聖者と教え」カテゴリーアーカイブ

神への明け渡し ––マハリシの教え––

私たちには思いや悩みが尽きないものです。欲しいものがなかなか手に入らなかったり、駄目だと思ってもついやってしまったり、大事な時にオロオロして何もできなかったり、沢山の事で思い悩むものです。それについてバガヴァーン・ラマナ・マハリシはこう言います。

『神の至高の力が全ての物事を動かしているというのに、なぜ我々はその力に身をまかせず、何をどうするべきか、どうすべきではないかと思い悩むのだろうか?
我々は列車が全ての荷物を運んでくれることを知っている。列車に乗ってまでも、自分の小さな荷物を頭に載せて苦労する必要がどこにあろう。荷物を下ろして安心しなさい』
 

ーー『あるがままに ラマナ・マハルシの教え』より引用ーー

そうです、自分の小さな思いを神に渡して、神の言うことに従えば楽になるのです。なんて簡単なことでしょう!

バガヴァーンは自我を無くすために『私は誰か?』という真我探求を説いたことで有名です。しかしそれはなかなか険しい道なので、彼は多くの信者には探求よりも容易な神への明け渡しを勧めました。しかしこの道も非常に困難な道であるのは確かです。なぜなら頭に載せた荷物のうち少しは降ろせるでしょう、しかし全ての荷物を降ろすとなると、自分の思いの全てを神に委ねるということになるのですから、自分では好き嫌いも、都合の良い悪いも言えなくなるからです。それが全て自然にできるようになって初めて明け渡せた、となるのです。といっても、バガヴァーンは一足飛びにそうしなさいと言っている訳ではありません。彼はその準備として神への瞑想、ジャパ、神の賛歌を歌うなど、神に帰依することなどを信者に勧めました。

彼が住んでいるアルナーチャラ山はプラダクシナという巡礼をするための山でした。巡礼のために人々は山の麓(13.5km)を神の賛歌を歌ったりジャパを唱えたりしながらゆっくりと歩くのだそうです。バガヴァーンはこれをよく信者に勧めました。そしてさらに彼はこう言います。プラダクシナをしているうちに、

『身体は疲れ、感覚器官は力を失い、すべての活力は内面に吸収されます。こうして自己を忘れることが可能となり、瞑想状態に入っていくのです』  

  ーーラマナアシュラム HPより引用ーー

長距離を歩くのですから何度もジャパなどを繰り返すことが必要で、それが自動的にできるくらいやることが大事なのだと思います。さらに大事なことは、本当のサーダナができるのは、体と心がフラフラになってからなのだということです。与えられたサーダナをやり続けること、そしてやってくるタパスを受け入れること。それをやり続けていけば神に本当に帰依することができるはずです、そうすれば神への明け渡せる日は近くなっていることでしょう。

早く頭に載せた荷物を降ろして本当に安心したいものです。

グルダース


スワーミー・アドブターナンダ

私の理想の聖者は、シュリー・ラーマクリシュナの直弟子で無学でありながら最高の叡知を悟り、「シュリー・ラーマクリシュナの最大の奇跡」と言われたスワーミー・アドブターナンダ(ラトゥ)です。

彼は幼くして孤児となりましたが、シュリー・ラーマクリシュナにお会いすることで人生が一変しました。ラトゥは疑うことを知らない純真さで師の教えを忠実に守り、心の清らかさを保つようひたむきに努力し続けました。文字の読み書きは全くできず、聖典も読めなかったのですが、夜は一睡もすることなく瞑想を深め、神の御名を繰り返し唱える修行を熱心に行い、神に憧れ、神のために泣き、肉体の快不快に心を乱されなくなっていきました。

ラトゥの心にあるのは神だけでした。ラトゥに出会った人々は彼の独特の言葉に驚き、その清らかさに感化されました。たとえ多くの聖典を読まなくても、豊かな霊的叡智は内的な悟りから生まれることを彼が教えてくださっています。

 「心の性質は神の御名を唱えることによって変えることができる。次第に欲望と疑いは消える」

後年のラトゥ・マハーラージの言葉で、私の大好きな教えです。どうかラトゥ・マハーラージのように一心に神を求め、神の御名の深遠さに触れ、心が神だけになりますように。

 ※『スワミ・アドブターナンダ―教えと回想―』を参考にしました。

アーナンディー 


置かれた場所で生きる

風の中の落ち葉のようにこの世に生きなさい。そのような葉はあるときは家の中に、あるときはごみの山に吹きやられる。木の葉は風の吹くままに飛んで行く…ときには良い場所に、ときには悪い場所に。いまや、神がお前をこの世におおきになったのだ。けっこうなことだ。ここにいなさい。また、彼がお前を持ち上げてもっと良い場所に置いてくださったら、今度はどうしたらよいかその時に考えても十分に間に合うことだ。

