投稿者「ゴーパーラ」のアーカイブ

瞑想会 @嵐山 シャーンティ庵

昨日、京都でも緊急事態宣言が発令されました。
年始から全国的にコロナの感染者数が増加していますが、皆さま、お元気でお過ごしでしょうか?

不安な日々が続いていますが、先日の1月10日、私の自宅である嵐山のシャーンティ庵で小さな瞑想会を行ないました。
参加されたのは、私が勤めている福祉事業所のヨーガクラスに通っているスタッフ2名の方でした。
1人の方は70代の女性で、もう1人の方は昨年に埼玉から移住してこられた50代の男性です。
お2人とも瞑想の経験は私よりも長く、長時間座ることには慣れており、その集中感に引っ張られてか、あっという間に感じた1時間の瞑想でした。

瞑想後に70代の女性は、「途中から目を開けて、(本棚にあったラマナ・マハリシの)書籍の帯に書いてある『私は誰か?』という言葉に瞑想していました」と話されました。
すると50代の男性が、「実は私は小さい頃、寝る前に『自分という存在は一体何なのか?』ということをずっと考えていました。それを考えると、宇宙を感じる時や自分がなくなっていく感覚があり、これが私の瞑想の原点なのです」とお話されました。
私自身、「この人生、どう生きていきたいのか?」とは大人になるにつれて考えていましたが、その人生の主体である「私とは誰か?」ということを真剣に考えるようになったのはここ数年のことなので、この男性の話を聞いて驚きました。
この時に話題にあがった「私は誰か?」という帯が付いていた聖典『沈黙の聖者』の中で、ラマナ・マハリシは次のことを説いています。

「私たちは自分の内部にある長年のサンスカーラ(潜在残存印象)のすべてを完全に投げ出さねばならない。それらがすべて放棄されたとき、真我(本当の自分)がひとりでに輝くだろう。しかし、あなたは努力なしにはその状態に達することはできない。それは意図的な瞑想への努力なのだ」
「真我である、注意深く観察されたスムリティ(記憶)以外には、どんな想念をも微塵だに生じさせないほど真我の中にしっかりと留まる、よく鍛えられた内在性こそが、至高の主への自己放棄を形成する」

ーーー『沈黙の聖者』ラマナ・マハリシーー

瞑想後の少しの会話でしたが、瞑想者同士、静かに深い話ができ、私自身も「私は誰か?」という問いを常にもって「本当の自分を実現したい」と改めて強く感じた、たいへん有意義な瞑想会でした。

そして一昨日の1月12日は、私が尊敬してやまないスワーミー・ヴィヴェーカーナンダのご聖誕日でした。
最後にヴィヴェーカーナンダが瞑想について述べた言葉を紹介したいと思います。

「瞑想は重要だ。瞑想せよ! 瞑想は偉大だ。それは霊的生活への近道だ。それはわれわれの日常生活における全く物質的ではないーー魂がそれ自身を思うーーしばしの時間だ。あらゆる事物から自由なーー魂のこのすばらしい感触」

ーーー『真実の愛と勇気』スワーミー・ヴィヴェーカーナンダーーー

緊急事態宣言が出されて瞑想会は当分できませんが、また状況が改善されたら皆様にもお声がけして、一緒に瞑想をしていきたいです。
1日も早いコロナの収束を願い、感染予防に努め、今はひとり瞑想に励み、「魂がそれ自身を思うすばらしい感触」を増やしていきたいと思います。
今冬は寒さも厳しいので、皆さま、どうぞお体には気を付けてお過ごしください。

ゴーパーラ


新年のご挨拶

皆さま、あけましておめでとうございます🌅🎍
今日から仕事始めの方も多いと思いますが、お正月の三が日はいかがお過ごしでしたか?

