ヨーガの実践」カテゴリーアーカイブ

何があっても淡々と黙々と!

想いが溢れる。
ヨーガを実践にするにつれ、時に強烈にそれが起こるようになりました。
ヨーガに出会う前は、その時々の感情が昂り、爆発してしまうこともありました。嬉しい、腹立たしい、悲しい・・・種類は違えど、感情が昂っておさまった後に残るのは虚しさが多かったように思います。
今も感情が昂ることがなくなったわけではありませんが、以前のような感覚とは異なる想いが湧いてくることがあります。胸の奥がじーんとするような、それは愛しいような感じもするし、ひと言では言い表せない感じ。その想いがあるだけで揺るぎのない安心を感じるというか。胸の奥から自ずと湧き上がってくるものが、ただ在る、という感覚です。
その想いが強く溢れ出てくるのは、師であるヨギさんのお姿を目の前にしている時。お姿は見えなくてもヨギさんのことを想う時。そして、ともに学び実践しているとグルバイ(兄弟姉妹弟子)と一緒にいる時。

東京では、2月末から新型コロナウイルス感染症の影響で、グルバイと会うこともままならない状況となりました。クラスもなく、こんなにも長く誰とも会えないのは初めてのことです。

また、私は鍼灸師として働いていますが、心身共に不安定になった患者さんと接することが急に多くなりました。こんな時こそぶれないよう淡々と、と意識はしていても、強い不安感に引っ張られそうになる瞬間が度々ありました。

そんな時、受講中の瞑想専科の配信動画を観ました。

2月22日に開催された会員限定瞑想専科のYouTube動画配信クラスの一画面

テーマは「ヨーギーの生き様」。
今回は最初に瞑想だったので、45分間座につきました。
日中だったので周りの音が気になりましたが、ひたすら胸の奥一点に集中するよう努めました。ここしばらく長く座る時間を取れないまま過ごしていたこともあり、落ち着きのない心との格闘が続きました。決して集中できたとはいえない45分間でしたが、自分の中の軸のようなものが一筋通ったような感覚がありました。

瞑想に続いて講座が始まりました。
ヨギさんの教えは比類のない叡智。真理を糧に生き、人を導き救済する。そこから一瞬もぶれない生き方をされている。その生き様を見せてくださっている。私たちはどれだけヨギさんの生き様を感じられているか。
PCの画面越しですが、いろんなものが一気に伝わってきました。
「ヨギさんは、淡々と、黙々と、それを実行され続けている。何が起きてもまったく惑わされず、ただ同じように淡々と黙々と…。」
それを聴いた瞬間、涙がどっと流れました。久しぶりに、大泣きしました。そして自分の中に鬱々と溜まってきたものが何もなくなったと感じました。

白いダリアの花。サハスラーラ・ チャクラのようで、眺めているだけで穏やかになり、胸の奥に集中が起こりました。

ヨギさんは常々時間も空間も関係ないとおっしゃっています。
分かっていても、ヨギさんにお会いする機会がなくなり、クラスなどでグルバイにも会えなくなると、モチベーションを保ち続けるのが厳しくなってきていました。
そんな中、この動画が一気にいろんなものを吹き飛ばしてくれました。
そうして、胸の奥にただ在る感覚が戻ってきました。ヨギさんはいつでもここにいらっしゃってくださること。真理はいつでもここに既に在ること。同じ真理への道を歩んでいるグルバイの存在がいつでも共にあること。想いが溢れて、次の一歩を踏み出す原動力となりました。

この瞬間もヨギさんはヨーギー/ヨーギニーの生き様を見せてくださっています。私たちはどれだけその生き様を感じ取ってそこに迫れるのか。何が起きても、淡々と黙々と。今こんな時だからこそやるべきだし、より集中して迫っていけるのではないでしょうか。

ハルシャニー

*クラス体制の変更に伴い、3/29より東京クラスの Webサイトがリニューアルします。それに合わせて東京ブログメンバーだったハルシャニーとシャルミニーが新たにこちらのブログメンバーに加わります。


