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アーサナへの姿勢

アーサナ(ヨーガのポーズ)は身体の柔軟性を競うものではなく呼吸の深まりと安定をもたらし、その影響を受けて心も強く穏やかな状態に変化します。今回のブログは、愛媛県松山市で熱心にヨーガを実践されている大森みさとさんのアーサナについての記事です。彼女のアーサナの真摯な取り組みによる呼吸と心の変化が紹介されています!


2年と少し前、ヨーガを学び始めた頃の私は、あまりアーサナを重要視していませんでした(!)。クラスに通い、自宅でもしていましたが、なんせその頃の私はヨーガに巡り合えた喜びで無敵のイケイケ状態だったため、この情熱さえあればオールオッケー!!と言わんばかりに舞い上がっており、アーサナは2の次3の次のような気持ちでいたように思います。
ちょうどその頃、師がNYへご布教のために約3か月渡米されることになり、幸運にも10日間ほど滞在を共にさせていただく機会に恵まれました。滞在中に私は、「アーサナは何呼吸すればいいですか?」と師にお尋ねしました。それに対する師のお答えは、

「20呼吸。」

頭が真っ白になりました。その時の私にとって20呼吸は未知の回数で、果てしなく長いように感じられたからです。に…20呼吸…この先毎回20呼吸……
私は抵抗する心のままにアーサナから逃げました。でもずっとそうしているわけにはいかないし、嫌だという思いがあることは自分に必要なことなのでは…とも感じていたので、日本に帰ってしばらくしてから腹をくくってアーサナに取り組むことにしたのです。
(※反るポーズなど、アーサナによっては20呼吸していないものもあります。また、ひとりひとりの体調や状況があるため、誰にとっても20呼吸が必要ということではないと思います。)

初めはアーサナが終わらないかのように長く感じられました。しかし、毎日続けるうちに、気が付くと20呼吸のアーサナが日常の一部になっていました。
それまでの私は、クラスではポーズが苦しくなると、「いつ解除の声がかかるんだろう」といった雑念がよく湧いていましたし、自宅でも、何となく辛くなったら保持をやめるというやり方だったので、自分に都合のいい範囲内で取り組んでいたと思います。でも20呼吸すると決めてからは、積極的にアーサナに向かっていく感覚が生まれ、それまで感じたことの無かった肉体や呼吸の苦しさに直面しても、呼吸が終わるまではじっと耐えるという状況が自然と出来上がっていました。師の教えがなければ、自分を追い込むこともなく、そこでの苦痛に耐えるということもできなかったと思います。

マッチェーンドラ・アーサナ(ねじる形)

私はこの教えをきっかけにアーサナに向き合うようになり、今、アーサナに対する姿勢の大切さを感じています。自分の意志で積極的にすること、ごまかさず誠実に行うこと、苦しくても忍耐すること、ひとつひとつきちんと終わらせることを特に心がけているのですが、どれもそっくりそのまま日常生活でも大事なことだと気が付いたからです。これらの心がけがやがて自分の性質になり、自然と日常の中にも表れるようになるよう、これからも日々実践を続けていきます!

ブジャンガ・アーサナ(コブラの形)

大森みさと


ヨーガは喜びへの道

ヨーガ・サーラ・スタジオではクラス後、自然に参加者の皆さんと円になってヨーガの話で盛り上がることがあります。皆さん、お互いをよく知っていて、ヨーガの実践についても相談しやすい環境です。最近は京都のオンラインでのバクティ瞑想専科で教わったことや「常に神の御名を唱える」についての話題が多く、誰かの実践がまた別の誰かを鼓舞するという情熱の輪が広がっています。こんな嬉しい話もありました。一人の方が「いつも自転車でクラスに来る時キールタンを歌っているけど、あれ?こんなに楽しくていいのかなって思ったんです」と。楽しくていいに決まってます! ヨーガは喜びへの道です! その朗らかな笑顔は日々の地道な実践の積み重ねによって心が変容してきたことを物語っています。

月曜の朝のクラスのみなさん

さて、昨年久々にクラスに復活してくださった子育て中の女性から新年の抱負が届きました。

・クラスに通うようになって、心も体も穏やかになっていくのを日々実感しています。わんぱく盛りの双子の男の子を育てていると、まだまだ心が巻き込まれてしまうこともあるのですが、そんな時は、ハートの奥に問いかけてこれは真理なのかどうか、徹底的に分析していきたいです。今年もクラスでアーナンディーさんやヨーガを学ぶ先輩たちにお会いできるのをとても楽しみにしてます。

さらにバクティ(信愛)・ヨーガを深めているお二人からも!

