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『マハーヨーギーの真理のことば』第十二章 信仰

「本当に信仰というものはね、そんなに簡単に手に入るものでもないし、お金で買えるものでもない。それは心の足掻きというか、葛藤、そういうものの代償に残されていく、勝ち取られていくものです」

〜『マハーヨーギーの真理のことば』第十二章  

足掻いて、もがいて、それでも掴んでいたいものはありますか?

私はどんなに不器用でカッコ悪くても、真理だけは掴んでいたい。

それが激流の人生を渡る私の命綱です。

真理だけを思って、真理だけを見て、真理を行為していきたいです。

 

ゴーパーラ


『Paramahamsa』表紙絵シリーズ ⑤

インドの細密画は、15世紀から19世紀を最盛期としてインド各地で描かれ、文化やその土地によって画法やモチーフが異なり、様々な特徴があるといわれています。
小さなものだと数センチ、大きくても一辺が20cmほどといわれる小さな画面に描くのは、「見る人と絵が一対一で対話をする」という考え方があるからだといいます。またそれは魂を清める行為であるともいわれています。
確かに、細部にわたって繊細に描かれた小さな絵をじっくりと眺めていると、時には心が静まり、時には愛に満ちていくようにと、そこに秘められた物語の真意が、心の奥深くに豊かに広がっていくのを感じます。

さて、今回は『Paramahamsa』No.79の表紙を紹介させていただきます。

この絵は、シャクティ(キールタンを歌うメンバー)が毎週、ヨーガ・ヴィハーラに集まって、キールタンを歌っていた時に感じたことをかたちにしたものです。
当時の思いを、『Paramahamsa』の裏表紙に掲載していましたので、ここで紹介させていただきます。

「Panduranga Vitthale(パーンドゥランガ  ヴィッタレー)」、この曲を歌う時、ヨーギニーがただ一人荒野に座り、神を求め続けるという絵が浮かんできます。曲の高まりとともに、彼女の神への愛、神の御名の叫びは、やがて木々や山、大自然にも神を求める声を上げさせる、そんなイメージです。歌の中に入り込んでいくと、いつも深い瞑想へと導かれるような感じを受けますが、そうして歌っている中で、ある日気付きました。私たちは初めは神に会いたいと願い、探し求めるけれど、本当は大自然のみならず、自身の全細胞までが神そのものだということを。
神を感じ、神とともにある不動のヨーギニー、今回はそんな思いを絵にしてみました。

シャチー


今やるべきこと

人は歳を重ねるにつれて、それまで普通にできていたことができなくなっていきます。
関節が動き辛くなったり、筋力や視力が低下したり、記憶力が落ちたり、老化現象として少しずつ現れることもあれば、病気を発症して、一気に大きな変化が起きることもあります。
また、認知症など脳に関する病気の場合、別人格になってしまったのではと思うほど、言動に変化が起きる場合もあります。

私の鍼灸院に来ている患者さんにも変化の時を迎えている人や、そのような状態の家族を介護している人がいます。
自らに起きている変化を受け入れられず、なんでこうなってしまうのだろうと落ち込む人。
病気によって自分が知っている家族がいなくなっていくような感じがして戸惑う人。

肉体が変化し、なくなったとしても、その人の中にある真実の存在は永遠に変わらず存在し続ける。
私はヨーガに出会い、それこそが真実だと思えるようになりました。

しかしそれを知らない人にとっては、そう聞かされても、そうですか、とすぐに納得することは難しいと思います。
そう考えると、落ち込んだり戸惑っている人に対して言うべき言葉が見つからないことがあります。

このような時、具体的な実践の手掛かりを掴むために、マザー・テレサが残した言葉を読み返します。
先日読み返したときは、この言葉が特に印象に残りました。

私たちの言葉などはどうでもいいのです。大切なのは、私たちを通して神が魂に語りかけられることだけなのです”

この言葉を私自身に当てはめると、神は師であるヨギさん、魂は誰もの中にある真実の存在、となります。
1人でも多くの人に、私を通してヨギさんに語りかけて頂けるよう、私自身が誰もの中にある真実を揺るぎなく信じ、ヨギさんへの想いでいっぱいに満たしておくこと。

それが今やるべきことなのだと、この言葉を読んで確信しました。

この写真のマザー・テレサの表情が大好きです。

 

