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東京・代々木クラスのメンズチームをご紹介します!

“ヨガ”といえば女性をイメージする方も多いのではないかと思いますが、各地で開催されているマーハーヨーギー・ミッションの「ヨーガ・瞑想クラス」には男性も多く通われています。そこで、今日は東京・代々木の土曜日クラスに通われている男性陣をご紹介したいと思います!!

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数年前からご自分の人生を真剣に見つめ直すようになったと話される小菅さん。初めは「瞑想専科」に参加され、その後ヨーガ・瞑想クラスにも熱心に通われるように。ご自宅でもアーサナ(ヨーガのポーズ)を続けていらっしゃるそうですが、最近、急にアーサナが深まってこられたなぁと感じ、アーサナを始められてから現在の変化についてうかがってみました!

マハーヨーギー・ミッション(MYM)のアーサナを本格的に始めたのは還暦が近づく頃でした。YouTubeなどで様々なアーサナ向けの筋肉や腱へのアプローチが紹介されているのを見たことがありますが、私はMYMのアーサナを繰り返し練習しているだけです。MYMのアーサナは各ポーズが相互に連動していて、それだけで十分にポーズが深まるように考えられていると思います。ポーズの最中にもう限界!と思う時、呼吸に集中して心を鎮めると、スッとポーズが深まる時があります。ポーズの限界は、実は自分の心が決めているだけで、心をコントロールすると限界がぼやけてくるのを感じます。日常生活でもこの学びを忘れないようにしたいと思います。

いつも穏やかで物事をとても素直に受け止められる小菅さんを拝見していると、いくつになっても心の素直さや柔軟さを持つことの大切さに気付かせて下さいます。私もそうありたいなと思います。

続いて、昨年の春からクラスに参加されている星野さんです。星野さんは、以前からブッダにとても興味があり、ブッダの教えをベースに瞑想をされていたそうです。MYMのクラスに通われるようになったきっかけや今の心境をうかがいました。

ブッダの教えを色々調べていた時、マハーヨーギー・ミッションのWebページを見つけ、釈迦牟尼を含め、古の聖者の教えにとても造詣が深いヨーギーさんの組んだレッスンが近くで受けられるという事を知り、軽い気持ちで申し込みました。
はじめてアーサナに挑戦した当時、体中が痛くてポーズによっては拷問のように感じました。終わった翌日は全身筋肉痛になっていたのをよく覚えています。
ここ1~2年ほど、アーサナを続けて変わったと感じるのは「心と呼吸の変化、感覚への気付き」「基礎体力、忍耐力、集中力の向上」です。はじめは痛くてたまらなかったアーサナも今ではだいぶ慣れ、週に1回のクラスは拷問ではなく楽しみになりました。「毎回、自分の限界を少しずつ破ることを意識する」「どんな時にも呼吸へ集中し、息は常に吐ききる」を心がけてアーサナに励んだ恩恵だと思います。
そのおかげか、最近、瞑想中に痛みに負けて足を崩してしまうなどは少なくなり、深い集中状態にも入りやすくなりました。瞑想中に挫ける事がだいぶ減ったなぁと感じます。また、呼吸が一定で落ち着いていると雑念にもすぐ気づくようになり捕われなくなります。“アーサナは瞑想の為にある”という教えは本当でした。

星野さんはこれまでも毎日一時間以上瞑想されていたそうですが、眠気や雑念に捕われたり体の痛みで中断することが度々あったそうです。普段はあまり多くはお話されない方なのですが、今回お話をうかがって、クラスを続ける中で様々な変化を感じておられるのだなぁと嬉しくなりました!

最後は、転勤で東京に来られる前には大阪のクラスにも長年参加されていたSさんです。仕事がお忙しい中で長くヨーガを続けていらっしゃる理由をおうかがいしました。

本来、毎日アーサナを行うことが推奨されますが、私はクラスに通い始めた頃、週一回のクラスに出来るだけ参加するのを意識していました。クラスに参加した後の心身の変化は十分に実感していましたので、どこかで長く続けていきたいと考えていました。振り返ってみると、心身一如の言葉通り、今をより良く生きていく秘訣がヨーガにあると当時から認識していたのだと思います。

Sさんとお話をするといつも職場の皆さんが気持ちよく働けるように心を配られたり、環境を整えることを進んでされている様子が伝わってきます。ヨーガの成果は日常生活にあらわれるといわれています。継続は力なり。ヨーガの学びを身近な日常の中で実践され、しっかりと生かされていらっしゃるのですね。

クラスの後にパシャリ。左から小菅さん、星野さん、Sさん。クラス中の真剣な様子とは打って変わり、皆さんとても爽やかないい表情ですね!

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皆さんお忙しい中、丁寧に答えて下さり本当にありがとうございました!
週に一度クラスに集まり仲間とともにサーダナ(ヨーガの修練)を行ない、また一週間それぞれが一人で自宅や職場でヨーガの実践や学びに向き合い、またクラスでともに学び合う。とても地道な繰り返しかもしれませんが、それを両輪のように続けていくうちに気が付くと身体や呼吸、心に変化があらわれ、それが日常生活や生き方にまで反映していくのだなぁと、今回お話をうかがってみて改めて感じました。そして、私自身いつもヨーガの仲間に支え助けられていて、クラスでは毎回皆さまから貴重な学びをいただいていることに、また心から感謝と喜びと力が湧いてきました!
東京はコロナ禍の中、さらに困難な状況が続いていますが、最大限感染予防対策に努めながら楽しく元気にクラスを行っています。
このブログを見たメンズ諸氏、ぜひお気軽にクラスにご参加くださいね!!