・神の御名をとなえて同時にあなたを愛することができますようにと祈ること。富、名声、および快適な生活のようなかりそめのものに対する執着が日に日に少なくなりますように、と祈ること。神が喜ばれるよう行為すること。

 ・周囲の人々に喜びと笑いをもたらすよう、お話ができる人になりたいです。そして、常に神を想い、神の御名に神を見ることができるようになりたいです。

師はおっしゃいます。「自分の中に尊い存在があるということを信じてください。神は雲の上にいるのでも、宇宙の果てにいるのでもない。あなたの胸の中にいます。それが誰もの本質です。そのことを知らないから、人々はみな苦しんでいるのです」と。「尊い存在が胸の中にある」、この言葉に胸の内側から力が湧いて瑞々しい喜びに包まれます。一人でも多くの人がこの真実を知ることが、周りの人の平安につながっていくと信じています。なぜなら「尊い存在が胸の中にある」と知ると心は満たされ、動じなくなり、その影響を受けた周りの人の心も穏やかになるからです。どうか真の喜びが広がっていきますように。

2021年最後の瞑想会の様子。みんなと座ると「長時間座れる」と好評です。

アーナンディー


一歩一歩

私は今の職場に勤めだして三年目になりますが、忙しさといい人間関係といい、今までに経験がないような過酷な環境に感じました。
 働き始めてすぐの頃、ヨギさんが特別サットサンガで松山にきてくださいました。私は、仕事の辛さをご相談させていただいたのですが、ヨギさんはなぜか満面の笑みで「頑張ってね!」とおっしゃいました。こんなに辛いのに、なぜヨギさんは笑顔で頑張れとおっしゃるんだろう?と思いましたが、きっとこれは仕事を通してヨ―ガの実践の場を与えてくださったのだ!と思うようになり、そこからは何が何でも頑張ろう!と心に決めました。

 それから今もずっと心がけていることは、全ての人の本質は神であると信じること、目の前で何が起きても、現象だから執らわれないこと、自分は神の道具なのだから、一切の自己主張(エゴ主張)は捨てて、役割に徹すること、どんな仕事も神に捧げる物として誠実にベストを尽くすこと。と、目標は立派なのですが、失敗ばかりです。

 でも、失敗しても失敗してもトライし続けていたら、どんどん目の前の景色が変わっていって、小言ばかり言う先輩だと思っていた人がフォローしてくれたり、誰とも挨拶を交わさないと思っていた人が挨拶を返してくれたり、怒った顔しか見なかった人が微笑んでくれたり、あれ?こんなんだったっけ?と思うことが増えていきました。やはり全ては現象なんだなぁ!と実感しています。

 今も、毎朝起きたらヨギさんのお写真にお祈りをしてから家を出て、自転車を漕ぎながら「全ては神の表れ、私の命も神様に生かされている。神様の思し召しだけがある。どうかヨギさんの教えを生きる弟子であれますように」と、唱え続けています。

 ヨギさんが灯してくださる光に向かって、一歩一歩、歩んでいきたいです。

通勤途中の松山城のお堀にいる白鳥です。
白鳥を見てはヨギさんを思っています。

小野稚小(おのちさ)


母なる神像

私の部屋の祭壇にはカーリー女神の神像があります。とあるきっかけで、先日その神像を初めて磨きました。真鍮製の像を専用の研磨剤と布を使って磨くのですが、これがまぁ驚くほどに汚れが落ちるんです。(どれだけほったらかしていたの…!)あっという間に布が真っ黒になっていきました。それでも一通り磨いたくらいでは汚れは落ち切らず、何度も何度も、お顔、胴、手、脚、土台、と細かい部分まで目を凝らしてきれいにしていきます。

そうして磨いていくうちに、今までカーリーのことを見ていたようで全然そうではなかったのだと気が付きました。瞳が真ん丸でキュートなこと、お鼻が立派なこと、後ろから見ると髪の毛の筋があること、足の爪もちゃんとあること。なんてかわいいんだろう!手で触れ、近くで見つめ、きれいになりますように、と磨いていくうちに、赤ん坊の世話をする母親のような気持ちになりました。宇宙の母であるカーリーに対して、私が母親のように感じるとはどういうこっちゃ?!と思いましたが、すべてを展開されたカーリーは、私が思う役割の枠になんて収まるはずがありません。今回の出来事で私は、カーリーによって、目の前の存在を大事に思い、愛おしむという気持ちを呼び起こしてもらったように思います。

きれいにしてからというもの、自然とカーリーに目を向ける回数が増え、眺めては胸の奥が愛おしい気持ちでいっぱいになるのを感じました。そして、カーリーだけでなくほかのすべての存在に対しても、同じような気持ちをもって接したいなぁと思うようになりました。大事に思う気持ちは、たとえまた薄れてしまったとしても、祭壇で変わらず輝くその姿を見つめていればきっと大丈夫なように思います。目の前の人、もの、すべての中にカーリーを見ることができれば、なんて素晴らしいだろう!そうなるために、私自身のハートもヨーガという研磨剤を使って根気よく磨き上げているところです。必ずきれいにできると信じています。なぜなら私の本質も、ピカピカに光ったカーリーと不異(同じ)だからです!

