聖者と教え」カテゴリーアーカイブ

もうすぐ、サットグル・ジャヤンティー!!

真実はグルに優ることなく
タパスはグルに優ることはない
真実の悟りより優れたものはない
その聖なるグルに礼拝いたします

我が主は聖なる宇宙の主
我がグルは聖なる宇宙の師
我がアートマンはあらゆるもののアートマン
その聖なるグルに礼拝いたします

グルは始原であり無始の存在
グルは最高の神格
グルより優れたものはない
その聖なるグルに礼拝いたします

ーー『グル・ストートラム』ーー

11月23日は、私たちのグル(師)であるシュリー・マハーヨーギーの御聖誕日です。
年に一度のこの吉祥なる日を祝う祭典「サットグル・ジャヤンティー」まで、あと5日と迫ってきました!!!
この日に向けて、日本のみならず台湾やニューヨークの弟子たちは、最愛のグルの御聖誕とその導きへの感謝を込めて、準備を進めています!
プージャー(礼拝の儀)で捧げるマントラ(真言)もその一つ。グルを讃える上記のマントラを男性五人で朗唱させていただきます。
このマントラはサンスクリット語で唱えるのですが、その一つ一つの言葉の意味を学び、言葉と思いが一致するようにしていきます。
私はこのマントラを唱えていると自然と胸の内側から、「グルがどれだけ優れているか、グルより偉大な存在はない」と感じ、師への思いが高ってきます!

かの偉大なる主ブッダが御聖誕した日、ブッダは天と地を指さして、

「天上天下唯我独尊」

と言ったと伝えられています。
私は感じます、師と出会ったことで、グルのマントラとこのブッダの伝説が同じものだとーー

真実を悟った私のグルは、この全宇宙でナンバーワン!
グルよりも優れた人に会ったことはなく、誰がなんと言おうと、唯一無二の存在でオンリーワン!!
この天にも地にもあなたの存在ほど尊いものはない!!!

我らの偉大なグル、その御聖誕を祝わせていただく格別なる日まで、あと少しです!!!

ゴーパーラ


識別とヴィヴェーカーナンダ(8)

九月に入りましたが、この夏は雨がよく降りましたね。
私の職場は景勝地の嵐山ですが、ここは天候や季節でさまざまな表情を見せ、多くのことを語りかけてくれます。
 
八月のある日、私は電車に乗って、ヴィヴェーカーナンダ著『ギャーナ・ヨーガ』を読みながら、通勤しました。
嵐山駅に着くとなぜか突然、自分の内側から「シヴァ」の御名が聴こえてきました。
そのすぐ後、凄まじい大雨に襲われ、かなり濡れました。
ただ、シヴァの御名が心の中でループし続けていたので、雨に濡れても全く気になりませんでした。
仕事中は雷が鳴っていましたが、仕事が終わる頃には雨はやみ、外は静かになっていました。
 
帰り道、いつも通る嵐山の橋を渡ると、聴こえてきたのは川の音でした。
普段は気にならない川の音ですが、大雨のあとだったため、その音はとても大きくてダイナミックで、一瞬にして私の心は奪われました。
その瞬間、川の流れが聖音「オーム」に聴こえました。
 
 
『ギャーナ・ヨーガ』「多様の中の単一」には、次のことが書かれていました。
 
「どのようにして一者(神・真我)を見るのか? この心、これほど迷いが深く、これほど弱く、これほどやすやすと誘惑されるこの心でさえも、強くなることができ、われわれを繰り返し繰り返し死ぬことから救済する知識、その一者を垣間見ることができるのです。
山頂に降る雨がさまざまな流れになって山腹を流れ下るように、あなたがここに見るすべてのエネルギーは、その一者からきます。それがマーヤーの上に落ちて、多数となったのです。多数の後を追いかけてはなりません。一者の方においでなさい。
『彼はすべての動くものの中にいる。彼は宇宙を満たす。彼は犠牲の中にいる。彼は家を訪れる客人である。彼は人の中、水の中、けものの中、真理の中にいる。彼は偉大なる者である』」
 
雨や川、雷は凄まじいエネルギーをもっているように見えますが、それは背後にある一者「偉大なる存在」を根源とし、すべての万物、私自身の中にも「それが在る」というのです。
 
八月の仕事の帰り道、私の心は「シヴァとオーム」で満たされました。
そして常に、「彼」だけで満たされるようにと願います。
多数の後を追いかけずに「一者」だけを見る識別、その実践あるのみです!
 