例年とは違い、静かなお正月だったかと思いますが、私はなんと有り難いことに、さまらさの台所の担当サティヤーさんがおせちを作ってくれ、自宅の嵐山まで届けてくださいました!
またお箸は、マハーヨーギー・アーシュラマ(僧院)からいただいた柳箸ーー柳の木は、春一番に芽を出し強い生命力があり、また香りよく、水分が多く、折れにくいことから縁起がいいとされています。別称は両口箸とも言い、両端が削られ、神様と一緒に食事をするという「神人共食」のためのお箸ということーー
今年は一人でおせちをいただきましたが、縁起のよい柳箸でいただくおせち料理は格別なる味わいで師を感じ、心身共に温かさと慶びに包まれました。
師とグルバイのおかげで本当に晴れやかな気持ちで新年を迎えることができました。
まことにありがとうございます。

そしてこの2021年は、マハーヨーギー・アーシュラマ開設45周年、ニューヨーク・ミッション設立25周年の年です。
師がアーシュラマでヨーガを教え始めてから、本当に長い年月にわたって、私たちのために「すべて」を費やして真理・神へと導いてくださっています。
私の今年の目標は引き続き「ヨーギーであること」、それを一心不乱に深めることです。
まさにヨーギーであられる師に倣い、ヨーガを深め、能動的にヨーガを伝えていきたい所存であります。

コロナ禍で大変な状況ではありますが一日でも早い収束を願い、このブログ「ヨーガを生きる」が少しでも皆さまのお役に立てれば幸いです。
またこの1月からは野口美香さんがブログの新メンバーになります!
美香さんの記事にも大いに期待していただけたらと思います。
では皆さま、本年もどうぞよろしくお願いいたします。

ゴーパーラ


三宝(仏法僧)という避難所

2020年も残すところ、3日となりましたね。
皆さま、年の瀬をいかがお過ごしでしょうか?

今年は世界的に新型コロナウィルスの感染拡大に見舞われ、世の中の状況が一変しました。
誰もこの事態を予測していなかったほど人々の暮らしや行動に変化をもたらし、動揺や不安の大きかった1年だったと思います。
私たちマハーヨーギー・ミッションの会員も師と会えない、サットサンガ(真理の集い)が開催できない辛くて苦しい状況が続いています。
ただこの苦境においても、自分自身ブレることなく淡々とヨーガを実践できたのは、ひとえに師シュリー・マハーヨーギーの存在と恩寵があってこそで、また師の真理の教えに対する絶対の信頼が自らの内にあり、そしてその教えを共に実践するグルバイ(仲間)たちがいたからです。

「自らを拠り所とし、法(真理の教え)を拠り所とせよ」

2500年前にブッダが説かれたこの「拠り所」は、「避難所」と訳されることもあります。
ブッダの説かれた「諸行無常」を実感する変化の年でもありましたが、それ以上に「仏・法・僧」という三つの宝ーー「覚者・真理の教え・修行者の仲間」ーーこれが世界の「宝」であり、また確実で安心できる「真の避難所」であることを改めて深く実感する1年でした。
この場を借りて師とグルバイの皆さまに感謝を申し上げます、まことにありがとうございます。

12/26(土) 今年最後の瞑想専科のクラス。

ここ数年、私はこのブログ内で1年の締め括りの記事を書かせていたただいていますが、今年はいつもの慌ただしい年末とは異なり、時間の流れがゆっくりしていると感じます。
でもこのゆっくりな感じは、今年で終わらせたい。
時間は心がつくり出している観念であるのですから、こんなのではだめだと感じてきています。
コロナ禍で制限はありますが、でもそんな中でも自らが今できることは何かを考え、そしてそれのためにこの与えられた心身、時間、場所、「全て」を総動員していきたいと思っています。
今年流行した『鬼滅の刃』の主人公がよく言うセリフ「全集中!」でもって、来年はヨーガの実践に臨みたい所存であります。

最後になりましたがこの1年、ブログ「ヨーガを生きる」をお読みいただいた皆さま、まことにありがとうございました。
来年はブログの記事数と内容、両方をさらに豊富にしていきたいと考えていますので、お付き合いいただけると幸いです。
では皆さま、よいお年をお迎えください。

