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『Paramahamsa』表紙絵シリーズ ⑩

今回は、『Paramahamsa』No.86の表紙絵を紹介させていただきます。
冊子のイラストは実際にはモノクロですが、ヨギさんが選んでくださった書体がとても素敵なので、表紙デザインをご覧ください。

この絵は、ガルダに乗ったヴィシュヌ神とラクシュミー神妃です。
ヴィシュヌ神がラクシュミー神妃を抱きかかえるようにしてガルダに乗り、弓に矢をつがえているシーンはよく見ますが、神に抱かれながら、自らの煩悩を撃ち落としたい、強い意志をもちたいというイメージで、ともに弓を持つシーンを描いてみました。
放つ矢に当たって落ちていくのは「煩悩くん」です。

7月といえば、ヨギさんはニューヨークに行かれていることが多くありました。
そうやって離れてみることで、ヨギさんが京都いてくださることで私たちは守られていたのだと感じることが多くありました。しかしそれと同時に、矛盾しているかもしれませんが、離れていることで、常に一緒にいてくださる安心感があり、そしていつも導いてくださっているのだという強い思いにも満たされるのでした。
離れていると感じるのは心であり、実は、今この瞬間も私たちは神に支えられ、力を与えられているのだと思います。それを忘れることなく、真実の道を歩み続けていけますように。

シャチー


あるヨーギニーの願い

4月に始まった国分寺クラス。
スタジオから見える桜の木は葉が茂り、緑が濃くなってきています。

植物がぐんぐん成長するように、クラスに参加されている皆さんの中にも成長中の方がいます。そのお1人が、以前から東京のクラスに通われているNさんです。

国分寺クラスに初めて参加された時、クラスで60、70代の方がシールシャ・アーサナ(逆立ちの形)を練習をしているのを見て、驚いたそうです。シールシャ・アーサナは以前できていた時期があったけれどその後できなくなり、もうできないんだと諦めていたとのこと。でも、皆さんが練習しているのを見て「少しだけやってみます」と挑戦されました。その後練習を続けられ、ひと月半ほどで、もう少しで両足が安定して浮かせられるところまでできるようになっています。それに伴い、シールシャ・アーサナ以外のアーサナも、以前より集中感が増してきたように感じています。
「またできるかも、と思えたら、練習をやりたくないという思いがなくなりました」と、軽やかに笑顔で話され、周りでそれを聞いていた皆さんも笑顔になりました。

 

クラスの後、Nさんからとても素敵なお話を伺えました。

「孫が大きくなった時に読めるように、『マハーヨーギーの真理のことば』を贈りたいと思っています。その時自分がいなかったとしても、生きていく上でこの本が支えになると思うから。本に書かれていること、本当のことを、遠い未来になるとしても伝えたい。そして、私もヨーガに出会った吉祥なご縁を、行為で伝えられるおばあちゃんになれるよう、頑張ります」

ご家族のために日々忙しくされている中で、師の教えを実践されてきたNさんの思い、いつかお孫さんに届きますように。

 

いつも素敵な笑顔のNさん

ハルシャニー  

 

 


『Paramahamsa』表紙絵シリーズ ⑨

今回は、『Paramahamsa』No.13の表紙絵について紹介させていただきます。

これは表紙絵を描き始めてから3つ目の作品になります。
一つ目の絵は、ヨギさんに教えていただいたインドの細密画を真似て描きました。この時は、ヨギさんに喜んでいただきたいという思いだけがあり、ただ描くことが楽しくて、幸せで、仕上がりまで夢中になって描いたのを覚えています。
そして昨年1月のブログで紹介させていただいたように、その時から『Paramahamsa』の表紙絵を隔月で描くことが始まったのです。

心というのは実に不思議なもので、その次の2作目を描く時、私の心境は全く別のところにありました。最初にヨギさんに褒めていただいた経験が、「うまく描かないといけない」「ヨギさんに喜んでいただけるものが描けるだろうか」とネガティブな思考に向かってしまい、どんな絵を描いていいのか分からなくなって、何度も描き直したのです。
描きたいと思っていた1作目とは違い、描かないといけないと思った2作目。
出来上がった絵は、背景にある木は突っ立っているし、何だか固い。ヨギさんは褒めてはくださいましたが、本当のところは分かりません。

そして今回の作品です。この時は思いにとらわれることなく、もっと肩の力を抜き、想像を働かせました。大好きなヨギさんの、優しく、そして優雅な感じが表せたらいいなとか、そうだ、聖なるガンジス河とシュリー・ラーマクリシュナが過ごされたドッキネッショル寺院を描こう、など、思いつくままに描いてみました。