※今後も感染状況を鑑みてのクラスの開催となりますので、スケジュールについてはHPでご確認下さいます様お願い致します。

シャルミニー


おのれこそ おのれのよるべ

コロナ禍は収束の気配を見せず流行の第三波とも言われる状況になっています。不都合を感じながらも、いわゆる「新しい生活スタイル」に沿って人との距離を出来るだけ取る生活に慣れ始めている自分がいます。しかし昨年の暮れ、来る東京オリンピック・パラリンピックに心躍らせながら社会生活を謳歌していた頃、このような時代が来ると誰が想像していたでしょうか。

部屋から見えた朝焼け。炎と輝き大空を羽ばたく神鳥ガルダのようでした。

微塵も考えなかったことは人生の様々な場面である日突然起こります。一瞬の気の緩み、コンマ数秒のタイミング、そして神の計らいやカルマとしか考えられないことなど、まるで大きな変化の歯車が冷徹に表情ひとつ変えずに廻っていく感じがします。さらに事故や大災害などによって、人生が激変した方々に思いを馳せると表す言葉さえ見つかりません。

名前あるもの。形あるもの。始めと終わりがあるもの。この世の粗大なものも微細なものもすべて変化し、思い通りにならない。私たちは20世紀初頭のスペイン風邪流行を、歴史上の出来事として知っていましたが、思いもしなかったコロナ禍は、くしくも聖典で学んだ知識を私たちに実体験させることになりました。想像もつかない出来事は人間の計らいなどお構いなしに起きる。なぜならこの世はマーヤー(神の幻影)だから。コロナで痛感させられたことです。

それでも私たちは変化に驚き、慄き、悲しんでばかりいるわけにはいきません。それは変化する対象物に依存しているのだと、ブッダは教えてくださいました。「おのれこそ おのれのよるべ おのれを措(お)きて誰によるべぞ。(法句経160)」ブッダは人間の一生における依存の対象の移り変わりを挙げながら、真に頼るべき対象について教えています。赤ん坊は一心に母親を目で追い、小学生になると先生の言葉に目を輝かせます。青年になれば恋人を昼夜想い、社会に出ると地位や財産、中年以降は健康や美への執着も加わるかもしれません。でもそれらは時が来れば消えてしまい何ひとつ残りません。

続けてブッダはこの経で、よるべとなるのは「よくととのえし おのれ」であると教えています。私が読んだ訳本では「自己の中に一切の『他』を見出した偉大な自己」と解説していました。私なりの理解では、それは「アートマン」(真の自己)であり、「真理」であり、「私の中にある神」ではないかと思います。名前も形も始まりも終わりもないアートマン。それは自分を取り巻く世界に遍満しています。自分はアートマンと悟ること。それこそが受け入れ難い変化を受け止めていく究極の方法なのだと思います。

私は執着を捨てるために、本当の自分への瞑想を進めています。瞑想は少しずつ深まっていると感じますが、同時に自分の執着の根深さを垣間見て、恐ろしささえ感じ無力感に苛まれることもしばしばあります。「わかっちゃいるけどやめられない。」昭和の頃の歌謡曲で聞いたことがある様な文句ですが、飛び跳ねる猿のように狡猾な心の正体を知ったからには、絶対に負けられないと日々気持ちを奮い立たせています。

前述の経はブッダが入滅を目前にして、嘆き悲しむ弟子の阿難に語った言葉だそうです。「お前は自分自身に燈火を抱いて、自分の足もとを照らし、ゆく手を照らし輝かせ」と力強く教えられたそうです。ブッダはこの時こうも語ったそうです。「私の肉身を見る者が私の弟子ではなく、私の教えを知る者が私の弟子である。(ヨーガの福音)
今、コロナ禍のために師であるヨギさんにお会いできないという試練に直面しています。私がそれを悲しみ嘆いてばかりいたら、それは私がヨギさんに依存しているのであり、師の教えとは相容れないことなのだと思います。師に依存するのではなく「私は師とひとつである」という揺るぎない事実。その教えを燈火として、ただひとり歩んでいきたい。師はコロナ禍を通して私にその経験をさせて下さっているのだと思います。

最後に一言。でもやっぱり早くヨギさんにお会いしたいです。

昨年の暮れに訪れた足摺岬。自らの足下と行方を照らす灯台の如くありたいです。

小菅 貴仁


2020ジャヤンティー in 東京

2020年11月23日。東京では、今年は弟子1人1人がそれぞれの場所でこの吉祥な日を迎えました。私たちにとっては、師が御降誕されたとても大切な特別な日です。

東京は朝から澄み切った青空が広がる気持ちの良い天候で、例年のようにみんなで集う形ではないものの、私は歓びに湧き立つ想いで『パラマハンサ NO.142』を封筒から取り出しました。今年は『パラマハンサ』誌面を通して、弟子から師への感謝の想いを祝辞として献上しています。
先輩グルバイが描かれた表紙の絵「師とともにある歓び」を観て、より一層歓びが大きくなりました。

『パラマハンサ』142号ジャヤンティー特別号

ページをめくると、弟子からの祝辞が掲載されており、どのメッセージからも師への想いが溢れ出ていて、読んでいると胸が震えるものばかり。読み進めるたびに師への想いで胸がいっぱいになり、歓びの涙が次々と溢れました。みんなが一堂に会したジャヤンティーと同じような感動がありました。読み終えた後に「シュリー・マハーヨーギ・ストートラム」を捧げ、時が経つのも忘れて師のお写真を眺め続けていました。