神がお前をこの世においてくださったのだ。そのことについてお前に何ができるのだ。彼に全てをお任せしなさい。彼の足下に自分をささげきりなさい。そうすればもう困ることはない。そうしたら、いっさいのことを行うのは神だ、と悟るだろう。すべては「ラーマの思召」にかかっているのだ。”

                       『ラーマクリシュナの福音』より抜粋

 

 木などの植物は自ら動くことはできませんが、生命を繋ぐために種子をつくり、その場に落下したり、鳥など動物が食べることで新たな場所に運ばれたりします。その場所で芽を出し、葉を茂らせ、時期が来ると枝から離れ、そこに留まるものもあれば、雨や風などによって遠くに飛ばされるものもあります。
天候や環境がどうであろうと身を任せ「置かれた場所で生きる」植物からは、逞しさ、あるがままに全てを委ねて生きるしなやかさを感じます。

人の場合はどうか。
風に舞い上げられた木の葉のように飛んで行った先が、良い場所であれば感謝し、悪い場所であれば不満を持つ。
置かれた場所やそこで起きる出来事によって感情が揺らいでしまう私たち人が、植物のようにあるがままに生きるには、何が必要なのでしょう?
それは謙虚さではないかと思います。
この一節を繰り返し読み、ラーマクリシュナが神を熱烈に愛し全てを任せられたのは、ご自身をより小さな存在として神に捧げきる謙虚さが必要であることを、示してくださっているように感じました。
読む毎に、ラーマクリシュナの限りない優しさと強さに圧倒され、この言葉を素直に信じて生きていきたい、強く思いました。

それにはまず、私たちが日々考え行動する力も何もかも、神から与えられたものだということを知ること。そうすれば、自ずと今その場にあることを感謝し、謙虚でしかいられなくなる。

自分のものなど一つもなく、全てが与えられたもの。
この感謝の想いを一瞬も忘れることなく、置かれた場所で神に自らを捧げきりたいと思います。

写真/侘助(ワビスケ)が咲く姿からも、謙虚さを感じます

ハルシャニー

 

 

 

 

 

 


スワーミー・ブラフマーナンダ 純潔の教え

スワーミー・ブラフマーナンダはヒマラヤの僧院に行く弟子に向けて次の言葉を送ったそうです。

「心をあの山々のように高く保て」

若き日のブラフマーナンダはサマーディを自然のものとするため、8年間の修行を行ないました。
従者のスボダーナンダは、ブラフマーナンダが肉体を離れてしまうほどのサマーディへの没入を何度も、また何日も目の当たりにしたそうです。
最高境地に向かってその心は高く高く飛翔したブラフマーナンダですが、その過程において「ブラフマチャリヤ(純潔・禁欲)」の徹底した実践を行なっています。
以下、後の弟子たちに説いたその教えを紹介します。

「君たちはいっさいのものを放棄し、自分の生涯を神に担保として差し上げた。しかし、覚えていたまえ、純粋で汚れのない生活をすることはたいそう難しいのだ。君たちはたやすいと思っているかもしれないが、しかし、言っておこう、それはかみそりの刃を渡るほどのことなのだよ。
完全なる禁欲が、霊的生活における成功の唯一の条件である。しかし、神への愛と信仰なしには、完全な純潔を守ることは困難、というよりむしろ不可能である」

「私は自分自身の経験から君たちに言って上げることができるのだが、純潔を守っていなければ、正しく瞑想することは不可能である。……禁欲によって、頭脳に特別な力が蓄えられる。もし人が禁欲の生活にしかと定住するようになれば、彼は、至る所に神の現れを見はじめるであろう」

「霊性の修行とはなんであろうか。常に誠実であれ。自制心を持て。言葉に気をつけよ。人を羨むな。人を憎むな。嫉妬するな。純潔を守れ。もし一二年間純潔を守るなら、その人は最高境地に達する」