これらの3つの絵を含め、初期の絵に対してヨギさんは、ずっと後のことになりますが、「初期の頃のシャチーの作品はオリジナリティーがあっていい」と言ってくださったことがありました。技術こそまだまだでしたが、ヨギさんに集中し、表したいことを素直に描いてみた結果だったのかもしれません。この絵から、それぞれが好きなヨギさんを少しでも感じていただけると嬉しいなと思います。

シャチー


師の導き

小さな存在

もうすぐ師が御入滅されて一年です。この5月の大型連休から心が落ち着かず、やっぱりドキドキしていました。私は20年前の5月18日に師と初めてお会いしました。クラスに参加したのは3回ほどで、まだ一か月も経っていない頃でした。初めてマハーヨーギー・アーシュラマの階段を上り、二階の間で師にお会いした時、師は白いクルタをお召しになっていて、白いムートンの上に座っておられました。そして、ものすごく優しい微笑みで迎えてくださいました。その印象が今でも深く心に刻まれています。

私は子供の頃たまたま幼稚園がキリスト教で聖書のお話によく触れていたのでイエスさまにお祈りするのが普通になっていました。大人になり特には無宗教でしたが、子供の時からのお祈りは自然に続けていました。師にお会いした時、私のすべてをいつも話してきたイエスさまという存在は、師だったんだと感じ、本当に安心しました。これまでのいろんなことが、全部この瞬間のためだったと思いました。

師は弟子の人生を寸分違わず導かれているとお聞きしたことがあります。今になっていろいろと気付きます。ひょんなことから数日前、毎週水曜日の朝の長岡京町家クラスに、実家の父親が朝、車で送ってくれました。父が車で送迎してくれることは滅多にないことなのですが、事情があり母からの希望でそうなったのでした。有難くも送ってもらえることになり、車で長岡京へと父の運転で向かいました。ふと、そういえば長岡京にあったはずの幼稚園のことを思い出しました。大人になってから長岡京に行った際、幼稚園を何度か探しましたが場所が分からなくて、もう無くなったのかもしれないなと思っていました。

私「幼稚園の場所って覚えてる?確か長岡京駅の近くにあったけどまだあるかな?行ってみたいんやけど」。
住宅街に差し掛かった道中でそう話していると、なんとその幼稚園バスが私たちの車の前に現れました。幼稚園バスがスーッとお家の前で止まり、かつての私のような幼稚園児をバスに乗せ、そのお母さんが子供を見送っていました。
私「すごいな!偶然やな!幼稚園の帽子も変わってないな~」
父と話しながらドライブは続きます。

父曰く、幼稚園の位置は私が思い込んでいる場所とは違うということで、そちらへ車を走らせました。ナビに頼るのもなんだか面白くないので、勘を頼りに進みます。
父「あれ?!ないなぁ~移転したんかもしれんなぁ」
父が思っていた場所にもなく、歩いていた人に聞いてみても分からず(素直にナビを頼ればいいのですが(笑))細い路地の住宅街に迷い込み、もう時間的にもタイムリミットなので「もう無いのかもな~」と諦めました。「よし!ナビにたのも!」と父は切り替え(笑)ナビに導いていただき進みました。すると、タイミングよくさっきの幼稚園バスがまた現れて園の門に到着です。「おお~!ここやん!」。幼稚園にやっと辿り着きました。四十年以上ぶりに再訪した幼稚園は昔の園舎のままのところもあり、とっても可愛いらしい場所でした。幼稚園の一角にある墓地が目に入ってきた時、ある記憶が蘇りました。
幼稚園の中からその墓地が見える部屋があり、私はお友達と二人でよくその窓からお墓を見ながらイエスさまのことをひそひそ声で話していました。墓地が見えるその窓の前がなんとなく不思議な感じで好きだったので、その場面を大人になっても思い出すことがありました。だからその墓地が見えた時に、あ!となぜか師とのいろいろなことが繋がって、幼稚園のあの窓が始まりの発心に繋がっていたような気持ちになりました。