ゴーパーラ


本日はサットグル・ジャヤンティー🍁

11月23日は、私たちの師シュリー・マハーヨーギーの御聖誕日「サットグル・ジャヤンティー」です。

無形の真実在が人の姿をとって御聖誕された最も吉祥な日ーー

残念ながら、本年は一同に会して祝祭を開催することはできませんが、本日京都の弟子数名が略式という形で師に感謝と礼拝を献上します。
また、11月20日に発行された『パラマハンサ』は「サットグル・ジャヤンティー特集号」ーー師の御聖誕と導きの感謝、弟子の悟りと献身奉仕の誓願ーーその祝辞が掲載されています。
会員の方は、御聖誕日にこの『パラマハンサ』を開くことになっていますが、もうお読みになられたでしょうか?

今年はとりわけ多くの祝辞が献上され、すべての祝辞が師への感謝と愛に溢れ、その純粋な思いが輝きを放って反射し合い、私には『パラマハンサ』が熱く光り輝いているかのように見えました。

無形の真実在が人の姿をとって顕現された師の存在は「奇跡」としか言いようがありません。
そしてまた、人が本気で真実・神を目指そうと決意し、その道を歩んでいること、これも同様に「奇跡」としか思えません。
師は以前、次の言葉をおっしゃっています。

「ヴェーダ(天啓聖典)の権威によって至高の存在が輝くのではなく、

至高の存在によってヴェーダが輝くのである。

それは抽象的概念や空想の産物ではなく、

具体的にこの地上に身をもって顕れた存在のことなのである。

ゆえにグル・ジャヤンティーの真意はここにある」

師に出会わなければ、聖典の1ページも理解できなかったと思います。
また、私たちの人生には常に不安と苦しみが付き纏っていたことでしょう。
しかしながら、私たちを照らす「光輝く存在」がこの地にお生れになったのです!!!

昨日、「シュリー・マハーヨーギ・ストートラム」が期間限定でYouTubeにて公開されました。
場所は違えど、師の御聖誕されたこの祝福された日に、ハートの内でその歓びを分かち合い、師に最大の感謝を捧げましょう!!!
お天道様も祝福されています!!!

23日、東の空には朝日が昇り、西の空には虹が架かっていました🌈 奇跡!!! 

ゴーパーラ


シャーンティ庵、嵐山に引越し

ご存知の方も多いかと思いますが、先月末に8年間住んだ上京区のシャーンティ庵を引越ししました❗️

新しいシャーンティ庵の場所は、嵐山です‼️

新居1階の部屋。

渡月橋。

よくテレビなどで映る渡月橋にも歩いて行けて、周りは自然が多く静かで、サーダナ(霊的修行)をするのにはとてもよい環境です。

今回引越しをしたのは、コロナウィルスの影響で遠方のグルバイの方たちがシャーンティ庵を利用できなくなったことと家の更新年が重なったこともあり、シャーンティ庵をコンパクトにしようと思い物件を探したところ、職場のある嵐山に良い物件が見つかったからです。
上京区の旧居は5部屋でしたが、嵐山の新居も3部屋あり、3人前後は泊まっていただけます。
古い家ですが、リフォームもされていて良い家ですよ〜
車も購入予定なので、また遠方のグルバイの皆さんとお会いできる時には車で送迎もできるようにしたいと思っています。
京都のグルバイの方もぜひお越しください!

