投稿者「ゴーパーラ」のアーカイブ

小さな幸せ

私は月に1、2度ほど、介護の仕事で畑仕事をします。
先日は収穫した新生姜をお裾分けいただき、甘酢漬けにしました。
10月に入っても暑い日が続いていたので、調理中に漂う新生姜のフレッシュな香りとその爽やかな味わいによって、とても清涼な気持ちになりました。

野菜の収穫を目にし、それを調理していただくのは大変味わい深く、身体の内側から感謝の気持ちと喜びが自然と湧いてきます。
大袈裟かもしれませんが、満たされた気持ちになります。
以前、料理やヨーガの実践について姉弟子の方とお話した際の「小さな幸せの積み重ねだと思うよ」という言葉が蘇りました。

ヨーガの目的は「サット・チット・アーナンダ(存在・意識・至福)」の真実に目覚めることです。
アーナンダ(至福)は、快楽や所有などの一時の幸せではなく、すでに私たちの中に在る尽きることのない幸せだといわれています。
内側から湧いてくる小さな幸せを感じながら、その本源の至福に目覚めていきたいですね😊

蕎麦畑。幻想的で美しい花々! 

ゴーパーラ


本当の優しさ

先日、先輩グルバイに質問できる機会があり、「本当の優しさ」とは何なのかを伺いました。優しくするって、ニコニコ笑って何でも「いいよ、いいよ」と聞くこと? 利己的な思いを全く無くして接するということ? と小難しく考えてしまっていた私に対し先輩は、「もっと単純に、相手を大事にするということじゃないかな。大事で、愛しいがゆえに優しくする」と答えてくださいました。考えてどうにかしようとしていた私の根本に衝撃を与える言葉でした。さらに続けて、次の師の教えも話してくださいました。

「愛は優しさでしか表現できない」

師は本当に私たちひとりひとりのことを大事に思ってくださっていて、だから私たちがより良くなることだけを考えて、必要な教えを最も良い方法で授けてくださいます。時には穏やかに、時には厳しく。それはすべて師の優しさであり、愛の表れでしかありません。

以前、師は私に「人に優しくすること」という教えを授けてくださいました。(「本当の優しさ」について考えていたきっかけでもあります。)この教えも、私がより良くなるためだけに師が授けてくださったものです。
今回の出来事によって、師にあらためて「あなたの愛を表しなさい」と言われたように感じました。愛を表し、そのように生きる。教えを授けるということも、弟子を想う師の愛なのだと思うと胸がいっぱいになり、その教えを生きることで応えたいという強い意志が湧いてきます。

一斉に花を開いた彼岸花が赤い絨毯のようでした!松山市窪野町の窪寺閑室跡周辺の彼岸花です。ここは一遍上人が修行された場所だと伝わっています。

冒頭の先輩への質問の場(オンライン)には、他にもたくさんのグルバイがいて、私と同じように日常生活やヨーガの実践の中で湧いてきた疑問を質問していました。それに応える先輩の態度や言葉、すべてから、私たち後輩ひとりひとりのことを大事に思ってくださっていることが自然と伝わってきて、まさに、「愛は優しさでしか表現できない」という師の教えを生きている様を見せてくださっているかのようでした。

師や先輩の姿を見ていると、人に優しくするということは、何か特別なことをするわけではなくて、誰に対しても分け隔てなく、ほんの小さな行為にも相手を大事に思う気持ちを込めることなのだと感じます。お手本を示してくださっているその姿に倣い、「本当の優しさ」を体現して生きていきたい。そう決意をあらたにできた出来事でした。

部屋からの見えた優しい色合いの朝焼け。

大森みさと


世界をよく見ること。それは感じること。

私は障がい者の方の生活をサポートする福祉事業所に勤めています。
ご自宅を訪問して生活介助をしたり、外出のお手伝いをする、いわゆるヘルパーが私の仕事です。

仕事場に向かう途中に通った桂川。雲一つない青空!!(10/3)

