聖者と教え」カテゴリーアーカイブ

ホーリー・マザー ナハヴァトでの日々

4月7日に行なわれた春の祝祭では、インドの聖女ホーリー・マザーことシュリー・サーラダー・デーヴィーに焦点を当てて、祝辞や映像、聖劇などを通じて色々な角度から彼女に迫っていきました。
その中のひとつで、ホーリー・マザーが生涯最良の時期だったとおっしゃった、ナハヴァトでの暮らしをご紹介しました。師であり夫であったシュリー・ラーマクリシュナの導きのもと、ナハヴァトで暮らした約10年間は、教えと喜びとユーモアが詰まったかけがえのない日々でした。祝祭では時間に限りがあったので厳選してご紹介しましたが、その内容に加えていくつかのエピソードをイラストと共にブログでもご紹介します。

ナハヴァト この建物の中央1階にマザーのお部屋がある

●シュリー・ラーマクリシュナはマザーの霊的修行を注意深く見守って、マザーが規則的に瞑想するように計らっておられました。朝3時、師はナハヴァトの扉のところまで行き、マザーと一緒に暮らしていた姪のラクシュミーに声をかけました。「起きるのだ。そして叔母さんを起こしておくれ、いつまで寝ているつもりだ。夜が明けるぞ。瞑想を始めなさい」
冬の間、マザーはラクシュミーをもう少し長く眠らせてやりたかったため返事をしませんでした。すると二人がまだ眠っていると思われた師は、時々扉の下に水を注いでからかわれました。マザーたちは寝床が濡れてしまわないように急いで起き上がらなければなりませんでした。こうしてラクシュミーは早起きの習慣を身につけました。


●ある朝、具合の悪かったマザーは3時に起きられませんでした。こうしたことが数日間続きました。これが心のトリックであることをすぐに理解したマザーは、いつもの時間通りに起きるよう自らに強いました。不動の意志と決意なくしては霊性の生活が成功できないことを、後にマザーは語られています。
●ナハヴァトと師のお部屋は20〜30メートルの距離でしたが、師の男性の弟子が増えてお側に仕えるようになってからは、マザーが給仕をしたりお側にいることが叶わないことがあり、時には2ヶ月もお会いできないこともありました。そういうときマザーはポーチの仕切りの小さな穴の後ろに何時間でもたたずんで師の歌声に耳を澄ませました。
そんなマザーの様子を知っておられたのでしょうか、法悦状態の中で、自室で信者たちと歌って踊られる時の師は、ナハヴァトに面している扉を開けっ放しにするようにと言われました。「この部屋は神への強烈な思いと愛に溢れているだろう。彼女がそれをみなければ、他にどうやって習えようか」


「師が歌われると、私はナハヴァトのすだれの陰にたたずんで、そのお声を何時間でも聞き続けたものでした。歌が終わると、合掌して師にお辞儀をしました。なんと喜びに満ちた日々を過ごしたものでしょう!昼も夜も引も切らず人々が押し寄せ、霊的なお話しは終わることがありませんでした」
●マザーはかなりの時間とエネルギーを料理に費やしました。中でも胃が弱かったため特別な食事が必要だった師に料理をして差し上げるという責任ある務めは、最も大きな喜びでした。師は皿に山盛りの料理を見ると消化不良を恐れて手をつけられないことがあったため、ご飯を小盛りにして押し固めたり、ミルクを煮詰めて少なく見えるようにしたり、師が栄養を摂れるように様々な工夫をされました。そのおかげもあって、師は健康を増進されました。
●師は、若い弟子たちの日々の習慣を厳しく見守っていて、怠惰になって翌日早朝の瞑想を怠ることのないよう、夜は食べ過ぎないようにと忠告しておられました。一方、彼らの食事を作っていたマザーは、彼らの健康に気を使い、充分に食べられるよう配慮しておられました。ある弟子が決められていたよりも2〜3枚余分にパンを食べていた時、師はその原因がマザーの母親らしい心配りにあることを知られました。師は、このようなことを今後は禁じると伝えましたが、マザーははっきりと言いました。