今後もシャーンティ庵の方、どうぞよろしくお願い致します‼️

ゴーパーラ


『あるヨギの自叙伝』を読んで(6)ーーラマナ・マハリシーー

約2年ぶりの「『あるヨギの自叙伝』を読んで」のコーナーです‼️

今回は、20世紀インドの覚者ラマナ・マハリシです。

「身体は死滅するが、魂は死によって決して手を触れられることはない。私とは不滅の魂なのだ」

ーーラマナ・マハリシーー

16歳でこの不滅の魂である「本当の私」に目覚めたラマナ・マハリシ。
今年に入り私は、「本当の私」に瞑想を始め、ラマナ・マハリシにすごく惹かれるようになりました。

そこで最近、『あるヨギの自叙伝』にヨーガナンダがラマナ・マハリシのもとを訪ねていたことが書かれていたのを思い出し、読み返してみました。

すると、ラマナ・マハリシについて記されていたのは、写真を含めてわずか1ページ……😅

なぜこんなに短いのだろうと思ったのですが、2人の交流がわずか数時間だったこと、またラマナ・マハリシにはすでに弟子がいたので、ヨーガナンダは詳しい紹介を留めたのかもしれないと思いました。(現に今、ラマナ・マハリシの著作は弟子や信者によって数多く出版されています)

ただ、この1ページの中には、「沈黙の聖者」と称されるラマナ・マハリシとの「言葉ではない交流」が感じられます。

例えば、アーシュラマ(僧院)を訪れたヨーガナンダを暖かく迎えたラマナ・マハリシは、傍にあったヨーガナンダが発刊していた雑誌『イースト・ウエスト』が積まれた山を指差したそうです。
また、ラマナ・マハリシの弟子たちを交えての会話だったため、ラマナ・マハリシ自身はほとんど何も語らなかったようですが、その穏やかな顔は神のような愛と英知に輝いていたそうです。

心の波が静まる「沈黙」が訪れると、その奥に在る不滅の魂「本当の私」から「無限の歓び」が湧いてくると言われています。
たとえ言葉を発さなくても、ラマナ・マハリシのちょっとした行為やその表情から、霊的な交歓がなされていたことが感じられるエピソードです。

そしてヨーガナンダは、ラマナ・マハリシの紹介を最も主要な教えである「私は誰か」で表しています。

スリ・ラマナは、苦悩する人類に、彼らが見失ってしまった〝完全なるもの〟を取り戻させるために、「人はたえず『おのれとは何者か』と自らに問いかけるべきである」と教えている。これこそまさに〝偉大なる問い〟である。これ以外の考えを厳しく排除することによって、人は、真の自己の中にしだいに深く沈潜し、雑念に惑わされないようになるのである。

「おのれとは何者か」、つまり「私は誰か」ーーこれをヨーガナンダは「偉大なる問い」と言っています。
いろんな問いがこの世界には溢れています。
例えば、「仕事とは何か?」「人生とは何か?」
ただ、どんなことを考えるにしても、「仕事をしている私」「この人生を生きている私」というふうに、そこには「私」がいます。
「私のしたい仕事をする」「私がやりたいように人生を生きる」とはよく聞きますが、「では、その私は誰か?」と考える人は本当に稀です。
この主体を考えないこと、これこそ苦悩する人類の盲点であり、その主体である「私」を熟考し、偉大なる「本当の私」を自覚するための問いが、「私は誰か」にあると思います。

今年に入り私自身、「私は誰か」という瞑想を始めていますが、上記のヨーガナンダの一文にそのヒントをいただいた気がしました。
それは「たえず」「それ以外の考えを厳しく排除」というところです。
バクタが神以外のことを思わないように、心にいかなる思いが起こったとしても本当の私に立ち戻る「私は誰か」、その問いを繰り返し繰り返し実践していく、これを徹底していきたいと私自身、強く思いました。

そして今回、『あるヨギの自叙伝』はどんな小さなエピソードや一文からでも真理が学べ、本当に素晴らしい聖典であると改めて実感しました!
まさに真理で埋め尽くされた宝の宝庫です🌝💎

