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三宝(仏法僧)という避難所

2020年も残すところ、3日となりましたね。
皆さま、年の瀬をいかがお過ごしでしょうか?

今年は世界的に新型コロナウィルスの感染拡大に見舞われ、世の中の状況が一変しました。
誰もこの事態を予測していなかったほど人々の暮らしや行動に変化をもたらし、動揺や不安の大きかった1年だったと思います。
私たちマハーヨーギー・ミッションの会員も師と会えない、サットサンガ(真理の集い)が開催できない辛くて苦しい状況が続いています。
ただこの苦境においても、自分自身ブレることなく淡々とヨーガを実践できたのは、ひとえに師シュリー・マハーヨーギーの存在と恩寵があってこそで、また師の真理の教えに対する絶対の信頼が自らの内にあり、そしてその教えを共に実践するグルバイ(仲間)たちがいたからです。

「自らを拠り所とし、法(真理の教え)を拠り所とせよ」

2500年前にブッダが説かれたこの「拠り所」は、「避難所」と訳されることもあります。
ブッダの説かれた「諸行無常」を実感する変化の年でもありましたが、それ以上に「仏・法・僧」という三つの宝ーー「覚者・真理の教え・修行者の仲間」ーーこれが世界の「宝」であり、また確実で安心できる「真の避難所」であることを改めて深く実感する1年でした。
この場を借りて師とグルバイの皆さまに感謝を申し上げます、まことにありがとうございます。

12/26(土) 今年最後の瞑想専科のクラス。

ここ数年、私はこのブログ内で1年の締め括りの記事を書かせていたただいていますが、今年はいつもの慌ただしい年末とは異なり、時間の流れがゆっくりしていると感じます。
でもこのゆっくりな感じは、今年で終わらせたい。
時間は心がつくり出している観念であるのですから、こんなのではだめだと感じてきています。
コロナ禍で制限はありますが、でもそんな中でも自らが今できることは何かを考え、そしてそれのためにこの与えられた心身、時間、場所、「全て」を総動員していきたいと思っています。
今年流行した『鬼滅の刃』の主人公がよく言うセリフ「全集中!」でもって、来年はヨーガの実践に臨みたい所存であります。

最後になりましたがこの1年、ブログ「ヨーガを生きる」をお読みいただいた皆さま、まことにありがとうございました。
来年はブログの記事数と内容、両方をさらに豊富にしていきたいと考えていますので、お付き合いいただけると幸いです。
では皆さま、よいお年をお迎えください。

ゴーパーラ


おのれこそ おのれのよるべ

コロナ禍は収束の気配を見せず流行の第三波とも言われる状況になっています。不都合を感じながらも、いわゆる「新しい生活スタイル」に沿って人との距離を出来るだけ取る生活に慣れ始めている自分がいます。しかし昨年の暮れ、来る東京オリンピック・パラリンピックに心躍らせながら社会生活を謳歌していた頃、このような時代が来ると誰が想像していたでしょうか。

部屋から見えた朝焼け。炎と輝き大空を羽ばたく神鳥ガルダのようでした。

微塵も考えなかったことは人生の様々な場面である日突然起こります。一瞬の気の緩み、コンマ数秒のタイミング、そして神の計らいやカルマとしか考えられないことなど、まるで大きな変化の歯車が冷徹に表情ひとつ変えずに廻っていく感じがします。さらに事故や大災害などによって、人生が激変した方々に思いを馳せると表す言葉さえ見つかりません。

名前あるもの。形あるもの。始めと終わりがあるもの。この世の粗大なものも微細なものもすべて変化し、思い通りにならない。私たちは20世紀初頭のスペイン風邪流行を、歴史上の出来事として知っていましたが、思いもしなかったコロナ禍は、くしくも聖典で学んだ知識を私たちに実体験させることになりました。想像もつかない出来事は人間の計らいなどお構いなしに起きる。なぜならこの世はマーヤー(神の幻影)だから。コロナで痛感させられたことです。