愛媛(今治)と広島(尾道)を繋ぐしまなみ海道です。秋晴れの中、穏やかな海と無限に広がる空がとても清々しく感じられました。

大森みさと


本当の優しさ

先日、先輩グルバイに質問できる機会があり、「本当の優しさ」とは何なのかを伺いました。優しくするって、ニコニコ笑って何でも「いいよ、いいよ」と聞くこと? 利己的な思いを全く無くして接するということ? と小難しく考えてしまっていた私に対し先輩は、「もっと単純に、相手を大事にするということじゃないかな。大事で、愛しいがゆえに優しくする」と答えてくださいました。考えてどうにかしようとしていた私の根本に衝撃を与える言葉でした。さらに続けて、次の師の教えも話してくださいました。

「愛は優しさでしか表現できない」

師は本当に私たちひとりひとりのことを大事に思ってくださっていて、だから私たちがより良くなることだけを考えて、必要な教えを最も良い方法で授けてくださいます。時には穏やかに、時には厳しく。それはすべて師の優しさであり、愛の表れでしかありません。

以前、師は私に「人に優しくすること」という教えを授けてくださいました。(「本当の優しさ」について考えていたきっかけでもあります。)この教えも、私がより良くなるためだけに師が授けてくださったものです。
今回の出来事によって、師にあらためて「あなたの愛を表しなさい」と言われたように感じました。愛を表し、そのように生きる。教えを授けるということも、弟子を想う師の愛なのだと思うと胸がいっぱいになり、その教えを生きることで応えたいという強い意志が湧いてきます。

一斉に花を開いた彼岸花が赤い絨毯のようでした!松山市窪野町の窪寺閑室跡周辺の彼岸花です。ここは一遍上人が修行された場所だと伝わっています。

冒頭の先輩への質問の場(オンライン)には、他にもたくさんのグルバイがいて、私と同じように日常生活やヨーガの実践の中で湧いてきた疑問を質問していました。それに応える先輩の態度や言葉、すべてから、私たち後輩ひとりひとりのことを大事に思ってくださっていることが自然と伝わってきて、まさに、「愛は優しさでしか表現できない」という師の教えを生きている様を見せてくださっているかのようでした。

師や先輩の姿を見ていると、人に優しくするということは、何か特別なことをするわけではなくて、誰に対しても分け隔てなく、ほんの小さな行為にも相手を大事に思う気持ちを込めることなのだと感じます。お手本を示してくださっているその姿に倣い、「本当の優しさ」を体現して生きていきたい。そう決意をあらたにできた出来事でした。

部屋からの見えた優しい色合いの朝焼け。

大森みさと


English

約30年前、中学2年生の時に同級生全員で英検4級の試験を受けました。

その頃使っていた英和辞典

この英検4級は、60~70%という合格率をもって思春期真っ只中の少年少女の明暗を分け、合否判明直後の教室をちょっとしたお祭り騒ぎにします。さらに、合格者の遠慮のない浮かれっぷりが不合格者にとっては酷なものであるということも教えてくれ、私はそれをつらい方の立場から思い知ることになりました。

英語教師が生徒を一人ずつ部屋に招き入れ合否を告げていく中、どちらかというと学校の勉強はこなせる方だった私に『不合格』の通知がなされました。その瞬間もそれなりにショックだったのですが、その直後に英語教師が放った一言をきっかけに、私は大の英語嫌いとなり、以後、頑なに英語を拒絶するようになったのです。
落ち込む私を慰めようとしてか、あるいは鼓舞しようとしてか、教師はこう言い添えました。
「惜しかったね~。あと一問正解していれば合格だったのにね。」

⁉ ……あと一問?