また、昨年からは現場以外の事務的な仕事もするようになりました。
先日まで続いていた緊急事態宣言下では、障がい者の方が今どんな生活をしていたり、どんな生活を求めているのか、そういった当事者の方々の現状や需要を調べてまとめる業務をしていました。
現代はとても便利な時代です。
例えば、インターネットで「障がい者 一人暮らし」で検索すると、いろんな情報が出てきます。
最近では20代の車椅子の方たちがTikTokやYouTubeで自分たちの一人暮らしの様子や思いを発信していて、楽しく見れる動画が多くありました。
またTV局や厚生労働省もYouTubeチャンネルで障がい者の方やその親御さんを取材した特集を配信していて、これはまたしっかりと編集されていて見応えがありました。
そうやってたくさんの動画や記事を興味深く見ていたのですが、突然私の心に一つの問いがやってきました。

「そこから何を感じるのか?」

その瞬間、私は約9年前、「ヴィヴェーカーナンダのハートになるためにはどうしたらいいですか?」と師に質問し、それに対して師がおっしゃった言葉が思い出されました。

「世界をよく見ること。それは感じること。……
そうして胸の奥からどんな衝動が起こるのか、それに気付いていく作業が必要」

そして私は、たくさんの動画や記事を見る中、「自立」のために努力している方々に気持ちが動いていることに気付かされました。
障がいがあっても生活訓練所に通って社会生活を営む準備を何年もかけてしていたり、作業所で就労して立派に勤めを果たしている方、事故の後遺症があってもリハビリをして自分でできることを最大限行なっている方、また知的障がいのある息子さんの将来を考えて息子さんと離れた生活を葛藤を抱えながらも決断されたご両親、さらにそういった経験を誰かの助けになればという思いで自らYouTube配信をしている方、そんな方達の自立に向かって行動している姿に私の心は動かされていました。

今回、仕事上の小さな気付きでしたが、師の教えが自分の心の深いところでも働いていることを実感し、とても嬉しく思いました。
師は弟子の自立のため、陰ながらいつも助けてくださっているのですね……‼️
感謝を胸に、仕事もサーダナも前進させていきたいです。

「立て!目覚めよ!そしてゴールに達するまで止まるな!」  スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ

ゴーパーラ


自由への道(呼吸の制御)

先日、私は東寺の近くに用事があり、出掛けました。(急を要する用事でした)
ただ目的地を勘違いして、その周辺を彷徨ったのですが💦、歩道橋から見えた東寺の五重塔の景色がとても綺麗だったので、迷ったことも「まぁ、これが見れてよかったか」と思えました。

さて、今回のブログでは「塔」の話も出てきます。
お付き合いいただけたら幸いです😊🗼


人は普通に生きていると、イライラやドキドキ、ムラムラやモヤモヤなどの感情の波が大なり小なり起こってきます。
しかし、そのような感情や心の思いの波に巻き込まれずに、それらを制御して、すでに私たちの中に在る絶対の存在ーー「本当の自分」「神」「自由」ーーその真実に目覚めることをヨーガは目的としています。
ただ私自身、ヨーガを実践していても、時折その波に巻き込まれそうになります。
最近もそのようなことがあり、識別をしたり神を思ったりしていたのですが、上手くいかず、どうしようかと数日間苦しみました。
そんな時ふと「呼吸を吐き切ろう」と思い、お腹から呼吸をぐっーと吐き切った瞬間、その波が嘘のように一瞬で収まりました。

呼吸が止まれば心の静止につながることは理解していましたが、理屈抜きの出来事にとても驚かされ、緊張したり動揺した時は「深呼吸」というのは本当だったんだと実感しました。

その後、呼吸の制御に関心が出てきた私は、ヴィヴェーカーナンダの『ラージャ・ヨーガ』を読み返しました。
呼吸はプラーナ(気)の大きな現れです。プラーナはこの宇宙万象を動かす根源的な力で、私たちの身体のさまざまな活動も、心の働きも、全てプラーナの力によって起こります。
この呼吸とプラーナの密接な関係と制御について、ヴィヴェーカーナンダはとても分かりやすい喩えで説いていますので、紹介させていただきます。

