シュリー・マハーヨーギー/師の教えとサットサンガ」カテゴリーアーカイブ

「アムリター不死―」上映会

7月、京都では祇園祭が始まり、祇園囃子がコンチキチン♪と響き出します。19年前の祇園祭真っ只中の2005年7月17日、マハーヨーギー・ミッションでは、あの伝説の聖劇!「アムリター不死―」が京都文化博物館にて公演されました。(詳しくは当時の写真が多数掲載のこちらをご覧ください!→公演リポート

先日その上映会がありました。上映会場の京都アスニーには、師が「アムリタ」当日に京都文化博物館の前に出てこられた時のお写真が飾られ、そこにはフワッと長身の師が佇んでおられるような空気感が漂い、お写真の側には可憐な黄色い小花がさりげなく生けられています。
皆の会話が自然とやみ静けさに会場が包まれた頃、14時となり、いよいよ始まりです。照明が落とされ、中央に大きなスクリーンの光がポッと浮かび上がり映像が映しだされました。

スクリーン右端に映っているのが少年ナチケータス、色とりどりのサリー姿の女性がシャクティたち。

・・・・そして・・・・30分ほどの上映は、瞬きも息も忘れるほど?!アッという間に終わり、それほどまでに集中感に満ちた内容でした。聖劇内容はぜひ公演リポートをご覧いただければと思いますが、今回私が特に印象的だったのは二つのシーンでした。

一つは、真実を求める少年ナチケータスの周りをシャクティたちが円形に囲んでゆっくりとただ歩く静かな動きのシーン。黄泉の国に行くため瞑想に座ったナチケータスの周りをシャクティたちがゆっくりと厳かに三回半歩き瞑想へいざないますが、何とも言えない静かなリズムや呼吸が静謐さそのもので、見ているだけで瞑想に導かれる不思議なシーンでした。
もう一つは同じくナチケータスの周りをシャクティたちが、今度は躍動的に動くシーン。その動きは蓮の花が蕾から少しずつ開いては閉じ開いては閉じ開花していくその様を象徴的に表現した動き。前者の静かに歩くシーンの集中感とは対照的で、ダイナミックなエネルギーの塊のような別の集中感があり、生命と直結しているものや命の根源の鼓動なのか、自分自身の何かがそれと共鳴する体感がありました。太陽の周りの炎や火山の噴火のような強烈な熱源が勢いよく展開し、何かが生まれていく瞬間にも感じました。何もないところから聖音オームが響きはじめ、その振動は広がり、宇宙万物が顕現していく様が暗に表現され、またアートマンがシャクティに展開する様子をも含んでいるシンボリックな美しい場面。中心に座しているのは不動のナチケータス。

私は当時、そのシーンも練習で見させていただいていて当日もいましたが、今回の映像を見たことによって、師が不滅の真実を芸術的に表現されたその美しい世界観、新鮮さに圧倒されました。シャクティたちの表現は蓮の花弁でありながらも、一方ではシュリー・ヤントラ(象徴的な真理の図象) でもあり、一つの身体表現の動きのなかに神聖な象徴がいくつも実は隠されていたといいます。私自身はまだまだ深く理解できていませんが、世界の始まりの生命の源が呼吸し、脈打ち、展開していくその振動、そのリズムをもし視覚的に見られるとしたら、きっとこのようなものなんだろうなと感じ、それを師が私たちにも分かるように表現してくださったことに感謝しました。目を閉じても、しばらくその二つの場面が蘇り続けました。

演者たちの迫真の演技と全身全霊の表現は、この世の者とは思えず、それは演技ではなく、実はそっちが本当の姿で、演じているのは今の人間の姿のほうなんじゃないかとさえ思えました。それは私たち全員もそうなのかもしれないと感じました。映像を通して、命の素の姿を見たようで鳥肌が立ちました。
師が最初から最後まで総指揮をされた貴重な作品「アムリタ」は、時が経てば経つほどに、とてつもない輝きを増すものだと実感しました。

