聖者と教え」カテゴリーアーカイブ

瞑想会 @嵐山 シャーンティ庵

昨日、京都でも緊急事態宣言が発令されました。
年始から全国的にコロナの感染者数が増加していますが、皆さま、お元気でお過ごしでしょうか?

不安な日々が続いていますが、先日の1月10日、私の自宅である嵐山のシャーンティ庵で小さな瞑想会を行ないました。
参加されたのは、私が勤めている福祉事業所のヨーガクラスに通っているスタッフ2名の方でした。
1人の方は70代の女性で、もう1人の方は昨年に埼玉から移住してこられた50代の男性です。
お2人とも瞑想の経験は私よりも長く、長時間座ることには慣れており、その集中感に引っ張られてか、あっという間に感じた1時間の瞑想でした。

瞑想後に70代の女性は、「途中から目を開けて、(本棚にあったラマナ・マハリシの)書籍の帯に書いてある『私は誰か?』という言葉に瞑想していました」と話されました。
すると50代の男性が、「実は私は小さい頃、寝る前に『自分という存在は一体何なのか?』ということをずっと考えていました。それを考えると、宇宙を感じる時や自分がなくなっていく感覚があり、これが私の瞑想の原点なのです」とお話されました。
私自身、「この人生、どう生きていきたいのか?」とは大人になるにつれて考えていましたが、その人生の主体である「私とは誰か?」ということを真剣に考えるようになったのはここ数年のことなので、この男性の話を聞いて驚きました。
この時に話題にあがった「私は誰か?」という帯が付いていた聖典『沈黙の聖者』の中で、ラマナ・マハリシは次のことを説いています。

「私たちは自分の内部にある長年のサンスカーラ(潜在残存印象)のすべてを完全に投げ出さねばならない。それらがすべて放棄されたとき、真我(本当の自分)がひとりでに輝くだろう。しかし、あなたは努力なしにはその状態に達することはできない。それは意図的な瞑想への努力なのだ」
「真我である、注意深く観察されたスムリティ(記憶)以外には、どんな想念をも微塵だに生じさせないほど真我の中にしっかりと留まる、よく鍛えられた内在性こそが、至高の主への自己放棄を形成する」

ーーー『沈黙の聖者』ラマナ・マハリシーー

瞑想後の少しの会話でしたが、瞑想者同士、静かに深い話ができ、私自身も「私は誰か?」という問いを常にもって「本当の自分を実現したい」と改めて強く感じた、たいへん有意義な瞑想会でした。

そして一昨日の1月12日は、私が尊敬してやまないスワーミー・ヴィヴェーカーナンダのご聖誕日でした。
最後にヴィヴェーカーナンダが瞑想について述べた言葉を紹介したいと思います。

「瞑想は重要だ。瞑想せよ! 瞑想は偉大だ。それは霊的生活への近道だ。それはわれわれの日常生活における全く物質的ではないーー魂がそれ自身を思うーーしばしの時間だ。あらゆる事物から自由なーー魂のこのすばらしい感触」

ーーー『真実の愛と勇気』スワーミー・ヴィヴェーカーナンダーーー

緊急事態宣言が出されて瞑想会は当分できませんが、また状況が改善されたら皆様にもお声がけして、一緒に瞑想をしていきたいです。
1日も早いコロナの収束を願い、感染予防に努め、今はひとり瞑想に励み、「魂がそれ自身を思うすばらしい感触」を増やしていきたいと思います。
今冬は寒さも厳しいので、皆さま、どうぞお体には気を付けてお過ごしください。

ゴーパーラ


三宝(仏法僧)という避難所

2020年も残すところ、3日となりましたね。
皆さま、年の瀬をいかがお過ごしでしょうか?

今年は世界的に新型コロナウィルスの感染拡大に見舞われ、世の中の状況が一変しました。
誰もこの事態を予測していなかったほど人々の暮らしや行動に変化をもたらし、動揺や不安の大きかった1年だったと思います。
私たちマハーヨーギー・ミッションの会員も師と会えない、サットサンガ(真理の集い)が開催できない辛くて苦しい状況が続いています。
ただこの苦境においても、自分自身ブレることなく淡々とヨーガを実践できたのは、ひとえに師シュリー・マハーヨーギーの存在と恩寵があってこそで、また師の真理の教えに対する絶対の信頼が自らの内にあり、そしてその教えを共に実践するグルバイ(仲間)たちがいたからです。