この言葉を聞いた瞬間ショックが何倍にも膨れ上がり、急激に口惜しさがこみ上げてきました。というのも当時の英検4級の問題は、4つの選択肢から一つを選ぶ択一式がメインだったので、少なからず運の要素があったのです。「あと一問…」が頭の中でこだましている私は憤懣(ふんまん)やるかたなく、こう思いました。「軽く10問以上はあるとおぼしき誤答のすべてが、一問たりとも4分の1の確率に引っかからなかったのか」と。このエゴ丸出しで意味不明な確率論を振りかざしたあげく私は、英語から不当な扱いを受け、英語にひどく傷つけられた被害者の立場を採ったのです。そして英語に対して、被害妄想という言葉では追いつかないほどの逆恨みを募らせ、結果、私は見事にふてくされました。
その後、大学卒業まで10年ほど怨憎会苦を味わい続けましたが、二十代前半でようやく英語教育から解放され、以後は、もう今生で英語と関わることはあるまいと高をくくっていました。

しかし、このとき私は知らなかったのです。後に私を救ってくれるヨーガ、その兄弟姉妹弟子が世界中に(当然英語圏にも)存在していることを。

MYM NEW YORKのホームページ。当然全部英語。

2019年の4月、春の祝祭サナータナ・ダルマ アヴァターラ メーラーに初めて参加した時、祝祭の前日、はるばるニューヨークから来日したレバノン人のグルバイ、プラパッティーさんとシャーンティ庵で共に過ごす機会が与えられ、私はおよそ20年ぶりに英語と再会したのです。(プラパッティーさん来日のブログ記事はこちら→ニューヨークの弟子プラパッティーの滞在🇯🇵🌸

春の祝祭後の交流会にて、NYミッションのプラパッティーさん(シャーンティ庵、2019.4.7)

長年疎遠だったとはいえ、色濃く根付いた英語への苦手意識は全く色あせていませんでした。少しでも聞き取りたいという仄(ほの)かな望みは、聞き取れるはずがないという諦めの前に儚く霧消し、通訳を一手に担っていたゴーパーラさんが席を外している間は、その場にいた日本人グルバイのコミュニケーションに頼って、微妙な笑顔で相槌を打つのが精一杯。結局、遠路はるばる来日されたグルバイに対して、終始私の心は逃げ腰だったのです。
自分が学んでいるのと同じヨーガを、生まれ育った環境も触れてきた文化もまったく違うグルバイが実践してきた体験談を直接聞けることは、そのヨーガの普遍性を学び取り信頼を深める絶好のチャンスだったのに、英語の苦手意識に執らわれて、それを丸々逸したような気がしました。


このことがきっかけで、私は英語への苦手意識を何とか克服したいと思ってしまいました。でもそれは、ふとそういう願望が湧いてきた程度のことだったのです。しかし、望んだ瞬間からその実現に向けて全面協力してくれるというのがこの世界のありがたくも恐ろしいところで、すぐに英語の教材やテレビ・ラジオの番組、ネット動画等の英語関連の情報が、続々となだれ込んでくるようになりました。試しに注文した教材が家に届くまでの間に若干熱が冷めてきたことなど、今さら言えるような雰囲気ではありませんでした。

ならばもう今度こそやるしかないと、家に届いた「1日●分聞き流すだけで、驚くほど英語が…」的な教材で克服しようと目論んでいましたが、「だいたいこのくらいの期間聞き続ければ…」という期間をはるかに越えて聞き流しても一向に進歩を感じません。

その時ふと私は、このままでは、覚悟なく欲したことに中途半端に時間を取られ、何の成果も上げられず、未収穫のまま残り続けるカルマに苦しむという愚を繰り返すことになると予感しました。それで、一旦立ち止まって、真に刈り取らねばならないものは何かを明確にする必要があると感じました。

これまで生きてきた中で、たびたび苛まれてきた覚悟のない衝動的願望と忍耐不足や怠惰との不協和音が、ヨーガと出会った後に再び英語と関わることで浮き彫りになりました。わかりやすく言えば、三日坊主というやつですが、私のは、三日坊主という評価を避けるための中身のない努力の継続を伴った、いわば『隠れ三日坊主』ともいうべきものです。プラパッティーさんを通して英語との再会によって私が真に与えられたのは、この隠れ三日坊主の悪癖の原因を断ち切るための絶好の機会であると捉え、その原因にしっかり焦点をあてて、今度こそ根こそぎにしようと決意を新たにしました。

中学生の時、英語教師の何気ない一言に過剰に反応してしまいました。「不合格? ……この私が?」という反応、その不合格の原因を何としても自分以外に見出そうとする姿勢、すべては己の傲慢さが原因です。必要なことは、不合格の結果を謙虚に受け止め、余計なことを考えずに真摯に勉強をすることだけなのに、謙虚と対極にある私の傲慢さは、自分がすべき努力を他人のしりぬぐいのように感じ、行為し始めるや否やすぐに苦手意識を生んでしまいます。そして自分自身に三日坊主という烙印を押さないために、早々にやる気の失せた中身のない努力、すなわち努力するふりに時間を費やすのです。必要な覚悟や決意をせず形だけにこだわる悪癖に気づいたとき、私は、英語の克服という美名で着飾った努力するふりをやめることにしました。そんなことに費やす時間があるのなら、サーダナ(ヨーガの修練)にあてた方がはるかに有意義です。私が知る、悪癖を根こそぎにする唯一の手段はヨーガであり、それは同時に目的でもあるのですから。

