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識別とヴィヴェーカーナンダ⑷

3月も後半、桜の開花も始まり、すっかり春の陽気ですね🌸
卒業や入学、別れや出会いが交差するシーズンでもありますが、ふと最近、私はちょうど9年前の大学院修了式の時の気持ちを思い出しました。
修了式が終わった後は一流ホテルで送別会がセッティングされていましたが、私はそこには参加せず、アーサナ・瞑想クラスに直行しました。
その時は「ヨーガをしていきたい!」という気持ちだけでした。
しかし、いざ大学という囲いから一歩外に出ると、社会の中で仕事をしていく大変さや、またヨーガを続ける厳しさに直面しました。
そんな時、ヴィヴェーカーナンダは「社会」と「宗教(ヨーガ)」を生きていく上で、最も大事なことを教えてくれたのでした。
それは「自己制御」です。

ヴィヴェーカーナンダは、世界の民族の宗教起源には「感覚の限定を超えようと努力している」という共通点があることを見出しました。(その内容は前回のブログに掲載☜)
人間は生きていく中、感覚の喜びを享受するだけでは満たされず、感覚では捉えられない霊魂や自然力を司る「無限者」を求めていました。
この無限者の探求は、霊魂や自然という外界から、やがて心の内側に向けられていきました。
そしてこの感覚では捉えられない無限者を悟るためには、感覚の主体であるエゴを制御すること、それによって無限者が自らの内に顕現することが発見されたのでした。
自分の利益や快楽の追求が完全にストップされる「エゴの放棄」——
「自分ではなく、あなた」であります。

この宗教の目的でもあり理想の「自分ではなく、あなた」は、とりもなおさず「社会の理想」でもあるとヴィヴェーカーは言います。
他者との共存を余儀なくされる人間社会は、自分のことばかり考えることはできません。
感覚は「私が第一」と言います。
しかし、

「自分の衝動を抑えることなしに、自分がしたいと思うことをしないで辛抱することなしに、どうして他者と共存することなどができるでしょうか。それは不可能です。全社会構造は、抑制の観念の上に成り立っています。そして我々は誰でも、忍耐するという大きな教訓を学んでいない男女は最も不幸な生涯をおくるということを知るのです」

他者を差し置いて、エゴを優先させると、それは結果的に不調和と不幸を生みます。
自分よがりでは、それは子供と何ら変わりありません。
人間は成長しなければならないのです、身体だけでなく、心も。
小さな自分がなくなればなくなるほど、心の大きな人間、大人になるのです。

「社会とは結局は一人一人の集まりである」とヴィヴェーカーナンダは言います。
社会をよりよくしたければ、一人一人の心の成長が求められるのです。
その実践が自己制御であり、そしてその究極・理想が無限者という「神の実現」なのであります。
よってヴィヴェーカーは、「社会には宗教が必要」だと説くのです。

広汎な世界の宗教を分別し、その背後にある共通点を見出し、それが社会、また人間にまで必要だと見抜いたヴィヴェーカーナンダのこの驚愕すべき識別知。
私の長年の迷いは、彼の鋭い識別のメスで除去されました。
そして今、私は変わらず、否、より一層、あの春の季節に感じた気持ちを抱いています。

「ヨーガをしていきたい!」

職場近く嵐山渡月橋の桜。少しだけ咲いていました😊🌸

ゴーパーラ


永遠の伴侶 〜心の掃除〜

シュリー・ラーマクリシュナの直弟子、スワミ・ブラマーナンダの教えをご紹介しています。

ある朝、スワミ・ニャネーシュワラナンダがまだ寝床も整えず、あたりを散らかしたまま急いで部屋を飛び出した。かれはマイダン(部屋のそばの広い空き地)でスワミ・ブラマーナンダに会った。かれが敬意を表すると、驚いたことにスワミ・ブラマーナンダが、「私を君の部屋に連れて行け。君の寝る場所が見たいのだ」と言った。スワミ・ニャネーシュワラナンダは恥じて、「もう少したってからおいでくださるわけには行きませんか。あなたがお越しになるとは思わなかったので、部屋はお迎えするにふさわしい状態ではございません」と答えた。スワミ・ブラマーナンダは言った。「我が子よ。いつも私を迎えられるようにしておかなければいけないのだよ」