「オーム タット サット オーム 神は真実在なり」
 
 
 ゴーパーラ

ラーマクリシュナの愛した歌

あなたは私のすべてのすべて、おお主よ。
私の命の命、髄の髄。
あなたの他にわが身内と呼べる者はいない。

あなたは私の平安、私の歓び、私の希望、
あなたは私の支え、私の富、私の栄光、
あなたは私の智恵、そして私の力。
あなたは私の家族、私の慰安、私の最愛の友、
私の最も近い身内。

現在の私であり、私の未来でもあるあなた、
私の天国、そして私の救い、
あなたは私の聖典、私のおきて、
あなたは私の慈悲そのものであるグル。
あなたは私の限りない至福の泉です。
あなたは道、そしてあなたは目標。

あなた、崇拝する御方、おお主よ!
あなたは優しい母であり、父である。
創造者で保護者であるあなたは、
人生なる海をよぎる私の船の舵をとる舵手

あなた、あなた、あなた、あなた・・・
最近つくづく思うのですが、「私」に関することを考え出すと「私はこれをしないといけない」「私の意見はこうなのに」「私のもの」「私だったらこうするけど」などなど私に関しての思いがどんどん展開し、心は「私」に占領され、ちっとも黙ろうとせず、自分にはやることが山積みで問題だらけのような気がしてくる。心はすぐに物事を大げさにする。

けれど「あなた」(神や真理)のことを思う、そして思い続けていると、心はだんだんと静まる。「私」は小さく見えなくなる。そしていつの間にか「あなた」でいっぱいになるとき、そこには平安と歓びだけがあり、問題などそもそもなかったと分かる。見える世界は突然変わる。
キーワードは「私」(エゴ)ではなく「あなた」(神や真理)。
そう!あなたは私の限りない至福の泉なのです。


識別とヴィヴェーカーナンダ(7)

「理想」とは何でしょうか?
世界平和、愛、自由、目標の達成、つつがなく人生を送ること……
人それぞれ、思い描く理想の姿や形はさまざまかもしれませんが、そこには共通して「幸せ」を求めるはたらきがあるように思います。
では、ヴィヴェーカーナンダは「理想」というものをどう捉えているのでしょうか?

まず、理想の対義語が何かといえば、それは「現実」です。
ヴィヴェーカーナンダはこの現実のありのままを、いくつもの例を挙げて説明しています。
ーー希望に満ちた若者は明日の老兵になり、知識獲得への欲求はその限界に直面し、物質的繁栄の影には不幸があり、快楽を得れば等量に割り当てられている苦痛を伴い、どんな偉大な王も美女も死という破壊に向かって進んでいる事実ーー
人は生きていくと、誰もが大なり小なり現実の壁、矛盾、二元性に直面し、この世界で自分の思い描く理想に完全に近づけないことを実感します。
2500年前、ブッダは説かれました。

「この肉体と心、世界は無常である」

思い通りにならない世界と、まぬがれることができない老いや病、そして死ーー
幸福を得るやいなや不幸が襲いかかり、この世に生を受ければ必ず死がやってきます。
それでも私たちはこの世界において永続する完全な幸福を求めるです。

では、私たちはどうすればいいのでしょうか?
死を直視することをやめ、理想をもたず、享楽的な人生、または世に迎合する人生を送ればいいのでしょうか?
その突破口としてヴィヴェーカーナンダは、「死を絶滅させるためには、生も絶滅させなければならない」と言うのです。
それは、短絡的にこの人生を諦めよということではありません。