「パンを2〜3切れ多く食べただけで、なぜご心配なさるのです。私がここの子供たちの世話をしております。あの子たちを食べ物のことで責めて欲しくはありません」
師はこの言葉の背後にあるマザーの母としての感情を理解して、笑って済ませられたと言います。
●マザーは幼い頃から弟たちの世話をすること、貧しい者に食物を施すこと、そして後にはドッキネッショルで師の若い弟子たちの面倒を見ることなど、多くの方法で本質的に女性に見られる母性を体現されました。当時のヒンドゥー社会の背景もあり、マザーも時折子供を持つことを望まれました。ある日師はマザーの思いを読み取って言われました。


「なぜ思い悩むのだね。私が純金のように純粋な子供たちを残してあげよう。女たちが何百万回生まれ変わって祈りを捧げ、苦行を行なっても得難い子供たちを。世話を仕切れないほど大勢の者がお前を母と慕うだろう」
それでもマザーは「お母さん」という甘美な言葉を聞きたがりました。再び彼女の気持ちを読まれた師は、カルカッタから弟子たちが来ると、師の部屋に入る前にナハヴァトの前で立ち止まって、大声でこう言うようにといわれました。「お母さん、ただいま!」


マザーは瞑想や霊性の修行のために、日々の務めをおろそかにすることは決してありませんでした。そして仕事を口実に礼拝をなおざりにすることも決してありませんでした。
マザーのお部屋は3畳弱で窓もない場所でした。その様な窮屈な生活に耐えられる人はほとんどいませんでした。けれど、ガンガーや寺院の聖なる雰囲気、信者たちのための奉仕、師の世話をすること、そしてマザー自身の霊性の修行と体験が、マザーの心を肉体的苦痛に優るところに引き上げてくれました。ナハヴァトでのマザーの日々は、絶えざる活動と祈りの静寂に交互に満たされていたのです。
マザーのナハヴァトでの日々を思うと、心が聖なるもので満たされ、活力が湧いてきます。マザーを見習い、不動の決意と意思を持ち内面を充実させて、霊性の修行と日々の務め両方を果たしていけますように。

ジャイ シュリー・サーラダー・デーヴィー!
ジャイ シュリー・ラーマクリシュナ・パラマハンサ!

サルヴァーニー


春の祝祭のご案内

京都の街並みにも桜の花があちこちに咲き始めました。
青空の下、満開の桜を目にすると、心の奥に光が差し込んだように、まるで冬の寒さでギュッと凝り固まっていたものが溶かされたような、そんな晴れやかな気持ちになります。

さて、そんな春風の中、4月7日(日)には、「サナータナ・ダルマ アヴァターラ メーラー ーー神性示現大祭ーー」を開催いたします。

この大祭は、古来より連綿と続く永遠の真理であるサナータナ・ダルマと、その具現者であるアヴァターラ(神の化身)たちの顕現をお祝いし、最上の感謝と歓びを捧げさせていただく祝祭です。

今回は、「真の愛(プレーマ)と献身」をテーマとし、シュリー・ラーマクリシュナの伴侶であるシュリー・サーラダー・デーヴィーに焦点を当て、宇宙の聖なる母の権化である彼女の本質、その生涯に迫ります。

当日はシュリー・サーラダー・デーヴィーへの祝辞や、彼女が師のもとで暮らされた日々のご紹介、聖劇、その他と、濃密ながらも楽しいコンテンツもご用意していますので楽しみにしていてくださいね。

また今年は実に5年ぶりに実開催が可能となり、多くのグルバイが京都に集います。そしてオンラインでは遠方や海外のグルバイとも繋ぎ、共に歓びを分かち合える貴重な時間となることでしょう。

ジャイ・サナータナ・ダルマ ジャイ・アヴァターラ!