ヨーガを学んでいる中で、次のような問答に出会いました。
「人はなぜ愛し愛されたいのか、人はなぜ幸福になりたいのか」
「なぜなら人は、その本性が愛であり至福だからである」
師からこの教えを授かった時、「なんと明瞭な答えなんだろう」と私は大変驚き、納得したのでした。そして師は、私たちが本来の愛そのものに立ち返ることができるように、他者に愛をもって献身奉仕し、その愛の姿を実際にこの世で表していきなさいと繰り返し教えてくださっています。私はまだまだ、この献身奉仕の本当の意味は分かっていないのかもしれません。でも心の中にいろいろな無知や煩悩などの余計な不純なものをかかえたままでは、とうてい自分自身を愛で満たし、他者へ献身奉仕をすることなどできるはずもないということは分かるようになりました。

スワミ・ブラマーナンダのこのエピソードは、本当の愛に戻りたいのなら、いつもその目標を見据え、常日頃の心がけや行ないを伴わせるよう、その努力と準備を怠らないように励みなさいと教えてくださっているのだと思いました。 

ダルミニー

 


識別とヴィヴェーカーナンダ(3)

「社会には宗教が必要」と説くヴィヴェーカーナンダ。(前回のブログはこちら☜)

ではなぜ、そう言えるのだろうか?
『宗教の必要』という講演(『ギャーナ・ヨーガ』収録)においてその理由が述べられているが、テーマの最終到達点、そこに向かって行くヴィヴェーカーナンダの迫り方が本当に圧巻、半端ないのである‼️

ヴィヴェーカーナンダは宗教の必要を説くにあたってまず、「宗教の始まり」を見る。
近代では二つの学説があり、一つは「霊魂(祖先)崇拝」、もう一つは「自然崇拝」から宗教は生まれたとする説を紹介。
「霊魂崇拝」としては、古代エジプト人の宗教を例に挙げている。
古代エジプト人の場合は、複体(人の内部に含まれているもう一つの肉体)が霊魂と考えられ、人が死ぬと複体は肉体の外に出て生き続けるが、その複体の生命は死体が害われずにいる間だけ続くという。
誰もが知っているあの巨大なピラミッドは、死体保存のために作られたということ……😱
このエジプトの他、バビロニア、中国、アメリカの古代の宗教は霊魂(祖先)崇拝に始まりを見出すことができるようである。
もう一方で、宗教は「自然崇拝」に始まったとする説。
暁、夕暮れ、暴風、自然の途方もない巨大な力、美しさ、これらが人間の心を動かし、その背後を見たい、もっと知りたいと熱望し、ときにはそれらの現象に魂と身体を与えて擬人化する。
アーリヤ人の『リグ・ヴェーダ』をはじめ、古代ギリシャ、ゲルマン、スカンジナヴィアの宗教がそれに該当するようである。

う〜ん、これだけ聞いても、かなり勉強になる👀📝
もうお腹いっぱいという方もおられると思うが、これからが本番、ヴィヴェーカーナンダの知力の本領が発揮されていく。
霊魂(祖先)崇拝、自然崇拝というこれら二つの見解は矛盾するように見えるが、「第三の基礎の上で和解させることができる」とヴィヴェーカーナンダは言う。
大胆にもそれを、

「感覚の限定を超えようとする努力」

と独自に提唱するのである。

「人は自分の祖先たちの霊魂を、死者の霊魂を、探し求めます。つまり肉体が解消した後、そこに何があるかをひと目でも見たいのです。あるいは、自然の途方もない現象の背後に働いている力を理解したいと願います。どちらにせよ、彼が感覚の限定を超えようと努力しているのだ、ということは確実です。彼は自分の感覚だけに満足してはいられないのです。それらを超えることを欲するのです」

歴史やその学説の網羅、それだけでもなかなかできることではないが、それらの知的理解に終始せず、その当時の民族の人たちが求めていた心情を感じ取るようにして、ヴィヴェーカーナンダはその共通点を見出すのである。
そして、この感覚の限定を超えようとする努力が「真の宗教の萌芽」であり、そして「社会」にも必要なことであるとヴィヴェーカーナンダは説いていくのである。