ーー『永遠の伴侶』改訂版より引用ーー

ブラフマチャリヤはヨーガの土台となるヤマ(禁戒)の一つの教えです。
ブラフマチャリヤの実践なくして霊性の目覚めはあり得ず、愛と信仰なくしてブラフマチャリヤを守ることは困難だということーー
この基礎の教えをブラフマーナンダ自身、常に気を付け、そして徹底して実践していたことが彼の言葉からひしひしと伝わってきます。

最後に、兄弟弟子のラージャ(王)であり、リーダーであった霊性の指揮官の如きブラフマーナンダの力強い言葉を紹介させていただきます。

「実践せよ、実践せよ、霊性の修行を実践することによって、ハートは浄められ、新しい世界が開けるのだ。神のみが実在で他のすべては非実在である、ということがわかるだろう。しかし、ジャパと瞑想によって少しばかり眼が開いたときに、目標に達した、などと夢想してはいけない。光だ! もっと大きな光だ! 前進だ! 前進だ! 神に達せよ! 『彼』のお姿を見よ! 『彼』に語りかけよ!」

ーー『永遠の伴侶』改訂版より引用ーー

道がどんなに困難で苦しくても、最高境地に向かって前進するのみです!!!

Standing left to light: アドプターナンダ、ヨーガーナンダ、アベダーナンダ、トリグナティターナンダ、トゥリヤーナンダ、ニルマラーナンダ、ニランジャナーナンダ  Sitting left to light: スボダーナンダ、ブラフマーナンダ、アカンダーナンダ

ゴーパーラ


ラーマクリシュナとの約束

冬に向かう秋ごろから瞑想専科クラスの課題として『ラーマクリシュナの福音』を毎日読みだしましたが、心の中に春の芽生えの予感のように、新しい習慣が生まれつつあります。クラスはもう終わりましたが、そういう種を蒔いてくださっていたのだなぁ~と今になって気付きます。

私は、これまで好きな時に好きなように聖典を読んでいました。でも、必ず毎日読む、と決意してからは、ちょっと大袈裟かもしれませんが、意識して行なうことで、ある意味、儀式のような感じにもなってきて、聖典を読むことはアーサナと瞑想と同じ位置付けになってきていました。

最初は「毎日読むことがクラスに参加する上での約束事だから」「約束したから約束を破りたくない」という一心でした。しかし、だんだんとそれが、ラーマクリシュナと私の約束のように変わっていきました。大事に本棚に仕舞っていた本でしたが、ラーマクリシュナと私の約束だと思いだしてからは、絶対に約束を忘れないようにと、いちばん自分がよく見る祭壇のようなスペースに本を置きました。表紙にはラーマクリシュナのお顔が大きく描かれています。平置きするととても目立ちます。読み始める時も、読み終わった時も、ラーマクリシュナのお顔に始まりお顔に終わります。大切な本を出しっぱなしにしておくのはどうかとも思いましたが、いつもお顔が見えるので、こっちの方がいいなと今は良しとしています。

毎日行なうべきことして、アーサナ、瞑想、聖典の学習、この三つをすることをクリヤーヨーガと学んできました。ただ白状しますと私は「聖典の学習」については師から真理の教えを直接学ばせてもらっているのだから「毎日」というのはそんなに重要視しなくていいかも、ととらえていました。

ところが毎日読みだすと、例えばクラスの良さは自分が体感してみない限り、人から聞いているだけでは実際には分からないのと同じように、聖典も自分が毎日読んでみて初めて、なぜ毎日なのか?がだんだん分かってきました。

真理の言葉を毎日聴こうとすることに意味がある、と私には思えました。目で読んではいますが、頭の中では聞いている感覚になるのです。ラーマクリシュナの声を実際に聞きたいですが、今は本を通して声を聞かせてもらっていると信じています。真理の言葉は、それがたとえ文字であっても真理そのものだと私は思っています。真理に毎日触れる、聴く、という、それがなければ何も始まらないんだ、それは自分が意識しないといけない、と感じました。師から、「真理はまず聞いて、考えて、そして瞑想して」と言われているからです。また、読むための時間を捻出しようとすることで、自然と気持ちも神聖なものへと向けられました。

毎日、ラーマクリシュナとの約束で私は繋がっていられるような気がしました。約束というものによって、信仰心が芽生えるよう導いてくださっているようでした。毎日読みます、という小さな小さな誓願を、ラーマクリシュナは大切にしてくださり、じっと見守って待ってくださっている気がします。決めて、そして誓願することは、ささやかな始まりのように感じました。