だからといって今現在、英語との関わり自体を完全に断ったわけでもありませんが、特に形にこだわったり惰性で努力を装うようなことだけはせず、自然に入ってくるものや現在縁のあるものを活かせる範囲内で英語と関わろうと心掛けています。そう心掛けることで自然と、頑なだった苦手意識が徐々に薄れていっているような気もします。

毎週縁がある(?)英語のアニメ。主人公の精神性に倣うところが多い。

英語への逆恨みを募らせた学生時代。私を苦しめている犯人は英語(と歴史と古文)に違いないと、あらぬ疑いをかけて忌避し続けてきました。その英語が、時を経ても霊性の向上が見られない私に気づきを与えるべく、慈悲でもって再び私の前に現れてくれたのでしょうか。あだを恩で返されたような私には立つ瀬がありませんが、せめて、今度はより深いところにも目を向けて、英語との関わりの中でもヨーガの態度を堅持しつつ、ついでに、英検4級レベル程度の英語力もこの身に備えてみたいものです。

Hey, English. I’m sorry for my rudeness. And thank you very much.

深水晋治


揺るがない信頼

暑さがまだまだ厳しく、口を開けばついつい暑いと言ってしまいがちですが、そんな中でも季節の楽しみ方がありますよね。私は、暑い中、道を歩いている時何処かの家から聞こえてくる風鈴のさわやかな音が耳に入って来た時や、夏の昼間に飲むアイスコーヒー、夕日の沈む美しい空のグラデーションを見たり、夕方ひぐらしの鳴き声を聞くと、さっきまでの暑さを忘れ心がホッとし落ち着きます。

愛媛松前町にある高忍日賣(たかおしひめ)神社の風鈴回廊。ここは全国唯一、産婆、乳母の祖神である高忍日賣大神をおまつりする神社だそうです。風鈴のさわやかな音色が夏の暑さを緩ませてくれます。

こんな風に日々心穏やかに過ごしたい。しかし、一日の大半の時間を過ごす職場では、なぜこんなにも心が動揺しその場の状況に翻弄されていくのでしょうか…。

その日も仕事中に周りの人の会話が耳に入ってきました。周りから聞くと威圧感があるような、その言葉は、本当にその相手の事を真剣に考えて発している言葉なのか?
傷つける行為ではないのか?
私の心は、その言葉を発した人にピッタリとくっつき、心は大きく動揺し、その人に対するどうにもならない思いを募らせていくという出来事がありました。
悶々とした日々が続く中、以前ゴーパーラさんのブログでも紹介されていた、ブラザー・ローレンスの『敬虔な生涯』を昼休みに開けてみると、ある一節が目に飛び込んで来て、はっ!としました。

ある日、私(修道院長のヨセフ・ド・ボーフォール)は深い考えもなく、ある重大な問題を彼(ブラザー・ローレンス)に話しました。それは、彼が深く心にかけていたことで、長い間、その為に労してきたことでした。それが成就せず、提案に反対する決議がされたのです。この事に対して、彼は淡々と答えてました。「このように決めた人には、それなりの理由があるのでしょうから受け入れなければなりません。後はただ、それを遂行するだけです。もう何も言うべきではありません。」実際に彼はその通りにしました。実に完全に。それ以降、それを取り上げる機会はいくらでもあったにも、かかわらず、彼はひとことも口にしませんでした。

『敬虔な生涯』より

私の場合、その人が発した言葉にもそれなりの理由がある事など全く考えず、それでいてどうにもならない自分の感情に何の意味があるのか…。
この状況で自分に出来る事は、お互いが良い方向に向かいますようにと祈る事。それしか見つからず気持ちを切り替えるようにしました。
と、同時にブラザー・ローレンスの、感情に流されず決めた事を貫く意思の強さ、そこに近づきたい。そう感じました。

愛媛県伊予市 伊予五色浜海岸

会社では人それぞれの立場が違います。その為自分の意見や考えが正当だとは限りません。
自分というあやふやな目線から見るのをやめてみるように心掛けてみました。
また、その方から心を離すようにしてみました。
心が言葉や態度に反応して、行こうとする度に引き戻す。