長くなるので、続きはまた次回に🙇

ゴーパーラ


永遠の伴侶 〜心の目撃者であれ〜

今回はシュリー・ラーマクリシュナの高弟であるスワミ・ブラマーナンダの生涯と教えが書かれてある本『永遠の伴侶』より、その教えをご紹介いたします。

君たちに一つの秘訣を話してあげよう。今は君たちにはその意味が十分に分からないかもしれないが、やがては、その真理が明らかになるであろう。そしてこの真理というのは、あらゆる人の意志と心はかれを次第に善に向かって導いている、というものだ。悟りを得ている教師たちの中のある人々は、次のような修行方法があることを教えてくれている。
心も意志も行きたがる方に行かせておけ、好きなようにさまよわせるがよい。しかし常に寝ずの番をし続けよ。目撃者であれ。このように、もし求道者が本当にそれらを好きなように行かせながらも絶えず見張りをしているなら、心もしばらくの間は汚らわしいものや空しいものを追いかけているかも知れないが、やがては必ず善の方に向かって進むようになる、というものである。

 ヨーガを学び始めたばかりの頃、師より「心は精妙な物質である」ということを教えていただき、非常に驚きました。身体は粗大な物質で、心もそれと同じ物質なのだと思ったとき、少し心を客観視するようになったのでした。そんなときに出会った「目撃者であれ」というこのスワミ・ブラマーナンダの教えは、さらに心を客観的に観る訓練になったのです。
客観的に観ることができるようになってくると、例えば「今、自分は怒っている、そんなに腹を立てなくてもいいではないか。なぜそんなに腹が立つのか?そんなヨーガの教えに反することは止めよう」と冷静に心を制御できるようになっていきました。そのようにして、少しずつ、少しずつ、心は心を単純に眺められるようになり、想念に巻き込まれたり、堂々巡りしたりすることが少なくなっていったのでした。今も自分の心を常に見続けることをやり続けていますが、そうすることによって、心は心の間違いに気付き、だんだんと素直になって、真理というものに憧れをもち、理解もできるようになっていっているように思います。
スワミ・ブラマーナンダは「あらゆる人の意志と心はかれを次第に善に向かって導いている」と教えられていますが、本当は心だって純粋になりたいはずだし、いつまでも無知迷妄の中にいたくはないはず、次第に善に向かい、悟りに向かっていくものなのだと思いました。心の目撃者であることを、心自体が純粋になり、真理が現われてくるまで、真剣にやり続けようと思ったのでした。

ダルミニー


シュリー・ラーマクリシュナの御聖誕日

今日、2月18日はインドの大聖者シュリー・ラーマクリシュナの御聖誕の日です。

シュリー・ラーマクリシュナについてや、彼の教えはこのブログにもたくさん紹介しています。今回は、「不滅の言葉」に載っている、1883年に弟子たちとともに御聖誕を祝われた時の様子を少しご紹介しようと思います。
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早朝から信者たちは一人、また一人と集まってきた。夜明けの献燈がすむと、奏楽塔ではやさしい朝の調べが奏でられた。春なので草木はみな新しい緑の装いをして、タクル(ラーマクリシュナの呼び名)の御聖誕をよろこんで踊るようにそよいでいる。あたり一面に和楽の気が満ちあふれていた。校長(作者のM)が到着してみると、ラーマクリシュナは何人かの弟子と笑いながら何かを話しておられた。Mは傍にすすみ、床にひれ伏してご挨拶申し上げた。ラーマクリシュナは「やあ、来てくれたか」とMに言われ、みんなの方を向いて話された。
「恥ずかしい、憎らしい、恐ろしい、この三つがあるうちはダメだ。今日は本当に嬉しい日だ。だがね、ハリ(神)の名に夢中になって踊れないようなアホはいつまでたっても悟れないよ。神さまのどこが恥ずかしい?どこが恐ろしい?さぁ、お前たち歌え」

弟子たちは歌った!

「喜びのこの日、実に恵まれていること!
私たちは団結して、おぉ主よ、
あなたの真の宗教を説きましょう、

ここインドの聖なる土地で!
あなたはそれどれの人のハートに宿っておいでだ。
あなたの御名はあらゆるところにこだまして
四方の隅々まで大空を満たす。
今日、あなたの信者たちは、
あなたの限りない尊厳を褒めたたえる。

われわれは、富も友も名も求めません。
おぉ主よ、他になんの望みもありません。
あなたの信者たちは、衰えることのない愛を持って、
あなただけを求めているのですから。