ちょうど翌日はヨーガ・瞑想クラス。たまたまグルバイだけだったこともあり、ジャヤンティーの過ごし方や感想を報告し合いました。
みんなそれぞれの自宅で場を調えて、例年と変わらず気持ちを高めて『パラマハンサ』を開いたようです。中には気持ちが高まりすぎて、開くまでに何度もストートラムを歌ってしまった、という人も!
台湾のグルバイがYouTubeにアップされた「TANTROKTAṂ DEVISŪKTAM/タントローキタム デーヴィースークタム(女神への讃歌)」を聴いて気持ちを調えた人もいました。
実際には行かれなくとも、京都の方角に向かって過ごした人もいました。
いつも暮らしている自宅という空間が、神聖な喜びに満たされて特別なムードだった、歓びがこみあげて自宅にいることを忘れた、との声もありました。
きっとこの日は日本各地で、N.Y.で、台湾で、それぞれの家がアーシュラマとなったことでしょう。

弟子一人一人の祝辞から、共通したものを感じたという感想もありました。
それは、どこにいてもみんな同じように師への言葉に尽くせない感謝の想いが溢れていて、私たちが師から与えて頂き続けているものを一人でも多くの人に伝えていきたい、行為していきたいという強い願いです。
師の行為は常に優しく慈愛に満ちています。私たちはそれぞれに様々な悩みや苦しみを抱え、師の下に辿り着きました。師は私たちの中にある純粋な本質のみを見て、絶妙なタイミングでヨーガの道を歩めるように導き続けてくださっています。そこには何の計らいもありません。

私はサーナンダさんの祝辞に特に胸が熱くなりました。
”ヨギさんは本当に根気良く、時には何年もかけて導かれることもあります。いったい一人の人間の事をそこまで親身になって考えてくださる存在が他にありましょうか。単に大変だと同情するだけでなく、救いを求める人を抱きしめるだけでなく、具体的な解決の仕方を考えてくださるばかりか、弟子に対しては、未来にわたって真実に目覚めるための道筋すら敷いてくださるのです。そのような存在がサットグルと呼ばれる存在です。
ヨギさんご自身にとっては何の益もございませんし、働く義務すらない。それでもヨギさんは人々のために、ただ愛ゆえにその尊いお身体を保ってくださり、私たちにまるで奉仕してくださっているかのように接してくださいます。その尊い行為に触れて、心が動かされない者がいましょうか。そのようなグルの愛と叡智に触れて、心が変容しない者がいましょうか。本当にありがとうございます。”

この感謝の想いを具体的に表すのが、他者への行為だと思います。私たちがして頂いた事を同じように誰かに対して行為していくということ。
こうした 想いを互いに確認しつつみんなと話していると、現在クラスに通ってきてくれている人たちにとって、どうしていくのが良いかという話になりました。

オンラインでもっと工夫して何かできないか、こうしたらもっと良いかも、と話は尽きず。そして、『パラマハンサ』を読むことで過ごしたジャヤンティーも素晴らしかったけれど、やっぱり少しでも師にお会いしたい!!!と一層想いを熱くしました。

アーシュラマ近くの北野天満宮が懐かしくなり、自宅近くの谷保天満宮(国立市)に行ってきました。

ジャヤンティーの余韻に酔う中、こうして話ができる機会を頂けたことにも本当に感謝です。
まだ先が見えない状況だからこそ、どこかにヨーガを必要としている人が以前にも増していると思います。今ヨーガを学び実践している人たちのためにも、これから出会える誰かのためにも、みんなで今できることを考えるだけでも力が湧いてきます。

東京のグルバイの一人で、なかなか会う機会のないサルヴァーニーさんからはメールで感想をいただきました。

ヨギさんへの愛と信仰で輝く弟子の祝辞と弟子を導くヨギさんの姿から、ヨギさんはどれほどに働かれているかを感じました。
今年は様々な変化がありましたが、その渦中でも相応に落ち着いて過ごせているのは、心の中にヨギさんがいらっしゃるからだと思っています。
どれほど思っても足りることはありませんが、ヨギさんの誕生と存在に深く感謝いたします。

みんな同じ空間でともにお祝いをすることができなくても、溢れる感謝の想いは師へと注がれてます。

私たち一人一人が、それぞれの身体が置かれた場所で、師のように愛ゆえの行為ができますように。今日という1日1日を最善を尽くして過ごすことができますように。それを真摯に淡々とやっていくうちに、少しずつでも師の行為に近づいていけると信じています。

ハルシャニー


ヨーガの仲間と分かち合うサットグル・ジャヤンティー!