これは、今現在も実践中ですが、心を執着している事から離していくと、留まる事が身についてきたように思います。
今までの心の習慣を変える事は上手くいったりいかなかったりの日々ですが、ここで働く時間どう過ごしていくかを考えたとき、師がいつも私たちをそう見てくださっているように、どんな状況であってもその人の中にある尊い存在だけを見ていきたい。と強く思うようになってきました。

また師は松山特別サットサンガでこうおっしゃっていました。

一人で部屋の中でアーサナや瞑想をしているのは、まだ練習にすぎない。やはり、さまざまな自然界の中で、人の中での出来事の中で、自分の心がどれほど落ち着いていられるか、そこでヨーガが試されている。

シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサ

苦しい時、実践が思うように進まず行き詰まった時、師のお言葉や聖典の教えは、その苦しみが瞬時に取り除かれるよう導いてくださいます。ヨーガを学び始めてこの10年、何度もそのような体験をさせて頂きました。
その度にヨーガに対する揺るがない信頼、それが培われてきたように思います。
心の動揺に振り回される事を恐れずに、日常は本番だと思い、どんな場面でも心を落ち着かせヨーガを深めていきたいです!

地元伊予灘サービスエリアから見る夕日。松山市界隈がとても綺麗に一望出来る場所です。

玉井眸


誰もが実践できる働きの秘訣

みなさんは学校の授業は好きでしたか? 私はというと……(お察しください)。
けれど今、楽しみにしている授業があります。それは誰ヨガ(誰もが実践できるヨーガ)です。自分自身の人生や心、幸せといった誰もが身近に感じ、時に思い悩んだりする事柄をテーマに、ヨーガではどう教えているのか、自身の生活でどう実践できるのかを学べるオンラインクラスです。
4月に開講し、月に一回、半年間をかけて学んでいきます。その期間は同じ顔ぶれのグルバイとZOOMで顔を合わせます。初回のクラスでは自己紹介をし、さながらクラス替え後の教室みたいだなぁと感じていました。担任の先生は先輩グルバイのサーナンダさんです。2時間のクラスの中では、「どうなったら本当に幸せですか?」、「なぜ働かないといけないのですか?」といった問いかけに向き合う時間があるため、講義の内容をより自分のこととして捉えやすいように感じます。

出勤途中に咲いている朝顔。目の覚めるような鮮やかな色で、気持ちよく仕事に向かうことができます。

5月に行われた2回目のクラスでは、「働きの秘訣」と題して私たちが働く理由、そしてどう働けばいいのかを教えていただきました。「生活のためだから」と、私は心のどこかで仕方なく働いているように思っていました。しかし、今の仕事を選んだのは自分です。選ばざるを得なかったのだとしたら、その原因を作ったのも自分です。私の場合ばっちり思い当たることがありますが、自覚していない過去世からの原因も作用しています。いずれにしても自業自得、つまりカルマということになります。新たなカルマを作ることなく、カルマを果たしていくような働き方ができれば、より良い自分になっていくことができるとこのクラスで教えていただきました。
一日の中で働いている時間は大半を占めています。(社会の中で勤めるといった意味合いに限らず、親などの役割や家事も含まれます。)しかも毎日のことです。ということは、そこでの行為次第で、多くの時間が自分をより良くするチャンスに変わるということになります。毎日がチャンス…?!何それ最高!!と私の瞳はきらめきました。本当に重要なのは何の仕事をするかではなく、「どう働くか」だったんです。
では、肝心の「働きの秘訣」はと言いますと…

・好き嫌い、不平不満を言わない。
・結果や他人の評価に執らわれない。
・目の前の仕事の目的を明確にし、余計なことを考えずに集中する。
・自分の思いばかりを見るのではなく、他者の喜びを自分の喜びとする。

どれもシンプルで、仕事の種類を問いません。そして、誰でも今すぐ実践できることです。「そうはいっても難しい…」と言い訳したがる心に負けてたまるかと、「ただやるのみ!できなかったとしても次の瞬間にもう一度チャレンジするのみ!!」そう言って日々自分と闘っています。少しでもこの秘訣を実践できれば、まず自分が楽(心身ともに軽やかに)になることを実感します。そうすれば周囲に気を配る余裕も生まれます。何より発散する空気が違うのではないでしょうか。入り口は自分のためのようであっても、自然と他者のためにもなっている、素晴らしい秘訣です。仕事の効率化や成果を上げる方法は多く説かれていても、こんな大切なことを教えてもらえる機会にはそうそう出会えないように思います。ヨーガを学んでいる、いないに関わらず、多くの人の助けとなる教えだと思いました。

海へ流れる川。奥は瀬戸内海です。身近な風景ですが自然の壮大さを感じ、大いなる存在に想いを馳せずにいられません。車の窓を開けて走ると様々な鳥の声が聞こえてきます。

私はこの誰ヨガの授業を受けているとワクワクしてきます。「秘訣」という言葉を辞書で調べると、“人に知られていない特別な良い方法。おくのて。”と出てきます。まさにそんなことを教えていただけて、知りたかったことはこれなんだ!!と体中から力が湧いてきます。最初にこのクラスを学校の授業のように例えましたが、この授業ではテストもなければ成績もつきません。その代わり、日常がテストです。参考書を頼りにするように、この強力な秘訣を頼りにして、私はカルマ(業)からの卒業を目指したいと思います!