公演当日の準備風景から終わりまでのメイキングフォトのスライドショーもあり、驚いたのは、師は当日、隅々まで私たちと一緒になって実際に動いてくださっていたことでした。当日には皆それぞれ役割担当があり、各場所に散らばり持ち場についていましたが、その各場所の至るところに、師は出没して顔を出してくださっていたことが写真から分かり胸がいっぱいでした。師の楽しそうな笑顔がたくさん映っていました。掃除や片付け、裏方の仕事など、どの現場にも師が私たちと同じ目線で一緒になって考えてくださっているお姿、手伝ってくださっているお姿、会場の準備で床にメジャーをあてて計測されているお姿、控室で演者の衣装をチェックされて大笑いされているお姿、受付や宣伝の係の者たちに声をかけてくださっているお姿、終わった後に舞台の床に貼ってある位置取り?のテープをしゃがんで剥がしてくださっているお姿、そして公演前みんなで雑巾がけしてピカピカに磨きあげた床に弟子一同がずらりと並び、師に礼拝しているその時の師の優しいお姿。その場面を見た時、あの時あの場所で師に礼拝した一念の瞬間の衝撃が鮮やかに蘇りました。師は舞台に上がってくださり弟子から奉納されたお花のマーラー(環)をお掛けになり、優美な微笑みで皆を見守ってくださっていました。そしてその一日、師は、師であられるのに誰よりも率先して動かれ、誰よりも大笑いされ、誰より楽しまれて誰よりダイナミックでピュアで、誰よりもチャーミングで純真無垢な少年のようでした。

公演後の場面では、お客さんたちが師にご挨拶するために師の前に列をなしていました。弟子たちの家族や友人も大勢来ていました。師が一人一人に同じように満面の笑みを向けられ、時には真剣な表情をされ向き合ってくださっているお姿が映っていました。アムリタを公演したことによって師と縁ある人々が一斉に一同に会して、師に、つまり聖者に、接見できる機会に皆が恵まれたのだ、とそのスライドショーを通して初めて私も気づきました。準備段階から公演を通してたくさんの方とのご縁が生まれましたが、公演に来られた方だけではなく関わったすべての方々、大勢の人が祝福された日だったのでした。アムリタの出演者や関係者が、当時、師がアムリタをどのように進めていかれたのか、師のお仕事のされ方や師から学んだことなどをその上映会の日に話してくれたことによってそう感じられました。(上映会で話された内容に関連することがここにも記されています→「アムリタ-不死ー」の主旨

祇園祭りに合わせたアムリタの宣伝計画、新月から始めるチラシ撒きや地域や時期の計画、アムリタのポスターデザインを手掛けられた時の制作秘話など、話は尽きませんでした。師を筆頭に皆総出で一気に突き進み、突き抜けた数カ月間、あまりにも全力を注いだため記憶がない、と言っている者までいました。
時を経て皆で「アムリタ」の歓びを共有した2024年7月14日。その歓びを展開していくための通過点の貴重な一日に、師に心から感謝を捧げます。

 

ナリニー


ヨーガ・瞑想 西宮北口クラス

2017年より始まった西宮北口クラス。
このクラスは、通常は2、3人、多い時で5人ほどが集まる少人数のクラスで、その内のお二人は女性で、初めてご参加いただいてから1〜2年ほどになります。

今日のブログでは、そのお一人である森澤さんの、いくつかのエピソードをご紹介したいと思います。

ヨーガは初めてに近かったと思うから、最初はクラスでアーサナをするだけでも精一杯だったと思います。そんな中、家で毎日アーサナをすることは、誰もにとって難関の一つになったりしますよね。森澤さんもそのお一人だったのではないかと思います。
けれどもしばらく経った後、森澤さんは家でアーサナをした後に私にメッセージをくださるようになったのです。「メッセージを送ることで毎日続けていく励みになる」とおっしゃっていたのですが、それは私にとっても、とてもありがたいことでした。頑張って続けていこうと思ってくださることもとても嬉しいことでしたし、加えて、アーサナをした時に感じたことや、クラスでお話ししたことへの感想も一緒に送ってくださり、次のクラスへと繋げることができたからです。

