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聖者の息吹を感じる! 春の祝祭

今年は例年よりも桜の開花が早いですね。 
すでに満開を迎えたところ、これから開花を迎えるところ、様々な場所で、春の喜びを感じられていることと思います。 

そんな中、マハーヨーギー・ミッションでは、2023年4月2日に春の祝祭「サナータナ・ダルマ・アヴァターラ・メーラ ー神性示現大祭ー」が開催されます。

2017年に始まったこの祝祭は、永遠の真理を完全に体現された神の化身、アヴァターラに感謝と歓びを捧げる祭典です。 

これまでブッダやシュリー・ラーマクリシュナなど、偉大なる大師たちの生き様に迫ってきました。 
最初はこの祝祭がどんな会になるのか想像がつきませんでしたが、ブッダをテーマに取り上げた祝祭で、その意味がはっきりと分かりました。 
ブッダについて名前やどのような生涯だったかは知っていても、どこか遠い存在だったのが、グルバイたちの祝辞を聞く中で、ブッダの息吹を感じ、その人となりに触れることができたのです。 
会場にはグルバイの熱気が充満していて、この上ない歓びで胸がいっぱいになった感覚は、今もはっきりと覚えています。 

2021年からはオンラインでの開催となりましたが、画面を通して各地と繋がることで、離れた場所にいても歓びのひと時を共に過ごせるありがたさを感じています。 

今年の春の祝祭で取り上げる聖者は、パラマハンサ・ヨーガーナンダ。 
ヨーガーナンダの、子供のような純粋さで熱心に神を求めていく姿からは、素直さと揺るぎない信仰心を感じます。 Snatana Dharma Avatara Mela

ヨーガーナンダはどんな人であったか。 
グルバイたちが様々な視点で迫ったヨーガーナンダを知ることができる祝祭はもうすぐ。とても楽しみです! 

 ハルシャニー  


グルデーヴァ! 【後編】―『あるヨギの自叙伝』よりー

前編(→前編の記事)では、ヨーガーナンダが真正の師、スリ・ユクテスワにめぐり会い、厳しくも愛ある薫陶を受け、師の下で生涯の最良の十年間を過ごしたこと、そしてそのすべてはババジ、神の導き、計画であったことに触れました。『あるヨギの自叙伝』に貫かれているものは、ヨーガーナンダの大師への敬愛と、また大師の完璧なる導きだと感じました。
なかでも私が最も感銘を受けたのは、数世紀にも渡って今も生きておられ(!)「唯一の隠れた力である創造主のように、地味に目立たぬように働いておられる」というババジの教えです。


ヒマラヤの山中を少数の弟子たちと移動されているババジの一団の下に、ある時一人の男が現れて、崖の上の岩棚によじ登って言った「大師よ、あなたは偉大なババジに違いありません」。男の顔は言いようもない崇敬の念で輝いていた。
「私はここ幾月もあなたを捜し求めて、このけわしい岩山をあちこちさまよい歩きました。お願いでございます。私をお弟子に加えてくださいませ」
ババジは何の返事もなさらなかった。すると男は、はるか下の岩の裂け目を指して言った「もし受け入れていただけなければ、私はここから飛び降りて死んでしまいます。大師の、霊のご指導を受けることができないなら、私はもう生きていても無意味でございます」。

「では飛び降りるがよい」ババジは冷然とお答えになった「私はお前を、今のままでは弟子にすることはできない」。
男は崖下めがけて身を投げた。ぼう然とこのありさまを見ていた弟子たちに、ババジは男の死体を取ってくるように命じられ、見るも無残な男の死体の上に手を置かれた。すると、男はパッと目を開いてババジの足もとにひれ伏した。
「これでお前は、私の弟子になる資格ができた」ババジは死から甦った弟子をにこやかに見ながら仰った「お前は勇敢にも、この厳しい試練に打ち勝った。死はもう二度とお前を見舞うことはないだろう。今こそお前は、われわれ不滅の仲間の一員になったのだ」

※もし男が飛び降りることに躊躇したら、ババジの導きなしに生き長らえることは無意味だと言った言葉が嘘であったことになり、また、師に対する完全な信頼に欠けていたことを暴露することになる。それゆえ、この試験は、思い切った異常な手段ではあったが、この場合完全な試験方法だった。