春の風を受けて

新型コロナウィルス感染の影響で、うちの娘は学校が休校となって家で過ごす毎日でした。お菓子作りをしたり、集中してじっくり本を読んだり、普段なかなかできないことが出来ていたようです。非常事態の中、比較的のんびりと過ごしている娘を見て、先輩グルバイがずいぶん前に仰っていた言葉を思い出していました。

ヨーガ行者はどんな時代が来ても、影響されない

どのような話からこの言葉をお聞きしたのか、今回は割愛させて頂きますが、この言葉を聞いたとき、ヨーガ行者というのは常に内面で満たされているから自分の外側に幸福を求めようとしない、世間の動揺とはまったく無関係のところで生きるということなんだな、と思いました。気持ちが揺らいでいるということは、逆に儚いところに喜びを求めてしまっているということになりますし、そういう時こそ、いったいどこに真のリアリティがあるのかを真剣に、緻密に探求せねばならないと思ったのでした。

朝、自転車を漕いでいると、ふわっと優しい風が吹いてきました。どこからか沈丁花の甘い香りが漂ってきて、ラーマクリシュナの聖句を思いました。

葉っぱが動くのも、それも神のご意志によるもので、あのお方(神)のご意志なしには、一枚の葉も動くことは出来ない。

ああ、神のご意志がないと葉っぱを揺らす風も吹かない!目にも美しい花も咲かないのだ!と思うと神の存在がとても身近に感じられて嬉しく思いました。

もっともっと私の内面が神で充満していけば、その歓びは周りの人たちにも良い影響が与えられるのではないかと思いました。私のするべきことは明らか!神を思い続けることです。

京都では少し桜の花が開いてきました

アマラー


純粋な愛

「光陰矢の如し」と言いますが月日の経つのは早いもので、ヨーガを学び始めてから、もうずいぶんと時が経ちました。ヨーガの師と巡り会った頃、見るもの、聞くものがすべて新鮮で、心はその教えに惹きつけられ、すぐに虜になりました。それから、いろいろな問題がスムーズに解決し、めまぐるしく変わる環境の中で、心はどんどん新しい世界を受け入れ、軽やかに自由になっていったのでした。
でも月日が経ち、淡々と日々を暮らす中で、真実はいつになったら実現できるのか、思うような結果をみることができない自分は、何か進歩の証がほしいと思うようになりました。しかし、そんな悪魔のささやきには耳をかさず、自分の内にあるという真実だけを頼りに、心を正していくということも繰り返し、繰り返し行なっていました。
そういうふうに悶々としていたある日、シュリー・ラーマクリシュナの教えが再び頭の中に蘇ってきました。

「追い風は常に吹いている。自らが帆を上げるだけだ」

 最初の頃、この教えに背中を押され、勇気を出して小さな帆を広げ、師の下に飛び込んでいったのでした。その追い風は間違いなく確かに、真実の方向に私を進めてくださった、そうなんだ、私は今だって、この追い風の中で、もっと大きな帆を上げて、スピードをあげていくこともできるのだと改めて気付かされました。私はやっと、状況が困難にならないように、真実へ向かっていけるように、師がいつも影になり日向になり、どんな時も辛抱強く、私を見守り、愛をもって、支え続けてくださっていることに気がつきました。その師の純粋な愛を見つめていた時、私は自分の中の愛をも見つめることができたのでした。いつの頃からか私は師を愛し始め、そして今ではこんなにも愛しているんだと自覚し、そんな自分に自分が驚いたのでした。その純粋な愛の力を信じ、これからも淡々と精進していこうと思います。 

もっともっと師を、神を、愛することができますように。
オーム タット サット オーム

Satguru shri Mahayogi Paramahamsa
Painted by Saci

ダルミニー


深水会

誰が呼んだか「深水会(ふかみかい)」。
これは、齢(よわい)四十を超えて料理の一つも出来ず、かつヨーガに出会った後もなお食に対して無頓着な不届き者に、一からその教えや習慣を叩き込むための、いわゆるお料理教室の呼称なのです。
食べる物・時間・量に何の配慮もせず、料理の煩わしさから数十年に渡り逃げ続けていた私の首根っこを、神は遂に捕らえられたのです。

私の食に関する価値観を叩き直すために遣わされたのは、会の企画と料理指導をしてくださるアミティさん、食材の準備や料理の補助、洗い物など様々なサポートをしてくださる山口正美さん、出来上がった料理を食べてやや大げさに褒めてくださるアーナンディーさん、の3人のお姉様方。

