ラーマクリシュナの弟子たち」カテゴリーアーカイブ

オンラインで「理想の聖者」について語らう!

6月に入りましたが、皆さま、いかがお過ごしですか?
こちら京都は緊急事態宣言が再々延長され、私の住む嵐山は観光客も少ない状況です。
そんな中ですが、5月は多くのグルバイ(仲間)とオンライン交流をしました!

「フォカッチャの会」では愛媛、金沢、和歌山、また台北のグルバイと楽しく有意義な時間を共有しました。

また、ニューヨーク・ミッションで行なわれている「Study In Practice (SIP)」にも3回続けて参加させていただきました。

「学ぶことを学ぶ」がテーマのSIPは、余談なしの真剣な勉強会で、終始ヨーガの話が展開されます。
「ヨーガは知識ではなく実践、そして体得」
そう師は教えられますが、「どうしたら知識ではない学びができるのか?」「自分の偏った考えに陥らずに学べるのか?」「どのようにヨーガの教えを日常に結び付けられるのか?」といったことを話していきます。
会に参加する中で、私自身改めて感じたのは、やはり「学ぶ」には「理想の存在」が必要不可欠だということです。
「こうなりたい」「こう生きたい」「こうすればいいんだ」という気付きや道標が、理想の存在を見つけることでより明確になるーー
つまり、理想の存在を持つことで、学び、見倣うことがより実際的になされ、修行者の大いなる助けになると思ったのです。

SIPに参加した数日後、フォカッチャの会のヨーガ・トークスの時間には、皆さんと理想について話をしました。

参加したグルバイたちは、それぞれ理想の聖者をもっておられ、そこに近づく努力をされていました。
以下、要約したものをご紹介します!

神に対してひたむきで真っすぐなスワーミー・アドブターナンダが大好きで理想としていますが、私は以前、人間関係に悩み、部屋で声を押し殺してよく泣いていました。そんな時、アドブターナンダのエピソードを読みました。「人気のないところに行き、泣いて神に祈らなければならない。その時に初めて、彼はご自身をお示しくださるだろう」というシュリー・ラーマクリシュナの教えを実践していたこと、「彼はこの世の何事にも頓着せず、人生の唯一つの関心ごとは師にどのように忠実にお仕えするかということだった」、これらに衝撃を受けました。「私は自分のことばかり考えて自分のために泣いている。こんなばかばかしいことは、もうしたくない!神を求めて泣きたい!神に対して誠実に真摯に生きたアドブターナンダのようになりたい!」苦しい時だったからこそ、真逆の生き方をしていたことに気付き、より深く心に響き、理想に生きたいと心底思うことができました。

・昔から闘う女性に憧れている自分がいて、その性質を棄てるのではなく、ある時から生かそうと思い、闘う女性の究極に女神カーリーを見出しました。また理想の聖者は、煉瓦に頭をぶつけるぐらい狂っているナーグ・マハーシャヤ、それしかないと思っています。

・以前、理想(の聖者)を決めかねていた時、先輩弟子から「気楽に決めていいよ」とアドヴァイスをもらいました。理想って気楽に決めてええの?と戸惑いつつ再考……スワーミー・プレーマーナンダの伝記の一節「彼は骨の髄まで清らかだった」に触れた時、「私には無理だ」とすぐに自分でもびっくりするほどの拒否反応が出た事を思い出しました。そして、なぜそれほどまでに拒否したのだろうとその原因を探っていく中で、逆に清らかさに憧れをもっている自分に気付き、プレーマーナンダを理想としました。彼に近づきたいけれど近づけない。壁を感じていたのですが、つい最近、どうにかしたいと七転八倒していると、「プレーマーナンダ」という「名前と姿」を超えた言葉では表せない『何か』が理想であり、更にその先に師のヨギさんがおられるのを感じました。
プレーマーナンダの言葉、「まずはじめに全身全霊でひるむことなく誠実であるように試みることだ。過去、現在、未来におけるいかなる時も、真理は必ず勝利する」が大好きです。

・最近、ブラザー・ローレンスの『敬虔な生涯』を読んで、とても感銘を受けました。この人生を彼のように神への礼拝に生きたいです!

理想について話すのは、本当にいいですね。
とってもポジティブになれます!!