ある時、ある王様に仕える大臣がいました。彼は王の不興を被りました。王は罰として彼を非常に高い塔の頂に閉じ込めるよう命じました。大臣はそこで、死ぬのを待つことになりました。
しかし彼は忠実な妻をもっており、彼女が夜、塔の下に来て夫を呼び、助ける方法を尋ねました。彼は彼女に、次の夜、一本の長いロープと、丈夫な糸と、荷造り用の糸と、絹糸と、一匹のカブト虫と、そして少しばかりのハチ蜜とを持ってこい、と命じました。たいそう不思議に思いながら、善良な妻は夫の命じるままに、これらの品を持って塔の下に来ました。夫は彼女に、カブト虫に絹糸の端をしっかりと結び付け、それのツノに一滴のハチ蜜を塗り付け、それを塔の壁に沿って上を向けて離せ、と命じました。
彼女はこれらすべての指示に従い、カブト虫は長い旅に出発しました。それはハチ蜜の匂いを追ってひたすら登り続け、ついに塔の頂に達しました。大臣はそれを捕え、絹糸の端を手にしました。彼は妻に、糸の別の端を荷造り糸に結び付けるよう命じ、それを引き上げて手にすると、強い糸で、次にロープで同じ動作を繰り返させ、ついにロープの端を手にしました。そのあとは楽なものでした。大臣はロープをつたって下に降り、逃亡しました。
我々のこの身体の中で、呼吸運動は「絹糸」です。それをつかみ、それを制御する方法を学ぶことによって、我々は神経の流れをいう荷造り糸をつかみ、これから我々の思いという丈夫なより糸を、そして最後にプラーナというロープをつかみます。それを制御することによって、我々は自由を得るのです。

呼吸の制御を第一として、神経、心の感情や思い、そしてその原因であるプラーナ(気)を制御する階梯を見事な比喩でヴィヴィーカーナンダは説いています。
またこの物語は、ヨーガの実践において大切な要素が含まれていると私は感じます。
妻の夫に対する忠実さは真理への忠実さを示し、真理の教えを一つずつ確実に行なうことによって心の檻(塔)から自由になるという、まさに王道のヨーガの実践、そして境地を象徴しているように思います。

私は前回のブログ『失われることのない自由』で、「私たちの本性は自由である」ということを書きました。
今回、その自由への道は、呼吸の制御からも繋がっていることを実感しました。
数千年の歴史をもつヨーガは、私たち人類に自由へと導くさまざまなルートや方法を提供してくれていて、その懐の深さには本当に驚かされます。

お彼岸を迎え、明日の9月23日は昼夜の長さがほぼ同じになる秋分で、大気のプラーナが中庸になる日です。
この力を借りて、プラーナの制御の実践をしていきたいですね!!

姉弟子から彼岸花をいただきました。彼岸という言葉はパーラミター(到彼岸)を略したもので、悟りの境地を意味しているそうです。

ゴーパーラ


失われることのない自由

9月になりましたね。
大学生はまだ夏休みかもしれませんが、小中高生は夏休みも終わって授業もスタートしていると思います。

夏の思い出。この夏、訪れた京都御所(写真上)、清滝(左下)、東山動物園横のかき氷屋さん(右下)。すべて仕事で訪れたところです。

ところで皆さんは、「あぁ、夏休み終わった……もう僕(私)の自由は無くなった……」と思ったこと、ないですか?
私はあります、特に小学生の頃は田舎の優しい祖父母の家でコーラを飲みながら野球中継を観ているのが幸せで、この自由気ままな夏休みが永遠に続けばいいのにと思っていました。
でも、現実はそうはさせてくれない……
そこで今回のブログのテーマは、「自由」についてです。


この夏、私はヴィヴェーカーナンダ著『ギャーナ・ヨーガ』を熟読していました。
もう何度読んだか分からないほど読んでいるのですが、また新しい発見があったのです💡
それが何かと言いますと、

『ギャーナ・ヨーガ』の主要なテーマの一つは、もしかして「自由」なのではないのか?