   ハルシャニー  


夏の瞑想会

 
東京では毎月瞑想会を開催しています。
 
7月の瞑想会に、京都から先輩が来てくださいました。
 
酷暑の中、先輩を含め11名が参加。
コロナ禍で京都での定例サットサンガが休止となり、オンライン上での交流を続ける日々でしたが、実際に顔を合わせてゆっくり話すのは本当に久しぶりのこと。
みんなとっても嬉しそうで、それを見ているだけで胸がいっぱいになりました。
 
再会を喜び合い少し話をした後、瞑想しました。
瞑想会の会場は、都心にも関わらずほとんど物音が聞こえない静かな空間。静寂の中、同じ空間で一緒に瞑想できる喜びを感じつつ、小一時間座りました。
 
瞑想の後は先輩を囲んでのサットサンガ。
 
東京のKさんは、コロナ禍でもオンラインで各クラスを受講できたのが有り難かったこと、今後は対面で会う機会も増やしていってもらいたいと提案してくれました。
普段お会いしていてもこうした話をすることがなかったため、お話を伺えて良かったです。
 
静岡から参加されたMさんは、瞑想会に参加すると決めた時からずっと楽しかったそうで、当日も終始笑顔で過ごされていました。
みんなが優しくて嬉しかった、とのことでしたが、遠くから参加してくれたMさんの思いが私たちにも伝わってきて、嬉しくなりました。
 
 
京都から参加された先輩は、ヨーガを実践していく中での気付きや発心について話してくれました。また、長年師が行為される姿をお傍で見ておられ、印象に残っているエピソードも話してくれました。
そして、一人一人の話に真剣に耳を傾け、真摯に答えてくれる姿は、師が私たちにしてくださっていたことと全く同じだと感じました。
先輩とともにいることで歓びに満たされ、大きな安心感を得られたのは、きっと私だけではなかったと思います。
 
師がずっと見守ってくださっているような雰囲気の中、互いの熱を高め合い、これからどう行為して行くべきかを具体的に考えるきっかけとなった瞑想会でした。
 
瞑想会の後に記念撮影。みんないい笑顔。
 
 

それから3週間ほど経った先日、8月の瞑想会がありました。

7月の瞑想会の後により良い瞑想会にするために話し合いをして、今回から瞑想の後に『マハーヨーギーの真理のことば』の教えをみんなで学び合うことにしました。
各自が惹かれる教えや、気になる教えを取り上げて、理解しづらかったり疑問に感じたことがあれば質問し合い、みんなでその教えを読み、それぞれに感じたことを話す形で進めました。
人によって視点が異なるからこその気付きが幾つもあり、充実した時間になったと思います。
何となく理解していたことが話しているうちにしっかり納得できた、朗読で教えを聴くことで内容がすっと入ってきた、という感想も頂きました。
 
 
これからもより充実した瞑想会となるよう、みんなで学び深め合っていきたいです。
 

   ハルシャニー  

 

 
 

最愛なるグル、シュリー・マハーヨーギーを偲ぶ会 ~MYM台湾ブログより

6/10、台湾でシュリー・マハーヨーギーを偲ぶ会が行なわれました。MYM台湾のブログにその時の様子が掲載されていますので、日本語での翻訳をご紹介いたします。

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サットグル・ シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサは、2023 年 5 月 18 日に日本の京都で御入滅されました。 台湾の弟子たちは2023年6月10日にアーナンダ・アーシュラマで偲ぶ会を行ないました。 午後、参加者たちは時間通りに到着しました。厳粛な祭壇が設えられ、美しい花とヨギさんのお写真が飾られ、荘厳で平安な雰囲気が漂っていましたが、過度の装飾や悲しみはありませんでした。

会の冒頭、ニューヨーク・ミッションが制作した、ヨギさんの貴重な姿を記録した映像『Satguru Shri Mahayogi Paramahansa: A Modern Age Yogi Who Abides in Self-Realization』がまず上映されました。この映像には、ヨギさんが各地で行なわれた貴重なヨーガの布教の様子が記録されています。スクリーンに映し出された慈愛に満ちた師(グル)を見て、みんなの心の中に言葉では表せない温かな感情が湧き上がったことでしょう。

その後、参加者たちはそれぞれヨギさんとの思い出やヨギさんへの思いを語り合いました。皆、人生の様々なタイミングでヨギさんに出会い、異なる理由や状況の下ヨーガに触れましたが、ヨギさんは誰もが理解できる方法で、弟子たちが内なる真我に向かい、生きる方向が見つけられるよう導いてくださいました。

