投稿者「ゴーパーラ」のアーカイブ

二元性を超えるーー夏の暑さを乗り越えようとした奮闘記(2)

最高気温38.7℃の日中、私はあえて暑い部屋でアーサナをして熱中症になった。(前回のブログはこちら☜
身体が火照って頭痛がひどく、一睡もできず夜勤に行く。職場は行事の後で酒盛りをしていて、多くの人で賑わっていた。「オー・マイ・ゴット!もう終わった……」酔った職場のオーナーからいろいろ話しかけられる。「おい、死んだらどうなる? 人生って決まってんのか? お前の人生のゴールは何や?」などなど。でも不思議だった、会話中、呼吸が止まっている自分がいた。何を言われようが動揺しない自分がいて、何だか口調も穏やかになっているのを感じた。そして熱中症はどこかにいって、その後は楽しくW杯決勝戦を観て、無事に仕事を終えることができた。

この出来事は、師の恩寵としか言いようがなかった。しかしながら、私の心はその「結果」を受け取っていた。
私は呼吸が止まった経験を機に、アーサナでは吐き切る呼吸を心掛けた。しかしその後のアーサナクラスでは2週続けて「アーサナを丁寧に形作ること」「基本ポーズのポイントをしっかり押さえてアドバンスに移行すること」という指導を受けた。クラス指導者の方から言っていただくことはいつも納得いくのだが、素直に受け入れられない思いが湧いていた。だが自分のアーサナを自宅で確認すると、それらができていないことが分かった。そのことから、私は知らず知らずの内に「アドバンスができる」「呼吸が止まった」などの慢心が湧いていたことに気付かされた。
心のエゴは結果だけを受け取り、それに執らわれてしまう——呼吸の停止はあくまで結果であり、どのようにすればそれができるようになるかという過程が大切であったのだ。
ミラバイ著『真実を求めて』には次のようにある。

「アーサナは肉体を扱っているようで、本当は自分の心と向き合うこと」

とても暑かった夏を振り返り、テーマであった快不快・寒暑の「二元性を超える」とはどういうことかと考えてみた。「呼吸の停止」「結果への無執着」がそうだと言えるかもしれない。でも、「神」という唯一の存在に憧れ、近づいていこうとすること、それだけなのかもしれない。それさえあれば、どんな状況も超えられる。否、超えさせてくださる——
そのように感じた、この夏でした😇 

トンネルを越えると、「桃源郷」をテーマにした空間が広がっていました。8/1 @MIHO MUSEAM

ゴーパーラ


二元性を超えるーー夏の暑さを乗り越えようとした奮闘記(1)

皆さま、先日に台風21号が過ぎましたが、大丈夫だったでしょうか? こちら京都では停電や建物損壊の被害がありました。また、北海道では地震により甚大な被害が発生しているとのことで、災害に遭われた皆様が1日も早く平穏な生活に戻られることを心からお祈りいたします。

ところで、この夏は本当に暑かったですね。皆さま、いろいろな暑さ対策をされたことと思いますが、ヨーガの根本経典『ヨーガ・スートラ』には、

「アーサナ(座法)によって快不快、暑い寒いの二元性を超える」

と説かれています。えっ、ヨーガで暑い寒いを超えるってどういうこと?そんなの無理でしょう〜と普通は思ってしまいますが、でもこの夏、私は「二元性を超える」ということをテーマに、ちょっとばかり暑さと闘っていました。以下、その奮闘記のようなものを書いてみました😤✏️


梅雨明け間近の7月前半、私はヨーガ・ヴィハーラの夜の瞑想会に遅れて参加した。この日の最高気温は34℃、クーラーがかかっているだろうと思って部屋に入ると、クーラーはかかっていなかった。そこにはタンクトップと短パンという最小限の衣服で、涼しげに瞑想する先輩ヨーガダンダさんがいた。この暑さなのになんとも涼しげなご様子、というかご格好!私はというと、瞑想に座るもムッとした暑さで集中できない。。こういう時、どうすればいいのか?