左から、アミティさん、山口さん、アーナンディーさん。

ヨーガを始めて一年余りだった当初の私には過ぎたる布陣に思え、初回はしっかり委縮しておりましたので、正直一回こっきりかなと思っていましたが、気付けばこの会の開催も、昨年7月の第1回を皮切りに、既に6回を数えるに至りました。
カレーに始まり、オムライス・パスタ・天ぷら・湯豆腐・蕎麦と、おそらく独身アラフォー素人男子という条件を考慮して決めていただいたメニューを、この隙のない布陣が、諭したり鼓舞したり褒めたりとあの手この手で素人の私に手ほどきしてくださいます。
さらに教わるのは料理だけではなく、肉体を持ってこの世に生まれた我々が、米や野菜などの食材の命をいただきながら身心を調えヨーガを完成させてゆく、そのためにはいつ何をどのくらい食べるべきかは自ずと決まってくるといった、ヨーガにおける食の捉え方なども一から丁寧に教えてくださいます。

おかげさまで徐々にではありますが、私の食生活にも変化が現れ始めてきました。今年の年明けをさまらさの台所で教えていただいた手作りおせちで迎えることができたり、と。このような勢いのまま、これからも最低限の料理の習得と食に関する価値観の改善を図りたいという思いはもちろんあります。

一方で最近は、私が本当に学ぶべきは、素人のおっさんに一から料理を教えるというこの意味不明な役割を、嫌な顔一つせず、普段の先輩方と何ら変わらない優しさで淡々と果たす、この他者への奉仕の姿勢そのものなのではないかと思うことがあります。料理はある意味方便で、ご指導の本命は行為のヨーガなのではないかと。
ヨーガを始めてからよく耳にするようになった「他者への献身奉仕」という言葉の意味を、この料理の会での先輩方を通して、私はまだまだ分かっていなかったのだと痛感します。この献身奉仕のお手本を奉仕される側から目の当たりにしている私には、同じヨーガを学んでおきながらいつまでこちら側に甘んじているのか、という葛藤が生まれつつあります。
この葛藤には、インスタント食品コーナーから生鮮食品コーナーへと私の踵(きびす)を返させる力はもちろんのこと、ひいては、カルマの道(私)からヨーガの道(あなた)へと踵を返させる力も秘められているように感じます。
そんなこんなで、いよいよ自分が甘えていられる時間も残り少なくなりつつあるなという予感のもと、これを腹をくくるまでの猶予と捉えて、何かにつけてカルマの道に引き込まれがちな低次な傾向と袂(たもと)を分かつ覚悟を、今の内に養っておこうと決意を新たにする次第です。
以上が、私がこの料理の会を通じて教えていただいていると感じているところです。

まぁ時間切れまではしっかり甘えようかという不埒な思いともじゃれ合いつつ、第7回深水会のメニューに思いを馳せる、今日この頃の私でした。

深水晋治


ラーマクリシュナの例え話

梅の開花便りが聞かれ、日差しに春の訪れを感じますね

久しぶりに「ラーマクリシュナの福音」を手に取り、パラパラとページをめくっていると、私の好きな例え話が目に入ったので、ご紹介します。

ラーマクリシュナは、誰にでもわかるように、目に見えない真理や神を分かりやすい例え話にして教えを説かれることがあります。「どのようにしたら真理を実現できるでしょうか」と言う信者からの問いに対して、このように答えておられます。

「祈ることによってすべての魂はあの至高の霊と一体になれるのだ。どの家にもガス栓がつけてある。ガス会社からガスがくるようになっているのだ。だから、申し込め!申し込みさえすればガスをよこす手配をしてくれるだろう。部屋に明かりがつくだろう。シアールダハに事務所があるよ(一同笑う)」

おそらくシアールダハは実際にガス会社のある場所の名前ではないでしょうか。ユーモアがありますね。私はこれを読んだ時とても素直に「そうや、申し込まなあかん」と思ったのですが、それにはある経験が関係しています。