11月14日(土)、秋の高く澄み渡った空の下、東京でともにヨーガを学ぶ仲間が久しぶりに集いました!
東京で3月に外出自粛要請が出されて以降、オンラインでの自主瞑想会などで定期的に顔を合わせる機会はありましたが、クラス以外で大人数で集まることは控えていたため、皆で集まるのは数ヵ月ぶり。今回、残念ながら仕事や家庭の都合で参加できなかった方もいましたが、久しぶりの再会を喜び合いました!
この日の集いの目的は、なんといっても11月23日に迎える私たちの師サットグル・シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサのジャヤンティー(御聖誕祭)の歓びと師への感謝の気持ちを皆で分かち合うため。古来、ヨーガでは一生をかけて師を探し求めたといわれています。常に私たちを大きな慈愛によって真理へと導き続けて下さっている師。私たち弟子にとって師は闇を照らす灯明そのもの。その最愛の師の御聖誕日は歓びに満ちた一年で最も大切な日です。

この日のノアスタジオ代々木でのヨーガ・瞑想クラス。皆さん真剣に瞑想に取り組まれています。

クラス終了後、皆でスタジオから徒歩5分ほどの場所にある新宿御苑へ。
穏やかな秋の日差しの中、ソーシャル・ディスタンスに気をつけながら気持ちの良い芝生の上で円座に。大空の下で体も心ものびのびと広がっていくようです。

みんな楽しそう!時間を忘れるひと時を過ごしました。

皆それぞれが大切にしている師の教えやエピソードなどを飾らない言葉で思い思いに語り合いました。
忘れられない師との出会い、ニューヨーク・ミッションで師と一緒に過ごした日々のこと、毎年の御聖誕祭の役割で学んだ大切なこと、日々の実践に生かされている師から授かった言葉…。また、まだ師に会われていないSさんは私たちを通じて感じている師のイメージをお話して下さり、嬉しさとともに身が引き締まる場面もありました。
皆の話を聞くたびに、一人一人が師との特別な結びつきを持っているのだなぁと思います。そして、師が端的に弟子の性質を見極め、いかにその時々に一番必要な導きをされているのかということを感じ、改めて感謝の思いと師の計り知れない偉大さを思わずにはいられませんでした。
皆で笑ったり、泣いたり、真剣に聞き入ったりしていると、まるで師が私たちと一緒に円座に加わり、あの子どものような純粋な笑顔でお話を聞かれているように感じました。

それぞれの場所で迎える今年のジャヤンティー。一人一人何処にいたとしても、師への愛と感謝を捧げ、師とともにある歓びと真理の光で皆が満たされる日となりますように!!!

ジャイ!!!!!!

最後にマスクを取って、とってもいい笑顔!!(撮影ターリカー)

シャルミニー


ヨーガの修練でプラーナを調える

新しい日常として、マスクの着用や手指消毒が習慣となり、半年以上が経ちました。
様々な場所で気を配る機会が増え、それに慣れてきたとはいっても緊張感のある日々。その影響もあってか、私の職場(鍼灸治療院)には心身の不調を訴える方が多く来院しています。
患者さん一人一人の話に耳を傾け、抱えている不安感や症状が緩和するように努めてはいますが、そう簡単にはいかないのが実状です。

鍼灸治療では、ツボにアプローチして人の体の気を調え、症状の改善を促します。当然のことながら患者さんは不調を抱えた状態で来院されており、気のバランスが崩れた状態になっています。そのバランスを調えるのが鍼灸師の仕事なので、鍼灸師自らの気が充実して調っていることが重要となります。

鍼灸院の「鍼灸経穴図解」

ヨーガでは、気のことをプラーナと言いますが、プラーナが調っている人の傍にいるとこちらのプラーナも調い、平安な気持ちになります。師のお近くにいるだけでも平安な気持ちになるのは、師のプラーナの影響を受けているからだと思います。
師のプラーナに影響されて私自身のプラーナが調っていくように、私がプラーナを調えることで患者さんに少しでも良い影響があるといいな、と、これまで以上にプラーナを調えたいと思うようになりました。

ヨーガには生理的な修練によってプラーナを制御する方法があり、具体的な修練がアーサナ(坐法)とプラーナーヤーマ(調気法)です。
アーサナの力は以前もプログで体験談としてご紹介しましたが、最近はプラーナーヤーマも毎日実践するようにしています。アーサナもそうですが、プラーナーヤーマも正しいやり方で毎日続けるのが大事だと教わっていたことを思い出したのがきっかけでした。
アーサナとプラーナーヤーマの修練を続けるうちに、平安な感覚に満たされていくことが増えました。仕事などで生じていた様々な思いが一つずつ確実に消えていくような感覚にもなりました。
また、目の前で起きている出来事が、まるでスクリーンに映し出されたものを見ているように感じるのに、身体は必要な動きをしているという、出来事自体とそれに付随するはずだった思いが切り離されたようで、淡々と行うというのはこういうことなのかなと、今更ながら実感。日常生活を送る上での自分のプラーナの状態を、常に意識して観察するのが習慣となりました。

プラーナが動くと心も動く。プラーナが動かなければ心も動かなくなる。ヨーギーは不動心に達しなければならない。だから、プラーナの動きを制止すべきである。 (ハタ・ヨーガ・プラディーピカーより)

実践を続けていく中で、プラーナーヤーマのクンバカ (保息)の間、周囲の音が気にならなくなり、雑念もなくなり、ハートの奥にいるとされる本当の自分に吸い込まれていくように感じられたことがあります。静寂という言葉の通り、心をざわつかせることが何もなく、しんと静まりかえった状態。それが一時のことではなく、日常生活の中でも常に持続するようになっていけたら…
ふと、師がコロナ禍の3月にNYミッションに送られたメッセージを思い出しました。
“踏ん張るしかありません。ヨーガ的隠遁状態 - クンバカです。頑張ってください。”

このような状況下だからこそ体感できるものがある。私にとってはこのヨーガの修練がそうです。より丁寧に確実に実践を続けることでプラーナを調え、今を正しく見る力を確固たるものとしたい。その上で前をしっかりと見定めて進みたい。私自身が平安な気持ちでいることが周りの人にも伝わり、その場のプラーナによってさらに私自身も穏やかな気持ちになる。そんな良い連鎖が起きていくようにできたらと願っています。