そうしてアーサナにも慣れた頃から、アーサナ以外のヨーガの教えにも少しずつ触れていただくようになりました。ただ初めて聞く真理の教えに、森澤さんの頭の周りに???が飛んでいるのが目に見えて分かる時もありました。
それでも「アーサナを続けていくことで教えを理解していくことができるようになる」という師の教えをお伝えし、今はアーサナを続けていきましょう、とそんなお話をしたこともあります。

1年も経った頃だったでしょうか、とても嬉しいことがありました。
彼女はマラソンをされているのですが、ある大会でとても成績がよかったことをお話しくださいました。そして、その結果には「最初は呼吸が関係しているのかと思ったけれど、よく考えると、余計なことを考えることなく最後まで集中して走れたからではないか、それはヨーガの効果だと思う」とお伝えくださったのです。

そしてその後の4月、MYMの春のキャンペーンで、本を少し安く購入していただけることを皆さんにご案内した時のことです。『さまらさの台所』は購入を決めていますが、他に何を読んだらいいですか?と森澤さんが尋ねてくださいました。実際に見ていただいて一番読みやすそうなものを選ばれたらいいのでは?と手に取っていただいた後、森澤さんが選ばれたのは『ヨーガの福音』でした。きっとその時、何かしっくりくるものがあったのでしょう。

その次のクラス、森澤さんのアーサナが変わりました。
というのは、これまでクラスに来てアーサナをすると、足がつって続けられないということが何回かありました。家でするとそんなこともないらしく、クラスではかなり頑張ってしまわれるからだと思いますが、『ヨーガの福音』を購入されたあの日も、足がつってしまい、アーサナを続けられなくなったのです。その分、ヨーガの話をたっぷりとできた良い時間にはなりましたが、アーサナに関しては不完全燃焼!と残念に思っておられたようです。

そうして迎えた次のクラス、この日は、足がつることもなくアーサナを終えることができました。今日はつりませんでしたね、とお声かけすると、「これまでは、アーサナの柔軟性を高めようとして頑張ってしまっていたけれど、『ヨーガの福音』を読んで、アーサナをすることへの目的意識が変わり、力を抜いてできたからだと思う」とのこと。そして「『心と体は自分ではない』という教えなどが、スッと心の中に入ってきた。『ヨーガの福音』は何度も何度も読んでいきたい本だと思った」とおっしゃいました。

今、森澤さんは、自分が習っているヨーガがどんなものかもっと知ってみたくなった!と、軽やかに、熱心に通ってくださっています。

真理を体得された師のお言葉は、誰もの心の奥に届き、変革をもたらすものだと、それを改めて実感できた出来事の数々でした。
こうして真理の教えを残してくださった師のお働きに、深く感謝を捧げます。

***

西宮北口クラスは、毎月第1、3木曜日に続けています。
お近くの皆さま、ぜひご参加ください!

シャチー


「ヨーガ・サンガム」「新緑を愛でる会」のご報告

空は雲一つなく、爽やかな風が青々と茂る新緑を揺らしている——
5月18日、師シュリー・マハーヨーギーの御入滅 1周年法要が京都アスニーの和室にて執り行なわれました。
午後からは、同じ会場で第2回「ヨーガ・サンガム」が開催され、師のヨギさんがアーサナをされるお姿が記録されている貴重な映像『In The Cave With The Master』のダイジェスト版が上映されました。