それでも私たちは変化に驚き、慄き、悲しんでばかりいるわけにはいきません。それは変化する対象物に依存しているのだと、ブッダは教えてくださいました。「おのれこそ おのれのよるべ おのれを措(お)きて誰によるべぞ。(法句経160)」ブッダは人間の一生における依存の対象の移り変わりを挙げながら、真に頼るべき対象について教えています。赤ん坊は一心に母親を目で追い、小学生になると先生の言葉に目を輝かせます。青年になれば恋人を昼夜想い、社会に出ると地位や財産、中年以降は健康や美への執着も加わるかもしれません。でもそれらは時が来れば消えてしまい何ひとつ残りません。

続けてブッダはこの経で、よるべとなるのは「よくととのえし おのれ」であると教えています。私が読んだ訳本では「自己の中に一切の『他』を見出した偉大な自己」と解説していました。私なりの理解では、それは「アートマン」(真の自己)であり、「真理」であり、「私の中にある神」ではないかと思います。名前も形も始まりも終わりもないアートマン。それは自分を取り巻く世界に遍満しています。自分はアートマンと悟ること。それこそが受け入れ難い変化を受け止めていく究極の方法なのだと思います。

私は執着を捨てるために、本当の自分への瞑想を進めています。瞑想は少しずつ深まっていると感じますが、同時に自分の執着の根深さを垣間見て、恐ろしささえ感じ無力感に苛まれることもしばしばあります。「わかっちゃいるけどやめられない。」昭和の頃の歌謡曲で聞いたことがある様な文句ですが、飛び跳ねる猿のように狡猾な心の正体を知ったからには、絶対に負けられないと日々気持ちを奮い立たせています。

前述の経はブッダが入滅を目前にして、嘆き悲しむ弟子の阿難に語った言葉だそうです。「お前は自分自身に燈火を抱いて、自分の足もとを照らし、ゆく手を照らし輝かせ」と力強く教えられたそうです。ブッダはこの時こうも語ったそうです。「私の肉身を見る者が私の弟子ではなく、私の教えを知る者が私の弟子である。(ヨーガの福音)
今、コロナ禍のために師であるヨギさんにお会いできないという試練に直面しています。私がそれを悲しみ嘆いてばかりいたら、それは私がヨギさんに依存しているのであり、師の教えとは相容れないことなのだと思います。師に依存するのではなく「私は師とひとつである」という揺るぎない事実。その教えを燈火として、ただひとり歩んでいきたい。師はコロナ禍を通して私にその経験をさせて下さっているのだと思います。

最後に一言。でもやっぱり早くヨギさんにお会いしたいです。

昨年の暮れに訪れた足摺岬。自らの足下と行方を照らす灯台の如くありたいです。

小菅 貴仁


ブッダの御聖誕日

四月八日はブッダの御聖誕日です。
ブッダがこの世に生を受けた時、次のエピソードが伝えられています。

「彼は一王国の王子として生まれました。彼が生まれたとき、ある予言者がやって来てこう言ったそうです、『この御子が成人されたときには世界を支配する王になるだろう。だが、もしも彼が出家すれば、彼は全き法輪を転がす王になるだろう』」 

凡庸な王であれば、一族の繁栄を願い、その子孫にたくさんの金銀財宝を残します。
偉大な王であれば、社会のために水道や道路を通し、また法律を整備して、人々の生活に安心や豊かさなどの利益をもたらします。
では親や子、一国までも放棄し、「全き法輪を転がす王(真理を説く王)になる」と予言され、実際にそうなったブッダがこの世に残した財産・利益はあったのでしょうか?
お寺や経典などの遺産でしょうか?
もちろん、それらもブッダの教えから派生したものになるでしょう。
しかし、ブッダがもたらした最高の財産・利益は、