「まず、捉えやすい身体に集中したらいい」

他の先輩の言葉が思い出され、それに伴って聖典『ウパニシャッド』の一節の言葉が蘇ってくる。

「胸と頸と頭とを真っ直ぐに保って正しく坐り、外に出ようとする感覚器官を内に向けよ」

私は姿勢を正し、呼吸を調え、内側に意識を向けていった。その後瞑想では、暑さのことは忘れていた。この日私の心には「アーサナ(座法)によって快不快、暑い寒いの二元性を超える」という『ヨーガ・スートラ』の一文が浮かび上がっていた。

それから1週間ほど経った日、師ヨーギーさん唯一のTV映像である『あどりぶランド』の上映会があった。この日は松山や名古屋からもグルバイ(兄弟姉妹)が京都に来ていて大勢でその10分ほどの映像を見たが、いろんなことに驚かされた。
まず、師の妹さんのシャーンティマイーさん。長い黒髪を後ろで結んで軽快に動き、アドヴァンスのアーサナをされたりしていて、それはまるで「くのいち」のようだった。その隠密さ漂う凛としたお姿に驚愕。
そしてヨーギーさん。何といっても、インタヴューされている時のお声がとっても美しい。声色もそうだが、独特の間合いというか、静かで穏やかな口調。この番組の司会担当をしていたヨーギーさんの同級生アナウンサー野村啓司さんは「彼の話の間合いにイライラする」と冗談めいて言っていたが、やはり普通の人の話し方とは異なる特有のものがあった。
客観的に映像で見る二人のお姿は、何か「超越したもの」が感じられた。それは言葉ではない、その存在から醸し出される「隙のなさ」のようなものでもあった。師は夏でも冬でもクルター(インドの民族服)一枚で過ごされていたという話や、当初アーシュラマ(道場)では扇風機もなく、先輩たちは汗だくでアーサナをしていたという話も聞き、私は姿勢を正される思いになった。

「暑いとか寒いとかそんなこと、言ってられないな!」

そう思った翌日、私は『あどりぶランド』に影響され、涼しい部屋でアーサナはせず、あえて暑い部屋でアーサナを行なった。ヘロヘロになりながら何とか一連のアーサナを終えるも頭がガンガン、熱中症になっていた……それもそのはず、その日の最高気温は38.7℃だったのだ?!(続く)

@MIHO MUSEUM。このトンネルを超えると……

*『あどりぶランド』は、1984年1月25日から1998年3月18日までMBSテレビで放送されていた同社アナウンサーの企画・出演によるバラエティ番組。ちなみにヨーギーさんは野村アナウンサーとは中学時代の同級生であり、同窓会で再会したことがきっかけで、この番組企画「野村啓司の私の同級生は今!」に出演することになったそうだ。

ゴーパーラ


松山特別企画 バクティ・サンガム2days ⑵‼️

前日に引き続き、秋になったかと思うような本当に気持ちのいい朝でした。(前回のブログはこちら☜)昨日もバクティ・サンガムとサットサンガに参加された女性が、2日目のバクティ・サンガムが始まる前に、「幸せすぎて、昨夜はあまり眠れませんでした~」と嬉しそうにおっしゃっていましたが、すごく分かります!私もその1人です(笑)。

2日目のバクティ・サンガムでは、15世紀の終わり頃、キールタンを最初に人々に伝えたといわれているシュリー・チャイタニヤの半生がバクティ名作劇場と題した朗読芝居で紹介され、歌った曲はチャイタニヤが愛したクリシュナの歌「Hare Krishna」と「Bhaja Nita-i」でした!
一通り歌った後、ミラバイさんは名作劇場でのチャイタニヤのお話を分かりやすく要約してくださいました。チャイタニヤは私たちの人生でいちばん大切なのは「神への愛」であるという言葉を残しています。神は決して遠くにいる存在を指すのではなく、私たち誰もの中にある。つまり、私たちの本質が神なるもの――
そしてミラバイさんがもう一度チャイタニヤの大切な言葉を声に出そうとした瞬間、ミラバイさんは神への愛で満たされて、どうしても話せなくなり、代わりにヨーガダンダさんがチャイタニヤの有名な言葉を紹介してくださいました。

神の御名は神そのもの
神は愛
神の御名を唱えるだけで、誰もが神に近づくことができる

ミラバイさんがこの言葉そのものを体感している様子を目の当たりにした私たちは、胸がいっぱいになりました。

夢中で繰り返し繰り返し歌っていくうちに、心が神で満たされていきます。

バクティ・サンガムに続いてのミラバイさんのサットサンガでは、「目の前の人を神と見るにはどうしたらいいか」「日常を調える具体的なやり方が分からない」「神を愛する実践について」などの質問がありました。
印象に残った問答をご紹介します。「人生でいちばん大事なことは何でしょうか。神への愛が大事だと頭では分かっていますが、まだピンときていません。私には将来のことに悩んでいる娘がいます。ヨーガの言葉を使わずに、私にも娘にもわかるように教えてください」という質問に対し、ミラバイさんは「自分の命を生ききることだと思います。人それぞれ大事にしているもの、目標にしているものは違うかもしれません。今生でヨーガに出会う人もいれば、出会わない人もいる。私自身はヨーガの中に大事なことがあると思いますが、どんな立場、状況にあろうとも、その命を最大限大切にして生ききっていくことができたらいいかなと思います。どういうふうにしたら自分の命を輝かせていくことができるのか、それを考えてみてください」と答えられました。
後日、その質問をされた方から感想のメールをいただきました。