ということです。
「そんな当たり前のこと……」と思われる方もいるかもしれませんが、私は初めてそう感じました。
『ギャーナ・ヨーガ』はヴィヴェーカーナンダが西洋で行なった18講演が収録されているのですが、その題名には「自由」がいくつか使われており、何より自由が「アートマン」「神」「魂」「不二一元」「自立」と同義で説かれ、「私たちの本性は自由」であると述べられています。

「あなたはすでに自由なのです。もしあなたが自分は自由であると思うなら、あなたはこの瞬間に自由です。もしあなたが、自分は束縛されていると思うなら、あなたは束縛されるでしょう」

「もし自由があなたの本性でないのなら、どんな方法をもってしても、あなたは自由になれるはずはありません。もしあなたが自由であったが、何らかの理由でその自由を失った、とおっしゃるなら、それはもう初めから自由ではなかった、ということになります。もしあなたが自由であられたのなら、誰がそれを失わせることができましょう。自立している者を従属的にすることは決してできないのです。もしそれが本当に従属的であるなら、そのものの独立性は初めから幻想だったのです」

『ギャーナ・ヨーガ』〜魂の自由〜

かなりというか、度肝を抜かれる大胆な発言です。
私自身、とても衝撃的でした。
自由は失われたり、何かに依拠しているものではない、すでに私の中に自由はあり、私は自由だというのです……!!!

また、自分は不自由と思った時点で、束縛される。
自分は弱いと思った時点で、弱くなる。
それらの思い込みは、心の思いがつくり出した単なる「幻想」だということーー

では、夏休みが終わって学校や仕事に戻り、田舎の祖父母の家やバカンス先と同じ気持ちで「私は自由だ」と思えるのか?
また安直な宗教のように、もう我々は自由なのだから修行や努力はしなくていいと解釈して生きていくのか?
否、心がつかんでいる「こだわりや執着」を手放さないといけないのです。
私の師シュリー・マハーヨーギーは自由について、こうおっしゃっています。

「心は、何かを持っている手のように常に何かをつかんでいる。一つのものを離してもすぐまた違うものをつかんでしまうーーテニスラケットやゴルフクラブのように。所有というのは常に不自由です。自由というのは何も持っていないこと。そうすればいつでもラケットやクラブをつかめる。だからこだわりや執着をなくして所有しないということーーこれが遊びということです。空の手は自由を象徴している」

『ヨーガの福音』 シュリー・マハーヨーギー

最近、私はあるグルバイ(仲間)と電話で話していたら、今自分が考えていることとシンクロするかのように、次のことを言っていました。

「ヨーガは自由になるためにある」

ヨーガを始めると、最初は今まで自分が感じていた自由が奪われるように思うかもしれません。
厳しそうに見えるヤマ・ニヤマの戒律的教え、食事制限、苦しいアーサナ、じっと座り続ける瞑想など、私自身、「もっとご飯食べたい」「ちょっとこの戒律、厳しい」「アーサナ・瞑想、毎日するのもしんどいぞ」と思っていました。
でも、師のヨーガの教えを拠り所に続けていけば、心身は確実に軽やかになります。
まだ12年ほどですが、これは実践を続けた私が体感し確信していることです。
そして、心のこだわりや執着を手放すこと、つまり放棄の徹底ができれば幻想は消え、自由を体得できると感じてきています。

さて、私の37歳の夏休みは儚くも3日で終わり、うち2日は夏休みの課題のDIYをしていました。
しかし、夏休みの「自由研究」は続いています。
幼い頃、願っていた永遠に続く夏休みは祖父母の家ではなく、もうすでに私の中に在ることは納得しました。
あとは実験(実践)、そして証明です。

夏の思い出⚽️こちらも仕事で、京都サンガFCの試合を観戦しました(8/9)。ホームグラウンドが西京極から亀岡に移り、そこでの試合でした。とても観やすいスタジアムで、FC町田に2–1で勝利。9月4日現在、J2で1位です。空の手で拍手👏