話の後、全員が順番に祭壇にお花を捧げました。そこで捧げられた言葉は、ヨギさんに会いたいという言葉よりも、決意の方がより多く聞かれました! 皆はサットサンガで、ヨギさんが私たちに伝染するほどの安らぎと力強い眼差し(ダルシャン)を与えてくださったこと、そして弟子の無知や不安を受け入れながらも、ヨギさんが輝かしい笑顔を向けてくださったことを懐かしく思い出して、もっとヨギさんと過ごしたかった…と感じたのではないかと思います。ある弟子は、 「京都でのジャヤンティに参加する機会がなかった、これからもヨギさんに会えない」と、とても残念そうに言いました。それで、その場は少し悲しみに包まれてしまいました。

しかし、参加者の一人は京都で葬儀に参列した感想——ヨギさんの肉体は消えていったけれども、より共にいるように感じられた、と語りました。それはまさに『ヨーガの福音』の中にある、「真の自己は生まれたこともなく、死ぬこともない。不滅で永遠の存在です」という教えそのものです。その後、プラサーディニーはヨギさんとのエピソードを分かち合いました。以前ヨギさんから「いつも側にいますよ」という言葉をいただいた時、「はい」とお答えしたものの、本当は不安を抱えていました。自分は台湾にいるので、どう考えてもヨギさんが側におられるということは考えられないと思っていました。先日、アーサナをやっている最中に様々な思いが浮かび、次第に頭痛がし始めた彼女は、すぐ呼吸に集中して、ゆっくりゆっくり息を吐き…徐々に、ヨギさんが側にいるように感じ始めました。参加者たちはそのエピソードを通して、ヨギさんが既に真理を私たちに授けられているということ、またしっかりと実践して心を純粋で透明にすれば、ヨギさんに近づいていけるということを、より理解したのではないかと思います。

京都、ニューヨーク、そして台湾でサンガを作ってくださったシュリー・マハーヨーギーに感謝いたします。それは、現在の弟子たちのためだけではなく、この世で輪廻転生している将来のすべての魂の導きにもなるでしょう。

ヨギさんは平等、そして無私の態度で求道者たちに接し、数えきれないほどのサットサンガを開催し、アーサナも指導し、神の化身を直接見る機会を与え、ヨーガの真義を理解できるように導いてくださいました。ほぼ50年間、ひと時も休むことなく、この神聖な仕事を続けられました。2022年のジャヤンティの最後に、ヨギさんは「ブラフマンの輝きに満ちた顔を私に見せてください。楽しみにしています」とおっしゃいました。まさに今、私たち弟子たちは、命の有限性をさらに意識し、夢から覚めて真実に目覚めなければいけないと誓い合いました。いつか真実の中で、グルに再会できることを楽しみにしています。

画:MYM台湾 キャリー

ブッダはご入滅前に、「私を見る者が私の弟子ではなく、私の教えを知る者が私の弟子である」とおっしゃいました。ヨギさんの弟子として、私たちは一瞬一瞬ヨギさんの言葉を体現できるように、自らの行動を通してヨギさんの教えを伝えることができるようにと願っています。これこそが私たちの生涯におけるたった一つの使命です。

Satguru Shri Mahayogi Paramahansa ki, Jai!

文:MYM台湾  シンユンMYM Taiwan


『Paramahamsa』表紙絵シリーズ ④

 今回は、『Paramahamsa』No.78の表紙を紹介させていただきます。

アール・ヌーヴォー調のフォントをあしらった表紙は、師であるヨギさんがデザインしてくださったものです。
ヨギさんは、毎回その絵にあうようにとフォントを選ばれますが、いつも何かしら、明確な、具体的なイメージがあり、そのイメージに沿ったものが見つかるまで何度も見返して探されました。
言葉にすると単純な作業ですが、その集中力は並大抵ではなく、また選んでくださったフォントでデザインされたものは、いつも私の想像をはるかに超えた美しさを放っていました。

*実際に発行された『Paramahamsa』はモノクロです

 No.78の裏表紙に、この絵を描いた当時のエピソードを掲載していましたので、ここに紹介させていただきます。

毎週金曜日夜、シャクティたちはヨーガ・ヴィハーラに集い、キールタンを歌い踊っている。いえ、実際には踊っていないのだけれど、まさに踊っているようだと感じたことがありました。
その日、私たちは輪になってシヴァ
を讃える歌を歌っていました。身体を左右に揺らし、満面の笑顔で声高らかに歌うシャクティたち。そこにはヨギさんがおられ、ともに遊び戯れている! そんなふうに感じ、私は深く感動したのでした。そして「あぁ、こういう絵を描きたい」と思ったのです。