「自らを拠り所とし、法(真理の教え)を拠り所とせよ」

2500年前にブッダが説かれたこの「拠り所」は、「避難所」と訳されることもあります。
ブッダの説かれた「諸行無常」を実感する変化の年でもありましたが、それ以上に「仏・法・僧」という三つの宝ーー「覚者・真理の教え・修行者の仲間」ーーこれが世界の「宝」であり、また確実で安心できる「真の避難所」であることを改めて深く実感する1年でした。
この場を借りて師とグルバイの皆さまに感謝を申し上げます、まことにありがとうございます。

12/26(土) 今年最後の瞑想専科のクラス。

ここ数年、私はこのブログ内で1年の締め括りの記事を書かせていたただいていますが、今年はいつもの慌ただしい年末とは異なり、時間の流れがゆっくりしていると感じます。
でもこのゆっくりな感じは、今年で終わらせたい。
時間は心がつくり出している観念であるのですから、こんなのではだめだと感じてきています。
コロナ禍で制限はありますが、でもそんな中でも自らが今できることは何かを考え、そしてそれのためにこの与えられた心身、時間、場所、「全て」を総動員していきたいと思っています。
今年流行した『鬼滅の刃』の主人公がよく言うセリフ「全集中!」でもって、来年はヨーガの実践に臨みたい所存であります。

最後になりましたがこの1年、ブログ「ヨーガを生きる」をお読みいただいた皆さま、まことにありがとうございました。
来年はブログの記事数と内容、両方をさらに豊富にしていきたいと考えていますので、お付き合いいただけると幸いです。
では皆さま、よいお年をお迎えください。

ゴーパーラ


おのれこそ おのれのよるべ

コロナ禍は収束の気配を見せず流行の第三波とも言われる状況になっています。不都合を感じながらも、いわゆる「新しい生活スタイル」に沿って人との距離を出来るだけ取る生活に慣れ始めている自分がいます。しかし昨年の暮れ、来る東京オリンピック・パラリンピックに心躍らせながら社会生活を謳歌していた頃、このような時代が来ると誰が想像していたでしょうか。

部屋から見えた朝焼け。炎と輝き大空を羽ばたく神鳥ガルダのようでした。

微塵も考えなかったことは人生の様々な場面である日突然起こります。一瞬の気の緩み、コンマ数秒のタイミング、そして神の計らいやカルマとしか考えられないことなど、まるで大きな変化の歯車が冷徹に表情ひとつ変えずに廻っていく感じがします。さらに事故や大災害などによって、人生が激変した方々に思いを馳せると表す言葉さえ見つかりません。

名前あるもの。形あるもの。始めと終わりがあるもの。この世の粗大なものも微細なものもすべて変化し、思い通りにならない。私たちは20世紀初頭のスペイン風邪流行を、歴史上の出来事として知っていましたが、思いもしなかったコロナ禍は、くしくも聖典で学んだ知識を私たちに実体験させることになりました。想像もつかない出来事は人間の計らいなどお構いなしに起きる。なぜならこの世はマーヤー(神の幻影)だから。コロナで痛感させられたことです。

それでも私たちは変化に驚き、慄き、悲しんでばかりいるわけにはいきません。それは変化する対象物に依存しているのだと、ブッダは教えてくださいました。「おのれこそ おのれのよるべ おのれを措(お)きて誰によるべぞ。(法句経160)」ブッダは人間の一生における依存の対象の移り変わりを挙げながら、真に頼るべき対象について教えています。赤ん坊は一心に母親を目で追い、小学生になると先生の言葉に目を輝かせます。青年になれば恋人を昼夜想い、社会に出ると地位や財産、中年以降は健康や美への執着も加わるかもしれません。でもそれらは時が来れば消えてしまい何ひとつ残りません。

続けてブッダはこの経で、よるべとなるのは「よくととのえし おのれ」であると教えています。私が読んだ訳本では「自己の中に一切の『他』を見出した偉大な自己」と解説していました。私なりの理解では、それは「アートマン」(真の自己)であり、「真理」であり、「私の中にある神」ではないかと思います。名前も形も始まりも終わりもないアートマン。それは自分を取り巻く世界に遍満しています。自分はアートマンと悟ること。それこそが受け入れ難い変化を受け止めていく究極の方法なのだと思います。