師の存在がなければ、聖典をただの本ではなく聖典として、こんなリアルには感じられないと思います。聖典の教えは、師の存在と教えを理解する助けになり、真理と強く結びつけてくれます。両輪のように導かれ、支えられます。毎日読むと、自然にいろんなことが日常にもリンクしてきて、面白いなと思います。

そして今日も明日も、ラーマクリシュナとの約束はこれからも続きます……。本を開けば、ラーマクリシュナが待ってくださっています。

ラーマクリシュナ御聖誕の日に。

 

 野口美香 


シュリー・ラーマクリシュナ御聖誕日

 

「神だけが真実で、永遠の実在だ。ほかのものはみな非実在で、一時的な、無常のものだ。こう見分けていくうちに、一時的なものは自然と自分の心から離れていってしまうさ」

「まぁ、ごらんよ、この世界の素晴らしいこと! いろんな種類のものがあってーーお月さま、お日さま。夜空を飾るたくさんの星座。さまざまな生きもの。大きいの。小さいの。善いの。悪いの。力の強いの。力の弱いの・・・あの御方は一切所に遍在して、すべてのものの中にいらっしゃる」

「信じること! 信じること! 信じること! ・・・一番大切なものは信仰だ」

『不滅の言葉』より抜粋

インドに実在し、人類を救済するため降誕した神の化身であるといわれる聖者ラーマクリシュナ。彼の教えは、彼がこの世を去って135年が経つ今も、彼の弟子たちが書き残したさまざまな聖典によって伝えられています。それを読み、触れることで、ラーマクリシュナの教えが生き生きとした生命の息吹となって胸に注ぎ込まれるように感じています。そしてその教えは、私にとって生きる意味と進むべき道を指し示すコンパスとなりました。

『ラーマクリシュナの福音』『不滅の言葉』に描かれているのは、教えだけではありません。キールタンを歌い、信仰しているカーリー女神と会話をし、すべてのものの中にある神を見て、どの神にも同じように敬意をはらわれるラーマクリシュナの美しく、尊いお姿です。そのお姿に魅了され、私はラーマクリシュナが大好きになりました。

2月18日、貴方が肉体を持ってこの世に御降誕くださった吉祥な日。

135年の時を経てもなお、このような祝福をお与えくださるシュリー・ラーマクリシュナに感謝いたします。シュリー・ラーマクリシュナに勝利あれ! 勝利あれ!!

山口正美


スワーミー・ブラフマーナンダ 御聖誕日

「マハーラージはシュリー・ラーマクリシュナの霊の息子であり、生きた権化でもあられるのだ。彼からお慈悲と祝福を頂いたら、それは師から直接来たものだと思ってよろしい。このことを固く信ぜよ」
    ーースワーミー・プレーマーナンダ

「これ(捧げ物)をマハーラージに献げることはシュリー・ラーマクリシュナに献げるのとまったく同様の善事である」
    ーースワーミー・ラーマクリシュナナンダ

「神は愛だ。マハーラージは神を悟っておられる。それだから、彼は愛に満ちておられるのだ」
    ーースワーミー・スボダーナンダ

「彼は王者に値する鋭い知性を持っている。彼が望みさえしたなら一国を治めることもできただろう」
    ーーシュリー・ラーマクリシュナ

兄弟弟子から師シュリー・ラーマクリシュナと同じ存在として尊敬され、彼らのラージャ(王)であったマハーラージこと、スワーミー・ブラフマーナンダ。

彼は生まれながらにして純粋な魂であり、師シュリー・ラーマクリシュナと出会い、その神性は瞬く間に開花し、サマーディを体験した。
師亡き後、ブラフマーナンダは苦行に身を投じるが、従者のスボダーナンダは、師の恩寵によってサマーディを体験してもなお厳しい修行を続ける彼を見て、「なぜまだ、乞食のように座って主の恩寵を乞わなければならないのですか」と問う。
ブラフマーナンダは次のように答えた。

「師はわれわれのためにあらゆることをして下さった。しかしなお、私は内に欠けたものを感じるのだ。このことは、われわれがサマーディの状態を自分にとって自然な、そして日常のものとするには、修行をくり返さなければいけない、ということを示している。知っての通りウッダヴァはシュリー・クリシュナの献身的な弟子であり友でもあり、彼の恩寵によって神を悟ったのだ。それでもなお、シュリー・クリシュナは彼をヒマラヤ山中に送り、独居と黙想の生活をさせたではないか」