ゴーパーラ


ちょっとしたグル(師)の行為 ⑶

皆さま、お盆休みはどのようにお過ごしでしたか?
コロナ感染拡大に伴う自粛や降り続いた雨のため、ご自宅で過ごされた方が多いのではと思います。

ところで、皆さまは「電動ドリルドライバー」を使ったことはありますか?
私は今まで1度しか使ったことがなかったのですが、このお盆休みに電動ドリルドライバーを使用して「夏休みの課題」のようなことにチャレンジしてみました💪

連載『ちょっとしたグル(師)の行為』の第3回目です。


6年前、師はアコーディオンカーテンを取り付けるため、私の自宅のシャーンティ庵に来てくださいました。寸法を測り、手持ちのビスや道具を把握され、足りない材料などは一緒に工務店へ行き、調達しました。そしてアコーディオンカーテンを取り付ける際、師に電動ドリルドライバーの使い方を教えていただき、私は人生で初めて電動ドリルドライバーを使いました。慣れない作業でしたが、やってみると「意外と楽しい!」と感じました。

以前、ヨーガの先輩が使用していたアコーディオンカーテンでした。これを取り付けることで、冬は暖かくなりました。

ただその後、電動ドリルドライバー使うことはありませんでした。しかし、最近になって「DIY、やってみたい」という衝動が起こりました。嵐山の新居に引っ越しして、収納棚の必要性を感じたのもあり、思い切って電動ドリルドライバーと電動サンダー(木材・金属の研磨・塗装はがし)を購入!
でもいざサンダーの電源を入れると、予想以上の音の大きさに尻込み。。。😣
「これ、大丈夫かな……」と心配になり、最近DIYをされている先輩のヨーガダンダさんにそのことを相談しました。すると、「サンダーは音、大きいよ。あっ、余っている木材があるけど、どう?」と。木材はまだ購入しておらず、あるものを有効活用するのがやはりヨーガ行者らしくていいなと思い、また加工されている木材だったので電動サンダーを使わずに済んでハードルも下がるので、有り難くいただくことにしました。

この道具と材料で作成開始!

そしていただいた木材を使って今回チャレンジしたのは「食器棚」です。とは言っても、本格的なものではなく、あまり使わない食器を整理する押し入れ用の食器棚です。1時間もあったらできるかなと思っていましたが、3時間近くかかってしまいました。。(初めてのパン作りよりも苦戦😅)

出来上がったのはよかったのですが、グラグラして安定性に乏しく、ベニヤ板で背面を補強する必要があり、ヨーガダンダさんにそのことを報告したら、「ベニヤ板、あります」とのご返事。
翌日、車で持ってきてくださいました!!

ヨーガダンダさんとサティヤーさん。連日、雨の中にもかかわらず、木材を運んでくださいました。私にとっては、DIYの救世主でした。

すぐにベニヤ板をノコギリでカット。ビス打ちにも慣れてきて、スムーズに取り付けることができました。

ちょっとベニヤ板のカットが斜めですね💦

そして何とか完成〜!!!

今回はやはり、先輩ヨーガダンダさんの物を大切にされる「知足」の精神がとても凄いと感じました。使わなくなった板でも大切に保管されていたそうで、そのおかげで棚が出来上がりました。
師も物や道具を大切にされます。その師の行為を見て、ヨーガダンダさんもそのようにされているのだと身をもって感じました。
『パラマハンサ』No.141にヨーガダンダさんは以下のことを書いておられました。

「私が先輩弟子と共同生活を始めるにあたって、師は私の身の回りの物についてもアドヴァイスをしてくださいました。例えば、使い古した飾り棚を白く塗って、新たに祭壇として使うとか、アーシュラマの忘れ物で誰の持ち物か分からないパンツをオレンジに染めて使うように勧められたりしました。すると使い古されて捨てられる運命にあった物たちが、全く新しいオリジナルの一品として復活するのです」

師は道具の使い方や物の扱い方を通して、「すべてはアートマン(神)という尊い存在」であると教えてくださいます。
悪戦苦闘でバタバタでしたが、ヨーガ行者の精神性を肌で感じた充実したお盆休みでした😇