「真理は誰もの中に在る」

と悟り、宣言したことだと私は感じます。
時代や国、性別や生まれ、地位や才能は全く関係がない、真理はすでに誰もの中に在る! それは新たに獲得したり建設するものでもない、自らの本性が永遠で完全なる至福そのものであり、皆が等しく尊いということーー光り輝く財宝は万人の内に在る! そう、ブッダは教えてくれます。
しかし心はその真理を知らないし、知っても疑ってしまうーーその心の無知を取り除く方法、「真理への道」もブッダは示しました。

「私は道を見つけた。あなた方もみな、その道に入りなさい」

この真理の道程は八正道として説かれていますが、最近、私はこの「道」に関連した夢を見ました。
夢の中、真っすぐな一筋の道、その遠く向こうに一人の先輩グルバイがいました。
彼はかなり先を歩いていて、とても追いつきそうにありませんでした。
そうしたら、もう一人の先輩が「さあ、行くよ!」と言って、私の手を引っ張ってくれました。
そして私は目が覚めました。

真理の実践の道を歩んでいくのは自らの足ですが、サンガ(仲間)の助けを借りて、前に進んでいることに気付かされました。
いつになく爽快な朝でした。
道があって舗装までされていて、さらに優しい仲間がいて、なんと有り難いことでしょう!
そして、ここを統治されている王のなんと偉大たるや!

ブッダの御聖誕の日、あなたの存在と教え、仲間、この「三宝(仏法僧)」に心より感謝を捧げたい。

初転法輪の地、サールナート(鹿野苑)。ここで初めてブッダは真理を説いたとされています。

ゴーパーラ


The Eternal Quest Essence ― 永遠の探求 ―!!!

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この宇宙はどこから来たのかー。

私は誰か?

どこから来て、どこに行くのだろう。

ー永遠の探求 The Eternal Questよりー

 

The Eternal Quest Essence ―永遠の探求― が12/4にリリースされました。12/1のダイジェスト版に続いての公開です。

Essence(エッセンス)の名の通り、公演「The Eternal Quest」の真髄を凝縮したディレクターズカット版です!!!

ウパニシャッドの珠玉の言葉、息を呑むほどのアーサナの集中感、キールタンの溢れる神への愛!深淵なるヨーガの真髄が具現した、非常にシャープな映像に引き込まれます!

公演、映像ともにデザインされた、師シュリー・マハーヨーギーの祝福とお力に感服いたしました!心より感謝を申し上げます!

さてー

私は誰か?

その答えを私たちは果たして見出したのでしょうか!?

人生は一瞬のうちに過ぎ去る!

それ以外に知るべきものは何もない!

神に恋い焦がれ、狂い、一つになれ!

古来のヨーギー、ヨーギニーたちの魂の問いかけが、私たちの魂を揺るがせます!

 

今日12月8日は、かの偉大な主ブッダが悟りを啓かれた聖なる日です。

「私は古道を見つけ、それに従った」と主ブッダは言われましたが、この吉祥なる日に、古代より継承される永遠の真理とそれを実現する偉大なる道ーヨーガに思いを馳せながら、その精髄をとくとご覧あれ!

オーム・タット・サット オーム!

サーナンダ


もうすぐ、サットグル・ジャヤンティー!!

真実はグルに優ることなく
タパスはグルに優ることはない
真実の悟りより優れたものはない
その聖なるグルに礼拝いたします

我が主は聖なる宇宙の主
我がグルは聖なる宇宙の師
我がアートマンはあらゆるもののアートマン
その聖なるグルに礼拝いたします

グルは始原であり無始の存在
グルは最高の神格
グルより優れたものはない
その聖なるグルに礼拝いたします

ーー『グル・ストートラム』ーー

11月23日は、私たちのグル(師)であるシュリー・マハーヨーギーの御聖誕日です。
年に一度のこの吉祥なる日を祝う祭典「サットグル・ジャヤンティー」まで、あと5日と迫ってきました!!!
この日に向けて、日本のみならず台湾やニューヨークの弟子たちは、最愛のグルの御聖誕とその導きへの感謝を込めて、準備を進めています!
プージャー(礼拝の儀)で捧げるマントラ(真言)もその一つ。グルを讃える上記のマントラを男性五人で朗唱させていただきます。
このマントラはサンスクリット語で唱えるのですが、その一つ一つの言葉の意味を学び、言葉と思いが一致するようにしていきます。
私はこのマントラを唱えていると自然と胸の内側から、「グルがどれだけ優れているか、グルより偉大な存在はない」と感じ、師への思いが高ってきます!

