あなたの名前を。

クリスマスが近づき、街に流れるラブソング。あなた、君、あの人・・・そんなフレーズに、神なる存在を重ねては、無性に感動します。ヨーガの話から少し逸れますが、昔、名前のない空を見上げて、という歌をよく聞いていた時、名前に含まれている力に気付きました。
♪ 
もしも明日に迷った時は君の名を呼びたい・・・
名前のない星を見つけて 君の名をつけたい 愛しさとともに 
まぶた閉じて眠るときまで君の名を呼びたい
Yes, I always call your name, your beautiful name.

「あなたの美しい名前を呼びたい」という思い、大切な人の名前を呼ぶ、たったそれだけのことが、どれほど心を揺さぶり、奥深くに浸透し、また一瞬で人の心を変えるか。そういうことを感じる歌でした。私の小さな愛でも、思う対象によっては、心の様子や色合いが変わることを体感してきましたが、心の力は強大だからこそ、普遍的な大きな愛や慈悲という正しい力へ昇華できるとヨーガが教えてくれました。

『ラーマクリシュナの福音』の中で、ラーマクリシュナが、インドのラーマーヤナという物語に出てくるハヌマーン(猿の神様)の信念について話される場面があります。ハヌマーンが、自分の愛するラーマ神のために命を懸けて海を飛び越えようとする時のこと。ハヌマーンの信念はこうでした、「私はラーマの召使、私はラーマの聖き御名を唱えた。私にできないことなどがあろうか

ラーマクリシュナは、ハヌマーンが海を飛び越えたのは心の力だった、とおっしゃっています。
私はハヌマーンのこの信念に感動しました。なぜなら私は、自分には全く自信がない、と内心は打ちのめされていたことがあったのですが、でもだからこそ、私の信じる神だけが頼りであり、私を動かしてくださるのはその神なのだと思うようになっていたからです。自分を信じる力の源は、この自分を信じるという思いではなく、神を信じる思いから来ていると確信し、ハヌマーンの心情と重なりました。信仰心、それは心の力を最大限に正しく発揮できる唯一のこと、と思いました。

そんな心境になったのは、クラスで「神の御名」について、よく耳にするようになったからでした。「神の御名を唱える」と聞くと、崇高な別世界の境地に感じ、自分にはまだ関係のない修行法だと実は長らく思ってきました。そんななか具体的な実践を聞きました。例えば朝起きた時から心の中で唱えだす、ごはんの時には忘れていることが多いけれど気付いてまた唱えだすなど。何気ないリアルな声に触れたことで、敷居がぐんと下がって、日常に根付いた身近なものなんだとイメージが一変しました。聞くにつれ、自分のイメージは間違っていたのかもと思えてきて、素直にやってみたくなりました。以前から神へ思いを寄せていましたが、具体的に名前を唱えたことはなかったので、意識して名前を心の中で唱えました。するとそれは、大切な存在と直通できるような、人間ならではのごく自然の思いの寄せ方なんだと気付きました。聖典の中だけの話ではない、現代の私たちにも普通にできることでした。

そんなある日、クラスで聖者・覚者の名前についての師の教えが紹介されました。
現代においても名前が知られているということは、その方の生き方なり、あるいは教えなり、何らかのエピソードを残しているはずです。単なる名前だけで、その中身がないというのはあり得ないと思いますので、名前を唱える、あるいは名前を思うことだけで、その覚者の内容である悟りや教えはそこに含まれます。だから、名前だけでもかまいません

私はとても納得し、完全に神の御名を信頼しました。名前を思うだけで、同時にその本体である印象や凝縮された人格のようなものが生き生きと現れ、一気に自分が染め上げられるように感じていたからです。名前というしっかりした一つの言葉があるおかげか、私の心のスペースを神の存在が埋め尽くし、他のことを考える心のスペースがなくなりました。超満員電車の中で神の御名を唱えると、そこは私と神だけの一対一の空間になり、仕事の合間のわずかな一瞬に唱えると、神は私が名前を呼んでも呼ばなくても実はずっと側におられることに気付き安心感を覚えました。

いつでもどこでも神の名前を呼べば、直通でアクセスできる秘密の通路のようでした。それは恋愛で相手の名前を思うのとは少し違いました。会えない時間に恋愛で人間の相手のことを思う時には、思いがすぐさま相手へ届かない一方通行の感覚があり、そこから私は思いの妄想の世界に入ってしまいがちでした。でも相手が神なる存在の場合には一方通行や妄想になることがありませんでした。神は私を一人にして妄想の世界にいかせるようなことはされず、私を放っておかれることはなく、ずっと私の囁き一つ一つを一つも残さずぜんぶ受け止めてくださっていることを感じたからです。

いちばん近くの存在、最も自分に直結する源、絶対の安心。その安心に気付いてから、すべてのことはあなたの御心のままに、という心境に自然と導かれました。冒頭の歌詞のように、もしも明日に迷う時は君の名を・・・神の名前を、私は呼びました。神が私を動かしてくださっているのなら、私が迷う必要はないからです。私のしたいことは、あなたの御心が成就されることでした。もし、それが私にとっては失敗だとしても、真理から見れば失敗ではありません。

「神の御名は神そのもの」と学んできた言葉が、どうやら本当なのかもしれないと現実味を帯びてきます。名前を思う、その行為によって、思いがどんどん風船みたいに大きく膨らんでいきます。小さかった風船を、慈悲深い神ご自身がいっぱいに満たしてくださっているように感じるのです。私がどんな状態であっても、風船は大きく膨らんでいき、膨らまないことがありません。
そしてその風船が満ち満ちて、いつかはじけて、私という感じも、神という感じもなくなり、あなたの名前だけが残る。それはなんて甘美なことでしょうか。

紅葉

なぜあなたはこんなに美しい姿なのでしょう?

 

 野口美香 


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