ゴーパーラ


ふとした瞬間

夜勤に入る前、いつも時間調整をしている公園があります。その公園のベンチに腰掛けると、目の前には大きな田んぼが、見上げればどこまでも続く大空が拡がっています。

ほっと一息つき、心に空白が生まれるような瞬間。神に思いを馳せると、身体も心も、目の前の景色も、すべて神で満たされるような気持ちになります。田んぼから聞こえてくる蛙の声はオームの振動、電灯や星の光は純粋意識の顕れであるかのような・・・・・・ そんな時、私が憧れる境地を表わしたシュリー・ラーマクリシュナの教えが蘇ってきました。

 

水また水――

上も下も、果てしない水――

人は魚のように楽しげに泳ぐ

 

無限の大海よ、水に極みなく

その中に一つ 瓶が漂う

瓶の外も、中も水――

智者は悟る、これすべてアートマン

 

あぁ、早くこの境地を知りたい!と切に願いました。

瞑想の状態は必ずしも行儀良く座っている時に訪れるものではないと、師は言われます。集中しようという力みが抜けた――ふとした瞬間に、すっと瞑想に入れるのだと思います。だからこそ、何の手応えもなく、何の感触も得られないけど、ひたすら瞑想に座って集中し続けた時間も決して無駄ではないと思うのです。

これからもあきらめず、めげずに瞑想に座っていきたいと思います。

 

ヨーガダンダ


人間とは何か?

8月に入りましたね。
夏休みシーズンということで、ブログもちょっとラフな感じから入ってみたいと思います〜🏄‍♂️

京都 鴨川

最近、WOWOWで放送されていた『ぴぷる』というドラマを仕事場で観る機会がありました。
人間と人工知能(AI)を搭載した人型ロボットが結婚できるようになった2030年の京都が舞台で、冴えない男性が「ぴぷる」という名の美少女AIロボットと結婚生活をするという物語。
最初は「あんまり面白そうじゃないな、このドラマ」と思って視聴していたのですが、人間は嫉妬深くエゴ的であり、逆にAIロボットは夫の好き嫌いを学習したりして素直に夫に尽くす存在で、なんだか健気で可愛いのである。古都の雰囲気と近未来的内容の対比も合間って、「うーん、人間って何だろう👀?」ということを考えさせられるドラマでした。

その何話目かに、「人の匂いの種類」を話すシーンがあったのですが、AIロボットには醸し出せない人間の特徴の一つに「匂い」があるのだなと思いました。

では、人間の最大の特徴とは何だと思いますか?
ひと昔前なら「知性」と答えられたかもしれませんが、人間の知性と同等の、またそれを凌ぐAIロボットの開発が進むと、そうとも言えない時代になってきているなと思います。
それでこのドラマの最後、涙を流すことがプログラムされてないAIロボットでしたが、夫を想って涙を流し、命を終えます。夫がそのことを開発者に話すと「それはバグだ(コンピュータープログラムにひそむ誤り)」と言います。でもその開発者は「あなたがそう思うのならいいんじゃないんですか」と言って、「信じたいものを信じるのが人間ですから」と言い加え、ドラマは終わりました。

「信じたいものを信じるのが人間」ーー

このセリフを聞いて私は、人間の最大の特徴は「信じる力」「信仰の力」ではないかと思いました。そして、スワーミー・ヴィヴェーカーナンダの次の言葉を思い出しました。

「宗教ほど人に多くの祝福をもたらしたものはないのに、同時に、宗教ほど大きな恐怖をもたらしたものはないと知るのです。宗教以上に平和と愛に貢献したものはありません。宗教以上におそろしい憎悪を生み出したものはありません。宗教以上に人の兄弟関係を身近にしたものはありません。宗教以上に人と人の間に強い敵意を育てたものはありません。宗教以上に多くの慈善的施設を、人々のためでなく動物までも救うための病院を、建てたものはありません。宗教以上にひどくこの世界を血に浸したものはありません。同時に、これらのすべての激しい宗教間の争いの最中に、なお、常に、そこに調和をもたらそうと努める思想の底流があり、それに携わる一般の人々、哲学者、および比較宗教の学徒の群があったこと、そして今もあることを、われわれは知っています」