「小さな生命を生きることは死です。小さな幸福、小さな自分を棄てよ」

と言うのです。

「われわれは誰でも、自分たちは非常に幸福であるだろうと考えて、この肉体をいつまでも保っておきたいと思います。しかし人々が過去とか未来とかを思うのをやめるとき、彼らが肉体という観念を棄てるときーー肉体は去来する、限定されたものなのですからーーそのとき、彼らはもっと高い理想にまで登ったのです。肉体は真の人ではありません。心もそうです。心は大きくなったり、小さくなったりするのですから。独り永遠に生きることができるのは、超越した霊です」ーー『ギャーナ・ヨーガ』

誰もが永遠で完全な幸福という理想を求めています。
過去の覚者たちは、それは肉体や感覚、心では得られない、「放棄」によって得られると悟りました。
ブッダは「四諦(苦集滅道)」という放棄によるニルヴァーナ(涅槃)への道を示し、イエス・キリストも「私のために自分の生命を失う者は、それを得るであろう」という諦めの放棄の道を説いているのです。

そしてヴィヴェーカーナンダは、理想はどこかにあるのではなく、最も近いところにあると言います。

「あなたが見た理想は正しかった。しかし、あなたは理想をあなた自身の外にあると見た、それが間違いでした。それをもっともっと近くにもっていらっしゃい。それは常にあなたの内にあったのだ、それはあなた自身の自己であったのだ、ということがあなたに分かるまで」

理想とは、永遠で完全なる幸福、自らの内にある真の自己、その目覚めである悟り、そうでなければ意味がありません。
そして、「最高の理想で頭脳と思いを満たし、朝夕それらを自分の前におきなさい。そこから偉大な働きは生まれるのです」とヴィヴェーカーナンダは力強く説いているのです。

ゴーパーラ


永遠の伴侶〜 一切は神 〜

スワミ・ブラマーナンダの『永遠の伴侶』より、その教えをご紹介しています。

一切のものを神で覆え。そして、あらゆるところにかれを見ることを学ぶにつれて、君たちは「草の葉よりも謙虚」になるであろう。全ての生き物の中に神を見よ。神のことのみを聞き、神のことのみを語れ。ちょうど墓場を避けるように、神の御名の唱えられない場所は避けるがよい。

ポスパラ横町の住居前  (左より)トリグナティターナンダ、シヴァーナンダ、ヴィヴェーカーナンダ、トゥリーヤーナンダ、ブラマーナンダ、(手前)サダーナンダ(ヴィヴェーカーナンダの弟子)

ある時、シュリー・マハーヨーギーに、「魂や神というものは、この身体の中にあるのでしょうか」と質問をしたことがありました。シュリー・マハーヨーギーはこう教えてくださいました。

「魂は、神は遍満しています」
「ここにもあそこにも、あるのですか」
「そうです」

 師はこともなげにそうおっしゃいました。私はぶっとびました。そんなこと初めて聞いたからです。でもその時、本から得た知識ではない、ただの言葉だけのものとは思えないものに触れ、多いに納得したのでした。それから少しずつ、全てのものの中に神を見る努力をするようになりました。そのためには、尊敬と誠実さといたわりがないとできないということもだんだんと理解できるようになってきました。
ここまで育ててくれた父や母のこともとても尊敬できるようになりました。両親は最も身近な神であるということに気付かされたからです。まだまだ机や椅子に神を見ることはできませんが、手荒く扱うのではなく、丁寧に大切に扱い、感謝するということを学んでいます。

ヨーガを学び、神の御名を唱えることが好きになり、神様のことを思えるようになってから、神の御名を唱えられないような不浄な場所には、最近行っていないような気がします。身体も心も清浄な状態を好むようになっているのだと思いました。

師やブラマーナンダの教えに導かれて、すべての生き物の中に神を見ることができるように、もっともっと神を愛し、近づいていきたいと思いました。

ダルミニー


識別とヴィヴェーカーナンダ(6)

人は誰もが、自分や家族、また社会や国の「未来」を想像したり、考えたりしたことがあると思います。
それが夢や希望の明るい未来かもしれませんし、老いや病、戦争などの不安な未来かもしれません。