私は少しの期間ですが外国に住んだことがあります。知り合いがいなかったので、自分で住む部屋を探し、契約し、家具を揃え・・・ととても大変でしたが、屋根裏にある小さな部屋に落ち着きました。お茶でも飲むかとガス栓をひねったとき、ガスがきていないことに気が付きました。水道も電気も申し込みしなくても(おそらく大家さんがしてくれていた)そのまま使えることになっていたので、ガスについて聞くことをすっかり忘れていました。なぜかそのとき、私は備え付けのガスコンロの方に不備があると思い、大家さんに電話するも繋がらず、どうしようかと思っていると、隣に住む人が訪ねて来ました。ガスコンロに不備があると話すと、彼は、「違う!違う!申し込んでないから!今すぐ申し込め!」と言うのです。そこで、彼はすぐにガス会社に電話をかけてくれたのですが、私の語学力が追いつかず、電話でのやり取りは無理と判断され、直接事務所に行くことになりました。その日は営業時間に間に合わず、次の日の午後、仕事と仕事の合間に行ったのですが、昼休みで対応してもらえず、次の日に行くも、申し込むために必要な書類が揃っていないと帰され、書類をそろえるのにもさらに時間がかかり、土日は対応してくれない・・・・何日もかかって、やっとの思いでガスが使えるようになったことを覚えています。そんな苦労話もすっかり忘れていましたが、この例え話を読んだとき、そのことを思い出しました。

ラーマクリシュナの「申し込め!」の言葉とあの時の隣人の「申し込め!」がリンクして、なんとも忘れがたい例え話となりました。そうです、必要であれば申し込まなければならないのです。「私はガスが必要です」と同じように「私は真理が必要です、真理を実現させてください」と神に祈らなければならない。あの時、少し?(実際にはかなり・・・)手間はかかったけれど、申し込んだ途端にガスが来るようになったように、きっと申し込み続ければ、その思いは実現されるのではないかと思わせてくれました。

 


生まれる時も死ぬ時も裸

ある時のことです。家にもし泥棒が入って何かを盗られたら、絶対に許せない!と思いました。
その次に、そのような思いが自分の中にあることにも驚いてしまいました。
ヨーガは儚いこの世界に執われないように、永遠不滅の存在である本質を見なさいと教えます。それで自分自身もこの世界の物事に執われないようにしようとこれまで実践してきました。そうして人からどう思われても、どうでもいいと思えるようになってきて心が随分と軽くなってきたのですが、こと家の中の物質的なものに対しては、まだまだ執着があるんだと驚いたのです。
「私のバッグ」「私のお金」「私の大切なもの」・・・というように、「私の○○」があるんだなあと思い知らされました。そのことについてサットサンガでヨギさんに質問をしましたら、次のように教えを授けてくださいました。

 「生まれた時は裸、死ぬ時にも何も持っていけない。持っていけるのはカルマだけ。そんなものは捨てていきたいもの。生活する上での必需品はある程度やむを得ないが、それ以上執着する必要はない

 本当にそうだと思いました。人間本来裸一貫。死ぬときは何も持ってはいけない。執着というカルマなんか持っていきたくもありません。物質的なものに対する執着もそうですが、「泥棒が入ったなら」とありもしないことに執らわれていたことにも気付き、そんな思いも必要のないことだと思いました。そしてヨギさんは、知足についても教えてくださいました。今ある必要最低限のもので足りている、これを知りなさいということです。神から必要なものは十分与えられているのだとしたら、何かを失っても恐れることはないと思いました。そうして神を思い、神に感謝し、知足を徹底して実践することによって、自ずと無執着になっていくものなのだということにも気付かされたのでした。 

ダルミニー


朱に交われば赤くなる!