彼は8年間の修行の末、サマーディを自然のものとし、その後はラーマクリシュナ・ミッションの初代僧院長となり、人類への奉仕にその生涯を捧げた。

1月21日はブラフマーナンダの御聖誕日ーー
その大いなる存在と、修行者としての直向(ルビ:ひたむ)きな姿勢に思いを馳せたい。

ゴーパーラ


神の道具になるために必要なこと

 

”わたしは、自分が特別な資質を持っているとは思いません。

わたしはこの仕事に対して、何も要求していません。

これは神のみ業なのです。

わたしは、ただ神の手の中の小さな鉛筆に過ぎません、

ほんとうに、ただそれだけです。

神がお考えになります。

神がお書きになります。わたしという鉛筆は、それに対して何もすることはありません。

鉛筆は、だた使っていただくことを、

許されているだけなのですから。”

※『マザー・テレサ 日々のことば』 女子パウロ会

 

私は以前からこの言葉が好きで、一切の私というものをなくして、神の手の中の小さな鉛筆になりたい、小さな道具として神に使って頂けるようになりたいと思っていました。しかし、マザー・テレサがどのような思いでこの言葉をおっしゃったのかを、きちんと考えたことがありませんでした。

今回、改めて考えてみると、マザー・テレサがおっしゃる、”小さな”とは、謙虚さを表しており、”ただ神の手の中の小さな鉛筆に過ぎません、ほんとうにただそれだけです” という境地には、謙虚さを徹底することが必須なのではないか、と感じました。

その上で、いついかなる時も神に全てを委ねる、覚悟を決めること。

そこには自分の思いなど微塵もない。
ただの道具として神に使って頂くというのは、あらゆる局面で、神に完全に自分を明け渡して委ね続けるということなのではないかと思いました。
この信念のもと、強い覚悟がなければ、使って頂ける道具にはなれない。

では、マザー・テレサはどれほどの覚悟を持ってただ使われる鉛筆になったのか。
今の私にはその大きさ、強さは計り知れないものに感じられます。
ただ、マザー・テレサに憧れる思いはこれまで以上に大きくなりました。もっともっと近づいていきたいと思いました。

苦しんでいる人がいたら手を差し伸べ寄り添う。お腹を空かせている人には食べ物を、愛に飢えている人には愛を与える。

マザー・テレサが目の前の人々に行為され続けたように、私も目の前にいる人に対して一つでも行為し続けていきたいと思います。

*写真:一時期、事あるごとに眺めていた写真です

ハルシャニー


マザーに憧れて

キールタンの中に、Bhajamana Ma(バジャマナ・マー)という曲があります。

おお 心よ 母を讃えよ 
母よ 母よ 母よ 母よ 
歓喜に溢れる母よ 至福に満ちている母よ 
至福の姿をとられた母よ

この曲を歌っていたある時、ラーマクリシュナはマーのことをこの曲のように思われていたのではないかなと思うことがありました。そして、今はこの曲を歌うと、自然とサーラダ・デーヴィーのことを思います。

バクティ・サンガムでサーラダ・デーヴィーのことを教えていただいてから、その存在にとても惹かれ、二冊の書籍を購入しました。ラーマクリシュナの聖なる妻であられたサーラダ・デーヴィーは、師の弟子や信者から愛情と尊敬を込めてホーリー・マザー(聖母)と呼ばれておられました。私も密かに「マザー」とお呼びしています。そして、ラーマクリシュナご自身もサーラダ・デーヴィーの汚れのない純粋さを確信され、聖なる母として正式に礼拝を捧げられたことも記されていました。

マザーがどれほど強い信仰をお持ちだったか。どれほど深く大きな愛をお持ちだったか。私には到底計り知ることはできません。けれど、私はマザーにとても憧れます。ラーマクリシュナもお認めになられたような存在でありながら、マザーは生涯変わらず慎ましやかであられました。ラーマクリシュナの男性の弟子が増えてお側に仕えるようになった頃、彼らの前に出られないほどはにかみ屋で控え目であられたマザーは、ニ、三十メートル程のところにお住まいになりながら、ラーマクリシュナにお会いできない日が時には二カ月も続きました。マザーはラーマクリシュナにお会いしたい気持ちを堪え、ポーチの仕切りの小さな穴の後ろにたたずみ、ラーマクリシュナの歌声に耳を澄ませられました。そうして何時間も立ちっぱなしになられたためにリューマチを患われたこともありました。

