


『マハーヨーギーの真理のことば』 第七章 食の大切さ

ヨーガでは、悟りへの乗り物であるこの身体を維持するために食事をする、と考えます。 

食材も命であり、食べるとはその命を頂くということ。 
食材に感謝し調理したものを食べると、食べた後も満たされた気持ちが続き、心身が調うと、日常生活における言動も調っていきます。 

 そう分かっていても、仕事が忙しくてつい買ってきたものを食べて済ませてしまうことがありました。 
買ってきたものは味が濃くておいしいと思えず、油っこくて胃腸の調子を崩し、食べても満足感を得られませんでした。そのことで自己嫌悪に陥ってしまい、やるべき事を後回しにしがちに。 
安易に口にした食事が日常生活にも影響を及ぼしていくことを痛感したタイミングで、『マハーヨーギーの真理のことば』の第7章のページを開きました。 

古きに渡って培われた東洋の精進料理は、 
まず真理を求めることを念頭に置いて、 
修行者の体と心を調える役割を担っている。 
修行が深まり、身口意が不動となり、真理の一片なりとも悟るなら、 
何を着ようが何を食べようが構わないのだ。 
もはや彼あるいは彼女は何ものにも影響されないから。 
しかしその境地に至るまでは、 
真理の正しい教えと同様、正しい食生活にも留意しなければならない。 


第七章の冒頭に書かれているこの教えを読んで、目が覚めたような感覚でした。
 

私は真理を求めて生きると決めた。 
真理を実現するために、いつでもこの体を道具として最大限に使えるように調えておく必要がある。 
それには真理の教えを学ぶことと同じくらい、それに基づいた正しい食生活が不可欠である。 

身口意が不動となり、真理の一片でも悟り得るまではそれを徹底する! 

この章を読むことで、ようやくその覚悟が決まりました。 

 

 ハルシャニー