グル(師匠)と弟子の真剣なやり取りから気迫が伝わり、ヨギさんのこの世のものとは思えない美しい身のこなしとお言葉のスケールの大きさに感嘆しました。
最近クラスに参加し始めた方の参加もあり、32名の仲間と共に行なうアーサナは熱気に包まれ、志を同じくする者たちが集まることで生まれる迫力を肌で感じました。


パシチモーッターナ・アーサナ(前屈)の時に、指導者が手の位置を変えるようにアドバイスをくださり、そのようにすると体はきつくなりましたが、お腹の感覚がハッキリして自ずと呼吸が深くなりました。心身はほぼ無意識に楽な方に進んでしまいますが、本当は逃げずにベストを尽くした方が身軽なのだと、アーサナを通してヨギさんが教えてくださったように感じました。
私は6年前この会場で初めてヨギさんに出会いました。ヨギさんが教えてくださるアーサナに「これは本物のヨーガだ!」と体感し、真実に出会えた歓びで胸が熱くなりました。そして状況が変化しても、ヨギさんが残してくださったかけがえのない真のヨーガを、サンガ(仲間)と共に学んでいけることに感謝でいっぱいです。

翌日はプレーマ・アーシュラマで「新緑を愛でる会」が開催され、25名程が集いました。アトリエには、お仕事中のヨギさんのご様子が伝わってくるお写真や『マハーヨーギーの真理のことば』の原稿などが展示され、ヨギさんがよく座っておられた椅子の位置からは、新緑が小雨に濡れながらもみずみずしく葉を広げる美しい景色が目に映りました。


会は祭壇の前で円になり和やかな雰囲気の中、ヨギさんにまつわる懐かしいお話を、笑いを交えながら語り合いました。ヨギさんと直接お会いする機会があまりなかったあるグルバイが、ヨギさんを知ろうと渇望するかのように熱心に話に聞き入る姿がありました。ヨギさんは、ヨギさんのお姿にたくさん接した人の中にも、そうでない人の中にも、同じようにおられるのだと改めて気づかされ、ヨギさんの無私の愛と導きの偉大さに胸を打たれました。ヨギさんを思う時間は本当に愛おしくて、あっという間に時が過ぎてしまいました。
そして最後はキールタンを全員で大合唱しました。ヨギさんは、あの手この手を使って私たちに神の愛を体験させてくださいました。私たちが神への信仰を持つことができるのは、ヨギさんのおかげです。これからも弟子たちを通して、ヨギさんの真実の愛がこの世界で美しく輝き続ける、そう感じさせられた2日間でした。

船勢洋子


『Paramahamsa』表紙絵シリーズ ⑨

今回は、『Paramahamsa』No.13の表紙絵について紹介させていただきます。

これは表紙絵を描き始めてから3つ目の作品になります。
一つ目の絵は、ヨギさんに教えていただいたインドの細密画を真似て描きました。この時は、ヨギさんに喜んでいただきたいという思いだけがあり、ただ描くことが楽しくて、幸せで、仕上がりまで夢中になって描いたのを覚えています。
そして昨年1月のブログで紹介させていただいたように、その時から『Paramahamsa』の表紙絵を隔月で描くことが始まったのです。

心というのは実に不思議なもので、その次の2作目を描く時、私の心境は全く別のところにありました。最初にヨギさんに褒めていただいた経験が、「うまく描かないといけない」「ヨギさんに喜んでいただけるものが描けるだろうか」とネガティブな思考に向かってしまい、どんな絵を描いていいのか分からなくなって、何度も描き直したのです。
描きたいと思っていた1作目とは違い、描かないといけないと思った2作目。
出来上がった絵は、背景にある木は突っ立っているし、何だか固い。ヨギさんは褒めてはくださいましたが、本当のところは分かりません。

そして今回の作品です。この時は思いにとらわれることなく、もっと肩の力を抜き、想像を働かせました。大好きなヨギさんの、優しく、そして優雅な感じが表せたらいいなとか、そうだ、聖なるガンジス河とシュリー・ラーマクリシュナが過ごされたドッキネッショル寺院を描こう、など、思いつくままに描いてみました。