かの偉大なる主ブッダが御聖誕した日、ブッダは天と地を指さして、

「天上天下唯我独尊」

と言ったと伝えられています。
私は感じます、師と出会ったことで、グルのマントラとこのブッダの伝説が同じものだとーー

真実を悟った私のグルは、この全宇宙でナンバーワン!
グルよりも優れた人に会ったことはなく、誰がなんと言おうと、唯一無二の存在でオンリーワン!!
この天にも地にもあなたの存在ほど尊いものはない!!!

我らの偉大なグル、その御聖誕を祝わせていただく格別なる日まで、あと少しです!!!

ゴーパーラ


識別とヴィヴェーカーナンダ(7)

「理想」とは何でしょうか?
世界平和、愛、自由、目標の達成、つつがなく人生を送ること……
人それぞれ、思い描く理想の姿や形はさまざまかもしれませんが、そこには共通して「幸せ」を求めるはたらきがあるように思います。
では、ヴィヴェーカーナンダは「理想」というものをどう捉えているのでしょうか?

まず、理想の対義語が何かといえば、それは「現実」です。
ヴィヴェーカーナンダはこの現実のありのままを、いくつもの例を挙げて説明しています。
ーー希望に満ちた若者は明日の老兵になり、知識獲得への欲求はその限界に直面し、物質的繁栄の影には不幸があり、快楽を得れば等量に割り当てられている苦痛を伴い、どんな偉大な王も美女も死という破壊に向かって進んでいる事実ーー
人は生きていくと、誰もが大なり小なり現実の壁、矛盾、二元性に直面し、この世界で自分の思い描く理想に完全に近づけないことを実感します。
2500年前、ブッダは説かれました。

「この肉体と心、世界は無常である」

思い通りにならない世界と、まぬがれることができない老いや病、そして死ーー
幸福を得るやいなや不幸が襲いかかり、この世に生を受ければ必ず死がやってきます。
それでも私たちはこの世界において永続する完全な幸福を求めるです。

では、私たちはどうすればいいのでしょうか?
死を直視することをやめ、理想をもたず、享楽的な人生、または世に迎合する人生を送ればいいのでしょうか?
その突破口としてヴィヴェーカーナンダは、「死を絶滅させるためには、生も絶滅させなければならない」と言うのです。
それは、短絡的にこの人生を諦めよということではありません。

「小さな生命を生きることは死です。小さな幸福、小さな自分を棄てよ」

と言うのです。

「われわれは誰でも、自分たちは非常に幸福であるだろうと考えて、この肉体をいつまでも保っておきたいと思います。しかし人々が過去とか未来とかを思うのをやめるとき、彼らが肉体という観念を棄てるときーー肉体は去来する、限定されたものなのですからーーそのとき、彼らはもっと高い理想にまで登ったのです。肉体は真の人ではありません。心もそうです。心は大きくなったり、小さくなったりするのですから。独り永遠に生きることができるのは、超越した霊です」ーー『ギャーナ・ヨーガ』

誰もが永遠で完全な幸福という理想を求めています。
過去の覚者たちは、それは肉体や感覚、心では得られない、「放棄」によって得られると悟りました。
ブッダは「四諦(苦集滅道)」という放棄によるニルヴァーナ(涅槃)への道を示し、イエス・キリストも「私のために自分の生命を失う者は、それを得るであろう」という諦めの放棄の道を説いているのです。

そしてヴィヴェーカーナンダは、理想はどこかにあるのではなく、最も近いところにあると言います。

「あなたが見た理想は正しかった。しかし、あなたは理想をあなた自身の外にあると見た、それが間違いでした。それをもっともっと近くにもっていらっしゃい。それは常にあなたの内にあったのだ、それはあなた自身の自己であったのだ、ということがあなたに分かるまで」