ゴーパーラ


台湾の近況ーー「夜明けの来ない夜はない」

1年半の無事安穏な生活を経って、予期せず、台湾でのコロナ状況は突然に悪化して、5月中旬に第3レベルの警戒態勢に入りました。私たちは初めて在宅勤務やステイホームを経験しました。集まることができなく、しばらくアーサナクラスや読書会は休んだのですが、6月からオンラインクラスが行なわれ始めました。

台中市。自宅からの雨後の景色。

オンライン・アーサナクラスの場合、家の空間でマットを敷き、Zoomに入室し、プラサーディニーさんのリードの声を聞きながら、アーサナをします。クラスを受けるみんなは同じ場所にいませんが、同じ振動とプラーナを共有しているようで、すごく集中力があり、パワーに満ちているように感じます。

読書会も、パソコンの画面を通してもみんなの分かち合いを楽しむことができました。台北は月1回、台中は2ヶ月1回読書会を行ないます。コロナの影響にもかかわらず、みんなは同じようにオンラインで参加します。それは、ヨーガの教えが移り行く人生の中の大事な支えと感じるからでしょう。

さらに幸運なことに、このような時期にオンライン瞑想専科がスムーズに始まりました! サーナンダさんは毎回のテーマに沿って瞑想の基礎から教えてくださいます。学びながら、瞑想で生じた質問にもすぐ答えていただけるので、一歩ずつ瞑想を探究していくことができます。

揺れる世界環境の中で、私たちはヨーガの教えに則って、ヨーガ行者の揺るぎない心に少しずつ近づいていこうとしています。ヨーガは時間、空間、条件を超えることを改めて確信しました! 同時に「夜明けの来ない夜はない」と師のヨーギーさんが教えてくださった言葉を信じています! そして、みんなに会える日を楽しみにしています!

ある日の瞑想専科の前、虹がかかりました🌈

マールラー


ちょっとしたグル(師)の行為 ⑵

今日から8月、夏本番ですね〜🌞
梅雨も明け、私は介護の仕事の外出支援も増えて、京都御所や清滝などに行ってきました。(三密は回避してコロナ感染対策はもちろんしております)
暑い日に外に出るのは大変さも感じるのですが、コロナ禍でステイホーム期間も長引いているためか、やはり青空の下、太陽の光を浴びて汗をかくのは清々しいものです。

嵐山を北西に上がったところにある清滝。水がとっても冷たく、オアシスでした。

私は今年、外の仕事が重なっているため、わりと日焼けしているなと感じるのですが、11年前の夏はその数倍日焼けしていました。
その理由はというと……
以下に書き記しました。
連載『ちょっとしたグル(師)の行為』の第2回目です。


「気の抜けた炭酸みたいに眠りこけとるな!明日からランニングや!!!」

11年前の7月の終わり、約3ヶ月の師とのニューヨーク滞在の折り返しの頃、私ともう1人の滞在者アミティ(当時は井上さん)が師のアーサナ・瞑想クラスから帰ってきてほっこりしていると、それまで穏やかであった師が急変、語気を強めてそのようにおっしゃられました。そう、この日のクラス、否、ほとんどのクラスでアミティと私はアーサナで疲れ果てて瞑想中にコックリ&ウトウト……体力も気力もない、まさに「気の抜けた炭酸たち」に師はランニングを命じられたのでした。

翌朝、まずはランニングシューズを探しに出掛けました。師は私の履き心地を重視され、またデザインもユニークな靴底がイエローでジグザクになっているリーボックのランニングシューズをセレクトされました。師はそのデザインを見て、「馬の蹄みたいやな!」とおっしゃられました。(ちなみに、このランニングシューズは使用禁止のマラソン大会が出るほどクッション性や推進力が高いものだったようです)

次にアミティのランニングシューズを探したのですが、とあるお店の倉庫みたいな地下のところに入っていきました。そこには大きな段ボール箱が置いていて、黒のマジックペンで「$19.9」と書いてあり、その中にたくさんのスニーカーが乱雑に詰め込まれていました。師は屈んでその段ボール箱の中から必死になってスニーカーを探し始めました。私は「こんなところにあるはずがない」と思って横で見ていたのですが、そんな心の声が聞こえたのか、ぼーっとしている私に「自分も探さんかい!」と一言……私も一緒になって探し、そしてなんと驚くことに、そこでアミティにジャストサイズのお宝スニーカーを1足どころか2足も発掘&ゲット!!!