ーー『ギャーナ・ヨーガ』「普遍宗教」ーー

このヴィヴェーカーナンダの言葉から、人の信じる力、即ち「宗教」が人類とその歴史に大きく影響してきたことが感じられます。
そしてこの現代、「何を信じるか?」が問われているようにも思います。
インターネットの普及により、どこの国にいても誰とでも繋がれ、自分の思いや相手の考えを発信・受信できる世の中になってきています。一宗一派の宗教、人種による優劣思想や争いは未だにありますが、そんな小さな違いや垣根を超え、「誰もの本質に在るもの」「普遍の存在」を感じることが大切だと私は思います。
私自身、師の存在と、そして師の次の教えを信じています。

「自分の中に、本当に尊い存在があるということを信じてください。神は雲の上にいるのでも、宇宙の果てにいるのでもない。あなたの胸の中にいます。それは不滅の存在であって、純粋な意識のことです。それは誰もの本質なのです。そのことを知らないから、人々はみな苦しんでいるのです」

ーーシュリー・マハーヨーギー・パラマハンサーー

「人間とは何か?」
「何を信じるのか?」

答えが見つかってない人は、夏休みの宿題によいのではないかなぁ〜と思います😄📝

ゴーパーラ 


京都アーサナ・瞑想クラス再開 & 感謝の教え

7月に入りましたが、梅雨のお天気が続きますね。
皆さま、いかがお過ごしでしょうか?

さて、約3週間前から京都でもヨーガ・瞑想クラスが再開しています!

水曜日の神足ふれあい町家のクラス

土曜日の京都アスニーのクラス

私自身、2カ月半ぶりに土曜日の京都アスニーのクラスに参加させていただきましたが、その当日の朝、クラスの時間に合わせて食事をして身支度していると、「あっ、この感覚」と身体の内側からクラスに向かうリズムのようなものが蘇ってくるのを感じました。
久しぶりのクラス当日、まず講師のヨーガダンダさんがクラス再開にあたり感謝の意を込めて、約15年前のサットサンガで師のヨーギーさんが説かれた「感謝」の教えについて話してくださいました。
その話を聞いた時、私は感謝の本当の意味を取り違えていたように感じてハッとさせられたのですが、そのクラスの直後、15年前のその感謝の教えが掲載されている『パラマハンサ』(No.47)を偶然にも発見👀‼️たいへん素晴らしい内容でしたのでノーカットでご紹介させていただきます!

 誰しもが物心ついたとき、まあ少なくともいろんな物事が分かってきたような頃、十代の生意気盛りの頃は、独りよがりで自分の力でさも生まれて生きているというような誤った自負をもってしまいがちだけれども、よくよく考えれば自分の力で生きているなんて到底言えないよね。毎日毎日のご飯も食べないと生きていけないんだし、それも誰かの手によって作られたお米や野菜やさまざまなものを頂いて、そしてこの体は維持されているわけ。何一つ自分で生きているなんていうことは間違っても言えない。この空気も水も、宇宙のこの秩序ということに対しても。つまり太陽が昇り沈み、月が昇り、星が輝いている。これが何秒間かでも止まったとしてごらん。もう立ち所にして全生命が消えてしまう。でもそんなことが起こらないようにきちっと運行されている。そのおかげでこのちっぽけな体も生きることができるし、あれやこれや考えることができる。
 だから、まずやっぱりこの偉大なる自然というものに対して、自然から頂いている恩恵というものに対して、素直に頭が下がるはずなの。そのときに自然の感情として感謝というものが湧くはずです。誰もが一度ならずそういうことは感じたことがあると思う。それからいろんな、親や兄弟、友人、さまざまな社会の人々、もう一切合切すべての地上の存在に対して感謝せざるを得なくなると思う。私自身はそういうことは感じてきました。だから誰もが同じようなことを感じてきているとは思いますよ。何かをもらったからとか、自分が何か得したから感謝するという、そんなものは感謝に入らない。仕事上うまくいったかいかないか、それによって感謝するなんて、そんなのはどうでもいい。見えない力、その恵みにやっぱり頭を下げるべきだと思う。それが感謝の原点だと思うの。
 さらには頂いている命を健やかに、なお健全に発育させるというか…、これには善悪の行為もあるし、また善悪を超えた悟りへの行為というものが最もその感謝に報いる行為だと思う。もちろんその感謝の思いは行為でもって表現しないといけないよ(笑)。そうでないと、それはうまく回っていかなくなる。