「命を生ききる」——ミラバイさんの言葉を聞いた時、胸の奥から込み上げてきて涙が出ました。ヨーガをやってない娘は救われないと思っていましたが、ヨーガをやってない人にもできるヨーガだと思いました!今後どのような境遇に置かれても、逃げずにきちんと向き合って生ききっていく勇気が湧いてきました。大事な事を、本当に分かりやすく教えていただきました!
バクティ・サンガムの感想も述べさせてください!今まで、キールタンを歌って泣いている人の気持ちがまるで分かりませんでした。でも今回バクティ・サンガムに参加させていただき、とにかく心から必死に歌っていたら、なぜだか胸が熱くなり涙が込み上げてきました!不思議です。本当に楽しかったです!

他にも参加者の皆さんの喜びの声をお伝えします。

・気持ちのいい時間でした。人が発展とともに忘れてきた真の喜びに触れた気がします。
・疲れのせいか体がしんどかったけど、みんなで歌った後はとても軽やかになっていて、キールタンで神の御名を唱えることはすごいなと感じました。YouTubeで聞くより生のミラバイさんの声はすごくよかったです!あんな声は聴いたことがないです。
・「Rama Rama Rama」のキールタンが頭から離れません(なんと3人以上も!)
・私はしんどい時ほどアーサナを実践したいと思いました。
・キールタンを歌いながら、全体が歓喜に包まれているような心地良さがありました。笑顔で歌われているミラバイさんの姿を見て、すごくすごく感動しました。本当にすばらしかったです。(後日談)ここのところ読めなくなっていた『ラーマクリシュナの福音』が自然に読みたくなって、以前と違って素直に読めるようになりました。瞑想のとき、心の奥(神がおられる場所)に行きたいという思いが強くなっています。

ミラバイさんのサットサンガ。

2日間のバクティ・サンガムとサットサンガでミラバイさんとヨーガダンダさんは、心が神へ向かうように分かりやすく何度も伝えてくださいました。

神への愛の歓びでいっぱいになった2日間!!!
私自身が感動し鼓舞されたのは、ミラバイさんとヨーガダンダさんの内面の清らかさと謙虚さがそのまま言葉となっていたこと、そして目には見えない日々の努力の積み重ねが感じられ、それによってみんなが励まされたことです。
忘れられない夏になりました!
このような機会をいただいて師シュリー・マハーヨーギーに心からの感謝を捧げます。

最終日、ミラバイさんたちと訪れた塩屋海岸。大自然のシャクティ(女神)の優しさに包まれました。

アーナンディー


松山特別企画 バクティ・サンガム2days ⑴ ‼️

松山のアーナンディーです。
今年の夏は台風が多いですね。皆さま、お元気でお過ごしでしょうか?
その台風の合間を縫って8月18日(土)、19日(日)の2日間、ミラバイさんとヨーガダンダさんが松山に来てくださり、バクティ旋風を巻き起こしてくださいました。
今日からこのブログを読んでくださった方のために♡
バクティとは神への愛のこと、バクティ・サンガムではキールタン(神への讃歌)を歌います。キールタンもヨーガの1つです。神を愛し、心を純粋にしていくことによって、ヨーガの目的である神とひとつになることを目指します。
文字にすると難しく感じるかもしれませんが、実際は頭を使わなくていいですし、とてもとても楽しいのです!

私は皆さんにメールでご案内するとき、ミラバイさんが歌っている動画付きでご案内しました。(動画はこちら☜)
すると面白そう!と興味をもっていただき、初日は参加者31名(内11名が初参加)、2日目は33名(内6名が初参加)で、両日参加の方が19名で大いに盛り上がりました!!!

松山ヨーガ・サークルの会場はサリーで美しく大変身!