私は執着を捨てるために、本当の自分への瞑想を進めています。瞑想は少しずつ深まっていると感じますが、同時に自分の執着の根深さを垣間見て、恐ろしささえ感じ無力感に苛まれることもしばしばあります。「わかっちゃいるけどやめられない。」昭和の頃の歌謡曲で聞いたことがある様な文句ですが、飛び跳ねる猿のように狡猾な心の正体を知ったからには、絶対に負けられないと日々気持ちを奮い立たせています。

前述の経はブッダが入滅を目前にして、嘆き悲しむ弟子の阿難に語った言葉だそうです。「お前は自分自身に燈火を抱いて、自分の足もとを照らし、ゆく手を照らし輝かせ」と力強く教えられたそうです。ブッダはこの時こうも語ったそうです。「私の肉身を見る者が私の弟子ではなく、私の教えを知る者が私の弟子である。(ヨーガの福音)
今、コロナ禍のために師であるヨギさんにお会いできないという試練に直面しています。私がそれを悲しみ嘆いてばかりいたら、それは私がヨギさんに依存しているのであり、師の教えとは相容れないことなのだと思います。師に依存するのではなく「私は師とひとつである」という揺るぎない事実。その教えを燈火として、ただひとり歩んでいきたい。師はコロナ禍を通して私にその経験をさせて下さっているのだと思います。

最後に一言。でもやっぱり早くヨギさんにお会いしたいです。

昨年の暮れに訪れた足摺岬。自らの足下と行方を照らす灯台の如くありたいです。

小菅 貴仁


育児を通してヨーガに向き合う

私が初めて「本当の幸せ」について、とことん突き詰めて真剣に考えたのは長女が生まれた時でした。
「自分の命と引き換えにしても、この子に絶対に幸せになってほしい!」という思いが心の底から湧いてきました。これほどまでに、自分以外の人の幸せを願ったことは一度もありませんでした。が、私が死んだらこの子を幸せにできないということにすぐに気が付き(笑)、この子のためにも元気に生きていかなければ!と思い直しました。この時私に、わが子を通して、自分の命と人生が自分のためだけにあるのではなく、他者のためにもあるという自覚が芽生えました。子どもが生まれたことで突然生じた大きな心境の変化に、自分自身が驚きました。

初めての育児は毎日戸惑うことばかりでした。何度も自分が泣きたくなりましたが(実際、泣きました。笑)、一生懸命おっぱいを飲んで、か弱い声で泣くことしか出来ない小さなわが子を見ていると、この子にはどんなことがあっても幸せになって欲しい!という思いがふつふつと湧いてきます。
私は娘を幸せにするための具体的な方法を考え始めました。「とにかく、愛情いっぱいに育てよう。それが一番大切だわ」そして、育児書や子育てに関する本も参考にしながら、わが子が幸せになるために私に出来得るあらゆることを探しました。
絶対幸せになるための方法…絶対の幸せ…。「ちょっと待てよ…」ふと疑問がわきました。「何が絶対の幸せなんだろう?何があっても壊れない幸せ、本当の幸せってなんだろう?」
目指す目的地が曖昧では、そこに向かう方法も定まらない。まずは目的地を明確にする方が先決だ!と思った私は、今度は目的地である「本当の幸せ」について必死で考えました。
お金持ちになること、ずっと健康でいられること、皆から愛されること、世間から認められること、平凡で穏やかに暮らせること、好きな仕事に就けること、夢が叶えられること、自由気ままに生きられること、それから…。
考えても考えても簡単に答えは見つかりませんでした。私が思いつく「幸せ」には、わが子が絶対に幸せになれるという確信が持てなかったのです。少しでも不安材料があれば本当の幸せにはなれないのですから。
─結局、納得できる答えは見つけられませんでした。とはいっても、子どもの成長はちょっと待って、というわけにはいきません。私が取りあえず目的地としたのは“自己実現ができること”でした。

子育て中には親としていろいろなことを子どもに教えなければなりません。子どもは時折、哲学的な質問を投げかけてきます。「私は生まれる前はどこにいたの?」「私はどうして私なの?」「人は死んだらどうなるの?」
子どもが成長していく中で、他者に対する本当の優しさや、善悪の判断等について、ただ常識だからとか、単なる処世術のような表面的なことではなく、もっとその奥にある本質的なことを教えたいと思った私は、結局、自分自身が何度も物事を根本から考え直すことになりました。私は子育てを通して、この世界の在り様に対する疑問に本気で向き合うことになったのです。物事の根本、この世界の在り様を問うということは、今思えば真理を求めることとまったく同じことだったのです。
そして、私は師に出会い、ヨーガの中に「本当の幸せ」もこの世界に対する疑問の答えも、すべて見つけることができました。