これらの3つの絵を含め、初期の絵に対してヨギさんは、ずっと後のことになりますが、「初期の頃のシャチーの作品はオリジナリティーがあっていい」と言ってくださったことがありました。技術こそまだまだでしたが、ヨギさんに集中し、表したいことを素直に描いてみた結果だったのかもしれません。この絵から、それぞれが好きなヨギさんを少しでも感じていただけると嬉しいなと思います。

シャチー


『マハーヨーギーの真理のことば』〜カルマの法則〜

ヨーガに出会い、僕はカルマの法則の存在を初めて知りました。
僕はこれまで自分の置かれている状況や訪れる結果に対しての原因が自分の心の思いや行為にあるということを考えもしませんでした。とくに職場では業務がスムーズに捗(はかど)らない状態を周りの人たちに問題があると感じていたり、職場の環境がより良く変わらないのも職場に原因があると思っていました。
ヨーガを学び、師の教えに触れる中でその思いや行為が少しずつ変わっていきました。

「ヨーガの重要な言葉にカルマというものがあります。これは原因と結果、あるいは作用と反作用の理のことです。特に自分の行なった行為、あるいは思いーー心の中の思いも行為と見なされますから、粗大な行為、微細な行為というわけですーーその行為の善悪、あるいは無知と真理に基づくものはやがて結果を招く。悪いことをすれば苦しみの結果がやってくるし、善いことをすれば楽な結果がやってくる、その果実を自らが受け取らなければならないという約束事のことです。これは宇宙的な約束事のことです。人間だけではなく、あらゆるものがこの原理に従っています。
 種を蒔けばそこに実がなるように、良い環境で育てば良い実がなり、そうでなければ良くない実がなるように、そのカルマの法則というものを理解するならば、一口で言うと自業自得ということになります。良いことも良くないことも、全てその原因は自分の中にある。また未来にやってくるであろう結果も、自分が蒔いた種に違いない。そういうふうに何事も他人のせいにしない、責任転嫁をしないことですね。それでも誰もが良くありたい、幸せでありたい、自由でありたいと願っているはずですから、そうすれば自らの行為をより良くしていくほかありません。理に適った話です。何もしないでいて誰かが幸せにしてくれるわけではありません。やはり自分が努力をして、それに見合うものーー結果として幸せはやってきます」

『マハーヨーギーの真理のことば』P96より

すべては自分の心と行為次第であることを教わり気づかせていただきました。
そして自身の働きをより良くしていきたい、また周りの人や環境に対しても良くしていけるようになりたいと思うようになりました。どんな状況にあっても他人や環境のせいにしないように、今この瞬間をより良くしていくことだけ考えて働いていこうと決めました。そうすることで、仕事への目的意識がはっきりして業務を進める上での必要性が見えてくるようにもなりました。ゴールに向かって仕事が円滑に前向きにみんなで進めていけるような状況に好転していきました。
「未来を良くすることは今この瞬間を良くすること、それが未来につながる」と学び聞いた言葉を大切にして、目の前の仕事に励んでいます。

金森淳哉


今を大事に生きる

ヨーガに出会うまでの僕は過去の出来事に心が引きづられることや、その印象を思い出しては一時的に心を悩ませていました。
人との摩擦や状況や環境に対して憤りを感じることも日常的でした。生きていると「うまくいくこと」「うまくいかないこと」様々な時があって、そのつど、自身の心や感情も右往左往していた記憶があります。
ヨーガに出会えて師の教えに触れる中で大事なことに気づかせていただけました。