最後に、私の理想の聖者スワーミー・ヴィヴェーカーナンダの最高に力強い言葉を紹介させていただきます。

皆さん自身の心にむかって、「私は彼である、私は彼である」とおっしゃい。歌のように、それを昼夜、心の中に響かせなさい。そして死の時には、「私は彼である」と宣言しなさい。それが真理です。世界の無限の力は皆さんのものです。皆さんの心を覆っている迷信を追い払いなさい。勇敢になろうではありませんか。真理を知り、真理を実践せよ。ゴールは遠いかもしれない、しかし目覚め、立ち上がり、ゴールに達するまで止まるな!

今こそ、内面へのヨーガを深める時ーー理想を見つけ、学び、近づき、一つになる時だと感じます!!

誰かが間違ったボタンを押したら、こんな画面になりました。

ゴーパーラ


永遠の伴侶〜 一切は神 〜

スワミ・ブラマーナンダの『永遠の伴侶』より、その教えをご紹介しています。

一切のものを神で覆え。そして、あらゆるところにかれを見ることを学ぶにつれて、君たちは「草の葉よりも謙虚」になるであろう。全ての生き物の中に神を見よ。神のことのみを聞き、神のことのみを語れ。ちょうど墓場を避けるように、神の御名の唱えられない場所は避けるがよい。

ポスパラ横町の住居前  (左より)トリグナティターナンダ、シヴァーナンダ、ヴィヴェーカーナンダ、トゥリーヤーナンダ、ブラマーナンダ、(手前)サダーナンダ(ヴィヴェーカーナンダの弟子)

ある時、シュリー・マハーヨーギーに、「魂や神というものは、この身体の中にあるのでしょうか」と質問をしたことがありました。シュリー・マハーヨーギーはこう教えてくださいました。

「魂は、神は遍満しています」
「ここにもあそこにも、あるのですか」
「そうです」

 師はこともなげにそうおっしゃいました。私はぶっとびました。そんなこと初めて聞いたからです。でもその時、本から得た知識ではない、ただの言葉だけのものとは思えないものに触れ、多いに納得したのでした。それから少しずつ、全てのものの中に神を見る努力をするようになりました。そのためには、尊敬と誠実さといたわりがないとできないということもだんだんと理解できるようになってきました。
ここまで育ててくれた父や母のこともとても尊敬できるようになりました。両親は最も身近な神であるということに気付かされたからです。まだまだ机や椅子に神を見ることはできませんが、手荒く扱うのではなく、丁寧に大切に扱い、感謝するということを学んでいます。

ヨーガを学び、神の御名を唱えることが好きになり、神様のことを思えるようになってから、神の御名を唱えられないような不浄な場所には、最近行っていないような気がします。身体も心も清浄な状態を好むようになっているのだと思いました。

師やブラマーナンダの教えに導かれて、すべての生き物の中に神を見ることができるように、もっともっと神を愛し、近づいていきたいと思いました。

ダルミニー


永遠の伴侶 〜忍耐と謙虚さと〜

『永遠の伴侶』よりスワミ・ブラマーナンダの教えをご紹介しています。

 忍耐を学べ。怒りは忍耐によって制することができる。忍耐強く、慎み深く、そして謙虚であれ。謙虚の徳は人格形成に大きな力となる。シュリー・ラーマクリシュナはよくおっしゃった。「堪え忍ぶ者は生きる。それのできない者はほろびる」と。またこうもおっしゃった。「土地が高いと水は流れ去ってしまうが、低い土地にはそれがたまる」謙虚な人の内部には、甘美な性格、その他さまざまの良い性質が自ずから育つものだ。

若かりし頃のスワミ・ブラマーナンダ

「忍耐強く、慎み深く、そして謙虚であれ」この教えを聞くと、私たちの師のお姿を思い出します。師は何十年もの間、師の下に集まった人々に対して、また遠く海外にまで足を運ばれ、理解の及ばない私たちに、真実の教えを根気良く、繰り返し、繰り返し、教えてくださっています。師には忍耐という思いは、おありにならないと思いますが、私たちから見ると、忍耐という文字が思い浮かびます。また初めて来た人に対しても、古くから通ってきている人に対しても同じように丁寧に接せられ、敬語を使われ、謙虚にふるまわれるお姿には、本当に驚かされます。そしてそれは私がお会いしてから、ずっと同じでどんな時も変わることがありません。その師のお姿をお手本として、この目で見せていただいていることが、言葉よりも直に伝わり、どう行為すればいいのかが良く分かるのです。私は、師とお会いしてヨーガを学び始めてから、少しずつ怒りというものが起こりにくくなってきました。心はいつも冷静な状態を持ち続けることができて、怒りという苦しみから心はだんだんと解放されていきました。また、師のなされるようにすべての人を尊重することによって、謙虚さは身につけることができるのだということも分かってきました。
日常生活の中で、「忍耐強く、慎み深く、そして謙虚である」ことが、心を純粋にしていき、真実としての自分を取り戻すためにも重要なことなのだと思いました。