ヨーガとは本当の自分を実現させること。
私たちの本性、真の自己とは不滅で永遠の存在であり、至福そのものである。普遍の真理には名前もなく、言葉では言い表すことが出来ない、神と呼ばれるものと同じである。それが誰もの本質であり、本当の自分であると─。
「本当の幸せ」とは、何かによって得られるものではなく、もうすでに誰もの中にあって、私たち自身が至福そのものであり、ただそれを実現することだったのです。
考えに考えて、私が取りあえず目的地にした“自己実現ができること”は、ヨーガでの意味としては間違っていなかった!?

クリシュナ神話の一場面、幼子クリシュナと養母ヤショーダ。クリシュナは神としての偉大な面を隠し、母親がわが子を愛するように神を愛することを教えました。

私は二人の娘の子育て真っ最中に師と出会い、師の下でヨーガの道を歩むことを決心しました。時間に追われる日々の中で、もっと早く師に出会えていれば…と思った事もありましたが、今振り返ると、私にとって家族を持つことや子育てはとても大切なことであり、ヨーガに向かうために必要なことだったのだなぁと感じています。
今もヨーガの学びは続づいていますが、今はわが子だけでなく、誰もが絶対に壊れない本当の幸せ=本当の自分が実現できることを心から願っています!

シャルミニー


『あるヨギの自叙伝』を読んで(6)ーーラマナ・マハリシーー

約2年ぶりの「『あるヨギの自叙伝』を読んで」のコーナーです‼️

今回は、20世紀インドの覚者ラマナ・マハリシです。

「身体は死滅するが、魂は死によって決して手を触れられることはない。私とは不滅の魂なのだ」

ーーラマナ・マハリシーー

16歳でこの不滅の魂である「本当の私」に目覚めたラマナ・マハリシ。
今年に入り私は、「本当の私」に瞑想を始め、ラマナ・マハリシにすごく惹かれるようになりました。

そこで最近、『あるヨギの自叙伝』にヨーガナンダがラマナ・マハリシのもとを訪ねていたことが書かれていたのを思い出し、読み返してみました。

すると、ラマナ・マハリシについて記されていたのは、写真を含めてわずか1ページ……😅

なぜこんなに短いのだろうと思ったのですが、2人の交流がわずか数時間だったこと、またラマナ・マハリシにはすでに弟子がいたので、ヨーガナンダは詳しい紹介を留めたのかもしれないと思いました。(現に今、ラマナ・マハリシの著作は弟子や信者によって数多く出版されています)

ただ、この1ページの中には、「沈黙の聖者」と称されるラマナ・マハリシとの「言葉ではない交流」が感じられます。

例えば、アーシュラマ(僧院)を訪れたヨーガナンダを暖かく迎えたラマナ・マハリシは、傍にあったヨーガナンダが発刊していた雑誌『イースト・ウエスト』が積まれた山を指差したそうです。
また、ラマナ・マハリシの弟子たちを交えての会話だったため、ラマナ・マハリシ自身はほとんど何も語らなかったようですが、その穏やかな顔は神のような愛と英知に輝いていたそうです。

心の波が静まる「沈黙」が訪れると、その奥に在る不滅の魂「本当の私」から「無限の歓び」が湧いてくると言われています。
たとえ言葉を発さなくても、ラマナ・マハリシのちょっとした行為やその表情から、霊的な交歓がなされていたことが感じられるエピソードです。

そしてヨーガナンダは、ラマナ・マハリシの紹介を最も主要な教えである「私は誰か」で表しています。

スリ・ラマナは、苦悩する人類に、彼らが見失ってしまった〝完全なるもの〟を取り戻させるために、「人はたえず『おのれとは何者か』と自らに問いかけるべきである」と教えている。これこそまさに〝偉大なる問い〟である。これ以外の考えを厳しく排除することによって、人は、真の自己の中にしだいに深く沈潜し、雑念に惑わされないようになるのである。