オーム・タット・サット オーム!

マハーヨーギー・ミッション 


ホーリー・マザーからの贈り物③

毎日ホーリー・マザーを思うことを始めてから、3ヶ月ほど経ちました。

聖典を読むことでそのお人柄に触れ、1つでも教えを実践するよう努めることで、ホーリー・マザーはたくさんの贈り物を与え続けてくださっています。

日常生活の中で、今しようとしている行為が教えの通りになっているかを確認するようになったこと。
仕事で重要な選択をしなければならない時に、ホーリー・マザーが見守ってくださっているという安心感から、穏やかな気持ちで判断できたこと。
そして、意識している時も意識していない時も、確かにホーリー・マザーは傍にいてくださっているのだと感じてからは、心にピタッとホーリー・マザーのお姿が張り付いたようになったこと。

そうした贈り物は、ホーリー・マザーに近づこうとする人みんなに等しく与えられているのだと思います。


部屋にあるホーリー・マザーのお写真

 

毎月1回開催されている東京の瞑想会では、この3ヶ月、ホーリー・マザーの教えに触れて印象に残ったことや、そこから感じたことを話し合っていました。
ホーリー・マザーにほとんど触れたことがなかった人も、少しずつ聖典を読むことで、親しみを感じるようになった様子が伺えました。

計り知れない内面的な強さを感じた。
人々がどのように信仰を持とうとしていたかを知ることができた。
遠い存在ではなく、私たちと同じ存在なのだと感じた。

様々な感想を聴く中で、特に印象残ったのは、Kさんのお話でした。
『ホーリー・マザーの生涯』を読み、家住者として信仰を求める者として、勇気をもらえた、と話してくれました。本の中に書かれている数々の利他的な行為から感じるものがあり、それは師の教えとも重なり、Kさんにとって大切な気付きへと繋がったそうです。
家族に対して、自分の思いやこだわりをなくして、家族が喜ぶことを行為したい。時にそれが難しいこともあるけれど、誰もの中に神がいると教えてくださっている、それこそが真実だと信じて。
そう話されるKさんの姿に胸を打たれました。きっと、Kさんもホーリー・マザーからの贈り物を受け取られたのだと思いました。


瞑想する前にみんなでホーリー・マザーを讃える歌を歌いました。

聖典から聖者の生き様や教えを学びつつ、こうして志を同じくする仲間と語り合うことで、1人では得られない気付きや学びがあります。

以前先輩グルバイから、神を想い、神に近づいていくほどに、神もこちらに近付いてきてくださるのだと聞きました。
今私たちがホーリー・マザーに少しずつでも近づこうとすることで、ホーリー・マザーはもっともっと私たちへと歩み寄ってくださっている。そのことを瞑想会でのみんなの話を聞いて確信しています。

ハルシャニー  


『Paramahamsa』表紙絵シリーズ ⑧

今回は、『Paramahamsa』No.80の表紙絵とこの絵を描いた時の時のことを紹介させていただきます。

2010年初夏、私たちはヨーガ・ヴィハーラに毎週集い、キールタンを歌っていました。一つの歌を何度も繰り返し、その歌の本質に迫っていくのです。

そして「ジャイ・マー」を歌う時、私はいつもシュリー・ラーマクリシュナが愛した「カーリー・マー(女神)」に思いを捧げていました。繰り返し歌い、心の奥におられるカーリーに近づくほどに感じるのは、ヨギさんと同じ眼差しをもつ慈悲深き御方ということでした。その瞳はまさに愛そのもの。カーリーは姿こそ違うけれど、私にとってはヨギさんでした。