その後ケーヴに戻って昼食をとり、これからランニングなのかなと思いきや、次はなんとランニングウェアを探しにいくことに……!!
スポーツ用品店で購入するのかなと思いきや、そのようなところには行かず、カジュアルな洋服屋や古着屋を見て回りました。師はかなり吟味をされ、とはいっても怒涛の勢いで選ばれ、すべてが決まったのが19時を回っている頃でした。この日は夜も遅かったので、日本食のお店で夕食をいただき、帰宅しました。

マラソン選手のようなアミティ。色鮮やかなトータルコーディネートと肌の色が際立っています。それにしても真っ黒に焼けていますね笑。愛媛に帰るとしばらくの間は、すれ違う人に振り返って見られたそうです。

ニューヨーク曼荼羅のようなTシャツ。スケーターブランドです。残念ながらスニーカーの写真は残っていませんでした。。

私にとって、この1日はただの買い物の日ではありませんでした。大袈裟ではなく、人生が変わった1日でした。ヨーガをしにきたのにランニングを命じられ、ヨーガとは関係のない服やスニーカーを選び、さらにその師の買い物の仕方・選び方、その必死さたるや、自分の今までの価値観やセンス、観念が一気に破壊されたのでした。すべてが否定されたように感じ、その時私はとても情けなく辛かったのです。

しかし、そんな傷心を引きずったりお落ち込んでいる暇すらもなく、次の日から1ヶ月半、毎日ランニングをしました。大した距離は走れませんでしたし、長年の運動不足と怠惰な生活もたたってしんどかったのですが、走ってみると何だか中学生に戻ったかのような清々しい感覚で、とにかく毎日のご飯がとても美味しく感じられました。日焼けした私がご飯を必死に食べる様子を師は嬉しそうに見ておられ、その視線が今も心に強く残っています。

この道を通って、バッテリーパークまで走っていました。

ちなみに約3ヶ月のニューヨークの滞在で師と外食したのは後にも先にもあの日本食のお店の一度きりでした。
飲食店だらけの欲望の渦のようなニューヨークで外食をされない師の行為にも同時に驚かされたのでした。

ゴーパーラ


ちょっとしたグル(師)の行為 ⑴

私にとってなすべき義務は何もない
しかし、私は行為する
人が私を見倣うように

ーー『バガヴァッド・ギーター』ーー

この世に何の義務や欲望のないクリシュナ(神の化身)が行為するのは、「人が私を見倣うように」という真理の行為の模範を人々に示し、真理に導くためです。

人は聖典を読むことで、真理を学び、実践することができます。しかし聖典の学びだけでは、真理を正しく実践し、体得することが容易ではないことは、霊的実践をしている人なら誰もが感じることです。

何事も人は、直接的に人から学ぶ方がダイレクトです。なぜなら、そこには生きた熱、息吹があるからです。その道のマスターなら尚更です。覚者・聖者、つまりグル(師)の行為が与える影響力というのは、聖典の何千倍もの威力があると私自身感じています。
それは「ちょっとした行為」でもそうです。

「見て覚える」「見て盗む」という習慣がなくなりつつある昨今、グル(師)に出会うまでの26年間、私自身もそういうことをしないで育ってきました。
ちょっと前ふりが長くなりましたが、そんな私がヨーガを実践していく中で、「ちょっとしたグル(師)の行為」を目の当たりにして驚き、学んだことをシリーズでご紹介したいと思います〜!