「おのれとは何者か」、つまり「私は誰か」ーーこれをヨーガナンダは「偉大なる問い」と言っています。
いろんな問いがこの世界には溢れています。
例えば、「仕事とは何か?」「人生とは何か?」
ただ、どんなことを考えるにしても、「仕事をしている私」「この人生を生きている私」というふうに、そこには「私」がいます。
「私のしたい仕事をする」「私がやりたいように人生を生きる」とはよく聞きますが、「では、その私は誰か?」と考える人は本当に稀です。
この主体を考えないこと、これこそ苦悩する人類の盲点であり、その主体である「私」を熟考し、偉大なる「本当の私」を自覚するための問いが、「私は誰か」にあると思います。

今年に入り私自身、「私は誰か」という瞑想を始めていますが、上記のヨーガナンダの一文にそのヒントをいただいた気がしました。
それは「たえず」「それ以外の考えを厳しく排除」というところです。
バクタが神以外のことを思わないように、心にいかなる思いが起こったとしても本当の私に立ち戻る「私は誰か」、その問いを繰り返し繰り返し実践していく、これを徹底していきたいと私自身、強く思いました。

そして今回、『あるヨギの自叙伝』はどんな小さなエピソードや一文からでも真理が学べ、本当に素晴らしい聖典であると改めて実感しました!
まさに真理で埋め尽くされた宝の宝庫です🌝💎

ゴーパーラ


ふとした瞬間

夜勤に入る前、いつも時間調整をしている公園があります。その公園のベンチに腰掛けると、目の前には大きな田んぼが、見上げればどこまでも続く大空が拡がっています。

ほっと一息つき、心に空白が生まれるような瞬間。神に思いを馳せると、身体も心も、目の前の景色も、すべて神で満たされるような気持ちになります。田んぼから聞こえてくる蛙の声はオームの振動、電灯や星の光は純粋意識の顕れであるかのような・・・・・・ そんな時、私が憧れる境地を表わしたシュリー・ラーマクリシュナの教えが蘇ってきました。

 

水また水――

上も下も、果てしない水――

人は魚のように楽しげに泳ぐ

 

無限の大海よ、水に極みなく

その中に一つ 瓶が漂う

瓶の外も、中も水――

智者は悟る、これすべてアートマン

 

あぁ、早くこの境地を知りたい!と切に願いました。

瞑想の状態は必ずしも行儀良く座っている時に訪れるものではないと、師は言われます。集中しようという力みが抜けた――ふとした瞬間に、すっと瞑想に入れるのだと思います。だからこそ、何の手応えもなく、何の感触も得られないけど、ひたすら瞑想に座って集中し続けた時間も決して無駄ではないと思うのです。

これからもあきらめず、めげずに瞑想に座っていきたいと思います。

 

ヨーガダンダ


人間とは何か?

8月に入りましたね。
夏休みシーズンということで、ブログもちょっとラフな感じから入ってみたいと思います〜🏄‍♂️

京都 鴨川

最近、WOWOWで放送されていた『ぴぷる』というドラマを仕事場で観る機会がありました。
人間と人工知能(AI)を搭載した人型ロボットが結婚できるようになった2030年の京都が舞台で、冴えない男性が「ぴぷる」という名の美少女AIロボットと結婚生活をするという物語。
最初は「あんまり面白そうじゃないな、このドラマ」と思って視聴していたのですが、人間は嫉妬深くエゴ的であり、逆にAIロボットは夫の好き嫌いを学習したりして素直に夫に尽くす存在で、なんだか健気で可愛いのである。古都の雰囲気と近未来的内容の対比も合間って、「うーん、人間って何だろう👀?」ということを考えさせられるドラマでした。

その何話目かに、「人の匂いの種類」を話すシーンがあったのですが、AIロボットには醸し出せない人間の特徴の一つに「匂い」があるのだなと思いました。

では、人間の最大の特徴とは何だと思いますか?
ひと昔前なら「知性」と答えられたかもしれませんが、人間の知性と同等の、またそれを凌ぐAIロボットの開発が進むと、そうとも言えない時代になってきているなと思います。
それでこのドラマの最後、涙を流すことがプログラムされてないAIロボットでしたが、夫を想って涙を流し、命を終えます。夫がそのことを開発者に話すと「それはバグだ(コンピュータープログラムにひそむ誤り)」と言います。でもその開発者は「あなたがそう思うのならいいんじゃないんですか」と言って、「信じたいものを信じるのが人間ですから」と言い加え、ドラマは終わりました。