ハルシャニー


育児を通してヨーガに向き合う

私が初めて「本当の幸せ」について、とことん突き詰めて真剣に考えたのは長女が生まれた時でした。
「自分の命と引き換えにしても、この子に絶対に幸せになってほしい!」という思いが心の底から湧いてきました。これほどまでに、自分以外の人の幸せを願ったことは一度もありませんでした。が、私が死んだらこの子を幸せにできないということにすぐに気が付き(笑)、この子のためにも元気に生きていかなければ!と思い直しました。この時私に、わが子を通して、自分の命と人生が自分のためだけにあるのではなく、他者のためにもあるという自覚が芽生えました。子どもが生まれたことで突然生じた大きな心境の変化に、自分自身が驚きました。

初めての育児は毎日戸惑うことばかりでした。何度も自分が泣きたくなりましたが(実際、泣きました。笑)、一生懸命おっぱいを飲んで、か弱い声で泣くことしか出来ない小さなわが子を見ていると、この子にはどんなことがあっても幸せになって欲しい!という思いがふつふつと湧いてきます。
私は娘を幸せにするための具体的な方法を考え始めました。「とにかく、愛情いっぱいに育てよう。それが一番大切だわ」そして、育児書や子育てに関する本も参考にしながら、わが子が幸せになるために私に出来得るあらゆることを探しました。
絶対幸せになるための方法…絶対の幸せ…。「ちょっと待てよ…」ふと疑問がわきました。「何が絶対の幸せなんだろう?何があっても壊れない幸せ、本当の幸せってなんだろう?」
目指す目的地が曖昧では、そこに向かう方法も定まらない。まずは目的地を明確にする方が先決だ!と思った私は、今度は目的地である「本当の幸せ」について必死で考えました。
お金持ちになること、ずっと健康でいられること、皆から愛されること、世間から認められること、平凡で穏やかに暮らせること、好きな仕事に就けること、夢が叶えられること、自由気ままに生きられること、それから…。
考えても考えても簡単に答えは見つかりませんでした。私が思いつく「幸せ」には、わが子が絶対に幸せになれるという確信が持てなかったのです。少しでも不安材料があれば本当の幸せにはなれないのですから。
─結局、納得できる答えは見つけられませんでした。とはいっても、子どもの成長はちょっと待って、というわけにはいきません。私が取りあえず目的地としたのは“自己実現ができること”でした。

子育て中には親としていろいろなことを子どもに教えなければなりません。子どもは時折、哲学的な質問を投げかけてきます。「私は生まれる前はどこにいたの?」「私はどうして私なの?」「人は死んだらどうなるの?」
子どもが成長していく中で、他者に対する本当の優しさや、善悪の判断等について、ただ常識だからとか、単なる処世術のような表面的なことではなく、もっとその奥にある本質的なことを教えたいと思った私は、結局、自分自身が何度も物事を根本から考え直すことになりました。私は子育てを通して、この世界の在り様に対する疑問に本気で向き合うことになったのです。物事の根本、この世界の在り様を問うということは、今思えば真理を求めることとまったく同じことだったのです。
そして、私は師に出会い、ヨーガの中に「本当の幸せ」もこの世界に対する疑問の答えも、すべて見つけることができました。

ヨーガとは本当の自分を実現させること。
私たちの本性、真の自己とは不滅で永遠の存在であり、至福そのものである。普遍の真理には名前もなく、言葉では言い表すことが出来ない、神と呼ばれるものと同じである。それが誰もの本質であり、本当の自分であると─。
「本当の幸せ」とは、何かによって得られるものではなく、もうすでに誰もの中にあって、私たち自身が至福そのものであり、ただそれを実現することだったのです。
考えに考えて、私が取りあえず目的地にした“自己実現ができること”は、ヨーガでの意味としては間違っていなかった!?

クリシュナ神話の一場面、幼子クリシュナと養母ヤショーダ。クリシュナは神としての偉大な面を隠し、母親がわが子を愛するように神を愛することを教えました。

私は二人の娘の子育て真っ最中に師と出会い、師の下でヨーガの道を歩むことを決心しました。時間に追われる日々の中で、もっと早く師に出会えていれば…と思った事もありましたが、今振り返ると、私にとって家族を持つことや子育てはとても大切なことであり、ヨーガに向かうために必要なことだったのだなぁと感じています。
今もヨーガの学びは続づいていますが、今はわが子だけでなく、誰もが絶対に壊れない本当の幸せ=本当の自分が実現できることを心から願っています!

シャルミニー


時間も空間も超える存在

昨年までは、ヨーガの学びを深めるために月に1回ほど東京から京都に通う生活でしたが、今年はそれが叶わない状況が続いています。
クラス休講中はオンラインでのクラスや瞑想会でグルバイ(兄弟姉妹弟子)と繋がり続けられたことが支えとなっていましたが、クラスが再開されてからは東京のグルバイとは会えるようになりました。短い時間であっても、直接顔を見て話せること、クラスで共に集中を高め合えることに、これまで以上に喜びを感じています。
ただ、東京以外のグルバイとはまだしばらくは会うことができそうにありません。このブログ『ヨーガを生きる』で各地域のグルバイの実践の様子に触れられることが楽しみの一つとなっています。