ダルミニー


永遠の伴侶 〜神はいらっしゃる〜

シュリー・マハーヨーギーは、4月末に台湾をご訪問されたばかりでしたが、先週末は、ご布教のため松山市をご訪問されました。師は、道を求める人々のために、そして師の来訪を待ちわびる人々のために、世界のどこにでも精力的に足を運ばれます。師の真理の光が遍く世界を照らし、私たちを導いてくださっていることを思うと感謝してもしきれない気持ちになります。

さて、『永遠の伴侶』より、スワミ・ブラマーナンダの教えをご紹介いたします。

愚かにも人は自分が理解力を欠いているために、神の存在までをも否定することがある。
知性なるものがどれほど不安定であるかということもほとんど理解せず、自分の知性の方に頼ろうとするのだ。
たとえ自分が今日真理と認めたことを明日虚偽であるとしてしりぞけていても、それでもなお、彼は、今日自分の眼に見えるものは究極の真理であるから、全ての人がそれを認めなければならないと考えるのである。
主おひとりが、それによって人が欺かれるであろう、全ての微妙な道をご存じである。
神を知った人は、かれを限定することをしない。彼にとっては、神は考え方の問題ではない。神はいらっしゃるのだ。かれは際限の無い愛であり、慈悲である。知性が把握し得る方法ではない。神を悟った人だけがかれの神秘を理解するのだ。

シュリー・ラーマクリシュナは、スワミ・ブラマーナンダはクリシュナの遊び相手だったといわれています

私たちの師は、ある時こう教えてくださいました。

心は真理(神)を知らないのです。

それを聞いたとき、とてもショックでした!でも真理は、私の心が最も知りたいことであり、それを知ることがこれからの生きる理由なのだと心に決めて、ヨーガを学び始めました。そして、一から真理の教えを学び、心に一所懸命教え込んできました。師の教えを聞き、考え、瞑想して、それがどういうものなのか、頭だけではなく体得しなければ、理解したことにはならないということも、身に滲みて分かるようになりました。師のお姿を通して、神は愛であり、慈悲であるということを感じられるようになってから、私自身の姿も愛であり、慈悲でありたいと願えるようになりました。
私もスワミ・ブラマーナンダのように「神はいらっしゃる」と高らかに宣言することができるように、さらにヨーガを深めていきたいと思います。

                                                                                                                                         ダルミニー


永遠の伴侶 〜平安にあるということ〜

師は先日、台湾ご布教の旅から日本に戻ってこられました。久しぶりに師と対面された台湾の弟子たちの歓喜の様子が目に浮かびます。今回もどれほど多くの人たちが、師から届けられた真理の光と愛に救われることでしょうか、想像もつきません。前回のブログにも紹介されていましたが、貴重な師の書かれた教えを、私たちもこの目で、直に見たいものですね。

さて、春の祝祭ではシュリー・ラーマクリシュナの魂に触れて歓びに感激し、その至福は今もこの胸に留まり続けています。今回は、その直弟子であるスワミ・ブラマーナンダの教えをご紹介したいと思います。スワミ・ブラマーナンダは、弟子たちから尊敬をこめて、マハーラージと呼ばれていました。

「マハーラージ、どのようにしたら平安が得られるのでしょうか」
「平安は、神を愛する者のハートに宿るのだ。神なしには君の人生は不毛である、ということを理解したまえ。かれを恋い慕っていれば、平和がやって来るだろう。人がこの世に平安を見出し得ない時、内部に離欲の念が育ち、かれは神に惹かれる。人がこの世の不毛を理解すればするほど、かれの神への帰依心は深まり、内なる平和は増大する。渇きが激しいほど水が美味しいだろう。まず渇仰心を養いたまえ。そうすれば神の中に平安を見出すであろう」 