通常カーリーはドクロの首飾りを付けて生首を持ち、腰には人の手を切り取ったものを巻いている姿で表されることが多く、血を飲み込んだ真っ赤な口から舌をぺろりと出しています。彼女はなぜ舌を出しているのでしょうか。
おびただしい血が流される殺戮、私たちにとっては恐怖そのものですが、その苦しみを感じているのは、私たちの心にすぎません。それは煩悩や無知の象徴なのかもしれません。でもカーリーはそんなことは全くおかまいなし。 彼女にとってはあらゆることが遊びなのだと感じたのです。
そう感じてから、私の中のカーリーはとてもおちゃめな存在に変わっていきました。
シャクティのメンバーがマーだけに気持ちを集中して献歌できた時、カーリーはいとも楽しげに笑い、踊りだすのでした。

シャチー


聖典を通して聖者に近づく

私は本を読むのが得意ではありません。ほとんどの場合、文字を追うだけですぐに眠たくなってしまいます。それだから、聖典を読むことにも苦労していました。聖典の学習は通常の読書とは異なり、聖者の息吹を感じるように読むと教わっていましたが、長年の苦手意識の根は深く、本を開くことすらハードルが高かったのです。

しかし、私には心惹かれる聖者がいました。ホーリー・マザーことサーラダー・デーヴィーです。マザーのことを知りたい、近づきたい! そのためには聖典が大きな助けになります。そこで私は、聖典を声に出して読むことにしました。マザーに関する聖典を音読、録音し、それを聞きます。音読は在宅時に限らず、出勤前の車内(職場近くの海岸に停車させて)など、隙間時間を見つけては行ないました。そして、録音できたものは移動や家事の時間に繰り返し聞く、ということを続けました。

音読するときには、聖典に触れ、真理の言葉を目で見て口に出し、それが耳に届きます。五感のうちの四つが聖なるもので満たされます。眠い朝でも、音読をすると心なしか頭や体がスッキリし、軽やかな気持ちで出勤できました。そして何度も録音を聞くうちに、まるで自分がマザーと同じ空間にいるように感じ始めました。
常にマザーが直接語りかけてくれているようで、気が付くとその教えはもちろん、在り方そのものが浸透していくのを感じていました。そして音読に慣れてきた頃には、彼女の言葉をなりきって読んでいる自分がいたのです。慈しみ深い彼女が相手を想う気持ちを言葉に乗せて読み、その後に出勤すると、せわしない仕事中もその話し方の余韻が残って穏やかに話せたことがしばしばありました。

もうひとつ日常生活での変化があります。家の掃除をする時に録音を聞くようになってから掃除が各段に楽になったのです。それまでは、「今日は掃除の日か。しんどいなぁ」と思ったり、すぐに取り掛かれなかったりしていましたし、掃除の時間がやたらと長く感じてぐったりと疲れていました。ところが、聖典と一緒に掃除をするようになってからあっという間に終わるではありませんか! しかも、ずっと心と体が軽やかなんです。何度もそれを経験するうちに、掃除に対する重たい気持ちが無くなり、むしろ「今日は家をきれいにできる日だ」とさえ感じるようになっていきました。聖典を聞きながらすることで真理が心に沁みわたり、余計な思いを浄化してもらったように思っています。

このような日常でのちょっとした変化はもちろん、想像の及ばないところできっと、聖典の恩寵を受け取っているんだろうなと思います。これからもこの実践を続け、マザーのハートと私のハートがひとつになるまで、心や感覚を聖なるもので満たしていきます。もし私と同じように本を読むのが苦手だったり、聖典の学習の実践が難しいと感じたりしている人がいたら、この機会に一度試してみませんか?