このカードの裏面には、『バガヴァッド・ギーター』第2章48節の教えが記されています。 「アルジュナよ、執着を捨て、成功と不成功を平等(同一)のものと見て、ヨーガに立脚して諸々の行為をせよ。ヨーガは平等の境地であると言われる。」 働きの結果に執われそうになった時、思い出す教えのひとつです。

 

大森みさと


シヴァの恵み

梅雨の時季、雨が続くと鬱陶しいなどと思ってしまう時もありますが、雨が降らなければ一体どうなるのでしょうか?

今から27年前、私の住む松山市では梅雨に雨が降らず水不足になり、7月下旬から11月下旬までの4ヶ月に渡って給水制限がありました。暑い時期をはさんでいたので、印象に残る出来事でした。
しかし、そんな大変な出来事も、もうすっかり忘れていました。

松山の石手川

今回、3月のブログにアップされた『シヴァと三日月🌙』を読んで、今一度「水」について考える機会をいただきました。
シヴァは私の憧れの存在ですが、シヴァの頭にある三日月が農耕に必要不可欠な雨・夜露と密接に関わっている象徴であると初めて知りました。また、シヴァのルーツはルドラという暴風雨の神です。私たちが生きていく上で欠かせない水が、天から降ってくる雨によってもたらされているということ自体、とても貴重なシヴァの恵みだと改めて感じました。

いちばん好きなシヴァの絵!

水道をひねればすぐに出てくる水、それを当たり前に使ってきたことに気付かされます。水がなければ作物も育たず、飲み水がなければ私たちの肉体を維持することもできなくなります。また身体や身の回りを清潔に保つためにも、水は欠かせません。手や身体を洗うのに水を使う時、神に会う前に沐浴を行なうように心掛けると、穏やかで平安な気持ちになります。

嗚呼、でもそれ以上に私は心清らかになって、本当のことが知りたい!!
しかし心と身体を自分だと思い、食べることを楽しんで夜眠気に負けぐーぐー寝ていては、本当のことが分からず人生が終わってしまうーー

真実を知るためには、月の時間に瞑想を行ない、シヴァの如き存在である師を思うことで、そこに近づいていけるのだと感じています。
今私は、日常は感謝の心を忘れず、清らかな思いで過ごし、月の時間を大切にすることを行なっています。

りょうこ


真実に目覚めるTシャツ!

今年は統計史上最も早い梅雨入りだそうですね!そんなじめじめした気分を吹き飛ばす明るい話題です。

ヨーガを始めたばかりの頃、次の言葉に魅了され、とっても憧れました。

私たちの存在は本来、純粋で至福に満ちたもの。
ただ、一時の雲がそれを覆い隠しているにすぎない。
暗い雲が空を覆い、大雨が降るときもある。
しかし、それでも太陽は輝いている。
雲が太陽を消すことができないように一時の苦悩が
私たちの輝く本性を消すことはできない。

この堂々たる宣言!私たちの存在は本来、純粋で至福に満ちている。その尊い存在は胸の奥にあると教わります。 胸の奥への集中を助けてくれる素晴らしいTシャツを師がデザインしてくださいました!!

師がデザインしてくださった看板とTシャツ

“YOGASAARA STUDIO” Tシャツを作っていただいた経緯に少し触れたいと思います。令和元年の新緑の頃、ヨーガ・サーラ・スタジオの名称と看板を師に与えていただきスタジオのみんなは歓喜に湧きました。その時、クラス参加者のFさんも一緒になって喜んでくださり、「ヨーガ・サーラ・スタジオのTシャツとか作らないんですか?私、そのTシャツ着て宣伝するのに~!」と満面の笑みでおっしゃったのです。私はなんて素敵なこと!とタイミングを見て師に相談させていただき、ヨーガ・サーラ・スタジオのTシャツを作っていただく運びとなりました!コロナ禍で発表時期が1年変更になり、マハーヨーギー・ミッションの45周年記念オリジナルTシャツと同時発売という流れになったことに、二重の祝福を感じました。
実物を手にする前に最初にパソコン上で出来上がったTシャツのデザインとカラーを見せていただき、その美しさにまず、圧倒されました。師が一枚一枚、実物をご覧になって色を吟味してくださったと知り、胸がいっぱいになりました。スタッフの1人が「全色購入したら、みんなが選びやすいよね!」と全色購入してくれて、たくさんのサンプルのTシャツが届いた時、喜びに心がとろけました。今、クラスはお休みですが、クラス再開まで待てないというみなさんがスタジオに来てくださいました。みなさんに着ていただける日をどれほど待ち望んでいたことでしょう!!喜びの連鎖が止まりません!