目まぐるしい毎日の中で、いくつかの壁があるように思えて私が混乱していた時、このババジの言葉が突き刺さりました。
私はお前を、今のままでは弟子にすることはできない

・・・ヨーガは実践。師であるヨギさんと燦然たる大師たちの凛々しいお顔が浮かび、ヨーガの道を進むために導いてくださっていることを感じ、壁があるならぶつかっていこう、と思いました。砕けるのは、エゴであり、真の自己は決して砕けない。だから恐れずに、当たって砕ければいいと思いました。
ヨーガーナンダは、古から伝えられてきた真理、神を悟るための道を、先達に続き世界へ具体的な形で伝えられましたが、それは時空を超えたババジの導きであることが、はっきりと本の中に開示されています。師の言葉、神の導きを完全に信頼し、まっしぐらに突き進んだヨーガーナンダは、勇敢に壁にもぶつかり崖下へも躊躇なく飛び降りたと私には思えます。これこそが生涯を懸けた大事業、ヨーガなのだと思いました。

今回、久しぶりに一から読み返した『あるヨギの自叙伝』。ヨーガーナンダの溢れる愛とユーモアに、泣いたり笑ったりしながら一気に読み終え、ヨーガーナンダの聖なる魂の息吹が、颯爽と駆け抜けていったようでした。
時空を超えた大いなる導きに、感謝を捧げます。
グルデーヴァ!!!

ヨギの自叙伝カバー

1946年、初版のブックカバーの写真

※参考・引用『あるヨギの自叙伝』

ナリニー  


グルデーヴァ! 【前編】―『あるヨギの自叙伝』よりー

真実の師の存在がなければヨーガの道は一歩も進めないことを、私は『あるヨギの自叙伝』を通してパラマハンサ・ヨーガーナンダから教わりました。インドでは生涯をかけて師を探すと言われています。

少年時代から霊的探求心の深かったヨーガーナンダは、師を求めて聖者、賢者を訪ね歩き、青年になると家を飛び出し僧院に入ります。17歳の時、導かれるように行った外出先の狭い小路で、ついに真正の師、スリ・ユクテスワとめぐり会いました。スリ・ユクテスワのその神々しい顔は、ヨーガーナンダが何百回となく幻に見た顔。狭い小路で、じっとヨーガーナンダを見つめていたスリ・ユクテスワのもとへ、ヨーガーナンダは急いで駆け寄り、足もとにひざまづきます。「グルデーヴァ!(尊い先生!)」それ以上、言葉を発することができず、もう言葉は必要なく、沈黙のうちに二人の心は溶け合いました。

実は師の僧院とヨーガーナンダの実家は近い距離だったのですが、過去に師の姿を見たこともなく、このめぐり会いはそれぞれの外出先でのことでした。ヨーガーナンダは念の入った神の演出ぶりに驚いたといいます。ところが彼は、その後、師から家族のもとに帰りなさいと言われるも、霊的生活を求めるあまり「私は家には絶対に帰りません」と言います。師は仰いました「お前が安易な気持ちで私の弟子になるのを認めるわけにはゆかない。私の弟子には、私の厳格な訓練に対する絶対服従が要求されるからだ」。すぐに弟子になることが叶わなくなったヨーガーナンダは、奇跡的なめぐり会いがどうしてこのようなちぐはぐな結末に終わってしまったのか・・・と夜道を歩いて帰ります。しかし数日後、結果的には実家へと帰ることとなり、そこで家族との問題を円満解決してから、一カ月後に師の下で霊的訓練を受ける環境が与えられたのでした。
まさに師は、弟子が解消すべき問題や義務を果たしてからヨーガの道に邁進できるように、大切に弟子の人生を完璧に導かれていることを私は感じました。一見、遠回りに思えることでも実はそれが近道なのだと。