ヨーガを深めるにはどうすればいいか? 深めたいと思っても、なかなか思い通りには深まらないものです。でも、時期が来れば草木も蕾をつけて花開いてくるように、ヨーガをきちんと実践していれば、やがて実っていくものです。

今回、熱心にサットサンガや様々なクラスに参加されている吉岡さんが、地道な実践の様子と自らの変化について寄稿してくださいましたので、ご紹介したいと思います。


4年前にふとしたきっかけでヨーガに出逢った頃は、とても生きるのが苦しくて辛い時だった。それでも最初は、仕事も忙しくてクラスにはあまり行けず、真理の教えももっともだけれども、それができたら誰も苦労しないと思っていた。
でも2年前、「このままじゃいけない!」と思ってサットサンガやクラスに真面目に行き始めた。とにかく、できるだけクラスに行って、朱に交わって赤くしてもらうほかない!と思って通ってきた。そして、生きていることの苦しさから逃れるには、「できないし無理」と思っていた真理の教えを実践していくしかないのだ、といつからか思うようになった。それはたぶん、休み休みでも行っていたクラスで、その教えを生きている先輩グルバイ(兄弟姉妹弟子)を見ていて感じていったのだと思う。
そして今は、正に朱の原液がヨギさんなのだと思い、サットサンガに通っている。

バクティ・サンガムのクラスでは、最初は違和感しかなかったが、「現実に生きている人のように神を愛せたら、どんなに幸せだろう!バクティをわかりたい!」と思って再びクラスに参加した時には最初の違和感はなくなっていた。人間の力を越えた神のような存在がいるとずっと思っていたけれど、私が思っていた神とバクティ・サンガムで歌われている神と、結局同じものなのだなと感じるようになった。

鴨川でのバクティ・サンガム

そして、神を悟るには瞑想が不可欠だか、最初私は座ることすらままならなかった。シッダ・アーサナ(達人坐)で座ると足にも背中にも力が入り、心を静かにするどころではなかった。とにかく瞑想ができるようになりたいと思って瞑想専科に通い始めた。でも毎週は通えなかったり、行けてもクラスが終わったらすぐに現実の忙しさに引き戻されるという状態が長く続いた。
それでも、少しずつ少しずつ、教えが私の中に染み込んでいったのだと思う。8年前に両親が亡くなり支えを失った私が、代わりの支えとしてずっと握りしめていたもの、それを昨年「それは真理ではないからいらない!」と思えるようになったのだ。そしてそれを手放したことで、自分の時間が格段に増えた。それまでは寝る前にアーサナと瞑想をしていたので座るとすぐに眠くなってしまった。だけど時間が確保できたことで、仕事が休みの日はとにかく昼間に1時間座ろうと決めた。1時間は長かった。骨が折れるんじゃないかと思うくらい足が痛かったし、心もいろんなことを喋り始めたけれど、「それでもいい!座ってなんぼや!」と思って座った。しばらくそれを続けて次は1時間半座った。それはそれは長かった。いろんなことが頭に浮かび出すのだけれど、少しの間だけど心が静かにしている時があった。私の場合それは長く座ってみたからこそ得られた感触なのだと思う。今もまだまだ瞑想というにはほど遠いけれど、今の私ができることを積み重ねていくしかないのだと思っている。

毎週木曜日の京都瞑想専科(キャンパスプラザ京都)

アーサナは、私は頸椎の異常で首から肩にかけて痺れがあり、特にシールシャ・アーサナ(逆立ちのポーズ)の練習で嫌な違和感があった。ヨギさんは、暖かくなったら練習を始めたら良いと先輩グルバイを通じてアドバイスをくださった。整形外科の先生は、他のところのアーサナで身体を痛めた人が大勢整形外科に来るからという理由でヨーガを全否定された。でも私は整形のリハビリには通わずにアーサナ・クラスに行き続けた。結果、いつの間にか違和感も痺れもなくなり、シールシャ・アーサナもできるようになった。
それから去年、睡眠時無呼吸症候群と診断されたが、アーサナと瞑想をしっかりやって心穏やかに眠りについた時は明らかに無呼吸の回数が減り(症状が改善)、アーサナが集中できていなかったり気になることを抱えていたりすると、無呼吸の回数が増えた。こうしたことから、アーサナの力を信じざるを得なくなり、たとえ時間は短くても集中してやるように心がけるようになった。