あなたの御足のもとにあって安全で、
なんで死や危険を恐れましょう。
われわれは不死の泉を見いだしたのですから。
あたなに勝利あれ、おぉ主よ!あなたに勝利あれ」

シュリー・ラーマクリシュナは手を組んで一心にこの歌を聞いておられた。聞いているうちにすっかりと感動され、長い瞑想に沈んでおられた。

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この日は、朝から晩までたくさんの訪問者があり、ラーマクリシュナは彼らに教えを説かれ、たくさんの歌を歌い、踊り、三昧(サマーディー)に入られています。信者たちは三昧に入って直立しておられるラーマクリシュナの首に花輪をかけ、月のように気高く、聖なる愛の情熱に紅潮しているお顔を拝見したと書かれてあります。歓喜に満ち溢れた日を過ごす信者たちの喜びが、こちらまで伝わって来ます。そして、このようなラーマクリシュナの姿を見て、神は完全無限で、形のないものだと信じていた信者たちは、神が人間の姿をとって現れるということが真実なのだと理解したのです。

ラーマクリシュナは言われます

「形なき神も、形ある神も、両方見える。形ある神 −つまり、霊の姿を見ることができる。また人間の姿をした神を直に見たり、触れたりすることもできる。神の化身(アヴァターラ)を見ることは、神そのものを見ることと同じだ。神は、その時代、その時代に人間の形に化身としてお生まれになる」

なんと吉祥な御聖誕なのでしょう!!!

ダクシネシュワル寺院


識別とヴィヴェーカーナンダ(2)

「言葉」——それは心の思いから出てくるものである。
心は十人十色と言われるように、同じ言葉を使っていても、人によって意味や捉え方、その色合いはさまざまである。
例えば「社会」という言葉。
「社会に出る」「社会経験をする」「社会性を養う」という表現が使われることから、社会という言葉からは会社や仕事、また組織での秩序や協調性が連想される。
ただ、この社会という言葉の意味合いは、人の経験や価値観、立場や環境によって微妙に、また大きく異なってくるのである。
私自身を振り返れば、私は大学を7年通っていたため学生期間が長く、「社会に出る」ということに関して二十代前半の頃は悩んでいた。
「職に就かなければいけない。でも、好きでもない仕事はしたくない。組織や秩序に縛られず、自由に生きていきたい。世俗を離れ、瞑想を行ずるヨーガに惹かれる。でも、年金を納めるなどの社会貢献は無視していいのか……」などなど堂々巡りのように、社会というものに対して漠然とした不安や葛藤を抱いていた。

前回のブログ(「識別とヴィヴェーカーナンダ⑴」)では、「十字架」という言葉について見た。
師シュリー・マハーヨーギーは、十字架=神聖という既存の概念に縛られず、十字架という言葉に鋭くメスを入れ、その実体を明らかにしていた。
言葉本来がもつ意味がクリアーになれば、それについて余計に考えたり迷ったりすることはなくなり、思いもクリアーになる。
そして私自身の悩みであった「社会」というその実体が何であるかを、言葉を通してクリアーにしてくれた人物に出会った。
それが、十九世紀インドの聖者スワーミー・ヴィヴェーカーナンダである。

ヴィヴェカーナンダは「社会に必要なこと」として、次のように述べている。

「社会には宗教が必要」

「えっ、社会に宗教が必要? 必ずいるっていうことだよね? 無宗教でもいいんちゃうの? 信教の自由という権利が憲法で定められているし、そんなの個々人の勝手やろ」と思ってしまう。
しかし、これも宗教という言葉本来の意味が曖昧だからこそ、そのように思ってしまうのである。
宗教と聞くと、キリスト教や仏教、イスラーム教などの一宗一派を連想してしまう。
でも少し考えてみたら、「宗教」=「キリスト教」ではない。
無論、キリスト教は宗教には属するが、宗教のすべてではない。その一部分、枝葉のようなもので、宗教の根幹、宗教という言葉がもつ本来の意味ではないのである。
では「宗教」とは何か? また「社会」とは何か?

ヴィヴェーカーナンダはそれらの言葉に鋭く切り込んでいき、その実体を明らかにしていたのである。
話が長くなるなので、続きは次回に……🙇

ゴーパーラ


識別とヴィヴェーカーナンダ(1)

今日から2月ですね。暖冬とはいえ、大寒の節気。皆さま、暖かくしてお過ごしでしょうか?