師に自分の心理的ひずみを取り除いてもらう不屈の決意をしていたヨーガーナンダは、その時のことを「私の慢心を打ちくだくために加えられた先生の容赦ない叱責のむちに今でもはかり知れない感謝をいだいている。先生はまるで虫歯を一つ一つ探し出しては強引に引き抜くように、私の欠点を取り除かれた。執拗な自己中心主義の根は、このような手荒な手段でなければなかなか根絶することはできない。この根が取り除かれてはじめて、神は人間の中に自由な通路を見いだすのである」と記されています。スリ・ユクテスワからは「もし私に叱言を言われるのが嫌になったら、いつでも出ていきなさい」「私はお前の進歩だけを期待している。お前がここに居てためになると思ったらとどまっていなさい」と厳しくも愛ある薫陶を受けていました。

私は、大先輩から聞いた「師は弟子を導くために存在されている」という言葉を思い出します。弟子の身に起こることは自己中心主義の根を取り除くための師からの導き。師は弟子にとっての障害を取り除き、道をスムーズにしてくださっているのです。そして欠点を取り除くその過程こそが実践。教わったことを実地で行動し実践してこそヨーガと言えることをヨーガーナンダが今、本を通して教えてくれます。

ヨーガーナンダが、師と過ごした日々のことを「生涯の最良の十年間を過ごした」と表現されている一文に、彼の師への言葉にならない思いを感じて胸が熱くなります。読んでいくと、ヨーガーナンダと師スリ・ユクテスワの、またスリ・ユクテスワの師のラヒリ・マハサヤの、そのまたさらに師のマハー・アヴァターラ・ババジの、それぞれの大師たちと弟子との純粋な愛の物語に触れると同時に、今もその続きが繰り返されている・・・と思わずにはいられません。ヨーガは本当に師から弟子へと直伝されてきた宝なのです。

ヨーガーナンダはババジとスリ・ユクテスワからの命である西洋にヨーガを伝えるという聖なる責任を果たされましたが、それは決して生易しい仕事ではなかったといいます。後年、その仕事に対してやりがいがあったかどうか?という質問に対して「主の試練を受ける者は幸いです。主は、ときおり私を思い出されては、私に重荷を背負わされました」と答えられ、そして続けられます「しかし、私の答えは断じて『イエス』です。東洋と西洋が永遠の霊的絆によって互いに固く結ばれてゆくのを見るとき、私はこの仕事がはるかにやりがいのある仕事であったことを痛感します」。
どんな事も神から与えられたものと信じ委ねるヨーガーナンダの純粋な信仰心、そして主の仕事の歩みを絶対に止めずに推進していく強さに感服します。その源にあるのは師の存在・・・師と弟子との特別な絆について、ヨーガーナンダから私は教えていただきました。
(後編につづく)

大師たち

(左から)マハー・アヴァターラ・ババジ ラヒリ・マハサヤ スリ・ユクテスワ

※参考・引用『あるヨギの自叙伝』

ナリニー  


わが師

1896年2月24日、スワーミー・ヴィヴェーカーナンダはニューヨークで「わが師」という講演をされています。
この講演の中でヴィヴェーカーナンダは、師であるシュリー・ラーマクリシュナに出会った時のことを語られています。

「初めて、私は、自分は神を見ると言い切る人を、宗教は感じることができるところの、われわれがこの世界を感じるより遥かにもっと強烈な形で感じることができるところの、実在である、と言い切る人を見出したのです。(中略)そして実際に、宗教は与えられ得るものであることを見たのです。ひと触れ、一べつが、全生涯を変えることができるのです」

シュリー・ラーマクリシュナと触れ合い、その真実を感じた人から発せられた言葉は、どれほどのリアリティを持って聴衆に響いたことでしょうか。その場で話の内容の全てを理解はできなくても、心の奥深くに強烈な印象を残したに違いありません。
シュリー・ラーマクリシュナの生涯は他の本でも読むことができますが、ヴィヴェーカーナンダが講演されたその光景を想像しながら読むと、その力強い姿、輝く姿が想起され、心が湧き立ちます。きっと瞳は輝き、声は美しく響いたのだと想像します。

サルヴァーニー


幸福と不幸は裏表?