「信じたいものを信じるのが人間」ーー

このセリフを聞いて私は、人間の最大の特徴は「信じる力」「信仰の力」ではないかと思いました。そして、スワーミー・ヴィヴェーカーナンダの次の言葉を思い出しました。

「宗教ほど人に多くの祝福をもたらしたものはないのに、同時に、宗教ほど大きな恐怖をもたらしたものはないと知るのです。宗教以上に平和と愛に貢献したものはありません。宗教以上におそろしい憎悪を生み出したものはありません。宗教以上に人の兄弟関係を身近にしたものはありません。宗教以上に人と人の間に強い敵意を育てたものはありません。宗教以上に多くの慈善的施設を、人々のためでなく動物までも救うための病院を、建てたものはありません。宗教以上にひどくこの世界を血に浸したものはありません。同時に、これらのすべての激しい宗教間の争いの最中に、なお、常に、そこに調和をもたらそうと努める思想の底流があり、それに携わる一般の人々、哲学者、および比較宗教の学徒の群があったこと、そして今もあることを、われわれは知っています」

ーー『ギャーナ・ヨーガ』「普遍宗教」ーー

このヴィヴェーカーナンダの言葉から、人の信じる力、即ち「宗教」が人類とその歴史に大きく影響してきたことが感じられます。
そしてこの現代、「何を信じるか?」が問われているようにも思います。
インターネットの普及により、どこの国にいても誰とでも繋がれ、自分の思いや相手の考えを発信・受信できる世の中になってきています。一宗一派の宗教、人種による優劣思想や争いは未だにありますが、そんな小さな違いや垣根を超え、「誰もの本質に在るもの」「普遍の存在」を感じることが大切だと私は思います。
私自身、師の存在と、そして師の次の教えを信じています。

「自分の中に、本当に尊い存在があるということを信じてください。神は雲の上にいるのでも、宇宙の果てにいるのでもない。あなたの胸の中にいます。それは不滅の存在であって、純粋な意識のことです。それは誰もの本質なのです。そのことを知らないから、人々はみな苦しんでいるのです」

ーーシュリー・マハーヨーギー・パラマハンサーー

「人間とは何か?」
「何を信じるのか?」

答えが見つかってない人は、夏休みの宿題によいのではないかなぁ〜と思います😄📝

ゴーパーラ 


『アルナーチャラ・ラマナ 愛と明け渡し』

皆さま、こんにちは。
緊急事態宣言が解除され、少しずつですが、京都も人の動きが出てきました。
まだ外出を控えてステイ・ホームをされている方も多いかと思いますが、どんな時間をお過ごしでしょうか?
私はこの2、3カ月の間、いくつかの聖典をじっくりと読みました。
その中でいちばん親しんだ聖典は、ラマナ・マハリシの『アルナーチャラ・ラマナ 愛と明け渡し』です。

フォトブックと詩集が合わさったようなこの聖典はとても読みやすく、聖山「アルナーチャラ」に生涯を捧げたラマナ・マハリシのさまざまなお姿やお言葉、詩、またアルナーチャラの美しい写真が鏤められています。

アルナーチャラはインドの最も古く、最も神聖な聖地の一つである。
それは地球のハートであり、世界の霊的中心である。

カイラーサはシヴァ神の住処だが、アルナーチャラはシヴァ神自身である。

いまだ開かぬ花を見て、あなたは苛立つ蜂のように私の前にとどまった。
ああ、アルナーチャラ!

あなたが抱擁してくれぬなら、私は苦悶の涙の中に消え失せるだろう。
ああ、アルナーチャラ!

私を見たまえ! 思いたまえ! 触れたまえ! 私を完全にしたまえ!
あなたと一つにさせたまえ。
ああ、アルナーチャラ!

私を迎え入れ、私の中に入り、あなたの聖なる命を私に授けた瞬間、私は個我性を失った。
ああ、アルナーチャラ!

真我実現の知識なくして、人生に何の価値があろう。
語る価値さえありはしない。
ああ、アルナーチャラ!