また、その窓の近くには大好きな園長さん(牧師さん)の部屋がありました。園長さんはサンタクロースのおじいさんみたいなあたたかい雰囲気で、戦争で片腕をなくされていましたが、もう片方の腕によく私たちはまとわりついていました。園長さんが教えてくれたイエスさまのことを思い出し、あぁここは私の神さまへの思いを芽生えさせてくれた大切な場所だ、師がずっと本当に導いてきてくださっていたんだと、あたたかい歓びが込み上げ感謝しました。
父と、この5月に、そこへ導かれるように来れたのは師からの導きだと感じました。何度探してもそれまで見つけられなかったその幼稚園は、私の記憶上の地図とは別の場所にあり、毎週通ってきた長岡京クラスのごく近くの場所にありました。何かと縁深いこの地で、クラスを手伝わせていただけることにまた感謝がこみ上げました。

その日には台湾からのヨーガの仲間がクラスに参加され、また他にも久しぶりに参加された方もいらっしゃいました。そして滅多に送迎してくれない(笑)父の車で運んだものは、私の母からのヨーガへの感謝の気持ちが込められたお花でした。

母は長岡京クラスに通っていたことがあり、ふとお花を届けてほしいとそんな思いになったということでした。いろんな偶然のような出来事が毎日毎日、師の手の中で起こっていることを感じるばかりです。師のお導きに感謝します。

ナリニー


ヨーガの1日 ~春分の日🌸~

春の嵐がやってきた2024年3月20日、春分の日のこと。京都の一角に佇む150年以上前に建てられた趣のある京町家でたくさんの人が「ヨーガの1日」を過ごした。そこは、聖者の庵、マハーヨーギー・アーシュラマと呼ばれている。

春分の日、当日のアーシュラマ

 

75年前の11月23日に、可愛らしい男の子が誕生し、天真爛漫にすくすくと育ち、8歳の頃に真我を悟られた。人々のために真実を生き続けられ、誰もが分かるやさしい言葉でそれを伝えられた。周りの人は彼のことを敬愛を込めて「ヨギさん」と呼んだ。

時は経ち、ヨギさんは、お姿を隠された。弟子たちは、ヨギさんの息吹いっぱいのこの大切な場所で、自分たちがヨギさんにそうしてきてもらったように、他の人にもヨーガの素晴らしさを感じてほしいなと思った。ヨギさんの優しさが溢れるこの場所に、自分たちだけじゃなくて、他のみんなと一緒に集い歓びを分かち合いたいと思った。ヨギさんだったらきっとそうすることを喜んでくださるよね、と。

ヨギさんは、お姿を隠されたけれど、たくさんの道しるべとなる教えの言葉を置いていってくださった。『マハーヨーギーの真理のことば』の本の中にも輝くその真実ーーヨギさんから教わったアーサナ、瞑想、さまらさ、キールタン、真理の言葉、それらをもっといろんな人に体験してもらおう〜!そんな思いからの特別な日が「ヨーガの1日」だった。

その日、一階では真理の教えに触れるワークショップしおり作りが、二階ではクラス体験が行なわれた。楚々としたアーシュラマの空間に、一人、二人、三人・・・と人が増えるごとに、静かな歓びの輪が波紋のように、じわじわと空間とハートに広がっていった。

時折、外には雪が舞い、極寒となった京都だったけれど、アーシュラマの室内は凛とした空気と人々の活気と歓びで瑞々しい気配に満ちていた。ガタガタと強い風の音が聞こえてきたり、伝統的な京町家だから隙間風も入ってくる。ヨギさんは、寒い季節もいつもここで簡素な格好で、来る人々を柔和な笑顔であたたかく迎い入れてくださっていた。

集った人たちは玄関で受付を済ませると順番に、自然と譲り合いながら、ゆっくりアーシュラマの趣ある階段を上っていく。

さぁ「ヨーガの1日」の始まり!朝は、アーサナクラスから始まった。

マハーヨーギー・アーシュラマでのアーサナ体験クラス

それぞれが集中し、真剣に取り組む。

マハーヨーギー・アーシュラマでのアーサナ体験クラス

 

続いて瞑想クラス。深く瞑想に入れたという声もあった。

マハーヨーギー・アーシュラマでの瞑想体験クラスマハーヨーギー・アーシュラマでの瞑想体験クラス

 

お昼には、さまらさの台所。

さまらさのお弁当と桜の花のワカメのおすまし

さまらさのお弁当と桜の花びらがふんわりと浮かぶおすまし。

マハーヨーギー・アーシュラマでのさまらさの体験クラス

 