「幸福と不幸は裏表」という言葉をよく聞きます。
「少々辛いことがあっても、きっとまたいいことがあるよ!」という励ましの意味や、「いいことが続いたからといって、あまり油断するとよくないよ!」という戒めの意味の、両方があるそうですね。また「人間万事塞翁が馬」ーーー人生における幸不幸は予測できない、とか、「幸福より不幸の方が良い教師である」・・・などなど、昔から幸福と不幸に関しては様々な処世訓があります。

それではヨーガでは、幸福と不幸についてどのように教えているのでしょうか? 
マハーヨーギー・ミッションの会報誌『Paramahamsa』のコンテンツの一つ、まずはこちらをご覧ください!

「幸福と不幸の女神」より

この物語は古くからインドで伝わっている小話の一つなのですが、私たちの師であるヨギさんは、時折こういった例え話を豊かに織り交ぜながら、いつも本当に楽しくヨーガの神髄を教えてくださいます。そんな時はまるで童心に帰ったかのようにワクワクしながら、その物語の世界に引き込まれて、「なるほど!」と唸ったり、自分自身を省みたりすることがたくさんあります。

そのように、様々あるヨーガの教えや例え話を、ワクワクして絵を通して感覚的に掴んだり親しんだりしながら、教えの理解やヨーガへの思いを育んでいけたらいいなぁと思い、『Paramahamsa 』で、このコンテンツを企画してみることになりました。ヨーガを始めて間もない方や子供さんなど、誰もが見て楽しめるような、絵本動画のイメージです。
まだ作品はたくさんできていませんが、これから皆さまに楽しんでいただけるよう、少しずつ増やしていきたいなぁと思っています。

ということで・・・さてさて、動画をご覧くださった皆様へ。
幸不幸の交錯するこの人生、どのように生きていけばいいのかーーーそのお答えは出ましたでしょうか?

ミラバイ

追伸:絶賛発売中の新刊『マハーヨーギーの真理のことば』の中に、上記の教えも掲載されています!

 

 


パラマハンサ・ヨーガーナンダ 御聖誕日

皆様、明けましておめでとうございます🌅
このお正月はいかがお過ごしでしたか?
私は3年ぶりに帰省して、久しぶりに家族や親戚と楽しい時間を過ごし、慶びをもって新年を迎えることができました🎍

さてこの2023年ですが、『あるヨギの自叙伝』で有名なパラマハンサ・ヨーガーナンダ(1893年ー1952年)の御聖誕130周年にあたります!!


『あるヨギの自叙伝』は私も大好きな聖典で、読む度に新しい発見と驚きがあり、時には全身が歓びで満たされます。
この本の中では、ヨーガーナンダがサマーディを初めて体験するシーンがあり、その境地が次の言葉でもって記されています。

「神の霊は尽きることのない至福だ!」

この至福のサマーディを愛弟子に与えた師スリ・ユクテスワは、「神は常に新鮮なよろこびだ。それはたえず湧き出る泉のように、常に新しく尽きることがない」と述べ、この永遠の至福を体験することはかけがえのないことで、神を知ったことに他ならないことをヨーガーナンダに伝えています。

そして本日の1月5日はヨーガーナンダの御聖誕日です!!
新春の慶びとともに、この吉祥なる日に「常に新鮮なよろこび」で満たされる1年にしたいと私自身感じております!!

私たちマハーヨーギー・ミッションでは、4月に開催予定の春の祝祭でヨーガーナンダを取り上げ、「古から続く永遠の道」をテーマに、グルの存在の尊さや稀有さを今一度思い起こし、またヨーガーナンダの行動の源にあった熱情・覚悟に迫っていきます。
ブログの方でも、今年は『あるヨギの自叙伝』、そして昨年11月に出版された『マハーヨーギーの真理のことば』、その素晴らしい聖典について積極的に発信していきたいと思っています。

真理のことばに浴し、実践して、神の歓びを全身に感じ発散する1年にしていきましょう!!
皆様、今年1年もどうぞよろしくお願い致します🙏

ゴーパーラ


何でもない者であるために

今年も残すところあと数日となりました。

この一年、「一つの物事に対して粘り強く取り組むこと」を実践してきました。
神に道具として使っていただけるようになるために、目の前のことに丁寧に向き合い、じっくり考え、行為することが必要だと感じて決めた抱負でした。