最近、私はこの「未来」、また「理想」ということについて考えていました。
というのも、
「自分とマハーヨーギー・ミッションの未来ーー5年後、10年後に何をしていきたいのか、その未来の理想を皆の前で話してほしい」
そんな依頼がグルバイ(兄弟姉妹弟子)からあったからです。

ちょうどその頃、友人から「ヨーガでこうしたいとかいう未来のヴィジョンはないの?」といきなり尋ねられて、少しドキッとしました。
その彼は、驚くほど詳細なまでの未来の理想というか妄想のような願望……(笑)をもっていました。
彼があまりにも明瞭にその願望について語っていたので、自分も妄想的でもいいから未来のヴィジョンをもつ方がいいのだろうかと考えさせられました。
また、最近よく目にする「未来ノート」的なものも必要なのかとも考えました。
例えば一流のサッカー選手などは5年後Jリーグ、10年後プレミアリーグ、ワールドカップ優勝など、目標・理想を明確に設定し、そしてそれに向かって努力して成功をおさめています。
そんなことも含めて未来の理想について考えてみたのですが、「将来、自分がこうしたい、あれをしたい」という具体的なヴィジョンというのは出てきませんでした。
ただ、「悟りを実現したい」という思いだけは自分の中に明確にありました。

後日、先輩グルバイに、「サッカー選手のように5年後、10年後といったように未来の目標を設定してヨーガをしていくことはいいのでしょうか?」と質問しました。
先輩は次のように答えました。

「ヨーガは時間を超えていくものだから、それをすると時間に執らわれて、ヨーガとは真逆のことになる」

確かにそうだ。未来の目標や理想というものを時間軸で設定すると、たちまち自分でつくり出した時間に束縛されてしまう。
「未来も過去も存在しない、在るのは今だけ」ということはヨーガを始めてから師からずっと教わっていたことでしたが、過去や未来について思ったり考えていては、「今」という瞬間を生きれなくなります。
では、未来の目標や理想はもたない方がいいのでしょうか?
否、ヴィヴェーカーナンダはこう言うのです、

「理想をもて!」

これは一体、どういうことでしょうか??
次回、ヴィヴェーカーナンダの説く「理想」について見ていきたいと思います。

ゴーパーラ


識別とヴィヴェーカーナンダ(5)

「私ではなく、あなた」、それが宗教ならびに社会の理想であることを、前回のブログ(「識別とヴィヴェーカーナンダ(4)」)で見ていきました。
しかしそれについて、一つの疑問が湧いてくるかと思います。
「それは社会の中で実践できるのか?」という疑問です。
言い換えれば、「実生活の中でエゴをなくして、真理に生きていくことはできるのか?」ということです。

聖典を学び、アーサナと瞑想を行ない、食事を調えて、仕事を一所懸命する。自分自身のヨーガの歩みを振り返ってみて、そういう大きな括りの実践には慣れ、生活そのものは安定してきました。
しかし心は、過去の記憶が蘇ったり、日常の出来事の些細なことに執らわれたりと、いまだに波立ってしまいます。
そんな心の思いにストップをかけ、真理をあてがうーー「それは真の自己、永遠で完全で至福に満ちた実存なのか?」
瞑想をすれば、この移りゆく肉体や世界、心の感情、過去の記憶、その所有者であるエゴが真の自己、実在ではないことを理解し、その波はおさまったかのように思えます。
しかし、その波はまた押し寄せてきます。
幾千、幾万と輪廻して形成された心の傾向やエゴを放棄するのはそう簡単なことではない。
でも、それができない自分には何が足りないのかと感じずにはいられません。
忍耐なのか、それとも真理への情熱なのかーー

私はヴィヴェーカーナンダにその糸口を求めました。そして思ったこと、単純ですがそれは、

「ヴィヴェーカーナンダは大胆だな〜!」

ということでした。

「もし社会で非利己性の高貴な理想を実践することができないなら、人は社会を棄てて森に入った方がましです。それは勇敢な人です。二種類の勇気があります。一つは大砲に直面する勇気、もう一つは霊的確信の勇気です。
断固として真理を信ぜよ。断固として真理を実践せよ。真理、人生に断固としてその真理を示す、死を目の前にしても揺るがぬ、いや、死を歓迎し、人に彼が霊であることを、宇宙間の何ものも彼を殺すことができないということを知らしめる真理、その真理を直視する勇気をもちなさい。そのとき、みなさんは自分の真の魂に直面なさるでしょう」(『ギャーナ・ヨーガ』「人間の本性」)