優しい笑顔と声に魅了され、会場の皆さんの気持ちがほぐれていきました。

ミラバイさんはやさしく丁寧に神について話されました。
「日本では神様は馴染みがないかもしれませんが、歌っていくうちに本当の神様は自分の中にあるということが感じられていきます。それはこの命を生きていく中で、本当はいちばん大切なこと」、そして「インドでは深く神を愛した人がいて、その人たちの息吹に触れることは私たちにとって、とても勉強になります」とおっしゃり、バクティ名作劇場と題して、ラーマという神様への愛と信仰に溢れた聖者のお話を紹介してくださいました。1日目は「Rama Rama Rama」というシンプルな曲と、「Jaya Jagadambe!」という女神の曲を歌い、ミラバイさんのリードに初参加の方もすぐに馴染んで、会場が次第に神の御名でいっぱいになり、喜びに包まれていきました。

バクティ・サンガムの次に、ヨーガダンダさんがサットサンガをしてくださいました。
サットサンガでは質疑応答によってヨーガの学びを深めていきます。
「人間関係のトラブルをどうしたらいいか?」「自信をつけるには?」「聖者への瞑想について」「謙虚さを養うには?」などの質問がありました。

ヨーガダンダさんのサットサンガ。

ヨーガダンダさんは人間関係のトラブルに悩む方の質問に対しては、「相手の心を変えようとするよりも、まずは自分の心を静かにするべきで、心が静まったらどう対処すべきかが見えてくるはず。またアヒンサー(非暴力)という徳目を徹底すると誰からも危害を加えられないという結果を迎えるといわれているので、そのようにして自分自身を調えていくことが堅実だと思います」と話されました。別の質問で、病気などの不調で体がしんどくなると神様のことを思えないという方に対しては、「できる範囲でアーサナをして体を調えてから神様を思うのも一つ。ヨーガは、身体、呼吸、心というふうにつかみやすいところから段階的に進めていくことが可能で、アーサナは神様の贈り物」だと話されました。質問者の皆さんは勇気づけられ、表情がどんどん明るくなっていきました。

2日目のご報告は、次のブログでさせていただきます!

アーナンディー


マウナ(霊的沈黙)

4月8日、ブッダ御聖誕の日、マハーヨーギー・ミッション春の祝祭「サナータナ・ダルマ アヴァターラ メーラー—神性示現大祭―」が開催された。
祝祭前日に行なわれたサットサンガ(真理の集い)では、「十二因縁の瞑想よりも大事なことがある」と示された師。(前回のブログはこちら⇨『十二因縁』
では、十二因縁の瞑想よりも大事なこととは何か?

昨年から始まった春の祝祭は今年、「ブッダ」に焦点が当てられた内容となった。
会はプージャー(礼拝の儀式)で幕を開けた。幸運にも私はプージャーで師シュリー・マハーヨーギーにマーラー(花の首飾り)を献上させていただき、そのまま師の御前に座らせていただく恩恵をあずかった。しかしながら、師と目が合うことはほとんどなかった。90名近く参加者がいたので仕方がないとも思っていた。
祝祭は、祝辞者がそれぞれに迫っていったブッダやサナータナ・ダルマ(永遠の真理)について語り、会場は歓びと祝福のプラーナで満ち満ちていく中、自然と私の心は静まっていった。
するとある瞬間、私は心が止まったように感じると、師がこちらを見られた。再度、心が止まったように感じると、また師と目が合った。それが数度、繰り返された。本当に不思議だった、私の心が止まったら止まった分、師のダルシャン(霊的一瞥)が注がれたのだった。

そして1カ月が経った頃、「それ」は突然やってきた。胸が締め付けられ、苦しくて何もできない状態が私を襲った。「それ」に心は占領され、「それ」以外のことが思えない、「それ」への渇望で胸が焦がされるような感覚――「それ」は「バクティ」の感情であった。

期せずして、新年の始めに私は「パラー・バクティ(至高のバクティ)に至るために最も大事なことは何ですか」と師に質問していた。師は一言、次のようにおっしゃられた。

「マウナ(霊的沈黙)」

祝祭前日の4月7日、師は「十二因縁の構造が知られて、その根本的な原因の無知というものに辿り着いたら、もうそれらすべてを棄てるということは大事です……心が理解できないのは無知。だからそこのところは、真理というものをもってきて、無知をなくすようにしないといけない」とおっしゃられ、それを受けて私は十二因縁の心の構造を見るより、真理そのものに瞑想する大切さを改めて感じていた。
真理への瞑想が最終的に到達するマウナの境地「ニルヴァーナ(涅槃寂静)」とバクティの目指す「神との合一」が同じ境地ということや、ヨーガの修行の歩みはその「両輪」で進む方がよいということは知っていた。
しかし今、私の中では過去の重荷は棄て去られ、新たにバクティの車輪が回転し、その歩みにドライブがかかり始めたように感じている。
マウナとバクティ——「真理を渇望しないといけない!」と言われたあの台北の夜から今日に至るまで、この両輪を身をもって教えてくださった師の導きに、心より感謝を捧げ、礼拝いたします。(終)