11年前の7月、私はニューヨークのケーヴ(NYミッションの拠点)に師と滞在していました。
まず師の行為に驚かされたのは、抹茶塩を天麩羅にかける時でした。師は小さい匙に抹茶塩をのせ、匙の肢をトントントンとして、美しく均等にふりかけておられました。その時、私はとてもエレガントだなぁと思ったのですが、すかさずアーナンダマーリーさん(ケーヴのホスト)が褒めていました。私も真似てみたのですが、無惨にもガサッと散乱。。

11年前のケーヴからの景色。(2010.7)

また師の行為はエレガントさだけでなく、大胆さも持ち合わせていました。
師は普段、料理をされないようですが、料理ができない私にケーヴでは時折、料理を作ってくださいました。素麺、天麩羅、お好み焼き、焼きそばなど、料理をしていない人とは思えないほど師が作る料理は美味しいのですが、ある時チャーハンを作ってくださいました。
私は補助をしながら、そばで見ていました。野菜を切る時は普通のご様子でしたが、いざ中華鍋をセットしてガスのレバーを「カチッ」と回した途端、師のスイッチも点火、烈火の如くチャーハンを炒めていました。。🔥
とても美味しくいただいた後、私は師に「チャーハンを炒めている時、火のように燃えて見えました」と伝えると、師は次のようにおっしゃいました。

「日本では聖者のことを『聖(ひじり)』って言うやろ? その語源は火(ひ)を知(し)っている者。つまり火をコントロール(制御)できるということなんや」

行為に裏打ちされたその教えに、私はただただ感嘆しました。真理を体現されたまさに「聖(ひじり)の行為」を間近で見た瞬間でした。

11年経った今、私はチャーハンを作っている時、「自分は火のように燃えているのかな?」とふと思ったのですが、そんなに燃えている気がしませんでした。。それもそのはず、そう思った時点で「私の思い」があり、「火そのもの」にはなっていないのですから。。

ゴールは遠し、しかし理想のみを見るべし!!!


7月24日の満月の日は「グル・プールニマ」です。
完全円満なグルの存在を讃え、感謝の思いを捧げましょう!!!

グル・プールニマについては、ここをクリックして読んでみてください👈🌝

ゴーパーラ


大いなる真理だけを見る

「海だけを見たい」

3月にアップされた『海と波』のブログを読んで、私はそう感じました。

人との関係で、些細な言動に一喜一憂するのは、海(真実在・真理)を見ず、変化する波(現象)を見ているだけです。また波どころか、小さな一滴に翻弄されるということ。波に巻き込まれない対策をしていないと、簡単に心はどうでもいいことに惑わされる。私自身、「真実だけを見たい」「心の思いに翻弄されたくない」と改めて思っていたところ、早速試されるような状況がヘルパーの泊まりの仕事の時に起こりました。

利用者さんは数日間、夜間にひどいかゆみで眠れておらず、疲れている様子でした。横になって1時間ほど経ったとき、「かゆい、かゆい」と訴えられ、私は指示通り、薬を塗りました。利用者さんはかゆみで感情的になっているのと、私の処置の手際が気に入らず、怒りの言葉をわめいていました。「手際が悪くすみません」と言い、できるだけ利用者さんの要求にスムーズに応えるように、わめく言葉に動揺せず行為しようと心がけました。夜通しこのような調子かもしれないと思い、真理にしがみつくように、「どうか、心が動きませんように。私は海を見たいのです」と心の中で願いました。
そしてオームを心の中で繰り返し唱え、利用者さんからの要望に淡々と対応しました。数時間して落ち着き、利用者さんが寝入った様子で少しほっとしましたが、引き続きずっとオームを唱え続けました。私も少しの間眠り、かゆみの対応をしながら朝を迎えました。利用者さんが目を覚ますと穏やかな表情で私に、「昨晩は大変だったね」と優しく言葉をかけてくださいました。

松山市の梅津寺海岸。

必死で真理にしがみつこうとしなければ、利用者さんの一時的な怒りの言葉に、心は翻弄されていたかもしれません。隙なく聖なる思いで心を満たせば、きっと波に翻弄されることはないと感じる出来事でした。

聖なる思いを常に持ち続けるには、どんな状況であっても、誠実に行為をすることが必要だと感じています。
波を見ずに、大いなる真理だけを熱心に求めていきたいです。

りょうこ