実践する中で幾つか気付きや変化がありました。
・じっくり考えて物事をやり切ることが苦手だったが、取り組むうちに苦ではなくなり、習慣になりつつある。
・一つのことを精一杯やり切るように努めることで、結果がどうなっても気にならなくなった。
・困難を感じる時は、目の前のことよりも自分のことを考えている。気付いたらその都度真実へと意識を向けるようにすると、困難は感じなくなった。
・粘り強くやる中で何度も失敗しては気持ちを切り替えるうちに、力まず凹まず淡々と行為するコツが掴めてきた。
・取り組むほどに、自分が何かをしているという感覚が少なくなっている。

抱負を実践することで、神に使って頂ける道具に近付けたかは、自分では分かりません。
ただ、こうして考え行為することも含めて、全てが神から与えられたものであるということを、一層強く感じるようになっています。

あらゆる命は神の顕れ。
常に神である誰かに支えられて、力をもらい、行為し続けることができている。
この事実に感謝しかありません。


1枚の葉が赤と緑のクリスマスカラーになっていました。
赤はイエスが流した血を表し、緑は永遠の命の象徴とされています。

”何でもない者
神は、ご自分の偉大さを、何でもない者を使うことで示されました。ですから、いつでも何でもない者でいましょう。何の相談もなくても、神に自由に使っていただきましょう。”

聖なる者となりなさい マザー・テレサの生き方 より

私も何でもない者でありたい。
いつどのような状況でも、神に使っていただけるようになるために、来年も弛まず行為し続けます。

ハルシャニー


ブッダの悟りと教え

12月8日はブッダが悟りを啓いた日です。
ブッダが最初に説いた教え「四諦(苦集滅道)」は次の通りです。

苦……世の中には誰も避けることのできない、生、病、老、死の四つの苦しみと、愛する人との別れ、憎しむ人との会合、求めるものが得られない、心自体が葛藤する苦しみがある。(四苦八苦)
集……これらの原因は欲望であり、その原因はエゴと無知である。
滅……これに対し、一切の苦悩を離れた真実の境地、ニルヴァーナがある。
道……そして、それに至る道が八正道である。

私はヨーガを始めてからブッダの教えを学び、四苦八苦についてまさにその通りだと思いました。それらの苦しみの原因が欲望であり、さらなる原因はエゴと無知であるということも理解ができました。ですがそれは知的な理解で、現実に思いがけないことが起こり苦しみを突きつけられると、心は動揺し冷静さを失ってしまうということがありました。その時の原因を探ると、自分自身も世の中も変化をしていくものなのに、そこに自分が望む形の永遠を見てしまっているという無知があることが分かりました。体も心も世の中も永遠ではないことを受け入れるよう努力してみましたが難しく、どうしたらいいか分からなくなりました。神を思っても気持ちが入らず、以前は心が震えた聖典を読んでも入ってこないような状態でした。
そんな時、『ヨーガの福音』でブッダの教えを読みました。

「ブッダの説く八つの道の最初は、苦しみとその原因とニルヴァーナ——真理——を正しく理解し、悟りを目指さなければならないというものです。その心構え(正見)をまず必要とします」

 師シュリー・マハーヨーギー

この教えを読んだ私は、永遠でないものを考えることによる無力さで放心して立ち止まっている状態だと認識し、永遠でないものを考えるのではなく、「永遠の存在を正しく理解すること」、それがすべきことだと分かり、意識を向ける先がはっきりして、ようやく心が解きほぐれて動き出すのを感じました。

2500年前にブッダが悟り、最初に説いた四諦は、昔も今も変わらず苦しむ者、道を歩む者に光を指し示してくださっています。永遠に人々を導いてくださっているブッダに感謝を捧げます。

松山の瞑想クラスの挿絵で描いたブッダ

サルヴァーニー

 


師シュリー・マハーヨーギーが語られた全記録から編纂したヨーガの決定版、全16章『マハーヨーギーの真理のことば』がついに発刊!!!