『過去のことは思い出す必要はありません。全て忘れることです。大事なことはその時です。今というその瞬間だけです。これによって未来は変わっていくわけですから、過去のマイナスも今を大事に生きることで補えることになります。たとえどんなに成功があろうと失敗があろうと、過去は全く何のこともないです。心はいつも感傷的に過去に縋っています。それが煩悩なのです。過去はこうだった、ああだった、良くも悪くもそれは感傷です。そうしてそれはカルマを生み出すものです。』
(「マハーヨーギーの真理のことば」P69より)

僕は今をより良くしたい、変わりたいとも思いました。
過去の出来事や経験を思い返す必要はなく、大切なことは今をどう生きるかということだと教わりました。
自分の考え方や取り組み方次第で、とくに職場の人や状況が良好に変化していったことを実感しました。
今も歩みの途中ですが、このお言葉をこれからも大事に持ち続けて日々を過ごしていきたいと思います。

マハーヨーギーの真理のことば

金森淳哉


弟子たちのサットサンガに参加して

1月14日(日)に弟子たちのサットサンガがありました。近隣のグルバイの方々だけでなく、東京や松山などにお住まいのグルバイの方々にもお会いすることができました。40名ほどが集まり、会場は喜びいっぱいの雰囲気に包まれていました。

そして、大きなスクリーンで2016年11月6日(土)に行なわれた特別サットサンガの映像を見ました。実はそのサットサンガで、私は初めてヨギさんにお会いしました。当時、心と体をもっと強くしたいとヨーガを習い始め、真理や師という言葉に触れたこともなく、全く何も知らないまま参加しました。けれどもサットサンガが始まる時間になり、ヨギさんがアーシュラマの階段を1段ずつ上ってこられた時、私の心の中が今まで経験したことがない温かく柔らかいものに包まれ、今まで見ていた景色が変わり、それが次の日まで続いていたことを覚えています。サットサンガでは何を質問していいのかも分からず、ただその場にいるだけだったのですが、純粋で本質そのものであるエネルギーに満ち溢れたヨギさんの存在が、私に忘れられない体験をもたらしてくださいました。

 7年以上の月日が経ち、同じサットサンガの映像を見た今、私は、あの時と全く同じように、ヨギさんのお姿に、ヨギさんから語られた力強く確信に満ち溢れた言葉に感動し、がんばっていこうと鼓舞されています。

 「真実は自分自身の中にある! はっきり言います!」
 「ここに生まれてきた本当の意味があります」

 間違いないと確信をもって言い切られるヨギさんのお姿に、スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ(ナレーンドラナート)と師であるシュリー・ラーマクリシュナとのエピソードを思い出しました。

***

ナレーンドラナートは師に近付いて、以前から他の指導者に投げかけてきた質問をした。「師よ、あなたは神をご覧になったことがありますか?」 
「あるよ」とシュリー・ラーマクリシュナはお答えになった。「私は、ここでおまえを見ているのとまったく同じように、神を見るのだ。ただし、見え方はずっと強烈だがね。神は実感することができる。人は、私がおまえにしているように、神を見て話しかけることができるのだ。しかし、誰がそんなことをしたいと思うかね? 人々は、自分たちの妻や子供、あるいは富や財産のためには、土砂降りの雨のように涙を流すが、誰が神のためにそんなことをするだろうか? 人が神のために心から涙を流したら、神は間違いなく御姿を現されるよ」
この衝撃的な返事はナレンドラナートの心を瞬時にとらえた。生まれて初めて、彼は神を見たと言える人を見つけ、宗教は実感できる現実であることを悟ったのである。話を聞いているうちに、彼は、シュリー・ラーマクリシュナがその深い悟りの中から話していると、信じないではいられなくなった。
                         『真実の愛と勇気』より引用

***

時間や空間を超え、常に弟子たちを鼓舞し続けてくださるヨギさんに、感謝の気持ちでいっぱいです。真理の教えは変わることなく、師の存在もまた変わらずにいてくださる。そしてこれからも常に私たちをいろいろなかたちで鼓舞し続けてくださいます。これからもヨギさんの弟子であり続けたい。ヨーガの道を邁進していきます!