ヨーガを学んでいるという大きな共通点はあるものの、性質や傾向は人それぞれ違うので、共感し鼓舞されるところもそれぞれ異なります。また、一人一人の環境や状況も違うので、ヨーガの実践の仕方や体感の内容も様々です。ブログからはそれらが垣間見られて、力をもらったり、気付きがあったりします。

最近、野口美香さんの書いたブログ記事『何のためのお金』を読んでいて感じたのですが、生活していく中での気付きの過程が、一つ一つ丁寧に自分自身の視点で描かれていて、美香さんがかつて聞いた師の教えを着実に実践していっている様子が伝わってきて、私ももっと丁寧に確実に実践していきたい!と鼓舞されました。
ブログの締めくくりには、
野菜を油で揚げる音が、まるで水琴窟(すいきんくつ)と雨音のように澄んでいて美しかった。瞑想的な、さまらさな音色。
と「さまらさの台所」Webクラスの感想があり、とっても素敵な表現に、日々の慌ただしさが一瞬静止してリセットできたような感覚にもなりました。

そして読み終わった後、思い出したことがあります。
美香さんと初めてお話したのは、京都に通い始めたばかりの頃。美香さんがまっすぐとこちらを見て、時折うなずきながら私の話に耳を傾けてくれたことは、今でもはっきりと覚えています。
美香さんご自身は決して多くを語られませんでしたが、彼女の話した言葉の中で特に印象に残っているものがあります。(言い回しは正確ではないことをご了承下さい。)
「ヨギさんはこちらが近づいた分だけ、近づいて来てくださる。自分をさらけ出すほど、こちらが近づいた以上にもっともっと来てくださる。」
美香さんがまっすぐ前を見据えて話してくれたその姿を見て、私もそうしていきたい!と憧れのような想いを持ちました。
もっとヨーガのことを学んでから質問しないと、とか、こんなこと質問しても、とか、余計なことばかり考えて足踏みしていたのですが、何でも質問してしまえ!と背中を押されたようで、これを機に少しずつ質問ができるようになりました。

こんなふうに、グルバイとの交流では、ほんのちょっとした会話やメールのやりとりの中であっても、大きな気付きやインスパイアを受けることがあります。それは時に自分を省みるきっかけとなったり、背中を押してもらうきっかけとなったり。もしグルバイの存在がなければ、ヨーガの道を歩むスピードはもっと遅くなっていたのかもしれないと思うことが多々あります。
少し前のシャルミニーさんが書いたブログにありましたが、「ガンジス河の砂の数ほどもあるこの世すべての命の中で、人として生を受けるということはそのガンジス河の砂を手ですくったほどであり、たくさんのご縁が重なって成る稀有なことである。さらにそこから親指の爪の上に乗る砂の数ほどの人が、人として生まれてきた本当の大切さに気づき、喜ぶことができる」、というこの教えの通り、グルバイとは稀有な縁で繋がっていて、共に喜びを分かち合える存在だと思います。
離れた場所にいて会えなかったとしても、互いの存在に支えられていると、確かに感じることがあります。

東京代々木クラスにてヨーガの仲間と共に!新しいトートバッグと。

“ヨーギーは時間と空間を超えている”と言われていますが、師はもちろんのこと、ヨーギー・ヨーギニーとして道を歩んでいるグルバイもそうであると思います。
現在のような状況下で様々な葛藤や迷いが生じることもありますが、いつどこにいても常に師やグルバイと共にあるということを忘れずに、実践を続けていきたいです。

ハルシャニー


恒河沙 ― 大都会東京でヨーガに生きる!    

故郷である大阪から家族とともに横浜に転居して3年、その後東京に移り住むこととなり早11年以上が経ちました。
こちらの生活にもすっかり慣れ、東京ライフをエンジョイ!?していますが、それでもいまだに東京の街の大きさや人の多さに圧倒されることがあります。まるで小高い山のようにあちこちにそびえ立つ高層ビル群、どこに行っても街中に溢れ返る人人人…。特に都心に行くと東京が世界有数の人口の多い大都市であることを実感します。

大都会東京

とても大きな数を表す単位に「恒河沙/ごうがしゃ」(10の52乗)というものがあるそうですが、これは仏教の経典に出てくる言葉で「ガンジス河の砂の数くらいたくさん」という意味なのだそうです。東京の人の多さを体感する度に、私はいつもこの「ガンジス河の砂の数」という言葉が頭に浮んできます。と同時に、ここ東京だけではなく世界中には多種多様なたくさんの人が生きているということを改めて思い出します。

以前、仏教の教えで「ガンジス河の砂の数ほどもあるこの世すべての命の中で、人として生を受けるということはそのガンジス河の砂を手ですくったほどであり、たくさんのご縁が重なって成る稀有なことである。さらにそこから親指の爪の上に乗る砂の数ほどの人が、人として生まれてきた本当の大切さに気づき、喜ぶことができる」というようなお話や、「ガンジス河の砂の数ほどの仏さまがいる」という教えがあると聞いたことがあります。
古代インドのリシと呼ばれる聖者や賢者たちは、人として生まれること、そして真実を探し求めること、それを実現することのできる人としての命はとても尊いもので、人として生まれたということは吉祥なことであると教えていると師から教わりました。またヨーガにもこの世のすべてが神の顕れであるという教えがあります。そして、ヨーガを志す者にとって本当の師に巡り合えるということは大変に稀なことであり、得難い宝であると教えられています。