理想とは、永遠で完全なる幸福、自らの内にある真の自己、その目覚めである悟り、そうでなければ意味がありません。
そして、「最高の理想で頭脳と思いを満たし、朝夕それらを自分の前におきなさい。そこから偉大な働きは生まれるのです」とヴィヴェーカーナンダは力強く説いているのです。

ゴーパーラ


無知の中で百年生きるより、真理の中で一日生きる方がよい

八年前、私は師に同行させていただいたニューヨーク滞在の後半、「瞑想が深まらないのですが、どうしたらいいのでしょうか」と質問し、師は次のことを言われました。

「どう生きていきたいのか?」

先週のアーサナ・瞑想クラスで姉弟子のシャーンティマイーさんから「瞬間、瞬間を生きる」ということが話されました。
「アーサナを形づくる中、ポイント、ポイントを押さえ、呼吸を吐き切ることで、アーサナが完成へと導かれる。それをしっかりと意識してアーサナを行なうことが身口意(形・呼吸・意識)の一致になり、それが瞬間、瞬間を生きるということになる」

ニューヨークで師は「どう生きていきたいのか?」と言われる前、瞑想を深めるために、もう一つの教えをおっしゃっていたことを思い出しました。

「日常の身口意を一致させなさい」

十二月八日はブッダが悟りを啓かれた日です。
「ラージャ・ヨーガの八支分とブッダの八正道は共通している」と師はおっしゃられ、それら一つ一つをニューヨーク滞在時に教えていただきましたが、あれから八年経ち、私は改めて師からいただいた教えの深遠さを感じさせられます。

今、私の思いは「真理に生きる」、それだけです。
しかし、未だ悟れていない。余計な思いや雑念、本能の制御ができていない。
本当の意味で真理に生きる、「無知の中で百年生きるより、真理の中で一日生きる方がよい」と言ったブッダのこの心境を切に願うのなら、もう一度改めて、基礎である八支分のヤマ(禁戒)・ニヤマ(勧戒)、八正道の正見・正思・正語・正業の教えの意味を考え、瞑想して心に刻み込み、日常の身口意を一致させていきたい。
そしてただ一つの的、アートマン(真我)だけを見て!!!

ゴーパーラ


もうすぐ師の御聖誕日!!!

最近ふとした時、親への感謝の気持ちが湧いてきました。
自分がこうして生きているのも親が一所懸命に育ててくれたからだと感じました。
それと同時に、次の師の言葉が蘇りました。

「最大の親孝行は、悟ることです」

言葉上では知っていた教えでしたが、本当はどういう意味なのか疑問に思い、師に尋ねてみました。
師は、次のようにおっしゃられました。

「それはブッダの生涯が物語っている。
ブッダは出家し、のちにブッダの親子は彼の弟子になっている。
親は誰もが子供の幸せを願っている。
親は親で人生の幸不幸を経験する中、悟りを実現したブッダに本当の幸せを感じたのだと思う」

私はこの言葉を聞いた瞬間、まるで師がブッダの生涯のすべてを見たかのようなリアリティを感じ、驚きました。
諸行無常や涅槃という仏教用語を使わずとも、聖なる存在として生きたブッダの息吹に触れたかのようでした。

師は知らないことや知りたいことは何でも教えてくれます。
私にとっては父のようであり、兄のようであり、また光り輝くスターのような憧れの存在です。
師と少しでも会ったり話したりするだけで、私の心は踊り、歓びに満たされます。

その師の御聖誕日がもうすぐです!!!