平安という言葉はヨーガを学び始めてから、非常に身近に感じる言葉となりました。以前は本当にそれは、ただの知っている言葉に過ぎなかったのだと気付かされます。ヨーガを学び、神なる真実の存在を知ってから、平安はずっとこの胸の奥に在り続けているのだと感じられるようになりました。私は改めて、師と出会った時のことを思い出しました。師からヨーガの教えを授かった帰りのバスの中で、「私は知ってしまった、もう元には戻れない」と思ったのでした。その時、私はこの世の不毛を理解し、神への帰依心をもったのかもしれません。
しかしまだまだ永遠の平安を見出してはいません。さらなる平和を目指し、精進したいと思います。

ダルミニー


永遠の伴侶 〜心の掃除〜

シュリー・ラーマクリシュナの直弟子、スワミ・ブラマーナンダの教えをご紹介しています。

ある朝、スワミ・ニャネーシュワラナンダがまだ寝床も整えず、あたりを散らかしたまま急いで部屋を飛び出した。かれはマイダン(部屋のそばの広い空き地)でスワミ・ブラマーナンダに会った。かれが敬意を表すると、驚いたことにスワミ・ブラマーナンダが、「私を君の部屋に連れて行け。君の寝る場所が見たいのだ」と言った。スワミ・ニャネーシュワラナンダは恥じて、「もう少したってからおいでくださるわけには行きませんか。あなたがお越しになるとは思わなかったので、部屋はお迎えするにふさわしい状態ではございません」と答えた。スワミ・ブラマーナンダは言った。「我が子よ。いつも私を迎えられるようにしておかなければいけないのだよ」

ヨーガを学んでいる中で、次のような問答に出会いました。
「人はなぜ愛し愛されたいのか、人はなぜ幸福になりたいのか」
「なぜなら人は、その本性が愛であり至福だからである」
師からこの教えを授かった時、「なんと明瞭な答えなんだろう」と私は大変驚き、納得したのでした。そして師は、私たちが本来の愛そのものに立ち返ることができるように、他者に愛をもって献身奉仕し、その愛の姿を実際にこの世で表していきなさいと繰り返し教えてくださっています。私はまだまだ、この献身奉仕の本当の意味は分かっていないのかもしれません。でも心の中にいろいろな無知や煩悩などの余計な不純なものをかかえたままでは、とうてい自分自身を愛で満たし、他者へ献身奉仕をすることなどできるはずもないということは分かるようになりました。

スワミ・ブラマーナンダのこのエピソードは、本当の愛に戻りたいのなら、いつもその目標を見据え、常日頃の心がけや行ないを伴わせるよう、その努力と準備を怠らないように励みなさいと教えてくださっているのだと思いました。 

ダルミニー

 


永遠の伴侶 〜心の目撃者であれ〜

今回はシュリー・ラーマクリシュナの高弟であるスワミ・ブラマーナンダの生涯と教えが書かれてある本『永遠の伴侶』より、その教えをご紹介いたします。

君たちに一つの秘訣を話してあげよう。今は君たちにはその意味が十分に分からないかもしれないが、やがては、その真理が明らかになるであろう。そしてこの真理というのは、あらゆる人の意志と心はかれを次第に善に向かって導いている、というものだ。悟りを得ている教師たちの中のある人々は、次のような修行方法があることを教えてくれている。
心も意志も行きたがる方に行かせておけ、好きなようにさまよわせるがよい。しかし常に寝ずの番をし続けよ。目撃者であれ。このように、もし求道者が本当にそれらを好きなように行かせながらも絶えず見張りをしているなら、心もしばらくの間は汚らわしいものや空しいものを追いかけているかも知れないが、やがては必ず善の方に向かって進むようになる、というものである。

 ヨーガを学び始めたばかりの頃、師より「心は精妙な物質である」ということを教えていただき、非常に驚きました。身体は粗大な物質で、心もそれと同じ物質なのだと思ったとき、少し心を客観視するようになったのでした。そんなときに出会った「目撃者であれ」というこのスワミ・ブラマーナンダの教えは、さらに心を客観的に観る訓練になったのです。
客観的に観ることができるようになってくると、例えば「今、自分は怒っている、そんなに腹を立てなくてもいいではないか。なぜそんなに腹が立つのか?そんなヨーガの教えに反することは止めよう」と冷静に心を制御できるようになっていきました。そのようにして、少しずつ、少しずつ、心は心を単純に眺められるようになり、想念に巻き込まれたり、堂々巡りしたりすることが少なくなっていったのでした。今も自分の心を常に見続けることをやり続けていますが、そうすることによって、心は心の間違いに気付き、だんだんと素直になって、真理というものに憧れをもち、理解もできるようになっていっているように思います。
スワミ・ブラマーナンダは「あらゆる人の意志と心はかれを次第に善に向かって導いている」と教えられていますが、本当は心だって純粋になりたいはずだし、いつまでも無知迷妄の中にいたくはないはず、次第に善に向かい、悟りに向かっていくものなのだと思いました。心の目撃者であることを、心自体が純粋になり、真理が現われてくるまで、真剣にやり続けようと思ったのでした。