母なるガンジス河

そんなことを思いながら大勢の人々がせわしなく行き交う東京の雑踏の中に立っていると、ガンジス河の砂の数ほどもあるこの世の命の中で、皆一人一人が人として生まれてきた尊い命をもっている人達なんだなぁと感じます。そしてその中の一人である私は、たくさんのご縁によってヨーガと出会い、本当のヨーガの師に巡り合うことができ、師の下でヨーガの道を歩むことを決意しました。

   「それ」は今、ここに在ります。
   「それ」は常にどこにでも在ります。
   「それ」のみが在るのです。
   「それ」が真のあなた自身なのです!
      シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサ

まだまだ道半ばの私ですが、たとえ何処にいたとしても、真実を実現することのできる人として生を受けたこの尊い命を吉祥なものとして生きたいと思います。

シャルミニー


ある夏の日の出来事

今年の7月は太陽が恋しくなるほど梅雨空が長く続きましたが、8月は太陽のパワーを存分に感じる気候となりました。

私は6、7月の2ヶ月間、職場である治療院の移転作業をしていました。壁を塗ったり、畳からフローリングへ変える施工をしたり、普段はしない力仕事が続いたせいか、あちこちが筋肉痛になり身体が硬くなってしまいました。毎日自宅でのアーサナは続けていたものの、なかなか硬さが取れない状態。でもクラスでみんなと一緒にアーサナすると、次第に硬くなっていた身体がふわふわになる感覚がして、クラスが終わる頃には気分も頭の中もスッキリした状態になるので、これまで以上にクラスのありがたさを感じていました。

治療院に生けられている向日葵

ようやく移転作業が終わり無事に新しい治療院で診療を開始した日は、ちょうどクラスがある日でした。
最後の患者さんの治療を終えたら急にホッとして、眠気とともに身体が重だるくなりました。ああ、早くアーサナがしたい!とクラス会場のある代々木へ向かう電車に乗っていたところ、車内が急にざわめき始めました。乗客同士のトラブルで、男性2人が激しい喧嘩をしていました。他の車両へと移る人、スマホに夢中で無関心の人、車両内の光景に強い緊張感と違和感をおぼえました。ちょうど乗り換えする駅に到着したのでその車両から降りましたが、乗り換えを済ませても心拍数はしばらく上がったままで、自分で思っていた以上に動揺していたことに気付きました。とにかく早くアーサナがしたい!プラーナを調えたい!とすがるような気持ちになっていました。

その後クラス会場に到着し、いつも通りクラスが始まりました。最初のヴリクシャ・アーサナ(立木の形)では思いの外ふらついて、まだ落ち着いてないんだなという思いが頭をよぎりましたが、その思いはすぐに捨て去るようにして、今吐いている息に集中するようにしました。続いてマールジャーラ・アーサナ(猫の形)では、普段はない背骨がきしむような感覚がありましたが、今できる最大限まで形を深めたら、あとは息を吐くことだけに集中しました。シャヴァ・アーサナをする度に身体から緊張感が取れて、眠気と重だるさはすっかりなくなりました。疲れている時にアーサナをすると、これはきついだろうな、とか今日は無理しないようにしよう、という思考がいちいち出てきてしまうことがあったのですが、この時は最初に多少の思いがよぎっただけで、あとはリードの声に導かれながら淡々と形を作り呼吸を深くしていくことをやり続けたような感覚がありました。

8月26日の代々木クラスにて

クラスが終わり家に戻ると、夫に「今日は(移転初日で)大変だっただろうに何でそんなに元気なの?」と言われました。そう言われて初めて、そうか今日は確かに大変だったかも、と人ごとのように思い出したくらいでした。もちろん電車内での出来事の記憶もありましたが、それに対しての印象や思いは消え去っていました。クラスの後でなければ帰ってすぐに夫に一連の出来事を報告していたと思いますが、話そうという思いもありませんでした。

アーサナをすることもクラスに通うことも日常の一部となり、毎回集中して行うようにしていたつもりでも、いつの間にか真剣さが足りない状態になっていたのかもしれません。
今回のクラスに関しては、切羽詰まった状況に陥ったことで真剣さが引っ張り出されたのだと思われます。
このことで思い出したのが、『ヨーガの福音』の中の、神を求める1人の男が聖人の元へ行き「神を悟らせてください!」とお願いをするという話です。
聖人はくる日もくる日も同じ生活をしていましたが、ある日河で沐浴している時に、聖人についてきていた彼の頭を河の中に押さえつけました。彼の苦しみが限界を超えようとしたとき、聖人は手を放して彼に言いました。
「何が欲しかったのか?」
彼は答えました。
「息がしたかったのです!」
聖人は言いました。
「もしおまえが、ちょうど息を求めたように心底から神を求めるなら、神を悟ることができるだろう」

息ができなくなるというのは苦しく、そのまま死に直結するという恐怖もあります。
それが限界を超えようとしたときに、ただ息がしたいとそれだけを求める純粋さと真剣さが生じる。それを日常の中でいかに持ち続けるか。けして容易いことではありませんが、そうしていく必要があります。

人はあっという間にその時々の状況に慣れて、何となく日々を過ごすことができます。
どんな状況下でも流されることなく、何にも惑わされることなく、本当の自分を実現するという目的を達成したい。より純粋に、より真剣に、求め続けたい。
そんなことに気付かされた、夏の出来事でした。

ハルシャニー


聖典を読む喜び

私は今、とても楽しく毎日聖典や聖者の本を読んでいます!