手前が吉岡さん。スタジオサンゴッホ(京都)のクラスにて。

さまらさは、先輩グルバイに誘っていただいて軽い気持ちで参加したのが最初だった。私は料理が嫌いだったし、全くしなかった。自分一人の為に料理なんかする時間がもったいないと思っていた。さまらさでは調理の他に食にまつわるお話もされるのだが、その時のふとした会話の中で、自分の料理嫌いの原因がわかり、そうしたら、それから料理が嫌いではなくなってしまった。休日は時間を忘れて料理に没頭することもあるようになった。おまけに、今までは捨てていた例えばカボチャの種なども、レシピを調べて無駄にしなくなった。なにより、そういったことを面倒くさいと思わなくなった。どうしてなのかなと考えると、食べ物はすべて命だから、その命をいただく過程を面倒くさいなんて思ったらその命に失礼だと思うようになったのかな?と思う。それは、さまらさだから感じられた学びだと思う。簡単で美味しいのは今やネットのレシピにも溢れているけど、それだけじゃない、生きていく上で大事なことをじわじわと身に染み込ませてくれるのがさまらさだと感じる。レシピだけではなく、いつも何かの気付きを持って帰ることができるのだ。

ヨーガ・ヴィハーラでのさまらさの台所。右端が吉岡さん。

掃除について。祝祭でアーシュラマのお掃除をさせてもらった時、掃除するのが嬉しかった。家の掃除は面倒くさいと思っているのに何が違うんだろうと思った。私は神様に会いたいと思っているのに、だったらアーシュラマだけでなく、自分の家も(自分の心も)綺麗にしておかないと神様は来て下さらないだろう、と思った。そうしたら大嫌いだった掃除が嫌いでなくなった。今まで面倒くさくて嫌なことだった家事全般が、服を着ることのように当たり前のことに感じるようになった。

今こうして振り返ってみると、マハーヨーギー・ミッションに出逢えたのも、掴んでいたものを手放せたのも、いつも、いつも、グルバイの助けがあった。本当にありがたいことだと感謝している。
ヨーガは体得しなければ意味がない。私はまだまだ全然だ。あ~あ(ため息)、と思うこともあるけど、ヨギさんは「感想はいらない」とおっしゃっていた。今生の時間が足りるか足りないかわからないけど、もうヨーガ以外の道がないことだけはわかってる。この身体がある間、神だけを見つめて少しでも近付けるように、生きていきます!

吉岡恭子


永遠の言葉

去年の年の暮れに家の掃除をしていたとき、今までサットサンガでヨギさんのお言葉を書き留めたノートを、何気なくパラパラっとめくり眺めていました。

13年ほど前のノートを読んでいると、アーサナについてや、聖者の話、瞑想に入るための方法、日常生活をどう過ごすのか、事細かに丁寧に答えてくださっている内容が書かれていて、深遠な言葉にワクワクして、心奪われて、つい掃除を忘れサットサンガの世界に浸っていました。その中で背筋がすっと伸びる言葉がありました。

初めからヨーガの成就が前提にある。そのためだけにこの肉体は維持されなくてはならない。

ああ正にそうだ、と思いました。思い、言葉、行為はすべて根本的な動機から成り立っています。根本的なところがヨーガの成就であったなら、生活がヨーガそのものとなり、人生そのものとなるのです。ヨギさんのお答えはいつもシンプルで、的確で、瞬時に実践できる希望の光を常に与えてくださっています。弟子(質問者)の心に寄り添い、どの言葉からもヨーガの成就という目的だけを見据えた愛が、絶え間なく時空を超えて流れ続けているのを感じました。

この肉体は、ヨーガの成就のためにある。ヨーガの成就のためだけにある!!!ヨギさんの果てのない愛の中で、常に純粋なものだけを追い求めて生きていけるよう、努めたいと思います。

本年もどうぞ宜しくお願い致します。

                                                                                                                                                            アマラー


新年の抱負

新年、明けましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いいたします。
今年もブログのタイトルである「ヨーガを生きる」ということを、日々ヨーガを実践しているヨーギー、ヨーギニーで綴っていければと思っています。どうぞ、お楽しみに。

さて、ブログのリーダーであるゴパーラさんから、新年一発目のブログには、今年の抱負を書くようにと指示がありました!でも私の抱負はここ3年ほどずっと同じです。それは「バクティを深める、神と一つになる」今年もその抱負は変わりません!!そんなに簡単に達成できないので抱負を変えられない・・・という感じでしょうか?もはや今年の目標ではなく、生涯の目標かもしれませんが、一年のはじめにまた気持ちを新たに思い直しておこうと思います。

バクティ・ヨーガとは単純に神を好きになること、そして心が神一色になることを言います。さて、一つになるにはどうしたらいいのでしょうかね?!