ゴーパーラ


『The Eternal Quest—永遠の探求—』YouTubeで初公開❗️❗️

8月8日、『The Eternal Quest—永遠の探求—』の映像がYouTubeで初公開されました!!!
この作品は、2015年11月3日に京都国際交流会館で行なわれたイベントにアーサナ・瞑想のデモンストレーションとキールタン(インドの歌)で出演した時のものです。

『The Eternal Quest—永遠の探求—』というタイトルを見ると、何だか壮大なテーマだなと感じる人も多いかもしれません。
確かに歴史を振り返ってみると、「永遠の探求」というものが人類の大きなテーマであることが窺い知れます。
秦の始皇帝が求めた不老不死の薬、死後も幸福が続くようにと作られた巨大なピラミッド、理想郷のユートピア思想やオアシス都市の建設など、世界のあらゆる国や地域で永遠に続く命や幸福を求めていたことは明らかです。
インドにおいても、それは例外ではありませんでした。
では、どこに求めたのか?
『The Eternal Quest』の冒頭、インド古代の詩『ウパニシャッド』が朗誦されます。

聖者たちは瞑想に没入し、自らの内に永遠なる真の自己、自ら光り輝く唯一の神を見た
彼は唯一にして第二のものをもたない。彼は宇宙の主であり、一切万物の主である
真実のところ、あなたは神と一つである
あなたはこれを知らなければならない
それ以外に知るべきことは何もない

インドの聖者たちは、外界に永遠のものを探したり、新たにつくり出そうとしませんでした。
瞑想によって、自らの内に「永遠なるもの」を発見したのです。
それが「真の自己」であり、また別名「神」といわれるものだったのです——

私自身、3年前に『The Eternal Quest』のアーサナ・瞑想のデモンストレーションに出演させていただき、それが一つの転機となって「真の自己」「神」を求める思いが芽生えてきました。
ただ最近、この暑さで瞑想に集中できない時がありました。
そんな時、心は涼しく快適な環境「オアシス」を求めてしまいます……
しかし瞑想の途中、『The Eternal Quest』で朗誦された詩の一節が思い出されました。

胸と頸と頭とを真っ直ぐに保って正しく坐り、外に出ようとする感覚器官を内に向けよ

私は再度、姿勢を正し、心を内側に向けて瞑想を続けました。
その後、暑さのことは忘れ去られていました。
どうやら本当のオアシスは、心の奥にあるようですね😑🎐(本当にそう思っている?!と突っ込みたくなりますが……)

最後になりましたが、『The Eternal Quest—永遠の探求—』は師シュリー・マハーヨーギーが総合監督として全面的に協力してくださって完成に至った、まさに師の息吹と恩寵が吹き込まれた貴重な作品です。
まだまだ暑い日は続きそうですが、師に感謝を捧げ、ピリッとするアーサナと瞑想、清流のように透明で美しい神の歌キールタンの映像をご覧になって、この夏を乗り切っていただけたらと思います🙏

ゴーパーラ


大阪・阿倍野 瞑想クラス入門編に参加して

5月より阿倍野のプレーマ ヨーガ サークルにて、3回シリーズの瞑想入門クラスが開講されました!(詳しくはこちら←

「瞑想は潜水に似ている」とよく言われるのは、講師のサーナンダさん。
潜水では呼吸を止めて水中に潜り、そうすると今まで見えていなかった世界が見えてきますが、 瞑想においても呼吸が静まり停止すると、心の奥深くに潜ることができ、心の奥に在る本当の自分に目覚めることができるとのこと……😵💡
今回のブログは、名古屋で子育てをしながらヨーガをされている末松さんが、この瞑想クラスに参加しての気付きや取り組んでいる実践について寄稿してくれました✏️