大森みさと


ホーリー・マザーからの贈り物②

今回このブログのタイトルを「ホーリー・マザーからの贈り物」にしたのは、実際にそのお姿を拝見することやお声を聴くことはできなくても、時間も空間も超えて、今を生きる私に幾つもの贈り物をくださっているように感じたからです。 

 まず、ホーリー・マザーの存在を知ることが聖者の生き様に触れるきっかけとなったこと。
また、ヨーガを学び始めて間もない私にも分かりやすい言葉で真理の教えを語られていること。
 
そして前回のブログで書いた、毎日アーサナや瞑想をする習慣を身に付けられるようになったことも、ホーリー・マザーが与えてくださった贈り物の一つです。 

 
ホーリー・マザーの教えはシンプルなものが多いと思います。私にとって親しみやすく、これならできるかもと実践のきっかけになることが何度もありますが、シンプルな教えだから実践しやすいというわけではないことを痛感したのが、この教えです。 

 「心がすべてです。浄らかに感じるのも、不浄に感じるのも心一つです。心が罪悪感にさいなまれると、他人の欠点を見るようになるのです。欠点を数え上げることで、相手を傷つけられますか?自分を傷つけているだけなのですよ。私には誰の欠点も見ることもできません。小さな親切も覚えておくようにします。人の欠点を見るなんて!許しは素晴らしい信仰の苦行なのです。忍耐よりも高い徳はありません」 

他人の欠点を見ないことを徹底しようとすると、自分の心がどのような状態にあるのか、観察するのが習慣になりました。ところが実践を続けるほどに、この教えを徹底するのは毎日アーサナや瞑想を続けることよりもずっと難しいと気づきました。 

 ホーリー・マザーは純粋で真理を体現された存在だったから、誰の欠点も見ることができなかったのだと思います。 
真実の側から見れば、全ての人は顕れが異なるだけで等しく純粋そのものの存在です。 

ホーリー・マザーの境地にほんの少しでも近付いていけるように、欠点を見ていると気付いたらホーリー・マザーのお顔を思い浮かべるようにしました。 
繰り返しホーリー・マザーの穏やかな表情を思うようにしていると、例えうまくいかなくても心が穏やかさを取り戻すのが早くなったように感じました。また、この教えの中にある、人の欠点を数え上げることは自分を傷つけているだけ、ということが、本当にそうだとはっきり分かるようになりました。相手の欠点を見ることで心はもっと乱されて苦しくなる。心に振り回されると、もうすでに自分の中にある真理から遠ざかってしまいます。 
反対に、この教えの通り、相手がしてくれた小さな親切を覚えておくようにしたり、何か嫌なことをされたとしてもそれを許し過去のこととして囚われないようにしたりすると、心は平安に保たれて、すでに私たちの中にある真理、真実の存在そのものを、ほんのひとときでも実感できるようになります。 
これは日常におけるヨーガの実践の上でとても大切なことではないかと思います。 

私は現在進行形でこの教えを実践中ですが、取り組むほどに何より私自身の心が穏やかになり、幸せを感じるようになっています。 

ホーリー・マザーがすぐそばで力を与えてくださっていると信じています。

 

ハルシャニー  


ホーリー・マザーからの贈り物①

私が初めて真剣に読んだ聖典は、『ホーリー・マザーの生涯』です。

ヨーガをもっと学んでいくには、聖者について書かれた本を読むのもいいと聞き、幾つか本を手にしたものの、そこまで関心を持てずにいました。
他のグルバイのような熱心さが私には持てないのかもしれない…少し焦るような気持ちになっていた頃、出会った本でした。
本を開くとすぐにホーリー・マザーのお写真があるのですが、初めてそのお顔を見た時、なんて穏やかな表情なのだろうと思いました。見ているだけで心が静まるようでした。きっと優しい方だったんだろうな。それが第一印象でした。
この本にはホーリー・マザーの生涯においてのさまざまなエピソードが書かれていますが、理不尽と思われる目にあっても、苦境に立たされても、時に包み込むような優しさを持って、時に毅然として、立ち向かわれる姿がそこにありました。そのことに圧倒されつつも、ホーリー・マザーがどんな人生を送られたのかをもっと知りたくなって、本を読み進めました。