ダルミニー


ラーマクリシュナの直弟子―トゥリヤーナンダに導かれて

先週末の日本列島に寒気が訪れた2月9日(土)、師シュリー・マハーヨーギーはNYご布教のためご不在でしたが、たくさんの熱心な弟子たちがマハーヨーギー・アーシュラマに集まり、弟子たちによるサットサンガが行なわれました。

2月9日の弟子たちによるサットサンガ

この日は、19世紀の大聖者シュリー・ラーマクリシュナ・パラマハンサの直弟子たちに焦点を当て、4人のスピーカーがそれぞれの理想とする直弟子のエピソードや教えを紹介しながら、自分自身の実践と理想について熱く語り、皆で思いを高めていきました。

今回そのうちの一人である、野口美香さんのお話を、追記抜粋編集してご紹介したいと思います。本当に寒気を吹き飛ばすかのような迫力のある熱を感じるお話でした。


私はトゥリヤーナンダの強い信念と、神への信仰心、師への信仰心に憧れています。

トゥリヤーナンダは、すべての行為を母なる神への礼拝としなさい、母を思いなさい、ということを強調されています。生涯師の教えに従って、母なる神を思い生きていかれました。そしてご自身が実践してきたからこそ、人々にも常に母を思いなさい、母だけを頼りなさい、行為を母への礼拝としなさいというふうに伝えていかれました。

スワーミー・トゥリヤーナンダ

どのようにすれば自分の生活の中の行為を、トゥリヤーナンダのようにできるのでしょうか。花も虫も、動物も人もすべてを同じように本当の意味で大切にしていけるようになりたい!と私は思うのです。

トゥリヤーナンダの生涯が書かれている『神を求めて』の本の中で、とても印象に残っているシーンがあります。

トゥリヤーナンダが、ベルル僧院に住んでいた時、若い修行僧たちを訓練するために、常に一緒にご自分自らが、いろんな仕事をこなしていかれていました。
ある時、調理できるように処理されなければならないたくさんの野菜があったので、見習い僧たちと一緒にその仕事をされます。その仕事の途中で、朝食を知らせるベルが鳴りました。もう少しで仕事が終わるから、この仕事が終わってから朝食を摂ろうとトゥリヤーナンダは言われます。そして仕事が終わってから、食堂へ行くと食べ物は何も残っていませんでした。普通は、後から来る者たちの分はとっておかれることになっています。
それで、トゥリヤーナンダは係りの見習い僧に、「われわれの食事はどこにあるか?」と尋ねます。その見習い僧は、「皆さんにとっておいた分は、プレマーナンダが不意に来た信者に上げてしまわれました」と答えます。プレマーナンダも、ラーマクリシュナの直弟子である方です。
トゥリヤーナンダは、「なぜそれが私たちの分であることをプレマーナンダに話さなかったのか」と尋ねると、
見習い僧は「どうして、私が非常に偉いスワミにそんなことが申し上げられましょう」と言います。
トゥリヤーナンダは、「なぜできないのか。もし君が彼を本当に愛しているのなら、彼が知らないことを知らせてあげることをなぜ躊躇するのだ。愛している者に向かっては、何でも話すことができるはずだ。人を愛する時、どうしてそこに恐れなどがあり得よう」と言いました。

このエピソードを初めて読んだ時、本当にそうだと思いました。トゥリヤーナンダの一点の曇りもない、真っ正直な言葉が自分の中に広がっていきました。見習い僧のとった行動が自分の傾向と似ているように思え、「なぜできないのか?」というそのトゥリヤーナンダの言葉に、私自身の問題に対しても、「なぜできないのか?」と考えさせられ、この言葉が胸に突き刺さりました。