「恋をしている心は相手のことしか見えない。たとえ誰かがその相手に、彼、もしくは彼女に欠点を見つけようが、どうであれそんなことは耳に入らない。アートマンであれ、ブラフマンであれ、あるいは神であれ、それだけしか見てはいけない。
・・・・そのような純粋な渇仰心にどうすればなるのかと聞かれても、ただ愛を深めるしかない。恋に理由はない。ずっと見つめ続けて、息を止めて・・・・一つになる」
                               シュリー・マハーヨーギー

ただ愛を深めるしかないのですね。ヨーガの精進には情熱が不可欠だと言われています。神と一つになりたいという情熱、その熱をもっともっと高めて、息を止めて?!神を求めていこうと思います。


識別とヴィヴェーカーナンダ(最終回 )& 今年の締め括り

2019年も残すところ、あと2日になりましたね。
皆さま、年末をいかがお過ごしでしょうか?

さて、今年の私の目標は「徹底識別」ということで、この「識別とヴィヴェーカーナンダ」の連載をスタートさせ、ヴィヴェーカーナンダ、おもにその著作『ギャーナ・ヨーガ』を通して、識別を学んでいきました。
また同時に、私自身の心が執着している世界の対象と、それに対する心の動機というものにも「常浄楽我」という真理を当てがって識別を行ない、世界と心の働きにリアリティという実在性がないことを見極めていきました。
しかし依然として、心には「私」と主張するエゴ意識があり、どのようにしてエゴ意識がなくなるのか分からず、識別も難航していました。
そんな時、10月のサットサンガで師にその打開について尋ねると、師は大きなヒントを与えてくださいました。
それがサーンキヤ哲学が説く二十四の原理ーーエゴ意識が発生する前段階の「ブッディ(認識)」ーーその教えです。

「アハンカーラ(エゴ意識)のもう一つ始まりにあるブッディ(認識)というものだけれど、このブッディがすべてのナーマ・ルーパ(名前・形)をつくり出す原因になっている。だから必然的に私意識の源にいけば、そのナーマ・ルーパというものの正体というか、それの根源の方に行き着くことになって、ナーマ・ルーパというものもこの世界が展開するときに発生したものだから、それらは消えていくことができます。消えていくというのは、プラクリティという根源にそれを引き戻すという、実際には消えていくという関係です」

この教えを聞いて、「ブッディ(認識)があるから自分と他者、世界の区別ができ、エゴが成り立ってくるのか」と感じ、目から鱗でした。
そこで私は、エゴ意識に常浄楽我を当てがうということから、エゴが出てくる源のブッディ、そしてプラクリティを辿っていく二十四の原理の瞑想を行なっていきました。それと同時に、二十四の原理の教えと類似している十二因縁の瞑想も行ないました。
その瞑想を続けていくうちに、心にゼロがかけられていく感覚が起こったり、また心を辿っていくと最後に残るのはプラクリティの根源であるカーリー、オーム、師のお姿という感触がありました。
そして忙しい合間、ただ階段に腰掛けて休憩していた時、この識別瞑想を行なうと、心そのものが解体されていく実感がありました。それは家が崩れていくようなものでした。
それからは不思議と、心自身がリアリティという実在性を失い、心の思いに執らわれることが一気になくなっていきました。
そして『ヨーガの福音』の師の教えの一節が自然と思い出されました。

「『複合物』はすべて生まれ、変化し、消滅するということです。『単体』なるものは初めから生まれもしないし、なくなりも変化もしない。それのみが実存しています。実体は永遠なのです。それが私たちの本当の自己であり、神、真理です。それだけを求めなさい。そして実現しなさい。あなた自身なのですから」

人生の主人公は解体されるような心ではない、その奥に在る壊れることない本当の自分、アートマンであります!
心に実在性がないと分かった今、私の心はアートマンに向かっています!!
2019年、この年も師の大いなる導きに誘っていただいたと確信した1年でした。
最高の師シュリー・マハーヨーギーに感謝致します。

ゴーパーラ