∞∞シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサ∞∞

私自身、久しぶりにクラスに参加して、会場内は本当にサットヴァ(快活・透明性)な雰囲気で、クラスが終わる頃には心がスッとし、「やっぱりクラスっていいな、特別な空間だな!」と改めてクラスに参加できることの歓びを実感させていただきました。
感謝の思いもそういう心や身体の働きが静まった時に、根源的なところから湧いてくるのかなと感じました。
見えない力、その恵みに感謝を感じ、頂いた命を大切に育み、ヨーガに精進していきたいと思います!

ゴーパーラ  


『アルナーチャラ・ラマナ 愛と明け渡し』

皆さま、こんにちは。
緊急事態宣言が解除され、少しずつですが、京都も人の動きが出てきました。
まだ外出を控えてステイ・ホームをされている方も多いかと思いますが、どんな時間をお過ごしでしょうか?
私はこの2、3カ月の間、いくつかの聖典をじっくりと読みました。
その中でいちばん親しんだ聖典は、ラマナ・マハリシの『アルナーチャラ・ラマナ 愛と明け渡し』です。

フォトブックと詩集が合わさったようなこの聖典はとても読みやすく、聖山「アルナーチャラ」に生涯を捧げたラマナ・マハリシのさまざまなお姿やお言葉、詩、またアルナーチャラの美しい写真が鏤められています。

アルナーチャラはインドの最も古く、最も神聖な聖地の一つである。
それは地球のハートであり、世界の霊的中心である。

カイラーサはシヴァ神の住処だが、アルナーチャラはシヴァ神自身である。

いまだ開かぬ花を見て、あなたは苛立つ蜂のように私の前にとどまった。
ああ、アルナーチャラ!

あなたが抱擁してくれぬなら、私は苦悶の涙の中に消え失せるだろう。
ああ、アルナーチャラ!

私を見たまえ! 思いたまえ! 触れたまえ! 私を完全にしたまえ!
あなたと一つにさせたまえ。
ああ、アルナーチャラ!

私を迎え入れ、私の中に入り、あなたの聖なる命を私に授けた瞬間、私は個我性を失った。
ああ、アルナーチャラ!

真我実現の知識なくして、人生に何の価値があろう。
語る価値さえありはしない。
ああ、アルナーチャラ!

ー『文字の結婚花輪』(108の詩)より抜粋ー

アルナーチャラの偉大さと、ラマナ・マハリシの狂おしいほどのアルナーチャラへのバクティが感じられ、すべてのページが輝かしく素晴らしいのですが、その中でも特に印象に残ったシンプルな言葉があります。それは、

ただ静かにしていなさい。
後は私にまかせなさい。

ここで言われている「私」とは個我ではなく、「アルナーチャラ」「シヴァ」「真我」、そして「グル」という大いなる存在です。
「列車に乗ってまでも、自分の小さな荷物を頭に乗せて苦労する必要がどこにあるだろう。荷物を降ろして安心しなさい」とラマナ・マハリシはおっしゃっています。
ステイ・ホームでも心はステイしていない時、スッとこの言葉がハートに響き渡り、自分のすべきことが示されたような感覚になりました。
緊急事態宣言は解除されましたが、私は「ステイ・マウナ(沈黙)」を継続中です。

ゴーパーラ