このTシャツを身に着け、お行儀よく座って瞑想する時だけでなく、信号待ちの時も、誰かを待っている時も、仕事の合間のひと時も、いつでもどこでもハートの奥に集中する。これを何度も繰り返していくうちにまるで胸の奥に磁石でもあるのかと思うほど、心が自然に集中していくようになります。スポーツ選手が毎日、練習によって特定の筋肉の使い方がうまくなるのと同じように、ヨーギー、ヨーギニーは毎日の瞑想や日々の訓練によって、内面への集中力を養っていきます。そうしていくと常に満ち足りた心境になっていき、愚痴や不平不満のほうが逃げていきます。そして本当の自分は純粋で至福に満ちたものと知る!まさに真実に目覚めるTシャツです!

みなさんから喜びの声が届きました。

  • あらためて、Tシャツを見ておりますと、本当に美しく、いきいきとありありとしたモチーフに感激しております。これを身につけるにふさわしくありたいなぁと身の引き締まる思いです。ありがとうございました。
  • 色とりどりのTシャツを見た時、虹色の光が心に差し込むように、一瞬にして心が明るくなりました!ゴールドのアートマンとホワイトのヨーガ・サーラ・スタジオの文字はどの色にも美しく映えて、見ているだけでうっとりします。
    そして、着心地も最高に良いのです。神聖なTシャツを身に付けられて本当に嬉しく思います。ヨギさん、いつもいつもありがとうございます。
  • ヨギさん、このたびは、ヨーガ・サーラ・スタジオのTシャツを用意してくださり、ありがとうございました。手にとってみて、嬉しくて嬉しくて、大きな声で笑いました!実際に着てみて、スタジオの名前が嬉しくて、胸を張って街を歩きました。金色のアートマンを見ては、わたしはこの美しい「それ」であり、それを見ている人々もみんな、この金色の「それ」であると歩きながら、胸が高鳴るのを感じます。ずっと歩き回って、ヨーガ・サーラ・スタジオの歩く看板として、金色に輝く真我を宣言できるように、元気いっぱい過ごしていこう!と思います!!本当に、本当に、ありがとうございました!!
  • Tシャツのカラーもどれもすべてとても美しい!
    一枚一枚、ヨギさんの手で紡がれて、私たちにヨギさんの分身のように分け与えてくださるようで、それを身につけることができて、とても幸せです!
    ヨギさんの愛に身を包まれて、ヨギさんの愛を発散していけたらなあ〜と思います!
  • 今日初めてヨーガ・サーラ・スタジオTシャツを着て過ごしました。鏡でTシャツを見る度に嬉しくなりました〜。胸のアートマン、スタジオのカッコいい文字を見るだけで心強く、元気が湧いてきました!ヨギさん、みなさまありがとうございます♡

感謝と喜びの気持ちがヨギさんに届きますように!

シュリー・マハーヨーギーのお導きに心から感謝しています!Tシャツを作っていただきたいとご相談してから、実現に至るまでも様々な甘美なサプライズをいただきました。今までミッションオリジナルTシャツを注文して簡単に手にしていましたが、今回、ヨーガ・サーラ・スタジオのTシャツを松山に直送していただくことで、京都の先輩方がどんなに心を配って水面下で多くの仕事をしてくださっていたか、貴重な宝物のような学びの時間をいただきました。見えないところでの先輩方の働きを想像することは、私たちの気づかないところで、どれだけ師が心を尽くして私たちを導いてくださっているのかという気づきに繋がり、感謝でいっぱいになります。その瞬間に、こんなにも与えていただいてばかりではいけない!!!と内側から叫び声が聞こえてきます。コロナ禍で行動制限はかかったとしても私たちの心は常に自由です!もう大暴れする準備はできています!この状況を最大限生かして、さらなるヨーガのご縁を繋げていけるよう行為していきます!1人でも多くの方が「私たちの存在は本来、純粋で至福に満ちている」という真実に目覚めることができますように!

アーナンディー