午後からはキールタンクラス。一階にもみんなの朗らかな歌が響いていた。

マハーヨーギー・アーシュラマでのキールタン体験クラスキールタンを歌う二人

* * *

二階に参加者が上がってくると、心地良い緊張感の中にも、わぁ・・・と何かが綻ぶような笑顔があった。寒い中、春に向けて新芽が顔を出すかのようなそんな爽やかな表情。
二階の間には、簡素で優美な空間が広がり、真正面の窓からは裏庭の真っ白な木蓮と濃いピンクの桃の花が絵画のように美しく見えている。階段の上の壁には、まもなく咲きそうな一輪の木蓮がそっと上品に生けられ、重厚な存在感を放つ黒光りした祭壇には、偉大なるヨーガ行者のお姿のババジ像が見守ってくださっている。サットサンガ(真理の集い)が行なわれていた時と同じように蝋燭が灯され芳しいお香が漂う。お部屋には、ヨギさんが手掛けられたサハスラーラ・チャクラの旗と、息を呑む麗しさの白ターラーの絵画が飾られていた。

どの体験クラスも10名以上の満員御礼!参加者の真剣な熱によってヨーガ体験が進められていった。クラスを終えた人は、また階段を下りてくる。上がっていく時とは何かが違う。さらに清々しくなった笑顔で「場の空気がすごかった・・・」という感嘆の声も聞こえてきた。これは、きっと実際に体感した人にしか分からないこと、何か言葉では言い表せないものを感じられたのだろう・・・。

一輪の木蓮

初めてアーシュラマの玄関の戸を開け、ちょっと緊張しながら一歩中に入り、そして奥の階段をゆっくりと上がる。その初めての瞬間は誰もにとって一度だけ。今回参加される人にとっての、その大切な時。朝から夕方までずーっとヨギさんが、来る人、来る人を柔らかいあの笑顔で、もてなしてくださっているようだった。なぜなら、こんなふうに初めてアーシュラマを訪れるみんなが安心して集えるのは、ヨギさんの息吹に包まれているからで、ここはヨギさんが最初にヨーガを人々に伝えてくださった原点の場所、そして覚醒された場所、毎日、朝起きて、夜お休みになった場所、どこをどう切り取ってもヨギさんの呼吸、眼差し、手のひらの中だったから。これからヨーガに出会う人たちの、この日のためにヨギさんがすべてを整えて万全に準備してくださっていたのかもしれない・・・
1日は、あっという間に突風のように過ぎ去り、参加者たちは楽しそうに真理の言葉を葉っぱ形のしおりに書き留めて、胸に持ち帰った。

しおり作り

いつもヨギさんにお会いすると、自分の求めているものや答えを頂く。知らないうちに真理の言葉を胸に持ち帰っていた。今、ヨギさんが直接お言葉を発せられなくても、これからも同じようにそれを受け取ることができる。聖者の口から溢れた真実の言葉は永遠だから。生命の根源である一つの真実が、いろんなヨーガの体験を通して、みんなに届けられた日、参加者だけではなく関わったすべての人が、それぞれのヨーガの1日を過ごした。

階段の上を見ると、朝は、まだつぼみに近かった木蓮が、嬉しそうに花開いていた。これから、たくさんのさまざまな花が開いていく。
ヨギさんの真理の言葉が、これからもどんどん広がっていきますように。

 

当日の夜に流れたMYM Instagramストーリーズより。

ナリニー


ホーリー・マザーからの贈り物③

毎日ホーリー・マザーを思うことを始めてから、3ヶ月ほど経ちました。

聖典を読むことでそのお人柄に触れ、1つでも教えを実践するよう努めることで、ホーリー・マザーはたくさんの贈り物を与え続けてくださっています。

日常生活の中で、今しようとしている行為が教えの通りになっているかを確認するようになったこと。
仕事で重要な選択をしなければならない時に、ホーリー・マザーが見守ってくださっているという安心感から、穏やかな気持ちで判断できたこと。
そして、意識している時も意識していない時も、確かにホーリー・マザーは傍にいてくださっているのだと感じてからは、心にピタッとホーリー・マザーのお姿が張り付いたようになったこと。

そうした贈り物は、ホーリー・マザーに近づこうとする人みんなに等しく与えられているのだと思います。


部屋にあるホーリー・マザーのお写真

 

毎月1回開催されている東京の瞑想会では、この3ヶ月、ホーリー・マザーの教えに触れて印象に残ったことや、そこから感じたことを話し合っていました。
ホーリー・マザーにほとんど触れたことがなかった人も、少しずつ聖典を読むことで、親しみを感じるようになった様子が伺えました。