ところで新年から1カ月が経ちましたが、今年の目標を立てられた皆さん、その歩みは順調でしょうか?  私は「徹底識別」が目標ですので、この1カ月は識別の大家ヴィヴェーカーナンダの著作を熟読したり、識別瞑想を行なって過ごしていました。

スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ

また、今年4月の春の祝祭「サナータナ・ダルマ アヴァターラ メーラー—神性示現大祭—」では、ヴィヴェーカーナンダの師シュリー・ラーマクリシュナにフォーカスされることもあり、『ラーマクリシュナの生涯』『ラーマクリシュナの福音』も読んでおりました📖

そこで4月の祝祭に向けて、またこの1年を通して、ブログメンバーを中心にして、ラーマクリシュナとその弟子たちについて学んだり感じたりしたことを、ブログ全体で載せていきたいと思っています‼️

私は1年を通して「識別とヴィヴェーカーナンダ」と第して、識別とヴィヴェーカーナンダについての理解と実践を深めていきたいと思います。以下が、その1回目の内容となっております。今回はヴィヴェーカーナンダには触れていませんが、それは2回目以降になります。では1年間、お付き合いいただけたら幸いです😊🙏


「識別って何だろう?」

ヨーガを学び、実践していこうとすると、誰もがこの疑問をもったことがあるのではないだろうか。
ヨーガを始める以前に大学で仏教を学んでいた私は、「識別」という言葉は知っていた。だがそんな言葉上の理解にあっては、「修行の中途段階にあるもの」ぐらいにしか捉えていなかった。実際、悟りの境地にあっては識別は放棄される。しかし、私の師シュリー・マハーヨーギーは十代の頃、この世界の理や心の仕組みを隈無く識別された。そしてよく、「徹底した識別をしなさい」とおっしゃられる。

「識別は、自分の思いや行動が真実に沿っているかどうか、矛盾していないかどうかを吟味する。聖典を学んでいったり、正しい真理の言葉を聞いておくことによって、自らの心の中にある思いが正しいかそうでないかということが識別されていきます」

これは『悟り』の本に書かれている識別の説明であるが、ヨーガを始めた頃は実際にそれが何なのか、またどのように行なっていったらいいのか、全く分からなかった。
だが9年前にニューヨークで師と生活をともにした時、「識別とは何ですか?」と尋ねると、師は次のようにおっしゃられた。

「識別とは『ヴィヴェーカー』、『弁別』ともいって、法律家が法律を基準に物事を判別するように、ヨーギーは真理でもって物事や思いを判別する。そして識別ができたかどうかは瞑想の中ではなく、日常において試される」

とても分かりやすいと思った。これを聞き、識別のイメージのようなものはつかめた。だが正直なところ、その内身はよく分からないままであった。

それから約2年が経ったある時、私は師に次のことを話した。
「昔から雑誌を立ち読みする習慣があったのですが、ニューヨークから戻ってそれをすることに違和感を覚えました。雑誌って『雑な誌』と書き、精妙な瞑想とは反対なものだと思ったので、それからは雑誌の立ち読みをやめました」
すると師は次のように言われた。

「識別、できてるやんけ」

自分ではそれが識別だとはあまり意識していなかったが、師は物事の本質に迫る際に「言葉」―—「名前」と「形」から辿っていると感じた時があり、それを雑誌にあてがってみたのであった。
ニューヨークに滞在中、私は瞑想をしていると十字架のようなものが見えた時があった。神聖なヴィジョンだろうと思って師にそれを話すと、師はいつになく強い口調で次のように言われた。

「十字架、あれは磔台、つまり処刑台。手足をあの十字の形にできるのは人間の肉体だけ。肉体は変化するものだから真理ではない。だから十字架は神聖なものではなく、肉体を象徴している無知なんや」

十字架=神聖な象徴という既存の概念に縛られず、師はその本質を見抜いていると感じた。私はただただ、師の物事の本質の迫り方に圧倒されたのだった。(続く)

ゴーパーラ


ラーマクリシュナの福音 〜聖き御名〜

武器を取れ!武器を取れ!おお人よ!死が戦列をなして、お前の家を襲うぞ!
知識の矢筒を負い、信仰の戦車に乗り、愛の弦を張ったお前の舌なる弓に、
母カーリーの聖き御名なる矢をつがえて、彼に向かって放て。
この戦いに一つの策略がある、それには戦車も御者もいらない。
ガンガーの堤に立って敵を迎えよ。彼はたちまち殺される。

神の御名という種子には偉大な力があるのだよ。それは無知を破壊する。種子はか弱いものだ。芽も柔らかなものだ。それでもそれは固い土を突き破る。土が割れて芽を出させてやるのだ。