しばらくして、師に質問しました。
「ラーマクリシュナよりもホーリー・マザーに親しみを感じているけれど、それで大丈夫でしょうか?」
師はにっこり微笑まれて仰いました。
「ラーマクリシュナは神であることを隠せなかった。サーラダー・デーヴィー(ホーリー・マザー)はそれを隠していた。だから、もっと親しんでいったらいいよ」

それからは本を読むごとにホーリー・マザーが身近になり、その人柄に惹きつけられるようになっていきました。

当時、特に印象に残った教えがあります。

”もちろん義務は果たさなくてはなりませんよ。そうすることで心を良い状態に保てるのです。でもジャパと瞑想と祈りも必要です、少なくとも朝晩には実践せねばなりません。これは船のような働きをします。夜に祈りの座に着くと、今日一日の行いの善悪を振り返ることができます。それから今日と昨日の心の状態を比べてみるのです。…仕事をするだけで朝晩の瞑想をしないのなら、自分のしていることが正しいのか、間違っているのかどうしてわかりましょうか?”

毎日アーサナや瞑想をすることを困難に感じている私にとって、グサっと刺さる言葉でした。
今の自分にはできない気がする。でも継続して行うことが本当に大切なのだということはよく分かった。どんなに短くてもいい。アーサナ、瞑想を毎日やってみよう!
そう決意するきっかけの一つとなりました。

 

ハルシャニー  

 


ホーリー・マザー ヴリンダーヴァン巡礼

1853年12月22日は、シュリー・ラーマクリシュナの聖なる妻であるシュリー・サーラダー・デーヴィーの御聖誕日です。信者からは愛情と尊敬を込めてホーリー・マザーと呼ばれています。
ラーマクリシュナがお亡くなりになった時、マザーの悲しみは耐えきれないものでした。あのようにすばらしい方が逝ってしまわれて、どうして私が生きていなければならないのでしょう、と思っておられたそうです。
そんなマザーに内的平安を見出すようにと、在家の信者のバララーム・ボースは巡礼の旅に送り出そうと計画されました。そして師の死後二週間の後、マザーは数人の弟子とともに、師の生涯にゆかりの深い聖地ヴリンダーヴァンに向かわれました。
ヴリンダーヴァンに到着した当時は、師を思ってしょっちゅう泣いていましたが、「どうしてそんなに泣くのだね。私はここにいるではないか。どこに行ってしまったと言うのだね。ある部屋からもう一つの部屋に移るだけのことではないのかね。」と、繰り返し師のヴィジョンが現れ、マザーの悲嘆を幾分癒してくれました。
ヴリンダーヴァンは、師がクリシュナの生涯のさまざまな出来事を思い起こして、多くのヴィジョンを体験された聖地です。マザーもこの聖地で霊的恍惚のうちに日々を過ごされました。ある日マザーは深いサマーディに浸っていらっしゃいました。クリシュナとの別れに耐えかねたゴーピーたちが彼への思いに深く没頭し、しばらくは自分の個なる部分を忘れ一人一人があたかもクリシュナであるかのようにふるまったように、マザーもご自分が分離した存在であるのを忘れて師との一体感を感じ、師にそっくりな様子で振る舞われたそうです。また別の折、マザーは超意識の状態で二日近く過ごされました。この経験以降、常に至福に浸り続けているかのように見え、すべての悲しみと嘆き、師との別離から来る喪失感が消え去ったのでした。
ヴリンダーヴァンには一年間滞在し、時計のように規則正しく瞑想を実践されて、多くのヴィジョンとサマーディを経験されたそうです。
ヴリンダーヴァンから戻られた後33年間肉体に留まられました。公に知られることのない隠遁生活を送っておられましたが、徐々に人々がマザーの存在に気付き、後期には信者たちがマザーの祝福を求めて押しかけました。マザーは皆に心からの恩寵を与え導かれました。