このエピソードがずっと私の心に刻まれていて、こういう場面に自分が出くわすと、この教えが自然に浮かび、力を与えてくれるようになりました。

もし自分の役割に徹するならば、その食事は後から来る人たちのために取ってあることを伝える必要があったし、そこに何の計らいも必要ありません。相手がどういう立場の人であっても、遠慮したり、気付いているけれどしない、というのは、どこかに自分を守ろうとしている弱さがあるからです。誠実とは真逆のことになります。そんな行為は、神に捧げられないと思います。

トゥリヤーナンダは、「礼拝の精神で行なわれる仕事は、現代に相応しいたった一つの霊性の修行である。すべてを母なる神への礼拝として、母に捧げなさい、そしてただ誠実であれ」というふうに言われています。
誠実であるためには、些細なことですが、自分の弱さや余計な計らいがたとえあったとしても、それに気付いたなら、すぐさま無視して、自分の中の真理への信念を貫くという強い意志が必要になるのだと思います。
毎日の中の小さな仕事を礼拝として行なうためには、その些細な矛盾をなくしていかないといけないと思っています。自分に与えられた役割に全注意力を向けて、少しの計らいも入らないほど集中する訓練を繰り返ししていこうと思います。
トゥリヤーナンダがラーマクリシュナの教えに従って信仰を貫いて生きていかれたように、私も師であるヨギさんからいただいた教えを貫いて生きていきたいです!!!

今の私に最も響くトゥリヤーナンダの言葉を紹介します。トゥリヤーナンダはこの言葉をたびたび繰り返されたそうです。

あなた自身であれ、強くあれ。悟りは強く、純粋で、真っ正直な者だけに与えられる。自分はアートマン(真の自己)である、ということを忘れるな。このことはあなたに最大の力と勇気を与える。勇敢であれ。マーヤー(無知)の束縛を断ち切れ。ライオンのようであれ。何事にあってもびくびくするな!スワミジ―(スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ)はあなたに、あらゆる魂は内に神性をひそませている、と教えたであろう。自己の神性を悟れ。そのときにあなたは、すべての魂は神である、ということを悟るであろう

野口美香

サットサンガにて話をする野口さん。


夏休みの思い出〜神と一つになる〜

ある時、師であるヨギさんがもっと神と一つになるようにと私におっしゃられたことがありました。神と一つになる、か・・・・・・と考えていた時、インドの大聖者シュリー・ラーマクシュナが弟子であるヴィヴェーカーナンダに授けた次のような教えが心に留まりました。

「愛のネクター(甘露)がビンの中に入っているとしたら、お前はどのように楽しもうと思うか」とおたずねになり、ナレーンドラは「私はネクターの入っているビンのふちに座って、そこから吸いましょう」と答えた。師は微笑され「なぜ中に入って吸わないのか。ビンの真ん中に入って吸えばよいではないか」とおっしゃった。「いいえ、そんなことをしたら死んでしまいます」シュリー・ラーマクリシュナは「そういうものではないのだよ。人は愛に溺れてもけっして死にはしない。それはアムリタ、不死そのものなのだから」と笑いながらおっしゃった。

ひとたびこの愛の味がわかると、魂にとってこれ以上ほしいものは何にもなくなる。この歓びは無限であり、何ものによっても増やすこともできなければ滅することもできない。

この教えに触れて、私の中で「神の愛に溺れたい!神と一つになりたい!」という思いが強くなっていき、しばらくは甘美なムードに浸っていたのですが・・・・・・。そのムードは小学校4年の娘が、夏休みに入るとともに消えていきました。

夏休みに入るといきなり、「学童に行きたくない!」と娘が泣き出したのです。事情を聴くと、仲の良い友だちが一緒に行ってくれなくなり、学童で一人ずっと過ごしているようでした・・・・・・。それからは家で一日どのように過ごさせるかや、お昼ご飯の準備などで頭の中はいっぱいになり、神よりも娘に集中する時間の方が多くなっていきました。娘と友だちの関係で気をもみ、一緒に遊ばせる段取りを組んだり、娘にこういうふうに考えたらどうかなとくどくど話したり、どうしてこんな簡単なことが理解できないのだろう・・・とイライラして感情的になったり、お世辞にも娘と調和がとれたようなものではありませんでした。

これではいけないと思って考えていると、娘が生まれた時、ヨギさんから「大らかに育ててください」と言われたことをふと思い出しました。私は自分の経験や価値観という小さな枠で彼女を見ている。物差しを当てず、常に自分を空っぽにする努力をして、彼女と向き合おうと思いました。