私は親から生まれ、親に育ててもらい、成長することができました。
大人になった今、師と出会い、師に身も心も改めて育てていただき、生かされていると感じます。
11月23日、私たちを本当の幸せに導いてくださる師の存在とその御聖誕に、最大の感謝を捧げたい。

ゴーパーラ


十二因縁(十二縁起)

師と過ごした台湾での夜、私は原因、原因を探求していくブッダの十二因縁の瞑想の必要性を感じた。(前回のブログ「集」はこちら
では、「十二因縁(十二縁起)」とは一体どういうものなのか?
それは、老いや死をはじめとする一切の苦しみが起こる原因のプロセスを、根本原因である無知にまで遡っている。

無明…真実を知らず、永遠・絶対でないものを永遠・絶対だと見なす根源的な無知。
…自我意識や執着を生み出す元となる、無意識のうちにある潜在的傾向、サンスカーラ。
…自我と他者を区別し、外界を認識する意識。
名色…名前と形という、区別・差別を生み出す微妙な要素。
六処…視覚・聴覚・味覚・嗅覚・触覚という5つの感覚機能と思いの働き。
…感覚や思いを通じた外界との接触。
…外界の対象を感じ取ること、感受。
…欲望の対象を渇望・渇愛すること。
…欲望の対象を取ろうと執着すること。
…カルマをもって輪廻する煩悩的存在。
…生まれること。
老死… 老いと死をはじめとする一切の苦しみ。

見慣れない仏教用語が並び、十二の意味を理解するだけでも難解に感じるが、この十二因縁を知的に理解している人は学者をはじめ、仏教者にも少なからずいるだろう。
ただ、どれだけの人が実際に十二因縁の瞑想を行ない、本当の意味を理解しているだろうか?
台湾での夜、師は「知的理解」と「体験的理解」の違いを次のようにおっしゃられた。

ゴーパーラ「十二因縁の公式を、心に当てはめながら見ていってもいいんですか」
ヨギ「それを単なる知的理解で終わらせてはいけない。自分の心を材料にして、自分の心はそれに対してどのような反応を示すか――自分の心がその十二因縁のリアルな体現者となったように順次、十二の原因を遡っていくというのかな」
ゴーパーラ「リアルな疑似体験というか、そういうように進めていく」
ヨギ「本当は疑似体験じゃない。自分の心を材料にするから、(強調されて)直接体験やで、これはほんまは。それを直接体験と思えるぐらい切迫した、心に切迫させていかないといけない。そうでないと知的理解という疑似体験に終わってしまう」
ゴーパーラ「それは言い聞かせのレベルとは全く違う」
ヨギ「言い聞かせじゃない。その原因をしっかり理解すること。単なる言い聞かせはいらない。(強調されて)しっかりと理解すること。それは心そのものが変わっていく。それが直接体験の効果というか結果というふうになっていくはず」

私は小さい頃からずっと執らわれている欲望があった。
台湾の夜から私は十二因縁について考えを巡らせていたのだが、瞑想中にその執らわれている欲望が湧き出てくることがあった。
するとその瞬間、名と形が形成され、そこに手が伸びてつかみにかかり、その対象を渇愛する心の動きが感じられた。
それは一瞬の出来事だった。
この十二因縁とは生死の輪廻という大きなスパンの構図だと理解していたが、一瞬の思いの中にも十二の要素すべてが詰まっているようにも感じられた。
私自身、今まで行なっていた識別瞑想では、欲望やその対象に対して、「それは永遠ではない、絶対ではない」というふうに真理をあてがっていた。
その効果として欲望への執着は薄らいでいたが、まだ完全に消えてはいなかった。
だが、この十二因縁の構図でもって欲望を分解していった時、何か咀嚼しやすい感覚があった。
それは、心の中で欲望の消化が促進されるような新たな実感であった。

そして台湾から帰国して約2週間後の4月7日、ブッダ御聖誕日の前日にサットサンガが開かれた。
私は実践した十二因縁の瞑想について師に確認した。
師は、「それは心が造り出す条件下の構造そのものを明らかにするという意味において、その十二個を辿っていくということは有意義」と言われた。
しかしながら師は、それよりも「もっと大事なことがある」と示されたのだった。
(続く)