ヴリンダーヴァンで過ごされたマザーの姿はラーダーやゴーピーと重なり、ミニアチュールの美しい世界の中にマザーがいらっしゃる姿が思い浮かびました。そのイメージを絵に描いてみました。

サルヴァーニー


『マハーヨーギーの真理のことば』第十六章「聖なる存在」

書籍発刊から1年が経ちました。章ごとにレビューを綴ってきたこのシリーズも、ついに最終章となります。
この本の編集に携わらせていただき、実は10年ほどかけて何度も内容に目を通してきたのですが、改めてこの章を開いた時、以前に感じていた以上の大きなものが訴えかけてくるように感じ、正直圧倒されました。

第十六章には、自ら具現された普遍なる真理を、人々に、この世界に分け与えてきたヨーギーや覚者、グルという存在の生き様がありありと語られています。偉大な存在の生涯や使命は、インスピレーションの源であり、それらに触れると強大な熱量のエネルギーが流れ込んでくるように感じます。
中でも多くの内容が編纂されているのがブッダについてです。
私たちの師は十代の頃、瞑想によってブッダの悟りと、ブッダその人そのものに肉薄されたといいます(→瞑想の章でも触れられています)。師の口からこぼれ出たブッダの心境や境地というものは、ただ史実として残されているという範疇を遥かに超えており、それはまるでブッダが語られているかのようでもあり、また、まさに師はそのようであったと、師のあり方そのものであると思えるのです。

ブッダは最後に、私は全てを教えた、これからは自らを拠り所として努め励めと弟子たちを導かれた。また一方で、「この世界は美しい」という言葉も残されたとされています。完全なる自由の境地に留まられていたブッダは、この限りある世界において何を見て、何を思われたのか。師はブッダの心境について次のように語られています。

近いところではシュリー・ラーマクリシュナの例がそうであったように、ブッダの生涯も、ただ人を救うためだけに充てがわれました。人の苦しみを気付かせ、そうして正見という正しい道に導くためには、苦しむ人と同じ立場で手を引かなければなりません。そうして四十五年間ひと時も休むことなく、ブッダは人、そして生きとし生けるもの全てを救い続けてきた。

ブッダとて肉体を持つ身、いつかはこの地上から離れなければならない。肉体の衣を脱ぐにはそれなりの理由が必要です。永遠の存在であったブッダもまた、その肉体は限界を持っています。彼はこの世を去るということを悟った時、もはや最後の教えは自らの死、そのものだったと思われます。それは生前教え続けてきた、人は誰もが死ぬということを改めて教えることです。しかし死ぬのは肉体だけであって、その存在が死ぬわけではありません。この崇高な不二一元の教え、これが最後に彼の口から漏れた「この世は美しい」ということになると思います。もはや苦悩も絶望も、希望も願望も何もない。たとえ時間がこの肉体を朽ち果てさせたとしても何も問題はない。だからこそ、その瞬間において彼はそう呟いたに違いない。それは生きとし生けるもの全てに与えられた、もたらされた祝福でした。

『マハーヨーギーの真理のことば』第十六章

不二一元――アドヴァイタ。ただ、一つのもの、真実のみが在る――。
人々の真の救い、理想となる永遠の真理を、ブッダは最後の最後まで、そのお体から離れることをもっても示された。
二千五百年という時を超えて、師が伝えてくださったかけがえのないメッセージであると、新たな気持ちで受け止めました。

アーシュラマ

第十六章の章扉前の写真(マハーヨーギー・アーシュラマ)

マードゥリー 


師がお生まれになった日のこと

真っ暗だった世界に、黄金色の眩い光が差し、草木に滴る朝露の雫は玉虫色に輝き、鳥たちは歌い、花々は咲き、虫や動物たちは活動し、人々が目を覚ます。

11月頃から12月にかけてのこの時期、朝の光は格別な光を放っています。大地に日が昇るその数分間だけ、強烈な輝きに世界が包まれます。それはそれは神々しく、きっとみんなが待ち望んでいた主の誕生された日はこういう朝だったに違いない、とこの時期になるといつも思います。