このミニアチュールから、神だけを見つめ、神と一緒に遊ぶシャクティたちの歓びが少しでも伝われば嬉しいなぁと思います」

*2023年7月20日配信のWeb版Paramahamsaにて、このイラストを紹介していただきました。

シャチー

 

 


ブッダから届いた宝物

木曜日と土曜日に、京都、大阪で開講されている瞑想入門のクラスでは、講師のゴーパーラさんならではのヨーガ行者としての鋭い視点で、瞑想やこの世界の理、心のしくみについての興味深いお話が聞けて参加者たちの質問も活発です。先日は、ブッダってどういう人だと思う?という投げかけからそれぞれのイメージを共有し合い、ブッダを身近に感じてよりブッダが好きになってしまいました♡ 「入門」というだけに素朴な質問がしやすい雰囲気があり、質疑応答を通じたみんなでの交流も楽しく、また、瞑想の時間はピタッとした静けさと集中があり、メリハリがあります。

そんな瞑想入門クラスに熱心に通われているNさんは、「自分はまだまだ真理やヨーガを信じられていない」と包み隠さず話されます。ある日のクラスで、「真理があるか、ないかを確かめたい」と真剣に言われました。ゴーパーラさんは、ブッダの教えにもある「たとえ古い聖典が出てきてもそれを盲目的に信じる必要はない」という言葉を紹介され、師も同じように仰っていることを話されました。

師は「まずヨーガを進めていくには、それまで経験で培った観念とか概念とかいう心の秤を無視するところから始める、あるいは疑うところから始める。またその聖典とか真理の言葉といわれるものも、鵜呑みにする必要はない。ただし、その両方についてよくよく考え、そして瞑想して、間違いのない答えが出てくるまでそれを探求しなければいけない」と説かれています。

まさに師のこの教えの通り、探求の真っ只中のNさんと私たち。ゴーパーラさんは、瞑想を山登りに例えられ、学生時代に行ったチベットの高度5000メートルの山で、高山病になったことを紹介されたことがありました。どんな山を目指すかは人それぞれ。目指している山が違ってもいいけれど、でもどんな山を目指すにしても頂上に辿り着くためには、やらないといけないことがある。それは土台作り。基礎体力が必要! その基礎作りが瞑想入門のクラスなのです。基礎は何度も繰り返し学び実践することで強固になるなぁと私は感じています。

とっても為になる実践的な瞑想入門クラスなのですが、実は参加人数が少なくて(涙)クラス宣伝のため、チラシ蒔きを兼ねて数人でインドカレーのお店に行く機会がありました。私はそこでNさんと初めてゆっくり話しました。Nさんは、すっごく正直で、真っすぐで、ある意味、師の教えの言葉を地で行く(!)絶対に何も鵜呑みにしない人(笑)なんだなということを感じ、何てヨーガ向きな人なんだ?!と思いました。真理も神ももちろん全く鵜呑みにはせず(笑)、自分自身で確かめながら、着実に道を歩んでこられたんだと分かりました。Nさんは師のサットサンガでも師に、疑心暗鬼になるんです、神という存在についても信じられないです、どうやって信仰する神を選ぶのですか?というような正直な質問をたくさんされていました。私はNさんに対して、疑心暗鬼だと言われながらも、でもこんなにも熱心にサットサンガやクラスに参加し、これだけヨーガを続けられるその理由は何なんだろう??凄いなと密かに思っていました。お話してその謎が解けました、Nさんは師の存在にただただ惹かれている! 好きになってしまっている♡

さて、そんなNさんからあるエピソードを聞きました。Nさんが書いてくださったそのエピソードをここでご紹介したいと思います。(ナリニー)

* * *

 

「まあ、なんてかわいらしい仏様!」
2019年12月8日、この絵はわたしのもとに届きました。
その1週間前、師の特別サットサンガの日、瞑想の対象を決められずにいたわたしは

師に「神様に来てくださいとお願いしてもいいですか」と尋ねました。
師は「お願いしてもいい。その中で親しみのもてた神を信仰すればいい」と
仰ってくださいました。

それから数日後、知人から「Kさんが、渡したい絵があると言われている」というお電話がありました。Kさんは長年マザーテレサの下で奉仕活動をされている方だったので、わたしは「もしかしたら、キリスト様かマリア様が家に来られるのかなぁ」と思っていました。