ゴーパーラ


*老いや死のような一切の苦しみ(老死)は生まれたこと(生)に原因があり、生まれたことはカルマによって輪廻する煩悩的存在(有)に原因があり、その輪廻的存在はさまざまなものを取ろうと執着すること(取)に原因があり、執着は欲望の対象を渇望すること(愛)に原因があり、渇望は対象を感じ取ること(受)に原因があり、対象を感じ取ることは外部との接触(触)に原因があり、接触は視覚・聴覚・味覚・嗅覚・触覚・思いの六つの感覚機能があること(六処)を原因とし、六つの感覚機能は名前と形(名色)という微妙な想念があるために起こり、名前と形は自分と他者を分けることで外界を認識する意識(識)を原因としながら、名前・形とその外界意識は相互に依存して成り立っている。また自他を区別して外に向かうその意識はサンスカーラという無意識の潜在的傾向(行)を原因とし、潜在的傾向は永遠でないものを永遠と見、自己でないものを自己と見る無知(無明)に原因する。これら十二の因果をまとめると以下のようになる。(原因<結果、で示す)
無明<行<識><名色<六処<触<受<愛<取<有<生<老死

 


集(原因)

渇望――それは、喉が渇いて水を求めるように、激しく執着すること。
仏教の教えでは十二因縁の中に含まれていて、執着の原因である。
しかし師は台北での夜、「のたうちまわるほどの切羽詰まった真理への渇望」を説かれた。(前回のブログはこちら⇒「渇望(タンハー)」

ブッダは身的苦行を棄て、瞑想によって生死の原因である欲望への執着を見つけ、またさらなる原因のサンスカーラ、そして大原因の無知を暴き出し、悟りを実現した。
後にその因果の理は「十二因縁」として体系づけられた。
では、どうしてブッダはその内的探求が可能だったのだろうか?
通常、人は原因を外に見たり、たとえ内に見たとしても、無知という大原因まで辿り着くことは到底不可能のように感じられてしまう。
事実、ブッダ以前にカルマの因果論は見つけられていたが、カルマの原因である執着とその根本原因の無知は見つけられていなかった。
私は師に問うた、「ブッダのように原因、さらなる原因を探求するには、どうしたらいいのでしょうか」
師は次のように応えられた。

「気付くこともいっぱいあると思うけれど、そこで断定しないこと」

何の変哲もない言葉かもしれない、しかし私はそれを聞いた瞬間、直観的にその教えの深みが感じられた。
「断定しないこと」、それは自分の修行や行為、どれにも当てはまると感じられた。
例えば、日常の実践について。
何年か前、私はミラバイさんから「洋平君(当時の名前)は日常が大事って言っているけれど、それってどういうこと?」と尋ねられたことがあった。
その時私は、「サットヴァ(快活)に行為していくことかな」と答えた。
自分自身この数年、日常生活で軽快に動くことを意識的に取り組んでいた。
しかしながら最近ミラバイさんと話していると、「日常の実践とは心の波を静めること、つまり内的な軽快さがそれである」と暗に教えていただくことがあった。
振り返ってみると数年前、ミラバイさんはそのことを私に教えてくれていた。
にもかかわらず、自分の実践やサットヴァの理解を疑わなかった。
つまり、「断定」していたのだ。

人は自分の心のフィルターという色眼鏡を通して物事を見て、判断して生きている。
さまざまなものを付加しているのである。

「付加条件とは、すべて。環境や性別、年齢、経験、それらをすべて外していく。眼鏡が曇っていることはヴェーダーンタで説かれていること。でもそれを実際に外さないといけない。それがヨーガ全体の実践」

師は実際に眼鏡を外すジェスチャーをして、そのように言われた。
私はこの師の一言で、ヴィヴェーカーナンダが「プラティカル・ヴェーダーンタ」という言葉を使っている意味が理解された。

「これではない、これではない……」

原因、原因を見ていきたい――私は「十二因縁」の瞑想が必要だと感じた。
窓から見える台北101のライトアップは消えていた。

(続く)

 

ゴーパーラ