「潜りたい!」3年くらい前になるだろうか、あるクラスで先輩グルバイに「水面を泳いでいないで潜ってみれば」と言われた時からずっーとわたしの中にあった思いだ。自分なりに潜り方を探ろうといくつかの方法を試したけれど、うまくいかずすぐにあきらめてそのまま月日が過ぎてしまっていた。
そして今回の瞑想クラス入門のことを知り、奥の方にずっと蓋をしていたこの願望がムクムクと騒ぎだした。このクラスに参加することでこの気持ちへの解決法を見つけることができるかも。いや、何としても手がかりくらいはどうにかしたい!と開催される前から心待ちにしていた。
この入門編は1回目:瞑想を体験する、2回目:心を静める、3回目:心の問題を解決する、3回シリーズで、今までなんとなく自己流で瞑想に取り組んでいたわたしにとっては、本当に至れり尽くせりという感じでうれしい内容だった。
1回目は、瞑想の目的や状態などの基礎をサーナンダさんによってわかりやすく教えてもらい、ファーストステップとして“5分でもいいので、毎日瞑想に座って身体を作っていく”という宿題が出た。今までどんなに忙しくても絶対に1日1ポーズ以上はすると決めてアーサナは行なってきたけれど、瞑想は時間に余裕がある時にしか取り組んでいなかったので、正直言うとこの宿題は毎日実践できるのか確信がもてなかった。ただ、一度眠らせていた気持ちの蓋を開けたことによって、この機会だけは逃してはいけないという切羽詰まった気持ちに動かされ、なんとか毎日行なうことができた。
約1ヵ月実践してみての気付きは、宿題の目標だった“座り慣れる”という感覚を感じることができたことと、心が静かになり集中に入るスピードが1ヵ月前より確実に早くなったと思えたことだった。だけど、まだ“潜る”にはほど遠いし、“瞑想”でもないことはわかっている。
入門編2回目は、呼吸と心の関係のレクチャーを受けた後、呼吸法の実習で牛のポーズやプラーナヤーマを行ない、カーリー・ヤントラを用いての集中の練習だった。
カーリー・ヤントラでの瞑想は、最初は目を開いてヤントラの形を思い描けるようになるまで凝視し、目を閉じて姿形を思い浮かべて集中する方法だったが、ヤントラを用いての初めての瞑想だったためかヤントラの形ばかりが気になってしまい、最初は集中ができなかった。それでも続けていると、ヤントラが浮かんできてその向こうに師のヨギさんを感じることができた。さらにもっとそのヨギさんに集中していきたいと思った時に、残念ながら終了の時間がきてしまった。
2回目の宿題は、“毎日瞑想に座り慣れていき、20分以上を目標にしてみる”というものである。次回のクラスは10/30で3カ月ほどあるが、わたしはこの宿題を実践することに加え、今回のクラスでのカーリー・ヤントラを用いた瞑想練習のような深い集中の練習を続けて行なっていきたいと思う。まだぼんやりだが、あの時いままでとは違う何かを感じた気がするからだ。
“身体と呼吸と心が調えば、心は自ずと対象に同化するように集中されていく”と今回のクラスで教わった。実践あるのみ。わたしも早くそれを体感したい!

最後に余談ですが、今回の瞑想シリーズ3回目の開催日は、当初子供の学校行事の合唱祭のため参加できないはずでした。学校行事なので、しょうがないとは思いながらも素直に納得することができず、「わたしは参加できないのでしょうか? なんとか参加したいです!」とヨギさんにずっ~と祈っていました。そして1カ月が過ぎた頃、学校からこの日にあったはずの行事が11月に延期されたとのお知らせをもらったのです。わたしの経験上、学校の行事は年間で決まっており、予定が変更になることは普通なく、しかも年間予定行事の中で10/30に行なわれるこの日の行事だけが変更されたのです。とても不思議なことでした。きっとヨギさんのしてくださったサプライズだと思うのです。ヨギさん、わたしに大切な機会を与えてくださり、本当にありがとうございました。

末松 恭子


十二因縁(十二縁起)

師と過ごした台湾での夜、私は原因、原因を探求していくブッダの十二因縁の瞑想の必要性を感じた。(前回のブログ「集」はこちら
では、「十二因縁(十二縁起)」とは一体どういうものなのか?
それは、老いや死をはじめとする一切の苦しみが起こる原因のプロセスを、根本原因である無知にまで遡っている。

無明…真実を知らず、永遠・絶対でないものを永遠・絶対だと見なす根源的な無知。
…自我意識や執着を生み出す元となる、無意識のうちにある潜在的傾向、サンスカーラ。
…自我と他者を区別し、外界を認識する意識。
名色…名前と形という、区別・差別を生み出す微妙な要素。
六処…視覚・聴覚・味覚・嗅覚・触覚という5つの感覚機能と思いの働き。
…感覚や思いを通じた外界との接触。
…外界の対象を感じ取ること、感受。
…欲望の対象を渇望・渇愛すること。
…欲望の対象を取ろうと執着すること。
…カルマをもって輪廻する煩悩的存在。
…生まれること。
老死… 老いと死をはじめとする一切の苦しみ。

見慣れない仏教用語が並び、十二の意味を理解するだけでも難解に感じるが、この十二因縁を知的に理解している人は学者をはじめ、仏教者にも少なからずいるだろう。
ただ、どれだけの人が実際に十二因縁の瞑想を行ない、本当の意味を理解しているだろうか?
台湾での夜、師は「知的理解」と「体験的理解」の違いを次のようにおっしゃられた。