計り知れない内面的な強さを感じた。
人々がどのように信仰を持とうとしていたかを知ることができた。
遠い存在ではなく、私たちと同じ存在なのだと感じた。

様々な感想を聴く中で、特に印象残ったのは、Kさんのお話でした。
『ホーリー・マザーの生涯』を読み、家住者として信仰を求める者として、勇気をもらえた、と話してくれました。本の中に書かれている数々の利他的な行為から感じるものがあり、それは師の教えとも重なり、Kさんにとって大切な気付きへと繋がったそうです。
家族に対して、自分の思いやこだわりをなくして、家族が喜ぶことを行為したい。時にそれが難しいこともあるけれど、誰もの中に神がいると教えてくださっている、それこそが真実だと信じて。
そう話されるKさんの姿に胸を打たれました。きっと、Kさんもホーリー・マザーからの贈り物を受け取られたのだと思いました。


瞑想する前にみんなでホーリー・マザーを讃える歌を歌いました。

聖典から聖者の生き様や教えを学びつつ、こうして志を同じくする仲間と語り合うことで、1人では得られない気付きや学びがあります。

以前先輩グルバイから、神を想い、神に近づいていくほどに、神もこちらに近付いてきてくださるのだと聞きました。
今私たちがホーリー・マザーに少しずつでも近づこうとすることで、ホーリー・マザーはもっともっと私たちへと歩み寄ってくださっている。そのことを瞑想会でのみんなの話を聞いて確信しています。

ハルシャニー  


『Paramahamsa』表紙絵シリーズ ⑧

今回は、『Paramahamsa』No.80の表紙絵とこの絵を描いた時の時のことを紹介させていただきます。

2010年初夏、私たちはヨーガ・ヴィハーラに毎週集い、キールタンを歌っていました。一つの歌を何度も繰り返し、その歌の本質に迫っていくのです。

そして「ジャイ・マー」を歌う時、私はいつもシュリー・ラーマクリシュナが愛した「カーリー・マー(女神)」に思いを捧げていました。繰り返し歌い、心の奥におられるカーリーに近づくほどに感じるのは、ヨギさんと同じ眼差しをもつ慈悲深き御方ということでした。その瞳はまさに愛そのもの。カーリーは姿こそ違うけれど、私にとってはヨギさんでした。

通常カーリーはドクロの首飾りを付けて生首を持ち、腰には人の手を切り取ったものを巻いている姿で表されることが多く、血を飲み込んだ真っ赤な口から舌をぺろりと出しています。彼女はなぜ舌を出しているのでしょうか。
おびただしい血が流される殺戮、私たちにとっては恐怖そのものですが、その苦しみを感じているのは、私たちの心にすぎません。それは煩悩や無知の象徴なのかもしれません。でもカーリーはそんなことは全くおかまいなし。 彼女にとってはあらゆることが遊びなのだと感じたのです。
そう感じてから、私の中のカーリーはとてもおちゃめな存在に変わっていきました。
シャクティのメンバーがマーだけに気持ちを集中して献歌できた時、カーリーはいとも楽しげに笑い、踊りだすのでした。

シャチー


New!! ヨーガ・瞑想クラス【45分/京都・大阪】

3/26(火)〜5/28(火)までの期間、京都・大阪で新クラスが開講します。

New!! ヨーガ・瞑想クラス【45分/京都・大阪】
↑ 詳しい内容はこちらからご確認ください。

まだまだ寒い日が続きますが、日差しの中に春の輝きを感じる今日この頃、春を迎える清々しい気持ちと、コロナ禍も明けて始動開始!そろそろ新しいことに挑戦するよい時候ではないでしょうか!?

そんなとき、瞑想を始めてみるのはいかがでしょうか?瞑想と聞くと良いイメージがある方が多いと思いますが、実際にはどう良いの?何をしているの?方法は?など意外と分からないことも多いと思います。このクラスでは、そんな疑問点にもお答えしながら、まずは静かに座るということに慣れていただきたいと思っています。またアーサナ(ヨーガのポーズ)をすることで呼吸が落ち着き、瞑想がしやすくなるということも実感していただけるでしょう。瞑想することによって日常で良い変化を感じていただけると思います。

45分という短いクラスとなりますので、ヨーガや瞑想を一度体験してみたい方、忙しいけれど少しの時間でも瞑想する時間を持ちたい方、もちろんすでにヨーガのクラスに通っているけれど、改めて瞑想に取り組みたい方も大歓迎です!気軽な気持ちで来ていただけると嬉しいです。
お得な4回カードもありますので、この期間に瞑想の習慣を身に付けませんか!