ー『文字の結婚花輪』(108の詩)より抜粋ー

アルナーチャラの偉大さと、ラマナ・マハリシの狂おしいほどのアルナーチャラへのバクティが感じられ、すべてのページが輝かしく素晴らしいのですが、その中でも特に印象に残ったシンプルな言葉があります。それは、

ただ静かにしていなさい。
後は私にまかせなさい。

ここで言われている「私」とは個我ではなく、「アルナーチャラ」「シヴァ」「真我」、そして「グル」という大いなる存在です。
「列車に乗ってまでも、自分の小さな荷物を頭に乗せて苦労する必要がどこにあるだろう。荷物を降ろして安心しなさい」とラマナ・マハリシはおっしゃっています。
ステイ・ホームでも心はステイしていない時、スッとこの言葉がハートに響き渡り、自分のすべきことが示されたような感覚になりました。
緊急事態宣言は解除されましたが、私は「ステイ・マウナ(沈黙)」を継続中です。

ゴーパーラ 


偉大なバクタ ミーラー・バーイー

最近家にいる時間が多くなり『ミーラー・バジャン』をゆっくり味わうように読んでいます。
ミーラー・バジャンとは中世のインドに生きた聖女ミーラー・バーイー(1498-1546)がクリシュナ神に捧げた愛の歌、讃美歌集です。日本ではあまり知られていませんが、インドでは教科書にも載っており知らない人がいないほど有名で、マハトマ・ガンディーも彼女の歌を愛されてよく歌われたそうです。

以前、ミーラー・バジャンをよく読んでいた頃は、ミーラーのクリシュナへの純粋な愛や何ものをも恐れぬ神への信仰心に憧れ、また詩の情景や言葉の美しさに惹かれて読んでいました。今回改めて読んでみると、そのほとんどが苦しみの中にあった生涯で、ただ唯一クリシュナだけを求め続けたミーラーの心情が私の中に流れ込んでくるように感じました。

長く戦乱が続くラージャスターン地方の小国の王女として生まれたミーラーの人生は苦難の連続でした。強国だった隣国の王子と政略結婚を余儀なくされ、夫の戦死後は婚家で迫害を受け続けました。何度も命を狙われることさえあったようです。その理由として、当時のインド社会では夫を亡くした女性は婚家で疎まれたことに加え、ミーラーが婚家の宗教に改宗することなく、幼い頃から信じていたクリシュナ神だけを愛し、婚家の妃としての役割を果たさなかったことにあったようです。

ミーラー・バジャンには、クリシュナへの純粋な愛や献身を歌った詩やクリシュナの愛に満たされる歓びを歌った詩もありますが、クリシュナを求め続けてもなおクリシュナとの合一を果たせない苦しみを詠んだ詩が多くあります。
苦難に次ぐ苦難の日々の中でクリシュナだけを求めるミーラー。クリシュナの愛に満たされたと思った次の瞬間にはクリシュナの面影は跡形もなく消え去ってしまう─。
次の詩からはそんなミーラーの心情が伝わってきます。

なぜに 私は眠りえん

恋人を待ち 見続けて
夜はすぎゆき 朝となり
友はみな来て 諭せども
なぜに 心は聞きえよう
主に逢えぬなら 眠りえようか
心は嘆きに 満たされて
体は細りて 途方に暮れて
主よ 主よ と口は語るのみ
内なる苦しみ 寂しさの
痛みは 誰が知りえよう
チャータクが 幾度も呼ぶように
魚が 水を求むように
ミーラは眠れぬ 悲しくて
心は すべて 忘れるほどに

※チャータク(鳥)の鳴き声は“恋人よ”と聞こえる

美莉亜訳『ミラバイ訳詩集』より

クリシュナへの愛だけに生き、すべてをクリシュナに捧げ尽くして「私」というものがなくなったミーラーの最期は、クリシュナの像に吸い込まれて永遠にクリシュナと一つになったという伝説が残っています。

キールタンに出会って、バクティ・ヨーガを知った頃は神に至る道には歓びだけがあるように見えましたが、プレーマと呼ばれる真の愛を実現するまでには、心から神を愛し求めるが故の渇望の苦しみや、さまざまな内的葛藤を乗り越えるための揺るぎない信仰心を持つ必要があることを強く感じています。
今、私たちはミーラー・バーイーが生きた時代、国、取り巻く状況もまったく異なる世界に生きていますが、500年前のインドに実際に生きた偉大なバクタ、ミーラーの息吹がどうぞ私の中で力強く息づきますように!と、心から願わずにはいられなくなりました。

シャルミニー


情熱を持って前進しよう!