ゴーパーラ「十二因縁の公式を、心に当てはめながら見ていってもいいんですか」
ヨギ「それを単なる知的理解で終わらせてはいけない。自分の心を材料にして、自分の心はそれに対してどのような反応を示すか――自分の心がその十二因縁のリアルな体現者となったように順次、十二の原因を遡っていくというのかな」
ゴーパーラ「リアルな疑似体験というか、そういうように進めていく」
ヨギ「本当は疑似体験じゃない。自分の心を材料にするから、(強調されて)直接体験やで、これはほんまは。それを直接体験と思えるぐらい切迫した、心に切迫させていかないといけない。そうでないと知的理解という疑似体験に終わってしまう」
ゴーパーラ「それは言い聞かせのレベルとは全く違う」
ヨギ「言い聞かせじゃない。その原因をしっかり理解すること。単なる言い聞かせはいらない。(強調されて)しっかりと理解すること。それは心そのものが変わっていく。それが直接体験の効果というか結果というふうになっていくはず」

私は小さい頃からずっと執らわれている欲望があった。
台湾の夜から私は十二因縁について考えを巡らせていたのだが、瞑想中にその執らわれている欲望が湧き出てくることがあった。
するとその瞬間、名と形が形成され、そこに手が伸びてつかみにかかり、その対象を渇愛する心の動きが感じられた。
それは一瞬の出来事だった。
この十二因縁とは生死の輪廻という大きなスパンの構図だと理解していたが、一瞬の思いの中にも十二の要素すべてが詰まっているようにも感じられた。
私自身、今まで行なっていた識別瞑想では、欲望やその対象に対して、「それは永遠ではない、絶対ではない」というふうに真理をあてがっていた。
その効果として欲望への執着は薄らいでいたが、まだ完全に消えてはいなかった。
だが、この十二因縁の構図でもって欲望を分解していった時、何か咀嚼しやすい感覚があった。
それは、心の中で欲望の消化が促進されるような新たな実感であった。

そして台湾から帰国して約2週間後の4月7日、ブッダ御聖誕日の前日にサットサンガが開かれた。
私は実践した十二因縁の瞑想について師に確認した。
師は、「それは心が造り出す条件下の構造そのものを明らかにするという意味において、その十二個を辿っていくということは有意義」と言われた。
しかしながら師は、それよりも「もっと大事なことがある」と示されたのだった。
(続く)

ゴーパーラ


*老いや死のような一切の苦しみ(老死)は生まれたこと(生)に原因があり、生まれたことはカルマによって輪廻する煩悩的存在(有)に原因があり、その輪廻的存在はさまざまなものを取ろうと執着すること(取)に原因があり、執着は欲望の対象を渇望すること(愛)に原因があり、渇望は対象を感じ取ること(受)に原因があり、対象を感じ取ることは外部との接触(触)に原因があり、接触は視覚・聴覚・味覚・嗅覚・触覚・思いの六つの感覚機能があること(六処)を原因とし、六つの感覚機能は名前と形(名色)という微妙な想念があるために起こり、名前と形は自分と他者を分けることで外界を認識する意識(識)を原因としながら、名前・形とその外界意識は相互に依存して成り立っている。また自他を区別して外に向かうその意識はサンスカーラという無意識の潜在的傾向(行)を原因とし、潜在的傾向は永遠でないものを永遠と見、自己でないものを自己と見る無知(無明)に原因する。これら十二の因果をまとめると以下のようになる。(原因<結果、で示す)
無明<行<識><名色<六処<触<受<愛<取<有<生<老死

MYM 東京 サナータナの解説】


MYMオリジナルトートバック&Tシャツ新登場‼️

すでにホームページでは発表されましたが、マハーヨーギー・ミッションの新作オリジナルTシャツが出来上がりました〜!!!

デザインはカーリーヤントラ!
ゴールドとシルバーの豪華2色使いで、なんと全19色のカラーバリエーションとなっています!
そして今回は、要望の声が多くあったトートバックも同時発売です!!!

このカーリーヤントラは、シヴァとシャクティの合一から宇宙万物が展開するというヨーガ哲学を表したもの――下向きの三角形がシャクティ(女性原理)を表し、五つの三角形の線は「五感覚器官」「五運動器官」「五大」を意味し、真ん中のビンドゥがシヴァを象徴しているそうです。
このカーリーヤントラを見ていると、何だか不思議と引き込まれ、瞑想的なムードになります。
事実、ヤントラは瞑想に用いられる神聖なシンボルで、師のヨギさんは以前、ヤントラについて以下のことを述べられています。

「このヤントラを瞑想時に使うということは、その教えを十二分に理解し認識する、それを知るということです。だから単純に眺めていてもそれは教えそのものですから、その図形、もしくはその表されているもの、そのものが教えと重なってより本質を知っていくことになります。同時に瞑想者の心を真理に向かわせていく。つまり識別を助ける意味において、真理の教えそのものを心が十二分に理解、認識することが目的とされています。そしてそこに表されている象徴的な教え、これを具体的に心に適合させていく」