桜井晃己桜井みき

 


その日の午前中には、京阪神合同のヨーガ・瞑想クラスを開催。遠方の方も含めて20名が参加してくださいました。今回はリードなしの、それぞれが黙々とサーダナを行なうというスタイル。お互いの熱を高め合いながら、気迫に満ちた集中感の高いクラスとなりました。

MYM京都


『マハーヨーギーの真理のことば』第十六章「聖なる存在」

書籍発刊から1年が経ちました。章ごとにレビューを綴ってきたこのシリーズも、ついに最終章となります。
この本の編集に携わらせていただき、実は10年ほどかけて何度も内容に目を通してきたのですが、改めてこの章を開いた時、以前に感じていた以上の大きなものが訴えかけてくるように感じ、正直圧倒されました。

第十六章には、自ら具現された普遍なる真理を、人々に、この世界に分け与えてきたヨーギーや覚者、グルという存在の生き様がありありと語られています。偉大な存在の生涯や使命は、インスピレーションの源であり、それらに触れると強大な熱量のエネルギーが流れ込んでくるように感じます。
中でも多くの内容が編纂されているのがブッダについてです。
私たちの師は十代の頃、瞑想によってブッダの悟りと、ブッダその人そのものに肉薄されたといいます(→瞑想の章でも触れられています)。師の口からこぼれ出たブッダの心境や境地というものは、ただ史実として残されているという範疇を遥かに超えており、それはまるでブッダが語られているかのようでもあり、また、まさに師はそのようであったと、師のあり方そのものであると思えるのです。

ブッダは最後に、私は全てを教えた、これからは自らを拠り所として努め励めと弟子たちを導かれた。また一方で、「この世界は美しい」という言葉も残されたとされています。完全なる自由の境地に留まられていたブッダは、この限りある世界において何を見て、何を思われたのか。師はブッダの心境について次のように語られています。

近いところではシュリー・ラーマクリシュナの例がそうであったように、ブッダの生涯も、ただ人を救うためだけに充てがわれました。人の苦しみを気付かせ、そうして正見という正しい道に導くためには、苦しむ人と同じ立場で手を引かなければなりません。そうして四十五年間ひと時も休むことなく、ブッダは人、そして生きとし生けるもの全てを救い続けてきた。

ブッダとて肉体を持つ身、いつかはこの地上から離れなければならない。肉体の衣を脱ぐにはそれなりの理由が必要です。永遠の存在であったブッダもまた、その肉体は限界を持っています。彼はこの世を去るということを悟った時、もはや最後の教えは自らの死、そのものだったと思われます。それは生前教え続けてきた、人は誰もが死ぬということを改めて教えることです。しかし死ぬのは肉体だけであって、その存在が死ぬわけではありません。この崇高な不二一元の教え、これが最後に彼の口から漏れた「この世は美しい」ということになると思います。もはや苦悩も絶望も、希望も願望も何もない。たとえ時間がこの肉体を朽ち果てさせたとしても何も問題はない。だからこそ、その瞬間において彼はそう呟いたに違いない。それは生きとし生けるもの全てに与えられた、もたらされた祝福でした。

『マハーヨーギーの真理のことば』第十六章

不二一元――アドヴァイタ。ただ、一つのもの、真実のみが在る――。
人々の真の救い、理想となる永遠の真理を、ブッダは最後の最後まで、そのお体から離れることをもっても示された。
二千五百年という時を超えて、師が伝えてくださったかけがえのないメッセージであると、新たな気持ちで受け止めました。

アーシュラマ

第十六章の章扉前の写真(マハーヨーギー・アーシュラマ)