2020年の春、世界は一変し、大きな衝撃と苦難に突然直面することになりました——世界中に広がった新型コロナウイルス感染症パンデミック。台湾は、幸運にもまだ深刻ではないレベルに抑えられており、台北と台中のアーサナクラスは続けられていますが、国中に不安な雰囲気が漂っていると感じます。
そんな中、疫病の威迫に負けず、4月11日土曜日の午後、台北の15名のグルバイは祝祭に参加する気持ちでアーナンダ・アーシュラマ(台北)に集まりました。みんなで一緒に2019年4月京都で行なわれた春の祝祭、サナータナ・ダルマ アヴァターラ メーラーの映像を視聴させていただきました。

アーナンダ・アーシュラマの白い壁に投影された映像。祝祭が始まりました。プレーマ・アーシュラマ(京都)にお入りになり、台座にお座りになったヨギさん。弟子から奉納されたマーラー(花輪の献上)とプージャ(礼拝)。みんな、神聖な儀式とヨギさんの慈愛に満ちた穏やかなお姿に心を奪われました。映像は、壁に映された二次元の投影像ではなく、まるでVR(ヴァーチャルリアリティー:仮想現実の立体空間)のように立体になり、本当にありありと感じ取ることができました。プレーマ・アーシュラマのその空間はアーナンダ・アーシュラマと繋がるようになり、ヨギさんは前方に座られて私たちをご覧になって無限に優しいダルシャンを与えてくださいました。

祝祭では8人の先輩がメッセージを奉納し、色んな方面と角度からシュリー・ラーマクリシュナを紹介してくださいました。台北でもプリヤーがこの大聖者の物語と教えをずっと紹介し続けてきていますから、馴染みのない存在ではありません。でも先輩のメッセージから、先輩たち自身の探求や修行とシュリー・ラーマクリシュナに繋がりがあったことを知り、そして先輩たちの情熱に満ちて素直で一心で同時にとても謙虚な姿を見て、深く感銘を受けました。 

祝祭の半ばでサティヤーさんのメッセージの最後に、『ラーマクリシュナの福音』の一節が再現されました。プレーマ・アーシュラマにいるグルバイたちがハレー・クリシュナを歌い、アーナンダ・アーシュラマにいて映像を観る私たちも一緒に歌って、両者の歌声は一つになりました。そして共に笑って涙も流して、一緒にヨギさんを見つめ、一緒にドッキネッショルを感じて、一緒に喜びに浸って、まるでコルカタと京都と台北の間にはもう境がないようでした。150年前と去年と今この時にも時間の遠近がないようでした。祝祭の最後、みんなでヨギさんに従って一緒にOm Tat Sat Omを唱える時、その感覚がもう一度呼び起こされました。

時空は一つになり、一緒に歌ったキールタン!

3時間ほどの間、ヨギさんだけが在り、シュリー・ラーマクリシュナだけが在り、喜びと感動しかありませんでした。疫病の蔓延の今、これはどれほど貴重であり、どれほど幸運でしょう!騒然としている外の環境によって物騒がしくなった心は、この時間の中で安堵しました。この映像を制作して配信してくださったマハーヨーギー・ミッションと先輩たちに言葉にならないほど感謝いたします。

上映会が終わった後、グルバイたちは一緒に晩ご飯を食べて感想を分かち合いました。何人もがメッセージで話された「神の召使い」「神の道具」という言葉が印象深かったようです。そして奉仕と言っても、よくエゴを持っていた、神の召使いや道具になりたいと言っても、情熱と信仰を高めなくて口だけだったという自分の行為に反省した人もいました。それでも、自分にはまだ遠いとか、自分にはできないとか思わないで、情熱をもって前進しよう、先輩に見習い一歩ずつ真実に近づこうと、みんなでお互いに励まし合いました。

あるグルバイが言いました——去年の秋に京都から帰ってきてから、人生に期待していたことを手放しました。チャイタニヤさんのメッセージの中の「結婚しました!子供ができました!家を買いました!」のようなことを手放してから、楽に感じました。自分がどんな人生を過ごしたいのかを改めて考えました。

どんな人生を求めるのか?見返してみると、メッセージの中で生き様という言葉がよく出てきました。シュリー・ラーマクリシュナの生き様、ラトゥの生き様、神だけを見て神だけを思う生き様、人の喜びを糧にする生き様…こんなにたくさんの見習える手本があります!それはライフスタイルだけではなく、それは全てのスタイルを超えたスタイル、それは真実を生きる、ヨーガを生きることだ! ブラボー!!!

 

日本のグルバイのメッセージは、プリヤー(右)とマールラー(左)で通訳して紹介しました。

マールラー/台中