ヤントラってシンプルだけど、心を真理へと導く偉大な力をもった象徴なのですね!
でもそんなことを聞くと「普段使いできないな……」と思ってしまいますが😅、このデザインをしてくださったヨギさんからは、「ドンドン普段で使って!そのために作ったんやから」と言われました。
ですので、トートバックとTシャツ、早速に普段でも使ってみました〜‼️

MYM御用達の大洋堂珈琲さんにて、ヨギさんブレンドの珈琲豆をラリターが購入し、

私ゴーパーラが珈琲を淹れました〜☕️

実はこのトートバックは、モデルをしてくれたラリターが昨年7月にニューヨークでヨギさんに同行した際に持ち上がった企画でした。
私もちょうどニューヨークでラリターと滞在が重なっていて、そのアイディアを聞いていました。
その時からほんの少しですが、このトートバック企画に協力させていただきました。
途中、頓挫しそうにもなっていましたが、ヨギさんとMYMのデザイン部アートマンが全面的に携わってからは、すごいスピードで仕上がっていきました。
私自身、完成するまでの過程を垣間見させていただきましたが、サイズやカラー、フォント、使い勝手などすべてにおいて徹底して吟味され、師ヨギさんの熟考と集中、持続力、センス、すべてが驚異的で圧巻でした。
カーリーヤントラもいろいろなデザインのものがありますが、この作品は別格だと感じます。
瞑想、仕事、買い物、オシャレ、プレゼントにと、どんなシーンでも使えて、どんな時でも真理に導いてくれる強力アイテムです‼️

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集(原因)

渇望――それは、喉が渇いて水を求めるように、激しく執着すること。
仏教の教えでは十二因縁の中に含まれていて、執着の原因である。
しかし師は台北での夜、「のたうちまわるほどの切羽詰まった真理への渇望」を説かれた。(前回のブログはこちら⇒「渇望(タンハー)」

ブッダは身的苦行を棄て、瞑想によって生死の原因である欲望への執着を見つけ、またさらなる原因のサンスカーラ、そして大原因の無知を暴き出し、悟りを実現した。
後にその因果の理は「十二因縁」として体系づけられた。
では、どうしてブッダはその内的探求が可能だったのだろうか?
通常、人は原因を外に見たり、たとえ内に見たとしても、無知という大原因まで辿り着くことは到底不可能のように感じられてしまう。
事実、ブッダ以前にカルマの因果論は見つけられていたが、カルマの原因である執着とその根本原因の無知は見つけられていなかった。
私は師に問うた、「ブッダのように原因、さらなる原因を探求するには、どうしたらいいのでしょうか」
師は次のように応えられた。

「気付くこともいっぱいあると思うけれど、そこで断定しないこと」

何の変哲もない言葉かもしれない、しかし私はそれを聞いた瞬間、直観的にその教えの深みが感じられた。
「断定しないこと」、それは自分の修行や行為、どれにも当てはまると感じられた。
例えば、日常の実践について。
何年か前、私はミラバイさんから「洋平君(当時の名前)は日常が大事って言っているけれど、それってどういうこと?」と尋ねられたことがあった。
その時私は、「サットヴァ(快活)に行為していくことかな」と答えた。
自分自身この数年、日常生活で軽快に動くことを意識的に取り組んでいた。
しかしながら最近ミラバイさんと話していると、「日常の実践とは心の波を静めること、つまり内的な軽快さがそれである」と暗に教えていただくことがあった。
振り返ってみると数年前、ミラバイさんはそのことを私に教えてくれていた。
にもかかわらず、自分の実践やサットヴァの理解を疑わなかった。
つまり、「断定」していたのだ。

人は自分の心のフィルターという色眼鏡を通して物事を見て、判断して生きている。
さまざまなものを付加しているのである。

「付加条件とは、すべて。環境や性別、年齢、経験、それらをすべて外していく。眼鏡が曇っていることはヴェーダーンタで説かれていること。でもそれを実際に外さないといけない。それがヨーガ全体の実践」

師は実際に眼鏡を外すジェスチャーをして、そのように言われた。
私はこの師の一言で、ヴィヴェーカーナンダが「プラティカル・ヴェーダーンタ」という言葉を使っている意味が理解された。

「これではない、これではない……」

原因、原因を見ていきたい――私は「十二因縁」の瞑想が必要だと感じた。
窓から見える台北101のライトアップは消えていた。

(続く)

 

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