そして、12月8日、ブッダが悟りをひらかれたその日、この絵はわたしのもとへ。
以来、ずっと見守ってくださっています。

師のはからいによってもたらされた宝物です。

 

ブッダの版画
N 

* * *


師のお言葉の力

「ヨーガに出会う前の私と同じように苦しい思いをしている人が、本当は苦しみなどない尊い存在なのだと感じられるように、行為したいです」

サットサンガの中でそう話した時、師は笑顔で仰いました。
「そうしてくれたら私も嬉しい」

糸がぐちゃぐちゃに絡まったような状態だった私の心を、師は少しずつ解いてくださいました。
その糸の端をしっかりと師に結び付け、少しでも師に近付くために手繰り寄せるようにヨーガの道を歩めていることは、本当に幸せなことだと感じています。

ヨーガに出会う前、私は自分は不幸だと思い込み、自分と似たような悩みや苦しみを感じている人には共感し親しくするけれど、幸せそうに見える人とは距離をとって関わらないようにしていました。
ヨーガを実践するようになってから、誰しも悩んだり苦しんだりしながら生きていることを理解し、自らの中に光り輝く真実があることに気付かず生きていることこそが不幸であると思うようになりました。

 

私の仕事は悩みや苦しみを抱えた人と関わることが多く、かつての私と同じように糸が絡まったような状態だと思われる方もいます。
師のように絡まった糸を解くことはできなくても、少しでもほぐすことができたら…自分に何ができるのか考えると、師がなさっていたように、常に誰に対しても等しく、謙虚に行為することだと気付きました。

今は、目の前にいる人が、一瞬でも自らの中にある真実を感じられるように祈りながら、何か一つでもその人のために行為できるように努めています。

 「そうしてくれたら私も嬉しい」
師の言葉と笑顔が、私に力を与えてくださっています。


真っ白なクルクマの花。この花を見ると夏が来たと実感します。蓮の花のような清らかな雰囲気なので、見つめているだけで心が調います。

   ハルシャニー  

 

       

            


かけがえのない時間 ~弟子たちのサットサンガ~

梅雨に入った6月18日。その日は、私たちの最愛の師がこの地上から去られてちょうどひと月目の節目でした。まだまだ夢のまた夢を見ているような、きっと多くの仲間たちが実感も、整理もつかないまま日々を過ごしていたかもしれません。しかし、季節は確実に巡っていました。気が付けば、あちらこちらには鮮やかな色彩の紫陽花が咲き始めています。また台風が来たり、雨が降ったり、突然晴天になったり、まるで私たちの心模様のようでもあります。
そんな時節に、コロナ禍以来初めての一同が会してのサットサンガが開催されたのでした。久しぶりに再会する仲間も多く、それぞれが再会を素直に歓び合いました。
 
コロナ禍以前は、毎月サットサンガが開催されていた、あの同じ会場の同じ部屋。皆で師がお座りになっていたムートンを囲み、まず礼拝が捧げられ、少しの瞑想を行ない、会が始まりました。師のお席の横には、清楚な水色と薄ピンクの紫陽花が可憐に生けられ、会場の大きな窓からは梅雨の晴れ間の明るい青空と、大きな木の爽やかな緑が広がっています。師はいつも晴れ男さんなのでした。
かつて師が毎年NYにご布教に行かれていたご不在中も、弟子たちはいつも皆で師のムートンを囲んでサットサンガを続けてきました。今、実際に師の肉体とお会いすることは叶わないのかもしれませんが、それでも弟子たちがやっていくことは同じです。
 
今回のサットサンガの詳しい内容は、WEBパラマハンサにて掲載されますが、印象的だったことをお伝えさせていただきます。それは誰もの中に、確実に師の教えが生きている、ということです。師がお姿をお隠しになられた今、それが余計に際立ち、師の教えが燦然と輝いて見えました。一人一人が師の教えと存在を身に纏い、これから自分たちの足で歩いていく、ということを確認し合ったかけがえのない時間でした。