マードゥリー 


『Paramahamsa』表紙絵シリーズ ⑥

私が絵を描き始めたのは、ヨギさんにインドの細密画について教えていただいてからです。
最初はインドの細密画を模倣するところから始まったのですが、何枚か描いていくうちに、ヨギさんは日本にお生まれになり京都にお住まいなのだから、京都アーシュラマや日本を感じるような風景の絵を描きたいと思うようになりました。

そう思って描いた1枚が、今日ご紹介する『Paramahamsa』No.29の表紙絵で、この号には、2001年のサットグル・ジャヤンティーの模様が掲載されました。

 

そして、今年、2023年のサットグル・ジャヤンティー、師の御聖誕75周年祭はもう目前です。

私たち各国の弟子にとって、今年は大きな節目を迎えた年であり、来たるサットグル・ジャヤンティーは、私たちにとって意味深いものとなると思います。
たとえ師のお姿が見えなくても、師が目の前におられる時と同じようにジャヤンティーを迎えることができますように。

師はおっしゃいました。
アヴァターラがこの世界にお生まれになる日、全世界が祝福されるのだと。
この吉祥な日を、全員で歓びをもって迎えたい。
そして、師に出会えたことを、決して良き思い出として終わらすことなく、一人一人が師の教えを生き、師が示された真実を生き生きと表すことができるように、身口意をもって行為していきたい、そう思います。

シャチー


『マハーヨーギーの真理のことば』第十五章 宗教と社会

わっしょい!わっしょい!秋になると私の住む地域では子供達が御神輿を担ぎ、歩いて回ります。御神輿の上には神様が祭られていますので、宗教行事の一つと考えられます。その他に夏祭り、お盆、お彼岸、大晦日など、私達の日常にはたくさんの宗教行事があります。これらの行事の際、その意味が深く語られることは少ないですが、宗教は私達の暮らしの基盤となり、人生を豊かにしています。
その一方で、宗教が争いの原因となってしまうことがあります。宗教戦争で傷ついた人々を見て、悲しくなります。何か自分にもできることはないかと思いますが、個人として出来ることは少なく、無力さを感じます。一体私達の社会において宗教はどうあるべきなのだろうか?という疑問が晴れることはありませんでした。このような疑問に対して、『マハーヨーギーの真理のことば』には明確な答えが書かれてありました。
シュリー・マハーヨーギーは、宗教は本来人の心を慰安するものであるが、実際は神頼みのような現世利益を目的としたものから中には形骸化しているものもあり、自らの宗教の優位性を主張して対立を生み、人を束縛して苦しめる宗教ならば、むしろない方がよいとまで仰っています。
私はこういったすっぱりとした意見をこれまで聞いたことはなかったのですが、その通りだと思いました。しかし、人生の中では多くの苦悩があります。純粋に人を助け、争いを生まないのであれば、宗教はあった方がよいと思います。シュリー・マハーヨーギーはこの点についてこう仰っています。

本当の宗教というのは、永遠に壊れない、全ての中にある存在の真実のことをいいます。その尊い命を誰もが、万物が与えられている。それ自身それだけで尊いということを単純に知ることができれば、人はいがみ合うこともなく、争い合うこともなくなるでしょう。 

『マハーヨーギーの真理のことば』第十五章 宗教と社会 

これは、ヨーガの中心的な考え方であり、サナータナ・ダルマ(永遠の宗教・永遠の真理)と呼ばれています。アーサナや瞑想といったヨーガの修行法はこの真理を知るための方法です。既に宗教を持つ人も無宗教の人もヨーガ、真理を学ぶことができます。
世の中がどのような状況下でも、まずは一人一人が真理の教えを学び、現実社会の中でそれを実践する、自分を律していくことが大切なのだと私は思っています。それが周りに波及し、やがて大きく広がっていくと信じています。社会は一人一人によって構成されています。私がヨーガを深めることで、人としても成長し、周りの人達に自然と元気を与えられるようになれたらと思います。そのために、日々の生活における一つ一つの行いを大切にしていきたいと思います。

島本廉