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そうして幾日が過ぎ、地蔵盆(※関西地域で行われる子どもたちの幸せと健康を願う行事)の日がやってきました。お布施をもって会場に行くと、先に行っていた娘が他の子どもたちと離れ、一人でポツンと寂しそうに遊んでいるのです。娘は私に気付くと(みんなで楽しく遊んでいるよ)と気遣って気丈に振る舞っているように見え、居たたまれない気持ちになりました。

その夜、娘の寝顔を見ながら、私は申し訳ない気持ちになって泣きながら謝っていました。この子の存在を自分は本当に尊んできたのだろうか、この子が友だちと楽しく過ごせるような環境を整える努力が、もっと必要だったのではないだろうか・・・・・・。・・・・・・でも・・・・・・友だちと仲良くなれるようにできるだけ努力をしてきたし、考えても、考えても、もう何をどうすればいいのか分かりませんでした。

シュリー・ラーマクリシュナの弟子であるトゥリヤーナンダは、『すべてのなやみを母(女神)のもとに持っていけ。彼女は一切の誤りを正して下さる、母を知れば、他の問題はなくなる。あなたが、自分を彼女に捧げ切ったとき、一切のものを新しい光の中で見るようになる。そして、この世の生活を問題にする必要のないことを知るのだ』と言われます。

もう神に祈るしかできない!という切羽詰まった思いで、ヨギさんとトゥリヤーナンダのお写真を前におき、瞑想に座りました。瞑想の後寝床についた時、突然聖なる力が私を押し上げ、ヨギさん、トゥリヤーナンダ、私、3つの意識が一つとなって、万物が展開していくビジョンが見えました。

意識が肉体に戻ったとき、すべては私が神から目をそらさないように神がなされていたんだ、と思いました。そして自分がすべきことは神だけを思うこと、という確信がありました。甘美なムードに浸るという漠然としたものではなく、日常としっかり向き合うことで神と一つになれるということが分かりました。

そして娘にとっての人生の目的もやはり、神と一つになること。友だちと楽しく過ごせるに越したことはないですが、友だちと一緒にいて安心することではないのです。親としてしっかりとそのことを踏まえ、関わっていきたいと思いました。

その出来事のあと、不思議と娘の状況はどんどん良くなっていきました。近所の子とまた自然に家を行き来するようになり、同級生が遊びに来たりするようになりました。また、他のお母さんたちと話すと少なからずどの子も同じようなことで悩んでいて、そういう多感な時期であることが分かりました。

こうして娘の夏休みは幕を閉じました。そして私の信仰をより強くしてくれたのでした。

amara


美しい世界が見たい

家庭を持ち、子育てをし、仕事をしていると、職場関連、子供の学校習い事関連。親戚関連など、本当にいろんな人とお付き合いする機会があります。

人と接する時、心に留めている言葉があります。

「トゥルシダスは『善い人にはこの世は善で満ちている。しかし悪い人にはこの世は悪で満ちている!』と言っている。この世は善くも悪くもない。私が善と呼ぶものをあなたは悪と呼ぶかも知れないし、その逆もあるだろう。何処に標準があるのか。標準は、人生に対するわれわれ自身の態度の中にある。各自がかれ自身の標準を持っているのだ。しかも経験と洞察力とが深まれば標準も変わって行く。残念なのは、われわれがまだ悪を認める、ということだ。われわれ自身が完全に善になったら、全世界が善として現れるであろう。われわれは自分の心の投影を見ているにすぎないのだ。常に一切万物の中に主を見よ。そうすればあなたは悪を見ないだろう。疑い深い心はあらゆる処に悪を見る、信頼の心は善だけを見る』

「だが、誰が理解しようとするか。誰もかれもが自分のエゴの中に閉じこもっている。その牢獄の中から、われわれは世界を判定する。治療法は、すべてのものの中に主を見ることである。」(スワミ・トゥリヤーナンダ)

人間関係でこじれるときは、よくよく考えると、結局どんなときも、自分の中に疑いの目があったことが分かります。神だけを見て謙ることが出来たとき、そこには美しい世界が広がります。

疲れていたり、自分を調えられていない時は、濁った目で人を判断しがち。

アーサナ・瞑想、真理の学び。地道なのだけれども、やっぱりこれらのクリアヨーガを毎日行うことが、素直に飛び込んでいける秘訣なのだと思います。

いつでも、どんなときでも、神だけしか見えない人に、なりたい。

京都のとある公園、桜の花が少し咲き始めていました。