師は肉体を離れられてもなお導かれていて、その導きは永遠です。肉体には限りがあり人は誰もが死にますが、肉体が無くなってもその存在が無くなるわけではないことを師はずっと教えてくださってきました。弟子たちが話したことは、この度のことは弟子に与えられた最大の教えだというふうに受け止めていることや、ラーマクリシュナの直弟子たちは師のご入滅後、厳しい修行を行ない、その後献身奉仕へと身を投じたけれど、その生き様に現代の私たちはどう倣うべきなのか。そのためには、これからヨーガ行者として一人一人が、より具体的に行動、実践していく必要があるという話もありました。
師の存在と教えを多くの人に伝えていくためには、本当にみんなそれぞれの力が必要で、それぞれが出来ることを活動していくこと、そのお手本として遠く離れた台湾の仲間たちが積極的に活動している話も出ました。

また一人の先輩が話されたことも印象的でした。
「一人一人が味わってきた歓び、それを行為を通して、身近なところで真実をお伝えすること、日常の当たり前の生活の中で本当に純粋なものは伝わっていく。ヨーガは実践あるのみ、と師は何度も仰ってきた。地道な作業だからこそ、独りよがりにならないよう行為するためにも、時折、弟子のサットサンガなどの場は貴重。学びを深めて今まで以上に師と共に活動していく。みんなの思いは一つ。どのように形として伝承していくか」

「ヨーガというものを自らが信じて、周りの方々にちょっと言ってあげたり、話したりすることで、その方が心が楽になったなぁと思ってもらえたらいい、ただ純粋な行為をしていけたらいいと思う」

思いやりと優しさ溢れる中で会は進行されていきました。泣いている者もたくさんいましたが、次第にその涙はあたたかい涙に変わっていきました。きっと、もう十分に、みんな思いはある。その思いをこれからは、より素直に、大胆に行為していく、すべて行為に転換していけるはず。そんな勇気と力を、師がみんなに与えてくださっているように感じました。

皆が少しずつ思いを話した後、サットサンガの最後に素晴らしいサプライズが待ち受けていました。
・・・なんと四名の方がこの日、師からの法名を授かりました。師は生前、法名をご準備されていたのでした。なんということでしょう。法名は、師の直筆で、それはそれは美しい、愛おしい師の字で記されていました。清らかな散華のように皆からの清々しい拍手喝采が沸き起こりました。こんな演出、一体誰が想像するでしょう。師の、神の、なんという粋な計らい。私たちのことをずっとずっと変わらず見守り、手を取り、足を取り導いてくださっていることを強く感じました。悲しみだけで決して途方に暮れないように、すべてを導いてくださっている、肉体は無くなっても、存在は永遠だと。
そして皆で師へのストートラムを奉納しました。空間すべてに、皆の美しく、清らかで尊い思いが満ち満ちていきました。今日は偶然か必然か新月。そういえば、先日ある仲間が話していました、ここからが船出だと。新月の日は、新しいスタートを切るにふさわしいと師も仰っていた吉祥なこの日、皆で決意を新たにし、師からの祝福が与えられたことを感じる機会となりました。
「これからが楽しみやなぁ!」と師の声が聞こえてくるようです。

師のムートンを囲み、弟子たちが半円形で座っているサットサンガの写真

 

ナリニー


旬の野菜を食べてサットヴァになる

今年の春は、心身の不調を訴える患者さんが多く来院されました。

フルタイムで働きながら子育てされている患者さんは、仕事も子育ても精一杯頑張っているのにうまくいかない状態が続き、無力感に苛まれているようでした。
多忙だと食生活が乱れがちかも、と思い尋ねてみると、簡単に調理ができる市販のものを利用することが多く、食べても満足できずに間食の量も増えているとのこと。
ちょうど春の野菜が次々と旬を迎えている時期だったため、旬の野菜を頂くことで身体も元気になることを話し、子供は大人以上に素材のおいしさを敏感に感じ取ることがあるから、お子さんのためにも、1種類でもいいから、素材を生かしたシンプルな味付けで食べてみたらいいかも、と提案しました。

翌日その患者さんから、メールが届きました。
その後帰り道に一つ野菜を買って帰り、蒸して食卓に並べたら、お子さんたちがおいしい!と言いながらたくさん食べたそうです。
子供は野菜だけだと食べないだろうと思っていたのに、旬が分かるのかな?とびっくりした、明日もやってみます、と書いてありました。

旬の野菜はサットヴァ(清浄)な性質を持ち、生命力に満ち溢れています。
その命を頂くことで、私たちの心身もサットヴァになり、満たされる。

現在、その患者さんは以前より表情が明るくなりました。多忙な生活に変わりはないけれど、少しずつでも旬の野菜を食事に取り入れるのを意識するようになったそうです。

近所には農家さんが多く、採れたての野菜が手に入るのでありがたいです。

    ハルシャニー