カーリー マー

私はラーマ神(インドの神様)が大好きで、日常的にラーマの御名を唱えています。ですので、神の御名が武器となるということがとてもよく分かるのです。
この世界には、いろんな争いが蔓延していて、世界でも紛争は絶えないですし、社会でも理不尽なことがたくさん起こります。その原因は人の心にエゴや無知があるからだとヨーガでは教えられています。自分さえよければいいというエゴ意識!自分の中にも周りにもいっぱいあります。このエゴ意識と戦うときに、ラーマ神の御名が武器になるのです!!
身近な社会の中で人間関係がぎくしゃくした時に、ラーマ神の御名を唱えたり、聖者のお姿に思いを馳せたりすると、すぐに平安を取り戻すことができます。

それはなぜかと考えてみますと、「人の本性はこの身体でも心もなく、その奥にある純粋な意識、(存在、アートマン、魂、神ともいう)である」という真実の教えをヨーガの師から授かり、私はこの教えに絶大なる信頼を寄せていますので、神の御名を唱えることによって、自然に心が純粋な神なる意識の方にシフトして、エゴ意識や無知が簡単に消えていってしまうのだと思いました。不思議に思うこの現象も、ごく当然なことなのでしょう。

この無敵の武器を手にして、長きに渡る戦いに勝利したいと思います!

ダルミニー


祝!『理想の人間になるためのガイド』 台湾にて販売開始!

この度、師のヨーガの教えや弟子たちの実践の記事を掲載した台湾語の冊子が、初めて完成しました!!!

台湾で活動を行なう弟子たちが、昨年から懸命にこの企画を進めてきました。現在、マハーヨーギー・ミッションから出ているヨーガの教えは主に日本語と英語のものばかりです。一人でも多くの中国語圏の方に師のヨーガを知ってもらえたらと、これまでも台湾のブログでも翻訳したものを掲載してきましたが、クラスなどで紹介をしても、なかなかその反響が見えなかったそうです。そこで、それなら書籍という形にしてみてはというアイデアがあがりました。

内容は、師の教えやサットサンガでの問答のみならず、機関誌『パラマハンサ』に掲載された弟子たちの記事、また京都や東京、台湾のブログからの引用などです。教えだけではなく、仕事や日常生活においてどのようにヨーガを実践していくか、そういった弟子たちの体験談に基づく記事を紹介することによって、もっと身近にヨーガを学んでもらえたらという願いがありました。この冊子は三部作となっていて、今回が第一部目となります。タイトルに「ガイド」という言葉があるため、旅行を連想させることから、前に向かって歩いていくイメージで台湾の弟子の一人、ザォユァンがカバーデザインをしました。ちなみに裏表紙にも言葉が掲載されていて、次のような意味だそうです。

「出発する動機は常にシンプルなのだろう

いつもと違う美しい風景を見るために  一緒に実践し

一歩ずつ自分の理想の人生に向かって歩んでいきましょう」

 

***

そして先日火曜日に、無事に印刷が出来上がったそうで、早速台湾のクラスでお披露目と販売会がありました!

手に取られた方からは、表紙がとても可愛い、目を引く、タイトルもいい!などたくさんの歓びの声があったそうです。クラスに参加されている方からも、嬉しい感想が寄せられました。

「ブログも読んでいますが、どれを読んでどれをまだ読んでいないか、はっきり覚えているわけではなく、見落としたものもあるかもしれません。本の形になるとメモもできるし、確実にすべての記事を読めて、とてもいいと思います。思いついたらすぐ開いて読めるし、スマホを見る時間も減るでしょう。もっと自分の生活に集中できると思います。中国語の本ができてとても嬉しいです! みんなの努力に感謝いたします」

今後、さらに多くの方の手元に、師のヨーガとこの冊子が届いていきますように!

ミラバイ

 


MYMロングTシャツ販売開始‼️

すでにHPではお知らせしていますが、1月12日からカーリーヤントラのロングTシャツの販売が開始されました‼️

また、昨年の夏に完売しました同デザイン半袖Tシャツも1月末まで同時販売します!

私、前回の半袖Tシャツはプレゼントを含めて9着を購入しましたが、今回ロングTシャツはもちろんのこと、半袖Tシャツの持っていないカラーも注文します✌️

修行者を悟りへと導くこの逆三角のカーリーヤントラは、インドでは伝統的に瞑想で用いられているそうで、「目に見えないヴァイブレーションというのがそこから発散されているから、持ち歩いて行く所、行く所が神聖になっていくと思います」と、デザインをされた師はおっしゃっていました。

素晴らしいこのホーリーアイテム、ぜひこの機会に購入していただけたらと思います!

トートバックも好評販売中です‼️

ロングTシャツ、半袖Tシャツ、トートバックのご注文はこちらから☜😀

ゴーパーラ