自分を小さなエゴだと思うやいなや、肉体の快適さを求め、それを守ろうとし、そして死への恐怖がやってきます。
しかしヴィヴェーカーナンダは、「自分を弱くする迷信は追い払いなさい。勇敢になろうではありませんか。真の自己は、生まれもしなければ死にもしない、永遠に生きている、全能、遍在の霊なのです」と鼓舞します。

私は感じました、瞑想の中で真理をあてがうということではない、どんなときも真理に生きるという勇気、真理を高らかに宣言する力強さが必要なのだと。
一瞬一瞬、真理を直視し、高らかに「私ではなく、あなた」と理想を宣言する、そのヴィヴェーカーナンダのような大胆でダイナミックな歩みをしていきたいものです!!!

ゴーパーラ


神の御名

 
あなたの御名のなんと美しいこと、
それは甘露のように、私たちの耳にふりそそがれ
私たちを慰めてくださる、
おぉ、わが魂の愛人よ!
あなたの御名という並びなき至宝
それだけが永遠の住処であり
それを唱えるものは不死となる。
聖なる御名が私たちの耳に聞こえるやいなや
ハートの苦悩は抹殺され、至福で満たされる。
あなたの御名は私たちの魂の魂。

 

通常私たちの心は、グナの影響を受け、サットヴァ(明るく軽快な性質)、ラジャス(落ち着きがなく動揺する性質)、タマス(暗くて鈍重な性質)という3つの状態がバランスを変えながら活動しています。仕事の時などは、「今日中にあれをして、これをして・・・!!!」と慌てて、忙しく頭を回転させています。また仕事の評価などで落ち込んだり、うまく進まないことでイライラしたり、疲れて気力を無くしたり・・・ほとんどがラジャスとタマスの状態ではないでしょうか。

先日仕事の同僚たちと活発に意見交換をしていたとき、突然心の奥から「神の御名」が響きだしました。すると、細胞の隅々まで体と心は清らかさで満たされ、疲れたと思っていたはずなのに、活力が満ち満ちていることに気がつきました。心は静まり、平安と歓びだけがありました。「神の御名」によって心からラジャスとタマスは消え去り、サットヴァだけの状態になったのだと思います。自然と意見交換は終わり、私は自分の机に戻ってその状態をしばらく楽しみました。
「神の御名」には、心の状態を一変してしまうほどの力があるということを驚きをもって感じました。

はじめに紹介した詩は『ラーマクリシュナの福音』に出てくる歌の歌詞です。
まさにこの歌詞のように、「聖なる御名が聞こえるやいなや、ハートの苦悩は抹殺され、至福で満たされた」と思ったのでした。

雨に濡れる紫陽花


永遠の伴侶 〜忍耐と謙虚さと〜

『永遠の伴侶』よりスワミ・ブラマーナンダの教えをご紹介しています。

 忍耐を学べ。怒りは忍耐によって制することができる。忍耐強く、慎み深く、そして謙虚であれ。謙虚の徳は人格形成に大きな力となる。シュリー・ラーマクリシュナはよくおっしゃった。「堪え忍ぶ者は生きる。それのできない者はほろびる」と。またこうもおっしゃった。「土地が高いと水は流れ去ってしまうが、低い土地にはそれがたまる」謙虚な人の内部には、甘美な性格、その他さまざまの良い性質が自ずから育つものだ。