サティヤー


春分の日🌸『ヨーガの1日』のご案内

3月20日(水・祝)春分の日に、ヨーガの体験クラスを開催します🌸
一般的にヨーガといえばポーズのことを思い浮かべる方が多いかもしれませんが、ヨーガはポーズだけではありません。呼吸や食事、歌や瞑想によって、ヨーガを実践し深めることができます。そんないろいろなヨーガを体験して頂ける1日です。
開催する場所は、私たちの師がお生まれになりヨーガを教えてこられたマハーヨーギー・アーシュラマです。そこに居るだけで心が落ち着くような美しい場所です。その空気を味わい、肌で感じながらクラスを受講して頂けます。
また体験クラス以外にも、しおり作りを開催します。(体験クラスを受講された方にはもれなくしおり作りが1枚付属します。)心に響くヨーガの教えを選んでしおりに書いて持ち帰って頂けます。ヨーガの教えは日常の中で頼りになり、生活や人生をより良く導く道しるべとなってくれると思います。
ぜひこの機会に、ヨーガの体験にいらしてください😇

※詳細はこちらをご覧ください💁‍♀️ 春分の日企画『ヨーガの1日』

サルヴァーニー


ホーリー・マザーからの贈り物②

今回このブログのタイトルを「ホーリー・マザーからの贈り物」にしたのは、実際にそのお姿を拝見することやお声を聴くことはできなくても、時間も空間も超えて、今を生きる私に幾つもの贈り物をくださっているように感じたからです。 

 まず、ホーリー・マザーの存在を知ることが聖者の生き様に触れるきっかけとなったこと。
また、ヨーガを学び始めて間もない私にも分かりやすい言葉で真理の教えを語られていること。
 
そして前回のブログで書いた、毎日アーサナや瞑想をする習慣を身に付けられるようになったことも、ホーリー・マザーが与えてくださった贈り物の一つです。 

 
ホーリー・マザーの教えはシンプルなものが多いと思います。私にとって親しみやすく、これならできるかもと実践のきっかけになることが何度もありますが、シンプルな教えだから実践しやすいというわけではないことを痛感したのが、この教えです。 

 「心がすべてです。浄らかに感じるのも、不浄に感じるのも心一つです。心が罪悪感にさいなまれると、他人の欠点を見るようになるのです。欠点を数え上げることで、相手を傷つけられますか?自分を傷つけているだけなのですよ。私には誰の欠点も見ることもできません。小さな親切も覚えておくようにします。人の欠点を見るなんて!許しは素晴らしい信仰の苦行なのです。忍耐よりも高い徳はありません」 

他人の欠点を見ないことを徹底しようとすると、自分の心がどのような状態にあるのか、観察するのが習慣になりました。ところが実践を続けるほどに、この教えを徹底するのは毎日アーサナや瞑想を続けることよりもずっと難しいと気づきました。 

 ホーリー・マザーは純粋で真理を体現された存在だったから、誰の欠点も見ることができなかったのだと思います。 
真実の側から見れば、全ての人は顕れが異なるだけで等しく純粋そのものの存在です。 

ホーリー・マザーの境地にほんの少しでも近付いていけるように、欠点を見ていると気付いたらホーリー・マザーのお顔を思い浮かべるようにしました。 
繰り返しホーリー・マザーの穏やかな表情を思うようにしていると、例えうまくいかなくても心が穏やかさを取り戻すのが早くなったように感じました。また、この教えの中にある、人の欠点を数え上げることは自分を傷つけているだけ、ということが、本当にそうだとはっきり分かるようになりました。相手の欠点を見ることで心はもっと乱されて苦しくなる。心に振り回されると、もうすでに自分の中にある真理から遠ざかってしまいます。 
反対に、この教えの通り、相手がしてくれた小さな親切を覚えておくようにしたり、何か嫌なことをされたとしてもそれを許し過去のこととして囚われないようにしたりすると、心は平安に保たれて、すでに私たちの中にある真理、真実の存在そのものを、ほんのひとときでも実感できるようになります。 
これは日常におけるヨーガの実践の上でとても大切なことではないかと思います。 

私は現在進行形でこの教えを実践中ですが、取り組むほどに何より私自身の心が穏やかになり、幸せを感じるようになっています。 

ホーリー・マザーがすぐそばで力を与えてくださっていると信じています。

 

ハルシャニー