普段の私の日常生活は仕事や家庭が中心なので、自然にヨーガの話に触れたり、いつでも周りの誰かとヨーガの話ができるという環境ではありません。ですがこれまでは、毎週クラスでヨーガの仲間と顔を合わせ、クラスの後にそのままいつまでもヨーガの話をしたり、一緒にキールタンを歌い共に神の御名の歓びを分かち合うということが当たり前のようにできていました。それは私にとって大きな喜びであり、確実に日常生活の中でヨーガの実践を継続していく一つの原動力にもなっていました。
ところが、緊急事態宣言以降はそのような機会がなくなり、長い間、師にお会いすることもできず徐々にモヤモヤとした気持ちが膨らんできました。
「あぁ、師にお会いしたい!真理や神の話が聞きたい!語り合いたい!でもこんな状況でどうすれば……。そうだ聖典があるじゃないか!!」
いつもはじっくり本を読む時間がなかなか取れないのですが、外向きな活動が減り在宅時間が増えたので、分厚くて家でしか読めない本もゆっくり読むことができます。

最近よく読んでいる本。『ヨーガの福音』は師の教えが編纂されたとても読みやすい一冊。いつもすぐ手に取れる所に置いています。

実は、以前は聖典や聖者の本と聞くと何やらとても難解で、私が理解するにはハードルが高すぎるというイメージがありました。実際「さあ、読むぞ!」と気合いを入れてから読み始めるのですが、カタカナで書かれた聞きなれない言葉を正確に読むことから難しく、言葉の意味や書かれている内容を理解するのは更に根気がいることでした。「何のことやら、さっぱり分からん…」何度も挫折しそうになる心を叱咤激励しながら何とか読んでみるものの、大抵はしばらく読んでいるうちに睡魔との戦いにあえなく敗れて本を閉じる、というのがお決まりのパターンでした。笑
そんな状態の私でしたが、師の下でヨーガを学ぶようになってから、たくさんの学びの機会をいただき、聖典に出てくる言葉の意味やヨーガの教えを少しずつ理解できる様になっていきました。師は、真理の言葉や教えを誰にでも分かるように、時にユーモアを混じえながら実に分かり易くシンプルに教えて下さいます。直接師より授かる教えは何ものにも代え難い大切な宝物です。ですがそのような貴重な機会はいつもあるわけではありません。師にお会い出来ない時には、師の教えが編纂された書籍や機関誌『パラマハンサ』を読むことで、いつでも師の教えに触れることができます。
また、皆で聖典の読書会をしたり、バクティ・サンガムではたくさんの神々や聖者の物語に親しみ、キールタンで神の御名を歌うことを通して自分の中にある歓びの源泉に触れるような体験をしました。
そうしているうちに、気が付くといつの間にか聖典がとても身近に感じられるようになり、聖典を読むことが楽しく好きになっていたのです!読んでいるだけで歓びが溢れてきたり、時には面白くて笑ってしまったり、神の栄光と祝福に圧倒されて涙で字が読めなくなったりします。それは、以前思っていた頭で知識として理解するというものではなく、ハートで読んでいるような感覚です。

最近では、日々の生活のいろいろな場面でまるで聖典連想ゲーム?のようにそれらを思い出すようになりました。
先日、ちょうど『ラーマクリシュナの福音』を読んでいたところへ娘がおやつのリンゴを持って来てくれた時のことです。突然、そのリンゴがプラサード(神に捧げられた供物のお下がり)のように感じられ、一瞬輝いているように見えました。運んでくる娘の様子もなぜか恭しく見えます。不思議な気持ちでリンゴを口に入れようとした時、今度は自分の体がヨーガの教えにある“神の神殿”であるように感じ、自分のために食べるのではなく自分の中に住まわれている神のために食べているという感覚になったのです。同時に、神殿であるこの体を大切にしなければいけないという思いが湧いてきました。“食べる”という行為をこの時ほど神聖なものに感じたことはありませんでした。
また、私は今小さな保育園で保育補助の仕事をしているのですが、毎日子ども達がゴーパーラ(ベイビー・クリシュナ)に思えて仕方がありません!幼い子ども達のお世話は気を付けなければいけないことがとても多いのですが、いたずらをしたり、わがままを言ったり、泣いたり甘えたり、仲良く遊んでいたかと思うとケンカをはじめたり…、子ども達の無垢な笑顔を見ていると、まるで純粋で愛そのものであるゴーパーラが私の周りで遊び戯れているように思えるのです。そして同僚の保育士さん達も私自身もヤショーダ(クリシュナの養母)のような気がしてきます。

ゴーパーラ(クリシュナ)は兄のバララーマや遊び友達の牧童たちと一緒にさまざまな悪戯をして大人を困らせます。あ、今みんなでしめし合わせて好物のバターを盗もうとしています!

今、私が聖典を真に理解しているとはとてもいい難いでのすが、それでも本を開けばどのページも真理の教えや神を讃える言葉で埋め尽くされ、それらの言葉を目にするだけでも胸に歓びが広がりますし、聖者の生き様に触れると決して諦めずに少しでも前進しようという勇気が幾度となく呼び起こされます。難解で取っつきにくいイメージしかなかった聖典がいつの間にか私の日常の中に入り込みイキイキと動き出すなんて、以前の私からは予想だにできなかったことです。師の導きがなければ、未だに睡魔との戦いに敗れ続けていたことでしょう。
どうぞ、聖典の真実をこの世界の中に見ることができますように。どうぞ、聖典の言葉が私を通して顕わされますように。最愛の師を想い、お会いできる日を待ち望みながら、今日も歓びとともに聖典を開きたいと思います。

シャルミニー