太陽の昇る角度や気温やいろんなことが関係しているのだとは思いますが、この期間だけの特別な朝の色。光がとても柔らかく優しい感じなのです。
夏には少ししんどそうだった植物たちも息がしやすそうで、ピンとしてハリがあり「見て見て~」と言わんばかり(笑)。新しい芽を出したり、命の誕生を感じたりするこの季節がとても好きです。
命が生まれる時、全世界が祝福に満ち、虫も動物も花も草木も石も壁も空気さえもが、歓びに満ち満ちる、奇跡の瞬間とはこういうことなのだろうなと感じます。

オレンジ色のもみじ

オレンジ色のもみじ

私たちの師がお生まれになった75年前の11月23日は、きっとそんな朝だったんだろうなと今年も思いを馳せていました。日に日に、すべての存在がその日に向けて準備をするかのように、次第に美しい彩りへと変化する様子には感動し、赤く染まっていく葉っぱは主への愛ゆえに頬を赤らめているかのような、そんな気さえしてしまいます。

紅葉が美しいこの季節は、世間的にも観光や旅行やさまざまなイベントやお祭りなどが行なわれ、皆が活発に動き回っている雰囲気があります。街中がお祭り騒ぎのような最中に、私たちは師の御聖誕祭のために心を一つにして、師への感謝をお捧げできるようにと毎年準備を進めてきました。その準備自体もまた嬉しく、お祭り前夜がずっと続いているかのようで、世間の他のことが全く眼中に入らない状態に自然となっていました。世間が賑やかになればなるほど、逆に妙なる集中と静けさを感じたり・・・。

御聖誕祭の当日の様子は、一つ前のブログ記事で紹介されています通り、本当に祝福に満ちた掛けがえのない一日でした。師への尽きせぬ感謝は、何も変わりませんでした。むしろ大きくなるばかり。感謝の思いを形にしたような手作り感あふれる素朴な祝祭で、純粋で清らかなものを私は感じました。

そして特に印象的だったことは、結びの祝辞でマードゥリーさんが代表して述べられた言葉、「前に進む」でした。そこにみんなのすべてが象徴されているようでした。その日のみんなの姿そのものに感じました。いろんなことが起こる中で、時に、足を止めたくなることもあります。でも、それでも前へ進め~!と師から激励されているように感じ、それは『ラーマクリシュナの福音』の中のある場面とも重なりました。

ある日、ラーマクリシュナが信者から祭礼に招かれます。その帰り道、ラーマクリシュナと直弟子たちは、街中がお祭り騒ぎの雑踏でごった返している中を馬車に乗って帰られます。

 

*  *  *

・・・人々はアリのように行列をつくって動いていた。
群衆は道の両側の華やかに飾られた店や露店を眺めていた。
菓子の店や香水の露店があった。
美しい絵や、けばけばしい絵が壁にかかっていた。
よい着物を着た店の主人たちが来訪者にバラ香水をふりかけていた。
馬車が一軒の香水の露店の前に止まった。
師は絵や灯を見つめて子供のようにお喜びになった。人々は大声で話していた。
彼は叫ばれた、「前へ進め!とまるな!」彼はお笑いになった。
大声で笑いながらバーブラームにおっしゃった。「とまるな!お前たちは何をしているのだ」信者たちも笑った。
彼らは師が自分たちに、神に向かって進みつづけよ、現状に満足してはならないぞ、と言っておられるのだと理解した。

 

※引用・参考『ラーマクリシュナの福音』

*  *  *

秋晴れの優しい光に包まれた師の御聖誕祭の日、とにかく一歩前に進もう、小さな一歩を止めずにがんばろうと思いました。

紅葉の道

ナリニー