若かりし頃のスワミ・ブラマーナンダ

「忍耐強く、慎み深く、そして謙虚であれ」この教えを聞くと、私たちの師のお姿を思い出します。師は何十年もの間、師の下に集まった人々に対して、また遠く海外にまで足を運ばれ、理解の及ばない私たちに、真実の教えを根気良く、繰り返し、繰り返し、教えてくださっています。師には忍耐という思いは、おありにならないと思いますが、私たちから見ると、忍耐という文字が思い浮かびます。また初めて来た人に対しても、古くから通ってきている人に対しても同じように丁寧に接せられ、敬語を使われ、謙虚にふるまわれるお姿には、本当に驚かされます。そしてそれは私がお会いしてから、ずっと同じでどんな時も変わることがありません。その師のお姿をお手本として、この目で見せていただいていることが、言葉よりも直に伝わり、どう行為すればいいのかが良く分かるのです。私は、師とお会いしてヨーガを学び始めてから、少しずつ怒りというものが起こりにくくなってきました。心はいつも冷静な状態を持ち続けることができて、怒りという苦しみから心はだんだんと解放されていきました。また、師のなされるようにすべての人を尊重することによって、謙虚さは身につけることができるのだということも分かってきました。
日常生活の中で、「忍耐強く、慎み深く、そして謙虚である」ことが、心を純粋にしていき、真実としての自分を取り戻すためにも重要なことなのだと思いました。

ダルミニー


神の導き〜マザーハウス訪問〜

4月のブログで、松山の藤田沙織さんがインドのカルカッタにあるドッキネッショル寺院を訪れたことを紹介しました。(その時のブログはこちら☜)
藤田さんはそのインド滞在時、「カルカッタといえばマザーハウスもある」と思い立ち、マザーハウスを訪れたそうです。

マザーハウス入ってすぐの聖母マリア像とマザーテレサ像。

そこにはマザーテレサのお墓のある御聖堂があり、藤田さんはその前で礼拝すると、不思議と込み上げてくるものがあり、涙が溢れたそうです。
彼女の中では「ラーマクリシュナ!」と思ってインドに行き、ドッキネッショル寺院やラーマクリシュナにも感動したけれど、マザーテレサやそこで働いていたシスターにとても惹かれる自分がいて、その突然の衝動に戸惑い、消化できずにいたそうです。
しかし、藤田さんは先月に松山で行なわれた特別サットサンガに参加し、自分が感じたことをヨーギーさんに素直に打ち明けました。
そしてヨーギーさんは次のようにお答えになりました。

ヨーギー「ラーマクリシュナ・ミッションで行なわれていることもマザーテレサのところで行なっていることと、そう違いもない。だけどマザーテレサが生きていたのはついこの間です。みんなも生きている姿を目にしていると思うし、生の声も聞いているでしょう。そういう親しみというか身近さというか、そういう力も多く働いていると思うし、何よりそのマザーテレサが生涯を生きた生き様ーー死を迎える見捨てられた人々を看取っていったという、誰もを見捨てていった人たちを看取るということを今も行なっているという尊い行為ーーそういうものが胸を打つのだと思います。だから決してそれはシュリー・ラーマクリシュナとマザーテレサを天秤にかけるとかいうのではなくて、尊い人として本当に神のごとき行為がそこであったし、今もあるという、それを感じられたということだと思うよ」

藤田「私はマリア様の像だったり、そういうものにすごく親しみというか落ち着くところがあるのですけど、瞑想する時にマリア様の像だったりマザーテレサのお写真やお姿を思い浮かべて瞑想するというのは」

ヨーギー「大いによろしい」

最後にヨーギーさんは、次のように彼女に言われました。

「ヨーガでは理想の神をもてばいい、もつのがいいというにいいます。それはこの神をというふうに言わないです。それぞれが自分で選ぶのです。(笑顔で)自分が自分で恋人を選ぶように。だからそれは何もインドのヨーギーたちだけでなくてもいい。キリスト教であってもどうであれ、理想となる神を思い浮かべて進めていけばいいですよ」

藤田さんはヨーギーさんのお答えをいただくことで、「マザーを思っていいんだ。マザーを思う方がしやすい、よかった」と安心したそうです。

この世に生を受け、自らの理想を見つけ、その希望の光に向かって歩んで生きていけることの何と稀有で吉祥なことでしょう!!!
春の祝祭から始まった藤田さんの旅は、神に導かれていた本当に祝福された素晴らしいものだったのだと改めて感じました😇

ゴーパーラ