また、ラーマクリシュナを愛し、常に拠り所にしておられました。どのような状況にあっても師の教えに誠実であられました。そしてマザーは教えてくださっています。

”平安を望むのなら、誰の欠点も探らないことです。
自分の欠点を調べなさい。
世界を自分のものとすることを身に付けなさい。
子供よ、誰ひとり他人はいません。
全世界があなたのものです”

日常でその教えを思い起こすと私の中の高慢な思いはすぐさま力を失います。ヨギさんは、マザーのことを「泥池に咲く蓮の花のような人」とおっしゃったそうです。
今いる場所で、マザーを見倣い、熱心に実践を続けたいと思います。

いつでもマザーを思うことができますように。
携帯の待ち受け画面もマザーのお写真にしています。

藤原里美  


成道会

12月8日はお釈迦様が悟りを啓かれた日、成道会(じょうどうえ)です。
生老病死や八正道の教えなど、日頃頼りにされている方も多いのではないかと思います。2500年の時を超えて伝わるお釈迦様の教えの原点がこの日にあるのかと思うと、しみじみと、お釈迦様が悟られて良かったと思いますし、感謝の想いが溢れてきます。
私はヨーガを知り、師匠のヨギさんとお会いするまで、悟りという言葉の意味をよく知りませんでした。しかし、ヨギさんから、悟りとは瞑想の中で体験する心が完全に静まった境地であり、それは確かにあることを教えて頂きました。約2年前にヨギさんと10日間ニューヨークのケーヴで生活を共にする希有な機会を頂きましたが、これ程までに静寂に包まれた方にはお会いしたことがありませんでした。

ニューヨーク修行の時に師匠に選んで頂いた仏陀像。「これを見ながら瞑想したらいいよ」と教えてもらいました。

この2年間ヨギさんの下でヨーガを学び、アーサナと瞑想を繰り返すことで、私の心も少しずつ静まっているのを感じます。そういった経験を通して、私は今、心が完全に静まった状態というのは存在するだろうと考えています。しかし、そのためには、そこに向かう情熱と努力が必要であり、簡単ではありません。
お釈迦様が悟りを啓かれた時、そこに梵天様が現れ、教えを人々に説くことを勧めたそうです。その後亡くなる最後の最後までインド中を旅し、教えを説き続けました。それが世界中に広がり、時代を超えて私達まで伝わってきているのです。
この教えには反対する者もいたのではないかと思います。執着をなくし、煩悩を消し去れという教えは、煩悩のままに生きる者には疎ましいものであったはずです。また他の考え方を持つ者も多くいたでしょう。そのような困難にも負けず、教えを広めるのは決死の覚悟であったと思います。身をなげうってまで真理の教えを伝えて頂き、本当にありがたいことです。

私には共に暮らす家族がおり、ヨーガの実践において、家族との間に摩擦が生じることが多くありました。例えば、生きとし生けるものは皆幸せを求めて生きているのだから、生き物を傷つけるのを少なくしようという意味でアヒムサー(非暴力)の教えが腑に落ち、肉食を減らそうと思いましたが、家族にそれを受け入れてもらうのに長く時間がかかりました。この経験で学んだのは、言葉の説明以上に自分がそれ相応の人間である必要があるということです。非暴力を実践したいと言っているのに、それによって家族を悩ますのは矛盾になってしまいます。このような意味で、お釈迦様が人々に、苦を取り除くために煩悩を消しなさいと説かれた時、質問は当然お釈迦様自身にも及んだはずですが、結局人々はお釈迦様の人柄を見て納得したのではないかと思います。そのお言葉は慈悲に満ちていたのでしょうし、愛に溢れたやさしいお方だったからこそ人々は納得したのではないでしょうか。
それが伺える私も大好きなエピソードがあります。お釈迦様は晩年故郷に向けて旅をしながら、人々に教えを説いていたそうです。その際、途中で泊まった町において、弟子のチュンダから供養された際、食べ物が何かの誤りで腐っており、食中毒にかかりました。そしてそれが直接の原因となって亡くなっています。その際、チュンダのことを気遣い、彼が悩まぬよう、「私はこの供養により、悟りを実現し、涅槃に入ることができたのだからそれは最高の功徳であったと伝えてほしい」と他の弟子に伝えたそうです(中村元著『ブッダ伝』)。食中毒にかかり瀕死の状態であるにも関わらず弟子のことを気にかけておられます。身をもって慈悲の心を示されています。
今日は成道会、お釈迦様が悟られて本当によかったです。

レン