ヨーガの全てが網羅されたボリューム豊かな内容となっています。生き方や自分の理想を模索している人、困難な状況や苦悩に直面している人、確かなもの、本当の答えを探している人、瞑想やヨーガを学びたいという人、神を求めている人、真我の探求をしている人・・・一人でも多くの方に、師シュリー・マハーヨーギーが語られた真理の言葉が届きますように。

詳細やご購入はこちらから➡️『マハーヨーギーの真理のことば』


もうすぐジャヤンティー!

見上げれば天高い青空に真っ赤に染まった葉や眩しいほどの黄色い葉。真っ黒な土からは常緑の艶やかな緑が。朝降ったばかりの透明な雨の雫。外の世界を織り成す色彩が一斉にカラフルな光を放ち、秋の空気の中でしっとり調和し静けさを醸し出す特別なこの季節。自然の背後にある大いなる存在を感じてため息が出ます。

いろんな色の葉

いろんな色の葉

『ラーマクリシュナの福音』の中で、ラーマクリシュナがこんなことを仰っていました、
神はさまざまの形を持ち、さまざまのやり方でお遊びになる。
彼はイーシュワラ(人格神)として、デーヴァ(神)として、人として、そして宇宙としてお遊びになる。
あらゆる時代に、彼は人びとに愛と信仰とを教えるために、人の姿をとって化身として地上に下りていらっしゃる」。

これを読んで思うのは・・・やっぱり師のこと・・・。
もうすぐ!最愛の師が御聖誕された11月23日、サットグル・ジャヤンティーがやってきます!!!大切な師がこの世に御誕生された日です。
そしてその日、ついに師の教えの新しい書籍『マハーヨーギーの真理のことば』が出版されるということなのです。さらにまた、長く親しまれてきた書籍『ヨーガの福音』が台湾でも出版されるということ。一刻も早く読みたい!!という自分の思いは抑えつつ……冷静に考えると、師のお言葉が本になるということは、本物の真のヨーガの普遍的な教えが多くの方に届けられるということ。師と弟子の一対一の間で交わされた霊的な問答のその中身がその場にいなかった人々にも公開されるということ。私はこのホームページで紹介された本の目次を読んだ時、師は師の一切すべてを出し惜しみなく、これほどまでにここで出し尽くされるのか・・・と驚愕しました。こんなにも師は、この本という形をも通してご自身を捧げられたのだと呆然としました。人々への愛の本だと思いました。真剣に生きることと向き合っている人に必ず届いてほしいです。

私はある時、先輩から師であるヨギさんについて「ヨギさんは弟子を導くために存在されている」とはっきりと言われました。「弟子」とは、今、師に直接お会いできた者たちだけではないと私は思います。師は、ブッダの教えにある「私の肉身を見る者が弟子ではなく、私の教えを知る者が私の弟子である」と仰られているからです。
だからもし、今あなたがこのページを真摯に読まれているのなら、あなたも弟子なのだと思います。また未来に師の教えの書籍を読まれてヨーガの教えを生きようとする人も弟子なのだと思います。ヨーガという道を知り、真剣に自分のこの人生を歩もうとする者は、みんな同じ一つの根源から繋がる弟子だと私は思います。

真理はまず聞いて、考えて、そして瞑想して」と師は仰っています。まず聞く、それがなければ次の「考える」に進めないので、今すぐ師にお会いできない場合のためにも教えが記されている書籍、聖典が必要です。
聖典について、過去の『パラマハンサ』(会報誌)のある記事にこう書かれていました、「インドにおいて聖典とは、書かれた書物ではなく、口伝されてきた聖者の言葉、すなわち真実の悟りを啓いた人の言葉である」。
ということは・・・『マハーヨーギーの真理のことば』は聖典中の聖典。師の口から語られたその時その瞬間のお言葉が記録されてきて、それが脚色なくそのまま活字となった本だからです。真実の悟りを啓かれた聖者は、他者のためだけに言葉を発してくださっています。そんな言葉がこの地球上にあるのかなと思います。純度100パーセントの清らかなそんな言葉が。

『ラーマクリシュナの福音』の中でラーマクリシュナがこのようにも仰っていました。
イーシュワラ・コーティ(この世に特別の使命を持って生まれてくるすでに完成された魂)以外の者は、誰一人、サマーディに達したあとに相対意識の段階に戻って来ることはできない。普通の人々の若干は、霊性の修行によってサマーディに到達するが、彼らはそこから戻ってはこない。しかし神みずからが人として、一個の化身として、他者の解脱の鍵を握って生まれてこられる場合には、人類の福祉のために、その化身はサマーディからこの世の意識に戻って来るのだ

かのラーマクリシュナがこう仰っているということは、本当に他者のためだけにこの世にお生まれになり、肉体を保ち、留まってくださり、人々に愛と信仰を教えてくださる慈悲深き御方、神の化身がおられるということ。

・・・ジャヤンティーまで、あと三日。出席される方も出席されない方も、それぞれのところから最大の感謝を最愛の師にお捧げすることができますように!!!

*参考『ラーマクリシュナの福音』

一(ひとつ)の存在

一(ひとつ)の存在

 

野口美香 


カーリーをもっと近くに!

初めてカーリー・マーのお姿を目にしたとき、「これが神様なの?しかも母なの?」と心の隅で思ったように記憶しています。それほど強烈なヴィジュアルの持ち主ですが、彼女を慕うようになって数年経った今感じているのは、私にとって彼女は、大きくて穏やかで、慈しみと愛情に満ちた、まさに母そのものだということです。

『あるヨギの自叙伝』の中に、パラマハンサ・ヨーガーナンダとマスター・マハサヤとのエピソードが出てきます。その章ではマスター・マハサヤが聖母様と絶えず交流されている様子が描かれています。聖母様がカーリーであるとは書かれていないのですが、そこに記された宇宙の母についての一節がとても好きで、その描写を読むと私は、カーリーのことを思い浮かべずにはいられなくなります。そして彼女の底知れぬ愛を感じて、何とも言えない安心感とあたたかい気持ちに包まれます。

「天の母に子供のような心で近づいて行った歴代の信仰者たちは、彼女が常に自分と遊んでくれていることを証言している。マスター・マハサヤの生涯においても、聖母様が、事の大小に関係なく彼と戯れておられる情景がしばしば見られた。神の目には、大事も小事もないのである。もし神が、原子をあのように精巧に造られなかったならば、大空もあの壮大な天体の構成を誇ることはできなかったであろう。神は、この宇宙が一本のねじくぎの緩みのためにくずれ去るようなことのないように、どんなささいな事にも等しく心を注いでおられるのである。」

『あるヨギの自叙伝』P84より引用

私がどんな存在であるかは全く関係なく、彼女に無条件に愛されてここに存在しているということを知りました。カーリーが常にすべての存在に対して愛情を注いでおられるから、今のこの瞬間も宇宙が保たれています。どんな存在も、等しく彼女が世話をしている子供です。母親に見守られて無邪気に遊ぶ子供のように、カーリーが展開し、維持しているこの世界で私も、生まれてきた歓び・生きる歓びを存分に味わいたいと思っています。

そして、かつての聖者たちが彼女と交流してきたように、私も彼女と本当に話してみたいと思っています。それが叶った時には、何を話そう、どんなことを聞いてみよう、どんなお声で答えてくださるのかな?なんてことを想像してはワクワクしています。最も近しい母なのだから、実現できないはずがない!と思っています。

もっともっと彼女に親しんで近づきたいと思い、あるものを作りました。それは粘土で作ったマスコットです。かなりデフォルメしているし、お見せできるほどの出来栄えでもないのですが(と言いつつ堂々と写真を載せています…!)、私にとってはかわいいカーリーです。

デリケートな素材だったため、ニスを塗って持ち歩けるようにしました。

なぜマスコットなのかというと、幼いころの自分を思い出したからです。よく、お気に入りのキーホルダーや小さな人形を肌身離さず持ち歩き、それが本当に命のある友達のように思って、心の中で話しかけたり一緒に遊んだり、いろんな経験を共有したりしていました。その時と同じように、神様とも親しみを込めてふれあい、常に一緒にいることを忘れずにいたいなぁと思い、自作してみました。

これから、この小さなカーリーがいつもそばにいてくれると思うだけで、私の心は喜びでいっぱいになります。彼女とどんな時間を過ごせるのか、とても楽しみです!

大森みさと